弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2013年11月26日

戦後史の汚点、レッド・パージ

著者  明神 勲 、 出版  大月書店

レッド・パージとは何だったのか、誰が何のためにやったのか、くっきり明らかにした画期的な労作です。
 GHQの指示という「神話」を検証する。こんなサブ・タイトルがついていますが、そんな「神話」が事実に反していることが鮮やかに論証されていくのです。小気味よさすら感じます。
 日弁連は、レッド・パージについて、今から60年も前に起きたものではあるが、現在においても依然として職場における思想差別が解消されたわけではない。現在も形を変えて類似の被害が繰り返されている。職場における思想・良心の自由、法の下の平等が保障されるべきことは、過去の問題ではなく現代的な人権課題である、と指摘した。
まことに、そのとおりですよね。
 最高裁に対するGHQの「解釈指示」なるものは、政治的虚構であり、その存在は認められないこと。1950年のレッド・パージがGHQの指示によるものとする従来の通説は誤りである。
 GHQ文書を読めば、レッド・パージにおいて日本政府と最高裁、企業経営者が果たした役割は、単なる「指示」の実行者、加担者という控え目なものではなく、積極的なものであり、ときにはマッカーサーやGHQの動きを上回るものであった。彼らはGHQとの「共同正犯」と呼ぶべきである。
レッド・パージに対して抵抗すべき労働組合のほとんどが、これを黙認し、事実上の「共犯者」となった。なかには、電産のように、これに積極的に荷担する「共犯者」の役割を果たした恥ずべきケースもあった。
 1949年から51年にかけてのレッド・パージによって追放された人は3~4万名と推定される。レッド・パージされた人の多くは、青年であった。彼らは二度と帰らぬ青春をレッド・パージによって奪われた。
 1949年1月の総選挙で日本共産党は10%近い得票率で35議席を得た。しかし、レッド・パージ後の1952年10月には2.5%に落ち、議席はゼロとなった。
 1949年7月、吉田茂首相の政府は閣議で、公務員のレッド・パージ方針を決定した。
田中耕太郎・最高裁長官は、マッカーサー書簡によってだけではレッド・パージを遂行するための法的根拠が与えられていないことを認識していた。
 GHQ(ホイットニー)は、指示を出さなかった。それは、あくまで田中最高裁長官の「助言」の求めに応じたホイットニーの「助言」に過ぎなかった。田中長官は、マッカーサー書簡とGHQの権力にもとづきレッド・パージを実施したいと要請したが、ホイットニーは、これに同意せず、GHQの権力に頼らず日本側から自ら工夫して有効な策を考えるべきだと応じた。
 田中耕太郎長官は、裁判の秘密をかなぐり捨てて、駐日アメリカ大使に最高裁判所の内情をぶちまけていたのです。なんて破廉恥な裁判官でしょうか。当然、厳しく弾刻して罷免すべきものです。今からでも、決して遅くはありません。日本の最高裁の恥を隠してはいけません。
 GHQがレッド・パージの指示を出さなかったのは、なぜか?
 それは、レッド・パージが、憲法違反・違法な措置を指示した責任者という非難」を受けるのを回避したかったことにある。自らが必要とする違憲・違法の非難を受ける可能性のある政策を、示唆や勧告によって日本側に実施させ、その責任を転嫁するというのは、GHQの常奪手段であった。それは、責任を回避しつつ、目的を達成するという狡猾な奸計だった。
 そして、日本側は、レッド・パージの単なる被害者、犠牲者というのでもなかった。政府も司法当局も、ともに違憲・違法を十分に認識したうえで、GHQの示唆を「占領軍の指示」とか「絶対的至上命令」として利用し、責任をGHQに転嫁しつつ、あらゆる抵抗を無力化させて年来の念願を果たした。
 このように、責任を相互に転嫁しあい、相互に相手を利用しつつ、両者の密接に連携した共同作業という形でレッド・パージの実施は強行された。
 なるほど、そうだったのか、よく分かりました。戦後史を語るうえでは欠かせない本だと思います。
(2013年10月刊。3200円+税)

