弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
司法
2018年3月27日
弁護士って、おもしろい!
(霧山昴)
著者 石田 武臣・寺町 東子 、 出版 日本評論社
私にとって、弁護士は、まさしく天職です。苦しい受験生活を経て司法試験に合格し弁護士になれて本当に良かったと思います。
私なりに一生懸命に弁護士をしているつもりなのですが、これでも事件の相手方(サラ金業者など)や、かつての依頼者から苦情申立や懲戒請求を受けたことが何回もあります。現役の弁護士である限り、苦情申立や懲戒申立をされるのは避けられないと今では悟(さと)りの心境です。無難にしておけば免れるかもしれませんが、「無難に」とか「大過なく」というコトバは私には無縁なのです。
この本には、老若男女の弁護士が弁護士の仕事の面白さ、やり甲斐を大いに語っています。なかには、本当にうらやましい話もあって、もっと私が若ければ・・・と思ったことも再三でした。
かつての法律事務所は「一見(いちげん)さん、お断り」があたりまえだった。今でも、それを高言するロートル弁護士がいないわけでもありません。要するに、ちゃんとした紹介者のない、見ず知らずの人が飛び込んできても、どこの馬の骨かわからないし、きちんと相応の謝礼を支払ってくれるという保証がないので相手にしない。そんな対応をするのが、普通でした。今でも高級料亭はそうだと聞いていますが、同じように特権的地位に弁護士はあぐらをかいていたわけです。
したがって、弁護士が御用聞きのようなことなんて見苦しいこと、恥ずかしい、もってのほかだという反発がありました。「アウトリーチ」なんて、とんでもないという発想です。福岡でも天神に法律相談センターを開設するにあたっては、似たような反発を受けました。今や隔世の感があります。
坪井節子弁護士が東京で子どもシェルターの活動を紹介していますが、本当に頭の下がる思いです。この13年間で、シェルターを利用した子どもは15歳から19歳まで、のべにして350人にもなります。そのうち、親との関係調整が出来て自宅に戻った子どもは2割にもなりません。多くの子どもは家には帰らない。高校を中退する。驚くべきことに、シェルター利用者の4分の3が女子なのです。親との関係では女の子のほうが難しいということでしょうか・・・。
子どもに寄り添うとは、想像を絶する苦しみを味わってきた子どもたちを前に、おのれの無力を痛感することから始まる。・・・すごい活動です。それでも子どもたちから教えられ、導かれていく喜びを味わうことが出来ると書かれていることが救いです。
弁護士のいない市町村は、まだまだ少なくありません。幸い、裁判所あるのに弁護士が一人もいないというゼロ・ワンの市はなくなっていると思います。ところが、過疎地に弁護士への需要はない、事件なんてない、もし、あったとしても都会にすぐ出てこれるから、なにも過疎地に弁護士が事務所をかまえる必要まではない。弁護士法人をつくって、法人の支店を置いて、週のうち何日間か、弁護士が交代で詰めておくだけで足りる(はず)。こんな考えの弁護士(会)がいます。
私は、乙号支部(今は正式には呼びません)に所属する弁護士として、これらは、とんでもない認識不足だし、誤りだと主張してきました。何らかのトラブルが身近におこるのは世の常ですが、そのときすぐに弁護士に相談しておけば、あとあとの対処がずいぶんと楽だったろうと思ったことは数えきれません。初期対応はとても大切なことです。
それにしても谷口太規(元)弁護士のレポートには驚嘆させられました。ひまわり公設事務所の弁護士として活動したあと、アメリカに留学し、今はミシガン州立の公設弁護人事務所で刑務所に長く服役していた人たちの釈放後の社会復帰を支援するソーシャルワーカーとして働いているのです。すごいことです。
この谷口(元)弁護士が弁護士とはいかなる存在なのか、次のように語っています。
弁護士は法律家だ。しかし、法律問題に直面するとき、その人は人生の曲がり角に立っている。このとき、人は負の出来事や感情と向き合い、自分の大切にしているものを考え、人生の意味を問う。弁護士は法律家であると同時に、そうした人々の、傷つきやすく、存在の根幹を賭した瞬間に立ちあう存在でもある。
そうなんです。人々の人生の重要な局面に、弁護士はそのすぐそばに立って支えることが出来るのです。弁護士って、だから面白いのです。
