弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦後)
2013年2月 4日
敗戦と戦後のあいだで
著者 五十嵐 恵邦 、 出版 筑摩選書
大変教えられることの多い本でした。たとえば、私は40年前の大学生時代、毎日が暴力に向き合う日々でした。私自身も、ヘルメットをかぶり、角材を持ったこともあります。幸い、殴られたことはなく(飛んできた石が頭にあたってケガしたことはあります)、誰かを殴ったこともありません。でも、もみあいの現場にいたことは何回もあります。そして、その騒乱の1年が過ぎると、すっかり忘れてしまったかのように、誰もそのことを話さなくなりました。まるで、そんなことはなかったかのように話題にすらのぼらなくなりました。
それを話題にしたら、そのとき、どちら側にいたのか、敵か味方か、そして、それは何を目ざしていたのかをはっきりさせなければならなくなります。でも、それは意外にも難しいことなのです。幸いにして、学内でのリンチ事件というのはほんの少ししかありませんでしたし、学生が殺されることもありませんでした(病死とか、精神的におかしくなってしまった学生はいました)。
この本は、戦争というもっとも極限状態に置かれた元兵士の人々が、なぜ過去をそのまま語ることはないない理由を明らかにしています。
大多数の日本人は、戦後日本の債権のプロセスに敗戦直後から参加することによって、自らの日本人としてのイメージを修復する機会をもった。しかし、シベリア帰りのように遅れて還ってきた者たちには、そのような機会が与えられなかった。彼らが帰ってきたときには、既に、戦争全般だけではなく、復員、引揚げの体験についての国民的な物語がすでにできあがっていた。その結果、遅れて還ってきた者たちは、怖れ、好奇あるいは哀れみの目で見られ、その異質な戦後体験はメディアによって封じこめられてしまった。
大日本帝国が崩壊したとき、688万人の日本人が外地に取り残されていた。内地の人口7200万人の9.6%にあたる。そして、そのうち367万人は帝国陸軍の将兵であった。
引揚者は、劣った日本人として日本社会の周縁的な位置を与えられた。引揚者との対比で、本土を離れることのなかった日本人は、自らより恵まれた境遇を言祝(ことほ)ぎ、より純正な日本人として優越感をもつことができた。
帰還者たちは、日本人の負の遺産を背負った周縁的な存在として差別されながらも、より純正な日本を照らし出す鏡として必要な存在となった。彼らは日本社会に受け入れられながらも、つねに懐疑の目で見られる両義的(アンビバレント)な存在であった。
五味川純平は『人間の条件』全6巻を書くことで、過去を生き直した。何百万という同時代の読者も五味川の作品をとおして過去を再体験した。この再体験は、戦後という現在と戦時という過去との距離を確認するためのものとなった。
五味川は東京商科大学に入学したあと1年で退学し、東京外国語学校に入学し直した。唯物論研究会に参加していたため、西神田警察に1ヵ月拘留されたこともある。中国満州にある製鉄所で働いていたが、兵隊にとられ、日ソ会戦のあと、全滅に近い部隊で生き残った5人の一人となった。シベリアに送られる途中で脱走し、日本人による民主化運動に参加して、1947年暮れに日本へ帰国することができた。
主人公梶のようなスーパーマンでさえ戦時下にあって効果的な異議申立ができないのであれば、誰にも歴史の流れを変えることはできないのであり、ただ生き延びて戦後にたどり着くことが最良の選択であったというのが妥当な結論となるだろう。
梶は、「俺が日本人だってことは俺の罪じゃない。しかも、俺の罪の一番深いのは、俺が日本人だってことなんだ」と嘆く。
シベリアに抑留された日本人は80万人ほど。広大なシベリアに散在する2000ヶ所以上の収容所で長期に抑留された。そして、そこで10万人以上の日本人が亡くなった。この抑留体験は忌まわしい記憶であり、戦後日本の反ソ感情の核となった。
1949年、ソ連の「民主化教育」によって熱心な共産主義者となった抑留者が日本各地でさまざまな騒ぎを起こした。多くのものは、日本に帰り着いてしばらくもしないうちに、その教育の成果を見捨ててしまった。メディアは帰還してきた「赤い」抑留者たちの攻撃的な行動を、あくまでも好奇の目で見た。
