弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦後)
2008年2月22日
枢密院議長の日記
著者:佐野眞一、出版社:講談社現代新書
大変な労作です。日本人が世界に冠たる日記好きの民族とはいえ、主人公のつけた日記は群を抜いています。なにしろ、26年間に297冊の日記をつけていたのです。ひと月にノート1冊分のペースです。1日あたり、400字詰め原稿用紙で50枚をこえることもある。26年分の日記をすべて翻刻したら、分厚い本にして50冊はこえる。すごーい。
ところが、この日記は死ぬほど退屈なもの。といっても、その恐ろしく冗長な日記のなかに、ときに歴史観を覆すような貴重な証言が不意をついて出現する。
主人公は、久留米出身の倉富勇三郎。嘉永6年(1853年)、久留米に生まれ、東大法学部の前身の司法省学校速成科を卒業したあと、東京控訴院検事長、朝鮮総督府司法部長官、貴族院議員、帝室会計審査局長官、枢密院議長などの要職を歴任した。
この本は、その膨大な日記のうち、大正10年と11年に焦点をあてて紹介している。
宮中某重大事件が登場する。昭和天皇の妃に内定していた良子女王の家系に色盲の遺伝子があるとして、婚約辞退を迫られた事件。婚約辞退を主張した急先鋒は、枢密院議長だった元老の山県有朋だった。山県をバックとする長派閥と、良子の家(久邇宮家)をバックアップする薩閥の対立に発展した。
貞明皇后と良子女王のあいだには、まだ結婚前なのに、すでに穏やかならざる空気が漂っていた。ちょうど、いまの皇室の危機と同じように・・・。
主人公の日記には、警視総監が久邇宮家の意を体した壮士ゴロの金銭要求をなんとか飲んでくれないかと言ったという話がのっている。これは内務大臣も了解ずみで、久邇宮家が皇后の座をお金で買ったことを認めているのも同然。
うむむ、そういうことがあったとは・・・。
倉富勇三郎には、恒二郎という2歳年上の兄がいた。この恒二郎は福岡から上京して官界を目ざした弟の勇三郎とは反対に、明治維新後、福岡で自由民権運動に加わり、福岡日日新聞社の創刊者の一人となり、最後は、同社の社長となった。福岡県弁護士会史(上巻)によると、明治24年8月に41歳で亡くなっていますが、久留米で代言人をしていました。自由民権運動で活躍し、死ぬまで県会議員でした。
倉富の風貌は、村夫子(そんぷうし)そのもの。その春風駘蕩然とした表情には、緊張感がまったく感じられない。官僚のエリート街道をこの顔で登りつめたのか不思議なほど。
倉富は、超人は超人でも、スーパーマンではなく、たゆまぬ努力によって該博な法知識を身につけた超のつく凡人だった。
柳原白蓮と宮崎龍介の騒動も紹介されています。2人のあいだに生まれた子は、早稲田大学にすすみ、学徒出陣で鹿屋の特攻隊基地で、敗戦の4日前にアメリカ軍機の爆撃を受けて戦死しました。白蓮女史は昭和42年2月に83歳で亡くなり、夫の宮崎龍介は4年後の昭和46年1月に80歳で死亡しています。
主人公は日記をつけるために、下書きのメモまでつくっていた。そして、ヒマさえあれば読み返していた。まさに寸暇を惜しんで日記を書き続けた。
いやあ、こんな人がいるんですよね。膨大な日記をこうやって読みやすい新書にまとめていただき、ありがとうございます。お疲れさまでした。
(2007年10月刊。950円+税)
2008年2月14日
BC級戦犯裁判
著者:林 博史、出版社:岩波新書
東京裁判の被告が28人、BC級戦犯裁判では7ヶ国によって5700人が裁かれた。死刑になったのは東京裁判で7人に対し、BC級裁判では934人にのぼっている。
うむむ、この差はなんということでしょう。これは、『私は貝になりたい』というケースがたくさんあったことを意味しているようです。
