弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

司法

2019年2月20日

一路

(霧山昴)
著者 環 直彌 、 出版  日本評論社

裁判官懇話会の呼びかけ人の一人として私も名前だけは知っていましたが、なんと特捜部検事だったこともあるのですね。驚きました。検事、判事、そして弁護士と渡り歩いていますが、そこには一本の太い筋が通っています。
戦前の思想検事がエリートだったこと、裁判官は検事に逆らえず、検事の言いなりだったことを改めて認識しました。
一高を出て、優秀な人間を選んで思想検事にしていた。裁判官は、検事さんがおっしゃるんだから間違いないと、確かめもしなかった。
敗戦で思想検事がやめた(パージになった)だけで、他は何も変わらなかった。裁判官も検事も、公職追放以外は、まったく手がつかず、そのままだった。
戦後、弁護士になってチャタレイ事件の弁護人になります。百里基地訴訟で地主側の代理人にもなりました。そして、そのあと再び裁判官になったのです。それにしても11年間の弁護士生活のなかで12件もの無罪判決をとったというのですから、えらいものです。
東京地裁の裁判官のとき、戸別訪問禁止違反で起訴された被告人について無罪判決を出しています。公選法は違憲だから無罪だというのではありません。本件では有罪するまでの必要性もなく無罪、という判決でした。
宮本康昭裁判官の再任拒否があったとき、それを公然と批判し、裁判官懇話会の呼びかけ人になりました。懇話会の第1回は昭和46年(1971年)10月です。ちょうど私が司法試験の口述試験を受け終わった直後です。
定年退官したあと、再び弁護士になり、横浜事件の再審事件に関わります。
権威に弱い、批判精神に乏しく、安直に能率的な裁判官が増える傾向にあるとすれば、由々しい問題だ。
裁判官は、学者ほど頭が良い必要はない。良心こそ大切なのだ。頭の良い人は、相反するどちらの見解を正当らしくみせかける能力がある。もし、その人に裁判官の良心に欠けるものがあると、もっとも危険な存在になる。
まさしくそのとおりだと思います。
福岡で長く裁判官をしていて、現在は弁護士である西理氏が弟子の一人であることを初めて知りました。今、裁判所の内部にいる人にぜひ読んで欲しいと思った本でした。
(2019年1月刊。1400円+税)

2019年1月29日

弁護士13人が伝えたいこと


(霧山昴)
著者 久保井 一匡ほか 、 出版  日本加除出版株式会社

32例の失敗と成功。こんなサブ・タイトルがついていますので、興味をひかないわけがありません。いったい、どんな失敗をしたのかな、もって他山の石とできるものなら、安いものだぞ・・・。そう考えて読みはじめました。期待を裏切ることのない本でした。
14期から61期までの13人の弁護士が自分の扱ったケースを単純な自慢話としてではなく紹介しています。大変勉強になりました。
それにしても、ずいぶん前に終わった事件について、どうやってその顛末を語ることができたのかな、そんな心配もしました。序文には、そのことも中山巌雄弁護士(21期)が触れています。
たいていの裁判記録は保存期間終了時に姿を消す。記録とともに苦労も忘れてしまっている。紹介したケースは、記録を再現できたものばかりである。
なるほど、そうでしょう。実は私も弁護士生活45年になり、無事に古稀を迎えましたので、古い記録の大半を処分してしまいました。保存期間を経過していても、いつか参照することもあるかもしれないと思って書庫の奥にしまっていたのです。もう参照するはずはないと考えて、ごく一部を除いて大半を処分しました。この年末年始にやったことです。
混沌のなかで、いつも弁護士の念頭にあるのは正義とは何か、である。正義も多義的であり、依頼者の相手方には別の正義がある。正義も調整の対象となる。
弁護士は難しい理屈ばかりを考えているわけにはいかない。直感的に不合理だと思ったことには、本能的に必要な対応をとる。これが大切だ。
遺産分割にあたって、預金の相続は協議の対象とはならないとしてきた最高裁判例を変更させた事件の法廷での弁論が紹介されていますが、さすがの内容です。大法廷で、双方に40分の口頭弁論が認められたのでした。1人10分ずつの弁論。どうやって最高裁判事のこころを開くか・・・。
実は、私も2回だけ最高裁の小法廷で口頭弁論したことがあります。フツーの民事事件でした(通行権と交通事故)。どちらも控訴審まで勝っていたのが逆転敗訴させられたものです。結論は見えていましたが、ちゃんと原稿をつくって口頭弁論しました。ちょうど東京の大学で勉強していた息子と娘を傍聴させて聞かせました。
負けた事件の反省として、時代の大きな流れを読み誤っていたということが書かれています。うむむ、これは大変なことですね、弁護士は時代認識もしっかりしておく必要があるというわけです。
器質的損傷のないRSD症状というものがあることを初めて知りました。
RSDとは、反射性交感神経性ジストロフィーのことです。疼痛、間接拘縮、腫脹、皮膚色の変化が持続します。骨萎縮は、今では要件とされなくなっているとのことです。
和解を目的として裁判を起こすときには、対立する相手方を和解の席に着かせる道筋を考えたうえで、早い時点で和解案の準備をしておくことが、和解のタイミングを逸さず、早期に依頼者が満足できる解決に導くことにつながる。
なるほど、と思うところが多々ありました。
(2018年11月刊。2500円+税)