ぜひ、あなたも弁護士の世界に飛び込んでください。弁護士を将来展望の一つに考えている若い人に向けた、いい本です。ただ残念なのは、値段が少しばかり高すぎることです。
(2017年10月刊。2300円+税)
2018年3月19日
憲法の無意識
(霧山昴)
著者 柄谷 行人 、 出版 岩波新書
とてもユニークな憲法9条論です。ええっ、こんな観点で考えることもできるのか・・・、と驚きました。
9条は、むしろ「無意識」の問題。保守派の60年以上にわたる努力は徒労に終わった。
9条は 憲派によって守られているのではない。その逆で、護憲派こそ憲法9条によって守られている。
9条は明らかに占領軍の強制のよるもの。しかし、憲法9条が強制されたものだということと、日本人がそれを自主的に受け入れたこととは、矛盾しない。
憲法9条は自発的な意思によって出来たのではない。外部からの押しつけによるもの。しかし、だからこそ、それはその後に、深く定着した。もし、人々の「意識」あるいは「自由意思」によるのであれば、成立しなかったし、たとえ成立してもとうに廃棄されていただろう。
マッカーサーの意図は、天皇制を維持することにあった。戦争放棄は、そのことについて国際世論を説得するために必要な手段であった。しかも戦争放棄は、マッカーサーよりも、むしろ日本の幣原首相の「理想」だった。
昭和天皇の関心は、何より皇室の維持にあった。そのためには、忠臣だった東條英機を非難し責任転嫁も辞さなかった。昭和天皇にとって、次に重要だったのは、日本の安全保障。そのため、米軍による防衛をマッカーサーに求めた。
憲法1条と9条とは密接につながっている。9条を守ることが1条を守ることになる。
9条における戦争の放棄は、国階社会に向けられた「贈与」なのだ。贈与によって無力になるわけではない。その逆に、贈与の力というものを得る。日本が憲法9条を文字どおりに実行に移すことは、自衛権の単なる放棄ではなく、「贈与」となる。そして、この純粋贈与には力がある。その力は、どんな軍事力や金の力よりも強い。
新自由主義とは、それまでの自由主義の延長上にあるのではなく、その否を。新自由主義は新帝国主義と呼ぶべきもの。
日本がなすべきであり、かつ、なしうる唯一のことは、憲法9条を文字どおり実行すること。私たちは、憲法9条によってこそ、戦争からまもられる。思想的リアリストは、憲法9条があるために自国をまもることが出来ないというが、そんなことは決してない。
「無意識の力」、「贈与の力」というものに気づかされました。小宮弁護士(飯塚市)から強くすすめられて読みました。なるほど、目新しい視点から9条の意義を改めて考えさせられる本でした。あなたも、ぜひご一読ください。
(2016年7月刊。760円+税)
2018年3月15日
変動期の日本の弁護士
(霧山昴)
著者 佐藤 岩夫・濱野 亮 、 出版 日本評論社
このタイトルだと、弁護士生活も40年をとっくに過ぎた私は手にとって読まなければなりません。なぜなら、私はいったい日本の弁護士として、どんな位置にあるのか知りたいからです。もちろん、場所的には片田舎の弁護士でしかなく、大企業の顧問など無縁ですし、国際取引などしたことも、しようとしたこともありません。そして、労働者の側に立ちたいと思って弁護士になりましたが、実際に労働者側代理人として事件にあたったことは数えるくらいしかありません。もちろん、企業側に立って労働事件をしたことは、もっと少ない(業務上横領事件で解雇する側につきました。今でも、受任したのはやむをえなかったと考えています)のです。
この本は、2010年の日弁連による弁護士経済基盤調査のデータをもとにして議論されています。この調査は、私も一会員として回答したように思います。
弁護士人口は急増中。1980年に1万1千人だったのが、1990年に1万3千人をこえ、2000年に1万7千人をこえた。ところが、2000年代に入ると増加のスピードが加速し、2010年に2万9千人近くになり、2014年には3万5千人を突破した。これは2000年からの10年で日本の弁護士が一挙に2倍に増えたということ。
この弁護士急増については、弁護士会のなかには司法改革失敗だったと批判する人が少なくありませんが、この本は別の視野で問題提起をしていて、私はなるほどそういう面はあるよね、そう思いました。
弁護士人口の拡大は、中長期的に見れば、弁護士が果たしうる役割の対する日本の社会・経済の期待が従来よりも多様かつ広範囲に拡大していることに理由がある。
