弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦後)
2010年6月22日
政党内閣の崩壊と満州事変
著者:小林道彦、出版社:ミネルヴァ書房
戦前、軍部が一枚岩でないどころか、内部では熾烈な抗争が絶え間なかったこと、政党も軍部と結びついていたことなどを知りました。本格的な研究書ですから、理解できるところを拾い読みした感じですが、それでも得るところ大でした。
これまで上原勇作派の実態は過大評価され、その反対に政党政治の発展に陸軍を適合させていこうとした桂太郎─田中義一─宇垣一成という軍政系軍人の系譜は過小評価されてきた。しかし、政党政治の全盛期には、陸軍すら、政党に順応しようとしていた。
山県有朋の死後、陸軍では長州閥(田中義一)と上原派との対立が表面化した。
上原は、陸軍きっての「進歩派」であり、自らもフランス語に堪能だった。つねに列強の近代軍に関する最新の軍事情報の収集に努めていた。上原こそ、陸軍の近代化の急先鋒だった。
1920年代の日本陸軍では、軍政(陸軍省)優位の陸軍統治が実現しており、参謀本部は事実上、田中―宇垣のコントロール下に置かれていた。
1921年10月、陸軍省で開かれた会議で議論されたのは、日本の兵器生産能力と戦時40個師団という兵力量とのギャップだった。参謀本部が作戦上の観点から40個師団にこだわっていたのに対して、陸軍省は武器弾薬の補給能力の観点から、それに待ったをかけた。陸軍省の指摘によれば、40個師団という大兵力に満足な武器弾薬を補給するのは、当時の日本の工業能力ではきわめて困難だった。
これに対して、参謀本部が40個師団にこだわったのは、40個師団あれば、長江流域のある程度、つまり漢口・武昌付近まで手をのばせるからというものだった。
参謀本部は軍隊の質的向上よりも戦時総兵力の多い方を望み、陸軍省は総兵力を多少削ってでもその質的向上を追及した。作戦計画の立案をつかさどる参謀本部は、運動戦・短期決戦志向が組織原理として刻印されている。政治や経済との接点に位置する陸軍省は、どうしても戦争の長期化を考慮せざるをえない。陸軍省は量より質の軍備整備に傾いていったのは、その組織原理によるものであった。
陸軍がとくに強い関心を寄せていたのは鉄資源の確保であった。第一次大戦の大量弾薬消費・大量人員殺傷の現実は、田中義一をはじめとする陸軍指導部に衝撃を与えた。その結果、彼らは、揚子江中流域の大冶鉄山からの鉄の安定供給を重視するようになった。ところが、やがて、満州の鞍山が鉄資源供給先として脚光を浴びるようになった。
1925年(大正14年)4月、田中義一が政友会の総裁に就任した。田中義一は在郷軍人会の創始者として、その300万人会員をあてにできた。また、政友会は、陸軍との間に強力なパイプを確保できる。田中にしてみれば、政党勢力と陸軍を一身でコントロールするという桂太郎はもとより山県有朋や伊藤博文すらも構築できなかった政治権力を自らの手に握ることを意味していた。
山県は官僚制と陸軍をほぼ完璧に掌握していたが、自ら政党組織に乗り出そうとは思わなかった。伊藤は自ら創設した立憲政友会の運営に苦しみ、ほどなく枢密院に祭り上げられてしまった。また、憲法体制の修正による内閣権限の強化を目ざしたが、山県の反発によって失政に終わった。桂は、新政党を自ら組織して利益誘導型の政党政治を刷新し、山県と陸軍を押さえ込む新たな政治構造を創出しようとしたが、明治天皇の急逝と世論の無理解によって、失意のうちにこの世を去った。
つまり、日本憲政史上、政党勢力と陸軍を同時に直接コントロールできた権力者は一人もいなかった。田中義一は、自らにならそれは出来るし、機もまた熟していると考えていた。政友会総裁に就任したときの田中義一は、自信と野望にみちあふれていた。
ところが、田中の政治力は、陸軍方面では比較的に安定していたが、肝腎の政友会方面では、きわめて不安定だった。
張作霖暗殺のとき、田中義一のやり方に不信感を抱いていた昭和天皇は、田中外交の協調的側面をまったく理解できなかった。天皇は、「支那赤化」の脅威を田中ほど深刻には考えていなかった。
事件の調査結果について参内し上奏した田中義一は、昭和天皇から、前と内容が変わっていると厳しく叱責され、ついに内閣総辞職に追いこまれた。
天皇側近は、事態が宮中と陸軍との正面衝突に発展することを危惧していた。
