弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦後)
2013年9月 1日
私の従軍・中国戦線
著者 村瀬 守保 、 出版 日本機関紙出版センター
1937年(昭和12年)7月に招集されてから1940年12月に日本に帰国するまで、2年半のあいだ中国大陸を兵站自動車中隊の一員として転戦した兵士のとった写真です。
カメラ2台を持っていたので、中隊の非公式の写真班員として認められていた。召集兵ばかりの中隊だったので、古参兵によるいじめはなかった。
天津市内に入ると、すっかりさびれていた。日本軍の爆撃で目ぼしい建物はほとんど崩壊していた。
続いて上海へ。上海戦線は、日中両軍が2ヶ月間も死闘を尽くした激戦だった。
逃げ遅れた中国人の老人と子どもをとった写真があります。いかにも脅えた表情のあどけない子どもは痛々しいばかりです。キャプションには80にもなる老婆がつかまって、2人の日本兵に犯され、ケガをしたとあります。
南京大虐殺の現場をうつした写真も何枚かあります。今でも、「幻の大虐殺」などという日本人がいるのは信じられないことです。
そのあと、有名な徐州作戦に参加しました。ところが、中国軍の主力は逃げたあと。待ちうけていたのは、待ち伏せ攻撃だった。
狭い路地を通過しているときに、真ん中の車両が攻撃され、分断される。怪しい中国人は、日本刀の試し切りとして惨殺される。そんな写真が何枚もあります。
漢口に行き、山西省へ八路軍の討伐に向かう。そして、従軍慰安婦に出会います。日本軍の公設の慰安所が各地にありました。河野談話を否定するなんて、歴史のねじ曲げでしかありません。
ノモンハン戦線に向かって、もうダメかと思っていると、休戦協定が成立。これで、無事に日本へ生還できたのでした。
くっきり鮮明な戦場写真は、それだけ余計に戦争の悲惨さ、残酷さを浮きぼりしています。
(2005年3月刊。2400円+税)
2013年8月10日
軌跡
著者 宮崎 静夫 、 出版 熊本日日新聞社
前にシベリアでの収容所生活を描いた著者の本を紹介しました。
満蒙開拓青年義勇軍に熊本(小国町)から参加し、関東軍に志願して兵隊となり、敗戦後はソ連軍によってシベリアに連行され、そこできびしい収容所生活を過ごしたという過酷な体験記です。
それでも、芸は身を助けるということで、うまく絵を描けるということで収容所生活がなんとか過ごせた面もあるようです。
著者の絵は、無言のうちにも悲痛な叫びに満ちていますよね。
8人兄弟の中の6番目でしたから、満蒙開拓青年義勇軍に志願したのも分かりますよね。
教科書は、ススメ、ススメ、ヘイタイススメというもので、軍国少年そのものだったのです。
満州の現地に着いたのは昭和17年の6月のこと。辛い毎日を過ごすことになります。そして、昭和20年5月に関東軍に志願して、兵隊になるのでした。ドイツが降伏し、沖縄戦が終末期のころです。そして、2等兵のまま終戦を迎えます。
それから、4年間のシベリアでの捕虜生活を過ごすのでした。よくぞ、生き残ったものと思いますが、やはり若さでしょうね。
帰国してから絵を本格的に描きはじめるのでした。
一度、本物の絵を拝見したいものです。熊本県立美術館には飾ってあるのでしょうか・・・。
(2013年3月刊。1000円+税)
2013年8月 9日
昭和30年代演習
著者 関川 夏央 、 出版 岩波書店
昭和30年代とは、貧乏くさくて可憐で、恨みがましい。そんな複雑で面白い時代だった。