そうなんです。弁護士の知恵と力は、もっと社会の隅々にまで浸透する必要があると思います。それは過疎地だけでなく、過労死するまで働かされている大企業の職場にまで、弁護士の影響力が及ぶべきだということです。企業内弁護士は増えていますが、それは企業側の立場でしかありません。それとは別の視点からの弁護士活動があってもいいように私は思います。
かつて(1980年代)の弁護士の仕事は、債権回収と不動産を扱う訴訟事件が中心だった。しかし、今や、それが大きく変わりつつある。なるほど、私の扱う事件も大きく変わりました。今では家庭内のさまざまな争いに関与することが圧倒的に多くなりました。強烈な感情がからむことの多い事件ですから、関与する私たち弁護士の側も相当に疲れます。
弁護士の勤務形態としては、単独弁護士が減って、大量の「勤務弁護士」が増えている。私の法律事務所も最高で6人、今は4人の事務所です。
私は「単独」でやっていく自信はまったくありません。というのは、ネット検索をする意思も能力もないからです。今どき珍しいと笑われるかもしれませんが、スマホではなくガラケーですし、いつもはカバンの中に入れていて、ケータイを使うことはほとんどありません。
メーリングリスト(ML)は見てはいます。私の個人ブログもありますが、入力はしませんし、できません。するつもりもありません。こんな私もワープロの時代までは自分で入力していました。
この本によると、大規模事務所ではタイムチャージ方式で経営が成り立っているとのことです。訴額が小さく、弁護士報酬がそのままでは低額になりそうな事件では、たしかにタイムチャージが良さそうです。でも、私の40年以上の経歴のなかでタイムチャージはやったことがありませんし、パソコンそのものが苦手なので、挑戦しようと考えてもいません。
集中審理方式について、私は一般論としては賛成しますが、自分について言えば、やってほしくない審理方式です。大量の訴訟・交渉案件をかかえている「田舎の弁護士」としては、回転率を上げることが必要不可欠なのです。
弁護士の所得が一般的に低下したことは間違いないと私は考えています。しかし、東京の大企業を顧問先としている弁護士たちはアベノミクスの意思を受けて相変わらず超高景気のようです。地方の弁護士は、昔ほどはもうかってはいないというレベルではないのでしょうか・・・。一定年齢以上の弁護士は、そこそこの収入を確保していると考えています。
そして、国民一般の弁護士に対するイメージの低さには驚かされます。「大企業の味方」、「金持ちの味方」、「国・行政の味方」とあります。
弁護士自身は、私も含めて、弁護士イメージは、社会的弱者や少数者の味方であるとしています。このギャップは埋める必要があるように思います。
学術書なので、仕方のないことなのでしょうが、これで5000円は高いと思いました。
(2015年2月刊。5000円+税)
2018年3月12日
決断
著者 大胡田 誠 ・大石 亜矢子 出版 中央公倫社
全盲のふたりが、家族をつくるとき。全盲の弁護士と同じく全盲のピアニストが出会い結ばれて二人の子どもをもうけ、家庭を築きあげていく過程が語られています。
実際には毎日、大変な苦労があったことと思いますが、読み手の心を重くするどころか、ああ、人生って、こんなに素敵な出会いがあるんだねと、何かしら明るい希望をもたせてくれる爽やかなワールドへ誘ってくれます。
ちょうど花粉症の症状が出はじめていた私は、電車のなかで読みながら、目と鼻から涙なのか汁なのか分からず水様性のものがポタポタ垂れてきて、周囲に変なオジさんと思われないようにするのに必至でした。
妻は、出生したとき1200グラムの未熟児度。そのため、保育器に入れられ高濃度の酸素を与えられて網膜が損傷して失明した。光を認知できないので昼と夜が逆転してしまうことがある。昼も夜もない世界に住んでいるので、深夜を昼間と勘違いして深夜の3時ころ、靴音の違いを知ろうと遊んでいたころがある。
夫は、新生児の3万人に1人にあらわれる遺伝性の先天性緑内障のため小学6年生に完全に失明した。父親は、失明する前も失明したあとも、子どもたちを山のぼりに連れでいった。弟も同じ病気で失明している。FMラジオの音を頼りに、前へ、前へと進むうちに、見えないにもかかわらず、つまずいたり、転んだりしながら、前にある障害物や危険な穴などを察知する能力を体得すること、これを父親は求めた。すごい父親ですね、すばらしいです。勇気もありますね。
