弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2014年7月26日

ラスト・バタリオン


著者  野嶋 剛 、 出版  講談社

 旧日本軍の上級将校が蒋介石の下で大陸反攻作戦に関わっていた事実を丹念に掘り起こした労作です。
台湾において、蒋介石の指示のもと、中国を取り戻すための「大陸反攻計画」の策定に深くかかわり、1968年に「白団」が解散するまで台湾にとどまっていた。
数百人に及ぶ帝国陸海軍の軍人が台湾渡航の打診を受け、100人が正式に応じたが、実際に台湾に渡ったのは83人だった。
蒋介石は、中国大陸を中国共産党軍に奪われ、台湾海峡をいつ人民解放軍が押し寄せてくるか分からないなかで、日本軍人によって国民党軍を立て直すというプランに望みをつないでいた。日本軍人の力を借りて、共産党に対抗する。これが蒋介石の秘策だった。
 白団のメンバーに加入すれば、出発手当として、団長は20万円、団員は8万円が支給される。さらに、留守宅手当として1ヵ月につき3万円が支給され、契約満了時には、離任手当として5万円が支給される。このころ(昭和25年)の大卒初任給は3千円だった。そして、勤務による病気・負傷のときは台湾側が治療し、日本への移送にも責任をもつこととされた。
台湾に撤退したとき、国民党政府の軍は悲惨な状態にあった。ところが、蒋介石にとって、この台湾撤退は、それまで頭を悩ませてきた陸軍の派閥と腐敗という問題を解決するための絶好の機会となった。「白団」によって中央集権的な軍事教育を企図したのだ。
 「白団」は、あとでアメリカ軍の警戒の目から逃れるために「覆面」の地下組織となったが、当初は公的な組織だった。最初は「訓練班」という名称だったが、すぐに「訓練団」と改名し、団長には蒋介石みずからが就任した。
 1951年には、「白団」の日本人教官は76人が在籍していた。これが最大人数。
 蒋介石は1915年、28歳のときに日記を書きはじめ、85歳になった1972年まで、57年間にわたって日記をつけた。その日記のなかに「白団」関係は、しばしば登場している。
 蒋介石は、台湾に渡るとき、故宮の貴重な文物を運び、また、黄金を持ち出した。運ばれた金塊は2500億円以上の価値があった。
 台湾の戦後政治の変遷のなかで「白団」はどう位置づけられるのかなど、歴史的な掘り下げの点で、いささか突っ込み不足ではないか、少し物足りないところも感じました。それでも、よく調べていることは間違いありません。戦後日本史の貴重な一断面です。
(2014年4月刊。2500円+税)