アメリカ政府は、1944年夏まで、戦争犯罪の問題に積極的には取り組んでいなかった。その状況が一変したのは、財務長官がナチス・ドイツの指導者たちをつかまえたら即決処刑すること、「人道に対する罪」の責任者は軍事法廷で裁くことを提案したことからだった。ルーズベルトもチャーチルも、この考えに同調していた。しかし、ヘンリー・スチムソン陸軍長官は危機感を抱いた。そのような政策では、かえってドイツを徹底抗戦に追いやってしまうので、やはり裁判によって処罰すべきだと批判した。
そこで、即決処刑方式は連合国全体に共通するもっとも基本的な正義の原則に反するとして否定され、主要戦犯は裁判にかけることになった。
ドイツ指導者を裁判にかけることにチャーチル首相のイギリス政府は抵抗したが、ヒトラーが1945年4月末に自殺し、法廷でヒトラーの演説を聞かなくてよくなったので、国際裁判案をイギリスも受け入れた。
A級とは平和に対する罪、B級とは通例の戦争犯罪、つまり戦争法規または慣例違反、C級とは人道に対する罪のこと。
スガモプリズンで執行された最初の死刑判決は、1946年1月7日の福岡俘虜収容所第17分所(大牟田)の由利敬所長(中尉)だった。死刑は4月26日に執行された。
捕虜への犯罪が43%、民間人への犯罪が55%を占めている。
死刑になったのは、准士官と下士官が圧倒的に多い。将校では下級将校に集中しており、とくに大尉が多い。高級将校のなかでは、中将と大佐が比較的多い。軍人のなかでは、憲兵が高い比率を占めている。憲兵は死刑の30%、全件数の27%、人数の37%である。朝鮮人の俘虜収容所監視員のように、軍属で死刑になった者も少なくない。
アジア太平洋戦争で日本軍の捕虜となった連合軍将兵は35万人。そのうち29万人が開戦後、半年内につかまっている。そのうち15万人がイギリス人、アメリカ、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダの本国軍将兵だった。
日本は捕虜の「無為徒食」を許さないという方針をとり、各地で捕虜を強制労働に従事させた。きわめて乏しい食糧や医薬品、劣悪な生活環境、監視員による日常的な暴行、厳しい強制労働のなかで多くの捕虜が倒れた。6ヶ国の捕虜15万人のうち4万人、28%が死亡した。これは、ナチス・ドイツの捕虜となった英米将兵の死亡率が7%、シベリアに抑留された日本兵の死亡率が10%だったのに比べると、きわめて高い死亡率である。
『私は貝になりたい』という映画で2等兵が戦犯裁判で死刑に処せられているが、2等兵が死刑に処せられた事実はない。曹長ならあった。曹長と2等兵では、軍の中での立場はまったく違う。
『私は貝になりたい』の原作者は上官の命令であったということだけでは免責されない、侵略戦争に協力した世界のすべての人の一員としてのあなたの責任が問われているという趣旨のことを指摘しています。
イラク戦争に相変わらず狂奔するアメリカの下働きをする新テロ特措法を成立させた自民・公明の政府と、それを側面から支えている民主党の責任は重大です。
戦争は、ある日突然に始まるものではない。この言葉を今こそかみしめるときではないでしょうか。
(2005年6月刊。740円+税)
2008年2月 6日
アジア・太平洋戦争
著者:吉田 裕、出版社:岩波新書
太平洋戦争は真珠湾戦争で始まったものではない。その前の、1941年12月8日午前2時15分(日本時間)、日本陸軍は英領マレー半島のコタバルへ上陸作戦を開始した。その1時間後に真珠湾攻撃が始まった。
この事実は、なにより対英戦争として始まったことを示している。オランダに対して日本は宣戦布告せず、豊富な石油資源を有するオランダ領インドネシアを無疵で手に入れようとした。日本政府は、宣戦布告の事前通告問題の重要性をほとんど認識していなかった。
日本政府が太平洋戦争を始めたときの戦争目的は、明らかに「あとづけ」でしかなかった。1941年11月2日、昭和天皇は、東条首相に対して、戦争の大義名分をいかに考えるのかと下問し、東条は「目下、研究中」と奉答した。
むむむ、なんということ、「目下、研究中」の大義名分のために戦争を始めようとしたとは・・・。絶対に許されないことですよ、これって・・・。
