弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

朝鮮・韓国

2010年5月 1日

収容所に生まれた僕は愛を知らない

著者:申東赫、出版社:KKベストセラーズ

 北朝鮮にある14号政治犯収容所完全統制区域出身の若者を見たとき、別の完全統制区域で警備隊員をしていた人(同じ脱北者です)が次のように述べています。
 幼いころからの苛酷な強制労働の結果、右側の肩は曲がってしまっている。腕と手は、厳しい力仕事のせいでサルの腕のように非常に長くなり、内側に湾曲している。その体は、物を運ぶのに便利なように変形してしまった。こんな外形状の身体の特徴は、収容所の中で幼齢から強制労働をしなければ出来あがらない。
 北朝鮮の強制収容所には、2つの種類がある。一つは、ある程度の期間収容されたあと、一般社会に復帰できる「革命化区域」。もう一つは、一度入ると一生そこから出られない完全統制区域。革命化区域は、15号管理所のみで、残りは、すべて完全統制区域である。だから、完全統制区域の情報が外部にもれることは絶対になく、その中で何が起きているか誰も知ることができない。ヒトラーのユダヤ人絶滅収容所のようなものなのでしょう。
 収容者の7割は、なぜここに入れられたか、その理由すら知らないだろう。管理所に入れられた瞬間から、身内の消息であっても知らされず、身分証も全財産も没収されてしまう。独身者は寄宿舎で生活する。結婚しても、男は寄宿舎生活を続け、女だけに家が与えられ、子どもと生活する。
 仕事は1ヶ月に1度、毎月1日が休み。土曜とか日曜に休むことはない。
 食料は配給。その日のうちにすべて消化しなければならず、食糧を貯めておくことはいけない。食糧難なので、ヘビやネズミも食べる。ネズミは焼いて食べる。頭まで、骨をかじって食べ尽くす。ヘビより栄養価は高い。
 この14号収容所に5万人は生活している。収容所内では、メガネをかけることもできない。塩を除いて、すべて自給自足である。
規則に反したとき、たとえば、脱走したとき、盗んだとき、男女間の承認なき身体接触があったときには、即時に銃殺される。公開処刑場があり、収容所から逃亡を図った母と兄が処刑されるのを少年であった著者も一番前で見せつけられたのでした・・・。
収容所内での結婚は、当局の指示による表彰結婚のみ。いやと言えば結婚は許されない。収容所内に学校はあるが、教えられるのは国語と算数と体育だけ。学校に本はない。歴史を教えられることもない。
ここでは、金日成、金正日を賛美する教育もなかったようです。不思議ですね・・・。
高等中学校に進んでも本はなく、生活総括のノートがあるだけ。カエルを捕ったり、ヘビをつかまえて食べたりしていた。
強制収容所の囚人が集団的な抵抗ができないのは、何よりも統制が厳しいこと、収容者が自分は罪を犯してここにいると思っていることにある。
罪を犯した自分は、ここの規則に従うのが当然で、一生、命令されるままにおとなしく暮らすものと考えている。そもそも抵抗意識などない。収容所では、基本的に、人々を食べ物で統制する。
巻末に著者が知らなかった言葉の一覧表があります。驚くべきリストです。
可愛らしい、友好的、善良、純粋、楽観的、心が広い、素朴、平和、楽しい、うっとりする、明朗、快活、幸せ、十分・・・・。
今の日本の若者にも実感のともなわない言葉になってはいないのかと、おじさんは少しばかり心配なんですが・・・。
5万人も暮らしていたという収容所生活の、あまりに苛酷な日常生活が紹介されています。目をそむけたくなる現実です。よくぞ、こんなところから脱出できたものです。
(2008年3月刊。1600円+税)

