弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
朝鮮・韓国
2011年1月28日
さすらいの舞姫
著者 西木 正明、 光文社 出版
戦前の日本で世界的なバレリーナとして有名だった崔承喜が、戦後、北朝鮮の闇のなかで静粛され消えていくまでを明らかにした長編小説です。900頁もの大作ですので、じっくり崔承喜がどんなに素晴らしいモダンバレエを踊っていたのか、なんとなく想像できます。でも、やっぱり映像で彼女の雄姿を見てみたいものだと思いました。
美貌と抜群のプロポーションで、道行く人がハッと振り返るほどだったそうです。そのうえ、あふれんばかりの芸術的才能を持っていたというのですから、まさに鬼に金棒ですね。生前、あの川端康成が絶賛していたといいます。
崔承喜は韓国の両班の家に生まれ育ちましたが、ある日、バレエを志し、日本人の舞踏家である石井獏に押しかけ弟子入りをします。日本へ渡って、東京は自由が丘に住み込みでモダンの・バレエの練習に励むのでした。そうこうするうちに、朝鮮古来の踊りも取り入れ、披露するようになります。やがて、崔承喜のバレエは日本で大評判となり、ついにはアメリカに招かれて公演することになりました。崔承喜は、同じ韓国人でマルキストの安承弼と結婚します。売れない作家の夫は崔承喜のマネージャー役を買ってでるのでした。
アメリカの公演が大成功し、次にはフランスに渡って、そこでも公演して好評を博します。すごいものですね。練習だけではなく、やはり天賦の才能があったのでしょうね。
やがて第二次大戦が始まります。崔承喜は日本軍の最前線まで慰問に出かけるのでした。そして、終戦。夫とともに崔承喜は北朝鮮に入ります。その選択が、結局は命取りになるのでした。ここらあたりからは著者が当時の北朝鮮内部の権力闘争を要領よく解き明かして、金日成がライバルたちを蹴落としていく状況を描いています。
金日成が自信たっぷりに朝鮮戦争を始め、緒戦の勝ち戦が一変して敗北の泥沼に陥り、中国軍の介入でやっと権力を維持するのですが、その権力闘争の渦のなかで、崔承喜は夫ともども闇のなかに消されてしまったのです。まことに金日成とは罪な権力者でした。
この本の最後は、崔承喜が北朝鮮の治安当局によって連行される場面となっています。娘と息子の運命はどうなったのでしょうか・・・・。いずれにしても、小説という手法で崔承喜という不世出のバレリーナのたどったみちが克明に紹介されていて、とても勉強にもなりました。同じ著者の『夢顔さんによろしく』も大変面白く読みましたが、著者の綿密な調査に裏付けられた筆力には感嘆するばかりです。
(2010年7月刊。2300円+税)
火曜日の午前中皇居前の広場を通りました。広々とした芝生のあちこちに青いビニールシートを敷いた芝生のあちこちに青いビニールシートを敷いたホームレスの人たちが眠っていました。ざっと見渡すと50人ほどが点在していたように思います。朝は厳しい冷え込みでしたが、私が通ったころには天気が良く3月の陽気を思わせるほどでした。大勢の観光客が皇居を目指して歩いていましたが、相変わらずホームレスの人が多いことを象徴していました。年越し派遣村が出来て大騒ぎしたのが嘘のようにマスコミは取り上げなくなりましたが、もっと真剣に貧困格差の拡大の防止策を講じるべきだとつくづく思いました。
2010年12月16日
なぜ韓国はパチンコを全廃できたのか
著者 若宮 健、 祥伝社新書 出版
大変刺激的なタイトルの本です。ひところよりはやや下火になったとはいえ、まだまだ、パチンコ禍は猛威をふるっています。テレビのコマーシャルでもパチンコが増えましたよね。たくさん借金をかかえて行きづまった人のなかにパチンコが原因だという人は相変わらず少なくありません。病みつきになってしまうのです。ギャンブル依存症は病気ですが、その原因をパチンコ店はつくっています。
2006年8月、韓国政府はパチンコを全面的に禁止した。その前、韓国全土には2万店ものパチンコ店があった。その前年2005年3月に、パチンコ店は許可制から認可制に移行していた。ちなみに、韓国ではパチンコとは呼ばず、メダルチギと呼ぶ。韓国のパチンコは、玉を打たない。日本の中古パチンコ台を輸入して、盤面と液晶はそのままで、釘は根元から切断してある。韓国仕様に改造していた。