12月8日午前11時40分の宣戦詔書では、「自衛のための戦争」となっていた。ところが、同じ日の夜7時30分には「アジアの解放のための戦争」となっていた。
日本政府のかかげた戦争目的は、「自在自衛」から「大東亜新秩序維持」と「大東亜共栄圏建設」とのあいだをゆれ動いた。
いやあ、これって、あまりにもいい加減すぎます。まるで信じられません。
日本軍がアメリカとの戦争を決意した理由は、臨時軍事費による軍備の充実だった。開戦時、太平洋地域では、日本の戦力はアメリカを凌駕していた。国策よりも、自らの組織的利害を優先するという海軍の姿勢があった。つまり、軍備拡充に必要な予算と物資とを確保するため、武力南進政策を推進する。しかし、十分な勝算のない対米英戦は、できれば回避したい、というのが海軍のホンネだった。ところが、海軍首脳が対米開戦反対を明言できなかったのは、海軍は長年、大きな予算をもらって、機会あるごとに海のまもりは鉄壁だ、西部太平洋の防守は引き受けたと言ってきた手前、今となってにわかに自信がないなどとはどうしても言えなかったということである。
対米戦争の主役は海軍である。このことは陸軍もよく理解していた。だから、海軍が本当に対米開戦を決意しているのか、あるいは対米戦に勝利する確信をもっているのかというのは、陸軍の重大関心事だった。
9月6日に開かれた御前会議の時点では、昭和天皇は、対米英開戦について確信をもてず、参謀総長などに対して、その勝算について厳しく問い正している。ただし、天皇が開戦に反対していたというわけでもない。勝算のない開戦には大きな危惧を抱きながらも、統帥部(軍部)の主張に耳を傾けていた。
11月5日の午前会議の時点では、天皇は木戸幸一内大臣などの宮中グループの助言を受けいれながらも、はっきり戦争を決意していた。『機密戦争日誌』には、「お上もご満足にて、ご決意ますます強固になっているようだ」と書かれている。
日本政府は、戦争瀬戸際外交をとっていたので、強力な言論報道統制と世論指導をした。
政府には内乱への恐怖があり、内乱を避けるために戦争を決意せざるをえないという転倒した論理が生まれていた。戦争瀬戸際外交は、国内的にも、日本政府をあともどりできない地点まで追いこんでいく結果となった。
アメリカの主力艦隊との艦隊決戦に備えて、まずアメリカの植民地であるフィリピンと米領グァム島を攻略したい海軍とは異なり、陸軍にとってアジア・太平洋戦争とは、何よりも日英戦争を意味していた。
アメリカのルーズベルト大統領が真珠湾攻撃を事前に知っていたという一次資料は存在しない。ルーズベルトは、通信諜報などによって、日本が戦争を決意したこと、東南アジアで軍事行動を開始したことは事前に知っていた。しかし、陰謀論は成り立たない。
素人の私も、そうじゃないかと思います。
真珠湾攻撃は、潜水艦部隊による攻撃としては、完全な失敗に終わっていた。真珠湾攻撃に際して5隻の小型潜航艇に2人ずつ乗り組み、戦死した9人の隊員(残る1人の将校はアメリカ軍の捕虜となった)を「九軍神」とたたえる大キャンペーンが展開された。
日露戦争のときの軍神は30代から40代の中堅将校であったが、今度は20代の「軍神」である。時代は若者の大量死の時代にふさわしい新しいヒーローを必要としていた。
うむむ、なるほど、なるほど、すごく鋭い指摘だと思いました。
東条首相は、陸相として陸軍省の機密費を自由につかうことができたという有利な立場にあった。東条首相の政治資金の潤沢さは鳩山一郎からも指摘されていた。東条は、アヘン密売の収益金10億円を鈴木真一陸軍中将から受けとったという噂があった。東条のもっているお金は16億円で、それは中国でのアヘン密売からあがる収益だった。
宮内省などに東条の人気が良かったのは、東条の付け届けが極めて巧妙だったから。たとえば、東条は、秩父宮と高松宮に自動車を秘かに献上し、枢密顧問官には、食物や衣服そして、万年筆などの贈り物をしていた。東久邇宮のところには、アメリカ製自動車が届けられた。いやあ、これって全然知りませんでした。東条が汚いお金で宮中などの要人を「買収」していただなんて・・・。ひどい話です。
