弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2011年11月 1日

兵士たちの戦後史

著者  吉田  裕     、 出版  岩波書店   

 兵士体験者の生存数は2008年7月時点で40万人とみられている。大激減しています。それはそうですよね。終戦時に20歳の兵士であっても、今なら85歳ですからね。
 私の叔父は90歳を過ぎていますが、中国で八路軍としばらく行動をともにしていました。そんな戦争体験を早いこと聞き出しておかないと、歴史の闇に埋もれてしまいますよね。
 戦場の現実。第一に、戦病死という名の事実上の餓死者が大量に発生した。餓死者は140万人、餓死率は61%という推定がある。第二に、多数の将兵・軍属そして船員が船の沈没によって戦没した。40万人近くが溺れ死んだ。第三に、特攻死が初めて登場した。航空特攻だけでも、陸軍1327人、海軍2616人の戦死者を出している。
 戦艦「大和」が沈没したとき、アメリカ側は12人が死んだだけで、日本側は3700人もの戦死者を出した。
 硫黄島で死んだ日本軍の将兵のうち、敵弾で戦死したのは3割。残り7割の日本兵は、自殺が6割、1割が他殺、残りは事故死によって死んでいった。むむむ、これは実にむごい比率です。
日本への復員船のなかで、上官に対する吊るし上げやリンチが公然と行われた。階級による厳格な軍隊内秩序に対する兵士たちの怒りが爆発した。そして、社会全体の復員兵に対する態度は冷ややかなものだった。巨大な政治勢力と化して権力を乱用した軍部や権力的地位にあった軍上層部に対する反感・反発が復員兵全体に向けられた。とりわけ戦前にはヒーローだったパイロットたちへの反動には大きなものがあった。
私たちは民族自身のために戦ったのではなかったから、祖国の土を踏んでも、祖国の人たちと、まるで他人同士のようにしか接しなかった。これは、ある復員兵の述懐した言葉ですが、やはり戦争目的が他国への侵略だと、こうなるのでしょうね。
 中国からの帰還兵には、自分たちは負けていなかったとして、襟章を外そうとしない者が多かった。決着のつかなかった中国戦線の兵士たちには、日本軍の襟章・階級章は、むしろ誇りであった。
1961年に、軍人恩給に加算制が復活した。これによって在職期間が割り増しされた。その結果、1960年の軍人恩給を受けている47万人から1970年には126万人近くにまで増えた。
 1972年1月、グアム島のジャングルに28年間潜伏していた元日本兵の横井庄一・陸軍伍長が島民に発見された。また、1974年には、フィリピンのルパング島で30年にわたって潜伏活動を続けていた小野田寛郎・陸軍少佐が発見された。
 1974年12月には、インドネシアのチロタイ島で元日本兵の「中村輝夫」(台湾の高砂族出身。実名はスニョン、中国名は李光輝)が発見された。
軍隊のなかでは、私的制裁つまりリンチが横行していた。中隊長は父、班長は母、古年次は兄というのが建て前で、実際には会話なんてない父、継母、また暴力団の兄というのが真相だった。
元兵士たちは、残虐行為などの戦争犯罪に関して証言しても性暴力、とりわけ自分自身が行った性暴力については語ろうとはしないのが一般的である。性犯罪について話すのは、殺人よりも精神的に辛い。それは「命令でやった」という免罪符のつかえない犯罪だからでもある。
戦友会は、会員の高齢化のため、次々に解散し、活動を停止しているとのことです。
 日本軍の将兵の実態を知るうえでたいへん貴重な労作でした。

(2011年7月刊。2800円+税)

