弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦後)
2013年12月 6日
占領から独立へ
著者 楠 綾子 、 出版 吉川弘文館
1945年7月26日のポツダム宣言は、日本国政府の存在を前提とし、無条件降伏を求める相手を日本国軍隊に限定していた。
アメリカ政府は、天皇制を明確に保障はしないけれども、否定しないことで、「国体護持」が認められるかもしれないと匂わせる方法を選んだ。そして、日本の外務省は、このアメリカ政府の意図を正確に読みとった。
日本政府、そして軍では、だれもが「国体」だけは守らなければならないと信じていた。しかし、その意味するところまでは共有されていなかった。厳密に中身が定義されなかったが故に、「国体護持」という目標は、日本政府と軍内の合意形成に強力な磁力を発揮することができた。
突然の降伏決定にどう身を処してよいか分からない軍人たちに、ともあれ暴発させずに降伏を呑みこませるには、東久邇内閣の陸軍大将であり皇族という権威は有効だった。
マッカーサーは、1945年8月30日、厚木基地に降り立った。サングラスにコーンパイプといういでたち、丸腰で武装解除前の敵地に降り立ったのである。これも実は、先遣隊と一足先に着陸した第八軍司令官アイケルバーガーが入念に安全を確認した上での行動である。
映像を活用して自己を演出する才能において、マッカーサーはほとんど天才的だった。
東久邇自身は意欲満々だった。1920年代のフランスに長く遊んだ東久邇は、皇族のなかでは恐らくもっとも開明的な思想の持ち主だったと思われる。東久邇は、実にさまざまなアイデアを思いつき、実行に移そうとした。婦人参政権、貴族院の廃止、言論・集会・出版・結社の自由、特高警察の廃止、さらには民主的・平和的憲法の制定も考えた。
しかし、東久邇の発想は保守指導層の理解を得られなかった。政治に携わった経験のない東久邇首相は、自己の構想を政策という形に落としこみ、それを実行するために官僚機構を動かす術を知らず、また手段ももたなかった。
映像の活用、荘重なことばをちりばめたスピーチなど、突出した自己演出欲求はマッカーサーの特徴だった。
マッカーサーは、ワシントン介入には拒否反応を示すのが常だった。そして、マッカーサーの独断専行をトルーマン政権は、苦々しく思っていた。
マッカーサーの威厳ある振る舞い、もったいぶった表現や人を身近に近づけない態度は、日本人の考える支配者像にうまく合致した。マッカーサーは、日本国民の前に姿をさらすことは、滅多になく、会見する日本人は、昭和天皇と首相のほかはごく少数に限られた。そうして、日本国民の上に絶対的な支配者として君臨した。戦争に疲れ果てた日本人の前にマッカーサーは慈悲深い解放者を演じた。
天皇と天皇制をどう扱うかは、アメリカ政府にとってはまことに悩ましい問題だった。終戦直後のアメリカでは、天皇を戦犯として起訴し、天皇制を打倒せよという声が圧倒的だった。
天皇は揺れていた。日本の起こした戦争とその悲惨な結果について、制度上、法律上の責任はともかくとし、道義的責任は感じていたと思われる。
9月27日の第1回の天皇とマッカーサー会見によって、天皇と日本政府はマッカーサーが天皇を重視し、敬意をもって丁重に扱うという感触を得た、マッカーサーにとっては、占領政策の協力者を得たという点で、それぞれに有益だった。それ以降、マッカーサーは、天皇擁護の方針を鮮明に打ち出していった。
弊原や吉田茂のように、根本的・急進的な改革を嫌う保守層は、明治憲法の改正ではなく、運用の変更によって、自由主義的・民主主義的な政治・社会を実現することが適当かつ可能と考える傾向にあった。
1946年2月3日、マッカーサーがGHQの民政局に示した原則は三つ。第一に、立憲君主としての天皇制の維持。第二に、自衛戦争をふくむ完全な戦争放棄。第三として、封建制度の廃止。