2010年4月 7日

美しい家

著者 孫 錫春、 出版 東方出版

 戦前から戦後の朝鮮戦争を経て、金日成と金正日政権下を生き延びてきた北朝鮮の活動家の日記です。北朝鮮の「労働新聞」の記者として、晩年は活躍していました。
 日記は戦前、1938年4月に始まります。朝鮮が日本の植民地として支配されていたころの状況が描かれています。このころ、金三龍、朴憲永という著名な活動家とも親交を持っていました。著者は日本に渡り、東京で中央大学哲学科に編入します。
 1940年8月22日、メキシコで、スターリンの放った刺客によってトロツキーがピッケルで刺殺されたことが書かれています。私は、これを読んで、このころこんなに詳しく背景事情から何まで判明していたというのはおかしいと感じました。あまりにも出来すぎています。もちろん、今となっては真実のことですが、スターリン崇拝の熱が今では想像できないほど強かった戦前に、スターリンをこれほど客観的にとらえることのできた日本人や、朝鮮人の活動家がいたなんて、とても信じられません。私は、ここで、この「日記」の信ぴょう性を疑ってしまいました。
 日本の敗戦後の朝鮮半島で、金日成が朴憲永を追い落としていく過程が批判的に記述されています。
 常識を逸脱したとんでもない話だ。金日成同志に少々失望した。あまたの共産主義運動の先輩を押しのけ、弱冠33歳の金日成が革命の最高指導者になろうとしている野心を露骨にさらけ出している。
 どうでしょうか。こんな金日成批判を書いた手帳を、北朝鮮のなかで後生大事に隠し持っていたなどと考えることは、とてもできません。朝鮮戦争がはじまり、やがてアメリカ軍が仁川に上陸して、反転攻勢が開始します。
 目の前で愛する妻と子が爆死してしまうのです……。
 停戦後の北朝鮮の日々です。
 個人英雄主義として朴憲永同志が批判されている。しかし、それなら金日成首相のほうこそ……。
 ええーっ、たとえ日記であっても、ここまで書いて大丈夫なのかしらん……!
 今日の我が党の現実は、人民大衆中心の党ではない。党の中心には、人民大衆ではなく、首領がいる。首領中心の党である。うむむ、本当なんですか……
 朝鮮戦争は全面戦争への転換が不適切な時期に冒険的に起きてしまった。
 金日成同志は、朴憲永同志が南労党同志たちの決起が必ずあると誇張し騒ぎたてたとし、失敗の責任の矢を南労党の同志たちに向けている。しかし、もっとも重大な判断ミスは、老獪な米帝を相手に戦わなければならない事態になりうることを、まったく想定していなかったところにあるのではないか……。
 「日記」の最後の日付は1998年10月10日になっています。60年間にわたって北朝鮮内で活動家として生き抜いた人の日記が残っていたというわけです、私には、まったくのフィクション(小説)としか思えません。ただし、はじめから小説として読むと、朝鮮半島を取り巻く情勢、そのなかで生きていた人々の息吹を身近に感じることのできるものにはなっています。
 
(2009年7月刊。2500円+税)

 チューリップはほとんど全開となりました。横にアイリスが咲き始めてくれています。茎の高い、黄色と白色の気品のある貴婦人のように素敵な花です。毎年ほれぼれと見とれます。私のブログでちかく紹介します。

2010年2月24日

朝鮮戦争(下)