2019年1月16日

薬物依存症

(霧山昴)
著者 松本 俊彦 、 出版  ちくま新書

人が薬物に手を出すのは、多くの場合、「つながり」を得るため。
薬物使用が本人にもたらす最初の報酬は、快感のような薬理学的効果ではなく、関係性という社会的効果だ。「自分はどこにも居場所がない」、「誰からも必要とされていない」という痛みをともなう感覚にさいなまれていたり、人との「つながり」から孤立している人が「人とつながる」ために薬物を使用している。心に痛みをかかえ、孤立している人ほど、薬物のもつ依存症に対して脆弱(ぜいじゃく)だ。
薬物の再使用によって、もっとも失望しているのは、周囲の誰よりも薬物依存者自身である。「また使ってしまった」という自己嫌悪と恥辱感をもつ。
覚せい剤取締法事犯者は、日本の刑務所の収容者の3割を占めている。そのうち65%は再犯者。覚せい剤依存症患者の再使用は刑務所から出所した直後にもっとも多い。どこかに閉じこめられて物理的に依存性薬物と切り離していても、いつかはそこから解放される。その自由を奪われたあとの解放感こそが、薬物依存症患者の薬物欲求をもっとも刺激する。
「薬物中毒」という言葉は、不正確な表現なので、今では使われない。薬物依存症とは、薬物が体内に存在することが問題なのではなく、薬物をくり返して使ったことで、その人の体質に何らかの変化が生じてしまった状態である。
身体依存とは、中枢神経作用薬をくりかえし投与された生体にみられる、正常な反応にすぎない。そして、身体依存は原則として可逆的なものであり、薬物を断った状態を続けていれば、中枢神経系は再び薬物なしの状態に適元するようになり、離脱や耐性は消失する。したがって、もしも薬物依存症イコール身体依存だとすれば、薬物依存症の治療など、実に簡単になるはずだ。しかし、現実にはそうはなっていない。身体依存は薬物依存症の本質ではない。精神依存こそが薬物依存症の本質なのだ。
薬物を使っていないときでも、薬物のことばかり考えているという状態をさす。
依存症者は、たとえ尊大そうに見えても、その内実は自己評価の低い人が少なくない。それだけ人から承認されることに飢えている。
この5年とか6年のあいだ、シンナーを吸っていたという少年は、ほとんどいない。首都圏では暴走族はほとんど見かけなくなった。
2016年の調査で、覚せい剤が第1位で、第2位は睡眠薬、抗不安薬である。
日本人ほど、薬物に関して、「脱法」であることを尊び、高い価値を置く国民は他にいない。日本人の高い遵法精神が「脱法」的な薬物の市場価値を高めている。
危険ドラッグの経験者は、決して売り物の薬物を自分には使わない。「こんなクスリをつかう奴はバカだ」とさえ思っている。
刑務所内の治療プログラムにはそれほどの効果はない。
刑務所は、人を嘘つきにしてしまう。すっかり嘘をつくのが習性として染みついている。
刑務所に行くのは時間の無駄だ。再犯防止は、施設内よりも社会内で訓練を受けたほうが効果的。薬物の自己使用罪や所持罪で逮捕された者を刑務所内で処遇することは、再犯防止の観点からは、実は意味がない。
薬物依存症は、治らないが、回復できる、そんな病気だ。特効薬や根治的治療法はない。依存症の治療において、「欲求に負けない強い自分をつくる」という発想はとても危険だ。
そもそも依存症患者は「強さ」に憧れている。
薬物依存症の人は多くの嘘をつく。もっとも多くの嘘をついているが、もっとも多いのは、何と言っても自分自身に対してである。
この本を読んだとき、被疑者国選弁護事件で連日のように被疑者に面会しに警察署に行っていました。しかも初めての大麻取締法違反事件でした。
なるほど、そうなのか、そうだったのかと、一人合点で、膝を叩きながら読み通しました。私にとっては画期的に面白い本でした。ご一読をおすすめします。
(2018年9月刊。980円+税)