2011年3月23日

ヒロシマ

著者 ジョン・ハーシー、   出版 法政大学出版局
 
 この本の初版が発行されたのは1949年4月のことです。全世界に原爆の惨禍を知らせ、ピュリッツアー賞を受賞したのでした。広島に原爆が投下された、その瞬間にいあわせて生き残った6人の戦後史が淡々とした筆致で描かれているので、かえって原爆のむごさ、非人道性が浮き彫りになっていきます。もちろん、何十万人もの罪なき人々を一瞬のうちに殺戮した残酷さはもっともっとひどかったことでしょうが、全世界の人々に原爆の惨禍を知らせた点に大きな意義のある本です。
50年たった2003年に7月に刊行された増補版を読んでも、まったく古臭さを感じさせません。それどころか、テロリストへの核拡散の脅威まである今日、ますますその意義は大きくなっています。
原爆投下前、何週間にもわたって、毎夜のようにB29が広島上空を飛んできた。その警報が頻繁なくせに、「Bさん」が相変わらず広島を敬遠しつづけていることが、かえって広島市民をびくびくさせ、アメリカ軍には広島向けの何かとっておきがあるらしいという噂が立った。日本の主要都市のなかで、京都と広島だけが、まだ「Bさん」、日本人は尊敬と不本意ながらもなれなれしさとをこめて、B29をこう呼んでいた、の大挙訪問を受けていなかった。
 投下の直後、驚くべき景観を見た。にごった大気越しに眺めうるかぎりの広島市街から、恐ろしい毒気がもうもうと立ちのぼっていた。やがて、おはじき玉大の水滴が落ちはじめた。
ただの一撃で、人口24万5000人の都会で、即死もしくは致命傷が10万人、負傷者も10万人以上にのぼった。少なくとも1万人の負傷者が、広島市中随一の日赤病院に押しかけてきた。病床は600にすぎず、それも全部ふさがっていた。道路を何百、何千という人が逃げてくる。一人残らず何かしら怪我をしているらしい。眉は焼け落ち、顔や手の皮膚はむけて、ぶらさがった人もいる。痛さのあまりに、両手で物を下げたようなかっこうで、両腕をさしあげたきりの人もある。たいてい裸か、着ていてもボロボロだ。素肌の火傷が、模様のように、シャツの肩やズボン吊の形になった男もいる。白いものは爆弾の熱をはじき、黒っぽい着物はそれを吸収して皮膚に伝えたので、着物の花模様がそのまま肌に焼きついた女の人もいる。
 ほとんどすべての人が、うなだれ、まっすぐに前方を見つめ、押しだまって、何の表情も見せない。
負傷者を船で運ぶとき、どの人の背中も胸も、ねちゃねちゃする。朝みたときは黄色で、それがだんだん赤くふくれ、皮がむけ落ち、夕方には、ついに化膿して臭くなった。ぬるぬる生身を抱いて船から出し、潮のこない斜面にまで運び上げる。これは、みんな人間なんだぞ、と何度も何度もわざわざ自分に言いきかせなければとても我慢できかねた。
爆発後の数日間、あるいは数時間だけでも安静に寝ていた人々は、動きまわったものより発病がはるかに少なかった。
男子は精子を失い、女子は流産し、月経は閉止した。
 いま、弁護士会は国是と言われてきた非核三原則の法制化を検討しています。核兵器をつくらず、持たずについては罰則つきで定めるのは容易なのですが、問題は「持ち込ませず」です。例の核密約がありますから、万一のときは、いつでもアメリカは日本の基地に核兵器を持ち込んでくるのではないかという心配があります。
ただ、時代が変わったことも間違いありません。オバマ大統領のプラハ演説のあと、アメリカもそれなりに核兵器をなくす方向には動いています。沖縄そして岩国や三沢などにあった核兵器は今では、完全に撤去されているようです。そこで、「持ち込ませず」が実現している今こそ法制化のチャンスだということです。国会で承認・可決されるような案を日弁連としてまとめて上げることができたらうれしいのですが・・・・。
ヒロシマそして長崎に落とされた原爆の惨禍を追体験できる貴重な本です。
ちなみにアメリカは配置済みの核兵器を減少させながらも、核攻撃力の強化をはかる政策が巨額の予算で推進しているようです。そのため、アメリカには深刻な経済不況がうまれているわけです。
 いかなる状況であれ、いかなる目的のためであっても、核兵器の使用は重大な人道に対する罪であり、最終的には、いかなる紛争も軍暴力によっては解決できない。
本当に、そのとおりだと確信させられる本です。

(2003年7月刊。1500円+税)
福島の原子力発電所が地震が起きて10日以上にもなるのに依然として爆発の危機を脱していないのは恐るべき事態です。現場で懸命に復旧作業にあたっている東電の社員の皆さんには心から敬意を表しますが、「絶対安全」と言い続けてきた東京電力という会社自体はあまりにもひどいし、津波の規模が「想定外」だったという弁解は成り立ちません。格納容器が破損するなど、あり得ないはずの事態が目の前で今も進行しているのを知ると、身震いしてしまいます。ともかく一刻も早く放射能の拡散を止めてください。そして、政府は「心配ない」と言うだけでなくもう少し具体的に説明してほしいと思います。
この本を読んだのは今年はじめのことです。まさか、現代の日本でこれほど放射能被害を深刻に心配しなくてはいけないとは想像もしていませんでした。それこそ「想定外」の事態です。