抑留者たちの帰郷は、シベリアの収容所で思い描いたような、バラ色のものではなかった。さまざまな理由からその抑留体験は思い沈黙につつまれ、元抑留者たちの個人的な体験記も多くの読者を得ることはほとんどなかった。
日本語でよく使われるノルマが、シベリアでの元抑留者たちが日本に持ち帰ったロシア語だというのを初めて知りました。
捕虜にとって、収容所で生きのびることの代償はあまりに高かったし、多くの者はシベリアでの非人間的な条件を生き抜くため、自らのそして仲間たちの苦しみに目を閉ざさねばならなかった。
苦境のなか、捕虜たちは二度打ち砕かれた。最初は肉体的に、そしてそのような状況をおとなしく受け入れなければならなかった屈辱のために。多くの抑留者にとって、戦後日本は居心地のよい場所ではなかった。抑留者の帰還が国をあげて祝われることもなかった。
1972年1月、グアム島で発見された横井庄一の28年にわたるジャングルでの潜伏生活は理解をこえるものだった。
1974年3月、フィリピンのルバング島からの元陸軍少尉、小野田寛郎が生還した。
この二人が日本社会にどのように受け入れられたか。また、彼らがその後、日本でどんな生活をしたのか、大変興味深い論述がなされています。そして、なぜ彼らは30年近くジャングルに潜んでいたのか、本当に終戦を知らなかったのかという重たい問いかけがなされています。
320頁の本ですが、読み終わったとき、戦後日本の負の重みが両肩にどっしりかぶさってきた気がしました。アメリカの大学で教える50代前半の日本人学者の本だと知って、その点でも驚きました。日本は、よそから眺めたほうがかえって、よく見えてくるのでしょうね。
(2012年9月刊。1700円+税)
2013年1月30日
治安維持法
著者 中澤 俊輔 、 出版 中公新書
稀代の悪法と言われる治安維持法は戦前の軍部独裁政治のなかで規制されたものではなく、実は護憲三派内閣のときに成立したものでした。なぜ、そんなことになったのかを考えてみた本です。
ファシズムは、初めのうちはフツーの人間の顔をして近寄ってくるものなんですね。そして、その仮面の下のホンモノの怖い顔が現れたときには、もう手遅れなのです。
治安維持法は、1925年、護憲三派の連立政権である加藤高明内閣のとき、「結社」を取り締まる法として成立した。なぜなのか?
治安維持法の主管官庁は、内務省と司法省だった。内務省は、行政処分と重複する新しい取締法を設けることに消極的だった。内務官僚は、貧困や労働問題といった社会の矛盾を柔軟に受けとめようとした。
明治政府の元勲・伊藤博文は1900年、立憲政友会を組織した。政友会は「万年与党」だったが、その成長の裏には原敬の内務省支配と利益誘導政治があった。
ところが、1921年(大正10年)11月、原敬が暗殺され、政友会は突然にリーダーを失ってしまった。カリスマ亡きあとの政友会は内紛をかかえた。
憲政会は「思想善導」を政策として打ち出し、内務官僚に人脈を築いていた。しかし、司法省には独自の人脈を築けなかった。
立憲国民党は、犬養毅を総理として1910年に結成された。弁護士やジャーナリストが集まる、リベラルな性格を持っていた、犬養は、言論・出版・集会の自由を主張した。1922年に解党して革新倶楽部として再出発した。
治安維持法を制定した加藤高明の護憲三派内閣は、政友会・憲政会・革新倶楽部の連立政権として誕生した。
1900年の治安警察法は万能であったが、結社の禁止処分はあくまで行政処分であって罰則ではないという限界があった。
1922年(大正11年)、政友会を与党とする高橋是清内閣は過激社会運動取締法案を閣議決定して国会に提出した。しかし、廃案となった。第一に、学者・新聞・言論人が反対した。第二に、与党が反対した。政友会の内紛も無視できない。第三に、主管官庁の司法省と内務省の歩調があわなかった。第四に、貴族院が反発した。司法省は、宣伝ではなく、結社を罰することで個人の言論活動には深く立ち入らないというスタンスを示そうとした。内務省は、ソ連とコミンテルンを警戒したことから、治安維持法の制定に賛成した。
国会での審議を通じて、治安維持法が「宣伝」取締法ではなく、「結社」取締法として成立したことには言論の自由を重視する憲政会の意向が反映されていた。
成立した治安維持法の問題点は次のとおり。
第一に、文言があまりにも漠然としている。「団体変革」は、融通無碍(むげ)に拡大適用された。