東条首相が昭和天皇の信頼を得ていたのは、東条が天皇の意向をストレートに国政に反映させようと常に努力していたから。
1942年4月の翼賛選挙のとき、非推薦候補に対しては露骨な選挙干渉がなされたが、推薦候補に対しては1人あたり5千円の選挙費用が政府から交付された。この費用は、臨軍費から出ていた。ところが、激しい選挙干渉にもかかわらず。85人もの非推薦候補が当選した。そこには、翼賛選挙に対する国民の批判が一定反映されていた。
東条内閣の政治では、憲兵の存在を忘れてはならない。陸軍大臣を兼任していた東条首相の意を受けた憲兵政治がなされた。憲兵の私兵化だ。
また、東条は、メデイアを意識的に利用した最初の政治家だった。東条は絶えず国民の前に姿を現わし、率先して行動し決断する戦時指導者という強烈なイメージをつくり出そうとした。くり返しラジオに登場した。東条は最後までオープンカーにこだわった。国民の視線に常に自らをさらすというのが、一貫して姿勢だった。
東条の芝居がかったパフォーマンスは、識者の反撥と顰蹙を買った。しかし、一般の国民は東条を強く支持した。東条は、一般の国民にとって「救国の英雄」だった。うむむ、そうだったのですか・・・。ここで、つい小泉純一郎の姿が東条英機にかぶさって思われました。
陸海軍の兵力が急激に膨張したことは、精強さを誇ってきた日本軍が弱体化したことを意味する。幹部の質の低下である。指揮・統率能力が低く、体力・気力ともに劣る、兵士に対して押さえのきかない将校が増大した。同時に彼らは、一般社会の空気を吸い、一般社会での経験を積んできた将校でもあった。軍隊の地方化、市民社会がすすみつつあった。
1944年3月、日本軍は「玉砕」という言葉をつかわないようにした。玉砕という表現が逆に日本軍の無力さを国民に印象づける結果になるという判断にもとづいている。昭和天皇の弟である高松宮の日記(1943年12月20日)にも、「玉砕は、もう沢山」という表現がある。
1943年12月。民心は、東条内閣からもうまったく離れていると小畑中将が細川護貞に語った。東条の極端な精神主義への傾斜が周囲の顰蹙を買っていた。
大変勉強になる本でした。知らないことが、こんなにもあるなんて・・・。
(2007年8月刊。780円+税)
2008年1月22日
治安維持法とわたし(戦前編)
著者:桑原英武、出版社:日本機関紙出版センター
明治45年(1912年)生まれの著者の、血わき肉おどるような自伝です。
旧制三高の2年生のとき(昭和4年、1929年)、夏休みのある日、特高警察が自宅にやってきて、有無を言わさず京都・川端警察署に連行されます。非公然の三高社研(社会科学研究会)の読者会が警察にバレていたのです。
若い著者は、マルクス主義に魅せられ、天皇制打倒と侵略戦争反対を親に向かっても高言してはばからなかった。黒田了一元大阪府知事は三高の一年先輩だった。
工場の門前でビラまきをして著者は警察につかまった。29日までの勾留は警察署長が即決でできた時代である。
昭和5年(1930年)、19歳のときに警察に捕まって拷問を受けた。
20歳になって徴兵検査を受けたが、陸軍大佐の徴兵司令官は思想上の過ちがあったとして、「第2乙」とした。現役徴兵はされないことになった。
治安維持法違反で、1931年(昭和6年)と1933年(昭和8年)の2回、法廷に立たされた。弁護人は、2回とも井藤誉志雄弁護士だった。
著者は今の平成天皇の誕生によって減刑されたものの、合計4年半の刑期で大阪刑務所に入った。弁護人であった井藤弁護士も、1933年11月に治安維持法違反で懲役2年、執行猶予1年の判決を受けた。
先に紹介した『永遠の青春』の桟敷よし子は、日銀総裁であった深井英五と父が懇意にしていたことから、よし子が逮捕されたとき、深井英五は200円もの更生資金をカンパしたという。桟敷よし子は1992年(昭和67年)2月、89歳で亡くなった。
著者は青春まっただなかの、22歳から26歳までの4年間、大阪刑務所で独房生活を強いられた。1937年(昭和12年)4月に仮釈放されるまでのことである。