戦後放棄条項は、天皇制の存置と日本の軍事大国化の阻止という二つの要請を同時にみたす、当時においてはほとんど唯一の方法であった。
吉田茂は、権力闘争をたたかう武器として公職追放を利用した。
マッカーサーと天皇の会見は11回に及んだ。それは毎回、天皇がアメリカ大使公邸にマッカーサーを訪問する形式で行われた。マッカーサーは最後まで宮中に行うことはなかった。マッカーサーは天皇を敬愛し、その協力を求めつつも、天皇をふくむ統治機構の上にマッカーサーが君臨していることを象徴的に示すスタイルを最後まで変えようとはしなかった。
終戦後の日本政治を詳しく、かつ多面的に分析した本として、興味深く読みとおしました。
(2013年9月刊。2600円+税)
2013年12月 5日
フィリピンBC級戦犯裁判
著者 永井 均 、 出版 講談社
日本軍って、戦中のフィリピンで実にひどいことをしたのですね。そして、戦後、それにもかかわらずフィリピンは国としてまことに寛大なる処遇をしたのでした。
たとえば、1945年2月のマニラ地区のセント・ポール大学周辺で日本軍はフィリピン住民を500人近く大虐殺した。ほかにも、1000人以上の住民を殺害した事件など、300件以上が調査されている。
フィリピンに動員された日本兵は61万人。その8割の50万人が命を落とした.死者の大多数、8割は餓死者であった。フィリピンは、日本軍将兵にとって、文字通り絶望の戦場だった。
戦後、フィリピン人は、日本人と見るや激しい怒りをぶつけた。日本軍に対する「恨みの炎」はフィリピン全土で燃えさかった。
1945年10月から1947年4月まで、マニラで日本軍将兵に対する戦犯裁判が続いた。そこでは215名の戦犯が裁かれた。これは米軍当局の手によるもの。
フィリピンが米軍から裁判権を引き継ぎ、日本軍将兵に対する戦犯裁判を始めたのは1947年8月。この裁判は1949年12月まで2年半のあいだ続いた。
フィリピンが戦犯裁判を担うようになったのは、マッカーサー元師の意向だった。それは、アメリカ国内で、マニラ駐留の米軍に戦犯裁判の管轄権力があるのかという疑問が出ていたことにもよる。
フィリピンのロハス大統領は、国際法にのっとって公平かつ道理に則した迅速な裁判の機会を与えると公言した。
ロハス大統領は、復讐や報復ではなく、裁判は国際法の原則にもとづく正義の追求にあると宣言した。ロハス大統領は、弁護士だった。
そして、戦犯法廷の弁護人として日本人弁護士を日本から呼び寄せた。ところが、日本人弁護士は言葉の壁に直面したようです。そこで、フィリピン人弁護士が登場するのですが、彼らは誠実に弁護したとのことです。
フィリピン人弁護士の公平な弁護態度は日本人関係者から高く評価された。
フィリピンの戦犯裁判においては、極刑宣告の比率が高いという特徴があった。79人の被告に死刑が言い渡された。これは、起訴された151人の半数以上(58%)を占める。この151人は、軍司令官から1等兵まで、そして民間人も含んでいる。
裁判が終わって、刑務所に収容された有期・終身刑は「紅組」と呼ばれたが、赤い囚人服を着ていたから、戦犯死刑囚は「青組」と呼ばれた。
刑務所長刑者を人間として処遇した。所内を丸腰で歩き、受刑者と会話し、独房も訪問した。
フィリピン当局は、独立国家の威信にかけて、日本人は戦犯の処遇に慎重を期した。そして、日本人戦犯は刑務所の規則を守り、規律正しく、協力的で、刑務当局から信頼を得ていた。日本人は脱走や自殺を図ることもなかった。
1951年1月、日本人戦犯の死刑囚14人が処刑された。14人は絞首刑となった。
フィリピン当局は、刑に処せられた日本人を最後まで丁重に扱った。処刑に立ち会ったフィリピン人関係者には、従容と死地に赴く14人の姿が強く印象に残った。
この執行から10日あまりたった2月1日に日本で処刑のことが報道され、日本国民のあいだに助命運動がわき上がった。
