弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮・韓国

2007年3月 7日

朝鮮通信使をよみなおす

著者:仲尾 宏、出版社:明石書店
 朝鮮王朝がはじまったのは1392年。日本では足利義満が南北朝の抗争をおさめた年。李成桂(イソンゲ)将軍が衰えていた高句麗王朝を倒し、太祖として即位した。
 それ以来の日本と朝鮮との往来をたどった本です。いわば朝鮮通信使に関する百科全書のような内容となっています。
 室町時代、朝鮮から5回の通信使が派遣され、3回が京都にやってきた。世宗国王のときのこと。日本から、60回以上もの日本国王使が漢城(今のソウル)を訪れ、交隣関係は密接かつ多様になっていった。
 江戸時代はじめ、京都の相国寺(しょうこくじ)に西笑承兌(せいしょうじょうたい)という禅僧がいた。承兌は秀吉の朝鮮出兵の前線基地の名護屋城にまで出かけた。承兌は、朝鮮から回答兼刷還使が来日したとき、「朝鮮の使臣は日本に有益に非ず。薄侍すべし」と進言していた。ところが、その承兌は、朝鮮からやって来た松雲大師の詩文や書を見て、次のように言って舌をまいて感嘆した。
 句々奇なり、言々妙なり。欣然にたえず。筆跡もまた麗し。予、私宝となすは快然たり。 徳川家康は朝鮮との国交回復を図った。それは家康が秀吉から1万5000人の陣立てを命じられたものの、朝鮮へ出兵することがなかったことも幸いしている。しかし、家康はすんなり謝罪する意思をもってはいなかった。さすが老獪な政治家ですよね・・・。
 朝鮮から連行されてきた被虜人のうち、第一回使節とともに帰国したのは、わずか  300人に過ぎなかった。このとき、大名や日本人のあるじが手放さなかったり、日本人と結婚したり、子どもの誕生・養育、また帰国後の生計の見通しがたたないことを理由として断る者も多かった。
 朝鮮通信使がやってきたとき、黒田家では三代の藩主(忠之、光之、継高)が検分を口実に博多湾にある藍島まで出かけて朝鮮使節を見物している。
 貝原益軒は、秀吉の朝鮮出兵について、貪(むさぼ)る兵、驕(おご)れる兵、忿(いか)れる兵と酷評した。
 徳川吉宗は、朝鮮伝来の人参生草や種子の採種、播種、栽培によって、享保から元文年間にかけて人参の国産化を実現した。これによって対馬藩の朝鮮貿易は決定的なダメージを蒙った。
 雨森芳洲(あめのもりほうしゅう。1668〜1755)は、釜山に渡って3年間、朝鮮語を学んだ。そのころ釜山には10万坪の倭館がおかれ、対馬の役人・商人が常駐して外交事務や藩と私の貿易に従事していた。10万坪というと、長崎の出島の25倍の広さだ。雨森芳洲は次のように言った。
 朝鮮は弱く、その人は愚かなり、と人は言う。しかし、これはまことの強弱智愚を知らない言葉だ。朝鮮の人は古今の記録をも多く覚え、物事ふかく思慮するものだから、日本国よりその智は10倍だ。秀吉の朝鮮出兵のとき、乱世に慣れた日本軍は緒戦には勝ったものの、帰陣のときにははなはだ難儀した。
 朝鮮人は手詰の戦いは日本人に及ばずとも、久を持するの謀りについては、日本人はかえって相手にもならない。お互いの文化、歴史、風俗の違いをよく知り、それを尊重しつつ、無用な紛争や誤解をさけ、偏見や侮りを捨て去ることが大切だ。
 なーるほど、そうなんですよね。まったく同感です。
 このところ、日本社会の排外主義と自民族優越意識がひどくはびこっている。
 著者はこのように嘆いています。本当にそのとおりです。それぞれの民族には固有の文化があり、優劣つけがたいのです。それぞれ違って、みんないい。金子みすずの詩を思い出します。