98そして、店内では一人で二台も三台もかけ持ちできた。24時間営業であり、台の前に座ったまま、飲食できた。日本と同じ換金方式がとられていた。手数料10%で、商品券を現金に換えた。
韓国警察は、2006年8月にパチンコ台100万台を没収した。
パチンコをめぐって、当時のノムヒョン大統領の甥や側近が関連する贈収賄事件が発覚した。文化観光部の局長なども逮捕され、パチンコ廃止論が一気に沸騰した。
韓国では、パチンコは低所得者層の遊びだと見られていた。だから、案外、韓国人であってもパチンコが流行していたことを知らない。
日では、パチンコ業界のお先棒をかつぐ国会議員が自民党だけでなく、民主党にも多い。そして、日本のマスコミはパチンコ業界に大きく依存しているため、パチンコ批判がタブーのようになっている。
いま日本で流行している一円パチンコは、お客のためというより、税金が安くなるという税金対策からなっている。
パチンコ店の経営者は、その8割を韓国・北朝鮮系が占める。残る2割は台湾と日本人である。
日本も韓国に見習ってパチンコ店を全廃するくらいのことが必要だと私は思います。
それにしても、あんな人工的な騒音のなかで孤独感に浸される人生って、哀れそのものだと思いませんか・・・・。
この本は著者より贈呈を受けました。ありがとうございます。これからも体験リポートを次々に発表していってください。大いに期待しています。
(2010年12月刊。760円+税)
宮崎で開かれた弁護士会主催の憲法に関する市民向けシンポジウムに参加してきました。そこで、沖縄の新垣勉弁護士が報告した内容がとても新鮮でした。
アメリカ軍の基地が沖縄にあるおかげで、軍用地の地主は地代収入があるし、歓楽街をふくめて大きな経済効果があると喧伝されてきましたし、私もそうかなあと思ってきました。
ところが、アメリカ軍の基地が沖縄から撤去されたときの経済効果は、基地があるときよりはるかに大きいものになるというのです。雇用者も14倍、今の3万人が48万人になると推測されています。これは、沖縄県議会事務局の報告書にあるものです。
たしかに、おもろ町あたりの基地跡の再開発はすごいですよね。基地がなくなったら、沖縄はもっと平和に発展できることに確信のもてた実り大きいシンポでした。
2010年12月15日
今、「韓国併合」を問う
出版:「韓国併合」100年市民ネットワーク、アジェンダ・プロジェクト
1910年、日本が「韓国併合条約」を強制的に押し付け、今年は100年目にあたる。
このブックレットでは、「韓国併合条約」がまったくの押し付けであったこと、当時の韓国は自力による近代化を推し進めていたことを明らかにしています。
たとえば、電車がソウルの町を走り出したのは1899年5月のこと。開通式の写真そして、日本兵が電車に驚いている絵があります。これは日露戦が勃発する5年前であり、日本の京都に電車が走ったのは、ソウルより3年早かったが、東京のほうは3年遅れていた(1902年)。だから、日露戦争のときにソウルにやって来た日本兵のほとんどは電車に乗った経験がなかった。
このように、日本の植民地になってから韓国の近代化が始まったわけではない。日本が日露戦争に勝利した力を背景として韓国の主権を無理やり剥奪した。その結果、むしろ韓国は自力による近代化の機会が奪われてしまった。なーるほど、そういうことなんですね・・・・。
第一次日韓協約は略式条約でもなく、覚書でしかない。だから、日本語だけあって、韓国語では作成されていない。もっとも、韓国側に内緒で英語では作成されている。
第二次日韓協約(新協約)は、韓国語版には最初の一行が空けてあり、名称が入っていない。それは韓国の皇帝と大臣たちの抵抗によるもので、韓国皇帝の批准書もない。
1910年の併合条約については、印鑑は韓国の国璽ではなく、格の下がる行政決裁用の「勅命の寶」と彫られた印鑑が押捺されている。そして皇帝の署名が欠落している。
最後の韓国皇帝・純宗は1926年4月に亡くなるが、次のような遺言を遺している。
過ぎし日の併合認准は強隣(日本のこと)が逆臣の群れ(李完用など)とともに勝手になし勝手に宣布したものであり、すべて私がなしたことではない。ひたすら私を幽閉し、脅迫し、私をして明白に話できないようにしたものである・・・・。