著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋

 アメリカからすると、ソ連と中国は一枚岩のように見えた。しかし、スターリンは実際には、毛沢東を信用していなかった。それで、中国とアメリカとの緊張が最大限になることを願った。両者が敵対しあう戦争はスターリンに有利に働くはずだった。
 1948年末、毛沢東は何回にもわたって、モスクワでの会談を求めたが、スターリンはその都度ためらいを見せた。毛沢東はスターリンが自分に疑いを抱いていることを十分承知していた。1949年12月、毛沢東はついにモスクワを訪れた。スターリンはすぐに毛沢東と会おうとせず、何日も待たせた。毛沢東の訪問によって得られたソ連からの経済・軍事援助は、わずかなものでしかなかった。
 毛沢東は、あとで「虎の口から肉を取るようなものだった」と言った。ソ連の対応は、本質的には侮辱にほかならなかった。
 1950年10月、毛沢東は朝鮮戦争への参戦を決めた。中国軍部隊を義勇軍としたのは、アメリカとの全面戦争を防ぐための選択だった。中国軍部隊が派遣されるのは、単に 朝鮮を救うためだけではなく、より大きな世界革命、とりわけアジアの革命を促すためだった。
 金日成は、中国が中国軍の指揮を自分に任せるものと思っていた。しかし、中国が軽蔑しきっている金日成に中国軍部隊を任せることなど、ありえなかった。むしろ金日成には再教育が必要だと考えていた。冒険主義以外の何物でもない。軍の統制も子ども並み。このように中国軍を指揮する彭徳懐は言った。
 20世紀のアメリカ軍の誤算の中で突出しているのは、マッカーサーが鴨緑江にまでアメリカ軍部隊を北上させたこと。中国軍は高い山の中にこもって、アメリカ軍の北上を見守っていた。このあと、アメリカ軍を徹底的に叩いた。不意打ちだった。
マッカーサーの職業的な罪の中の最大のものは、敵を完全に過小評価したこと。
 マッカーサーは、アジアを知らず、敵について驚くほど無関心だった。
ウィロビーは陰謀好きだった。ウィロビーは総司令部内のニューディール系リベラルを共産党シンパないし共産党員そのものだと見なして一掃しようとした。
 現場で戦うものたちにとって、ウィロビーの存在は危険なまでに悪に近いものだった。ウィロビーは、戦闘部隊レベルの情報機関がきわめて重要な最高の情報を在韓司令部に送るのを阻止しただけでなく、他の情報源も封鎖した。ウィロビーは共産主義と中国の危険について喚き散らしながら、最後には国連軍部隊が大規模な待ち伏せ攻撃のえじきになるように仕組んでやり、共産主義者たちの仕事をずっと簡単にしてやったのである。
 司令官の至上任務は、兵士の恐怖を抑えることである。偉大な司令官は恐怖を逆手にとり、それが常にあると言う認識を強みに変えることもできる。弱い司令官は兵士の恐怖を昂じさせる。ある司令官の下で勇敢に戦う兵士が、自分の恐怖を投影するような司令官の下では逃げ出してしまう。
 偉大な司令官とは、賢明な戦術的動きが出来るだけでなく、兵士に自信をあたえ、それをやることができる。その日に戦うのは、自分たちの義務であり、特権であると感じさせるような人物である。
 中国軍においては、普通の兵士でも、政治委員の講義を通じて戦闘命令について非常に多くのことを知っている。
 中国軍が初期にえたアメリカ軍との戦闘における異例の成功は、彭徳懐の重荷になった。毛沢東の決めた目標が中国軍の能力を上回りがちとなった。毛沢東が勝利に酔ってしまった。中国軍の重火器用弾薬が明らかに不足していた。
 中国軍の命令構造の硬直性は大きな弱点だった。上から下に伝わるだけで、下の水準にはほとんど融通性がなく、個人的な創意の余地も皆無に近かった。それは勇敢かつ頑丈で、信じられないほど責任感の強い歩兵を生み出した。だが、彼らを統率する中間レベルの指揮官は、戦闘の最中に戦場の変化に応じて重要な決定を下すべき権限も通信能力ももっていなかった。
 これはアメリカ軍とは対照的な違いだった。アメリカ軍では有能な下士官の創意が評価され、戦闘の展開に応じて調整していく能力が重要な長所となった。
 中国軍はせいぜい3日間は強烈に戦うことができた。しかし、弾薬、食糧、医療支援、そして純然たる肉体的持久力の限界、それに巨大なアメリカ空軍力のために、有利な条件や局面突破があっても、有効に活用できず、挫折や敗北が増幅された。どの戦闘でも、3日目になると、すべてのものが不足し、はじめ、敵との接触を断つことが必要になってしまう。
 マッカーサーが解任されてアメリカに帰国したとき、アメリカ市民は熱狂的に迎えた。しかしその熱狂はマッカーサーの政策に対する支持を意味するものではなかった。つまり、アジアでの戦争拡大を支持するものではなかった。マッカーサーへの熱狂的な歓迎は、その政策への支持とは、まったく別物だった。
 マッカーサーに長年接してきた人たちを苦しめた大きな問題の一つは、マッカーサーが必ずしも真実を語らないことだった。自分に都合のよいときには真実を利用したが、邪魔になると、すぐに真実から離れた。
マッカーサーは、議会の演説で恥知らずな嘘をついた。
 マッカーサーは、ペンタゴン(国防総省)で、ほとんど支持を得ていなかった。マッカーサーの命令無視、中国軍参戦についての責任を認めないこと、軍に対する文民統制を故意に無視したことにペンタゴンの士官たちは激怒していた。朝鮮戦争の前線で死傷したのは、多くの場合に、若手士官の同期生や友人たちだった。マッカーサーは、ペンタゴンのいたるところで多くの若手士官たちから嫌われ、憎まれていた。彼らは、上院議員たちにマッカーサー攻撃の論拠を与えていた。
 朝鮮戦争を中国軍の内情、そしてアメリカ内の政治状況と結びつけながらとらえた、最新の研究を踏まえた傑作です。

(2009年12月刊。1900円+税)

