弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
アジア
2024年8月21日
イランの地下世界
(霧山昴)
著者 若宮 總 、 出版 角川新書
イランの現実に大きく目を開かされる本です。ええっ、ほ、本当なんですか...って、思わず問い返したくなる記述が満載で、びっくり驚天のオンパレードでした。
イランの町で女性はスカーフなしで歩くのがあたりまえになっている。
チャドルに身を包んだ女性は、出世のため、職場でも礼拝や断食を欠かすことはない。逆に言うと、礼拝も断食も、すべて出世のための道具にすぎない。
彼氏・彼女らは、欺まんにみちた「ヤクザ」でしかない。イスラム体制を支えている人間が、例外なく体制に忠実で、なおかつ敬虔(けいけん)であるとは限らない。
80歳を過ぎたハメネイは最高指導者として権力集中に熱心で、自らの周囲はすべて身内で固めている。
コーランでは、女性の価値は男性の半分だと明確に規定されている。ええっ、本当なんですか...。
棄教したり改宗した元ムスリムを「モルタッド」という。イランでも増えているが、もちろん隠しておかなければならない。
イラン人は今や古代ペルシア帝国へ憧(あこが)れを抱いている。子どもにつける名前もアラビア語風ではなく、ペルシア語のほうが流行だ。
イランでは、簡単に豚肉が食べられる。マリファナの入手も簡単。
失業率は高い。若年層では14.4%にもなっている。
イランでは、男女ともに、浮気性の人が多すぎるほど。
イランの人々は、衛星放送をよく見ている。
スマホの普及がイラン人を世界とつながらせている。イラン政府は、銀バエのように揉み手でロシアのご機嫌をとる。
イラン人一般の対中感情は決して良くはない。
イラン人は日本をよく思っているが、その中心に、1980年代に日本に大挙してやって来たイラン人労働者がある。ただし、イラン人は日本の外交には失望している。アメリカには決して逆らえないからだ。
イラン人は、誰もがおめでたいほどの自信家で、知らないことでも「知っている」と言う。
ひところ、上野公園や代々木公園などに多くのイラン人が集まっているのが報道されました。今や激減したと思っていたのですが、イランに帰国してから、日本の良い思い出を今も抱いているというのに、意外感がありました。他国の人に親切にするというのは、ちゃんと見返りもあるのですよね。ヘイトスピーチなんて、絶対やめてほしいです。
(2024年6月刊。960円+税)
今年はお盆明けからセミの鳴き声が聞こえません。ツクツク法師もまだ鳴いていないので、異変が起きたようです。35度以上になると、セミは鳴かないと聞きました。今の猛暑は地球全体がおかしくなっているのではないかと心配です。
台風も関東・東北が直撃され、いつもの沖縄・九州にやってきません。いったいどうなっているのでしょうか...。
2024年8月19日
ゾヤの物語
(霧山昴)
著者 ゾヤ、ジョン・フォーリン、リタ・クリストーファリ 、 出版 高文研
アフガニスタンで苦闘している女性たちの活動状況を教えてくれる本です。その凄まじさに胸が痛みました。
タリバンの支配するアフガニスタンでは、女性が白いソックスを履くことは許されない。なぜなら白はタリバンの旗の色なのだから、体のそんな下のほうにある部分を覆うために白い色が使われるのは侮辱だから。何という奇妙な理屈でしょうか・・・。
アフガニスタンの女性が顔を覆ってしまうブルカを着ているのは、すすんでしているのではない。みな、無理矢理ブルカを着せられている。着ていないと鞭で打たれ、鎖で叩きのめされたりするからだ。
1989年2月、ロシアがアフガニスタンから撤退した。9年に及ぶ占領が終わった。あとで、アメリカもアフガニスタンから撤退します。そして、今は再びタリバン政権下にあります。
ゾヤの両親は原理主義者のムジャヒディン軍閥の命令で殺害された。平和と民主主義を愛して活動していた。しかし、ゾヤは両親の死、その殺害された日時を明らかにしない。もちろん氏名も・・・。ゾヤは活動名であって、本名ではない。
1992年、ゾヤは14歳のとき、アフガニスタンを脱出した。RAWAの援助を受けてパキスタンに逃げた。2日2晩の旅をしてペシャーワルに着き、そこからクエッタに行き、「ワタン(故郷)女子学校」に行った。