うむむ、そういうことだったのですね、やっぱりそうなのか・・・・と、ついつい思ってしまったことでした。わずか70頁足らずの薄いブックレットですが、どっしりとした歴史の重味を感じました。この市民ネットワークは私の先輩にあたる京都の岩佐英夫弁護士も関わっているグループのようです。広く日本人に読まれることを祈念します。
(2010年9月刊。500円+税)
2010年12月 4日
反貧困、韓国の現場から
東海生活保護利用支援ネットワーク 自費 出版
韓国に日本のサラ金が進出して、被害を及ぼしているそうです。韓国は日本より金利規制がゆるく、しかも破産すると公務員は失職したり、しかも、まだまだかつての日本と同じように多重債務者となった被害者への風当たりは強いようです。
この小冊子は、韓国のホームレス支援、生活保護支援の状況を東海地方の弁護士や学者そしてケースワーカーなどの有志が訪問視察したときの報告書です。
韓国の貧困層は、2007年に320万人、全国の6.7%であり、絶対的貧困層が1%ほどいる。相対的貧困率は13%であり、OECD加盟国の中では、日本が4位(15.7%)で、韓国は6位となっている。高齢者世帯の貧困率も日本と同じように増えている。ただ、女性の貧困率はいくらか減っている。
韓国の中産層は、1996年に568.6%だったのが、2006年には54.7%へ減少している。これも日本と同じで、格差が拡大している。
継続的貧困層のなかでは、65歳以上の人が48.4%、女性が34.1%を占めている。
視察団はソウル市内の6階建ての古びたチョクパン(ドヤ)を見学した。なかは薄暗く、廊下も狭い。家賃は月1万5千円。階段の踊り場に洗濯物が干されている。共同トイレは水洗ではなく、清潔とは言いがたい。風呂はなく、4000ウォンの銭湯に行く。部屋は3畳ほどで、最小限の家財道具を置くと、寝れるだけの広さしかない。
公的機関のチョクパン相談所があるが、洗濯機無料利用、シャワー利用、盆と正月に寄付されたものを配布する程度であり、相談機能は果たしていない。
韓国の失業者も増加し、2010年1月に失業者121万人。これは昨年に比べて36万人も増えている。国民基礎生活保障法による給付を全国民の3%、150万世帯が受けている。
いま、韓国のホームレスの人は全額無料で医療を受けられる。全国に35ヶ所のシェルターと5つの保護センターがある。地方には30ヶ所のホームレス施設がある。当初の150ヶ所から70ヶ所に下減っている。しかし、ホームレスが半減したわけではない。ソウル市内はホームレスが3000人いると発表している。うち2000人がシェルターに、500人が保護センター、そして残る500人がチョクパン(ドヤ)にいるという。
しかし、民間団体によると、ホームレスは全国に2万人とも10万人とも推測している。
韓国がこの分野でも日本と同じような問題を抱えていること、行政がそれなりの手を打っていることなどを少し知ることが出来ました。
(2010年8月刊。500円+税)
2010年9月10日
されど
著者 洪 盛原 、 本の泉社 出版
日本の植民地支配を受けていた朝鮮では、一人の人物が独立の志士として評価される時期があり、また民族反逆者として罵倒される時期もあるという複雑な様相をもたらすことが起きる。
万歳事件とも呼ばれた1919年の3.1独立運動のころには、日本の帝国主義に対して命がけで戦っていた愛国的な独立運動の志士たちが、アジア・太平洋戦争の末期には日本の帝国主義者に積極的に同調して媚を売る親日派、民族反逆者に心変わりして、彼らに心を寄せていた後世の人たちに、裏切られたという惨めな思いを味わせることがある。
いやあ、これって厳しい現実をふまえると、しかも迫害した日本側の子孫として、なかなか難しいところですね・・・・。この本は、そのような歴史的事実をふまえ、現代に生きる我々は、そのような重たい歴史的事実をどう受けとめたらよいのか、このことを改めて問いかけるものとなっています。
日本の帝国主義支配に改めて反対した人物が、その後、どのような生活をしていたのか、その子孫は今どこで何をしているのか、そして先祖についてどう評価しているのか、巧みなストーリー展開でぐいぐいと読ませます。
ただ、日本の植民地支配が韓国の近代化に役立ったという「日本人の主張」については、たしかにそのようなことを声高に言いつのる日本人は少なくないと私も思いますが、決して多数派でもないと私は信じています。一国の主権を奪うことをそんなに簡単なものと考えたらいけないと思うからです。