2013年10月22日

血盟団事件

著者  中島 岳志 、 出版  文芸春秋

 昭和史の闇を暴いた感のある、読みごたえたっぷりの本でした。
1932年2月、大蔵大臣の井上準之介が小沼正(おぬましょう・20歳)によって暗殺され、3月には三井財閥の総師団琢磨が菱沼五良(19歳)に暗殺された。小沼も菱沼も、ともに茨城県、大洗周辺出身の青年だった。彼らは幼馴染みの青年集団で日蓮宗の信仰を共にする仲間であり、日蓮主義者である井上日召(にっしょう)に感化されていた。
 いま、九州新幹線の新大牟田駅前には団琢磨の巨大石像が建立されています。
 その暗殺者、菱沼五郎は無期懲役の判決を受けたが、結婚して小幡五郎となり、戦後は茨城県議会議員となり、ついには県議会会議長までつとめる地元の名土となった。
 この本は、この血なまぐさい暗殺事件の社会的背景、軍部との結びつきを解明し、「一人暗殺」というのが当初からの方針というより偶然、そして仕方なくとられた手法であることを明らかにしています。
 結局、政財界の要人を暗殺したあとの展望は何もなかったのでした。これでは無政府主義と同じようなものですよね・・・。
当時の日本社会は、世界恐慌のあおりを受け、深刻な不況が続いていた。第一次世界大戦が終結したあと1919年以降、経済は悪化の一途をたどり、貧困問題が拡大していた。とくに地方や農村部の荒廃はひどく、出口の見えない苦悩が社会全体を覆っていた。
 彼らはそんな閉塞的な時代のなかで実在する不安をかかえ、スピリチュアルな救いを求めた。また、自分たちに不幸を強いる社会構造に問題を感じ、大洗の護国堂住職だった井上日召の指導のもと、富を独占する財閥や既得権益にしがみつく政治家たちへの反感を強めていった。
 井上日召は、中国に渡って諜報活動をしていた。つまり、日本のスパイだったわけです。井上日召は、東京帝大の憲法学者、上杉慎吉を「つまらんものだ」と切り捨てた。
 上杉慎吉は井上に言い負かされ、「いやしくも私は博士だ」と言ったとのこと。なるほど、つまらん「博士」です。
井上日召は、対機説法の名人だった。青年たちに難題を投げかけ、答えに窮したところを一気に畳みかける。不安にさいなまれる著者に対して断定的な見解を述べ、明確な答えを与えた。この繰り返しによって、相手との主従関係を築き、自らのカリスマ性へと転化していった。
井上日召は天皇を戴く日本団体を強調し君民協同の精神を説いた。そして、国民の多くが幸福から疎外されているのは、資本家が私利私欲をむさぼっているからで、彼らを排除する「改造」を行わなければ苦悩からは解放されないと説いた。井上日召の中に自己犠牲による国家への献身があると感じられた。
四元義隆は、当時23歳の東京帝大法学部生だった。偶然なことから、暗殺犯にならずに逮捕された。戦後は、政治のフィクサー的役割を果たした大物となった。中曽根、福田越夫、大平正芳、細川護熙などの首相に影響を与え、政界の指南役と言われた。
血盟団というのは、自称ではない。事件のあとで、マスコミが名付けたもの。
 井上日召にとって重要な存在は「破壊」であり、「建設」は二の次だった。血盟団のメンバーは、誰もテロ後の政権構想や具体的計画をまったくもっていなかった。彼らは、ただ自己犠牲をともなう破壊に生きようとした。テロ後をあれこれ想定しはじめると、世俗的な欲が湧き出してしまうからだ。
 1932年の2月、3月というと、その直後の五・一五事件を思い出します。五・一五事件を起こした海軍の青年将校たちは一部で英雄視されました。裁判が始まると、100万通をこえる減刑嘆願署名が集まったのでした。
 この世論の熱狂を巧みに利用したのは、軍部の指導層だった。彼らは、一転して、青年将校たちの側に立ち、政党政治家、財閥、特権階級を糾弾した。軍指導層は青年将校を政治利用、軍部への支持に回収していった。
 その結果、五・一五事件で起訴された青年将校たちへの判決は思いのほか軽い量刑だった。この判決の甘さが、後の2.26事件を括発することにつながる。
 ここには、今日の日本でも学ぶべき教訓があるように思いました。
(2013年9月刊。2100円+税)