2011年3月10日

ノモンハン航空戦全史

著者 D.ネディアルコフ 、  芙蓉書房 出版 
 
 1938年6月、日本軍はソ連国境地帯に短期間のうちに進出した。それに対してソ連軍が反撃し、日本軍は500人の戦死者と900人の負傷者を出して撤退した。この戦闘でソ連軍が迅速かつ決定的な勝利を得た最大の理由は、ソ連空軍の活躍にあった。
 ところが、ソ連空軍の能力は、スターリンによる粛清の影響を受けて、最良の状態にあるとはいえなかった。その粛清によって、1973年には赤軍極東戦線のすべての指揮官ポストは交代し、若くて経験の少ない将校たちが新たに空席となった指揮官ポストに起用された。ソ連空軍は、このように指揮組織が痛手を受けていたにもかかわらず、紛争地帯の上空で完全な航空優勢を維持していた。唯一の脅威は、まばらに配備されていた日本軍の高射砲だけだった。
スターリンのうち続く圧政でソ連軍が弱体化していたことは、西欧諸国につとに知れ渡っていた。
 ベリヤの秘密警察は、モンゴルの指導者たちを粛清した。1937年の終わり、モンゴル首相プルジディン・ゲンデンは逮捕され、人民の敵として銃殺された。軍高官の多くも反革命分子として処断された。
ノモンハンにいたソ連空軍のパイロットには誰一人として実践を経験したものがいなかった。それに対して日本のパイロットは高いレベルの操縦技術を維持していた。日中戦争で多くの戦闘経験を積んでいて、士気も高かった。その多くは1000時間の飛行経験を有し、部隊の装備にもまったく問題がなかった。
ノモンハン事件が起きたときの日ソ双方の航空戦力に関する評価は、パイロットの準備状況と航空機の性能の観点から日本軍が優勢だった。
 1939年5月、日本の航空部隊は、70キロメートルにわたるノモンハン上空の覇者となった。わずか2日間で、日本軍は、その損失1人に対して、ソ連軍に戦闘機15機、パイロット11人の損害を与えた。
 ソ連軍は、「航空優勢は敵の手中にある。わが空軍は地上部隊を援護することができない」と報告した。この報告を受けたソ連空軍指導部にとってスペインでの敗北に引き続いての二度目の敗北は考えられないことだった。そこで、経験豊富なパイロット22人を招集した。1939年6月の戦闘において、ソ連空軍は燃料給油の手間によって空における主導権を失ったが、数的には優勢だったため、いくらか穴埋めすることはできた。そのため、ノモンハン事件の戦況は決定的に変化した。日本軍のパイロットたちがソ連機の攻撃から離脱を余儀なくされた。ソ連軍は限られた空域に大量の戦闘機を集中的に投入した。
 1939年7月、ソ連軍は「空のベルトコンベア」と名づけた戦術を用いた。これは航空戦力を絶え間なく投入するものであり、地上部隊を直接支援する戦闘機と爆撃機によって、敵の頭上に絶えず脅威が存在している状態を作為するものだった。
このときの航空戦には、日ソ両空軍あわせて300機以上の作戦機が参加した。そして、この日はノモンハン航空戦におけるソ連空軍最初の勝利だった。
1939年7月、ノモンハン航空戦域の航空部隊にバルチック艦隊や星海艦隊の航空隊から高練度のパイロットたちが次々に移動してきた。これらのパイロットたちは、実践を経験することだけを目的に、何の役職も与えられないまま転属してきた。
 1939年7月下旬になると、戦闘可能な日本軍の戦闘パイロットたちは戦刀を増強させ優勢となったソ連軍とのほぼ3ヶ月にわたる戦闘で疲れ切っていた。ソ連空軍戦闘機隊が大規模な戦力の集中を始めるや否や、日本軍は機数の不足を出撃数で補わざるをえなくなった。日本軍戦闘機パイロットたちは、1日に5回も7回も出撃することになった。
 1939年8月、ノモンハンは、ロケット弾の実証試験の場となった。ソ連空軍は、日本軍航空部隊に対して、3倍の数的優位を維持していた。この数的優位は、とくに爆撃戦力で顕著であり、ジューコフ中将たちはきわめて野心的な目的を設定していた。
 日本軍パイロットたちは、1日あたり6.5時間の戦闘時間であり、交代要員もいなくて、健康上の問題が生じていた。肉体的・精神的な極度の疲労は高級指揮官にも蔓延していた。9月の格闘戦でソ連空軍が勝利した原因は、高速性能、発射速度の高い機関銃の破壊力、そして「一撃離脱」戦術だった。
 航空優勢が逆転した主たる要因は航空機と人員の予備戦力を十分に確保できる能力にあった。そして、この予備戦力をタイムリーな方法で投入できる能力だった。作戦環境への対応について、ソ連軍は日本軍よりもずっと柔軟であり、かつ断固としていた。
 日本軍のパイロットは絶望的なほど不足していた。日本軍の飛行訓練学校で養成したパイロットはわずか1700人にすぎなかった。ソ連空軍の作戦機と補助機は250機。日本軍は164機だった。このうち、作戦行動中に喪失したのは207機と90機である。ソ連空軍が運用したのは900機で、日本軍は400機。これが80キロメートルの幅で戦った。
ノモンハン航空戦は、空中で始めて全面的な戦闘のあったところである。
ノモンハン事件を飛行機の戦いとして知ることのできる貴重な本です。