私は昭和42年に大学に入学していますので、昭和30年代というと、大半が小・中学生のころになります。たしかに貧乏くさい生活でした。まだ初めのうちは、テレビ見たさに近くの銭湯に入ったりしていました。どこにも子どもがうじゃうじゃいて、群れをなして遊んでいた時代です。空き地には紙芝居のおじさんがやってきました。お小遣いをもらっていない私は、すぐ近くで紙芝居は見ることができません。だって、水アメなどを買う子だけが、すぐそばで見れるのです・・・。
松本清張が流行していました。本来、能力に恵まれているはずの自分が不遇なのは、努力不足のせいではない。生まれ育ちの不利と、それによる学歴不足、そして学歴不足を理由として職場での不当な差別のせいだ。それは一つの信念だった。自分の責任ではない。めぐりあわせの悪さのせい、もっと言えば「他者」のせいだ。そして、その背後には社会を繰り、大衆を支配する「巨悪」がいる。自分に日が当たらないのは、その「巨悪」のせいではないか・・・。なーるほど、たしかに、そういう怨念が感じられる本が多いですよね。
「イムジン河」というフォークソングについて語られています。初めて歌われたのは昭和41年のこと。「水鳥は自由に越える、あの川を、人間はなぜ渡れないのか」
この歌詞は、帰国運動によって不運にも日本から北朝鮮に帰国してしまった在日コリアンの青年が、昭和36年ころにつくったもの。水鳥が「自由に越える」のは臨津江ではなく、実は日本海。つくり手は、故郷の日本や大阪への思いを託した。それを知った朝鮮総連が、この歌のレコードを販売中止に追い込んだ。なーるほど、そういうことがあったんですね。
「帰国運動」は昭和35年が最高潮だったとのこと。ちょうど、大牟田で三池争議が高揚し、安保条約改正に反対する運動が盛りあがっていたころのことです。
三島由紀夫は、「日本の文学」に松本清張作品を入れることに強硬に反対しました。
三島由紀夫は「社会派」を本人が自称していたのだそうです。ちっとも知りませんでした。
「社会小説」のジャーナルを開拓したと自負する三島由紀夫には、高級官僚の墜落と保身を指摘するだけで、「社会派」と呼ばれる松本清張の作品は笑止と映ったはずだ。
三島由紀夫の運動神経は「不器用の一語」だった。それにもかかわらず、途方もなく運動に熱心だった。
昭和37年8月に、堀江謙一少年が太平洋を一人ヨット横断に成功した。日本の新聞の第一報は、非難する調子だった。ところが、アメリカはまったく逆に大きく称揚した。これを知って、日本の新聞のトーンが一変した。
なぜ、アメリカが称揚したのか?
実は、その前日に、ソ連の人工衛星の打ち上げが成功し、アメリカが宇宙技術でソ連に再び遅れをとったことがはっきりした。そんなニュースを大きく扱いたくなくて、たまたま西海岸の各紙が堀江青年の冒険をトップ記事にしたというもの。
なるほど、こんな偶然が作用していたのですか・・・。
「キューポラのある街」とか「にあんちゃん」の背景にある北朝鮮への「帰国運動」の暗部を今は明確に批判できます。でも、当時は恐らく多くの人に真実が見えなかったのでしょうね。気の毒という言葉で簡単に片づけられないほどの不幸をもたらした「運動」でした。
私の今に至るあこがれの吉永小百合について、両親とは結局、和解には至らなかったとのこと。「生活能力の欠けた父親」と断定されています。親子関係は、どこでも難しいものです。それでも、私は今なおサユリストなのです。原発とか戦争に反対して行動する彼女の勇気をたたえます。ついでに言うと、水泳という共通の趣味があるのですよ・・・。
昭和30年代とは、どういう年代か少し分かりました。では昭和40年代はどうなのでしょうか・・・。続編をよろしく。
(2013年5月刊。1500円+税)
2013年7月26日
讀賣新聞争議
著者 田丸 信堯 、 出版 機関紙出版
なんだか難しい旧漢字の新聞ですよね。ええ、もちろん、今のヨミウリ新聞のことです。戦後まもなく、GHQのもとで経営権と編集権をめぐって大争議が起きたのでした。それに経営者側が勝利して、今の右寄り、権力の代弁者のような新聞になったようです。