2010年2月17日

戦争の記憶、記憶の戦争

著者 金 賢娥、 出版 三元社

 アメリカのベトナム侵略戦争に韓国軍が加担して兵を送り、ベトナム人を大量に虐殺していた事実は知っていましたが、最近、改めてベトナム現地に訪問して、このことを確認した韓国人団体の活動記録です。
 1965年から1973年までの9年間に韓国軍のべ32万人がベトナムで戦争に従事し、5千人以上がなくなった。
 1965年、アメリカは25ヶ国に参戦を要求したが、それに応じたのは韓国を含めて7ヶ国だけだった。しかも、韓国のほかは砲兵隊や工兵隊など、実際の戦闘とは関係のない部隊を派遣した。イギリスに至っては、わずか6人の儀仗隊を派遣しただけで、名目的な参戦でしかなかった。それだけ名分のない戦争だった。そのとき韓国軍は、のべ32万人もの兵を派遣し、実際に戦闘行為をすすめた。
 この本を読んで、なぜ韓国軍がベトナムに送られたか認識することができました。要するに、当時の韓国の朴正煕政権が、アメリカの支援に政権の存亡をかけていたのです。
 朴政権は、ベトナムへの軍事支援によるベトナム特需という経済的効果と、派兵の対価としての援助を獲得するという目的を設定した。当時の韓国は、外貨不足と物価高による経済的危機が蔓延している状態だった。そのなかで、朴正煕に対する12回もの逆クーデターの試みがあり、しかもクーデター指導者間の内部軋轢が朴政権を脅かしていた。朴正煕は、ベトナム派兵を一つの政治的突破口と考えた。つまり、アメリカから経済的軍事的援助を得て、ベトナムで外貨を獲得しようとした。結果として韓国はベトナム戦争で10億ドルを稼ぎ、おかげで韓進などが大企業に成長することができた。
 朴正煕が32万人もの兵力をベトナムに派遣できたのは、韓国人の協力と黙認があってのこと。メディアと知識人は、政権維持のために韓国民の生命を担保とした朴正煕と暗黙の共謀をしたことになる。ベトナム戦争は、危機に瀕していた朴政権を盤石なものにした。ベトナム戦争で政権の基礎を固めた朴正煕は、長期政権の道を歩み、暗うつな暴圧政治が始まった。この暴圧政治の実現には、大多数の韓国民の手助けがあった。朴正煕の三選のための改憲と維新憲法による暴圧政治の基礎を作ったのが、まさにベトナム戦争だった。
 たとえば、1966年1月にヒシディン省で1200人のベトナム民間人が殺され、同年11月にもクアンガイ省ソンティン県で青龍部隊がベトコン掃討作戦を行い、多くの民間人を虐殺した。韓国軍には現地のベトナム人がみなベトコンに見えた。根絶やしするしかないと考えたのです。恐ろしいことです。
 朝鮮戦争を経て、韓国軍兵士にはアカは殺してもいい、いや殺さねばならないという意識が染みついていたこともその背景にあった。
 非武装の民間人が虐殺されたのです。これは、やりきれなく悲しい。どちらからも認められない死だから。遊撃隊員の死だと、ベトナム政府から烈士補助金が支給されるのに……。
 忘れてはならない戦争の記憶を掘り起こした貴重な本です。『武器の影』(岩波書店)も、小説ですが、同じテーマを扱っていて、大変重たい本でした。
 
 左膝を痛めて、いろいろな治療を受けました。まず湿布です。ホッカイロで温めてみましたが、痛みは止まりませんでした。整体師に見て貰ったところ、鯨飲不明と言われてしまいました。外科医で痛み止めと湿布をもらいましたが、あまり効き目がありませんでした。別の外科医に行って膝にヒアルロン酸の注射を打ってもらい、強力な痛み止めの薬を飲み始めたところ、かなり痛みは和らぎました。もう一回注射してもらおうと思ったところ、知人から注射はよしたほうがいい、それよりカイロプラティックに行って整骨・整体してもらったらどうかとアドバイスされたので行ってみました。1時間ほどの整体を受け、翌日からすっかり痛みがなくなりました。人体の自然治癒力を高めるのが整骨・整体だということで、そのおかげだったのでしょうか。それにしても、足をひきずってしか歩けないため、バリアフリーの必要性を痛感しました。階段の上り下りが大変なのです。エレベーターのないところでは泣きたいほどでした。わが身になって自覚したわけです。

(2009年11月刊。2700円+税)

2009年12月30日

朝鮮戦争(上)