ここでは生徒が勝手に校外に出ることは許されない。学校での学習内容が敵視され、アフガニスタン人原理主義者から襲撃される危険があった。
RAWAが学校を創設できたのは、支援者による寄付やバサンの売上金などに頼った。学校で12歳以上の子は、全員、偽名を使うように言われた。若者がゾヤと名乗っているのは、取材に来たロシア人ジャーナリストから、ガンで亡くなった娘(ゾヤ)の名前をもらってくれるよう頼まれたから。
タリバンはRAWAのメンバー全員を殺害候補者リストに載せた。
著者は、1997年夏、RAWAの使命を帯びてアフガニスタンに潜入しました。タリバンはヒンズー教徒の女性に黄色のブルカを着用するよう命令していた。
カーブルは墓場だった。子どもの多くは明らかに栄養失調の兆候が認められた。店の写真は禁止、そしてテレビも禁止されていた。しかし、人々はこっそり海外のテレビをみていた。女性がアイスクリームを店で買って食べるのも、タリバンを心配しながら、そしてブルカのもとで苦労しながらのことだった。
学校で勉強したいと女の子が頼むのに、父親は許さない。「オレの娘だ。娘の将来が暗いものになるか明るいものになるか決めるのは、父親であるオレが決める。さあ、帰ってくれ」
まあ、残念ながら今の日本でも、ときどき似たようなセリフを吐く父親はいますよね・・・。
人が死ぬのは、日常的なこと。だけど、常に見えないように心がけた。死ぬのを見るのは嫌だった。死体を見るのはなおさらのこと。
RAWAは、アフガニスタン女性革命協会のこと。「RAWAと連帯する会」は憲法学者の清末愛砂さんたちの会です。
日本語版はこの6月に刊行されていますが、原著は2002年に刊行されたものです。今もがんばっているのでしょうね、きっと。でも、大変ですよね...。
(2024年6月刊。2200円+税)
2024年7月 7日
大インダス世界への旅
(霧山昴)
著者 船尾 修 、 出版 彩流社
世界各地を自由気ままに旅行し、写真を撮ってまわっている著者の旅行体験記です。
カン・リンポチェは、日本人はカイラス山と呼び、チベット人仏教徒にとっては、一生に一度は巡礼したいと願う、聖なる山。
今では、チベット旅行は自由には出来なくなっている。寺院の周囲を時計まわりにぐるぐる歩いて巡礼することをコルラという。
チベットの飲むバター茶。バター茶は、バターとタンチャという茶葉を固めたものに熱湯を加えて撹拌(かくはん)した飲みもので、お茶というよりはスープ。初めはそんなにうまいとは思えず、飲み干すのに苦労する。ところが、慣れてくると、こんなにうまい飲みものはないと思うようになる。チベット人は、これを1日に何十杯も飲む。チベットは内陸の高原なため、空気がすごく乾燥している。だから、肌がすぐにガサガサになる。それで、バター茶を飲むことによって、皮膚を保湿する効果がある。そして、栄養価も高い。
チベット人は日本のことを「ニホン」と呼ぶ。「ジャパン」ではなく、「ニホン」と呼ぶのは、世界中、チベット人だけ。
チベット人の数字の読み方は、日本によく似ている。チィ、ニィ、スン、シ、ンゴ、ルック、ドゥン、ゲェ、ク、ヂュウ。いやあ、たしかにこれはよく似ていそうです。
五体投地の方法でカン・リンチュを一周するには3~4週間かかる。
うひゃひゃ、ですよね。とてもそんな気の遠くなるようなことは出来ません。
アルプスでの登山ポーターは割りのいい仕事だ。10日間から14日間ほどの行程で、1万ルピー(万6000円)ほどの収入になる。物価は日本に比べて大変安い。
(2022年11月刊。2700円+税)
2023年10月24日
ワクチン開発と戦争犯罪
(霧山昴)
著者 倉沢 愛子 ・ 松村 高夫 、 出版 岩波書店
1944年8月、インドネシアのジャワ島にあったクレンデル収容所で破傷風によって多くの「ロームシャ」が死亡した。これは、日本軍が開発していた破傷風ワクチンの治験の対象とされたインドネシア人労働者たちが生命を落としたということ。
ところが、日本軍は「対日陰謀事件」として、インドネシア人医師たちを逮捕し、軍律会議にかけて死刑判決を下し、1人を斬首し、もう2人は獄死した。