夫は中学生とき、学校の図書館で、竹下義樹弁護士(京都)の『ぶつかって、ぶつかって』という本に出会います。そして、そうだ、ぼくも竹下さんのような弁護士になろうと思ったのです。竹下さんの本はこのコーナーでも紹介したと思いますが、あらゆる苦難を乗りこえる力強い呼びかけに満ちています。そして、その呼びかけに中学生がこたえたのです。夫は、5回目の司法試験で合格しました。全盲の受験生は、4日間で36時間30分の試験時間ですから、朝から夜まで試験を受けている感じ。一般の受験生は22時間30分ですから14時間も余計に長いのです。これは大変ですね・・・。29歳で合格し、今は弁護士として立派に活動中です。前の本『全盲の僕が弁護士になった理由』はテレビドラマ化させたそうですね。
耳が慣れているので、パソコンでの読み上げ速度は普通の2倍に設定している。おかげで目で文字を追うのと遜色ない早さで文章を耳で読むとことができる。たいしたものです。
読むとモリモリと元気の湧いてくる本です。負けてはおれないなと気にさせてくれます。人間の能力のすごさ、無限の可能性を実感させてくれる本でもあります。決してあきらめてはいけないということです。
これからも、お二人には無限なくがんばっていただくことを心より願います。
(2017年11月刊。1500円+税)
2018年3月 9日
憲法的刑事弁護
(霧山昴)
著者 木谷 明 、 出版 日本評論社
今や日本の刑事弁護人の最高峰の一人として名高い高野隆弁護士の実践が語られ、刑事弁護人とはいかなる存在でなければならないかが明らかにされている本です。
この本が高野弁護士の還暦を記念するものであることに少々驚かせられました。というのも、古稀を迎えようとしている私より10歳も年下になることを知って愕然としたのでした。
編集代表の木谷明弁護士は浦和地裁で裁判長として刑事法廷で高野弁護人と何回となく対峙した経緯を有しています。
高野弁護人の法延における弁論は、いずれも事件の本質を突くもので、容易に排斥することができない。主張・立証の仕方も実に巧みであった。そして、高野弁護人は裁判員裁判において、天馬空を行くがごとく、次々に無罪判決を獲得していった。
いったい高野弁護士は、他の一般の弁護士と、どこが違うのでしょうか、、、。
「一貫して本当のことを言えば、真実は必ず解明される」
これは弁護人、検察官そして裁判官に共有されている観念です。しかし、この本はそんなものは、まったくの神話にすぎず、偽計だとします。高野弁護士は見事に喝破したのです。
この本に、木下昌彦准教授が接見禁止が例外的な制度ではないとする小論を載せています。それによると、1994年までは接見禁止のついた裁判は2万件程度で、増えていなかった。ところが、1995年から増加に転じて、2003年には5万件を突破した。その後、2010年に3万6千件に減少したものの、2015年には再び4万件をこえている。
そして、接見禁止率は1995年に25,7%だったのが、2015年には37,8%となっている。接見禁止は例外的な制度ではないと言わざるをえない。かつてのような暴力団事件や公安事件だけではない。そして、第1回公判期日まで、というのも公判前整理手続に長期間かかると、接見禁止期間も長くなる傾向にある。
この本では、座談会がとりわけ読んで面白い内容になっています。高野弁護士は弁護士になって4年目にアメリカに留学し、2年間、憲法、証拠法、刑事手続法を猛勉強した。そして、アメリカで弁護士の仕事は、憲法価値によって依頼者の人間性を守る最後の砦となることだと学んだ。
わが国の刑事被告人は、裁判官による裁判を本当に受けているのか、という問いが投げかけられる世の中に、高野弁護士は日本で弁護士として再スタートした。そして、弁護士には絶望する権利はない。なぜなら依頼者にとっては弁護士しかいないからだと高野弁護士は喝破する。
「赤ん坊殺し」とされた被告人の供述調書に、出産経緯のない警察官が勝手な想像で、現実にはありえない現状を刻明に記述しているというものがあったとき、やはり出産経緯のある女性弁護士の追及は力になります。男にはまったく分からない世界ですね、、、。まあしかし、現実には、それなりにつじつまのあう供述調書を裁判官はそのまま鵜のみにすることが残念ながらほとんどです。