2018年12月29日

炎上弁護士


(霧山昴)
著者 唐澤 貴洋 、 出版  日本実業出版社

今どきネットのことがよく分からない弁護士だと大きな声では言えません。スマホは持たないし、ネットは見るだけで入力はできない。ネットでの判例検索もできないので、若手に頼んでやってもらう。そんな弁護士(私のことです)にとって、ネットで炎上するって、どんなことなのか、実はピンと来ません。
しかし、うしろ姿を写真に撮られてネットで公開されたり、事務所や自宅の玄関先に見知らぬ男がやってきたら、さすがにビビッてしまいますよね。
そして、本人になりすましていろいろ、あらぬことを書きこまれるというのも困ります。なりすましで、どこかを爆破すると予告して、警察が出動したら、もう笑い話ではすまされません。
いったい、誰が、何のために、そんなバカげたことをするのか・・・。
著者によると、犯人は、たいてい10代から20代の若い男たち。部屋に閉じこもって一人パソコンを一日中ながめているような若者が多いということです。ああ、それなら、今の日本には無数にいるだろうと思います。著者は、そんな男たちと敢然とたたかっている弁護士です。
いやはや大変です。徒労感がありますよね・・・。
インターネット上で著者への誹謗中傷は、2012年に始まり、今も続いている。そして、殺害予告や爆破予告へエスカレートしている。さらに、事務所のある建物に侵入した動画をネットで公開している。
インターネット上で飛びかう情報の多くは、根拠がなく、真偽が厳密に精査されないまま、容易にリツィート・コピーされて拡散していく。マスコミの記者もフェイクニュースをうのみにして著者に問い合わせしてくることが多い。
著者は、この5年間に事務所を4回も移転せざるをえなかった。
犯人たちは、学生、ニート、ひきこもりで、全員が男性。社会的に何か生きづらさを抱えた人たち。目を合わせず、コミュニケーションが無理。犯行動機を明確には説明できず、罪の意識もない。
彼らは生身の人間としての著者に興味があるのではなく、皆が知っている著者の名前という共通の「記号」をつかって、ネットの限られた世界でコミュニケーションをすること自体が大切なことなのだ。
やったやったという自己顕示、そして、それはストレス発散法のひとつだった。
コミュニケーション能力が低いうえに、その周囲に理解してくれている人が少ない孤独な人ばかり。罪悪感はなく、刑事事件になるという認識ももっていない。
ネットのなかでしか生きられない人たちがいる。
みなが言ってるから正しいと盲信する若者が増えている。
ネット社会はドライなようで、実は感情に左右される世界だ。とくにその原動力となるのは妬み(ねたみ)。
いやあ、これは怖いですね・・・。ネットの怖さを少しばかり実感させられました。
(2018年12月刊。1400円+税)