(2010年12月刊。2500円+税)

2010年11月28日

キャンバスに蘇るシベリアの命

 著者 勇崎 作衛、 集英社 出版 
 
 終戦後、多くの日本軍将兵がソ連軍によって中国からシベリアに強制連行され、抑留されて働かされました。
 著者は、中国で病院の衛生兵として働いていて、22歳でシベリアに送られました。幸い3年後に無事に日本へ帰国できたのですが、その3年間の苛酷な生活を、なんと65歳になってから油絵を始めて絵描きだしたのです。87枚の絵は酷寒のシベリアでの労働の苛酷さ、非人間的状況を如実にうつしとっています。
 寒冷期になると、収容所の周囲は雪だけで食べるものがなくなる。監視のソ連兵の残飯捨て場に出かけてガラの骨、キャベツの芯、芋の皮などを一所懸命に探してスープにして食べた。支給される食事で足りない分のカロリーをこうやって補った。
 日本兵は、ひどい消化不良と衰弱に加え、寒さのため身体は冷えきって全員が下痢を患っていた。ところが我慢できずに排便しようとして隊列を乱すと、ソ連兵がムチを鳴らして追い立てるのだ。
 冬のシベリアは零下40度。冷蔵庫の製氷室よりも寒い。外での作業で本気を出したら、生きて日本に還ることは出来なかった。
 日本兵の体力検査は、ソ連の女軍医が尻の皮をつまんで引っぱることで決まった。皮下脂肪の厚さで、重労働、軽作業の等級が決まった。シベリア抑留生活のむごさを描いた絵画集は前にも紹介しましたが、こうやってビジュアルになると、その苦労が視覚的にもよく伝わってきます。
 『夢顔さん、よろしく』という本に出てきた近衛首相の息子がシベリアで死んでいったことも改めて実感できました。後世に語り伝えられるべき悲惨な歴史的な事実です。
 
(2010年8月刊。2400円+税)

2010年11月21日

手塚治虫の描いた戦争

著者:手塚治虫、出版社:朝日文庫

 いやですよね、戦争って、本当に・・・。手塚治虫って、正真正銘、マンガの神様ですね。この本を読んで、改めてそう思いました。
 手塚治虫には戦争体験があります。まさしく危機一髪のところで命拾いをしたという体験があり、その体験が色濃く投影されています。いずれも、しみじみ考えさせられる場面になっているのですが、そのアプローチがともかく多様なのです。その点、ほとほと感嘆してしまいます。
 戦争で殺されてしまった人々が、殺された当時の姿でよみがえって、私たちを忘れないでおくれと迫ってきます。本当に、そうですよね。死んだ人たちは何も言えないのですから、生きている私たちが声をあげて戦争反対、戦争につながる一切の行為をひとつひとつつぶしていかなくてはいけません。
 世の中、ともすれば、勇ましい声がまかりとおってしまいます。北朝鮮やっつけろ、中国に負けるな、という声が最近もかまびすしいですよね。でも、現に日本は沖縄だけでなく、首都東京もアメリカに占領されてしまっているような現実もあるわけじゃないですか。なんで、そちらは問題にしないで、いいんでしょうか・・・。
 アメリカ兵が日本人を無法に傷つけ、殺しても、その大半は処罰もされません。高速道路だって、私用でもアメリカ兵はタダ。住居の水道光熱費、家賃みんなタダ。首都にある横田基地にアメリカの将兵が降り立っても、日本政府にはだれが何のために来ているかも知らされない。
 アメリカの高官は、アメリカ軍は日本を守るために日本にいるわけではないと一貫して高言しています。なのに、一方的に、アメリカは日本を守るために日本に基地を置いていると思い込んでいる私たち日本人・・・。
 なんてお人よしの日本人が多いのでしょうか。手塚治虫のマンガは、戦争を防ぐには、武力によらない外交の力が必要だ、そのためには、国民がそのことに自覚と自信をもつことだと訴えています。
 日本人が、戦争をふり返るのは8月だけだというのはまずいんじゃないですか・・・。
(2010年7月刊。800円+税)