裁判官が公正な第三者としての立証を捨てて、検察官の後見人になってしまっている。そんな法廷を、この40年以上のあいだ、私も何度も体験しました。
高野弁護士は、法廷で次のように弁論する。
「裁判長。刑事裁判というのは、イメージや推測で行われてはなりません。刑事裁判は、証拠にもとづいて行われなければなりません。証拠を検証し、常識にしたがって判断して、被告人が訴因について有罪であることは間違いない、そういう確証がなければ、被告人は無罪でなければなりません。証拠を検証し、常識にしたがって判断して、被告人が有罪であることに一つでも疑問があったら、無罪の判断をしなければなりません。これは刑事裁判の鉄則であり、絶対に守られなければならないルールです。このルールが守られることによって、我々の自由な社会が維持されているのです」
法廷で、この真理をゆっくりした口調で、しかも明快に目の前で説かれたら、聞いている人は皆、金しばりにあったようになること間違いありません。それだけ、高野弁護士の言葉には重みというか力があります。
375貢と大部で、4200円もする本ですが、弁護士にとって一読の価値は大いにある本です。
(2017年7月刊。4200円+税)
2018年3月 3日
裁判官、当職そこが知りたかったのです
(霧山昴)
著者 岡口基一、中村真 、 出版 学陽書房
弁護士のつっこみに裁判官がボケることなく、まともに応答していますので、なるほど、そうなのか...と、つい思うところが多々ありました。若手にかぎらず、ベテラン弁護士が読んでも面白く、役に立つ内容になっています。少なくとも買って読んで損をすることはありません。
裁判官は忙しいので、訴状を読んでとりあえずの心証をとってしまう。裁判官は訴状の第一印象に、少なくともしばらくは拘束される。
たいした内容でもないのに、準備書面がやたら長いと、もうそれだけでダメ・・・。
証拠説明書は重要。裁判官は、まず証拠説明書を読んでから証拠を見る。
当事者の陳述書は証拠価値はない。それは単なる尋問のためのツールでしかない。
証人尋問の前の練習しすぎもよくない、これは言わされているなと裁判官が思ってしまう。
代理人に信頼されていない裁判官は、和解もなかなかできない。代理人とケンカしたら和解は無理。判決は書くのが大変なので、裁判官はできたら判決を書きたくない。和解のほうがいいのは裁判官の共通認識。
昔は(15年前までは)裁判所内に飲みニケーション文化があり、ほとんど毎日のように飲み会があっていた。いまは、裁判官は孤独になっている。
上でひっくり返されないように意識するというのは裁判官全員の共通認識。
岡口判事は大分出身で行橋支部長もしていました。父親は牧師です。その「要件事実マニュアル」を私が利用するようになったのは、この数年のことです。それまでは若手弁護士が身近にいましたので、利用しなくてすみましたが、今はいませんので、必携です。そしてFB仲間として、その情報発信の恩恵を受けています。
(2018年1月刊。2600円+税)
2018年3月 2日
社会の中の新たな弁護士・弁護士会の在り方
(霧山昴)
著者 司法改革研究会 、 出版 商事法務
司法改革について、失敗だったと単純に決めつける声が強くなっているようですが、それに関わった当事者の一人として、何事にもプラスとマイナスの面があるのですから、「政治改革」と称する最悪の改革に比べたら、司法改革はよほどましだと私は考えています。
「政治改革」って、結局のところ小選挙区制にしただけではありませんか。そして、この小選挙区制こそ、「アベ一強」という、まったく民意を反映しない、適正手続無視の狂暴政治をもたらした根源です。
その次の「郵政改革」だって、ひどいものでした。郵便局を民営化して、アメリカの資本が日本に入ってきて、身近な郵便局がなくなり、働く人はへとへとになるまで酷使されている現実があります。なんでも民営化すればいいっていうものではありません。国鉄民営化だって、もうけ本位でローカル線の切り捨てが進むばかりです。新幹線のホームに駅員が不在だなんて、恐ろしいばかりです。これでテロ対策を声高に言いつのるのですから、矛盾を感じます。
本題に戻ります。弁護士とは何か・・・。独立性、有用性、学識の3つが属性。他人のための奉仕を目ざし、金銭的報酬の多寡がその成功を測定する尺度とならない職業である。