2014年7月 4日

失郷民


著者  中田 哲三 、 出版  作品社

 1948年に起きた済州島四・三事件の目撃者であり、その後、日本に密航してきて、大阪で「在日」として、身を起こした趙南富の生涯を描いた本です。
 著者は趙南富の娘の夫になります。フランスで料理人として修行し、日本に戻ってレストランを経営していたという経歴には驚かされます。モノカキに転身したということでしょうか・・・。私も父親の伝記に挑戦し、なんとか、小冊子にまとめてみましたが、400頁ある本書には負けてしまいました。戦後の朝鮮半島、そして韓国現代史が大変詳細に調べてあり、読みものとしても大変よくまとまっています。
 済州という名は、1214年に高麗王朝の属国なったときにつけられたもので、「海の向こうの大きな都」を意味する。かつては、耽羅(たんら)という王国が464年間にわたって済州島を支配していた。一時期、20年間ほど、元の直轄地としてモンゴルの軍用馬の一大生産地とされていたこともある。今も、済州馬が飼育されている。朝鮮王朝時代は、政治犯の流刑地でもあった。
南富の母は、済州島の女性らしく、12歳ころから、一人前の海女(あま)として海にもぐって働いていた。
 南富は、戦前、国民学校で日本語教育を受けた。そこでは朝鮮語は禁止されていた。
 1945年8月5日、日本統治が終わり、日本人教師は島を去った。
 独立を得てから、朝鮮半島に住む人々は怒濤の日々にもまれていきます。
 戦前、日本に渡っていた人々が済州島に続々戻ってきて、島民人口は倍の30万人にまでふくれあがった。そして、1948年4月3日、「四・三蜂起」が始まった。
 蜂起した武装隊と、鎮圧する側の討伐隊の双方が島民を殺す事態が続いていきます。済州島の悲劇の始まりです。
討伐隊の容赦ない粛清を恐れ、村の青年たちが大挙して武装隊に加わったり、山奥や海辺の洞窟に身を隠した。
 ごく普通の人々のごく普通の生活が、ある日突然、戦場のただ中に追いやられたというのが、1948年冬の済州島の姿だった。
 1950年6月25日、朝鮮動乱(朝鮮戦争)が始まった。
 南富の兄・南湖が在籍していた花郎部隊は激戦のなかで壊滅した。
そして、1953年、南富は親から日本へ密航することを命じられた。南富17歳のとき。
済州島から釜山に行き、オンボロ漁船で日本へ渡った。下関に着いたところ、駅構内で全員が検挙され、大村収容所へ入れられることになった。ところが、増改築工事中のため、平戸に入れられた。
 そして、収容所の便所から脱出して、海に飛びこんだ。平戸でキリスト教の信者に助けられ、ついに神戸までたどり着いた。
このあたりは嘘のような展開です。よほど運のいい人だったのでしょうね。
 密航者の身なので、公然とは働けない苦しさ。また、日本の大学で勉強したいのに簡単にはいかなかった苦労が紹介されています。結局、大学に入ったものの、中退したのでした。
 1959年、北朝鮮への帰還運動が大々的に始まります。このとき、民団の青年決死隊500人が北送阻止闘争までしていたことを初めて知りました。
 南富の親しい友人が北朝鮮に渡っていきました。反対しても止めることが出来ません。なぜなら、その友人は、朝鮮学校で北送を子どもたちにすすめていたのです。責任上、自分も行かないわけにはいかなかったというのです。そして、その友人は何十年もして日本にやって来ました。その前、ソウルでも再会しています。大変くらい表情だったようです。そんな映画が最近、上映されましたね。
暗殺された朴大統領との交流もありました。南富は、民団のなかでリーダーになっていったのでした。
 いつも希望を失わずに、在日のプライドをもって誇り高く生き抜いた人生だったと思います。とても読ませる、いい本でした。著者に、ありがとうございました、とお礼を申しあげます。
(2014年5月刊。2000円+税)

2014年4月 6日

シベリア抑留者たちの戦後


著者  富田 武 、 出版  人文書院

 シベリア抑留の問題を実証的に追求した貴重な本です。
 先に紹介した『シベリア抑留全史』については、よくまとまった労作であると評価しつつ、関東軍の行動や日本の満州支配を正当化しかねない論調を首肯できないとしています。スターリン批判(断罪)のみでは、視点が一方的になるということですね。
 日本軍将兵は、自らが捕虜であるという認識をほとんど持っていなかった。というのは、戦闘もせずに、「天皇陛下の命令で武器をおいた」と思っていたから。なーるほど、そういうことだったのですね・・・。
 ところが、ソ連のほうは、9月5日まで戦闘を続け、拘束した軍人、軍属はすべて捕虜扱いとした。これをアメリカもイギリスも黙認した。
捕虜とは、軍隊の所属または指揮下にあり、戦闘に直接・間接に参加した軍人・軍属で、敵国に捕らわれた者をいう。
 抑留者とは、戦闘後に拘束された非軍人・軍属である。
収容所の所長が、対独戦で苦労していたり、近親者に政治犯がいたりすると、決して表には出さないが、スターリン体制を快く思っていないときには、日本人捕虜に寛容だった。
日本人捕虜は、自分の生き残りに必死で、他人のことを思いやる余裕を失っていた。
捕虜は、肉体的状態に応じて、三級にランクづけされた。一級は、どんな重労働にも耐えられる者。二級は、中程度の労働に適した者。三級は軽労働にしか向かない者・・・。
 最初の苛酷な1945-46年の大量の死者を出した冬が終わると、出勤率は少しずつ向上しはじめた。
 ソ連は、戦後復興の進展、国際世論の動向を見ながら、小出しに抑留者を日本に送還した。
 シベリア抑留者のなかに近衛文磨の息子である近衛文隆も混じっていた。しかし、文隆は収容所で病死した。
 シベリア抑留者の戦後は、さまざまだったわけですが、本当に大変なことだったと、つくづく思います。
(2013年12月刊。3000円+税)