反日一辺倒でなかったとはいえ、キリノ大統領は、フィリピン国民の厳しい対日感情に配慮せざるをえず、日本人戦犯に厳格な姿勢でのぞむ姿勢があった。大統領選で再選を目ざしていたキリノにとって、日本人戦犯の恩赦、本土送還は危険な橋であった。
キリノは戦争中に、日本軍によって愛する家族を殺されていた。苦しみの日々を過ごしてきたキリノ家の傷は深かった。キリノは憎しみ続けることをやめる人生を生きよう、子どもたちに諭した。
キリノ大統領が恩赦したとき、そのことにフィリピン世論は比較的冷静だった。
戦犯死刑囚79人のうち、実際に処刑されたのは17人のみ。執行率は2割にとどまったが、これはほかの地での8割と比べると低い。
1953年7月、フィリピンから日本人戦犯111人が日本に戻った。
「モンテンルパの夜はふけて」という渡辺はま子の歌は知っていますし、モンテンルパ刑務所も現地で外側だけ見たことがあります。このようなドラマがあったことを初めて知りました.ほんとに世の中は知らないことだらけですね。大変な労作だと思いました。
(2013年4月刊。1800円+税)
2013年11月30日
もう日は暮れた
著者 西村 望 、 出版 徳間文庫
1930年10月、台湾中部の山岳地帯の霧社で発生した事件を忠実にたどった小説です。
小説ですので、登場人物の名前は史実とは異なりますが、事件の背景、事件の推移については史実のとおりです。
霧社は台湾中部の中央部にそびえる、能高山脈の山麓にある台湾原住民・高山族の村である。高山族は、終戦直後まで、高砂族と呼ばれていた。そして、霧社は、高砂族のなかの一部族である、アタヤル族の村である。アタヤル族は高山族のなかでも剽悍(ひょうかん)をもって知られ、首狩りの習慣を持っていた。事件当時、3万人余の人口を有し、高砂族のなかでは最大の部族だった。
日清戦争で清朝から台湾を割譲された日本は、植民地経営を平穏に行うためには、アタヤル族をはじめとする山岳民族の慰撫懐柔が不可欠と考えた。これを理蕃(りばん)と読んだ。この施策実行の先兵となったのが警察だった。理蕃事業の成否は、配置された警察官の人柄や気質に大きく左右された。
霧社は、理蕃のなかで、もっとも成功した場所のひとつとして知られていた。
そんな霧社で、盛大な運動会の当日、集まっていた日本人のほとんど全員(134人)が皆殺しの憂目にあったのでした。
日本人による植民地経営の苛烈さを知ることのできる本でもあります。現地の風習の違いは、次のようなところにも見られます。
蕃社では、死者は埋葬するが、外には埋めない。みんな屋内に埋めてしまい、その場所は聖なる一隅として、いっさい使わない。死者はオットフとなってそこに坐っていると信じられている。
霧社事件の起きる前の状況、殺戮の様子、そして日本軍の鎮圧作戦の推移を小説として知ることのできる貴重な文庫本です。
でも、史実に即していますので、重たい気分で読み進めました。少し骨が折れるものではありました。
(1989年10月刊。520円+税)
2013年11月26日
戦後史の汚点、レッド・パージ
著者 明神 勲 、 出版 大月書店
レッド・パージとは何だったのか、誰が何のためにやったのか、くっきり明らかにした画期的な労作です。
GHQの指示という「神話」を検証する。こんなサブ・タイトルがついていますが、そんな「神話」が事実に反していることが鮮やかに論証されていくのです。小気味よさすら感じます。
日弁連は、レッド・パージについて、今から60年も前に起きたものではあるが、現在においても依然として職場における思想差別が解消されたわけではない。現在も形を変えて類似の被害が繰り返されている。職場における思想・良心の自由、法の下の平等が保障されるべきことは、過去の問題ではなく現代的な人権課題である、と指摘した。
まことに、そのとおりですよね。
最高裁に対するGHQの「解釈指示」なるものは、政治的虚構であり、その存在は認められないこと。1950年のレッド・パージがGHQの指示によるものとする従来の通説は誤りである。