それは、たとえばアメリカのおかげで戦後の日本は発展してこられたのだから、今なお首都・東京に広大なアメリカ軍の基地があるのは当然なんだというような論法でしょう。でもこれって、まったくすりかえの論理であって、私にはとうてい承服できません。
戦中・戦後の日朝・日韓関係を考えるうえで貴重な素材が提供されたと思える、読みごたえ十分の小説です。
(2010年4月刊。2800円+税)
2010年6月29日
光州・五月の記憶
著者 林 洛平 、社会評論社 出版
今から30年前、1980年5月、韓国で光州事件と呼ばれる民衆決起と戒厳軍による虐殺事件が起きました。その実相を追及し紹介する貴重な本です。
この事件は、初めのうちは「戒厳令下に不純分子が起こした暴動」つまり事態とされていました。しかし、1988年、軍人出身の盧泰愚(ノテウ)大統領は「光州で起きたことは民主化のための努力であった」と認めるに至り、光州民主化運動と呼ばれるようになりました。さらに、1990年に光州補償法が制定され、犠牲者への補償金の支払いが始まり、1993年には金泳三大統領が「光州での流血は、民主主義の礎であり、現在の政府はその延長線上に立つ民主政府である」という談話を発表しました。
1995年、「光州民主化運動等に関する特別法」によって、全斗煥や盧泰愚という元大統領12・12クーデターと光州虐殺関連者での処罰の道が開かれました。
この運動の中で市民軍のスポークスマンとして活躍し、銃弾に倒れた伊祥源(サンウォン)の生きざまを語った本です。
一般市民そして市民軍の人々も、最後にはアメリカ軍が助けに駆けつけてくれるだろうと期待していたようです。無慈悲な虐殺蛮行の軍部とアメリカが手を握ることなんてありえないと市民は固く信じていました。ところが、アメリカは、市民の期待に反して戒厳軍を支持し、何らの動きも示しませんでした。
戒厳軍を前にして、武器を捨てるのか、武器を捨てずに対等な交渉に持ち込むのかで市民内部の意見が割れました。伊祥源(サンウォン)たちは、武器を捨てずに戒厳軍圧倒的な武力の差の前に銃弾に倒れるわけです。
では、早々に武器を捨てるべきだったのか・・・・。難しいところだと思いました。もっとも、勇気のない私などは武器を持って道庁内に立て籠もるという選択は出来なかったと思います・・・・。
光州事件のとき、道庁内で死亡したのは20人。全体では606人。政府発表による死傷者数は3586人となっています。
大変な事態であったことはいうまでもありません。韓国でも日本でも、この事件を決して風化させてはいけないと思ったことでした。
(2010年4月刊。2700円+税)
土曜日の午後、福岡で韓国映画『クロッシング』を見てきました。北朝鮮の人々の置かれている厳しい現実がよく描かれていると思いました。涙の止まらない悲しい話です。決して反共映画ではありません。飢えている人々がいて、ヤミ市場があり、各種の強制収容所があるなかでも、人々は家族愛を育み、仲間同士で助け合っていることもよく伝わって来ました。
5分前に映画館に着いたら、もう満席でした。一番前で補助椅子に座っての観賞でしたから、画面が歪んで見えるのですが、映画が進行するなかで、そんな歪みはまるで気にならず没入して見入りました。
KBCシネマで上映中です。ぜひ足を運んでご覧ください。
2010年6月18日
北朝鮮を見る、聞く、歩く
著者:吉田康彦、出版社:平凡社新書
人口2400万人の北朝鮮に10回訪問した日本人の体験記です。上すべりの見聞記ではないかと思いつつも、うへーっと、驚くことがありました。
北朝鮮では牛肉は高価なぜいたく品で、庶民に人気があるのは安価で栄養価の高いアヒルとガチョウを食べる。生育が早く、容易に入手できるからだ。そして、犬料理も大人気だ。
北のキムチは赤くない。北朝鮮では、コーヒーはぜいたく品。
北朝鮮の食糧危機は深刻で、穀物生産量が需要に追いつかない。
北朝鮮は、本来、映画王国である。年間40本前後をつくる。映画が全国民にもっとも人気のある大衆娯楽である。北朝鮮はアニメ映画づくりも盛んで、輸出産業の花形になっている。ただし、日本から北朝鮮に直接発注はできないので、韓国経由となっている。うへーっ、そ、そうなんですか・・・。
北朝鮮では、皆すぐに歌をうたい踊り出す。歌も踊りも指導者に対する忠誠心の表現に化ける。