弁護士の前身が代言人であることは周知のことですが、それは、江戸時代の公事師(くじし)の流れを引き継いでいること、江戸時代も明治初期も、今からすると想像を絶するほど裁判が多く、庶民にとって裁判は身近なものであり、公事師も代言人も、そのニーズにこたえていたこと、明治の代言人は自由民権運動において大活躍していたこと(この点は6頁で少し触れられていますが...)も紹介してほしかったと私は思いました。
弁護士法1条の制定をめぐって、三ヶ月章が根拠なき非難をしている(9頁)ことを知り、残念に思いました(23頁)。私は司法試験を受験するとき、民事訴訟法の基本書は三ヶ月章としていたからです(講義を受けたのは新堂幸司)。
弁護士の特質として在野精神というものがあげられます(33頁)が、では任期付公務員になったとき、また企業内弁護士にとっては、同じように通用するものでしょうか・・・。任期付公務員は、まだ200人ほどの弁護士しかいないようですが、私は、もっと多く10倍以上になってほしいと思います。少し前に国税不服審判所の担当官として弁護士が出てきて話が早くすすんで助かったことがありました。また、企業内弁護士のほうは既に1700人を突破しています。これまた、この2倍、3倍になっていいと思います。ただし、弁護士としての経験をせずにはいるのと、法廷にたったり、依頼者との打合せ・面談の苦労をせずに企業に入るのとでは、質が違うのではないかな・・・と心配はしています。その点、企業内弁護士がジレンマを抱えながら毎日仕事をしている(360頁)というのは、よく分かります。
中尾正信論文のなかに、戦前の弁護士のなかに「不良弁護士」「不正弁護士」「背任弁護士」として叩かれていたとありましたが、これは初めて知りました。弁護士が急増して弁護士の経済状況が一気に悪化し、事件屋と提携する弁護士が増えていたことまでは知っていましたが・・・。戦前には、警察官から弁護士なんかやめて正業につけと説諭されていたという涙の出るような話もありました。
私は明賀英樹論文にまったく同感です。つまり、中小企業の激減という社会構造の変化です。個人商店が立ちゆかず、商店街がシャッター通りになってしまい、小売・製造業が半減してしまったという現実は、中小企業に依拠してきた多くの弁護士の経済状態を悪化させてしまったのです。私の住む町にも、町の中心部と郊外に二つの大きなショッピングモールがあり、あとはコンビニ、ドラッグストアー、そしてコインランドリーだけになりつつあります。そうなると、家庭内の問題をめぐって法テラスを活用し、交通事故は物損をふくめてLAC(弁護士保険)を利用していくことになります。
現在、私のLAC案件は20件です。係争額は20万円からスタートします。過失割合が7対3か95対5かということで裁判にもち込むことが不思議ではありません。
法律事務所の大規模化は私も避けられない現象だと考えています。2009年に51人以上の法律事務所にいた弁護士が290人だったのが2015年には601人となり、101人以上だと1709人が2603人になったのは自然の成り行きだと思います。ただ、これが4万人になる弁護士総数に占める比率にかかわらず、弁護士会の役員に占める比重が多過ぎると、弁護士会の運営がギクシャクしてくるようになるのではないかと心配します。
各論のなかで取りあげてほしかったのは、弁護士報酬の問題です。タイムチャージをふくめて、独禁法違反と指摘されて弁護士会の報酬規準が撤廃されたあと、どのように運用されているのか、そこで何が問題になっているのか、大量のテレビ宣伝・チラシ広告の是非とあわせて究明すべき問題点があると思います。
いずれにせよ、400頁で研究成果をぎっしり詰め込んだ濃密な書物となっています。惜しむらくは、定価7000円とは、あまりに高額なので、手にとって読む弁護士はほとんどいないと思われるところです。その点だけが残念でした。
(2018年1月刊。7000円+税)
2018年2月27日
新・税金裁判ものがたり
(霧山昴)
著者 関戸一考・関戸京子 、 出版 メディアランド
私は税務署と長くたたかってきましたが、実は税務訴訟を担当したのは残念ながらそれほど多くありません。本当は、たくさんの納税者が無理・無法な課税処分に泣かされていると思います。しかし、税務署とたたかうには、本人に強烈な怒りを持続させることが必要ですし、取引先に恵まれないといけません。
税務署は反面調査と称して取引先に嫌がらせをしますし、本人への報復措置を平気でとってきます。これらを乗りこえるだけの怒りとそれを支える体制が必要なのです。この本の著者も本人に十分な怒りがあることを第一にあげていますが、まったく同感です。