著者 デイヴィッド・ハルバースタム、 出版 文芸春秋

 かつては朝鮮動乱とも呼ばれていましたが、今では朝鮮戦争という呼び方が日本では定着しています。
 1950年6月25日、北朝鮮軍の精鋭およそ7個師団が、南朝鮮との軍事境界線である38度線を突破した。兵士の多くは中国の国共内戦で共産軍側についてたたかった者たちで、3週間で朝鮮半島南半分を征圧する目論見だった。
 たしかに、当初、金日成の号令一下、怒涛のように朝鮮半島を一気に征圧してしまう勢いでしたが、やがて釜山の手前で立ち止まり、ついにはマッカーサーによる仁川上陸作戦で形勢が大逆転してしまいました。
 朝鮮戦争については、かつてアメリカ軍が挑発して、北朝鮮がやむなく反撃して侵攻したのだと言われたことがありましたが、今では金日成がスターリンと毛沢東の了解を取り付けて、無謀にも武力による全土統一を企て南部へ侵攻したことが明らかとなっています。
 この本は、アメリカが朝鮮半島をいかに軽視し、手抜きしていたか、アメリカの内部資料によって余すところなく明らかにしている点に大きな意義があります。北朝鮮軍が攻めてきた当時のアメリカ軍の哀れな状態を知って、朝鮮に送られてきた多くの将兵が憤った。定員も訓練も足りない部隊。欠陥だらけの旧式装備。驚くばかりに低水準の指揮官層。
 戦車への依存度の高いアメリカ軍にとって、朝鮮半島は最悪の地勢だった。
 山岳地帯は、装甲車両の優位性を損ない、逆に敵には洞窟その他の隠れ家を提供した。朝鮮戦争によるアメリカ軍の死者は、3万3千人。負傷者10万5千人。韓国軍の死者41万5千人。負傷者42万9千人。これに対して、中国・北朝鮮の死者は公表されていないが、150万人と推計されている。
 マッカーサーは、韓国に関心がなかった。朝鮮はアメリカ人の心をひきつけず、関心さえ引かなかった。初代アメリカ軍司令官のホッジ将軍は、韓国も韓国人も好きではなく、「日本人と同じ穴のむじな」と書いている。アメリカ軍の韓国駐留はおざなりそのものだった。
 金日成はカリスマである必要はなかった。スターリンにとって衛星国にカリスマ的人物は不要だった。ユーゴのチトー、中国の毛沢東のような人物では、かえって危険だと考えていた。
 なーるほど、そういうことだったんですね。それで、まだ若くて、ソ連軍に入って行動していた金日成が選ばれたというわけなんですか……。
 金日成が登場してきたとき、集会での初めての演説において、スターリンとソ連へのお追従を言って、朝鮮の人々をがっかりさせたが、それは理由のあることだった。
 金日成が6月25日に南へ侵攻したのを知ったとき、アメリカ当局の反応が面白いのです。
 アチソンは、韓国への侵攻は見せかけで、次に来るのはソ連の支援を受けた中国軍による台湾の蒋介石攻撃、あるいは、同じように危険なのは、蒋による挑発の後の共産側の反撃だと考えた。トルーマン大統領は、そうではなく、次の矛先はイランと予想した。マッカーサーも同じ意見だった。
 なるほど、これではアメリカの反撃が後手に回ったのも当然ですよね。
 上巻だけで500頁にのぼる本です。アメリカ内部の動きとあわせて、最前線での戦闘の様子が活写されています。さすがとしか言いようがありません。

 
(2009年10月刊。1900円+税)

2009年6月 6日

平壌で過ごした12年の日々

著者 佐藤 知也、 出版 光陽出版社

 戦前、4歳のときに朝鮮にわたり、戦後、16歳のときに日本に帰国した日本人が、最近77歳になって過去を振り返った本です。しみじみとした口調で朝鮮における少年・青年記の生活が語られています。
 日本の敗戦後、朝鮮の求めに応じて、1000人もの日本人技術者が北朝鮮に残留していた。彼らは真面目に北朝鮮の産業復興につとめ、技術協力した。しかし、アメリカ軍と対峙して緊張をつのらせていたソ連占領軍から睨まれ、ついには反ソ運動を名目として幹部が逮捕された。
著者は、朝鮮にいて、日本の敗戦まで、ほとんど朝鮮人と交流することはなかったと言います。そして、敗戦後の朝鮮に突如として気高く気品ある美女があちこちにみられたことに腰を抜かさんばかりに驚くのでした。日本人少年は、朝鮮人に対して根拠のない差別意識、優越感に浸っていたわけです。
 終戦までの朝鮮における生活の日々そして敗戦後の大変な生活の様子が淡々と描かれていて、状況がよく理解できました。
 玉名市であっている「しょうぶ祭り」を見てきました。玉名を流れる大きな高瀬側の北側に、細い流れがあって、そのそばがしょうぶ園のようになっています。川面に板で歩道ができていますし、古い石橋など大変風情があります。
 肥後しょうぶは江戸時代、武士たちが丹精こめてつくり上げたものだと聞いています。薄紫色の花が多いのですが、白に薄紫色の筋が入った花など気品あふれる美しさです。
 しっかり堪能してきました。
 