そこで、オビには、読売新聞争議を知らずして現代は語れない、戦後史の原点を問いただそうという呼びかけが書かれています。
今から16年も前に発刊された本です。昨今の新聞・テレビのあまりに権力べったりの報道姿勢に首を傾けていましたので、その原点を知るべく手にとって読んでみました。
テレビ・ドキュメンタリー風に(映像的復元のように)話が展開していきますので、とてもリアリティーがあり、分かりやすい本になっています。
戦前、そして戦中、日本の新聞は庶民側ではなく、戦争に駆り出す側に立っていた。戦争から自分を守る判断・手段の一切を奪われていた庶民をうえから見下ろしていた。
正力松太郎がヨミウリの社長として君臨していました。正力は、戦前は特高警察官でもあります。
「共産党が、オレをどれだけ憎んでおるか。やつらの十八番(おはこ)は人民裁判だ。処刑されてたまるか」
戦前の日本で弾圧されていた鈴木東民が編集局長となったヨミウリ新聞は、社説で人民戦線内閣をつくれなど、激しい論旨を展開した。これに対して、共産党の主張に肩入れしすぎるという反発が内外に湧き起こった。世間では、ヨミウリ新聞は共産党の機関紙になったとかいう「デマ」が飛んでいた。
1946年4月の戦後はじめての総選挙では、女性も参政権を得ることができた。
自民党1350万票、進歩党(政府与党)1035万票、社会党986万票、共産党214万票だった。
逆流が起き、ヨミウリ新聞は率先して天皇制の擁護と反共産主義を打ち出した。そして、それを吉田茂を通じてマッカーサーに約束した。
ところが、鈴木編集局長のもとで激しい紙面となり、販売部数が激減し、販売店が押しかけてきた。
「アカの新聞で、おまんまを食べては正力さんに申し訳ない」
「共産主義は、わが日本の読者には受け入れられない。それが正力の信念だ。天皇のことを、いつまでもしつこく書くな。共産党の証拠だ」
ヨミウリからアカを追放せよというのは、GHQからの至上命令だった。
アメリカは、アカが大っ嫌いだ。今に必ず全国規模のアカ狩りをやるだろう。
弾圧に抗するたたかいは全国的な支援も受けて盛りあがった。しかし、結局のところ敗北した。鈴木東民は後に共産党を離党して、故郷に戻り、釜石市長に当選した。
知っていていい読売新聞の歴史だと思いました。
権力の代弁者の新聞なら、はっきりそう自己表明すべきですよね・・・。
(1997年8月刊。1500円+税)
2013年7月21日
歴史認識を問い直す
著者 東郷 和彦 、 出版 角川ワンテーマ21
長く外交官を務めていた著者による問題提起の本です。
アメリカは、日中の尖閣問題について二つの原則をもっている。一つは、尖閣諸島を日米安保条約5条の適用範囲として認め、これに対する攻撃があれば、日本側に立つこと。二つには、この尖閣諸島の主権について、日中いずれか一方の立場に立たず、中立を堅持すること。
いまの日本には「右からの平和ボケ」というものがある。尖閣諸島について、日本の実効支配で固めろという、威勢のいい意見だ。最近、とみに声の大きくなっている、この無責任戦闘主義(右からの平和ボケ)は、左からの平和ボケ以上に、我が国の国益を毀損し、場合によっては国の存立を危うくするところに日本を追い込みかねない。
1995年(平成7年)8月15日に発表された村山首相(当時)談話を安倍首相は見直そうとしています。では、村山談話に間違いがあるのでしょうか・・・。
「我が国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました」