2018年12月22日

プロ弁護士の「勝つ技法」

(霧山昴)
著者 矢部 正秋 、 出版  PHP新書

弁護士経験は十分だが、世間知が足りない。
なんだか、ドキッとさせられる言葉ですよね、これって・・・。
フランスのラ・ロシュフーコーは、太陽と死は見つめることができないと喝破した。
弁護士にとっては、太陽とマイナス情報は見つめることができないと言い換えられるかもしれない。たしかに、マイナス情報は見たくないものです。でも、マイナス情報こそ、貴重な視点を提供するものである。
世の中にウソは多く、真実はわずか。ウソは一人歩きする。その場限りにとどまらず、後を引く。
いま、国会で、官庁で、ウソがはびこり、堂々とまかり通っています。そんな大人の「見本」が子どもたちへの道徳教育の押しつけに熱心なのですから、まるでアベコベです。
民事裁判において、事実とは、自分の視点から切り取った事実にすぎない。そんな事実を主張するだけでは、裁判に勝てない。相手も、こちらと同じように彼らのストーリーを仕立ててくる。それを論破しなければいけない。そのためには、相手の視点を理解することが必要になる。
観察と分析によって、人となりを判断する。そのとき目つきは大事。目つきの悪い人は性格もよくない。目つきにケンがある人は、ストレス漬けが疑われる。目が笑わない人は、サイコパスの疑いが濃厚。目が座っている人は、本当に危ない。相手をののしるような人は隠れた劣等感の持ち主である。
相手を知りたいときは、ジョークをいって笑いを誘い、反応を見る。笑ったときには心が見える。素のままの自分を出せるか、それとも隠すか。そこに本性が出る。
相手を観察し、三類型(赤・黄・青信号)に分け、類型に応じた距離をとる。
仕事にとりかかるときは見通しを立て、仕事が終わったら見直しをする。
未来は思考力によって決まる。未来はやって来ない。未来は創り出すものである。
著者のビジネス書は体験に裏づけられていますので、いつも感嘆しながら読みすすめています。
(2018年10月刊。900円+税)

2018年11月29日

弁護士の情報戦略

(霧山昴)
著者 髙井 伸夫 、 出版  民事法研究会

弁護士にとっての情報戦略とは、「新説」を創造し、発表し続けること。そのためには、新説をつくった弁護士に対して法律事務所は評価を高くしなければいけない。
イノベーションは、法律事務所の生命線と言ってよいもの。
リーダーに求められる強い精神力の中身は、判断力、実行力、人間的掌握力に集約される。
弁護士に要求されるリーダーシップとは、反対派や相手方の弱点を明確に見抜き、拡大させ、えぐり出し、白目の下にさらすこと。
現代社会においては、称賛による励まし、勇気づけがもっとも大切なこと。そうやってリーダーシップの基盤となる自立心・連帯心・向上心を正しく伸ばしていく。
早めの準備が迅速な判断に通じる。拙速は巧遅に勝る。迅速で歯切れよい判断力は、非常に重要な能力である。
依頼者に決して偽証させない。そして、裁判官の共感・信頼を得るように最大限努める。
弁護士は依頼者のために尽くす。そして、弁護士として依頼者のために尽くすべく、業務に誠心誠意取り組んでいる。このことを依頼者に納得してもらう必要がある。
AIは考えぬくことができない。だから、弁護士の仕事をAIが完全に行うことはできない。
考えぬいた末に得られる知性を身につけることは、人間にとってきわめて重要なことである。
前例や過去の裁判例にばかり気をとられて、新しい概念を生み出すチャレンジもせず、一種の思考停止に陥ってしまい、考え抜く努力を怠る者は真っ先にAIやロボットにとって代わられるだろう。
新説を生み出す読み方は、視野を広げよう、深めよう、というたたかいでもある。それには、まさしく不屈の魂が必要なのだ。
著者の本はかなり読んでいます。その多くをこのコーナーで紹介しました。いつも大変勉強になっています。
(2018年10月刊。1700円+税)