(2009年2月刊。1524円+税)

2009年5月20日

将軍様の錬金術

著者 金 賛汀、 出版 新潮新書

 大学生のころ、朝鮮大学校の学生との交流会に参加したことがありました。彼らの発言がとても自覚的というか、目的意識が鮮明であったことに衝撃を覚えました。その知的レベルの高さにも圧倒されてしまいました。
 この本の著者も、世代は少し上ですが、朝鮮大学校の卒業生です。朝鮮総連の活動家でもあったようです。私も弁護士になってから、総連の地域活動家の方々とは接触する機会がありました。民団の役員さんよりは多かったように思います。いつも、すごいなあと感心してしまいました。今では、民団の人とも接触はありませんが、総連だと名乗る人と会うことは久しくありません。まったく様変わりしてしまいました。この本を読んで、それもなるほどだと思いました。
 朝銀のなかに、学習組(がくしゅうそ)という秘密組織がつくられ、朝銀を朝鮮総連に服従させるうえで大きな役割を果たしてきた。これは、建て前は、朝鮮労働党の政策学習会であるが、実態は朝鮮労働党の日本分局として機能していた。
 この学習組は、1980年ころまでに、総連活動家に対して金日成に忠誠を誓わせ、北朝鮮の政策に従わせる重要な役割をもった秘密組織としてつくられた。
 朝銀破たんの最大の要因は、総連が「学習組」を朝銀支配の道具としてつかい、人事権を振り回し、イエスマンを理事長に就任させ、融資を引き出す放漫経営と、その一部を北朝鮮に献金するという、歪んだ状況がもたらしたものである。
 そして、朝銀破たんの遠因の一つは、北朝鮮経済の破たんにあった。
 朝鮮総連中央は、北朝鮮の求めに応じて献金するため、直営のパチンコ店をはじめた。「財政委員会」直属の「インターナショナル企画」という商社がパチンコ店の運営にあたった。都心の、既に同胞のパチンコ店があるところに、45億円もかけた豪華なパチンコ店を1993年春、オープンさせた。ところが、パチンコ店はバブル崩壊とともに経営に行きづまった。
 もう一つ、地上げにも朝鮮総連中央は手を染めた。必要な資金を朝銀に出させようという地上げ屋と、地上げ屋を使って利益をあげ、北朝鮮に献金するお金を調達しようとする総連中央の思惑が一致し、地上げ屋が朝鮮総連の周辺で暗躍する状況を生み出した。
 名古屋では200億円の資金をつぎ込んで20億円の利益をあげ、大阪では60億円の投資で40億円の利益をあげた。しかし、北九州では完全な失敗に終わった。
 さらにゴルフ場開発計画でも100億円つぎ込んで失敗した。
 1997年に起きた朝銀大阪の破たんは、日本社会でそれほど大きな話題にはならなかった。その時点では、数年後に1兆数千億円もの公的資金投入の始まりになるとは誰も予測しなかったからだ。ところが、朝銀大阪が経営破たんしたとき、抱えていた不良債権は500億円を超えていた。このときには、朝銀再生に必要なものとして、公金3100億円が投入された。
 ところが1999年5月、13の朝銀が経営破たんした。朝銀東京は、総連中央に直結する不正融資の温床である。2002年4月、認可された4信組の理事長会員が総連の中核組織である学習組の組員であることが発覚した。そこで、総連中央は学習組の解散を通達した。ところが、いまでは「学習組」は名前を変えて復活し、総連組織の指導部に君臨している。
 朝銀に一兆4000億円もの公的資金が投入されて一番の被害者は、一般の在日朝鮮人であり、朝鮮総連と北朝鮮である。そして、もっとも利益を得たのは日本政府だ。朝鮮総連の力が大きく減退し、その脅威なるものは、ほとんど消滅した。日本政府は、このことで大いなる利益を得ている。というのも、朝銀を丸々買い取ったようなものだから。なーるほど、ですね。
 在日朝鮮人の大変な苦労が正当に報われていないことが大変気になる本でした。