著者は、貴重な青春時代の4年間を刑務所のなか、独房生活を過ごしています。22歳から26歳までのことです。なんとむごい仕打ちでしょうか。私でいうと、司法試験の合格を目ざし、司法修習生になり弁護士生活をスタートしたという激動の年齢です。そのとき、狭い部屋でずっと拘禁生活を余儀なくされて耐えていたというのですから、私はそれだけでも著者を大いに尊敬します。
戦前の治安維持法による検挙者数が、紹介されています。
1930年(昭和5年)に6877人、31年に1万1250人、32年に1万6075人、33年(昭和8年)に最高の1万6397人。34年には、5900人あまりと激減してしまいました。これは、ほとんど対象者がいなくなったということです。小林多喜二が特高警察の拷問によって死亡したのは1932年2月のことです。
著者は1933年2月に2度目の逮捕を受けました。
特高警察による犠牲者について、政府の公式発表は今もってありません。被害者側の調査によると、明かな虐殺死は80人、拷問・虐待が原因で死亡した人は144人、病気その他による獄死は1500人、逮捕され、送検された人は7万6000人、送検された人は数十万人ということです。驚くべき特高警察の威力です。
獄中生活は、1日に15分前後の運動時間、週に1回の入浴時間というものだった。
著者は短歌をつくっていました。
独房に書(ふみ)読みおれば 合唱の君が代の声は聞こえ来にけり
この歌が見事に入選し、その賞としてぜんざい一椀が支給されました。甘味品に渇していた著者にとって、何よりありがたい賞でした。
著者は刑務所を出たあと、医師として再出発します。その勉強は、刑務所にいるときから始めたのです。人脈にも恵まれたのでしょうが、著者の人徳にもよるのでしょう。岩手医専を受験して、成績トップで合格したのでした。すごいですね。刑務所のなかの不自由な受験生活だったわけですからね。
過去の経歴が知られないように心配しながら岩手医専の4年間を過ごしたといいます。でも、ずっと総代をつとめ、成績トップで卒業しました。30歳にして医師になったのです。戦争中は、軍医として働いています。前科2犯、懲役5年間の実刑を受けた身でありながら将校(軍医)に任ぜられました。まさに奇跡ですよね。
大阪の石川元也弁護士の推薦で読みました。すごいお医者さんがいるものです。単なる自伝というより、戦前の日本の状況を実感で知ることのできる本です。
博多駅近くの小さな映画館でハンガリー映画『君の涙ドナウに流れ』をみました。1956年に起きた「ハンガリー動乱」(日本人の私にとってはこのように言うしかありません)を描いた映画です。はじめのプールで繰り広げられる水球試合から息をのむほどの迫力で、ソ連と秘密警察によるすさまじい一斉射撃と、それへの市民の反撃が始まって展開する市街戦も迫真の映像であり、息をこらして画面に見入って、2時間があっというまにたってしまいました。ハンガリーの人々がソ連の支配のくびきから逃れようとして立ち上がったのです。そして、その先頭に大学生たちが立っていました。私の大学生のときの学園闘争は、この映画のシーンに比べるとまるでオモチャの世界です。ただ、それでも真剣ではありましたが・・・。やはり、歴史は正しく伝えられる必要があり、また、それは広く知られる意義があるとつくづく感じたことです。ぜひ大勢の人にみてほしい映画です。
(2007年9月刊。1429円+税)
2008年1月16日
永遠なる青春
著者:桟敷よし子、出版社:青春社
明治35年に生まれた著者の自伝です。母方の祖父は黒田藩士でしたが、博多を出て、北海道に移住しました。著者の父はキリスト教の信者であり、教師をしていたが、日露戦争に反対し、札幌で幸徳秋水らの平民新聞社グループの一員であった。明治41年、つとめていた学校の校長と意見があわず、開拓農民となった。