第二に、暴力や不法行為の実態がなくても処罰の対象となることは、結社の自由な活動を萎縮させた。
第三に、法成立時に「団体変革」を目的とする結社は存在していなかった。その結果、治安維持法は、次第に本来は対象外である「宣伝」へ適用を広げた。
1928年3月15日、共産党員への一斉検挙が行われた。全国で1000名が逮捕されたが、起訴されたのは488名だった。押収された党員名簿によると、逮捕された党員は409名のみで、検挙者の4分の1にすぎなかった。
1928年4月、治安維持法が改正された。目的遂行罪を導入し、死刑を法定刑の上限にふくめた。
1929年4月16日、共産党への一斉検挙で700名が検挙された。
1928年10月から始まった陪審制では、治安維持法違反事件は対象外とされた。陪審員が共産党の影響を受けることを恐れたためである。
治安維持法違反の検挙者は1928年から40年までに6万5000人をこえた。1931年から33年までに3万9000人であった。そして、そのうち起訴されたのは5400人ほど。検挙者の9割は起訴されなかった。
若手の学者によって治安維持法の実態を知ることのできる本でした。
(2012年9月刊。860円+税)
2013年1月 9日
ここまでわかった日本軍「慰安婦」制度
著者 日本の戦争責任資料センター 、 出版 かもがわ出版
日本軍が「慰安婦」制度を設置した理由は4つ。
第一は、強姦の防止。しかし、これは失敗した。軍の中で、慰安所で性暴力で公認しておいて、外で防ぐのには無理がある。
第二に、性病の蔓延防止。実際には、これも失敗した。戦地での性病の新規感染者は1万人をずっと超えていた。
第三に、戦地にいる軍人に「慰安」を提供する。酒と女性を提供するということ。
第四に、防諜。スパイ防止ということ。
日本軍「慰安婦」制度は軍が主体となってつくった施設である。
慰安所の女性は、外出の自由がない、外出するのは許可制。ビルマで保護された20人の日本軍の朝鮮人慰安婦のうち、12人は連行されたとき未成年だった。21歳未満の女性については、本人が売春目的であることに同意していたとしても、国際条約によると違法であるとされている。
1937年の時点で、大審院が、上海の海軍慰安所に女性をだまして連れていったことを犯罪として認定した。
戦後、バダビア軍法会議の判決は次のように判示した。
「はじめの抵抗のあと、この残忍で非人道的な行為の犠牲者である女性たちが無駄だと思って抵抗を止めたからといって、彼女たちが自発的に売春したとか、被告の将校や慰安所業者の責任を逃れるということを正当化するものではない。なぜなら、最初に加えられた暴力行使の効果として起こったものであり、そこでは基本的な行動の自由はまったく論外だったからである」
日本軍が、軍隊の責任で「慰安所」を設置していたこと、多くの女性を日本だけでなく朝鮮半島や東南アジアからだまして連れて(拉致して)いたことは日本史の重大な汚点です。軽々しく否定するわけにはいきません。
安倍首相がこの歴史的事実を否定する談話を出そうとしていますが、韓国・中国そして東南アジアからの反発は避けられません。ますます日本は孤立化してしまいます。
(2007年12月刊。1000円+税)
2011年11月 1日
兵士たちの戦後史
著者 吉田 裕 、 出版 岩波書店
兵士体験者の生存数は2008年7月時点で40万人とみられている。大激減しています。それはそうですよね。終戦時に20歳の兵士であっても、今なら85歳ですからね。
私の叔父は90歳を過ぎていますが、中国で八路軍としばらく行動をともにしていました。そんな戦争体験を早いこと聞き出しておかないと、歴史の闇に埋もれてしまいますよね。
戦場の現実。第一に、戦病死という名の事実上の餓死者が大量に発生した。餓死者は140万人、餓死率は61%という推定がある。第二に、多数の将兵・軍属そして船員が船の沈没によって戦没した。40万人近くが溺れ死んだ。第三に、特攻死が初めて登場した。航空特攻だけでも、陸軍1327人、海軍2616人の戦死者を出している。
戦艦「大和」が沈没したとき、アメリカ側は12人が死んだだけで、日本側は3700人もの戦死者を出した。
硫黄島で死んだ日本軍の将兵のうち、敵弾で戦死したのは3割。残り7割の日本兵は、自殺が6割、1割が他殺、残りは事故死によって死んでいった。むむむ、これは実にむごい比率です。