2013年10月14日

小さいおうち

著者  中島 京子 、 出版  文春文庫

直木賞の受賞作です。モノカキ志向の私ですから、日頃、直木賞か芥川賞、それでなくても文化勲章を狙っていると高言している身として、この小説の出来の良さにはただただモノも言えません。直木賞を受賞したのに何の異論もありません。細かい部分(ディテール)の描写といい、筋の運びとして、そして見事な結末には息を呑むしかなく、文句のつけようもありません。
 山田洋次監督が映画にしてくれて、来年1月には見れるとのこと。今から楽しみです。
 先日、妹尾河童原作の映画「少年H」をみましたが、戦前の平和な生活がいつのまにか戦争へ突入していく情景が、きめこまかに再現されていました。
裏表紙に、この本のストーリーが要領よく紹介されています。
 昭和初期、女中奉公にでた少女タキは赤い屋根のモダンな家と若く美しい奥様を心から慕う。だが、平穏な日々にやがてひそかに"恋愛事件"の気配が漂いだす一方、戦争の影もまた刻々と迫りきて―。晩年のタキが記憶を綴ったノートが意外な形で現代へと継がれてゆく最終章が深い余韻を残す傑作。
 戦前の上流サラリーマンの家庭生活が、住み込み女中の目から、ことこまやかに描写されていますから、つい没入させられます。そして、いつのまにか微妙な男女の機微に触れていきそうです。
 女中タキのお見合い話をふくめて、戦争が日常生活に忍びこんでくるのです。
 この本には、私のつれあいがこよなく愛する永藤(ながふじ)菓子店が登場します。上野駅近くにあって、タマゴパンなどで有名なのでしたが、今は閉店してしまいました。
あと味もさわやかな、ロマンあふれる小説です。
(2013年6月刊。543円+税)

2013年10月 5日

命のビザを繋いだ男

著者  山田 純大 、 出版  NHK出版

1940年(昭和15年)、ナチスドイツに追われて逃げてきたユダヤ難民たちが、リトアニアの日本の領事館に日本へのビザを求めて押し寄せてきた。領事代理の杉原千畝(ちうね)は、人道的見地から、本国の指令に反して日本通過を許可するビザを発給した。そして、ユダヤ難民6000人がヨーロッパからシベリア経由で日本の神戸、横浜、東京へ渡っていった。
 ここまではセンポ・スギハラのビザ発給によるものとして、私も知っていました。この本は、日本にやってきたユダヤ難民のその後を扱っています。
 杉原が発給したビザは、あくまでも日本を通過することを許可するビザであり、許された日本滞在期間はせいぜい10日ほど。たった10日間で、目的地の国と交渉し、船便を確保するのは不可能。そして、ビザの延長も拒否された。
 そんなユダヤ難民の窮状を救ったのが小辻節三(こつじせつぞう)だった。この本の主人公・小辻節三はヘブライ語学の博士号をもち、ヘブライ語を自由に話すことができた。そして、60歳のときにユダヤ教に改宗した。
 最近も、外務省の元高官が晩年にユダヤ教に改宗した人がいるという記事を読んだことがあります。日本人でも、インテリにはユダヤ教に魅かれる人が少なくないのですね。この本は、その小辻節三を生い立ちから、その家族の現在に至るまで、よく調べていて、本当に感心します。
 日本が国際連盟を脱退したときの外務大臣として有名な松岡洋右(ようすけ)は、その前は満鉄総裁だった。そして、小辻を顧問として破格の高給で迎え入れた。
どうやら満州にユダヤ人を迎え入れようとする計画があったようなのです。
ハルピンで極東ユダヤ人会議が開かれたとき、小辻は1000人をこえる聴衆の前でヘブライ語で演説をはじめた。ただし、そのヘブライ語は、とても古典的なヘブライ語ではあった。みんな驚いたことでしょうね。日本人が古典的ヘブライ語を話すなんて・・・。
 ユダヤ難民が神戸へ上陸して苦労しているとき、小辻は頼まれて、その局面打開のために東奔西走した。そして、小辻に力を貸したのが、元満鉄総裁であった松岡洋右外務大臣だった。まさしく偶然のおかげでした
 松岡外相は、ドイツとの関係は良好に保ち、アメリカとの戦争は回避したいという立場にあったので、小辻のユダヤ難民の救出に手を貸した。
 その後、小辻は満州に渡り、そこでユダヤ人に助けられた。
小辻に神戸で助けられたユダヤ難民のなかには、アメリカに渡ったあとイスラエルの宗教大臣になった人もいました。
 小辻は、戦後、そのような人々との交流も大切にしたようです。まったく知られていなかった事実を、足で歩いて発掘していった著者に感謝したいと思いました。
(2013年4月刊。1700円+税)