多年、反政友会勢力の中心に位置していた犬養は、田中義一以上に党内権力基盤は薄弱だった。
天皇は常日頃から、丹念に新聞を読んでいて、軍政改革問題にはとくに大きな関心を払っていた。
天皇側近グループ、とりわけ牧野や鈴木、一木らに対する平沼系や皇道派の怒りは深く静かに進行していた。「君側の奸」から「玉」は奪還されねばならない。平沼らのイメージでは、天皇は牧野を中心とする側近グループと民政党によって籠絡されているのだった。
関東軍は、鉄道沿線を離れては行動できない軍隊だった。後方補給部隊を完全に欠いていた。関東軍は、鉄道輸送に大きく依存した、野戦のできない野戦軍であった。鉄道戦争しかできなかった。
武器・弾薬の補給も実は十分でなく、第二師団は、しばしば中国側の遺棄兵器を利用して作戦を継続せざるをえなかった。ところが、皮肉にも、その多くは、三八式歩兵銃などの日本製武器だった。
北満の酷寒に日本馬は適応できず、多くの満州馬を現地調達して作戦をすすめた。
満州国の成立は、本来、犬養の望むところではなかった。陸軍省では、永田鉄山軍事課長が中心となって、関東軍の独走を阻止しようとしていた。
上海事変のとき、天皇は心労のあまり動揺はなはだしく、側近の目にも日々憔悴の色を濃くしていた。思いつめた天皇は御前会議を開いて時局を収拾しようと考えた。
国務と統帥の分裂を眼前にして、肝腎の天皇が精神的に追い詰められてしまった。天皇は上海の戦争を心配するあまり、深夜に鈴木侍従長を宮中に呼び出したり、夜もおちおち眠れないような有様だった。
戦前の日本の当局内部の実情の一断面が鮮やかに切り取られていて、深い感銘を覚えました。
(2010年2月刊。6500円+税)
2010年6月16日
在郷軍人会
著者:藤井忠俊、出版社:岩波書店
戦前の日本の実情を深く知った気になりました。在郷軍人会というのも決して一枚岩ではなく、矛盾にみちみちた存在であったようです。
1910年(明治43年)に発足した在郷軍人会は最盛時には300万人に及ぶ会員がいた。しかし、会員に軍服の着用をすすめても、軍服を着た会員はほとんどいなかった。軍服を着た市民があふれたのは戦後日本の平和な社会であった。個々の在郷軍人は軍服を着たがらなかったのである。ただし、米騒動で騒動の先頭に立った者が軍服姿となり、また、神戸の造船所での大ストライキのとき、労働者側の在郷軍人が軍服を着て市中をデモンストレーションして人々を驚かせた。デモクラシーの波が、この皮肉な反抗を演出した。
日露戦争のとき、日露両軍が全兵力を投入した大会戦の戦い方を通して、将来の戦争と在郷軍人の関係に気づいた軍人の一人に田中義一がいる。
その実戦の中で、常備師団に比べて後備師団は弱い。しかし、今後の戦争は在郷軍人が主体になる。なぜなら、来るべき戦争は総力戦であり、現役兵だけでは絶対に兵力が足りない。数倍の在郷軍人が召集されなければならない。それは補充のレベルではなく、従来の後備師団が逆に主体にならなければならないというものだ。そのためには訓練と戦意が大切であり、国民の支持が絶対要件である。田中義一は、在郷軍人会の組織と経営に熱意をもった。
在郷軍人会は会費収入を期待できなかった。軍隊生活を除隊した経歴の在郷軍人には、心底から貧乏くじを引いた思いがある。表面上、いかに光栄ある国家の干城と言われても、入営中、出陣中の家計・生活上のマイナスはたしかなこと。したがって在郷軍人会が成立しても、事業にみあうような会費を出してまで会員になる在郷軍人は、まずいない。当初から、町村の有志の援助をあてにした集団だった。
日露戦争後、帰郷した在郷軍人のモラルにはよい評価を与えられなかった。兵隊あがりという蔑称さえつけられた。そして、在郷軍人の半数以上が一種の詐欺的行為にあり、委任状を渡して年金を他人にとられていた。
米騒動(1918年、大正7年夏)に参加した在郷軍人は多く、刑事処分を受けた人の
12.1%を占めた。このことに在郷軍人会は驚愕した。工場でのストライキ、そして農村で起こった小作争議でも指導層にも在郷軍人が多かったからだ。騒動や争議は社会不安につながったが、下層民の社会的力量を押し上げもした。在郷軍人は、広く考えると、この下層民の押し上げにも乗っていた。