2010年11月20日

ニッポンの海外旅行

 著者 山口 誠、 ちくま新書 出版 
 
 20代の海外渡航者が最多を記録したのは1996年(平成8年)であり、この年には463万人の20代が日本から海外へ飛び立った。12年後の2008年には、262万人となり、
43.4%も減少した。なかでも、20代前半の女性の減少率は5割であり、半減した。1972年(昭和47年)、日本人の海外出国者数は初めて年間100万人の大台を突破した。このとき、3.5人に1人は20代の若者であり、そのうちの女性の45%は20代だった。
 『地球の歩き方』は1976年(昭和51年)に初登場したが、そのときは文庫本サイズの非売品だった。市販されたのは1979年(昭和54年)のこと。300頁をこえる分厚い本だった。私は、今もこの本は参照しています。
 日本の観光旅行には二大特徴がある。第一に、伊勢参りのような団体旅行が主流であり続けた。第二に寺社参詣のような大義名分を掲げる旅行が主流である。なるほど、そうですね。当会でも、裁判所訪問を大義名分に掲げて海外旅行を重ねている弁護士グループがあります。
 1980年代の半ばに登場した旅行情報誌が、旅行業界の勢力図を一気に塗り替えた。1985年に495万人だった日本人の海外渡航者は5年後の1990年には、1100万人へと倍増した。平均して国民の11人に一人が毎年、海外へ旅行するようになった。多くの日本人にとって、海外旅行は一生に一度の大イベントではなくなり、国内旅行よりも安い海外旅行が語られるようになった。1990年には、大学生の3人に1人が卒業旅行で海外へ旅立った。
ところが、今やリクルートの旅行情報誌『ABロード』は2006年10月号で休刊となり、その機能をインターネット上に移した。インターネットは、「孤人旅行」を加速している。なぜか・・・・。
どこへ行っても同じような「買い・食い」体験をする、定番化した「歩かない」個人旅行は、どこでも同じことを繰り返す海外旅行でもあり、1~2回行けば飽きてしまう。
スケルトン・ツアーの一極化とカタログ型ガイドブックの躍進によって、「買い・食い」中心の孤人旅行が日本人の海外旅行の基本形となった。
「歩かない」個人旅行が主流となり、旅先の日常生活と接点を持たない孤人旅行が海外旅行の基本形となって久しい現状では、若者は魅力を感じないだろう。
「歩く」旅を改めて提起する必要があると著者は強調しています。
 この夏の私のブルゴーニュをめぐる旅は、まさに「歩く」旅でした。そのとき、いくらかフランス語を話せるのが最大の利点になりました。政治を語ったりするような難しい話はできませんが、ホテルやレストラン、そして、タクシーに乗るくらいは不自由しないのです。弁護士になって以来、36年も朝のNHKフランス語講座を聴き、年2回のフランス語検定試験を受けていますが、あきらめずにフランス語の勉強を続けていて良かったと心から思っています。
 
(2010年7月刊。780円+税)