2018年11月14日

誰のために法は生まれた


(霧山昴)
著者 木庭 顕 、 出版  朝日出版社

ローマ法を専門とする東大名誉教授が桐蔭学園の中学・高校生30人と語りあったゼミ形式の授業の記録です。
午前中に映画をみて、午後から教授の問いかけに生徒たちが答えていくようにして進んでいくのですが、その問答の奥深さには思わずのけぞりそうになります。
まず映画がすごいです。溝口健二監督の『近松物語』は1954年制作です。役者は長谷川一夫と香川京子ですから、まさしく美男美女。この二人は最後のシーンでは市中引き回しのうえ処刑されるわけですが、それに至る過程を丹念に拾って議論していく様子は、心が震えます。私が高校生だったら、とてもついていけなかったでしょう。
最後の市中引きまわしのときの晴れ晴れとした香川京子の笑顔は衝撃的ですが、その解釈が見事なのです。
江戸時代、姦通したら死刑にするというルールがあった。ましてや主人の妻と奉公人の男性の姦通なら、即死罪だったでしょう。そこで、法とはいったい何なのかが問われるのです。
名誉教授は、法は追い詰められた人のためにあると言います。
グルになった集団に抵抗するために法はある。こういう集団を完璧に解体するためにある。こう言われても、私には、よく分かりませんでした。ぴんと来ないのです。
法学部にいくと、第一にものすごい眠気が起きる。次に言いようのない虚(むな)しさが漂う。この点は、私も司法試験の受験勉強をはじめる前は、たしかにそうでした。しかし、目的のための手段だと割り切れば、それなりのものではありました。論理的思考力が身につきましたからね。
次の映画は1948年のイタリア映画『自転車泥棒』です。昔、私も一度だけは観たような気がします。この映画を素材として議論が展開します。それが、すごいんです。
そこでは、泥棒の何がいけないのかも問われます。だって、メシが食えない状況に置かれているのです。そして、男の子と父親の関係も微妙です。自転車を盗まれて仕事ができなくなり、切羽詰まった父親が息子に知られないようにして他人の自転車を泥棒して、見つかってしまう。あやうく群衆にリンチにされそうになったときに息子が出てきて助かるのですが、その意義はどこにあるのか・・・。
さらにギリシア悲劇を素材にしたあと、最高裁の昭和40年判決まで議論の対象となります。名誉教授の博識とすご腕には圧倒されました。といっても、私より年下だというのが、悔しい事実でもあります。
いやはや、とんでもない授業でした。もちろん、そんなハイレベルの授業に脱帽という意味です。もっとも、この授業に参加した生徒たちが法学を勉強してみようと思うようになったのか、私にはやや疑問なしとしませんでしたが・・・。
(2018年8月刊。1850円+税)

2018年11月 6日

家庭裁判所物語


(霧山昴)
著者 清水 聡 、 出版  日本評論社

敗戦後まもなくの日本で家庭裁判所がつくられスタートしていく日々を温かいタッチで描いていて、読むと心も温まります。
宇田川潤四郎、内藤頼博、三淵嘉子らは、家庭裁判所第一世代の裁判官たちだった。それぞれの理想とする司法の姿を胸に、人も物も足りないなか道を切り拓いて、家裁をつくりあげた。第二世代は、初代の苦労を間近で見て、家庭裁判所の理想主義の空気を胸一杯に吸い込んで成長していった。
そのスローガン(標語)は、「家庭に光を、少年に愛を」だった。
「家裁の5性格」とは何か・・・。
家庭裁判所は独立的、民主的、科学的、教育的、社会的性格を具有している。
ところが、これに対して裁判官は裁判をするのが仕事であって、裁判所は教育機関、福祉機関ではない。このような反発があった。
少年部の調査官を当初は「少年保護司」と呼んでいたことを初めて知りました。
戦後まもなくは、戦災孤児が浮浪児になっていることが大きな社会問題になった。
昭和24年(1949年)には少年による刑法犯の検挙者が11万人をこえた。このうち8万人の罪名は窃盗だった。このころ、少年院に収容されている少年は3千人に満たなかった。そのうえ、逮捕・収容しても半数以上が逃走していた。
家庭裁判所といっても、庁舎がない、電話もない。車どころか自転車もない。参考書もない。鑑定してもらっても謝礼金を支払うお金がない・・・。まことに大変な状況だった。
家裁調査官研究所の所長に内藤頼博が就任すると、講師は「一流」ではなく、「日本一」だった。たしかに、そうです。
憲法は宮沢俊義と佐藤功、刑法は平野龍一、法社会学が川島武宜、社会保障論が大内兵衛。そして、歌舞伎役者の尾上梅幸、演出家の千田是也、など・・・。
圧倒される豪華な顔ぶれです。
そして、この家裁調査官研修所には一人も裁判官を配属しなかったというのです。信じられません。単なる教師と生徒の関係になってはいけないという考え方からでした。すごい発想です。
いま、一般民事事件が増えず、横バイか減少しているなかで、家事事件だけは急増しています。これは、私の実感でもあります。
人間関係がドライになったというのか、なんでも金銭的評価が優先するおかしな風潮が蔓延しているのに、私個人としては心が痛みます。だけれど、その反面、弁護士として仕事を真面目にやれば食べていける状況でもあります。家庭裁判所の役割は、これからはこれまで以上に大きくなると思います。
(2018年9月刊。1800円+税)