GHQ文書を読めば、レッド・パージにおいて日本政府と最高裁、企業経営者が果たした役割は、単なる「指示」の実行者、加担者という控え目なものではなく、積極的なものであり、ときにはマッカーサーやGHQの動きを上回るものであった。彼らはGHQとの「共同正犯」と呼ぶべきである。
レッド・パージに対して抵抗すべき労働組合のほとんどが、これを黙認し、事実上の「共犯者」となった。なかには、電産のように、これに積極的に荷担する「共犯者」の役割を果たした恥ずべきケースもあった。
1949年から51年にかけてのレッド・パージによって追放された人は3~4万名と推定される。レッド・パージされた人の多くは、青年であった。彼らは二度と帰らぬ青春をレッド・パージによって奪われた。
1949年1月の総選挙で日本共産党は10%近い得票率で35議席を得た。しかし、レッド・パージ後の1952年10月には2.5%に落ち、議席はゼロとなった。
1949年7月、吉田茂首相の政府は閣議で、公務員のレッド・パージ方針を決定した。
田中耕太郎・最高裁長官は、マッカーサー書簡によってだけではレッド・パージを遂行するための法的根拠が与えられていないことを認識していた。
GHQ(ホイットニー)は、指示を出さなかった。それは、あくまで田中最高裁長官の「助言」の求めに応じたホイットニーの「助言」に過ぎなかった。田中長官は、マッカーサー書簡とGHQの権力にもとづきレッド・パージを実施したいと要請したが、ホイットニーは、これに同意せず、GHQの権力に頼らず日本側から自ら工夫して有効な策を考えるべきだと応じた。
田中耕太郎長官は、裁判の秘密をかなぐり捨てて、駐日アメリカ大使に最高裁判所の内情をぶちまけていたのです。なんて破廉恥な裁判官でしょうか。当然、厳しく弾刻して罷免すべきものです。今からでも、決して遅くはありません。日本の最高裁の恥を隠してはいけません。
GHQがレッド・パージの指示を出さなかったのは、なぜか?
それは、レッド・パージが、憲法違反・違法な措置を指示した責任者という非難」を受けるのを回避したかったことにある。自らが必要とする違憲・違法の非難を受ける可能性のある政策を、示唆や勧告によって日本側に実施させ、その責任を転嫁するというのは、GHQの常奪手段であった。それは、責任を回避しつつ、目的を達成するという狡猾な奸計だった。
そして、日本側は、レッド・パージの単なる被害者、犠牲者というのでもなかった。政府も司法当局も、ともに違憲・違法を十分に認識したうえで、GHQの示唆を「占領軍の指示」とか「絶対的至上命令」として利用し、責任をGHQに転嫁しつつ、あらゆる抵抗を無力化させて年来の念願を果たした。
このように、責任を相互に転嫁しあい、相互に相手を利用しつつ、両者の密接に連携した共同作業という形でレッド・パージの実施は強行された。
なるほど、そうだったのか、よく分かりました。戦後史を語るうえでは欠かせない本だと思います。
(2013年10月刊。3200円+税)
2013年10月22日
血盟団事件
著者 中島 岳志 、 出版 文芸春秋
昭和史の闇を暴いた感のある、読みごたえたっぷりの本でした。
1932年2月、大蔵大臣の井上準之介が小沼正(おぬましょう・20歳)によって暗殺され、3月には三井財閥の総師団琢磨が菱沼五良(19歳)に暗殺された。小沼も菱沼も、ともに茨城県、大洗周辺出身の青年だった。彼らは幼馴染みの青年集団で日蓮宗の信仰を共にする仲間であり、日蓮主義者である井上日召(にっしょう)に感化されていた。
いま、九州新幹線の新大牟田駅前には団琢磨の巨大石像が建立されています。
その暗殺者、菱沼五郎は無期懲役の判決を受けたが、結婚して小幡五郎となり、戦後は茨城県議会議員となり、ついには県議会会議長までつとめる地元の名土となった。
この本は、この血なまぐさい暗殺事件の社会的背景、軍部との結びつきを解明し、「一人暗殺」というのが当初からの方針というより偶然、そして仕方なくとられた手法であることを明らかにしています。