2013年10月 2日

戦場の軍法会議

著者   NHK取材班・北博昭 、 出版  NHK出版 

フィリッピンで死刑になった日本兵の裁判(軍法会議)がインチキそのものだったことを奇跡的に明らかにした本です。NHKスペシャルで放映され、大きな反響を呼んだ番組が本になっています。NHK取材班の執念が見事にみのった貴重な労作です。
 日中戦争が始まった1937年(昭和12年)以降、軍法会議で処罰される兵士が急増した。太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)には、1年間に5500人をこえる兵士が処罰された。
 軍法会議とは、罪を犯した陸海軍の軍人、軍属といった軍の構成員を裁くために、軍の中に特別に設けられた軍事法廷のこと。
戦前の法務官は、司法資格をもち、軍の中で法の遵守をチェックする「法の番人」とされる存在だった。
 軍法会議は通常の裁判所とは別の「特別裁判所」だ。軍法会議の仕組みは、裁判官、検察官、弁護人、被告という構図であり、通常の裁判と変わらない。特徴的なのは、日本の軍法会議では、通常5人いる裁判官のうち4人を軍人が占めていること。軍人の中で階級が一番上の兵科将校が裁判長をつとめた。
 裁判官の階級は、必ず被告人と同等か、それ以上の階級のものが選定された。そして、5人の裁判官のうち必ず1人は「軍人」ではない「文官」の法務官が担当することが法律で定められていた。
 明治42年生まれの馬場東作は東京帝大法学部を卒業し、司法試験に合格できずに海軍法務官となった。馬場は大学生のころマルクス主義を学び、不正義を怒り、軍に不信感をもつ反戦主義者だった。
 中田という海軍上等兵は奔敵(ほんてき)未遂、窃盗、略奪で死刑に処せられた。
敵前逃亡に死刑があることは知っていましたが、奔敵という罪名は聞いたこともありませんでした。
 軍法会議で死刑判決を受けた兵士は、護国神社にも靖国神社にも祀られていない。兵士の逃走は飢えによるもの。日本軍上層部の「現地調達」という無茶で無謀な作戦、食糧を送りこまずに現地で調達せよというのはバカな、無責任な考えである。
 日本軍は、アメリカ軍と違って、前線に行けば行くほど食糧がなかった。
 そもそも食糧さえ満足に与えず、戦わせた軍に逃亡兵を処罰する権利があるのか・・・・。
 食糧難の軍にとって、兵隊の数が減れば、口減らしにもなる。餓死寸前の兵士のなかに、夢遊病者のようにフラフラと部隊を離れる者が続出した。餓鬼道の積み重ねのように、まったく軍とか人の集団というようなものではなかった。
「平病死」とは、軍法会議で死刑になったことや、自殺したことを意味する呼び方。
戦後になって、軍の法務官だった人の大半が弁護士になりました。私が35年前に故郷にUターンしたとき、軍の法務官だったという人が何人も弁護士として活動していました。もっと、いろいろ話を聞いておけばよかったと思いますが、時すでに遅し、です。軍法会議というものの本質がいいかげんなものであること、しかし、死刑になった兵士の遺族が汚名を挽回するのはとても困難なことを伝えてくれる良書です。
(2013年9月刊。1900円+税)