平壌はサーカス劇場が二つあり、いつもにぎわっている。サーカス団員の地位は高く、平壌サーカス学院という専門学校まである。平壌には、サーカス団が4つあり、団員の総勢は300人。朝鮮人民軍の中にもサーカス部隊があり、専用の人民軍サーカス劇場がある。サーカス団員は人民軍兵士を除いて、文化省所属の公務員であり、文化芸術家として尊敬を集めている。
北朝鮮のマスゲームは外貨獲得の有力な手段として観光名物ともなっているので、金正日自らますます力を入れている。動員規模も5万人になる。
切手も北朝鮮自慢の文化である。北朝鮮では、ごく限られたエリートを除いて、インターネットにも外国の放送にもアクセスできない。
ケータイは、一度禁止されたが、2009年から平壌市内で再開して急速に普及している。国際通話は原則としてできない。
北朝鮮はレアメタルの宝庫であり、ほとんどが未開発状態にある。この北朝鮮のレアメタル開発で先んじているのは中国企業である。
一般人民が外国放送を聴くことはきびしく禁じられており、国内で販売される受信機には、外国の放送は一切入らない。国外から持ち込むラジオは、周波数を国内放送の位置に固定したものだけが販売を許可される。
自動車は少ないので、いつも道路はガラガラ、交通信号はない。人口2400万人の全土に3万台の車しかなく、そのほとんどは党・政府の幹部と軍・企業用で、個人用はない。しかも、ガソリン代がバカ高く、日本と同じ。一人あたりの国民所得は日本の100分の1だから、ガソリンの高さが分かる。
地下鉄の駅は、緊急避難用のシェルターとして設計されているので、地中深く掘られ、頑丈な大理石と花崗岩で造営されている。
こんな国には住みたくありませんね。まさしく前近代的な超独裁国家です。
私も若いころは少々の憧れを抱いていたのですが・・・。現実を知るにつけ、おぞましさばかりを感じます。
(2009年12月刊。800円+税)
2010年5月25日
民衆の北朝鮮
著者:アンドレイ・ランコフ、出版社:花伝社
知られざる隣人、北朝鮮の実情を教えてくれる貴重な本です。
著者はロシア人ですが、金日成総合大学に学んだことがあり、北朝鮮の内情を実によく知っています。2段組みで400頁ほどの本です。とても奥深い内容となっています。一読を強くおすすめします。
とりわけ、北朝鮮の侵攻に脅威を感じている人には、ぴったりの本です。とてもとても、それどころではないという、この国の実情が明らかにされています。
著者が初めて北朝鮮に行ったのは1984年9月のこと。金日成総合大学に留学生として出かけたのです。
北朝鮮は、非効率、残忍さ、とりわけ抑圧的独裁国家を具現化したものであった。
もっとも抑圧的な社会政治的な状況であっても、大多数の人々は普通の生活をよくしようとし、一般的にはそうやっていけるという単純な真実を理解した。
北朝鮮は、人口2330万人、一人あたりのGDPは1800ドル。モザンビークの人口は2090万人、一人あたりのGDPは1500ドル。小さくて、ひどく遅れた独裁国家であり、モザンビークに近い。
北朝鮮が奇妙にも目立つのは、2つの理由がある。一つは、北朝鮮の外交官が並外れた手腕で演じている核の脅迫のゲーム。二つ目は、北朝鮮が世界の最後の頑固な共産主義(スターリン主義)政権として生き残っていること。
金王朝は、北朝鮮を60年以上も支配してきた。少なくとも二世代が、完全なスターリン主義社会の中で成長した。
北朝鮮の人々は、12歳になると、金日成バッジを外出するときには必ず着用しなければならない。北朝鮮の人々は、毎日、2~4時間も、生活総括と呼ぶ自己批判集会に参加しなければならない。
朝鮮労働党の党員は400万人。北朝鮮にも、最近は、中国から大量のラジオが持ちこまれている。そして、ラジオでは韓国の放送が広く聴かれてる。北朝鮮には有線ラジオがある。多くの家では、このラジオ番組だけが娯楽の源になっている。
テレビは、まだ普及しておらず、200万台があるのみ。白黒テレビでも、年収の5年分に匹敵する。そして、北には3つのチャンネルしかない。平均的な北朝鮮の人は、映画を年に21回も見に行く。北朝鮮の暮らしでは、映画の代わりになるものは、たくさんはない。