これは、消すことのできない歴史的な事実であって、これを認めることは、「自虐史観」というようなものでは決してありません。過去についての反省なしに、アジア諸国と日本は共存することは難しいのです。加害者は忘れても、被害者は容易に忘れることができないからです。
戦争責任の問題を考えるとき、どうして村山談話を重要と考えるのか。その問いにこたえることは、結局、敗戦と戦後の日本の再興の流れをどう考えるのかという、根本問題につながっていく。結局のところ、東京裁判のあと、日本人が自ら総合的に戦争責任と歴史認識についての結論を出したのは、村山談話しかない。
ところが、外務次官までつとめた村田良平は、村山談話について、「愚劣な自己批判」だという。本当にそうなのか・・・。
歴史認識の問題のとき「未来志向」と日本側が言い出すのは禁句だ。被害者の立場に立てば、加害側が「未来志向」と言えば、それは、「過去なんて忘れよう」といっているのに等しく聞こえる。これは、被害者側が決して聞きたくない言葉だ。
1998年の日韓共同宣言において小渕首相は、次のように述べた。
「今世紀の日韓両国関係を回顧し、我が国が過去の一時期、韓国国民に対し、植民地支配により多大の損害と苦痛を与えたという歴史的事実を謙虚に受けとめ、これに対し、痛切な反省と心からのお詫びを述べる」
小渕首相は、村山談話で述べられた内容を再現し、それが植民地支配という観点から韓国に向けられたものであることを明確にした。どうして、日韓双方は、この共同宣言に描かれた和解を持続できないのか・・・。
日本は、慰安婦問題についての対外発信を誤ったため、戦後の世代が営々と築きあげてきたものすべてを失い、よくても世界の孤児か、最悪の場合は国の形を失うような負け戦に入る・・・。
無知は、狂気に通ずる。橋下徹・大阪市長(維新の会の共同代表)の暴言について、今でも、「胸のすく思いがする」といって支持する人がいるようです。しかし、それでは、日本はアジアの中で平和に生きていくことは許されません。反省すべきところは日本人として反省すべきだと思います。
言論による平和外交の大切さ、そして、その難しさを訴える本でした。
(2013年4月刊。781円+税)
炎暑の日が続き、参院選の投票率が心配です。事前予想では5割に達しないだろうということでした。選挙戦は低調だというのです。でも、アベノミクスの是非、憲法改正問題、原発の再稼働と海外輸出、TPP、いろいろ生活に直結するのが政治です。あきらめてしまったら今より悪い方向に向かうだけです。棄権は現在の政権党に白紙委任することを意味します。そんなことしていいものでしょうか・・・。
2013年6月 6日
兵士はどこへ行った
著者 原田 敬一 、 出版 有志舎
日本各地の軍用基地をたどり、また世界各国のそれと対比させて戦争を考える本です。私の住むところは、近くに明治10年に起きた西南戦争の官軍墓地があります。このとき、乃木中尉は軍旗を奪われ、負傷して久留米の軍病院に入院して治療を受けました。軍旗を奪われた将校としてずっと恥に思っていたそうです。
日本の徴兵制は甲種合格となっても全員が入営するのではなく、20%前後が現役兵として入営するものだった。根こそぎ動員になったのは1940年代のことである。このころは、7~8割が入営した。
戦前、陸軍基地と海軍埋葬地が日本全国に設置され、戦後も維持されている。すくなくとも全国79ヶ所に今も残っている。死後にも階級が持ち込まれた。墓域の広さと墓標の大きさの点で階級差が明確になる規定があった。陸軍墓地は師団経理部、海軍墓地は鎮守府が管理責任をもった。
はじめから鳥居、石灯籠、水鉢など、宗教性を示す構築物は認められなかった。あくまでも台石と、その上に墓標を建てることのみが認められた。忠魂碑などの戦争祈念碑は、戦前に建立されたものが8000、ところが戦後に2万5000基に拡大した。宮崎の戦争記念碑の巨大さには圧倒されてしまいました。