結婚して15人の子どもをもうけたが、みなメアリーとかナポレオンなどの外国名をつけた。著者はジョセフィンと名づけられた。著者の15人兄弟15人のうち8人が乳児のときに亡くなった。ほかの兄弟も病気につきまとわれた。
すごい名前ですよね。近ごろは、とても日本人の名前とは思えない名前の赤ちゃんばかりですが、なんと明治35年ころに自分の子どもに外国の名前をつけていた人がいたなんて。しかも、一応インテリなのですからね・・・。
著者の父親は、貧しい開拓農民の身でありながら、著者を札幌の女学校に入れた。第一次世界大戦が始まったころのこと。
著者は、女学生として、日曜学校に教えにも出かけた。やがて、関東大震災後の東京へ出て日本女子大に入学した。そこで、社会科学研究会(いわゆる社研)に入り、野坂竜に出会った。野坂参三の妻となった女性だ。この研究会で英文のレーニン『国家と革命』を読んだ。
昭和2年、大学3年生のとき、授業で英文の「共産党宣言」を学んだ。卒業論文として、徳永直の『太陽のない町』で有名な文京区氷川下の人々の状態を調査するため戸別訪問した。この氷川下には、私の大学生のころ氷川下セツルメントが活動していました。
そして、昭和3年に日本女子大学を卒業すると、倉敷紡績の工場に入った。今は大原美術館で有名な大原孫三郎のいた会社であり、寮の教化係として働いた。そこでのオルグ活動が成果をあげ、600人の女子労働者がストライキに突入した。すごいですね。昭和5年(1930年)のことです。大原社長の恩を仇で返す結果となったわけです。
資本主義社会での階級的矛盾は、個人ではどうすることもできない鉄則で回る歯車である。資本家個人の善意とか温情などは、もうけ主義の恥部をおおう「いちじくの葉」にすぎない。著者は、このように述べています。なるほど、ですね。
このストライキのあと、会社を首になった著者は大阪で地下活動に入ります。その実情はすさまじいものがあります。小林多喜二の『党生活者』を思い出します。ついに警察に捕まります。特高の拷問は、若い女性を裸にし、後ろ手にしばって、あおむけに寝かされ、口の中に汚ない手ぬぐいをつめこむというものでした。
治安維持法違反で警察に3回検挙され、3つの留置場と4つの拘置所で4回の正月を送り、4年間の刑務所生活を過ごし、昭和11年5月、札幌大通刑務所を満期出所します。昭和9年に刑務所に連行されるときには、青服に深あみ笠の姿で、腰縄をうたれていました。当時の写真によく出てきますね、あれです。そして、大阪に出て、さらに東京に戻り、看護学の勉強をし、昭和13年8月、37歳のとき看護婦試験に合格した。そして、保健婦として活動するようになった。
昭和20年3月、著者は中国大陸に渡った。満州開拓団の結核予防に取り組むためである。やがて8月に日本敗戦を迎える。日本への引き揚げが大変だった。開拓団難民3万人のなかで、発疹チフスが発生し、90%の患者を出し死亡者が続出、1日100人の死者を出したこともあった。そして、中国共産党の人民解放軍に加わり、後方病院に配属された。
やがて、中国共産党が中国大陸全土を支配した。1958年5月、ついに日本に帰国することになった。中国で13年のあいだ生活していたことになる。
そして、大阪で民医連の病院で保健婦として働くようになった。昭和46年、黒田了一革新府政が誕生。
古稀という体にねむる青春を きみ起こしたもう 永遠の青春。
今から32年前の1975年に、著者73歳のときに発刊された本です。戦前の苦難のたたかいが偲ばれます。こんな古い本をなぜ読んだのかというと、いま、私も母の伝記をまとめているからです。話は母の曾祖父、明治時代の初めから始まります。だから、戦前どんな時代だったかというのは当然知っておかないといけないのです。
私の敬愛する大阪の石川元也弁護士からお借りしました。ありがとうございました。
(1975年12月刊。750円)
2007年12月28日
となりに脱走兵がいた時代
著者:関谷 滋、出版社:思想の科学社