在郷軍人という基盤の上に立った在郷軍人会は、当時の組織された民衆としては最大のものであり、普通選挙が実施されたら最大の選挙民になる可能性があった。この大正デモクラシーに対しては、軍全体で、その風潮に対抗する措置がとられた。それほど大正デモクラシーは、在郷軍人にも大きな影響を及ぼした。在郷軍人会自体も民主化に対応しなければならなかった。
在郷軍人会本部が大正末期につくった悪思想退治のレコードを紹介します。野口雨情の作詞、中山晋平の作曲です。
狭い心で世の中渡りゃ、マルキシズムにだまされる。マルキシズムにだまされりゃ、可哀想だが心が腐る。
なんと恐ろしい偏向した歌でしょう・・・。怖いですね。
日中戦争の大動員が始まると、質的にも量的にも、国防婦人会の役割が急上昇した。出征兵士の見送り行事には決定的な役割を果たし、不可欠の要素となった。
作戦本位の軍部も、国民の支持に頼らなければならなかった。国防婦人会の見せるパフォーマンスの威力は、日本全国をゆるがせた。これは軍部の予想しなかったことであり、慌てた。
逆に、在郷軍人は、もはや銃後の構成員とは言えなくなった。大動員によって、在郷軍人会の社会的活動は大幅に後退せざるをえなくなった。
1937年中に動員された兵士は93万人に達した。現役兵は33万6千人に対して、開戦後の召集兵は59万4千人。これらの召集兵は、充員召集であれ赤紙召集であれ、在郷軍人である。
日中戦争では、たしかに在郷軍人の大量動員で数量的には在郷軍人が主体となった。しかし、出来上がった形に軍は動揺した。在郷軍人の質が問題だ。特設師団は戦闘主力として使えるのか。未入営補充兵をどのように訓練して戦闘にまにあわせるのか。当惑が渦巻いた。
特設師団は編成・素質不良にて、訓練の時間なく、幹部の死傷者が多いのは、近接戦闘において自ら先頭に立たないと兵が従わないため。
日中戦争途中の帰還兵を待っていたのは、きわめて冷たい出迎えだった。派手な出迎えはしない。歓迎会は禁止、楽隊は絶対禁止。軍紀を基準にした言動調査で、盛り上がりつつある銃後の戦意昂揚に水をさすような実践談をされては困るのだった・・・。
戦場の実態について、美談や大和魂でしか伝わっていない国民のなかに、戦場の実態が赤裸々に語られるマイナスが当局の心配事になった。戦場における兵たちの軍紀の乱れを国民に知られないようにする必要があった。
1941年(昭和16年)の関特演(関東軍特殊演習)による秘密動員については、暗い秘密動員として記憶された。つまり、夜中に誰にも気づかれないように普段着を着て、召集場所に集まるようにとのことだった。この秘密大動員は、軍に士気の衰えを感じさせた。高揚するかと思われた国民の気持ちを萎えさせるように働いたのだった。
在郷軍人会は、徴兵制を維持し、国民の支持を得るための最大の地域組織だった。
十分に本書を理解できたという自信はありませんが、読んでいて、とても納得感のある本でした。
(2009年11月刊。2800円+税)
2010年6月 8日
トレイシー
著者:中田整一、出版社:講談社
日本軍の将兵は捕虜になるな、死ねと教えられてきた。ところが、戦場では「不覚にも」捕虜になる事態が当然ありうる。捕虜になったときに、敵に対していかに対処すべきか教えられたことのなかった日本の将兵は実際にどう対処したのか・・・。本書は、その実情を明らかにしています。要するに、日本の将兵はアメリカ軍の尋問に心を開いて、軍事機密をすべて話していたのでした。
もちろん、これにはアメリカ軍による盗聴を生かしながら尋問するなど、テクニックの巧妙さにもよります。しかし、それより、無謀な対米作戦の愚かさを自覚したことによる人間として当然の本能的な行動だったのではないかという気がしました。
つまり、こんな愚かしい戦争は一刻も早く終わらせる必要がある。そのために役立ちたいという心理に元日本兵たちは駆られたのではないでしょうか。
アメリカ軍は日本の将兵を捕虜にしたあと、カリフォルニア州内の秘密尋問所に閉じこめて、といっても虐待することなく、供述を得ていき、それを戦争と終戦処理に生かしたのでした。
捕虜たちを一人ずつ直接尋問する。そのあと、他の捕虜たちと自由に交わることを許す部屋に移す。そこには隠しマイクを設置しておき、別室で会話を聴く。捕虜は初対面だと、尋問で経験したことをお互いに話し合い、情報を交換し、それについてコメントする。ただし、盗聴はジュネーブ条約違反なので、厳重に秘匿された。ちなみに、スガモ・プリズンでも、アメリカ軍は盗聴していたとのことです。