2014年2月27日

「東京裁判」を読む


著者  半藤 一利 ・ 保阪 正康 、 出版  日経新聞出版社

 「東京裁判」を全否定したと思われるNHK経営委員の発言がありました。その常識のなさには呆れるばかりです。なるほど、戦勝国による「東京裁判」に問題が全くなかったわけではありません。しかし、侵略国家・日本が裁かれるべき対象であったことは否定できない歴史的事実だったと思います。この本は、そのことをいろんな角度から実証的に明らかにしています。
 完全無欠の裁判でなかったのは事実だが、その不備を根拠に、そこで明らかにされた事実までも「東京裁判史観」として全否定するのは間違っている。忘れてならなのは、裁判は連合国側の一方的な断罪に終始したのではなく、日本側も大いに主張し、根拠を提出して、裁く側の問題点を突いていたことだ。
東京裁判でもっとも重要なことは、検察(連合国)側が出てくる情報を日本国民はほとんど知らなかったということ。その驚きが、当時の日本人が東京裁判を肯定した大きな理由だった。そこでは、戦争という名目で、日本の軍事指導者がかなり無茶をやった事実が明らかになった。
東京裁判は1946年5月3日に始まり、2年半に及んだ。裁判の場所は市ヶ谷の旧陸軍士官学校講堂を改造した。
 占領政策を円滑にするため天皇の戦争責任は問わないというアメリカの方針に従う検察側は、弁護側以上に天皇への言及に神経質になっていた。
 東京裁判では日本軍による南京大虐殺も問題とされた。
 中支那方面軍司令官の松井石根(いわね)は、尋問で日本軍による暴虐行為を「南京入城と同時に知った」と答えており、虐殺が事実であったことは否定できない。そして、殺害された人が「30万人」というのが過大であったとしても、同胞が無残に殺害された中国人の憤りに変わりはないだろう。
 まことに、そのとおりです。「30万人」が過大だとしても、虐殺された人数がゼロになるわけではないのです。こんなところで、「コトバ遊び」をしてはいけません。
 ポツダム宣言は、軍隊の降伏であって、国家の無条件降伏ではない。
 東京裁判の検察側証人として、日本紙芝居協会の会長が登場する。軍国紙芝居も、言論統制の一環だった。この証人には驚きました。井上ひさしの劇にも登場します。
 日本軍による真珠湾攻撃について、ルーズベルト謀略説というのがある。しかし、そんなことを言う人こそ自虐史観だ。それほど日本人はバカだったのか。ルーズベルトに「はめられた」というけれど、日本人はそんなにバカではない。
 広田弘毅は、大事なところで無能だった。陸軍の言いなりになった、その責任は大きい。
 一番問題なのは、2.26事件のあと、首相として陸軍の要望を全部うけいれてしまったことにある。軍部大臣現役武官制も陸軍から要求されて認めているし・・・。軍部を抑えるために出て行ったような顔をして、実際には、軍部からいいように操られた。
 昭和10年代に広田広毅が外交官を代表する形で出て行ったことは日本の最大の不幸だ。
 板垣征四郎・陸軍大臣について、昭和天皇は、「あんなバカ、見たことない」と言った。「臣下として、最低のレベル」だと・・・。
 南京大虐殺にしても、南から言った日本軍は虐殺をあまりしていない。だから南から攻めた軍人の話を聞いたら、虐殺はなかったことになる。
 弁護側は、虐殺の事実自体は否定しきれなかった。日本国民は南京虐殺事件のことを本当に知らなかったので、愕然とした。
 インドのパール判事も、南京虐殺については事実として認定している。
 東京裁判とはどういうものだったのか、それを知るときに絶好の手がかりになる本だと思いました。
(2009年8月刊。2200円+税)