2013年9月19日

抗日・霧社事件の歴史

著者  鄧 相揚 、 出版  日本機関紙出版

1930年(昭和5年)10月27日、台湾の山岳に住む原住民は反乱を起こし、運動会に参集していた日本人を皆殺しにしたのが霧社事件です。
 3冊シリーズの第1冊目を紹介します。霧社という地名は、このあたりは霧が深いために名付けられた。海抜1148メートルある。
 1930年当時、霧社の町には、日本人が36戸157人、漢人が23戸111人住んでいた。
 樟脳(しょうのう)製造に従事する従業員と家族は700人にのぼった。
 日本の植民地政府は、日清戦争後に台湾を支配し、武力討伐で原住民を包囲し、それぞれの部族に「和解」や「武装解除帰順」を迫った。日本人は、原住民族を野蛮民族とみなして、大日本帝国の民族主義の優位のもとに、彼らの人間性を尊重することはなかった。
 タイヤル族は、代々、狩猟と粟、陸稲の栽培で暮らしをたててきた。日本人は、それに対して焼畑工作をやめさせ、水稲の定地工作を強制した。タイヤルの人々にとって、水稲農耕への転換はつらい道のりだった。
 タイヤル族の銃器も押収され、伝統的な狩猟は制限された。出草して敵の首を狩ることは、本来タイヤル族の大切な祖霊崇拝の習俗だった。
 首狩りは、部落の行事に加わる手段であり、男性の武功と栄誉の象徴でもある。敵の首を狩ったことのないものは、顔に刺青を入れることができないし、顔に刺青がないものは結婚することができない。刺青は、成人のしるしでもあった。
 タイヤル族の風習では酒をすすめるのは、その人への尊敬の気持ちをあらわす。ところが、逆にタダオ・モーナは酒をすすめた相手の日本人警官から殴打され、侮辱されてしまった。
 10月27日に霧社事件が始まり、全部で134人の日本人が殺され、26人が負傷し、日本の服を着ていた漢人2人が殺された。
 10月31日、日本軍が総攻撃を始めると、抗日6部落の人々は山深く潜入して、長期抗戦に入った。
 日本陣営への参加を迫られたタイヤル族には「戦地勅令」が適用され、命令にそむいたり、警察の指摘に従わず、戦地から逃亡したものは、即刻銃殺あるいは拘留して厳罰に処した。その一方、勇猛果敢に戦功をあげた原住民には褒賞を与えた。
日本人によって育てられた花岡一郎と二郎は、民族の感情と恩義の葛藤のなかで矛盾におちいり、一族21人を連れて小富士山に行き、そこで首を吊ったり、切腹自殺をして、部族の人々と日本人の両方への忠誠心を表明した。
 タイヤル族は、祖先は巨木(ボソコフニ)のなかから生まれたと信じ、死の苦しみに直面すると、巨木のしたて首を吊って死ぬことをえらび、霊魂を自ら祖霊のもとにかえす。そのため、タイヤル族が日本軍の討伐や包囲懺滅に対抗するとき、徹底的に闘うか、さもなくば自ら首を吊って殉死する。
 事件が発生したとき、抗日6部落の住民は1236人。戦死者85人、飛行機による爆死者137人、砲弾による死者34人、「味方蕃」による死者87人、自ら首を吊って死んだ者290人(45%)。いずれにしても日本人とタイヤル族の双方に大惨事となった事態です。
(2000年6月刊。2095円+税)

2013年9月13日

少年口伝隊1945

著者  井上 ひさし 、 出版  講談社

8月末に広島に出張してきました。昼食は、原爆ドームから遠くないところにある広島ガキ専門店でかきフライ定食(1000円)を食べました。真夏なのに、丸々肥えたカキを美味しくいただきました。夕食には広島名物のお好み焼きを買って、我が家で電子レンジで温めて食べました。期待以上の美味しさでした。
 この本は、そんな広島出張の車中で読んだのでした。平和公園、そして原爆ドームを訪れました。豪雨のあとでしたから、猛暑も少しやわらいでいて、助かりました。
 青空が裂けて、
 天地が砕けた。
 爆発から1秒あとの火の玉の温度は1万2000度だった。
太陽の表面温度は6000度だから、街の上に太陽が二つ並んだことになる。
 その熱で、地上のものは人間も鳥も虫も建物も、一瞬のうちに溶けてしまった。
 火泡を吹いて溶けてしまった。
火の玉からは爆風が吹き出した。音の2倍の速さで、畳一畳あたり10トンの圧力をかけて、地上のものを一気に吹き飛ばした。
 火の玉は殺人光線も出していた。内臓や血管や骨髄などの人体の身体のやわらかなところに、殺人光線がこっそり潜り込んでいた。
 このようにして・・・・数十秒のうちに広島市の半分が消え失せ、その日のうちに12万人が亡くなって、20万人の人々が傷ついた。このときから、漢字の広島は、カタカナのヒロシマになった。
 原爆病にかかって死ぬ人は・・・。
 まず、熱が出る。次に、だるくなる。それから、ものを食べなくなる。髪の毛がごそっと抜けて、からだじゅうが痒くなる。おしまいに足首に紫の斑点が出る。さもなければ、唇や歯茎から血が流れ出る。そうなると、人は死ぬ。
 私のもっとも尊敬する作家である井上ひさしの本です。それなりに井上ひさしの本は読んでいると自負していましたが、この本はまったく知りませんでした。小学高学年向きの本ということですが、大人が読んでいい本です。
(2013年6月刊。1300円+税)