普通の北朝鮮の人々は、社会的な出世のチャンスについて、ほとんど幻想を抱いていない。不平等を嫌悪している。エリートの子どもたちは、つつましい庶民とはまったく異なる世界で生涯を過ごす。エリートは、大衆の苦しみにはまったく無関心である。
北朝鮮では、平壌にある少数の最高級のアパートだけが、個人の風呂場がついている。そうしたぜいたくな住居はエリートだけのもの。庶民は、家でタンクのお湯をつかって体をふくか、公衆浴場に行くか、職場単位の小さな入浴施設を使うかしかない。
北朝鮮の治安は良くない。暴力的な路上犯罪は南より多い。若者の非行集団は日常生活の一部となっている。というのも、北朝鮮の若者は、未来について心配する必要がないからだ。
北朝鮮には電話番号簿がない。ケータイも解禁されたあと、2004年に再び当局が没収してしまった。
1996年、北朝鮮の配給制度は崩壊した。数百万人の北朝鮮の人々が食料を求めて国中を動きまわった。
北朝鮮には全国各地に収容所がある。人口の3~5%が収容所を体験している。
朝鮮人民軍は120万人の兵力を有している。これはインドの軍隊にほぼ等しい。
北朝鮮は、政府をあげて密貿易に従事している。偽ドル札、不法な覚せい剤、禁止されている象牙の販売など・・・。
北朝鮮の兵士は降参しない。それは家族がいるから。家族連帯、責任制は驚くほど効果がある。
脱北者は、2002年以降、年に1000~1500人だった。2005年に南に住む脱北者は6700人いた。2009年6月には1万600人になった。
脱北者は南ではうまく生活できず、犯罪率は全国平均より1.7人も多い。
現在、亡命はそれほど困難ではない。北を抜け出すより、南(韓国)に入るほうが、ずっと難しい。韓国政府は暗黙のうち、脱北をやめさせようとしている。韓国のエリートは、ドイツ統一の教訓に脅えて、韓国のために、北朝鮮を破綻させないように援助することを選んだ。
現在の状況では、北朝鮮の人々は死んでも、反乱を起こすことはない。
北朝鮮という、変てこな国の実相を知ることができました。
(2009年12月刊。2400円+税)
2010年5月19日
北朝鮮帰国事業
著者:菊池嘉晃、出版社:中公新書
戦後、日本にいた朝鮮人が北朝鮮へ帰国していった。1959年12月から1984年7月まで、9万3340人。
「地上の楽園」と前宣伝されていた北朝鮮にたどり着いたあとに待ち受けていたのは、あまりに苛酷な現実だった。そのうち日本に再び「帰還」できたのは、わずか200人ほど。9万人をこす「帰国者」のうちには、日本人妻など日本国籍をもつ人が6800人いた。しかし、彼らも日本への「里帰り」は例外を除いて認められなかった。
北朝鮮からの手紙に次のように書いてきた帰国者がいた。
「あなたの子どもたちは、みんな今、府中の別荘に入っている。この国自体も、大きな別荘だ」
ここで、府中の別荘とは、刑務所を意味している。しかし、この手紙を受けとった人は、にわかに信じられなかった。
終戦時の日本に在日コリアンは200万人いた。1946年3月までの7ヶ月間に 130万人が帰国した。しかし、その後は、1950年5月までの4年あまりに10万人しか帰国しなかった。
それは朝鮮南部における就職難と生活費の高さに帰国者が直面したからである。在日コリアンの97%が「南」の出身だった。1948年4月の済州島4.3事件は、在日コリアンに衝撃を与えた。李承晩政権やアメリカへの強い不信感を植え付けた。
日本の外務省は、厄介払い願望をもちつつ、北朝鮮への追放政策は実行できないことを認識していた。
在日朝鮮人の集団は、日本当局の悩みの種であった。
日本政府は、数万人に及ぶ朝鮮人が、非常に貧しく、また大部分がコミュニストである彼らを厄介払いしたがっていた。帰国事業は公安と財政の問題を同時に解決することになるものだった。
日本からの帰国者を出迎えた北朝鮮の人々は、びっくり仰天した。みすぼらしい服で日本から帰ってくるものだと思っていると、北朝鮮では想像もつかないくらい立派な服装だった。天女が下りてきたようだと思い、何度もその服に触った。逆に帰国者は、出迎えた2000人のみすぼらしい姿に、驚き、ぽかんとした。「これはウソだ」「まいったな」と、つぶやいた。
帰国者の歓迎会で、北朝鮮人民と同じ綿入れ服を贈ろうと用意していたが、取りやめた。日朝間の生活格差を知ることなく、「地上の楽園」という宣伝を聞かされてきた帰国者と、「日本で虐げられた貧しい在日コリアンを受け入れよう」という当局の呼びかけだけを聞かされてきた北朝鮮の人々。双方の不幸な関係は、帰国船が着いた瞬間から始まっていた。