2010年11月10日

手記・反戦への道

 著者 品川 正治、 出版 新日本出版社  
 
 松山への出張の帰りに読みはじめ、飛行機のなかでも涙を流しながら一心不乱に読みふけってしまいましたので、雨雲のなかでのひどい揺れを気にすることもなく福岡空港に無事着陸したのでした。
著者の講演は直接きいたことがありますし、別に書かれている本も読んでいましたが、戦前の学校生活そして中国大陸での生死紙一重の戦争体験記を読んでいると、身体中が震えてしまいます。
著者が擲弾筒を発射して敵の中国軍に命中させたとき、国を侵略軍(日本軍のことです)から守るために起ち上がった中国人を何人も殺したわけです。そして、ついに、著者は中国軍の砲撃を受け、直撃こそ免れたものの、血だらけとなり、部隊全滅と日本へ伝達される憂き目にあったのでした。しかし、砲の破片が身体に入ったままではあっても、なんとか生命だけは助かり、終戦を迎えることができました。この終戦時に、反戦思想の故に前線をたらいまわしにされていた隊長と一緒に行動するなかで、捕虜となって飢え死に寸前に日本へ無事に帰りついたのです。ところが、日本で著者の帰りを待ちわびていたはずの恋人は戦災で亡くなっていました。その嘆きは深いものがありますが、その日は著者が生死をさまよっていたのと同じ日だったというのも偶然とは言えない一致でした。
 著者が学征出陣するきっかけとなった京都の三高での生活も興味深いものがあります。18歳ころというのは、何も考えていないようで、深く人生を考えるものだということを、我が身を振り返っても言えることだと思いました。
 それにしても、西田哲学をはじめとして、いつ兵隊にとられて死ぬかもしれないという状況の下で、必死になって学問を深めようとするものなんだと痛感しました。私自身は19歳から20歳にかけて大学二年生として東大闘争を経験しています。そのころから、セツルメント活動をふまえて、それなりに人生をいろいろ考えていました。著者のように、いつ兵隊にとられて戦場で死ぬかもしれないという切迫感こそありませんでしたが、真剣に生き方を模索する学生は多かったものです。
 この本は、著者の青春そして多感な恋愛記でもあります。そちらのほうも大変興味深く読みすすめていきました。なかなか思い切った決断をしたものだと感嘆させられたことです。 一読に価する本としておすすめします。 
(2009年2月刊。1600円+税)

2010年11月 4日

歩いて見た太平洋戦争の島々

著者:安島太佳由、出版社:岩波ジュニア新書

 太平洋戦争を美化しようという声は戦後一貫してありますが、戦跡の写真と、その体験記を読むと、なんとまあ無謀な戦争に日本が突入したのか、信じられません。
 たとえば、クリント・イーストウッド監督によって映画になった硫黄島です。
 硫黄島にいた日本軍は2万1000人。そこにアメリカ軍7万人が上陸した。1ヶ月の戦闘によって、日本軍は2万人をこえる戦死者を出し、アメリカ軍は6800人の死者と2万人の負傷者を出した。
 そして、今なお、日本兵1万1000人の遺骨が地中にあり、回収されていないのです。
 兵隊さんを二度と殺してはいけない。一度目は戦死。二度目は、彼らの存在を忘れて見殺しにすることによって。
 水のない島で、地中深く、50度以上にもなるなかで潜んで殺されていった日本兵の無念さを思うと、涙が出てきます。
 最近も、慰霊祭に参加していた中学生が草むらで鉄のかたまりを見つけて放り投げて遊んでいたところ、それは不発弾でした。こんなことが、今も硫黄島には起きています。
 日本政府の責任でなんとかすべきではないでしょうか。幸い、少し動きが出ているようです。
 次はガダルカナル島。ここには、次のような生命判断があった。立つことのできる人間の寿命は30日間、身体を起して座れる人間は、3週間、寝たきり起きられない人間は1週間、寝たまま便をするものは3日間、ものを言わなくなったものは2日間、またたきしなくなったものは、明日。
 このようなガダルカナル島で悲惨な体験をした兵士の存在が日本人に知られることを恐れた軍部は、彼らを次の戦場へと送り込んだ。天皇陛下の皇軍は、最後まで勇猛果敢に戦い、お国のために戦死していったことにし、餓死などはなかったことにしたかったのだろう。
 ジャワの天国、ビルマの地獄、生きて還れぬニューギニア。
 このニューギニアの戦場は、生きて還れぬどころか、「死んでも還れぬ」場所だった。
 戦場では、死は特別のものではなく、日常ですらあった。
 一ヶ月近くのものは、すでに完全な白骨。全身にウジ虫がわいているのは数日前、まだ息があるのではと思えるものは、昨日、今日。
 ニューギニアのビアク島では、今でも、掘れば、すぐに日本兵の白骨死体が出てくる。割れた頭蓋骨に、白い歯がそのまま残る顎の骨が土の中から出てきた。
 なんということでしょうか。日本政府は直ちに遺骨収拾団を公費で派遣すべきです。そして、その結果を国民に報告する必要があると思います。人間の生命を粗末にしてはいけません。
 兵士といえども人間なのです。国の命令で仕方なく遠い戦場に行かされて亡くなった人々を放っておいていいわけがありません。読んでいて日本政府の無為無策にますます腹が立ってしまいました。
(2010年4月刊。940円+税)