結局、政財界の要人を暗殺したあとの展望は何もなかったのでした。これでは無政府主義と同じようなものですよね・・・。
当時の日本社会は、世界恐慌のあおりを受け、深刻な不況が続いていた。第一次世界大戦が終結したあと1919年以降、経済は悪化の一途をたどり、貧困問題が拡大していた。とくに地方や農村部の荒廃はひどく、出口の見えない苦悩が社会全体を覆っていた。
彼らはそんな閉塞的な時代のなかで実在する不安をかかえ、スピリチュアルな救いを求めた。また、自分たちに不幸を強いる社会構造に問題を感じ、大洗の護国堂住職だった井上日召の指導のもと、富を独占する財閥や既得権益にしがみつく政治家たちへの反感を強めていった。
井上日召は、中国に渡って諜報活動をしていた。つまり、日本のスパイだったわけです。井上日召は、東京帝大の憲法学者、上杉慎吉を「つまらんものだ」と切り捨てた。
上杉慎吉は井上に言い負かされ、「いやしくも私は博士だ」と言ったとのこと。なるほど、つまらん「博士」です。
井上日召は、対機説法の名人だった。青年たちに難題を投げかけ、答えに窮したところを一気に畳みかける。不安にさいなまれる著者に対して断定的な見解を述べ、明確な答えを与えた。この繰り返しによって、相手との主従関係を築き、自らのカリスマ性へと転化していった。
井上日召は天皇を戴く日本団体を強調し君民協同の精神を説いた。そして、国民の多くが幸福から疎外されているのは、資本家が私利私欲をむさぼっているからで、彼らを排除する「改造」を行わなければ苦悩からは解放されないと説いた。井上日召の中に自己犠牲による国家への献身があると感じられた。
四元義隆は、当時23歳の東京帝大法学部生だった。偶然なことから、暗殺犯にならずに逮捕された。戦後は、政治のフィクサー的役割を果たした大物となった。中曽根、福田越夫、大平正芳、細川護熙などの首相に影響を与え、政界の指南役と言われた。
血盟団というのは、自称ではない。事件のあとで、マスコミが名付けたもの。
井上日召にとって重要な存在は「破壊」であり、「建設」は二の次だった。血盟団のメンバーは、誰もテロ後の政権構想や具体的計画をまったくもっていなかった。彼らは、ただ自己犠牲をともなう破壊に生きようとした。テロ後をあれこれ想定しはじめると、世俗的な欲が湧き出してしまうからだ。
1932年の2月、3月というと、その直後の五・一五事件を思い出します。五・一五事件を起こした海軍の青年将校たちは一部で英雄視されました。裁判が始まると、100万通をこえる減刑嘆願署名が集まったのでした。
この世論の熱狂を巧みに利用したのは、軍部の指導層だった。彼らは、一転して、青年将校たちの側に立ち、政党政治家、財閥、特権階級を糾弾した。軍指導層は青年将校を政治利用、軍部への支持に回収していった。
その結果、五・一五事件で起訴された青年将校たちへの判決は思いのほか軽い量刑だった。この判決の甘さが、後の2.26事件を括発することにつながる。
ここには、今日の日本でも学ぶべき教訓があるように思いました。
(2013年9月刊。2100円+税)
2013年10月14日
小さいおうち
著者 中島 京子 、 出版 文春文庫
直木賞の受賞作です。モノカキ志向の私ですから、日頃、直木賞か芥川賞、それでなくても文化勲章を狙っていると高言している身として、この小説の出来の良さにはただただモノも言えません。直木賞を受賞したのに何の異論もありません。細かい部分(ディテール)の描写といい、筋の運びとして、そして見事な結末には息を呑むしかなく、文句のつけようもありません。
山田洋次監督が映画にしてくれて、来年1月には見れるとのこと。今から楽しみです。
先日、妹尾河童原作の映画「少年H」をみましたが、戦前の平和な生活がいつのまにか戦争へ突入していく情景が、きめこまかに再現されていました。
裏表紙に、この本のストーリーが要領よく紹介されています。