日本への復員船のなかで、上官に対する吊るし上げやリンチが公然と行われた。階級による厳格な軍隊内秩序に対する兵士たちの怒りが爆発した。そして、社会全体の復員兵に対する態度は冷ややかなものだった。巨大な政治勢力と化して権力を乱用した軍部や権力的地位にあった軍上層部に対する反感・反発が復員兵全体に向けられた。とりわけ戦前にはヒーローだったパイロットたちへの反動には大きなものがあった。
私たちは民族自身のために戦ったのではなかったから、祖国の土を踏んでも、祖国の人たちと、まるで他人同士のようにしか接しなかった。これは、ある復員兵の述懐した言葉ですが、やはり戦争目的が他国への侵略だと、こうなるのでしょうね。
中国からの帰還兵には、自分たちは負けていなかったとして、襟章を外そうとしない者が多かった。決着のつかなかった中国戦線の兵士たちには、日本軍の襟章・階級章は、むしろ誇りであった。
1961年に、軍人恩給に加算制が復活した。これによって在職期間が割り増しされた。その結果、1960年の軍人恩給を受けている47万人から1970年には126万人近くにまで増えた。
1972年1月、グアム島のジャングルに28年間潜伏していた元日本兵の横井庄一・陸軍伍長が島民に発見された。また、1974年には、フィリピンのルパング島で30年にわたって潜伏活動を続けていた小野田寛郎・陸軍少佐が発見された。
1974年12月には、インドネシアのチロタイ島で元日本兵の「中村輝夫」(台湾の高砂族出身。実名はスニョン、中国名は李光輝)が発見された。
軍隊のなかでは、私的制裁つまりリンチが横行していた。中隊長は父、班長は母、古年次は兄というのが建て前で、実際には会話なんてない父、継母、また暴力団の兄というのが真相だった。
元兵士たちは、残虐行為などの戦争犯罪に関して証言しても性暴力、とりわけ自分自身が行った性暴力については語ろうとはしないのが一般的である。性犯罪について話すのは、殺人よりも精神的に辛い。それは「命令でやった」という免罪符のつかえない犯罪だからでもある。
戦友会は、会員の高齢化のため、次々に解散し、活動を停止しているとのことです。
日本軍の将兵の実態を知るうえでたいへん貴重な労作でした。
(2011年7月刊。2800円+税)
2011年3月23日
ヒロシマ
著者 ジョン・ハーシー、 出版 法政大学出版局
この本の初版が発行されたのは1949年4月のことです。全世界に原爆の惨禍を知らせ、ピュリッツアー賞を受賞したのでした。広島に原爆が投下された、その瞬間にいあわせて生き残った6人の戦後史が淡々とした筆致で描かれているので、かえって原爆のむごさ、非人道性が浮き彫りになっていきます。もちろん、何十万人もの罪なき人々を一瞬のうちに殺戮した残酷さはもっともっとひどかったことでしょうが、全世界の人々に原爆の惨禍を知らせた点に大きな意義のある本です。
50年たった2003年に7月に刊行された増補版を読んでも、まったく古臭さを感じさせません。それどころか、テロリストへの核拡散の脅威まである今日、ますますその意義は大きくなっています。
原爆投下前、何週間にもわたって、毎夜のようにB29が広島上空を飛んできた。その警報が頻繁なくせに、「Bさん」が相変わらず広島を敬遠しつづけていることが、かえって広島市民をびくびくさせ、アメリカ軍には広島向けの何かとっておきがあるらしいという噂が立った。日本の主要都市のなかで、京都と広島だけが、まだ「Bさん」、日本人は尊敬と不本意ながらもなれなれしさとをこめて、B29をこう呼んでいた、の大挙訪問を受けていなかった。
投下の直後、驚くべき景観を見た。にごった大気越しに眺めうるかぎりの広島市街から、恐ろしい毒気がもうもうと立ちのぼっていた。やがて、おはじき玉大の水滴が落ちはじめた。
ただの一撃で、人口24万5000人の都会で、即死もしくは致命傷が10万人、負傷者も10万人以上にのぼった。少なくとも1万人の負傷者が、広島市中随一の日赤病院に押しかけてきた。病床は600にすぎず、それも全部ふさがっていた。道路を何百、何千という人が逃げてくる。一人残らず何かしら怪我をしているらしい。眉は焼け落ち、顔や手の皮膚はむけて、ぶらさがった人もいる。痛さのあまりに、両手で物を下げたようなかっこうで、両腕をさしあげたきりの人もある。たいてい裸か、着ていてもボロボロだ。素肌の火傷が、模様のように、シャツの肩やズボン吊の形になった男もいる。白いものは爆弾の熱をはじき、黒っぽい着物はそれを吸収して皮膚に伝えたので、着物の花模様がそのまま肌に焼きついた女の人もいる。