2014年1月22日

シベリア抑留全史


著者  長勢 了治 、 出版  原書房

 終戦直後、中国東北部(満州)にいた日本軍将兵がソ連軍によってシベリアに連行され、極寒の地で捕虜として働かされたシベリア抑留について、あますところなく明らかにした教科書的な全史です。600頁もの大作なので、読み通すのに骨が折れてしまいました。ともかく、大変な労作です。シベリア抑留を知りたい人にとっては欠かせない一冊だと思います。これを読んだら、あとは香月泰男や宮崎静夫・山下静夫などの画文集でイメージをつかむ必要もあるように思います。飢えと寒さと重労働というシベリア三重苦は想像をこえる辛さだったことでしょう。今の私たちには、ほんの少しだけ想像できるにとどまるのでしょうが・・・。
満州にいた日本人は、建国時の1932年に24万人、1936年に52万人、敗戦時には155万人だった。それにも増して毎年100万人もの漢人が流入し、3000万人に達していた。だから、終戦後は満州人は大量の漢人にのみこまれて、民族としてはほとんど消滅するに至った。
 実際のところ、どうなのでしょうか。満州族は消滅してしまったと言ってよいのでしょうか・・・。
 スターリンは、最終的に対日参戦を決意した段階で、日本兵のソ連領への連行を決めていたと思われる。ソ連は5年にわたる苛烈な独ソ戦を戦って、国土が荒廃し、経済が疲弊していた。2500万人といわれる膨大な犠牲者を出し、とりわけ若い男性労働力が決定的に不足していた。戦後の国民経済復興には、新たな労働力を必要としていた。
日本軍の将兵を1000名単位の作業大隊に再編成したのは、将官や上級将校を分離し、旧軍組織を解体することで日本兵の団結や抵抗を防ぐためだった。
ソ連は日本兵を一貫して「戦争捕虜」として取り扱った。シベリアに抑留された日本人にとって不幸だったのは、弾圧機関NKVDに管理された捕虜収容所に入れられたことだった。
 冷戦が始まり、米ソの対立が深まるなかで、捕虜が冷戦の人質となった。これが捕虜の本国送還が10年以上も遅れた要因の一つである。最初に本国送還されたのは、アメリカ人、フランス人、ルーマニア人であり、祖国への道が最も遠かったのがドイツ人と日本人だった。
 寒さに強い体質のロシア人が平気で耐えるシベリアの酷寒も、温暖な気候で育った日本人には殺人的な寒さとなる。日本人に凍傷が多かったのは、粗末な衣服と相まって体質に一因がある。ソ連人は、自分たちと同等もしくはそれ以上に食料を支給し、同じ酷寒で働いているのに、なぜ日本人に犠牲者が多いかといぶかった。
 ソ連の調査によると1946年(昭和21年)1、2月は、ドイツ兵に比べて日本兵の死亡率は3倍近かった。
 ソ連のノルマの大きな特徴の一つは、多少とも技術的な作業のノルマは低く、単純作業は高いことにある。
収容所では、日本人は、酷寒、飢餓、重労働の三重苦に耐えて、よく働いた。
 ドイツ人捕虜は、対照的に、出来るだけ仕事をサボろうとし、決して無理な労働はしなかった。収容所では、小さな配給食(パン)ではなく、大きな配給食が死をもたらす。少しでもパンを多くもらうために費やす体力は、増配されるパンのカロリーより大きく、かえって体力を消耗して死を早める。
 ラーゲリではパンを減らされようとも、なるべく働かないこと。空腹に耐えるほうが生きのびる確率は高い。
体格検査ではパンツをおろさせ、お尻の肉づきを見る。お尻の肉を手でひっぱってみる。体力のあるものの肉には弾力とつやがある。衰弱している者のお尻はたるんでいて、空気の抜けた風船のようにだらっと、たれている。
 日本人は、収容所のなかのないない尽くしの生活で、創意工夫と器用さを発揮した。最盛期には35ほどの劇団があった。
巻末の参考文献を見ると、シベリア抑留に関しては体験記をふくめて、たくさんの文献が出ていることに目を見張ります。『夢顔さんよろしく』(文春文庫)もその一つです。かの瀬島龍三の闇も知りたいところです。
(2013年10月刊。6800円+税)