2007年3月 2日

地底の太陽

著者:金 石範、出版社:集英社
 済州島4.3蜂起のあと、日本に脱出してきた人々には、前にもまして苛酷な現実が待ちかまえていた・・・。
 済州島は、今や日本からも気軽に行ける観光地となっているようです。残念ながら、私はまだ済州島に行ったことがありません。その済州島は朝鮮戦争の始まる前、苛酷な戦場となっていました。
 済州島は自然も人間も焦土化、廃墟と化する。山にたてこもるゲリラ部隊が、仲間を裏切ったとして処刑し、また、拉致した警部幹部を身内がピストルで射殺した。ゲリラ司令官は討伐隊に殺された。討伐隊によって村民500人が虐殺され、全村が焼却されて廃墟と化した無男村があった。
 ときは、日本で松川事件が起きたころ。今ではアメリカ軍もからむ謀略事件とみなされている松川事件も、当時は多くの国民が共産党のしわざだと思いこまされていた。
 逆コースの政治弾圧の流れのなかで、日本でも朝連組織や民族学校が閉鎖されていった。このころ、日本社会が暗い気分におおわれていた。
 アメリカ支配下に李承晩独裁国家が軍警暴力によって成立した。やがて6月25日に朝鮮戦争が始まる。
 日本と韓国の暗いつながりを実感させる、鬱々とした重い雰囲気の小説です。
 私も「火山島」(文藝春秋、全7巻)を読みました。衝撃の内容です。息つく間もなく手に汗を握って、展開を追っていきました。いえ、決して心躍るという内容ではまったくありません。むしろ逆なのです。ともかく、ぐいぐいと力まかせに引きずりこまされ、目をそむけることもできずに読みすすめていきました。平和な日本にいては、とうてい想像できないような苛酷な現実がそこにはありました。それを日本でも引きずって生きる人々がいたわけです。