ほとんどすべての人が、うなだれ、まっすぐに前方を見つめ、押しだまって、何の表情も見せない。
負傷者を船で運ぶとき、どの人の背中も胸も、ねちゃねちゃする。朝みたときは黄色で、それがだんだん赤くふくれ、皮がむけ落ち、夕方には、ついに化膿して臭くなった。ぬるぬる生身を抱いて船から出し、潮のこない斜面にまで運び上げる。これは、みんな人間なんだぞ、と何度も何度もわざわざ自分に言いきかせなければとても我慢できかねた。
爆発後の数日間、あるいは数時間だけでも安静に寝ていた人々は、動きまわったものより発病がはるかに少なかった。
男子は精子を失い、女子は流産し、月経は閉止した。
いま、弁護士会は国是と言われてきた非核三原則の法制化を検討しています。核兵器をつくらず、持たずについては罰則つきで定めるのは容易なのですが、問題は「持ち込ませず」です。例の核密約がありますから、万一のときは、いつでもアメリカは日本の基地に核兵器を持ち込んでくるのではないかという心配があります。
ただ、時代が変わったことも間違いありません。オバマ大統領のプラハ演説のあと、アメリカもそれなりに核兵器をなくす方向には動いています。沖縄そして岩国や三沢などにあった核兵器は今では、完全に撤去されているようです。そこで、「持ち込ませず」が実現している今こそ法制化のチャンスだということです。国会で承認・可決されるような案を日弁連としてまとめて上げることができたらうれしいのですが・・・・。
ヒロシマそして長崎に落とされた原爆の惨禍を追体験できる貴重な本です。
ちなみにアメリカは配置済みの核兵器を減少させながらも、核攻撃力の強化をはかる政策が巨額の予算で推進しているようです。そのため、アメリカには深刻な経済不況がうまれているわけです。
いかなる状況であれ、いかなる目的のためであっても、核兵器の使用は重大な人道に対する罪であり、最終的には、いかなる紛争も軍暴力によっては解決できない。
本当に、そのとおりだと確信させられる本です。
(2003年7月刊。1500円+税)
福島の原子力発電所が地震が起きて10日以上にもなるのに依然として爆発の危機を脱していないのは恐るべき事態です。現場で懸命に復旧作業にあたっている東電の社員の皆さんには心から敬意を表しますが、「絶対安全」と言い続けてきた東京電力という会社自体はあまりにもひどいし、津波の規模が「想定外」だったという弁解は成り立ちません。格納容器が破損するなど、あり得ないはずの事態が目の前で今も進行しているのを知ると、身震いしてしまいます。ともかく一刻も早く放射能の拡散を止めてください。そして、政府は「心配ない」と言うだけでなくもう少し具体的に説明してほしいと思います。
この本を読んだのは今年はじめのことです。まさか、現代の日本でこれほど放射能被害を深刻に心配しなくてはいけないとは想像もしていませんでした。それこそ「想定外」の事態です。
2011年3月10日
ノモンハン航空戦全史
著者 D.ネディアルコフ 、 芙蓉書房 出版
1938年6月、日本軍はソ連国境地帯に短期間のうちに進出した。それに対してソ連軍が反撃し、日本軍は500人の戦死者と900人の負傷者を出して撤退した。この戦闘でソ連軍が迅速かつ決定的な勝利を得た最大の理由は、ソ連空軍の活躍にあった。
ところが、ソ連空軍の能力は、スターリンによる粛清の影響を受けて、最良の状態にあるとはいえなかった。その粛清によって、1973年には赤軍極東戦線のすべての指揮官ポストは交代し、若くて経験の少ない将校たちが新たに空席となった指揮官ポストに起用された。ソ連空軍は、このように指揮組織が痛手を受けていたにもかかわらず、紛争地帯の上空で完全な航空優勢を維持していた。唯一の脅威は、まばらに配備されていた日本軍の高射砲だけだった。
スターリンのうち続く圧政でソ連軍が弱体化していたことは、西欧諸国につとに知れ渡っていた。
ベリヤの秘密警察は、モンゴルの指導者たちを粛清した。1937年の終わり、モンゴル首相プルジディン・ゲンデンは逮捕され、人民の敵として銃殺された。軍高官の多くも反革命分子として処断された。