2014年1月17日

巨大戦艦・大和


著者  NHK取材班 、 出版  NHK出版

 菊花輝く軍艦は、艦底一枚下地獄。どちらもみじめな生き地獄。そんなこととはつゆ知らず、志願したのが運の尽き。ビンタバッタの雨が降る。天皇陛下に見せたいな。
 これは戦前の海軍でうたわれていた歌とのことです。将来を奪われて、命を奪われた兵士たちが哀れです。戦艦大和を戦前の日本人の大半は知らなかったというのです。これには驚きました。完全な情報統制下に置かれていたのです。
 ところが、アメリカのほうは初めのうちこそ知りませんでしたが、あとでは日本軍の暗号を全部解読していましたので、大和のことは手にとるように分かっていました。日本人に対する情報統制なんて、何の意味もなかったのです。今回の特定秘密保護法も、結局、同じことでしょう。上部の支配層にとって都合の悪いことを国民に隠し、アメリカにはすべて筒抜けにするのです。それも暗号解読ではなく、日本政府がアメリカに法にもとづいて、うやうやしく情報を差し出すのです。
 とんでもない法律です。こんなことをしながら厚かましくも国民に対しては愛国心を押しつけようというのですから、信じられません。
 昭和19年10月、戦艦武蔵はアメリカ軍の飛行機から集中攻撃を受け、あえなく沈没した。
 魚雷20本、爆弾20発が命中した。
 武蔵が目の前で沈んだので、大和の乗組員は皆がっかりしてしまった。不沈戦艦ではないことが実証されたから・・・。「不沈神話」はもろくも崩れ去ったのである。
 昭和20年4月、大和に特攻作戦が命じられた。伊藤整一中将(司令長官)は特攻作戦に反対だった。
 「目的地に到達する前に壊滅するのが必至だ」
 海上護衛総司令部の大井篤大佐(参謀)も反対した。
 「大和につかう重油4000トンがあれば、大陸からの物資輸送が活発にできる。また、日本海への敵潜の侵入をくいとめるのにも大いに役に立つ。大和につかう4000トンは、いったい日本に何をもたらすのか。敵をして、いたずらに『大和、討ちとったり』の歓声をあげさせるだけではないか」
 特攻出撃を主張した連合艦隊主席参謀の神重徳大佐は、次のように主張した。
 「大和が生き残ったままで戦争に負けたとしたら、何と国民に説明するのか。成功率は絶無ではない。もし、これをやらないで、大和がどこかの軍港に繋留されたまま野たれ死にしたら、非常な税金をつかって(当時のお金で1億3000万円)、世界無敵の戦艦大和をつくった。それをなんだ、無用の長物と言われるぞ。そうしたら、今後の日本は成り立たない」
 まことに身勝手な論理です。大和の乗組員3000人の生命をなんとも思っていません。軍当局は人命より軍の体裁、見栄を大切にしたというわけです。
 そして、案の定、大和は目的地に到達する前に、アメリカ軍機にボコボコにされ、巨砲をつかうこともなく、あえなく撃沈されてしまいます。乗組員3000人とともに・・・。
 いまも大和は沖縄近くの海底に沈んだまま。
 海上特攻作戦は戦局に何らの影響も与えずに、大和沈没の事実も終戦まで国民に知らされることもなかった。
 戦争のむごさ、軍上層部の無責任さを明らかにした本でもあります。
 昨年10月、広島県呉市にある大和ミュージアムを見学しました。いまの安倍政権がすすめている世論操作に踊らされてはいけないとつくづく思ったことでした。
(2013年7月刊。1900円+税)