「ロームシャ」とは、日本語がインドネシア語となったもので、強制的に挑発し労働させられた人々のことで、このころ20万人もいた。
この事件が世に知られるようになったのは、1976年になってからのこと。
破傷風は人から人への伝染性がないため、大量発生することはない。しかし、荒野で殺傷しあう戦時には兵士に非常に多くみられ、軍隊内では恐れられていた。
1944年8月、クレンデル収容所で119人が破傷風にかかり、98人が死亡した。
破傷風患者は死亡率が高いが、早期に血清を射てば、助かることもある。
エイクマン研究所の所長であり、ジャカルタ医科大学教授を兼任していたアクマッド・モホタル(50歳)は、インドネシア医学界の最高峰に位置する医師だった。
その「自白」によると、「ロームシャ(労務者)の取り扱いは過酷で非衛生的なので、その改善のために日本人を覚醒させようと思い、細菌を使う謀略を考えた」という。
日本軍憲兵隊のつくりあげた最終的な筋書きは、「非合法手段によって独立を獲得しようと決意し、その手段として、原住民の反日・反軍思想を醸成し、日本軍が独立を許容せざるをえないような窮地に陥れようとした」というもの。この結果、474人の患者が発生し、うち364人が死亡した。
モホタル教授らがかけられた軍律会議は、敵国の俘虜や占領地の住民等による戦時重罪などに対して行う軍事裁判であり、日本の軍人を対象とする軍法会議とは異なる。弁護人はつかない。まさしく暗黒裁判ですよね。
モホタル教授は、死刑判決を受け、1945年7月3日に斬首された。戦後、1972年にスハルト政権はモホタルについて冤罪だったとして、勲三等を授与し、名誉を回復した。今では、モホタルの銅像があります。
日本軍内で破傷風ワクチンの開発をすすめていたのは、七三一部隊(関東軍防疫給水部)の流れをくむ南方軍防疫給水部の医師たちだった。ここでも七三一部隊です。
第二次大戦中、アメリカ軍は兵士に破傷風ワクチンの予防接種を実施したので、破傷風患者は10万人につき0.5人以下だった。ところが、日本軍は、破傷風になったら血清をうつのを原則としていたため、破傷風患者は10万人につき5000人も出た。いやあ、これはひどいですね。日本軍の人命軽視はこんなところにも如実にあらわれています。ひどすぎますよね。
インドネシアにおける七三一部隊の蛮行を明らかにした画期的な労作だと思いました。
(2023年3月刊。2300円+税)
2023年9月 8日
新興大国インドの行動原理
(霧山昴)
著者 伊藤 融 、 出版 慶応義塾大学出版会
インドという国は、私にとって理解しがたい、不思議な国です。
ハマトマ・ガンジーは、今もインドで尊敬されていると思うのですが、かといってその非暴力主義をインドが今も実践しているかというと、とてもそんな感じではありません。中国ともパキスタンとも武力衝突し、スリランカにも軍隊を送ったりしています。
それでも、インドという国が急成長をとげていること自体は間違いありません。2018年のGDPは、2兆7千億ドルを超え、世界経済の3.2%を占めている。これは、イギリスやフランスと肩を並べるほどの経済力があることを意味している。
インドへ渡航する人も急増していて、年間1056万人(2018年)だ。日本人もインドに出かけている。1980年に3万人だったのが、2018年には23万6千人と8倍近くになった。私は申し訳ありませんが、行く気はありません。
インドに在住する日本人は、1980年に1千人に届かなかったのに2018年には1万人近く、という状況になっている。自動車のスズキは、昔からインドで大変人気があるそうですね。インドに進出した日系企業は1441社、5102拠点。
インドは自主性の確保についての強いこだわりがある。自主独立にこだわる外交を推進している。これ自体はとてもいいことですよね。日本はいつだって、アメリカの顔色をうかがうばかりですから...。
インディラ・ガンジーは、印ソ条約が抑止効果をもつことを期待すると言い切った。そのうえ、同盟ではなく、従来の非同盟政策と矛盾することはほとんどないと宣言した。これは、どうなんでしょうか...。
インドは、ソ連依存をあらゆる面で深めた。
インドのモディ首相などに、ネルーやガンジーが築き上げてきた、「非同盟」に対するノスタルジーは、いっさい感じられない。