2010年10月23日

靖国神社の祭神たち

著者:秦 郁彦、出版社:新潮新書

 靖国神社は明治維新とともに誕生した。現在、祭神は246万余柱である。
 靖国神社は、国有国営の別格官幣社から単位の一宗教法人へ衣替えして今日に至っている。
 小泉首相(2001~2006年)は1年に1回のペースで参拝を続けたが、そのあとの安倍、福田、麻生、そして鳩山の各首相は公然たる参拝を控えている。
 昭和天皇も靖国神社へA級戦犯が合祀されてから参拝しなかった。1975年(昭和 50年)以降、天皇の参拝はない。
 西郷隆盛は、その死から12年後に罪名を取り消されて正三位を贈位されたが、靖国神社には合祀されていない。
 原則として天皇と天皇の統率する軍隊のために忠節を尽くした死者に限定され、反乱者や賊名を蒙った人々は対象外とされた。
 日清戦争直後までは、戦病死者は「不名誉な犬死」として合祀対象ではなかった。日清戦争の戦病死者の多くは、戦地における軍の衛生管理が不十分なことに起因するのは明らかだったから、救済する必要があった。しかし、民間人でも、日清戦争で軍に雇われ、「戦病死」した人夫(軍夫)は、合祀対象にならなかった。
 日露戦争のころは、捕虜と確認されるや、氏名が新聞発表されるほど、寛容だった。
 昭和10年までの女性の合祀者は累計で49人にすぎなかったが、支那事変以降は急増し、2006年末までの女性祭神は5万6161柱に達する。
 生存捕虜の情報を得ると、陸軍は将校の停年名簿から削除した。しかし、海軍は、終戦まで、士官名簿から外してはいない。
 戦後、遺族のあいだから靖国神社の存続を占領軍に請願する動きもあったが、インフレと食糧難の生活苦にあえいでいた一般国民の関心は急速に薄れ、年間の参拝者数は、ピーク時の192万人(1944年)から25万人(1948年)に落ち込んだ。
 私も一度は靖国神社に行ってみたいと思っています。それにしても、伊藤博文も、乃木希典も靖国神社に合祀されていないのですね・・・。
(2010年1月刊。1300円+税)