著者は30数年間にわたって税金裁判を専門としてやってきました。かつては労働弁護士だったのが、今では税金弁護士へ変身したのです。その豊富な税金裁判の経験をふまえていますので、とても実践的な手引書です。
税金裁判で対峙することになる税務署(国)側の代理人は、実は裁判官が出向してきている人が多い。そして、彼らは全国的な検討会を定期的に開いている。だから、税務署とたたかって勝つためには、納税者の側も集団的議論をして検討・対応しなければいけない。税理士と共同し、学者や裁判官出身の弁護士と共同戦線を組むということが必要なのです。
とても信じられないことですが、税務署は関係書類を閲覧させても謄写は許さないという時代がごく最近までありました。法律の根拠がないというのが、その口実でした。自らは納税者の書類をさっさとコピーしたりするのに、自分はコピーを拒否してきたのです。つい最近、ようやくコピーをとるのか法改正で認められました。
また、審査請求のとき、課税庁に直接質問できるようにもなりました。私のときには一方的に主張するだけでした。税務署のなかには「納税者の権利」だなんて...と、せせら笑う人たちがいます。その典型で世間に顔を出さない佐川・国税庁長官です。
税務訴訟に至るまでの手続の流れが具体的に解説してあり、とてもイメージをつかみやすいと思います。そして、単に手続きの流れだけでなく、扱った事件でどんな苦労をしたのか、どんな成果をあげたのかも要領よく紹介されています。
たとえば、認知症の母から贈与契約について税務署が課税してきたのに対して、その無効を主張して、支払った贈与税を取り戻したというのです。すごいですね、この発想は・・・。物納許可がなかなかおりないうちに不動産の価額が上昇し、10年以上もたったあいだの未払金(延滞金をふくむ)の処理をどうしたらよいのかを争った件は、私の想定をこえる話でした。
推計課税の争い方にしても、税務署が他の人の青色申告書をなかなか開示しないのを開示させた例も紹介されていて、本当に明日からの実践に役立つことの多い本です。税金訴訟に関心のある人には必読文献です。
シャモニーなどの登山・トレッキング・ロッククライミングの写真が巻末にあるので、これには癒されます。やはり多忙のなかにも休息は必要です。
(2017年2月刊。3500円+税)
2018年2月 7日
ブラック職場
(霧山昴)
著者 笹山 尚人 、 出版 光文社新書
電通に入社して2年目、24歳の女性社員が過労自殺してしまったことは本当に心の痛むニュースでした。電通には前科があります。何度も繰り返すなんて、ひどい会社です。憲法改正国民投票が実施されたら、またまた電通は大もうけするとみられています。テレビ番組の編成を事実上、牛耳っているからです。アベ改憲と手を組んで日本を変な方向にもっていきかねないので、ますます心配です。
それはともかくとして、なぜブラック職場が日本社会からなくならないのか、本書はその根源をたどっています。
労働事件を担当して、たくさんの経営者と接してきたが、個々の経営者は、それぞれ普通の人間であり、他者の人生を平気で切り捨てることに何ら痛痒を感じない人には見えないことが多い。つまり、経営者個人が悪質な人間だというのではなく、そうした経営者が動かす企業体が組織の論理で利益を追求するという価値判断を行ったとき、人の人生を押しつぶすことをいとわなくなる。
資本主義の世の中では、企業はとにかく無限に利益を追求する。したがって、事業の運営を人が理性をもってきちんと制御しないかぎり、利益の追及は無限の欲求となってたちあらわれてしまう・・・。
職場に労働契約が根づいておらず、労働組合が有効に機能していない。そもそも労働組合が存在しないところが多い。労働法が労働者を保護するために存在するということを知らず、考えたことのない労働者は多い。
著者は「やりがい搾取」というコトバを使っています。私は初めて聞くコトバでした。
仕事自体はとてもやり甲斐のある仕事。それを日々感じることができる。だから、給料が安くたっていいじゃないか、サービス残業が多いからといって問題にしなくていいじゃないかという考えで経営者があぐらをかいている。そのため長時間労働の問題にメスを入れず、長時間の拘束にきちんと対価を支払おうとしない。これを「やりがい搾取」という。なるほど、ですね。