「ダルマ」は、通常「法」と訳されているが、正義にかなった生き方、善行、それぞれの分に応じた責任という広い意味をもつ。
スリランカで内戦が始まったのは1983年のこと。支配集団は仏教徒のシンハラ人。ヒンドゥー教徒のタミル人が疎外感から反乱を起こした。スリランカの分離主義勢力が力をもち、それを支援すれば、インド連邦制国家の民主主義そのものの否定につながる。スリランカ内戦は、2009年にいちおう終結した。
インドはバングラデシュとも抗争した。インドの人口は13億人。しかも若年層が多い。購買力のある中間層が台頭しつづけるインド市場は実に無限の市場可能性がある。
中国はインドにとって、自らのグローバルな舞台への飛躍への大きな障害になっている。しかし、インドのさらなる発展のためには、中国との協調が欠かせない。この矛盾のなかにインドはある。
インドとロシアの緊密な関係がとくに目立つのは、兵器とエネルギー分野。インドにとって、防衛装備品についてロシアは最大の供給地先。
日本は、インドに対して、非軍事的な手法で貢献できる余地が十分にある。でも、それを生かそうとしませんよね、日本政府は...。
今のインド首相のモディは、チャイ売りの少年から身を起こした。
粘り腰の外交攻勢というのを日本はインドに学んだら良さそうです。いつまでもアメリカべったりでは救いようがありません。世界のなかの日本に存在感がない、このようにしか考えられません。自主独立の気概をもつ日本人がもっと増えてほしいものです。
(2020年9月刊。2400円+税)
2023年6月11日
うたいおどる言葉、黄金のベンガルで
(霧山昴)
著者 佐々木 美佳 、 出版 左右社
インドではなく、ベンガルと言われても、そんな国(バングラディシュ)、どこにあったかな...、それくらいの知識しかありません。ところが、なんとなんと、ベンガル語を話す人は3億人もいて、日本語を話す人よりはるかに多いのです。
そして、そのなかには、私も名前くらいは知っている、グラミン銀行の創始者ムハンマド・ユヌス、文学界ではタゴール、そして映画監督のサタジット・レイ。新宿・中村屋のカレーは、ボーズというベンガル人が考案した。いやあ、こう言われると、ベンガル語・バングラデシュって、日本人にも意外に身近なものなんですね...。
さて、著者は東京外語大学でヒンディー語学科を卒業しています。ヒンディー語とベンガル語は、どれほど違うのでしょうか...。
ベンガル語は、日本語ネイティブにとって、世界で一番簡単な言語。日本語の五十音は、サンスクリット語の音韻体系をもとにつくられているので、サンスクリットが起源のベンガル語と日本語の五十音は大変よく似ている。
ベンガル語は、言語のもつリズムが大変心地良い。
「オ.オネク.モジャ!」(すごく美味しい)
「アロ.カーオ」(もっと食べろ)
「バス.バス.バス!」(もういい、もういい)
食事のあとは、砂糖たっぷりの甘いチャ(チャイ)。
バングラディシュでは、今も人力の「リクシャ」が大活躍している。明治期に日本からアジア諸国に輸出された人力車をもとにした乗り物。
バングラディシュを生き抜くには黙っていてはいけない。主張することが必要。リクシャに乗る前に、きちんと価格交渉することが不可欠。
「ホエ.ジャエ」(まあ、そのうちなるようになるよ)
「チンタ.ナイ」(心配しないで)
空には 星と太陽
世界には 命が満ち
住みかを見つけた私の
歓喜の歌があふれ出す
(タゴール・ソング)
東京の新大久保にあるイスラム横丁には、ネパール人の店、インド人の店、バングラディシュの店、パキスタン人の店といった具合に国ごとに分かれた店が並んでいる。まだ行ったことがありません。ぜひ一度、行ってみましょう。
ベンガルには、6つの季節がある、春、夏、雨季、秋、晩秋、そして冬だ。
悲しみがある 死がある 離別がある
それでも 平穏や喜びでは 繰り返し蘇る
絶え間ない生命の流れは 太陽・月・星を輝かせる
森には春が訪れ、さまざまな色を放つ
(タゴール・ソング)
行ってみたいとは思いますが、ベンガルってとても遠い気がしてなりません。
(2023年2月刊。1800円+税)
2023年5月 6日
まんぷくモンゴル!