アメリカ軍は日本語を習得する将兵を短期養成につとめた。ただし、海軍は日系アメリカ人を信用せず、白人のみだった。これに対して陸軍は、日系アメリカ人も活用し、終戦のころには、2000人にもなっていた。
尋問では丁寧語は使わず、なるべく相手に威圧感を与える日本語を使った。勝者と敗者の立場を明確に認識させる必要があった。
手だれの尋問官であればあるほど、乱暴な尋問は捕虜のプライドを傷つけ、口を閉ざし、かえってマイナスになることを十分に心得ていた。尋問では、侮辱や体罰や脅しはほとんどなされなかった。
捕虜となった日本の将兵は、自分が捕虜になったことを故郷に通知されることを望まなかった。自らの意思で、祖国や家族との絆を断ち切った。
トレイシーと名づけられた尋問所に2342人の日本人捕虜がいた。
太平洋艦隊司令官ニミッツ大将が1943年12月27日にトレイシーを訪問した。その重要性を認識したあと、さらに強化された。
1945年4月、新国民放送局として、日本へ向けてのラジオ番組が始まった。30分足らずの番組だったようです。こんなトーク番組があったというのは初耳でした。どれだけの日本人が聞いていたのでしょうか、知りたいものです。
日本人の戦前の実情を知ることのできる、いい本でした。
(2010年4月刊。1800円+税)
2010年4月21日
ノモンハン事件
著者 小林 英夫、 出版 平凡社新書
今から70年前の1939年、満州国とモンゴルの国境線上にあるノモンハンで、日本軍とソ連軍が戦い、日本軍は壊滅的な敗北を蒙った。
日本にとって、航空機や戦車が戦場を駆け巡った最初の近代戦であった。このとき、圧倒的な物量を誇り、爪の先まで鋼鉄で武装したソ連・モンゴル軍を前にして、肉弾で対抗した日本軍は粉砕されてしまった。
1939年時点で、ソ連を100とした時の日本軍の兵力は、師団数で37、航空機で22、戦車で9に過ぎなかった。
ソ連軍にはスターリンの大粛清の嵐が吹いていて、指揮系統は一時的に不能な状況にあった。しかし、ジューコフ元帥は健在だった。ところが、関東軍は、スターリンの大粛清によって、ソ連軍・モンゴル軍が弱体化していて、一撃で打倒できると踏んでいた。つまり、ノモンハンにソ連は大軍を繰り出すことはできないと想定していた。関東軍にとって、ノモンハンは200キロの地点にあるが、ソ連にとっては750キロも離れているので、輸送力の点でも関東軍が圧倒的に優位だと考えていた。
しかし、ジューコフ司令官の指揮するソ連軍は、兵力的に日本の1.5倍、砲は2倍、戦車・装甲車で4倍の兵力を集めていた。ソ連軍は、軽戦車に代わる中戦車の投入と火炎放射戦車の登場で、日本軍陣地を蹂躙し、焼き尽くした。
航空線でも、ソ連軍が日本軍を圧倒した。量的に優れていただけでなく、ソ連の航空機には防御についていろいろ改善され、戦法においても日本の得意とする格闘戦を避け、一撃離脱戦法が一般化するなど、質的向上を遂げていた。
ノモンハンにおける日本軍第24師団の死傷率は、兵員1万5975人のうち、死傷・行方不明ふくめ1万人以上と、消耗率は7割を超え、ほぼ全滅状態となった。
そして、ソ連軍に捕虜となった日本兵は、帰還したあと、軍法会議にかけられ、将校には自決勧告、下士官兵には免官、降等、重謹慎、重営倉となった。
こんなむごいことはありませんよね。日本軍が人間の生命をいかに軽んじていたか、良く分かります。そして、日本軍はこの重大な敗北から何も学ばないまま、太平洋戦争に突入していき、さらに大きな過ちを繰り返したわけです。たとえ悲惨な過去であっても、目を閉ざすわけにはいきません。
(2009年8月刊。760円+税)
2010年4月 6日
阿片王
著者 佐野 眞一、 出版 新潮社
満州そして中国で日本が何をしたのか。そこでうごめき甘い汁を吸っていた人間が戦後の日本で素知らぬ顔で政財界などでのさばっていた、なんていうことを知ると、背筋に虫酸が走ります。つくづく日本って嫌な国だなと思います。そんな史実には目をつぶったらいいんだよというのが、例の自虐史観です……。でも、そんなわけにはいきませんよね。
生アヘンには、平均8~12%のモルヒネがふくまれ、これが人間の神経を麻痺させて、肉体的苦痛を鎮静させる。アヘン煙膏を吸引すると、モルヒネの麻薬作用で、あたかも桃源郷に遊んでいるかのような幻覚に襲われる。
ペインは、無色の結晶状のモルヒネを加工し、純度を上げたもの。