「やりがい搾取」の本質は、「やりがい」を隠れ蓑にして、使用者が法律上そして契約上果たすべき責任をとらないことにある。
最近、裁判所で解雇事件についての解雇の正当性のハードルが以前に比べて下がってきているようだ。つまり、解雇しやすくなっている。
これは私の実感でもあります。やはり非正規雇用があたりまえ、ありふれた世の中になっていますので、クビのすげかえなんて簡単にできるものという風潮が社会一般にあって、裁判官もそれに乗っかかっているのです。
この本で労働基準監督官が全国に3000人しかいない、本当は現場に出る人が5000人は必要だと指摘していますが、これまたまったく同感です。
労働基準法違反は犯罪だという感覚を日本社会は取り戻すべきで、そのためにも労働基準監督官の増員が必要なのです。
ブラック職場をなくすためには労働法の規制を強化すべきですが、いまアベ内閣はますます規制緩和しようとしています。残業時間の規制をゆるやかにし、解雇の自由をおしすすめようとしています。
若者を職場で使い捨てするような社会に未来はありません。安定した職場で、まっとうな賃金をもらって安心して働ける条件をつくり出す必要があります。
本書は職場の実情の一端を紹介するとともに解決策が示されています。若い人にも、中高年にも、ぜひ読んでほしい新書です。
(2017年11月刊。780円+税)
2018年2月 1日
転落自白
(霧山昴)
著者 内田 博文 八尋 光秀、鴨志田 祐美 出版 日本評論社
「日本型えん罪」は、なぜうまれるのか、というサブタイトルのついた本です。
現実にあった間違った裁判のほとんどで、やってもいない人が「自白」をしています。この本は、やってもいない犯行を「自白」してしまうカラクリを明らかにします。
この本の面白いところは、まず、やってもいない人が「自白」する流れを、一つの話としてまとめたところです。なるほど、無実の人がこうやって「自白」させられていくのが、読み手がぴんと来る仕掛けです。
次に、実際にあった足利事件、富山氷見事件、宇都宮事件、宇和島事件を取りあげて問題点を解説します。警察官も検察官も、裁判官も、さらに弁護士までが、やってもいない「ウソの自白」を「ホントの自白」だと信じた。ところがひょんなことから、無実だと判断した。
死刑判決が言い渡された事件でも冤罪事件はあった。免田(めんだ)事件、財田川(さいたがわ)事件、島田事件そして松山事件の4つ。死刑判決でも間違っていた。あやうく死刑が執行されそうになった人が少なくとも4人はいるのです。
いま、飯塚事件が問題となっています。死刑が確定して執行されてしまった人が無実だったのではないかという事件です。これは、そんな古い話ではありません。今でも、日本のどこかで無実なのにぬれ衣を着せられて泣いている人がいるかもしれないのです。
調書を中心とする供述分析は、世界中を見渡しても日本のほかには、あまり行われていない。日本の裁判は調書にもとづいてなされている。
取り調べ場面を録音か録画されるのは、アジアでは韓国、台湾、香港ですでに実施されている。しかし、日本では、依然として取り調べ場面の全面的な可視化は実現していない。
DNA鑑定の古いものは足利市の人口にあてはめると、同じ型の人が男性でも、100人もいるというレベルだった。ところが、新鑑定では、型が一致する確率は4兆7000億人に1人である。地球人口が70億人だとされているので、地球上に型の一致する別人はいないということを意味している。
供述調書の心理学的特性を究明する試みも紹介されています。
犯行供述に被害者が不在であるという特徴のある供述調書は、体験記憶にもとづいて供述していると評価することは困難。
逮捕されたら、全生活を他者のコントロール下に置かれてしまう。食事、排泄、睡眠という基本的生活まで他者に支配され、自分が自由にできる範囲が大きく限局される。その結果、自己コントロール感を失う。誰も自分の無実を信じてくれる人がいないとの絶望感は、もはや無実を主張する気力を奪ってしまう。警察で認めたのに、検察庁や裁判所で否認すると厳しい取り調べをする怖い人にもどってしまうことを何より恐れる。
裁判官には、検察そして警察に対する仲間意識がある。裁判官は独立しているために孤立しがちである。
えん罪を日本からなくすために頑張っている若手弁護士との学者が、その勢いをもって書き上げた本です。広く読まれることを願います。ご一読ください。
(2012年7月刊。1900円+税)