(霧山昴)
著者 鈴木 裕子 、 出版 産業編集センター
モンゴルで公邸料理人として勤めた日本人女性のモンゴル体験記です。とても面白くて、一気読みしました。
モンゴル人は、仔羊や仔牛など幼畜たちの肉は食べない。ええっ、ウッソー、でした。
日本の4倍の国土に世界一人口密度は低く、家畜は人間の20倍以上もいる。国土の8割が草原で、雨がほとんど降らず、寒い。氷点下20度の寒さがあたり前。
家畜の命を奪うのは男性の仕事で、女性はしてはいけないし、本当は屠殺の瞬間も見てはいけない。
草原の草は、小さく硬く、苦い。モンゴル人は、緑の葉は人間が食べるようなものではないと言う。なぜ野菜を食べなくてはいかんのか。肉の中に入っているじゃないか...。
モンゴルで豚と鶏の肉を手に入れるのは易しいことではない。
ラクダは2年に1頭の仔を育てる。ラクダの肉は脂が真っ白、そしてまったく美味しくない。
羊の尾は、モンゴル人が好んで食べる最上の脂。さらりとして滑(なめ)らかで、よく溶け、癖がない。
モンゴルの牛乳は美味しい。日本とはまるで違った味。モンゴルではホルスタインなどの乳牛は飼わない。そのミルクを煮立てて飲む。草だけで育った自然の生ミルク。お鍋の底のお焦(こ)げは子どものおやつ。上に張る皮は食べる厚さがある。
有名な馬乳酒は、仔馬がちゃんと育ってきたのを見届けてから、お乳を必要としなくなるまでの短い間に、人が馬から横取りする生乳を発酵させて作る。馬は年に1度しか発情期をもたない。なので、お乳も年に1度の季節限定。馬乳酒は、夏の3ヶ月ほどの短い間にしかつくられない。
モンゴル人に言わせると、からだを冷やす肉があり、それは山羊とラクダ。だから夏に食べ るとよい。
モンゴル人は、あたたかいものがご馳走で、冷たいものは苦手。ゲルの壁となる家畜の毛のフェルトは、空気を通しながら、熱をまったく逃がさない。
台所にまな板はなく、すぐに乾くので、洗わなくても問題はない。モンゴル人は、火を通さないものは食べない。
モンゴルにはラクダが30万頭もいる。フタコブラクダは強くて安全。
ラクダは乾燥に強く、40%を失っても生きのびる。汗はかかない。寿命は30年。
モンゴル人は酔ったら家に帰らない。酔ったうえでの帰路は怖い。
いつもは遊べない。だから、遊べるときは遊び倒す。
子だくさんの女性は、国から表彰される。
モンゴル人は肉ばかり食べるからなのか、日本人より十数年も寿命が短い。モンゴル人には、心筋梗塞、血栓、動脈硬化など、血液ドロドロが主な原因の病気、そして食道がんや糖尿病が多い。
だから、著者はモンゴル人に野菜をたくさん食べてもらおうと野菜の本をつくった。
50歳台の日本人女性の発揮するバイタリティーには圧倒されてしまいました。
日本ではちょっと食べられないような肉料理のオンパレードでしたが、やはり野菜はたいせつなのですよね...。ご一読をおすすめします。元気の湧いてくる本でした。
(2023年3月刊。1200円+税)
2023年3月22日
台湾の少年(1~4)
(霧山昴)
著者 周 見信 ・ 游 珮芸 、 出版 岩波書店
日本統治下の台湾で少年時代を過ごした蔡(さい)焜霖(こんりん)は、だから日本語ペラペラです。
日本敗戦後、蒋介石の国民党軍が中国本土から台湾に渡ってきます。毛沢東の中国共産党軍に敗北したためです。そして、台湾を反共の砦とすべく、厳しく民衆を弾圧しはじめました。
蔡少年は台北一中のとき自主的な読書会に誘われ、社会と文化に目を開いていきます。そこには何の思想的背景もありませんでした(少なくとも蔡少年には...)。ところが、それが国民党政府からスパイ罪に該当するとして逮捕され、懲役10年の実刑。台湾の南島部にある小さな緑の島に流され思想改造を迫られます。なんとも理不尽な弾圧を受けるのです。「蔡少年」の仲間が、何ら正当な理由もなく本土へ戻され何人も銃殺されてしまいます。
やがて蒋介石も息子の蒋経国も亡くなり、「蔡少年」は台湾に戻ります。ところが、戻ってから父親は「蔡少年」が緑の島へ送られまもなく自死しているのを知らされます。そして、台湾に戻ってからも、緑の島に何年もいた前科者として就職するのは容易なことではありませんでした。