2018年10月31日

弁護士はBARにいる

(霧山昴)
著者 前岨 博 、 出版  イースト・プレス

私は久しく「バー」なるものに行ったことがありません。若いころにはスナックにもクラブにも、そしてたまにバーに行ったことがありました。宴会のあと、若者たちが先輩に率いられて、ゾロゾロと二次会、三次会に流れていったのです。そして、当然のように先輩弁護士が勘定をもってくれていました。今では、ちょっと考えられない光景ですよね。先輩が後輩を誘うことはまれにありますし、少しだけ余計に負担することはあっても、「全額おごり」だなんて、考えられません(少しとも私には・・・)。
それはともかくとして、この本では、バーのカウンターの内側にいる男性が客の悩みに的確なアドバイスをするという趣向です。そのアドバイスは明確です。それは危いからやめたほうがいい、それは大丈夫だ、問題ない、このようにきっぱり小気味良く断言します。もちろん、そのあと解説が続きますので、納得もします。
たとえば、従業員の横領が発覚して頭をかかえている社長に対して、何と言ったか・・・。
「法的見地から申し上げると、現段階で警察に駆け込むのは、早計というもの」
このアドバイスには、私も、まったく同感でした。民事、刑事、処遇、会社の組織・システム、それぞれの問題についてよく整理しておくことが先決。警察は、すぐには動いてくれない。そして、懲戒解雇ではなく、諭旨解雇にして、支払うべき退職金を賠償金に充てるという解決法がある。
この点は、私も同じように処理したことがあります。
有力な従業員が競争相手の同業者に引き抜かれてしまった。さあ、どうしたらよいか・・・。
「法的見地からすると、残念ながら、その同業同社を訴える条件はそろっていないと考える」
従業員を、退職したあとまで、競業避止(きょうぎょうひし)業務でしばることはできない。例外的に、事前に競合禁止の誓約をとっていると、限定的に認められることはある。それでも、営業秘密をもらして元の会社に損害を与えたという事実の主張・立証ができないと、損害賠償が認められる可能性は小さい。
著者の名前は、「まえそ」と読むそうです。200頁ほどの新書版サイズの手頃な本です。バーでのやりとりを通じて、悩める社会の法律トラブル対策が書かれていて、気楽に読み通せました。
(2017年11月刊。1100円+税)

2018年10月26日

取調べのビデオ録画

(霧山昴)
著者 牧野 茂 ・ 小池 振一郎 、 出版  成文堂

今市(いまいち)事件の判決には驚かされました。裁判員をふくむ裁判所が録画されたビデオ映像を見て、被疑者の様子から有罪の心証を得たというのです。
これは、とんでもないことです。いったい、何のために取調過程を録音・録画するのか・・・。それは取調過程の透明化、つまり、密室での取調べのとき、被疑者に対して不当な追及、違法なことが行われないように監視するためのものなのです。
ところが、実質証拠として機能してビデオ映像が使われ、有罪の証拠になりました。そうなると、調書を証拠採用して判断するという、いわば調書裁判を強化する方向へ、取調室を法廷としかねない方向に行ってしまいます。
ビデオ録画するときには、本来の目的からするならば、むしろ取調にあたっている捜査官の態度・表情こそ録画の対象とすべきです。せめて、取調室を横からビデオ録画して、被疑者がウソを言ってるのかどうかなど、見た人が考えられないようにしたほうがいいのです。
お隣の韓国では、ビデオ録画は実質証拠として利用することを禁止している。また、弁護士は取調での際に被疑者のそばに立ち会える。
ところが、日本では依然として弁護士立会は認められていません。
ビデオ録画が実質証拠に使われると、皮肉なことに、公判中心主義ではなく捜査取調べ中心主義になってしまう恐れがある。
先進国で弁護人立会権の保障がないのは日本だけ。有罪無罪の判断のためには、悪性格証拠は使わないようにとルール化されている。ビデオ映像をみたら錯覚はまちがいなく起きる。この影響を与える可能性を完全に払拭することはできないが、この危険性を減少させるためのものが、せめて横から操るという方法なのである。
なるほど、そうだったのかと思わず、うなってしましました。まさしくタイムリーな本です。
(2018年8月刊。2000円+税)

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