日本の生活に慣れ、「楽園」という宣伝を聞かされてきた帰国者にとって、日本より生活水準の低かった北朝鮮で「優遇」されても、ありがたく感じた人々はほとんどいなかった。
平壌に住めた帰国者は全体の5%だけ。
北朝鮮当局に歓迎された帰国者は、工業部門の技術者、化学者、医師。逆に敬遠されたのは、政治・経済・法律専攻志願者、次いで病人、日本人妻、老人であった。
北朝鮮への帰国事業は在日コリアン9万人あまりを悲劇に陥れてしまいましたが、それは北朝鮮当局と朝鮮総連のみでなく、また社会党や共産党などの左翼の責任は大きいものの、日本政府もまた小さくない責任を負うべき問題だと思いました。
それにしても、北朝鮮を「地上の楽園」だなんて、よくも大きな嘘をまき散らしたものですね。信じられません。国自体が強制収容所だというのは、まさに、そのとおりですよね。50年たった今でもそうなのですから、世の中、信じられないことが多過ぎます。
(2009年11月刊。800円+税)
2010年5月12日
朝鮮戦争の社会史
著者:金 東椿、出版社:平凡社
朝鮮戦争を戦争史ではなく、人々の経験から見直した労作です。なるほど、そういうことだったのかと思い至ったところが多々ありました。しっかり読みごたえのある500頁に近い大作です。
韓国人にとっての朝鮮戦争は、仲むつまじく過ごしてきた隣人が突如として悪魔に変身した経験であり、自らの生命と財産を守るはずの政府と公権力のエージェントが生命と財産を奪う存在に急変した地獄の体験であった。
そうなんですね。「敵」は攻めてきた北朝鮮軍だけではなかったのでした。その実情が詳しく紹介されています。
アメリカは、朝鮮戦争を「忘れられた戦争」と呼んでいる。アメリカにおいて、朝鮮戦争は、第二次世界大戦やベトナム戦争に比較して研究書などがきわめて少ない。
ある日、突然に北が戦争を敢行して、平和だった南の社会を悲劇に陥れたという韓国の公式解釈は、6.25以前の政治社会の葛藤と李承晩政権の北朝鮮に対する好戦的な姿勢はもちろん、戦争以後、韓国の政治社会が新たに構造化され、軍部勢力が北朝鮮の脅威を名分に表舞台に登場して30年あまりのあいだ、権力の蜜を吸い、軍部エリートたちが社会のエリートとなって膨大な特権を享受してきたという社会的事実を隠蔽する。
1950年6月25日、大韓民国はまったく戦争に備えていなかった。6月24日夜は、軍の首脳部は盛大なパーティーをしていて、陸軍参謀総長は明け方まで酒を飲み、朝まで酔いが覚めない状態だった。
李承晩も韓国軍も、最小限の努力すらしなかった。これはアメリカの援助なくして可能なことすらしなかったという意味である。
李承晩は何の準備もなく戦争を迎えた。自分の身が危うく、国家が崩壊するかもしれないという絶体絶命の危機の前で驚いたり、当惑することはなかった。
アメリカの北朝鮮の戦争準備、しかも開戦日時まで知っていたことは明らかである。
李承晩も、韓国政府も、越南者や共匪討伐過程で逮捕したパルチザンを通じて、北の戦争準備を正確に把握していた。韓国の権力中枢は、北の戦争準備と具体的な戦争開始日まで、知りうる者はみな知っていた。
戦争勃発の当日である6月25日の李承晩の驚くべき落ち着きぶり、それはきわめて重要な、誰にとっても謎にみちたミステリーなのである。
李承晩は、1949年末から、機会あるごとに「北進論」を主張してきた。というのも5.30選挙以後、李承晩は政治的窮地に追いつめられていた。5.30選挙で、与党は11%の支持しか得られなく、執権2年の李承晩政権は失脚寸前の状態だった。戦争が始まらなかったら、その失脚は時間の問題だった。だから、アメリカの堅固な後援のもとで勝利する可能性のある戦争を自らの権力維持のための一種のチャンスとして認識する十分な理由が李承晩にはあった。
なるほど、なるほど、うむむ。そういうことだったのですか。いやはや、ちっとも知りませんでした。
1949年から1950年初めまでの大討伐作戦で、南にいた北のパルチザンは、ほぼ壊滅状態だった。北が南侵してきても、南の人々が蜂起することはなかった。
5.30選挙では、無所属が大量当選し、李承晩の手先はのきなみ落選した。当局による激しい選挙干渉があったなかでの結果であるから、李承晩政権に対する支持がほとんどなかったことを意味する。