アヘン中毒者は共通して、果物が猛烈に欲しくなる。
アヘンが厄介なのは、性欲という人間の本能と分ちがたく結びついていること。アヘン常用者の性交時間の調査によると、最高17時間も陶酔感にひたっていた。その結果、男は精力を使い果たして腹上死する例が多かった。
日本は幕末以来、アヘンを国家の厳重な管理下に置いた。日本がアヘンを禁制品としたのは、亡国に直結する隣の中国のアヘン禍に衝撃を受け、これを反面教師としたから。
そして、それを承知の上で日本は、アヘンを中国に売り込んでいった。中国の奥地に日の丸の旗が翻っていたが、それはアヘンの商標だった。関東軍が中国の熱河に侵攻したのは、実はアヘン獲得作戦だった。
日本軍は満州から金塊数十個、時価にして数百億円を上海に運び込み、これでペルシャ阿片を輸入した。
ペルシャ産アヘンの海上輸送には危険がともなったため、日本の外務省と軍の保証がなければ不可能だった。上海には、常に阿片を必要とした人間が人口の3%、実数にして十万人いた。
里見甫はアヘン取引で莫大な利益を上げ、軍の情報工作に欠くべからざるものとなった。アヘン売買による利益は日本の興亜院が管理し、3分の1が南京政府の財務省に、3分の1がアヘン改善局に、残りの3分の1が安済善堂に分配された。
アヘン王の里見がGHQから起訴されなかったのは、当時の国際状況の生み出したパワーポリティクス力学が複雑に絡んでいる。里見が極東国際軍事裁判で裁かれることになれば、その過程で「戦勝国」中国の阿片との深いかかわりが必然的に明るみに出てくる。そうなると蒋介石政権も無傷では済まなくなる。蒋介石の率いる国民党軍の資金の少なからぬ部分がアヘンによってまかなわれていたことは、いわば公然の秘密だった。
アヘン売買は割のいい商売だった。アヘン1両が内蒙古で20円、天津で40円、上海で80円、それがシンガポールでは160円に跳ね上がった。
日本軍は南京攻略後、南京市財政の立て直しのためにアヘン売買を利用した。そのおかげで、たちまち南京市の財政は好転した。
里見の前では、東条英機も岸信介も頭が上がらなかった。佐藤栄作も同じで、頭が上がらなかった。うひゃあ、恐ろしいことですね。戦時日本の首相を務めた兄弟が、中国で飽く逆の限りを尽くしたアヘンのおかげを蒙っていたとは……。アヘンは中国の人々をダメにしただけでなく、その経済もめちゃくちゃにしたのですから、責任は極めて重大です。こんな事実を覆い隠そうと言うのは、間違っています。やっぱり、悪いことはきちんと糺されなければいけません。青臭いと言われるかもしれませんが、私は本心からそう思います。皆さんは、どう思いますか?
440頁もの労作なので、いくらか、冗長すぎる気はしました……。すみません。でも、労作です。
(2005年9月刊。1800円+税)
2010年3月24日
軍艦島(上)(下)
著者 韓 水山、 出版 作品社
崎戸島(三菱崎戸炭鉱)は幽霊島、高島(三菱高島炭鉱)は白骨島、端島(三菱端島炭鉱)は地獄島と呼ばれた。端島はその形格好から軍艦島とも呼ばれた。
朝鮮人の皇民化教育を推進するなかで、朝鮮人を半島に居住する日本国民と定め、朝鮮人を半島人と呼ぶようになった。
三白一黒一青という言葉があった。日本が朝鮮から持っていこうとしたものである。三つの白いものは、朝鮮の米と絹、綿花だ。黒いものは海苔、青いものは竹である。日本は朝鮮からこの 三白一黒一青を全て奪い、持ち去った。
端島には、9階建てアパートが65棟も建っていた。この地獄島と言われる端島から逃亡した朝鮮人がいました。もちろん失敗して亡くなり、あるいは刑務所に入れられた人も少なくありません。逃亡しても、言葉の壁があるため、日本で自由に生活できるわけもありません。逃亡者の一人が長崎の造船所で働けるようになったのは、偶然といってよいほどの幸運でした。
軍艦島では、売春宿まで三菱が直営していた。小さな島でしかないため、鉱夫が孤立して生活せざるをえない。ほかの炭鉱なら周辺の民間人が金もうけにやっている娯楽福祉も、ここでは会社が整えてやるしかなかった。その一つが売春と賭博だった。会社は娼婦を雇用し、売春事業の遊郭を直営にした。森田屋、本田屋、そして朝鮮人が経営をまかされていたこともある吉田屋という三軒の店があった。働いていた女性は1軒に9人、全部で27人だった。
長崎に原爆が落とされた瞬間を目撃した人もいます。