2013年9月 1日

私の従軍・中国戦線

著者  村瀬 守保 、 出版  日本機関紙出版センター

1937年(昭和12年)7月に招集されてから1940年12月に日本に帰国するまで、2年半のあいだ中国大陸を兵站自動車中隊の一員として転戦した兵士のとった写真です。
カメラ2台を持っていたので、中隊の非公式の写真班員として認められていた。召集兵ばかりの中隊だったので、古参兵によるいじめはなかった。
 天津市内に入ると、すっかりさびれていた。日本軍の爆撃で目ぼしい建物はほとんど崩壊していた。
 続いて上海へ。上海戦線は、日中両軍が2ヶ月間も死闘を尽くした激戦だった。
逃げ遅れた中国人の老人と子どもをとった写真があります。いかにも脅えた表情のあどけない子どもは痛々しいばかりです。キャプションには80にもなる老婆がつかまって、2人の日本兵に犯され、ケガをしたとあります。
南京大虐殺の現場をうつした写真も何枚かあります。今でも、「幻の大虐殺」などという日本人がいるのは信じられないことです。
 そのあと、有名な徐州作戦に参加しました。ところが、中国軍の主力は逃げたあと。待ちうけていたのは、待ち伏せ攻撃だった。
 狭い路地を通過しているときに、真ん中の車両が攻撃され、分断される。怪しい中国人は、日本刀の試し切りとして惨殺される。そんな写真が何枚もあります。
 漢口に行き、山西省へ八路軍の討伐に向かう。そして、従軍慰安婦に出会います。日本軍の公設の慰安所が各地にありました。河野談話を否定するなんて、歴史のねじ曲げでしかありません。
 ノモンハン戦線に向かって、もうダメかと思っていると、休戦協定が成立。これで、無事に日本へ生還できたのでした。
くっきり鮮明な戦場写真は、それだけ余計に戦争の悲惨さ、残酷さを浮きぼりしています。
(2005年3月刊。2400円+税)

2013年8月10日

軌跡

著者  宮崎 静夫 、 出版  熊本日日新聞社

前にシベリアでの収容所生活を描いた著者の本を紹介しました。
 満蒙開拓青年義勇軍に熊本(小国町)から参加し、関東軍に志願して兵隊となり、敗戦後はソ連軍によってシベリアに連行され、そこできびしい収容所生活を過ごしたという過酷な体験記です。
 それでも、芸は身を助けるということで、うまく絵を描けるということで収容所生活がなんとか過ごせた面もあるようです。
 著者の絵は、無言のうちにも悲痛な叫びに満ちていますよね。
 8人兄弟の中の6番目でしたから、満蒙開拓青年義勇軍に志願したのも分かりますよね。
 教科書は、ススメ、ススメ、ヘイタイススメというもので、軍国少年そのものだったのです。
満州の現地に着いたのは昭和17年の6月のこと。辛い毎日を過ごすことになります。そして、昭和20年5月に関東軍に志願して、兵隊になるのでした。ドイツが降伏し、沖縄戦が終末期のころです。そして、2等兵のまま終戦を迎えます。
 それから、4年間のシベリアでの捕虜生活を過ごすのでした。よくぞ、生き残ったものと思いますが、やはり若さでしょうね。
帰国してから絵を本格的に描きはじめるのでした。
 一度、本物の絵を拝見したいものです。熊本県立美術館には飾ってあるのでしょうか・・・。
(2013年3月刊。1000円+税)