将校の墓標は規格品ではなく、形も色もとりどりの自然石であり、さまざまな刻み方をしている。経歴などの碑文を刻んでいるものが圧倒的に多い。将校は死亡してなお、語り、下士官と兵卒は黙して語らずという具合だ。
アメリカのアリートン国立墓地の土地、本来の所有者は南部連合の軍事指導者リー将軍であった。リー将軍が南軍の軍事指導者になったため、北軍の管理下におかれたのであった。
アリートン墓地も、当初は人種と階級によって区分されていた。1947年そして1948年にようやく階級差そして人種差が撤廃された。
欧米型は、階級による差異をつくらない。アジア型では、階級によって墓石の高さや大きさなど、誰の目にも違いがはっきりと見える。
日本、台湾、韓国ともに墓石の大小だけでなく、階級により墓域も指定されている。
韓国には「国立5.18民主墓地」がある。これは1980年の光州事件で韓国軍によって殺害された人々を対象としている。政府に対して民主化運動を起こし犠牲になった人々を「国立墓地」に埋葬するというのは人類史上初めての経験であろう。なるほど、そうなんですね・・・。
国民国家が兵士の埋葬と顕彰に力を入れていたのは、「彼等に続く戦死者」を確保するためだった。国家は、自らの死者をつくっておきながら、死者を覚えておきたくない。それが近代国家の性格であった。そのことに注意を向け、国家に死者を覚えさせておくこと。そのことによって非常の死の国民を生み出さないための方策を考え続けること。それが残された私達の仕事ではないだろうか。
靖国神社国家護持派の人々は、神社と神道のもつ宗教性や歴史性を無視して、なにがなんでも靖国神社を国家が保護し、そこに戦没者祭釈を委任するのが、正当だと叫ぶ。そこには歴史に対する敬意も、現代社会に対する配慮もまったく見られない。
1930年代の国家が決めたことを、その後の国と国民を変更できないのか。憲法でさえ変えられるという人々が、靖国問題のみ神聖不可侵とするのは前後矛盾している。
戦前の軍用墓地が今も残っていて、今でも、戦死者のための墓地を確保する法律がつくられています。国の考えていること盲従したら、国民の生命・健康は決して守られないことを痛感させる本でもありました。
(2013年1月刊。2600円+税)
日曜日に、故池永満弁護士の「しのぶ会」が福岡で開かれ、参加してきました。本当に惜しい人を早くなくして残念です。今でも、池永弁護士が、ひょいと向こうから歩いてきて、「ちゃんと元気にやっとる?」と声をかけてきそうに感じます。
奥様の飾らぬ紹介と思いのたけも大変感銘深いものがありました。池永弁護士が多方面で活躍してきたことがよく分かる、心のこもった会合でした。
寄せ書きと、池永弁護士がなくなる寸前まで著述にいそしんだ大著をいただいて帰りました。
2013年6月 5日
児玉誉士夫、巨魁の昭和史
著者 有馬 哲夫 、 出版 文春新書
児玉誉士夫と聞くと、戦前は帝国陸軍のスパイの親玉として中国大陸でさんざん悪いことをして巨財を成し、戦後はその巨財をもとに自民党を背後で操っていた薄汚い右翼の黒幕というイメージがあります。果たして、その実体はどうだったのか、興味深く読みすすめました。
児玉の最終学歴は商業学校の夜間部に2年通っていたこと。児玉は1929年、赤尾敏の主宰する国粋主義団体「建国会」に入り、青年部の部長になる。昭和天皇の車に駆け寄って直訴状をつき出し、懲役6ヶ月の刑を宣告されて下獄した。その後、1931年5月には大蔵大臣爆破事件に関わり、懲役4回月の実刑も受けた。その後もクーデター未遂などで刑務所に入っていて、1937年4月に出所してきた。そして、中国大陸に工作員として派遣された。