2013年12月22日

霧社事件

著者  邱 若龍 、 出版  現代書館

1930年(昭和5年)10月、日本統治下の台湾の山岳地帯で起きた先住民(タイヤル族)の放棄とその顛末が台湾人によって劇画となっている本です。
 この霧社事件については、既にいくつかの本を紹介していますし、最近は映画も見ていますので、私にはイメージがよくつかめますが、映画を見ていない人には、ぜひこの劇画を読んで山岳地帯とタイヤル族の生活、そして蜂起にいたる日本の圧政をイメージをつかんで実感してほしいと思います。
 タイヤル族は、台湾の先住民のなかではもっとも広範囲に分布し、強い民族性をもっていた。顔の入墨(いれずみ)と首狩りは民族の戦闘性の象徴となっていた。主として焼き畑と狩猟で生計を立てていた。ところが日本統治下では、山地は官有林として没収され、首狩りはもちろん厳禁、銃も奪われた。
 反抗事件が次々に起きたが、ことごとく圧倒的火力を有する日本軍によって制圧された。
 タイヤル族において入墨は個人の成長や能力を社会が認知したしるしとして重要な意味をもっていた。それがあることによって結婚も許されるのである。
 入墨がない者は、永遠に子ども扱いされる。入墨をするには、女子であればきれいな布を織れることが必要。男子であれば少なくとも敵の首を一つ持って帰ることが条件である。
いやはや、これはすごい民族ですね。でも、人を殺して一人前というのは、アメリカでも同じようですよ。少なくとも、ベトナム戦争のころ、徴兵制のあったアメリカでは一人前の男は人が殺せることという不文律があったということです。たしかに、アメリカ人はいつまでも国の内外でよく人を殺していますよね・・・。
日本人が大勢集まる運動会に狙いを定めて、一斉に襲いかかり、日本人だけを老若男女、ほとんど全員殺してしまったというのが霧社事件です。そのなかには、日頃お世話になっていたはずの日本人医師までいたといいますし、日本人の子どもまで助かっていないのですから、それほど日本への憎しみは激しかったのです。
 300人のタイヤル族の青年たちが4000人もの日本軍を相手に1ヶ月以上も戦ったのでした。日本統治下の台湾で起きた事件として忘れてはならないものだと思います。
 ネットで見つけて、アマゾンで購入しました。
(1993年4月刊。1700円+税)

2013年12月 6日

占領から独立へ

著者  楠 綾子 、 出版  吉川弘文館

1945年7月26日のポツダム宣言は、日本国政府の存在を前提とし、無条件降伏を求める相手を日本国軍隊に限定していた。
 アメリカ政府は、天皇制を明確に保障はしないけれども、否定しないことで、「国体護持」が認められるかもしれないと匂わせる方法を選んだ。そして、日本の外務省は、このアメリカ政府の意図を正確に読みとった。
 日本政府、そして軍では、だれもが「国体」だけは守らなければならないと信じていた。しかし、その意味するところまでは共有されていなかった。厳密に中身が定義されなかったが故に、「国体護持」という目標は、日本政府と軍内の合意形成に強力な磁力を発揮することができた。
突然の降伏決定にどう身を処してよいか分からない軍人たちに、ともあれ暴発させずに降伏を呑みこませるには、東久邇内閣の陸軍大将であり皇族という権威は有効だった。
 マッカーサーは、1945年8月30日、厚木基地に降り立った。サングラスにコーンパイプといういでたち、丸腰で武装解除前の敵地に降り立ったのである。これも実は、先遣隊と一足先に着陸した第八軍司令官アイケルバーガーが入念に安全を確認した上での行動である。
映像を活用して自己を演出する才能において、マッカーサーはほとんど天才的だった。
東久邇自身は意欲満々だった。1920年代のフランスに長く遊んだ東久邇は、皇族のなかでは恐らくもっとも開明的な思想の持ち主だったと思われる。東久邇は、実にさまざまなアイデアを思いつき、実行に移そうとした。婦人参政権、貴族院の廃止、言論・集会・出版・結社の自由、特高警察の廃止、さらには民主的・平和的憲法の制定も考えた。
 しかし、東久邇の発想は保守指導層の理解を得られなかった。政治に携わった経験のない東久邇首相は、自己の構想を政策という形に落としこみ、それを実行するために官僚機構を動かす術を知らず、また手段ももたなかった。
映像の活用、荘重なことばをちりばめたスピーチなど、突出した自己演出欲求はマッカーサーの特徴だった。
 マッカーサーは、ワシントン介入には拒否反応を示すのが常だった。そして、マッカーサーの独断専行をトルーマン政権は、苦々しく思っていた。
 マッカーサーの威厳ある振る舞い、もったいぶった表現や人を身近に近づけない態度は、日本人の考える支配者像にうまく合致した。マッカーサーは、日本国民の前に姿をさらすことは、滅多になく、会見する日本人は、昭和天皇と首相のほかはごく少数に限られた。そうして、日本国民の上に絶対的な支配者として君臨した。戦争に疲れ果てた日本人の前にマッカーサーは慈悲深い解放者を演じた。
 天皇と天皇制をどう扱うかは、アメリカ政府にとってはまことに悩ましい問題だった。終戦直後のアメリカでは、天皇を戦犯として起訴し、天皇制を打倒せよという声が圧倒的だった。
 天皇は揺れていた。日本の起こした戦争とその悲惨な結果について、制度上、法律上の責任はともかくとし、道義的責任は感じていたと思われる。
 9月27日の第1回の天皇とマッカーサー会見によって、天皇と日本政府はマッカーサーが天皇を重視し、敬意をもって丁重に扱うという感触を得た、マッカーサーにとっては、占領政策の協力者を得たという点で、それぞれに有益だった。それ以降、マッカーサーは、天皇擁護の方針を鮮明に打ち出していった。
 弊原や吉田茂のように、根本的・急進的な改革を嫌う保守層は、明治憲法の改正ではなく、運用の変更によって、自由主義的・民主主義的な政治・社会を実現することが適当かつ可能と考える傾向にあった。
 1946年2月3日、マッカーサーがGHQの民政局に示した原則は三つ。第一に、立憲君主としての天皇制の維持。第二に、自衛戦争をふくむ完全な戦争放棄。第三として、封建制度の廃止。
 戦後放棄条項は、天皇制の存置と日本の軍事大国化の阻止という二つの要請を同時にみたす、当時においてはほとんど唯一の方法であった。
 吉田茂は、権力闘争をたたかう武器として公職追放を利用した。
マッカーサーと天皇の会見は11回に及んだ。それは毎回、天皇がアメリカ大使公邸にマッカーサーを訪問する形式で行われた。マッカーサーは最後まで宮中に行うことはなかった。マッカーサーは天皇を敬愛し、その協力を求めつつも、天皇をふくむ統治機構の上にマッカーサーが君臨していることを象徴的に示すスタイルを最後まで変えようとはしなかった。
 終戦後の日本政治を詳しく、かつ多面的に分析した本として、興味深く読みとおしました。
(2013年9月刊。2600円+税)