ホタルが飛び交い始めました。昨日(19日)、我が家から歩いて5分のところにあるホタルの里に出かけました。竹林のそばに小さな川が流れていて、毎年ホタルが出てきます。
 5月連休が終わると、やがてホタルが飛び交うようになります。まだ数は多くないのですが、フワリフワリとホタルが明滅しながら飛んでいました。足もとの草むらにもホタルが光っていましたので、そっと手を差し伸べると、手のひらに2匹のってくれました。不思議なほどまったく重さを感じません。しばらく手のひらで明滅するホタルを眺めたあと、そっと息を吹きかけて飛ばしました。フワリフンワリと飛んでいきました。
 ホタルは初夏の風物詩として欠かせません。
 
(2009年3月刊。720円+税)

2009年5月 9日

ノグンリ虐殺事件

著者 鄭 殷溶、 出版 寿郎社

 朝鮮戦争勃発直後、アメリカ軍による避難民「皆殺し」に巻き込まれ、家族が犠牲になった著者が、自らの苦悩と向き合いながら残虐な戦争犯罪を初めて告発した衝撃のノンフィクション。
 これは、この本のオビに書かれている言葉です。
 朝鮮戦争が始まったのは、1950年6月25日のこと。金日成の命令で、10万人の人民軍が一斉に韓国に侵入して、韓国軍とアメリカ軍は後退の一途をたどっていた。
 7月20日、アメリカ軍第24師団長のディーン少将は戦死し、大田は陥落した。
 7月末の時点では、韓国軍とアメリカ軍を中心とする国連軍は、防衛線を釜山を中心とする広い地域に定めつつあった。そして、ノグンリ虐殺事件が起きたのは、7月26日から29日までのこと。
 「大田で難民たちに仮装した人民軍に、私たちアメリカ軍はひどくやられた。したがって、疑わしい避難民はすべて殺せという上部の厳命があった……」
 避難民を鉄道の上にあがらせ、戦闘機を呼び、空と地上と合同で避難民を殺傷した。
 鉄道上の爆撃で生き残った人々は、鉄道下の大きな双子トンネルの中に、あるいは爆撃現場下の小さなトンネルの中に身を隠した。ところが、アメリカ兵たちは、この小トンネルの中にいる人々に向けて銃を乱射しながら引っぱり出し、大きな双子トンネルの中に押し込んだ。立錐の余地もない双子トンネルの中の人々に対して、アメリカ兵は、7月26日午後3時ごろから、機関銃射撃を加えはじめた。夜になっても射撃は止まなかった。アメリカ兵たちは、老人、婦女子、子どもたちであることを知りつつ、避難民を機関銃で撃った。
 彼ら避難民は、山の中で何の問題も起こすことなく過ごしていたのに、アメリカ軍が引っ張り出して危険地帯に入らせたうえで殺傷したのだった。
 この虐殺をしたアメリカ兵は、大田で人民軍に敗北した24師団ではなく、24師団から陣地を引き継いだ第一騎兵師団の部隊であった。
 仁川上陸作戦が開始されたのは9月15日のこと。
 アメリカ政府は、国連軍が朝鮮半島から撤退せざるを得ないときには、政府と韓国軍60万人をニュージーランドによって統治されている西サモア群島のサバイ島とウポル島へ避難させる計画を立てていた。これは韓国政府にも秘密にしていた。
その前、1950年8月の時点でも、アメリカは、韓国政府と韓国軍2個師団そして民間人10万人だけをグアムやハワイに移して、アメリカ軍はひとまず朝鮮半島から撤退する計画も検討していた。
 うむむ、さすがアメリカです。自分たちのことしか考えていないことがよく分かります。
このノグンリ事件については、2004年2月に特別法が制定され、犠牲者235人に対しての審査が実施されました。民間人の執念が実ったわけです。お疲れ様でした。
 
(2008年12月刊。3000円+税)

2009年4月24日

最後の証人(下)