中国における児玉機関が秘密工作をするときには、三井物産、王子製紙、東洋綿花など、三井財閥系の企業を隠れみのとして使っていた。
三井と軍部のスパイは深い関係にあったというわけですね。
海軍は児玉に対して資金を提供するのではなく、上海で現地の人々から没収した資産などを取引原資として与えていた。なんと20万中国ドルも与えたという。暴力的手段をとらないことが児玉機関のポリシーだった。というのも、物資の調達にあたって暴力に訴えるというのは、児玉機関にとって引きあわないリスクを冒すことだったからだ。
児玉は戦後、アメリカ軍からA級戦争犯罪容疑者の指定を受けて巣鴨プリズンに収監された。しかし、児玉本人は、まさか自分が戦犯リストにはいるとは思っていなかった。その点は、笹川良一とは対照的である。
1946年夏以来、児玉は危険人物というより、連合国軍側の重要な情報提供者として巣鴨プリズンに留め置かれた。GHQは児玉をアヘン売買で罪に問うつもりはなかった。アヘン王といわれた里見ですら戦争犯罪に問われないことを決めていたからだ。GHQが里見のアヘン売春を暴くと、それに深く関わっていた中国・国民党も同じく戦争犯罪に問われなければいけない。しかも、この仕組みを考案したのは、連合軍のメンバーであるイギリスだった。
終戦直後の児玉機関の資産は、当時のお金で7000万円だった。そして、鳩山が自由党をつくるとき、児玉が鳩山に与えた政治資産は1000万円だった。東久邇宮内閣は児玉を参与とした。これは、児玉がもっと大きな資産をもっていると見込んで、必要なときには出してもらえると思っていたからだった。
戦後まもなくから、児玉はアメリカのエージェントになっていた。要するに、児玉はアメリカのスパイになったわけです。これで右翼として、日本を愛せといっていたのですから、噴飯物ですよね。
児玉は鳩山に尽くしてきたが、鳩山は首相になると、ソ連との国交回復とか独自路線をとるようになった。そこで、憤慨した児玉は、鳩山を見捨てて、緒方に乗り換えた。
岸信介は、児玉を必要とせず、また、頼もうともしなかった。岸は児玉に頼らずとも、「強力な資金源」と「闇の力」をもっていた。岸が頼ったのは、アメリカのCIA資金だった。だから、CIAは児玉のライバルになった。
児玉誉士夫がアメリカのスパイとして、日本の政財界を操っていた様子が詳細に紹介されている本です。
(2013年3月刊。940円+税)
今年もホタルの季節となりました。歩いて近くの小川に足を運びます。地元の人が「ホタルの里」として手入れして整備しているエリアがあります。ゆらゆらと明滅しながら飛んでいるホタルを見ると、いつもながら夢幻の里に迷い込んだ気分になります。
見知らぬ子が「ホタルをとって」と叫んでいるので私が両手で包むようにホタルをつかまえて、その子に手渡ししてやりました。ホタルはじたばたすることなく、しばらくは手のひらにとまって明滅してくれます。その子の若いお父さんからお礼を言われ、いいことをしてやったとうれしくなりました。
2013年5月 4日
満州国の実態
著者 小林英夫・張志強 、 出版 小学館
「検閲された手紙が語る」というタイトルの本です。戦前の関東憲兵隊の『通信検閲月報』を掘り起こして満州国の実態を明らかにした貴重な労作です。
戦後の1953年、旧関東軍憲兵司令部跡地(新京。現・長春)の敷地内で事務所拡張工事の際に偶然に地中から掘り出された。長く地中に埋められていたので、史料の大部分は癒着し、また腐食してボロボロになっていた。終戦時に焼却されず、掘られた穴に埋められた文書だった。
関東憲兵隊は、この報告書『検閲月報』を関東軍司令官をはじめとして憲兵隊司令部などに送っていました。