2013年12月 5日

フィリピンBC級戦犯裁判


著者  永井 均 、 出版  講談社

日本軍って、戦中のフィリピンで実にひどいことをしたのですね。そして、戦後、それにもかかわらずフィリピンは国としてまことに寛大なる処遇をしたのでした。
 たとえば、1945年2月のマニラ地区のセント・ポール大学周辺で日本軍はフィリピン住民を500人近く大虐殺した。ほかにも、1000人以上の住民を殺害した事件など、300件以上が調査されている。
フィリピンに動員された日本兵は61万人。その8割の50万人が命を落とした.死者の大多数、8割は餓死者であった。フィリピンは、日本軍将兵にとって、文字通り絶望の戦場だった。
 戦後、フィリピン人は、日本人と見るや激しい怒りをぶつけた。日本軍に対する「恨みの炎」はフィリピン全土で燃えさかった。
 1945年10月から1947年4月まで、マニラで日本軍将兵に対する戦犯裁判が続いた。そこでは215名の戦犯が裁かれた。これは米軍当局の手によるもの。
 フィリピンが米軍から裁判権を引き継ぎ、日本軍将兵に対する戦犯裁判を始めたのは1947年8月。この裁判は1949年12月まで2年半のあいだ続いた。
 フィリピンが戦犯裁判を担うようになったのは、マッカーサー元師の意向だった。それは、アメリカ国内で、マニラ駐留の米軍に戦犯裁判の管轄権力があるのかという疑問が出ていたことにもよる。
フィリピンのロハス大統領は、国際法にのっとって公平かつ道理に則した迅速な裁判の機会を与えると公言した。
 ロハス大統領は、復讐や報復ではなく、裁判は国際法の原則にもとづく正義の追求にあると宣言した。ロハス大統領は、弁護士だった。
 そして、戦犯法廷の弁護人として日本人弁護士を日本から呼び寄せた。ところが、日本人弁護士は言葉の壁に直面したようです。そこで、フィリピン人弁護士が登場するのですが、彼らは誠実に弁護したとのことです。
 フィリピン人弁護士の公平な弁護態度は日本人関係者から高く評価された。
 フィリピンの戦犯裁判においては、極刑宣告の比率が高いという特徴があった。79人の被告に死刑が言い渡された。これは、起訴された151人の半数以上(58%)を占める。この151人は、軍司令官から1等兵まで、そして民間人も含んでいる。
裁判が終わって、刑務所に収容された有期・終身刑は「紅組」と呼ばれたが、赤い囚人服を着ていたから、戦犯死刑囚は「青組」と呼ばれた。
刑務所長刑者を人間として処遇した。所内を丸腰で歩き、受刑者と会話し、独房も訪問した。
 フィリピン当局は、独立国家の威信にかけて、日本人は戦犯の処遇に慎重を期した。そして、日本人戦犯は刑務所の規則を守り、規律正しく、協力的で、刑務当局から信頼を得ていた。日本人は脱走や自殺を図ることもなかった。
 1951年1月、日本人戦犯の死刑囚14人が処刑された。14人は絞首刑となった。
 フィリピン当局は、刑に処せられた日本人を最後まで丁重に扱った。処刑に立ち会ったフィリピン人関係者には、従容と死地に赴く14人の姿が強く印象に残った。
 この執行から10日あまりたった2月1日に日本で処刑のことが報道され、日本国民のあいだに助命運動がわき上がった。
 反日一辺倒でなかったとはいえ、キリノ大統領は、フィリピン国民の厳しい対日感情に配慮せざるをえず、日本人戦犯に厳格な姿勢でのぞむ姿勢があった。大統領選で再選を目ざしていたキリノにとって、日本人戦犯の恩赦、本土送還は危険な橋であった。
 キリノは戦争中に、日本軍によって愛する家族を殺されていた。苦しみの日々を過ごしてきたキリノ家の傷は深かった。キリノは憎しみ続けることをやめる人生を生きよう、子どもたちに諭した。
 キリノ大統領が恩赦したとき、そのことにフィリピン世論は比較的冷静だった。
戦犯死刑囚79人のうち、実際に処刑されたのは17人のみ。執行率は2割にとどまったが、これはほかの地での8割と比べると低い。
 1953年7月、フィリピンから日本人戦犯111人が日本に戻った。
「モンテンルパの夜はふけて」という渡辺はま子の歌は知っていますし、モンテンルパ刑務所も現地で外側だけ見たことがあります。このようなドラマがあったことを初めて知りました.ほんとに世の中は知らないことだらけですね。大変な労作だと思いました。
(2013年4月刊。1800円+税)