昭和初期、女中奉公にでた少女タキは赤い屋根のモダンな家と若く美しい奥様を心から慕う。だが、平穏な日々にやがてひそかに"恋愛事件"の気配が漂いだす一方、戦争の影もまた刻々と迫りきて―。晩年のタキが記憶を綴ったノートが意外な形で現代へと継がれてゆく最終章が深い余韻を残す傑作。
戦前の上流サラリーマンの家庭生活が、住み込み女中の目から、ことこまやかに描写されていますから、つい没入させられます。そして、いつのまにか微妙な男女の機微に触れていきそうです。
女中タキのお見合い話をふくめて、戦争が日常生活に忍びこんでくるのです。
この本には、私のつれあいがこよなく愛する永藤(ながふじ)菓子店が登場します。上野駅近くにあって、タマゴパンなどで有名なのでしたが、今は閉店してしまいました。
あと味もさわやかな、ロマンあふれる小説です。
(2013年6月刊。543円+税)
2013年10月 5日
命のビザを繋いだ男
著者 山田 純大 、 出版 NHK出版
1940年(昭和15年)、ナチスドイツに追われて逃げてきたユダヤ難民たちが、リトアニアの日本の領事館に日本へのビザを求めて押し寄せてきた。領事代理の杉原千畝(ちうね)は、人道的見地から、本国の指令に反して日本通過を許可するビザを発給した。そして、ユダヤ難民6000人がヨーロッパからシベリア経由で日本の神戸、横浜、東京へ渡っていった。
ここまではセンポ・スギハラのビザ発給によるものとして、私も知っていました。この本は、日本にやってきたユダヤ難民のその後を扱っています。
杉原が発給したビザは、あくまでも日本を通過することを許可するビザであり、許された日本滞在期間はせいぜい10日ほど。たった10日間で、目的地の国と交渉し、船便を確保するのは不可能。そして、ビザの延長も拒否された。
そんなユダヤ難民の窮状を救ったのが小辻節三(こつじせつぞう)だった。この本の主人公・小辻節三はヘブライ語学の博士号をもち、ヘブライ語を自由に話すことができた。そして、60歳のときにユダヤ教に改宗した。
最近も、外務省の元高官が晩年にユダヤ教に改宗した人がいるという記事を読んだことがあります。日本人でも、インテリにはユダヤ教に魅かれる人が少なくないのですね。この本は、その小辻節三を生い立ちから、その家族の現在に至るまで、よく調べていて、本当に感心します。
日本が国際連盟を脱退したときの外務大臣として有名な松岡洋右(ようすけ)は、その前は満鉄総裁だった。そして、小辻を顧問として破格の高給で迎え入れた。
どうやら満州にユダヤ人を迎え入れようとする計画があったようなのです。
ハルピンで極東ユダヤ人会議が開かれたとき、小辻は1000人をこえる聴衆の前でヘブライ語で演説をはじめた。ただし、そのヘブライ語は、とても古典的なヘブライ語ではあった。みんな驚いたことでしょうね。日本人が古典的ヘブライ語を話すなんて・・・。
ユダヤ難民が神戸へ上陸して苦労しているとき、小辻は頼まれて、その局面打開のために東奔西走した。そして、小辻に力を貸したのが、元満鉄総裁であった松岡洋右外務大臣だった。まさしく偶然のおかげでした
松岡外相は、ドイツとの関係は良好に保ち、アメリカとの戦争は回避したいという立場にあったので、小辻のユダヤ難民の救出に手を貸した。
その後、小辻は満州に渡り、そこでユダヤ人に助けられた。
小辻に神戸で助けられたユダヤ難民のなかには、アメリカに渡ったあとイスラエルの宗教大臣になった人もいました。
小辻は、戦後、そのような人々との交流も大切にしたようです。まったく知られていなかった事実を、足で歩いて発掘していった著者に感謝したいと思いました。
(2013年4月刊。1700円+税)
2013年10月 2日
戦場の軍法会議
著者 NHK取材班・北博昭 、 出版 NHK出版
フィリッピンで死刑になった日本兵の裁判(軍法会議)がインチキそのものだったことを奇跡的に明らかにした本です。NHKスペシャルで放映され、大きな反響を呼んだ番組が本になっています。NHK取材班の執念が見事にみのった貴重な労作です。