ソ連との間のノモンハン事件についても、「実際には負けている」「実になさけない次第」「近代兵器の枠を集めたソ連と戦うには、肉弾や精神ではやはりダメ。草木のない平地を攻撃するなんて無謀」という声のあったことが紹介されている。この閲覧によって、手紙は送った相手方には届かなかった。
戦時下の満州国の実情はとても王道楽土と言えるものではありませんでした。ともかく食べるものが少ないのです。野菜が食べられないため、女性は病気になってしまいました。
「満州の配給制度は、内地よりずっと生活困難である。開拓団(移民団)は、実に可哀想なもの。移民などに来るものではない。あまり宣伝に乗せられないように」
「匪賊と戦闘したが、ほとんど軍隊と変わらない。要するに、匪賊の方が強い」
満州国の農産物は太平洋戦争をたたかう日本への重要輸出品であったから、満州の中国人の食糧配給を改善する政策は行われなかった。
1940年代の満州国は、出稼ぎ地としての魅力を失っていた。
この当時の在満朝鮮人社会には、共産主義思想に根ざした、解放願望が強く存在していた。
「当地の人生観は、弱肉強食と名付けたらいい」と手紙に書かれていた。
検閲しても実は、あまり大きな成果はなかった。むしろ重要な情報は暗号や無線で流れていたので、通信部隊の活動が重要だった。牡丹江市内に無線傍受の場所を10ヶ所設け、24時間体制で監視していた。そして無線で情報を流すアジトをほとんど毎日、摘発していた。
満州国の実情をナマの声で知らせてくれる貴重な本だと思いました。
(2006年6月刊。3200円+税)
2013年3月 9日
日本統治下の台湾
著者 坂野 徳隆 、 出版 平凡社新書
この本を読んで、そうだった、台湾は戦前、日本が植民地として支配していた人だった、と思い出しました。
ちっぽけな島国・日本が朝鮮半島のみならず、ロシアや中国に向けて侵略戦争を次々に仕掛けていったことは、私の頭のなかでしっかり認識していたつもりでした。ところが、そのとき、台湾のことがスッポリ抜け落ちていたのでした。
この本には、戦前の台湾にいて新聞風刺漫画を描いていた国島水馬(すいば)の手になる漫画をもとに、現代日本人に侵略戦争について語り明かしてくれます。
それにしても、小さい島国である日本が台湾を植民地にしてうまくいくなんて、本気に思っていたのでしょうか、大いにギモンです。
そして、1930年(昭和5年)10月27日に有名な霧社事件が起きました。台湾の中央部に位置する山里の公学校で行われていた運動会のグラウンドに原住民が蕃刀や銃を持って乱入し、駐在所の警官をはじめとする日本人134人(霧社在住者の半分以上)、そして日本人と間違えられた台湾人2人が犠牲となった事件です。
この霧社事件のあと、台湾の山地や原住民周辺における警察力は大幅に増強され、原住民の叛乱はなくなった。
この事件のあと、親を日本人に殺された霧社の原住民の若者たちは、血判状を書いてでも日本軍兵士として太平洋戦争に参加を欲するなど、日本の皇民化政策によって洗脳されてしまった。
戦前の日本軍占領下の台湾の様子がマンガで紹介されている貴重な本だと思います。
そして、戦後、今度は中国本土から蒋介石の国民党軍が中共軍に敗退して渡ってきて、戒厳令を敷いたのでした。これは、なんと40年近くも続き、世界最長記録でした。
1987年までに没獄・処刑された反政府活動家は20万人以上という苦難の時代が続きます。この点は、もちろんマンガで紹介されていません。
(2012年12月刊。780円+税)
2013年2月 9日
宮中からみる日本近代史
著者 茶谷 誠一 、 出版 ちくま新書