ベトナム戦争があっていた時代の日本です。始まりは1967年10月。えっ、私が東京で寮生活を始めた年のことではありませんか。もちろん、私もベトナム戦争反対の集会やデモに何度となく参加しました。夜遅い銀座で、大勢の人々と一緒に手をつないでフランス・デモをしたときの感激は今も覚えています。銀座の大通りを、デモ隊が完全に埋め尽くしていました。警察官も手を出すことができないほどの人数でした。もちろん、機動隊はいましたが、国会周辺と霞ヶ関あたりまでで、銀座にまでは手がまわらなかったのです。
ベトナム戦争に反対する市民の会(ベ平連)は、その一部にアメリカ軍の脱走兵の日本国外逃亡を助ける活動をしていました。私は後になって、新聞報道で知りました。これには、東大生なども関わっていたようです。有名な知識人が何人も隠れ家を提供しています。あれから40年たって、その全貌が少しずつ明らかにされています。この2段組みで 600頁をこす大部な本は、大変貴重な歴史的記録です。
ベトナム脱走米兵は、私と同じ世代です。「イントレピッドの4人」として有名なアメリカ脱走兵は、1947年と1948年生まれです。50万人以上のアメリカの青年がベトナムへ送られて5万8000人ものアメリカ兵ベトナムで死亡しました。もちろん、アメリカ軍によって殺されたベトナム人はケタが2つほど違います。
ベトナム反戦のアメリカ脱走兵を助けたベ平連の幹部としてマスコミに登場したのは、小田実、開高健、鶴見俊輔、日高六郎です。いずれも有名な知識人です。
アメリカ海軍の航空母艦「イントレピッド」から脱走してきたアメリカ兵4人は横浜港からソ連船バイカル号に乗って、日本を脱出した。そして、ソ連を出て、スウェーデンに亡命することができた。
脱走兵は、決して品行方正な英雄ではなかった。いろいろ手を焼かせた脱走兵が何人もいた。だから、世話をした人たちはなかなか大変だったようです。
日本人アメリカ兵も脱走したきた。日本人もベトナムで戦死している。1967年4月20日、LSTの乗組員(50歳)が銃撃されて死亡した。
脱走米兵の逃亡を支援する組織を解明するため、アメリカ軍はスパイを潜入させます。いかにも怪しい脱走兵なのですが、疑いはじめたらキリがないので、彼を信じて逃亡の手助けをしていきます。その息詰まる様子が再現されています。釧路からソ連へ船で渡るコースだったのですが、スパイがたれこみ、脱走米兵は結局、逮捕されてしまいました。ジャテックは、そこから、苦闘の道を歩むことになります。
当時30歳前後のサラリーマンから毎月500円のカンパを集めるのは、かなり大変なことだった。今なら1万円にでも相当する金額でしょうか・・・。
ジャテックに関わっていた小田実は、この本の座談会で次のように発言しています。
「全共闘運動を勲章にするだけで、何もしない連中がそこらへんに一杯いるじゃない。現在、どうしているか、現在にどうつながるか、それが問題だ」
なるほど、そのとおりです。私は全共闘と関わりがないどころか、その反対でがんばっていましたが、今の9条をめぐる政治情勢をどう考え、どのようにしたらよいのか、小さな声であっても、上げていきたいと考え、少しずつ、やっています。
(1998年5月刊。5700円+税)
私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた
著者:高橋武智、出版社:作品社
1967年。私が大学生になったのはこの年の4月。ベトナムでアメリカ軍が侵略戦争をしていました。ベトナムが共産化したら、インドシナ半島全体が共産化するので、それを止めるというのがドミノ理論(ドミノ倒しになるのを防ぐというものです)で、それがアメリカ軍のベトナムへの介入の大義名分でした。本当にとんでもない言い草です。ベトナムに派遣されたアメリカ軍は50万人。アメリカ軍の戦死者だけで5万5千人です。アメリカの私と同世代の若者たちが死んでいました。もちろん、ベトナムの人はそれより2桁も多い人々がアメリカ軍に殺されました。もちろん、というのは、近代兵器の粋を尽くしたアメリカ軍が無差別にベトナムの人々を殺しまくった結果がそうだったという意味です。アメリカ軍のなかにも嫌気をさして脱走する兵士が相次ぎました。そこまでの勇気のない兵士はアルコールと麻薬におぼれました。