ノモンハンにいたソ連空軍のパイロットには誰一人として実践を経験したものがいなかった。それに対して日本のパイロットは高いレベルの操縦技術を維持していた。日中戦争で多くの戦闘経験を積んでいて、士気も高かった。その多くは1000時間の飛行経験を有し、部隊の装備にもまったく問題がなかった。
ノモンハン事件が起きたときの日ソ双方の航空戦力に関する評価は、パイロットの準備状況と航空機の性能の観点から日本軍が優勢だった。
1939年5月、日本の航空部隊は、70キロメートルにわたるノモンハン上空の覇者となった。わずか2日間で、日本軍は、その損失1人に対して、ソ連軍に戦闘機15機、パイロット11人の損害を与えた。
ソ連軍は、「航空優勢は敵の手中にある。わが空軍は地上部隊を援護することができない」と報告した。この報告を受けたソ連空軍指導部にとってスペインでの敗北に引き続いての二度目の敗北は考えられないことだった。そこで、経験豊富なパイロット22人を招集した。1939年6月の戦闘において、ソ連空軍は燃料給油の手間によって空における主導権を失ったが、数的には優勢だったため、いくらか穴埋めすることはできた。そのため、ノモンハン事件の戦況は決定的に変化した。日本軍のパイロットたちがソ連機の攻撃から離脱を余儀なくされた。ソ連軍は限られた空域に大量の戦闘機を集中的に投入した。
1939年7月、ソ連軍は「空のベルトコンベア」と名づけた戦術を用いた。これは航空戦力を絶え間なく投入するものであり、地上部隊を直接支援する戦闘機と爆撃機によって、敵の頭上に絶えず脅威が存在している状態を作為するものだった。
このときの航空戦には、日ソ両空軍あわせて300機以上の作戦機が参加した。そして、この日はノモンハン航空戦におけるソ連空軍最初の勝利だった。
1939年7月、ノモンハン航空戦域の航空部隊にバルチック艦隊や星海艦隊の航空隊から高練度のパイロットたちが次々に移動してきた。これらのパイロットたちは、実践を経験することだけを目的に、何の役職も与えられないまま転属してきた。
1939年7月下旬になると、戦闘可能な日本軍の戦闘パイロットたちは戦刀を増強させ優勢となったソ連軍とのほぼ3ヶ月にわたる戦闘で疲れ切っていた。ソ連空軍戦闘機隊が大規模な戦力の集中を始めるや否や、日本軍は機数の不足を出撃数で補わざるをえなくなった。日本軍戦闘機パイロットたちは、1日に5回も7回も出撃することになった。
1939年8月、ノモンハンは、ロケット弾の実証試験の場となった。ソ連空軍は、日本軍航空部隊に対して、3倍の数的優位を維持していた。この数的優位は、とくに爆撃戦力で顕著であり、ジューコフ中将たちはきわめて野心的な目的を設定していた。
日本軍パイロットたちは、1日あたり6.5時間の戦闘時間であり、交代要員もいなくて、健康上の問題が生じていた。肉体的・精神的な極度の疲労は高級指揮官にも蔓延していた。9月の格闘戦でソ連空軍が勝利した原因は、高速性能、発射速度の高い機関銃の破壊力、そして「一撃離脱」戦術だった。
航空優勢が逆転した主たる要因は航空機と人員の予備戦力を十分に確保できる能力にあった。そして、この予備戦力をタイムリーな方法で投入できる能力だった。作戦環境への対応について、ソ連軍は日本軍よりもずっと柔軟であり、かつ断固としていた。
日本軍のパイロットは絶望的なほど不足していた。日本軍の飛行訓練学校で養成したパイロットはわずか1700人にすぎなかった。ソ連空軍の作戦機と補助機は250機。日本軍は164機だった。このうち、作戦行動中に喪失したのは207機と90機である。ソ連空軍が運用したのは900機で、日本軍は400機。これが80キロメートルの幅で戦った。
ノモンハン航空戦は、空中で始めて全面的な戦闘のあったところである。
ノモンハン事件を飛行機の戦いとして知ることのできる貴重な本です。
(2010年12月刊。2500円+税)
2010年11月28日
キャンバスに蘇るシベリアの命
著者 勇崎 作衛、 集英社 出版
終戦後、多くの日本軍将兵がソ連軍によって中国からシベリアに強制連行され、抑留されて働かされました。
著者は、中国で病院の衛生兵として働いていて、22歳でシベリアに送られました。幸い3年後に無事に日本へ帰国できたのですが、その3年間の苛酷な生活を、なんと65歳になってから油絵を始めて絵描きだしたのです。87枚の絵は酷寒のシベリアでの労働の苛酷さ、非人間的状況を如実にうつしとっています。