目を開けると、あたり一面、火の海だった。燃え上がる炎は、太陽の下で黄金色に光っていた。周りには人影すらなかった。ピカッと光った瞬間、周囲は燃えあがる炎と化し、その炎がうねり、あらゆるものが狂ったように揺さぶられた。そして、どこからか地鳴りのような音が響いてきた。
長崎には、昭和20年7月までに375人の捕虜がいた。彼らは朝6時から夜7時まで工場で働かされた。暖房のないバラックは、耐えられないほど寒い。冬の終わるころには、捕虜の4分の1にあたる、125人が肺炎で亡くなっていた。
原爆にあった朝鮮人は母国語で泣き、うめいた。
救護隊の日本人は、アイゴー、オモニーと泣き叫ぶ朝鮮人は決して病院に運ばなかった。朝鮮語を話す者には水も食料も与えなかった。防空壕からでさえ、追い出された。そして、遺棄された朝鮮人たちは、崩壊した建物のガレキの下で死んでいった。最後まで取り残された死体も朝鮮人だった。一見、日本人と見まごうが、千切れた服から朝鮮服だと分かったり、アイゴー、オモニーという呻き声を聞いたりして救護隊は区別していた。
端島炭鉱に朝鮮で「募集」された朝鮮人労働者が働くようになったのは1918年(大正7年)5月からである。このとき、端島炭鉱に70人が就労した。1939年(昭和14年)には総動員体制の確立ともに、朝鮮人労働者の「募集」は微用となり、強制連行に等しくなった。
端島炭鉱をふくむ炭鉱に4000人の朝鮮労働者が微用されていた。
軍艦島が観光ブームで脚光を浴びていますが、このような過去はもっと知られるべきではないでしょうか。
(2010年1月刊。(2400円+税)×2)
2010年1月19日
在日一世の記憶
著者 小熊 英二・姜 尚中、 出版 集英社新書
780頁もある新書です。とても新書とは思えない異例の厚さです。もちろん中身もぎっしり詰まっています。
「在日」の人たちの生きざまを知ると、戦前・戦後の日本の実像が見えてくる思いがしました。この本には、52人もの在日コリアン一世のライフ・ヒストリーの聞き取りが収録されています。あとがきを読むと、膨大な分量だったのをぐっと減らす作業はかなり大変だったようです。私も弁護士の講演録を編集したことがあります(今もしていますが……)ので、その大変さはよく分かります。話し言葉は冗長になりやすいので、それを読みやすいように要点に絞って削っていくのです。
「在日」一世たちは、明らかに日本社会における「異物」であったが、現在の三世・四世の在日は、言語的・文化的に日系日本人と差異はない。日系日本人との通婚率も高くなり、国籍法が男女両系主義に変更されて以来、生まれる子どもは日本国籍になる可能性も高まっている。したがって、在日六世・七世という存在はありうるが、ごく少数でしかないのではないか。しかし、今後とも「在日」は存在し続けるだろう。
1952年のメーデー事件のときに、人民広場の決起大会に参加した。日本共産党が始動したが、デモの最先頭にいた人々はほとんど在日だった。ええーっ、そうだったんですが……。私は、「ナンジ臣民、飢えて死ね。朕はたらふく食っているぞ」とプラカードに書いて不敬罪で捕まった松島松太郎氏を知っています。
日本にパチンコが一番はじめにできたのは新潟。新潟の人が栃木県に来てすすめるので始めた。パチンコには、韓国人・朝鮮人を問わず、血を流した歴史がある。今はそうじゃないけど、当時はお金があるから、土地があるから、出来るという商売ではなかった。どの町でもヤクザと喧嘩して、それでパチンコを守ってきた。殺された人もいるし、命がけだった。
北朝鮮に1983年をふくめて、もう3回行った。行ってみて、ああ、こんな社会主義があるかと思った。こうしようと思って、こんなに苦労してきたのか……。上と下の差がすごい。体制だ。上の人はそれこそ天国。下の人は地獄。貧富の差っていうもんじゃない。それで総連をやめて民団に移った。
タイにある俘虜収容所には1万1000人の俘虜がいた。これを日本下士官17人と130人の朝鮮人軍属で管理する。朝鮮人軍属のうち148人が戦犯になり、23人が死刑を宣告され、現地で処刑された。
朝鮮高級学校の教員生活をしていたので、卒業生に謝らなければならないことがある。一つは、全世界をキムイルソンの主体思想に一色化するというイデオロギーを掲げ、押しつけたこと。二つには、キムイルソンだけを将軍とし、自分の国の歴史と地理をきちんと教えなかったこと。