大久保利通の求める天皇像は、あくまで西欧流近代国家の建設が第一義で、天皇親政はそのための「道具」にほかならなかった。これに対して侍補グループは天皇自身に「徳」を修めさせたうえ、大臣や側近らと協力して施政にあたる「天皇新政」を志向しており、天皇を強制君主として「密教」的に扱うことに従うはずもなかった。
要するに、両者とも、天皇を利用しようとしていたことでは共通していますね。
戦前の天皇は「玉」(ぎょく。たま)として利用される存在だったわけです。
内大臣職は、維新以来の功績者である三条を処遇するために設置された感があるものだが、この官職は、その後の日本近現代史において、重要な役割を担った。長年にわたって元老筆頭格として政界や宮中を牽引してきた山県有朋も、大正期に入ってからはその支配力を低下させていった。
皇太子裕仁の婚約をめぐって、その破棄を主張していた山県有朋は政治的に敗北し、それ以降の政治的影響力と宮中支配力を大きく減退させた。
山県の影響下にない牧野伸顕の宮相就任は、旧友であり、当時首相として政権運営にあたっていた原敬にとって、自身の思い描く立憲君主論を実現していくうえで、力強い味方を得たことになる。
大正天皇のもとで、元老や政府首脳は、君主としての資質を欠くかのような大正天皇の言動に振りまわされていた。同時に、政界指導者らは、明治天皇のような政治的調整力を有しない大正天皇の言動を目の当たりにして、自らの意思を「聖意」に即せしめるべく、政争を呼びおこしていった。
大正天皇に替わった昭和天皇は、政治的な言動を抑制していた感のある摂政時代と異なり、政局に強い関心を示し、積極的に関与していく姿勢をみせた。そして、昭和天皇の積極的な政治関与は、天皇を支える宮中をはじめ、政党や軍部、民間右翼などを政局の荒波に巻き込んでいった。
昭和天皇は田中義一内閣の政権運営に何かと不満を抱き、施政の一つ一つに注文をつけようとしていた。牧野内大臣は、田中内閣の施政に不満を募らせる天皇をなだめつつ、田中首相に善処を求めていた。
田中義一は張作霖爆殺事件のあと、二度にわたって天皇から叱責され、天皇の親任を失ったと判断して内閣総辞職した。しかし、この一件は、天皇や側近にとって一時的に望ましい結果をもたらしたかもしれないが、他方、天皇と側近が行政府のトップを罷免させたという行動に対して、批判的なまなざしを向ける動きも起こりはじめた。
君主が天皇大権を行使して政変にいたったが、明確な政治意思をもつ天皇の存在はその後の政局に波紋を広げた。
牧野グループを標的にした側近攻撃は、暗に昭和天皇の政治意思や政治姿勢をも対象とするものであり、特定の政治勢力にとって聖意とみずからの政治意思や政策論とが異なるとき、これを批判するような政治風潮が醸成されていった。満州事変のころから、軍部とくに陸軍は政治勢力化し、国務を担う内閣と統師を担当する軍部が対立し、「国務と統師の分裂」という構図を常態化させていった。
満州事変の拡大は、天皇をひどく動揺させた。
犬養首相たちは政党内閣の手に負えない統師事項につき、大元師・天皇の憂慮の念を伝達することで、陸軍側に自発的な行動抑制の枠をはめようとした。ところが、このような軍部統制の手法は逆効果をもたらした。
陸軍は、政党内閣や宮中勢力に批判的であり、天皇の権威を利用して統師権に介入しようとする犬養首相の手法に不快感をあらわした。西園寺は、天皇に政治責任を及ぼしかねない御前会議にも反対だった。御前会議で決定されたことを陸軍が順守するかどうかも疑問視されていた。
天皇はあくまでも政界のごたごたから超然としていることが必要だと考えられた。
このように、天皇は軍部や政治家たちから単なる利用しやすい持ち駒のような存在として扱われていたわけです。そこには天皇崇拝のかけらもありません。それにもかかわらず、国民には天皇崇拝を押しつけていたのです。いやになってしまいます。
(2012年5月刊。780円+税)