日中戦争が始まった1937年(昭和12年)以降、軍法会議で処罰される兵士が急増した。太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には、1年間に5500人をこえる兵士が処罰された。
軍法会議とは、罪を犯した陸海軍の軍人、軍属といった軍の構成員を裁くために、軍の中に特別に設けられた軍事法廷のこと。
戦前の法務官は、司法資格をもち、軍の中で法の遵守をチェックする「法の番人」とされる存在だった。
軍法会議は通常の裁判所とは別の「特別裁判所」だ。軍法会議の仕組みは、裁判官、検察官、弁護人、被告という構図であり、通常の裁判と変わらない。特徴的なのは、日本の軍法会議では、通常5人いる裁判官のうち4人を軍人が占めていること。軍人の中で階級が一番上の兵科将校が裁判長をつとめた。
裁判官の階級は、必ず被告人と同等か、それ以上の階級のものが選定された。そして、5人の裁判官のうち必ず1人は「軍人」ではない「文官」の法務官が担当することが法律で定められていた。
明治42年生まれの馬場東作は東京帝大法学部を卒業し、司法試験に合格できずに海軍法務官となった。馬場は大学生のころマルクス主義を学び、不正義を怒り、軍に不信感をもつ反戦主義者だった。
中田という海軍上等兵は奔敵(ほんてき)未遂、窃盗、略奪で死刑に処せられた。
敵前逃亡に死刑があることは知っていましたが、奔敵という罪名は聞いたこともありませんでした。
軍法会議で死刑判決を受けた兵士は、護国神社にも靖国神社にも祀られていない。兵士の逃走は飢えによるもの。日本軍上層部の「現地調達」という無茶で無謀な作戦、食糧を送りこまずに現地で調達せよというのはバカな、無責任な考えである。
日本軍は、アメリカ軍と違って、前線に行けば行くほど食糧がなかった。
そもそも食糧さえ満足に与えず、戦わせた軍に逃亡兵を処罰する権利があるのか・・・・。
食糧難の軍にとって、兵隊の数が減れば、口減らしにもなる。餓死寸前の兵士のなかに、夢遊病者のようにフラフラと部隊を離れる者が続出した。餓鬼道の積み重ねのように、まったく軍とか人の集団というようなものではなかった。
「平病死」とは、軍法会議で死刑になったことや、自殺したことを意味する呼び方。
戦後になって、軍の法務官だった人の大半が弁護士になりました。私が35年前に故郷にUターンしたとき、軍の法務官だったという人が何人も弁護士として活動していました。もっと、いろいろ話を聞いておけばよかったと思いますが、時すでに遅し、です。軍法会議というものの本質がいいかげんなものであること、しかし、死刑になった兵士の遺族が汚名を挽回するのはとても困難なことを伝えてくれる良書です。
(2013年9月刊。1900円+税)
2013年9月19日
抗日・霧社事件の歴史
著者 鄧 相揚 、 出版 日本機関紙出版
1930年(昭和5年)10月27日、台湾の山岳に住む原住民は反乱を起こし、運動会に参集していた日本人を皆殺しにしたのが霧社事件です。
3冊シリーズの第1冊目を紹介します。霧社という地名は、このあたりは霧が深いために名付けられた。海抜1148メートルある。
1930年当時、霧社の町には、日本人が36戸157人、漢人が23戸111人住んでいた。
樟脳(しょうのう)製造に従事する従業員と家族は700人にのぼった。
日本の植民地政府は、日清戦争後に台湾を支配し、武力討伐で原住民を包囲し、それぞれの部族に「和解」や「武装解除帰順」を迫った。日本人は、原住民族を野蛮民族とみなして、大日本帝国の民族主義の優位のもとに、彼らの人間性を尊重することはなかった。
タイヤル族は、代々、狩猟と粟、陸稲の栽培で暮らしをたててきた。日本人は、それに対して焼畑工作をやめさせ、水稲の定地工作を強制した。タイヤルの人々にとって、水稲農耕への転換はつらい道のりだった。