なるほどですね。歴史を偽って子どもたちに教えてはいけませんよね。それは、今の日本で自虐史観とかいって、日本の戦前の侵略戦争を引き起こした事実を認めない誤りと根は一つだと思います。
四・三事件は、無残な敗北だった。しかし、四・三事件は不正を認めない、祖国分断を許さないという民衆のエネルギーから起きたのだ。四・三事件では、南労党(南朝鮮労働党)の済州島軍事委員会が武力抗争の核になっていたのは事実だ。しかし、民衆が軍事委員会に呼応したのは、呼びかけがあったからだけではない。アメリカに対して恨みが一杯あったんだ。当時の民衆は、山に入って武装した南労党の部隊が自分たちの思いを晴らしてくれると信じていた。
憲法改正や自衛隊派兵の理由として、「北朝鮮の脅威」を挙げるのはガセネタに過ぎない。これはまったく同感です。
大変な労作です。多くの人に一読をお勧めします。
私が子どものころ、近所に朝鮮人部落がありました。ときどき警官隊がドブロク密造を検挙するため、そこに出動していると聞いていました。
(2008年10月刊。1600円+税)
2010年1月 6日
昭和20年夏、僕は兵士だった
著者 梯 久美子、 出版 角川書店
この本で紹介されている三国連太郎の話には驚きました。彼は大正12年(1932年)生まれで、召集されます。しかし、その前に日本を逃げ出すのです。
鉄砲を持たされて人を撃つのもいやだし、自分が殺されるのもいやだ。徴兵検査には合格したけれど、入隊するのは何としても免れたかった。それで、とにかく逃げよう。逃げるんなら、大陸がいいんじゃないかと、中国にわたり、朝鮮・釜山に行き、また日本に舞い戻ってきた。そして入隊通知が実家に来ているのを知り、九州・唐津へ逃げ、そこで特高警察に捕まった。
刑務所には入られず、すぐに入隊させられて中国戦線の戦地へ送られた。入院したりしているうちに幸いにも終戦を迎えて日本に戻ってきた。
戦争の中では美しい人間も美しい出来事も一度も見なかった。
戦争で死ななかったことより、戦後、いろいろなことを偽って生きてきたことの方に負い目がある。人を利用し、便乗し、嘘をつき、そんなふうに生きてきた。
俳優になってロケで地方に行くことがあるが、昔の自分を知っていそうな所に行くのは怖い。正直、今でもそんなところがある。
こんな自分の体験を率直に語るのですから、やはり正直な人だと私は思います……。
別の人の話です。レイテ沖海戦で戦艦に乗っていた人です。
陸の戦いでは寝泊りしている場所と戦場は普通は別である。生活の場を離れて出陣していくわけだ。しかし、海の戦いでは、そこで眠り、飯を食った場所に何時間か後には遺体が散乱し、負傷者が横たわっているという状況になる。生の営みと死とが、同時にそこにある。このレイテ沖海戦で、まさにそんな体験をした。そうなんですね、海上では逃げるところがありません。
もう一つ。これも船に乗っていて、アメリカ軍に沈没させられた人の話です。
もう駄目だと思ったとき、ズタズタに切れたクレーンのワイヤーロープが何本もぶらさがっているのに気がついた。思わず、そのうちの一本にとびついた。うまく捕まることができると、脚にだれかがすがりついてきた。その重さでずるずると下に落ちて行きそうになる。そのまま落ちれば、下は燃えさかる船底だ。そこで、しがみついてくる者をけり落とし、ふりほどいた。必死だった。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』と同じである。誰だか分らない兵隊をけり落として、反動をつけて甲板によじ登り、そこから海に飛び込んだ。けり落とされた兵隊は死んだはずだ。人を殺してしまった……。
船がやられたら、泳いだらいけない。船が沈むときには、いろんなものが浮くから、それにつかまること。つかまって、早く船から離れる。
いやはや、すさまじい戦争のむごさを改めて実感させられました。戦争は絶対にいやです。
(2009年9月刊。1700円+税)
2009年12月29日
歴史家の仕事
著者 中塚 明、 出版 高文研
日本の近代でもっとも大きいウソの一つに、天皇は平和主義者だったというのがある。
昭和天皇は戦後、こう語った。
近衛文麿に話して、蒋介石と妥協させる考えだった。これは、満州は田舎なので事件が起こってもたいしたことはないが、天津や北京で事件が起こると、必ず英米の干渉がひどくなり、衝突の恐れがあると思ったからだ。