やがて縁あってマンガ本を出す出版社に就職。このころの台湾では、日本のマンガを少し変えただけのマンガ本が流行していました。
「蔡少年」(大人になっています)は、マンガ本ではなく、子ども向けの教育雑誌「王子」を創刊します。目新しく、宣伝上手なこともあって、大いに売れます。ところが、二度の大洪水で被害にあい、うまくいっていた会社は倒産。破産して一からやり直しです。
しばらく浪人していると、拾う神ありで、広告会社をまかされ、やがて実力を発揮して副社長になります。
こんな台湾の少年ストーリーがマンガで描かれます。よく出来たマンガ(絵)なので素直に感情移入ができ、1巻から4巻まで一気に読み上げました。というか、実在の人物の話なので、いったい、このあとはどうなるのだろうと、外の仕事は手につかず、そっちのけで読みふけったのです。
「蔡少年」は仕事をやめたあとは、1950年代の白色のことをボランティアとして若い人たちに語りつぐ仕事に没頭するようになりました。虐殺された被害者の氏名が刻まれた碑の前に立った「蔡少年」は、「許しておくれ。生き残ったくせに、ぼくは努力が足りなかったよな」と謝罪します。いえいえ、決して「蔡少年」は何も悪くない、そして努力が足りなかったわけでもありません。
緑の島にいた10年間について、「蔡少年」は、子どもたちには「日本に10年間も留学していた」と嘘ついていました。でも、ある日、本当のことを告げて、子どもたちと一緒に緑の島へ渡るのです。この本を読んで救いを感じるのは、このところです。
今では台湾は国民党と民進党とが平和的な政権交代ができるようになっています。かつてのような反共主義で軍部独裁のテロが荒れ狂う島ではありません。そんな台湾の痛みを伴う歩みをマンガを通じて学ぶことのできる本です。
ぜひ図書館で借りるなりしてご一読ください。強くおすすめします。
(2023年1月刊。2640円)
2022年5月26日
ミャンマー金融道
(霧山昴)
著者 泉 賢一 、 出版 河出新書
ゼロから「信用」をつくった日本人銀行員の3105日。これがサブタイトルの新書です。ええっ、どういうこと...。そんな好奇心から手にとって読んでみました。アフリカのウガンダで銀行員として苦労した人の本を思い出させる本でもありました。
表紙のキャッチコピーは次のとおりです。
「英語もミャンマー語も話せないまま、47歳で初めて海外に赴任した、銀行員が通貨や銀行が信じられていない国で、中小企業のための融資の仕組みをつくり、自分以外が全員ミャンマー人の地場銀行のCOOになった...」
いやはや、すごい冒険物語でもあります。
著者の経歴は、次のとおり。1966年生まれ。神戸大学を卒業して太陽神戸三井銀行に入る。2013年から、ミャンマーで中小企業への融資制度づくりに尽力。2019年に古巣の三井住友銀行を退職し、ミャンマー住宅開発インフラ銀行のCOOを2020年までつとめる。現在は住友林業に勤務。
ミャンマーは長く軍政にあったりして(今も再び軍政)。人々は銀行を信じていない。
2013年の調査では、銀行口座をもっている成人はわずか5%。銀行に口座がないから、「お金を借りる」という発想がほとんどない。
著者の英語力は、初めはTOEICで400点前後だった。そして、心機一転、勉強して2年するとコンスタントに850点とれるようになった。
ミャンマーに1人派遣されるといっても、銀行の利益にはまったく直結しない。
2013年ミャンマーに行って分かったことは三つ。その一、不動産担保しか審査時に考慮していない。その二、銀行には経営目標がない。その三、中小零細業者は銀行を利用する習慣がない。つまり、ミャンマーでは、金融はほとんど機能していなかった。ミャンマーの人々は、通貨に対しても不信を抱いていて、金(ゴールド)で貯めている。
融資期間は最大で1年。1年以上先の情報に対しては信用がない。
ミャンマーの名物料理モヒンガは、ナマズの骨などで出汁をとったスープに、米粉でつくったヌードルを入れた料理、ドロッとした濃厚な味が特徴。