寒冷期になると、収容所の周囲は雪だけで食べるものがなくなる。監視のソ連兵の残飯捨て場に出かけてガラの骨、キャベツの芯、芋の皮などを一所懸命に探してスープにして食べた。支給される食事で足りない分のカロリーをこうやって補った。
日本兵は、ひどい消化不良と衰弱に加え、寒さのため身体は冷えきって全員が下痢を患っていた。ところが我慢できずに排便しようとして隊列を乱すと、ソ連兵がムチを鳴らして追い立てるのだ。
冬のシベリアは零下40度。冷蔵庫の製氷室よりも寒い。外での作業で本気を出したら、生きて日本に還ることは出来なかった。
日本兵の体力検査は、ソ連の女軍医が尻の皮をつまんで引っぱることで決まった。皮下脂肪の厚さで、重労働、軽作業の等級が決まった。シベリア抑留生活のむごさを描いた絵画集は前にも紹介しましたが、こうやってビジュアルになると、その苦労が視覚的にもよく伝わってきます。
『夢顔さん、よろしく』という本に出てきた近衛首相の息子がシベリアで死んでいったことも改めて実感できました。後世に語り伝えられるべき悲惨な歴史的な事実です。
(2010年8月刊。2400円+税)
2010年11月21日
手塚治虫の描いた戦争
著者:手塚治虫、出版社:朝日文庫
いやですよね、戦争って、本当に・・・。手塚治虫って、正真正銘、マンガの神様ですね。この本を読んで、改めてそう思いました。
手塚治虫には戦争体験があります。まさしく危機一髪のところで命拾いをしたという体験があり、その体験が色濃く投影されています。いずれも、しみじみ考えさせられる場面になっているのですが、そのアプローチがともかく多様なのです。その点、ほとほと感嘆してしまいます。
戦争で殺されてしまった人々が、殺された当時の姿でよみがえって、私たちを忘れないでおくれと迫ってきます。本当に、そうですよね。死んだ人たちは何も言えないのですから、生きている私たちが声をあげて戦争反対、戦争につながる一切の行為をひとつひとつつぶしていかなくてはいけません。
世の中、ともすれば、勇ましい声がまかりとおってしまいます。北朝鮮やっつけろ、中国に負けるな、という声が最近もかまびすしいですよね。でも、現に日本は沖縄だけでなく、首都東京もアメリカに占領されてしまっているような現実もあるわけじゃないですか。なんで、そちらは問題にしないで、いいんでしょうか・・・。
アメリカ兵が日本人を無法に傷つけ、殺しても、その大半は処罰もされません。高速道路だって、私用でもアメリカ兵はタダ。住居の水道光熱費、家賃みんなタダ。首都にある横田基地にアメリカの将兵が降り立っても、日本政府にはだれが何のために来ているかも知らされない。
アメリカの高官は、アメリカ軍は日本を守るために日本にいるわけではないと一貫して高言しています。なのに、一方的に、アメリカは日本を守るために日本に基地を置いていると思い込んでいる私たち日本人・・・。
なんてお人よしの日本人が多いのでしょうか。手塚治虫のマンガは、戦争を防ぐには、武力によらない外交の力が必要だ、そのためには、国民がそのことに自覚と自信をもつことだと訴えています。
日本人が、戦争をふり返るのは8月だけだというのはまずいんじゃないですか・・・。
(2010年7月刊。800円+税)
2010年11月20日
ニッポンの海外旅行
著者 山口 誠、 ちくま新書 出版
20代の海外渡航者が最多を記録したのは1996年(平成8年)であり、この年には463万人の20代が日本から海外へ飛び立った。12年後の2008年には、262万人となり、
43.4%も減少した。なかでも、20代前半の女性の減少率は5割であり、半減した。1972年(昭和47年)、日本人の海外出国者数は初めて年間100万人の大台を突破した。このとき、3.5人に1人は20代の若者であり、そのうちの女性の45%は20代だった。
『地球の歩き方』は1976年(昭和51年)に初登場したが、そのときは文庫本サイズの非売品だった。市販されたのは1979年(昭和54年)のこと。300頁をこえる分厚い本だった。私は、今もこの本は参照しています。
日本の観光旅行には二大特徴がある。第一に、伊勢参りのような団体旅行が主流であり続けた。第二に寺社参詣のような大義名分を掲げる旅行が主流である。なるほど、そうですね。当会でも、裁判所訪問を大義名分に掲げて海外旅行を重ねている弁護士グループがあります。