著者 金 聖鐘、 出版 論創社

 2つの殺人事件の思わぬ真相が、覆っていた黒いベールをはぎとるようにして少しずつ明らかになっていきます。そこには韓国社会の闇を反映するものがあります。なにより、朝鮮戦争における朝鮮人同士の殺し合いに深い根があり、その後、長く続いた反共アカ狩りと、南侵スパイ政策がからまっていきます。いずれも、今日にまで続く韓国社会の奥底に今日もなおうごめく深い闇の部分です。
 それらの闇は、司法界にも当然のことながら及んでいます。弁護士だけでなく、裁判官も当の権力に牛耳られているのです。そして、マスコミも同罪です。
 1974年、「韓国日報」の懸賞公募に当選し、200万ウォンという多額の賞金を獲得した作品だということです。なるほど、なるほど、すごく読みごたえがあります。
 著者は1941年生まれで、韓国ではなんと2度も映画化されているとのこと。ぜひ私も見てみたいと思いました。日本語字幕付きのDVDが売られているそうです。
 現在、著者は韓国推理作家協会会長をつとめておられるとのことです。今後も活躍されることを大いに期待します。
 先日、北朝鮮がミサイルか人工衛星かよく分かりませんが打ち上げ、日本の政府・マスコミが大騒ぎしました。これも憲法改正への地ならしではないかと私などは大いに心配です。よくよく考えてみれば、日本にたくさんある原子力発電所をミサイルが狙ったら大惨事になるのは必至です。そんなことにならないよう未然に防止するしかないと思います。武力に頼ってはいけないのです。この点、例の田母神氏が次のように述べているのは紹介に値します。
「核ミサイルでない限り、ミサイルの脅威はたかが知れている。通常のミサイル一発が運んでくる弾薬量は、戦闘機1機に搭載できる弾薬量の10分の1以下である。1発がどの程度の破壊力を持つのかというと、航空自衛隊が毎年実施する爆弾破裂実験によれば、地面に激突したミサイルは直系10メートル余、深さ2~3メートルの穴を作るだけだ。だから、ミサイルが建物の外で爆発しても、鉄筋コンクリートの建物の中にいれば死ぬことはまずないと思ってよい。1991年の湾岸戦争のとき、イラクがイスラエルのテルアビブに対して41発のスカッドミサイルを発射したが、死亡したのはわずかに2名のみだった。北朝鮮が保有しているミサイルをすべて我が国にむけて発射しても、もろもろの条件を考慮すれば、日本人が命を落とす確率は、国内で殺人事件により命を落とす確率よりも低いと思う」
 北朝鮮は怖い国だ。攻めて来るかもしれない。だから憲法を改正して自衛軍を持とう。そんなイメージ・キャンペーンがはられています。でもでも、日本国憲法を変えてしまったら、それこそ日本は東南アジアの平和をかき乱す尖兵になってしまうでしょう。本当に北朝鮮は怖いのか、いったい日本の自衛隊というのは果たしてどれほどの戦闘能力をもっているのか、まずはもっともっと真実が語られるべきだと私は思います。
(2009年2月刊。1800円+税)

2009年4月 4日

最後の証人(上)

著者 金 聖鐘、 出版 論創社

 これはとても面白いし、考えさせられるミステリー小説です。韓国では開戦日にちなんで6.25と呼ばれるそうですが、日本でいう朝鮮戦争の起きたころ、韓国における激しいパルチザン闘争を背景とした、重厚な小説でもあります。
 朝鮮半島に住む同じ民族が、親共・反共に分かれて殺し合い、憎しみ合ったことがあること、それが今日なお水面下で奥深く尾を引いていることを感じさせる内容です。
 ミステリー小説ですから、ここでアラスジをバラすわけにはいきません。ともかく、読んで絶対に損はしない、面白い本だということを保証します。
 この本は、韓国では1974年から1年にわたって新聞に連載されていたものですが、なんと50万部も売れたベストセラーだそうです。いやあ、実にすごいものです。でも、この本を読むと、それもなるほどと納得できます。
 著者によると、まったくのフィクションということではなく、一部は事実にもとづいているとのことです。『南部軍』という、やはり韓国南部にある智異山を舞台としたパルチザンが壊滅していくまでを描いた本を前に読み、ここで紹介しました。(韓国では映画にもなったそうですが、残念ながら日本語版はないようで、私は見ていません)。その知識があると、さらに時代背景が理解しやすいと思います。
 私は、この本を東京行の飛行機の中で時間の経つのも忘れて一心不乱に読みふけり、いつのまにか東京についていたことを知りました。
 ソウルの有力弁護士が殺され、5ヶ月後に田舎で金持ちの男が惨殺されます。この2つの殺人事件が、実は深いところでつながっているのです。それを田舎の警察署にくすぶっている刑事が足でたずね歩いて、一つ一つ核心に迫っていくという話です。読んで損はしないミステリー小説です。一読を強くお勧めします。
 
(2009年2月刊。1800円+税)

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