2013年11月30日

もう日は暮れた

著者  西村 望 、 出版  徳間文庫

1930年10月、台湾中部の山岳地帯の霧社で発生した事件を忠実にたどった小説です。
 小説ですので、登場人物の名前は史実とは異なりますが、事件の背景、事件の推移については史実のとおりです。
 霧社は台湾中部の中央部にそびえる、能高山脈の山麓にある台湾原住民・高山族の村である。高山族は、終戦直後まで、高砂族と呼ばれていた。そして、霧社は、高砂族のなかの一部族である、アタヤル族の村である。アタヤル族は高山族のなかでも剽悍(ひょうかん)をもって知られ、首狩りの習慣を持っていた。事件当時、3万人余の人口を有し、高砂族のなかでは最大の部族だった。
 日清戦争で清朝から台湾を割譲された日本は、植民地経営を平穏に行うためには、アタヤル族をはじめとする山岳民族の慰撫懐柔が不可欠と考えた。これを理蕃(りばん)と読んだ。この施策実行の先兵となったのが警察だった。理蕃事業の成否は、配置された警察官の人柄や気質に大きく左右された。
 霧社は、理蕃のなかで、もっとも成功した場所のひとつとして知られていた。
 そんな霧社で、盛大な運動会の当日、集まっていた日本人のほとんど全員(134人)が皆殺しの憂目にあったのでした。
 日本人による植民地経営の苛烈さを知ることのできる本でもあります。現地の風習の違いは、次のようなところにも見られます。
 蕃社では、死者は埋葬するが、外には埋めない。みんな屋内に埋めてしまい、その場所は聖なる一隅として、いっさい使わない。死者はオットフとなってそこに坐っていると信じられている。
霧社事件の起きる前の状況、殺戮の様子、そして日本軍の鎮圧作戦の推移を小説として知ることのできる貴重な文庫本です。
 でも、史実に即していますので、重たい気分で読み進めました。少し骨が折れるものではありました。
(1989年10月刊。520円+税)

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