このように、昭和天皇が恐れたのはイギリスやアメリカの干渉であって、満州が田舎なら、朝鮮は我が家の裏庭くらいにしか考えず、中国や朝鮮を侵略することには何のためらいもなかったことが、その言動から明らかなのである。
私も、この指摘にまったく同感です。昭和天皇が根っからの平和主義者だとしたら、太平洋戦争が起きたはずはありません。
日清戦争の直前、日本軍が朝鮮王宮に攻め入って朝鮮王妃(閔妃)を虐殺した。このとき、日本軍は外部への通報を恐れて、まず王宮の電線を切断した。
ところが、対外発表では雷雨によって電信線が不通になったなどと嘘をついたのです。そして著者は、日新戦争のとき、日本の軍艦が中国側の目をごまかすために、外国の軍艦旗を掲げて行動したことも、軍部のマル秘戦史に書かれていたことも掘り起こしました。日本の軍艦が、アメリカやイギリスの軍艦旗を掲げて中国領海内に入り、港の状況を偵察していたのです。
日清戦争の講和会議がなぜ下関で開かれたのかについても解明されています。
下関の春帆楼に行くと、関門海峡が良く見える。日本軍を乗せた輸送船が続々と戦地に向かう状況を、日本は中国側の全権大使であった李鴻章に見せつけたかったのである。
盧溝橋事件についても、当時、そこら一帯は日本軍が抑えていた。中国軍に残されていた唯一の出入口は、盧溝橋であり、ここを失うと北平(北京)を中国側は失い、北平を失ったら、華北全体が危うくなると中国側は認識していた。
その中国軍の目の前で、その抗議を無視して連日、日本軍は夜間演習をしていたのであるから、計画的な挑発であることは間違いなかった。
これも、現地に行って立ってみないと分からないことである。なるほどですね。
歴史学は、過去の事実を科学的に分析することによって、現在がどういう時代なのかを、私たちに教えてくれる。絶望したり、あるいは理由もなく楽天的になったりする誤りを正してくれる。すなわち、歴史学とは、私たちの歴史的な生き方の理論なのである。
歴史の好きな私にとって、大変勉強になりました。
(2007年7月刊。2000円+税)
2009年11月27日
朝鮮王妃殺害と日本人
著者:金 文子、出版社:高文研
日清戦争のあと、1895年10月8日早朝、日本軍は突如として朝鮮王宮に乱入し、王妃を斬殺して死体を焼滅させた。
この事件が世界各国から非難を浴びたため日本政府は8人の軍人と48人の非軍人を収監して取り調べたが、3ヶ月後、全員が無罪放免した。いやはや、ひどいものです。
被害者の王后は明成皇后と呼ばれるが、日本では 閔妃(ミンピ)として知られている。
1851年生まれの王妃は、まだ45歳であり、「女性として実に珍しい才のある、えらい人であった」(三浦梧楼)。事実上の朝鮮国王でもあった。
ところが、この王妃がロシアと結んで日本に対抗する姿勢を見せていたため、日本政府は、これを力づくで除去し、親日政権の確立を目ざし、京城守備隊という日本の軍隊をつかって朝鮮王宮内のクーデターに見せかけようとした謀略事件である。
この無法な殺害事件に星亨がかかわっていたというのに驚きました。星亨は弁護士でもあり、自由党員として自由民権運動にかかわっていたのですが、他国の自由民権運動を圧殺するのに狂奔していたとは、驚きです。
星亨がこうなったのも、たび重なる選挙で無理をして、巨額の借金をかかえて破産状態になっていたからでした。それを見かねた陸奥宗光(外務大臣)が井上馨(朝鮮公使)外交機密費を流用して星亨を救済しようとしていたというのです。そして、事件後、星亨は駐米公使に任命されています。体よく日本を追放され、口を封じられたわけです。
結局、この事件は、当時の大本営上席参謀川上操六と朝鮮公使の三浦梧楼が画策したものであることを本書は明らかにしています。
そして、この事件を知った明治天皇の言葉が三浦梧楼の回顧録に紹介されています。
「いや、お上(かみ)は、あの事件をお耳に入れたとき、やるときにはやるな、というお言葉であった」
こうなると、明治天皇の意向を受けて隣国の皇后を日本軍が惨殺したと言っても過言ではないことになります。
このような重大な恥部を日本政府は隠し通してきました。もちろん、許されることではありません。過去を真正面から見つめることは、決して自虐史観というものではありません。
よくぞ調べていただきました。著者に感謝します。
(2009年2月刊。2800円+税)