1980年代の半ばに登場した旅行情報誌が、旅行業界の勢力図を一気に塗り替えた。1985年に495万人だった日本人の海外渡航者は5年後の1990年には、1100万人へと倍増した。平均して国民の11人に一人が毎年、海外へ旅行するようになった。多くの日本人にとって、海外旅行は一生に一度の大イベントではなくなり、国内旅行よりも安い海外旅行が語られるようになった。1990年には、大学生の3人に1人が卒業旅行で海外へ旅立った。
ところが、今やリクルートの旅行情報誌『ABロード』は2006年10月号で休刊となり、その機能をインターネット上に移した。インターネットは、「孤人旅行」を加速している。なぜか・・・・。
どこへ行っても同じような「買い・食い」体験をする、定番化した「歩かない」個人旅行は、どこでも同じことを繰り返す海外旅行でもあり、1~2回行けば飽きてしまう。
スケルトン・ツアーの一極化とカタログ型ガイドブックの躍進によって、「買い・食い」中心の孤人旅行が日本人の海外旅行の基本形となった。
「歩かない」個人旅行が主流となり、旅先の日常生活と接点を持たない孤人旅行が海外旅行の基本形となって久しい現状では、若者は魅力を感じないだろう。
「歩く」旅を改めて提起する必要があると著者は強調しています。
この夏の私のブルゴーニュをめぐる旅は、まさに「歩く」旅でした。そのとき、いくらかフランス語を話せるのが最大の利点になりました。政治を語ったりするような難しい話はできませんが、ホテルやレストラン、そして、タクシーに乗るくらいは不自由しないのです。弁護士になって以来、36年も朝のNHKフランス語講座を聴き、年2回のフランス語検定試験を受けていますが、あきらめずにフランス語の勉強を続けていて良かったと心から思っています。
(2010年7月刊。780円+税)
2010年11月10日
手記・反戦への道
著者 品川 正治、 出版 新日本出版社
松山への出張の帰りに読みはじめ、飛行機のなかでも涙を流しながら一心不乱に読みふけってしまいましたので、雨雲のなかでのひどい揺れを気にすることもなく福岡空港に無事着陸したのでした。
著者の講演は直接きいたことがありますし、別に書かれている本も読んでいましたが、戦前の学校生活そして中国大陸での生死紙一重の戦争体験記を読んでいると、身体中が震えてしまいます。
著者が擲弾筒を発射して敵の中国軍に命中させたとき、国を侵略軍(日本軍のことです)から守るために起ち上がった中国人を何人も殺したわけです。そして、ついに、著者は中国軍の砲撃を受け、直撃こそ免れたものの、血だらけとなり、部隊全滅と日本へ伝達される憂き目にあったのでした。しかし、砲の破片が身体に入ったままではあっても、なんとか生命だけは助かり、終戦を迎えることができました。この終戦時に、反戦思想の故に前線をたらいまわしにされていた隊長と一緒に行動するなかで、捕虜となって飢え死に寸前に日本へ無事に帰りついたのです。ところが、日本で著者の帰りを待ちわびていたはずの恋人は戦災で亡くなっていました。その嘆きは深いものがありますが、その日は著者が生死をさまよっていたのと同じ日だったというのも偶然とは言えない一致でした。
著者が学征出陣するきっかけとなった京都の三高での生活も興味深いものがあります。18歳ころというのは、何も考えていないようで、深く人生を考えるものだということを、我が身を振り返っても言えることだと思いました。
それにしても、西田哲学をはじめとして、いつ兵隊にとられて死ぬかもしれないという状況の下で、必死になって学問を深めようとするものなんだと痛感しました。私自身は19歳から20歳にかけて大学二年生として東大闘争を経験しています。そのころから、セツルメント活動をふまえて、それなりに人生をいろいろ考えていました。著者のように、いつ兵隊にとられて戦場で死ぬかもしれないという切迫感こそありませんでしたが、真剣に生き方を模索する学生は多かったものです。
この本は、著者の青春そして多感な恋愛記でもあります。そちらのほうも大変興味深く読みすすめていきました。なかなか思い切った決断をしたものだと感嘆させられたことです。 一読に価する本としておすすめします。
(2009年2月刊。1600円+税)