日本では、信用保証と信用保険の二つの制度から成りたっている。ところが、ミャンマーでは、預金を長期の融資に貸し出すことができない。ミャンマーの金融市場では最長1年までの預金しかできず、それを原資とした貸出も最長1年までという規制がある。
著者は、一介の銀行マンだったのに、いきなりミャンマーの住宅金融をつかさどる銀行の実質CEOをつとめることになった。著者は、現場に寄りそって、「一緒に解決する人」たらんと務めた。えらい、ですね...。
COOは、再考業務執行責任者。ただし、事案を決済する権限はほとんどない。ミャンマーには、2017年まで、不良債権という概念は存在しなかった。
ミャンマーが再び軍政に戻ってしまい、コロナ禍もあって、日本に戻った著者ですが、大きなタネをまいたことは間違いないようです。本当にお疲れさま、としか言いようがありません。読んで元気の湧いてくる新書でした。
(2021年12月刊。税込935円)
2022年5月18日
良心の囚人
(霧山昴)
著者 マ・ティーダ 、 出版 論創社
ミャンマー(ビルマ)の政治犯として監獄に6年を過した人権活動家の体験が切々とつづられています。著者は女性作家であり、医師であり、敬虔な仏教徒でもあります。
著者はアウンサンスーチー(マ・スーフ)と同じくNLD(国民民主連盟)の若き活動家だった。軍部によるクーデターのあと、軍政権ににらまれて、政治犯として刑務所に入れられたのです。本書は、6年ほどの刑務所生活の実情を詳細に描きあげています。さすが作家です。さまざまな嫌がらせに対して、毅然として最後までたたかい続ける著者の不屈さには頭が下がりました。
ミャンマーで政治活動に加わることは棒高跳びのようなもの。扱いにくい長いポールを持って全力で走り、バーに触れることなく、それを飛びこえ、反対側に優雅に着地する。運が悪ければ、地面に叩きつけられることもある。刑務所への着地は、人生が数年間妨げられることを意味し、そこから回復できない者もいる。
刑務所の中では、貴族のように暮らせる人がいた。家族から高価な品や素晴らしい食事を差し入れしてもらい、それをばらまいて「救世主」になることができる。看守の大半は初等教育しか受けておらず、麻薬取引、詐欺、また汚職などの罪で収監されている囚人は、そんな看守を簡単に買収できた。たとえ他の囚人をいじめても、賄賂のおかげで、この場のスターになっているので問題になることはまったくない。
他方、お金がない人、面会に来る者がいない人は、抑圧され、虐待された。ここでは、お金がなければ、自分の名前すら書けない若い看守に下品な言葉でいじめられる。刑務所では毎日それを耐えなければならない。
著者は1993年10月10日、禁固20年の刑を宣告された。緊急事態法によるものが7年、非合法結社取締法が3年、そして非合法出版取締法が各5年だった。
力のある者が常に弱者を打ち負かすというのが刑務所の不文律。看守長は看守たちを抑圧し、その看守たちは、水浴びや寝台の割りあてなどを司(つかさど)る囚人頭を抑圧する。そして、高慢な囚人頭たちは、わずかな権力でもって、その他の囚人をいじめる。
刑務所は無法地帯であり、家族からの差し入れを監査する看守は、検閲委員会よろしく、いつも自分たちの有利になるように、規則をねじ曲げていた。看守たちは、ほとんど教育を受けておらず、刑務所と受刑者しか知らずに人生を送ってきた。いつも受刑者や部下に叫んだり、怒鳴ったりしているので、受刑者から同じことをされたら、どう反応すればよいのか分からなかった。
収容所は、毎日、45分間、午前中に30分と夕方15分だけ散歩するのが許されていた。
看守の給料は決して十分ではなかったので、副収入や食べるものを手に入れるためなら何でもしていた。看守が見て見ぬふりをすれば、監房等にご飯やお茶をもち込んできた受刑者に話しかけることができた。彼女たちも、政治犯に敬意を払い、親交を結ぼうとした。
ミャンマーの刑務所生活がどういうものなのか、民主化を求める人々は、どのように闘ったのかを認識できる、貴重な体験記です。
(2022年1月刊。税込2420円)