タイヤル族の銃器も押収され、伝統的な狩猟は制限された。出草して敵の首を狩ることは、本来タイヤル族の大切な祖霊崇拝の習俗だった。
首狩りは、部落の行事に加わる手段であり、男性の武功と栄誉の象徴でもある。敵の首を狩ったことのないものは、顔に刺青を入れることができないし、顔に刺青がないものは結婚することができない。刺青は、成人のしるしでもあった。
タイヤル族の風習では酒をすすめるのは、その人への尊敬の気持ちをあらわす。ところが、逆にタダオ・モーナは酒をすすめた相手の日本人警官から殴打され、侮辱されてしまった。
10月27日に霧社事件が始まり、全部で134人の日本人が殺され、26人が負傷し、日本の服を着ていた漢人2人が殺された。
10月31日、日本軍が総攻撃を始めると、抗日6部落の人々は山深く潜入して、長期抗戦に入った。
日本陣営への参加を迫られたタイヤル族には「戦地勅令」が適用され、命令にそむいたり、警察の指摘に従わず、戦地から逃亡したものは、即刻銃殺あるいは拘留して厳罰に処した。その一方、勇猛果敢に戦功をあげた原住民には褒賞を与えた。
日本人によって育てられた花岡一郎と二郎は、民族の感情と恩義の葛藤のなかで矛盾におちいり、一族21人を連れて小富士山に行き、そこで首を吊ったり、切腹自殺をして、部族の人々と日本人の両方への忠誠心を表明した。
タイヤル族は、祖先は巨木(ボソコフニ)のなかから生まれたと信じ、死の苦しみに直面すると、巨木のしたて首を吊って死ぬことをえらび、霊魂を自ら祖霊のもとにかえす。そのため、タイヤル族が日本軍の討伐や包囲懺滅に対抗するとき、徹底的に闘うか、さもなくば自ら首を吊って殉死する。
事件が発生したとき、抗日6部落の住民は1236人。戦死者85人、飛行機による爆死者137人、砲弾による死者34人、「味方蕃」による死者87人、自ら首を吊って死んだ者290人(45%)。いずれにしても日本人とタイヤル族の双方に大惨事となった事態です。
(2000年6月刊。2095円+税)
2013年9月13日
少年口伝隊1945
著者 井上 ひさし 、 出版 講談社
8月末に広島に出張してきました。昼食は、原爆ドームから遠くないところにある広島ガキ専門店でかきフライ定食(1000円)を食べました。真夏なのに、丸々肥えたカキを美味しくいただきました。夕食には広島名物のお好み焼きを買って、我が家で電子レンジで温めて食べました。期待以上の美味しさでした。
この本は、そんな広島出張の車中で読んだのでした。平和公園、そして原爆ドームを訪れました。豪雨のあとでしたから、猛暑も少しやわらいでいて、助かりました。
青空が裂けて、
天地が砕けた。
爆発から1秒あとの火の玉の温度は1万2000度だった。
太陽の表面温度は6000度だから、街の上に太陽が二つ並んだことになる。
その熱で、地上のものは人間も鳥も虫も建物も、一瞬のうちに溶けてしまった。
火泡を吹いて溶けてしまった。
火の玉からは爆風が吹き出した。音の2倍の速さで、畳一畳あたり10トンの圧力をかけて、地上のものを一気に吹き飛ばした。
火の玉は殺人光線も出していた。内臓や血管や骨髄などの人体の身体のやわらかなところに、殺人光線がこっそり潜り込んでいた。
このようにして・・・・数十秒のうちに広島市の半分が消え失せ、その日のうちに12万人が亡くなって、20万人の人々が傷ついた。このときから、漢字の広島は、カタカナのヒロシマになった。
原爆病にかかって死ぬ人は・・・。
まず、熱が出る。次に、だるくなる。それから、ものを食べなくなる。髪の毛がごそっと抜けて、からだじゅうが痒くなる。おしまいに足首に紫の斑点が出る。さもなければ、唇や歯茎から血が流れ出る。そうなると、人は死ぬ。
私のもっとも尊敬する作家である井上ひさしの本です。それなりに井上ひさしの本は読んでいると自負していましたが、この本はまったく知りませんでした。小学高学年向きの本ということですが、大人が読んでいい本です。
(2013年6月刊。1300円+税)