2007年1月25日

モスクワと金日成

著者:下斗米伸夫、出版社:岩波書店
 日本敗戦時、朝鮮半島に進出してきたソ連赤軍第25軍の役割は、当初、関東軍が朝鮮半島をつうじて日本本国に脱出することを防ぐことであって、朝鮮の占領や支配ではなかった。1945年8月8日、ソ連軍司令部は、12万5000人からなる第25軍に朝鮮半島北部の占領を命じた。
 スターリン治下のもとで、軍人たちが直接政治に関与する習慣はなかった。第25軍の政治面での責任者はシュトイコフ大将だった。彼は、もともとは軍人ではなく、スターリン統治下で台頭した共産党官僚であった。1930年代末にはレニングラード市党委員会の書記をしていた。
 朝鮮半島の57%の面積と人口1100万人の北朝鮮がソ連軍の占領地域となり、人口1700万人の南部はアメリカ軍占領地域となった。北は日本の残した工業が主で、南部は農業地域と考えられていた。
 38度線による分割は、あくまで暫定的措置のつもりだった。アメリカと同じく、ソ連外務省も、38度線での分断を正当化する考えは当初はなかった。スターリンも、この地域に社会主義やソビエト型秩序を目ざす構想は、少なくとも当初はなかった。
 ところが、スターリンにとってアメリカが日本に原爆を落として実践使用したことが大きな衝撃だった。これは対ソ警告の意味もあると解していた。当時、ソ連は国内でウランを産出しておらず、東欧と北朝鮮のみだった。そこで、スターリンにとって核開発は至上命題となった。
 スターリンは、パルチザン派出身のソ連軍大尉金日成を北朝鮮の指導者として選んだ。
金日成は、1945年9月19日、元山港に上陸した。主導的にではなく、受動的に朝鮮の解放を迎えたし、ソ連軍隊との協同作戦ではなく、ソ連軍の庇護下に、静かに、人々の噂にのぼることもなく上陸した。このとき、金日成は金成柱と名乗っていた。
 スターリンが金日成のような軍事専門家を北朝鮮の指導者として選んだのは、スターリンにとって、占領軍を通じて指令を忠実に実行させるのに、どちらかといえば無名の金日成は打ってつけの人物であったから。
 このように、金日成は、スターリンの指名によって指導者となった。ただ、金日成本人は、不得意な政治よりも、軍事、しかもモスクワでの軍務に戻ることを望んでいたという見方もある。
 10月14日、平壌のソ連軍歓迎集会で、金日成大尉がソ連軍服を着て、金日成将軍として登壇した。この集会は、金日成帰国歓迎集会ではなかった。ソ連軍金日成大尉は、第25軍が準備したロシア語草稿を田東赫が訳したものをそのまま演説した。
 金日成について、中国共産党側は必ずしも認識していなかった。かつて中国共産党員であったものの、指導幹部ではなかったからだ。名前も、金民松と誤記していた。
 1946年8月に北朝鮮労働党第1回大会が開かれた。このとき初代委員長には中国派の金?奉がなり、金日成は副委員長だった。名誉議長にスターリンが就任している。
 1950年代はじめ、ソ連からの軍備提供の見返りとして、北朝鮮は、金9トン、銀 40トン、そして放射性物資モナジットを1万5000トン提供することになった。
 金日成は、3月30日にソ連に入り、1ヶ月近く滞在した。4月25日、クレムリンでスターリンと会談したとき、金日成は、南でのパルチザンの活動が高まっており、やがて20万人の労働党員が南で蜂起するとスターリンに請け負った。
 スターリンは金日成の武力統一案を承認したが、同時に東アジアでのパートナーとなった毛沢東にも意見を求めるよう金日成に働きかけた。
 金日成は朴憲永とともに中国を極秘に訪れ、5月13日夜、北京で毛沢東と会談した。6月25日、北朝鮮が武力統一を仕掛けて戦争は始まった。とたんに誤算が続出した。
 最初の日から通信が麻痺した。各師団と本部の連絡は途絶えた。人民軍司令部は、第一日目から戦闘を管理していなかった。指揮官は未経験で、戦闘を管理しておらず、大砲や戦車を操作できず、連絡を失った。
 8月28日、スターリンは、金日成に電報を送り、次第に膠着していく状況に苛立っていることを伝えた。
 南労党の朴憲永が北に留めおかれたことも北の占領権力と南の民衆の距離を拡大した。
 金日成ら最高指導者は近代戦の経験をもたず、軍人、戦略家としての資質が低いことが直ちに露呈した。
 1950年12月13日、金日成は、密かに北京を訪れ、毛沢東に面会した。中朝軍司令部が出来て、金日成は彭徳懐と同格の地位となった。
 当時、北朝鮮軍は4コ師団、3万2800人、人民志願軍(中国軍)は18個師団、 20万3600人。中国軍が主体といってよい。ちなみに、対する国連軍(アメリカ軍)は12万3000人、韓国軍は8万8000人だった。
 このように北朝鮮指導部は彭徳懐が指揮する戦時体制を12月に承認していた。
 彭徳懐は、金日成が朝鮮戦争で多くの誤った判断をしたことを、口を極めてなじった。2人の間には深刻な亀裂が生じていた。
 朝鮮戦争は、ロシア資料によると、北朝鮮と中国の死傷者は200〜400万人、韓国40万人、アメリカ14万人。アメリカの専門家によると、中国兵90万人、北朝鮮兵 52万人が死傷した。ちなみに、ソ連は、航空機335機と飛行士120人を含め、全体で士官138人と 161人の兵士を失った。
 40万人の国連軍兵士が死傷したが、そのうち3分の1が韓国兵。
 朝鮮戦争の停戦は、北朝鮮の平和を意味しなかった。それは新たな粛正の波の始まりだった。金日成の影響が弱かった。党機関に対して打撃が加えられた。具体的な標的は、責任秘書として党機関に影響のあった、ソ連派の大物・許哥誼(ホガイ)を粛正することだった。
 金日成は、こうやって次々と粛正していき自らの独裁的な地位を確立したのです。いろいろ勉強になることの多い本でした。この本を読んで強く感じることは、ソ連と中国と北朝鮮が政治的に緊密な一体関係にあったという事実はなく、相互に強い不信感を抱いていたということです。決して共産主義の一枚岩ではありませんでした。
 金日成は南の蜂起は間近なので、北がちょっと南侵すれば朝鮮半島はすぐに統一化できると強引にスターリンと毛沢東を引きずりこんで戦争が始まったということのようです。

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