ところが、北朝鮮が「祖国解放」を名分にして戦争を起こし、南朝鮮の民衆が李承晩政権から解放される機会を得ることになったにもかかわらず、彼らがそのまま静かに人民軍を受け入れたのを見ると、数年間の左右対立と双方からの忠誠の要求に民衆も極度に疲れ萎縮していたのではないかと思われる。とくにパルチザン活動地域内に暮らしていた農民は、事実上、生存のために、昼は大韓民国の軍と警察に、夜はパルチザンにそれぞれ協力しないわけにはいかなかった。
険しい世の中の荒波を経験した彼らが得た知恵は強い者の側に立つことだった。住民に生の哲学があったとすれば、唯一、どちらの側からも処罰されず生き残らなくてはならないというものであり、それは社会主義や資本主義という理念よりもいっそう重要であった。
こうした理由から住民は、人民軍がやって来たときは人民軍に、韓国軍がやって来たときには韓国軍に協力する準備ができていた。
ソウルが陥落の危機に瀕した状況において、李承晩は自らの避難に対してアメリカの大使と相談しただけで、国会議員には相談しなかった。そして非常国会が開かれていた真っ最中の27日の明け方に、国会の要人たちにも知らせず、アメリカ大使にも通報しないままソウルを離れた。銀行券もそのままにし、政府の重要文書も片づけず、数万人の軍人たちを漢江以北に置いたまま・・・。
李承晩にとって、大韓民国の安全保障について実質的な責任を負うアメリカだけが主要な対話の相手だったのである。
アメリカは、6月28日、2500人にのぼるアメリカ人を全員安全に日本へ対比させた。李承晩政権は、国家の救出を掲げながら、国家の構成員である国民の生命は無視していた。
「国家不在」の状況で、人々は人民軍と韓国軍のどちらに徴収されたとしても誇らしいことではないと考えた。ただひたすら逃げて一身の生を守ることが賢明と考えた。
朝鮮戦争の全期間にわたり、人民軍の南下を避けて避難した政治的避難よりも、アメリカ軍の爆撃から逃れるために避難した場合がはるかに多かった。
アメリカ空軍の無差別的な爆撃は、朝鮮人を恐怖に陥れた、もっともむごい出来事だった。とくに38度線以北に対する爆撃は想像を絶するほどだった。当時の平凡な国民の目には、李承晩だけが自分だけ生きのびようとした存在として映ったということが重要である。
李承晩は、国家や民族よりは自らの生存と権力維持をまず第1に考慮する人物であった。
李承晩の生涯には驚くほど一貫した原則があった。権力欲が、まさにその原則であった。
マッカーサーは李承晩に韓国の安保をアメリカが守ると約束していた。李は情報員を通じて北朝鮮の侵攻を十分に予想していたし、北の侵略に南が対処しえないこと、そのまま放置すると朝鮮半島は内戦に突入することもはっきり認識していた。李は核を保有した世界最強のアメリカが頼もしい存在と考えており、アメリカは韓国を見捨てないと信頼していた。
李承晩は、アメリカとソ連という超大国が主導する冷戦対立のなかでは、「無定形」な国民の支持や支援よりも、アメリカの軍事的・経済的支援がより重要だと知っていた。大韓民国防衛の責任は自分ではなくアメリカにあるという政治的判断をすべての前提としていた。
「反共を国是として掲げた」韓国の歴代政府が、人民軍が後退しながら犯した左翼側の虐殺を本格的に調査したことがないのは不思議である。しかし、それは、それまで共産党の蛮行と思われていた事件が、実は、右翼側による民間人虐殺事件であったと判明することを恐れてではないかと考えられる。たとえば、共産党の反乱あるいは良民虐殺事件と考えられてきた済州島四・三事件や麗順事件において、今では犠牲者の大部分は反乱軍ではなく韓国軍・警察・右翼による虐殺だと推定されている。「アカは殺してもいい」という原理は、実際に、今日の資本主義的経済秩序と法秩序、社会秩序に内在化し、再生産されている。それはファシズムの民族浄化の論理と本質的に同一である。「アカ狩り」という権力行使の欲求を抑制できる程度に民主主義は発展したが、現在の韓国の民主主義と人権の水準・市民社会の道徳性の水準は、一介の新聞社が過去の「国家機構」に代わって個人の思想的純粋性を審査し、追放を扇動できるという事実に集約されている。
500頁に近い大変な力作です。朝鮮戦争に関心のある人には必読の基本的文献だと思います。
(2008年10月刊。4800円+税)