2010年10月14日

高橋是清暗殺後の日本

 著者 松元 崇、 大蔵財務協会 出版 
 
 著者には内閣府大臣官房長という肩書があります。大蔵省(財務省)のエリート官僚コースをたどっていますが、戦前の日本史もかなり勉強していて大いに勉強させられました。ただ、いくらか「陰謀史観」の悪影響も受けているように思われ、もう少し突っ込んで調べてほしいと思うところがありました。
 たとえば、第二次上海事変をソ連の陰謀によって発生したというのです(本を引用しています)。これには首を傾げました。また、1940年(昭和15年)8月の中国大陸における百団大戦について、これは、日本軍と極秘の協力関係を結んでいた毛沢東の意に反したものだったとしています(コン・チアン氏によれば・・・・)。ええっ、こんな話は聞いたことがありません。本当でしょうか。著者自身が、この百団大戦について、もっと調べたほうがいいのではないかと思いました。
そんな「弱点」はありますが、戦前の日本を国家経済そして財政学の観点からみたらどうなるのか、考える材料が提供されています。
 2・26事件当時、繁栄していた日本が突然、「持たざる国」になって窮乏化していったわけではない。経済原理を理解しない軍部の満州経営や華北経営が、経済的な負け戦となって、日本経済をジリ貧に追い込んでいき、日本を「持たざる国」にしてしまった。軍部による経済的な負け戦は、「贅沢は敵だ」と言わなければならないほどに国民生活を窮乏化させていった。それを英米の対日敵対政策のせいだと思い込んだ(思わされた)国民は英米への反感を強め、実はそれをもたらしている張本人である軍部をよりいっそう支持するようになっていった。そのような状況下で、本来なら戦う必要のなかったアメリカとの大戦争に突入し、国土を焼野原にされて敗戦を迎えたのが、あの第二次世界大戦だった。
 この指摘にはあまり異論はないのですが、果たして2・26事件当時、日本は繁栄していたのでしょうか。東北地方では娘の身売りもあったほど、貧困問題も深刻な社会状況があったと思いますが・・・・。
 戦前日本の急増する軍事費の大部分をまかなったのが公債と借入金だった。
賀屋興宣蔵相は、昭和17年1月の帝国議会において、「多くの公債を出して戦争生産が増大しうる状況が勝つために必要であります」と述べ、さらに、昭和18年2月の帝国議会では、「公債の信頼性は勝利によって獲得する敵産が裏付けとなります」と答弁して急増する軍事公債の発行を正当化した。
国民の食糧を安定確保することは、戦時中に政府の最重要の課題で、政府は米穀の売買を全面的に国家統制の下に置いた。その際、地主からの買い上げ価格と、実際の生産者からの買い上げ価格に差をつける二重価格システムが採用された。政府は、米一石あたり50円で買い入れたが、小作人(生産者)に対しては、生産奨励のための生産奨励金が上乗せされた。小作人への生産奨励金は、当初5円だったものが、最終的には200円にもなり、50円しか受けとれない地主の社会的・経済的基盤を掘り崩すことになった。この仕組みの結果、終戦時には、小作人が耕作する農地は、地主にとって、ほとんど価値のないものになり、それが戦後の農地解放を地主層に大きな抵抗なく受けいれさせる背景となった。
こんなことは私は知りませんでした。私の父の実家も少しばかりの地主で、いくらか農地解放で小作人のものになり、戦後、中国大陸から復員してきた父の弟のために田を回復してやったという話は聞いていましたが・・・・。
戦後の日本の金本位制は、実は、今日の管理通貨制度に近いもので、欧米のように金貨が流通することはなかった。日本では、江戸時代から金貨は一般に流通せず、藩札や銭が広く流通していた。
そして、商業上の決済には、為替や手形が用いられていて、金貨の利用は贈答用に限られていた。江戸では手形よりも金銀貨で商人間は決済していたが、京都では50%、大阪では99%が手形だった。為替手形は、17世紀から江戸でつかわれていた。その手数料は一両につき1~2%という低率だった。江戸時代の大阪で先物市場が創設された背景には、商人間の取引の99%が手形で決済されるという金融取引の実態があった。
大変勉強になった本でした。 
(2010年8月刊。1800円+税)
 親しい弁護士仲間と盛岡近辺を旅行してきました。一日目の初めは、猊鼻渓の舟下りです。天気予報によると雨の確率は高かったのですが、バスのガイドさんの名前が照美さんだったので、幸いなことに雨は降りませんでした。
 平底の大きな舟に乗り込みます。中央を含めて三列、60人も詰め込まれました。船外機はついておらず、船頭さんのこぐ櫓(ろ)だけで舟は進みます。しかも、舟はまずは川を上っていくのです。川の流れはゆったりしていますが、それでも60人乗りの平底舟をこいで進めるのには、相当の力が必要なはずです。私たちの乗った舟をこいだのは、唯一の女性船頭さんでした。30分ほども進むと上陸地点があり、そこから歩いていくとすごい断崖絶壁が対岸にそそりたっています。その対岸の壁に平たい穴があいていて、そこに小石を投げ込むと招福無病息災が約束されるというのです。30メートルは離れているでしょうか。東京の本林さんが、なんと一発必中しました。私たち仲間全員に招福・息災が保障されたと信じ、みんなで拍手しました。
 舟着き場に戻り、舟に乗って今度はゆるゆると川下りを楽しみます。両岸の森は紅葉にはまだ早く、緑の静けさに包まれています。
 上りのときには櫓をこいで、少し息の上がっていた感のある女船頭さんが、歌を披露して下さいました。とても息の長い舟歌です。トンビがヒュルルルと鳴いて合いの手を入れてくれました。静かな川面に歌が流れ、涼しい風が肺の奥底まで澄み切った緑の香りを吹き込んでくれます。
 舟の両側には大小の魚たちが伴走しています。小さいのはウグイ、大きい方はコイです。エサをなげると水面に大きな口をあけてひとのみです。このエサを目当てに伴走しているのでした。
 アオサギが頭上を静かに飛んでいきます。運がいいとカモシカにも出会えるといいます。
 往復1時間半ほど、山の中、川面を静かに楽しむことができました。まさに命の洗濯です。

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