2013年8月 9日

昭和30年代演習

著者  関川 夏央 、 出版  岩波書店

昭和30年代とは、貧乏くさくて可憐で、恨みがましい。そんな複雑で面白い時代だった。
 私は昭和42年に大学に入学していますので、昭和30年代というと、大半が小・中学生のころになります。たしかに貧乏くさい生活でした。まだ初めのうちは、テレビ見たさに近くの銭湯に入ったりしていました。どこにも子どもがうじゃうじゃいて、群れをなして遊んでいた時代です。空き地には紙芝居のおじさんがやってきました。お小遣いをもらっていない私は、すぐ近くで紙芝居は見ることができません。だって、水アメなどを買う子だけが、すぐそばで見れるのです・・・。
 松本清張が流行していました。本来、能力に恵まれているはずの自分が不遇なのは、努力不足のせいではない。生まれ育ちの不利と、それによる学歴不足、そして学歴不足を理由として職場での不当な差別のせいだ。それは一つの信念だった。自分の責任ではない。めぐりあわせの悪さのせい、もっと言えば「他者」のせいだ。そして、その背後には社会を繰り、大衆を支配する「巨悪」がいる。自分に日が当たらないのは、その「巨悪」のせいではないか・・・。なーるほど、たしかに、そういう怨念が感じられる本が多いですよね。
 「イムジン河」というフォークソングについて語られています。初めて歌われたのは昭和41年のこと。「水鳥は自由に越える、あの川を、人間はなぜ渡れないのか」
 この歌詞は、帰国運動によって不運にも日本から北朝鮮に帰国してしまった在日コリアンの青年が、昭和36年ころにつくったもの。水鳥が「自由に越える」のは臨津江ではなく、実は日本海。つくり手は、故郷の日本や大阪への思いを託した。それを知った朝鮮総連が、この歌のレコードを販売中止に追い込んだ。なーるほど、そういうことがあったんですね。
 「帰国運動」は昭和35年が最高潮だったとのこと。ちょうど、大牟田で三池争議が高揚し、安保条約改正に反対する運動が盛りあがっていたころのことです。
三島由紀夫は、「日本の文学」に松本清張作品を入れることに強硬に反対しました。
 三島由紀夫は「社会派」を本人が自称していたのだそうです。ちっとも知りませんでした。
 「社会小説」のジャーナルを開拓したと自負する三島由紀夫には、高級官僚の墜落と保身を指摘するだけで、「社会派」と呼ばれる松本清張の作品は笑止と映ったはずだ。
 三島由紀夫の運動神経は「不器用の一語」だった。それにもかかわらず、途方もなく運動に熱心だった。
 昭和37年8月に、堀江謙一少年が太平洋を一人ヨット横断に成功した。日本の新聞の第一報は、非難する調子だった。ところが、アメリカはまったく逆に大きく称揚した。これを知って、日本の新聞のトーンが一変した。
 なぜ、アメリカが称揚したのか?
実は、その前日に、ソ連の人工衛星の打ち上げが成功し、アメリカが宇宙技術でソ連に再び遅れをとったことがはっきりした。そんなニュースを大きく扱いたくなくて、たまたま西海岸の各紙が堀江青年の冒険をトップ記事にしたというもの。
 なるほど、こんな偶然が作用していたのですか・・・。
 「キューポラのある街」とか「にあんちゃん」の背景にある北朝鮮への「帰国運動」の暗部を今は明確に批判できます。でも、当時は恐らく多くの人に真実が見えなかったのでしょうね。気の毒という言葉で簡単に片づけられないほどの不幸をもたらした「運動」でした。
 私の今に至るあこがれの吉永小百合について、両親とは結局、和解には至らなかったとのこと。「生活能力の欠けた父親」と断定されています。親子関係は、どこでも難しいものです。それでも、私は今なおサユリストなのです。原発とか戦争に反対して行動する彼女の勇気をたたえます。ついでに言うと、水泳という共通の趣味があるのですよ・・・。
 昭和30年代とは、どういう年代か少し分かりました。では昭和40年代はどうなのでしょうか・・・。続編をよろしく。
(2013年5月刊。1500円+税)

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