この本は、アメリカ軍から脱走した兵士を日本人グループが国外逃亡に手を貸していた事実を明らかにしています。もちろん逮捕されることを覚悟のうえです。
ベ平連が誕生したのは1965年。解散したのは1973年だった。
アメリカ軍脱走兵士を国外へ逃亡させるための組織、ジャテックに脱走兵を装ってスパイが潜入してきた。海のCIAの別名をもつ海軍犯罪調査局(NCIS)の特別捜査官だったという。
それまでは北海道から海路、ソ連へ脱出させていた。しかし、ソ連が断った。そこで別のルートを開拓するためにヨーロッパに飛んだ。その苦労話がこの本のメインです。
いろんな人に会い脱出路を探ってたどり着いたのがパスポートの偽造。本物のスタンプに似せたものをどうやってつくるかという点をプロに教わった。完璧すぎるものをつくらないこと。インクをつけたペンで、それらしく点を打っていけばいいだけ。適当に歪みをつける。うーん、そうなんですか・・・。驚きました。
脱走兵を日本国内でかくまったとき協力してくれたのが知識人たちです。中野重治、日高六郎などの名前が出てきます。軽井沢の別荘を借りたりして過ごさせました。2年も日本国内に潜伏していたアメリカ人脱走兵がいたというのですから、たいしたものです。いえ、本人も辛抱したでしょうけど、それを支えたジャテックも偉いです。
いよいよ大阪空港から他人のパスポートで出国させます。ハラハラドキドキです。無事にパリのオルリー空港に到着。
アメリカでは、元脱走兵に対して今も公然とした嫌がらせがあっているそうです。クリントンのような兵役忌避者は大統領になれたわけですが・・・。
脱走が、実は、軍隊を内部から掘り崩した空洞化させるのに最大限有効な行為であり、国家からみたら絶対に許し難い行為だから、なのです。
スウェーデンには、そのころ、400人ものアメリカ人脱走兵がいたとのことです。
アメリカ軍の脱走兵を助けたジャテックの活動の全体像を知るためには、『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社、1998年)が資料集として、よくまとまっています。
この本は、その中の一人が、さらに個人的体験をふまえて、運動の実情を明らかにしたものです。
あれから40年たち、今こそ書き残しておくべきだという思いから書かれた本です。
(2007年11月刊。2400円+税)
2007年12月25日
清冽の炎・第4巻「波濤の冬」
著者:神水理一郎、出版社:花伝社
ついに第4巻が出ました。あれから40年。素敵なクリスマス・プレゼントです。
いよいよ東大闘争はクライマックスになりました。本郷では、有名な安田講堂攻防戦が華々しく繰り広げられます。当時、日本国中をテレビにくぎづけにした市街戦さながらのショーを思い起こします。そして駒場では、全共闘が立て籠もっていた第八本館(通称・八本・はちほん)が、民青とクラ連の統一行動隊によって封鎖解除されます。
この本では、攻める側、攻められる側、大学当局、警察と政府の動きが多元的に語られ明らかにされているところに画期的な意義があります。全共闘を一方的に賛美せず、逆に民青一辺倒ということでもありません。
安田講堂の攻防戦の前、警察は内部偵察をします。建築会社のジャンバーを着て、修復工事の見積もりのためと称して、内部を全部みてまわりました。警察は安田講堂を攻めるために8000人の警察官を動員し、最新の防炎服を1万着もそろえるなど万全の装備を用意した。マスコミに派手に中継してもらうことが最優先された。
安田講堂に立て籠もった全共闘の一人に当時の秦野警視総監の甥(この本では姪)がいました。学生に資金を提供し、軍事指導したアナーキストもいました。
安田講堂内部では、革マル派が全員退去した。東大生もいるにはいたが、むしろ人数としては少なかった。全共闘は指導部を退去させて温存する方針をとった。攻防戦の前夜、女子学生が大講堂にあったピアノを静かに奏でた。
加藤一郎執行部は安田講堂内の全共闘とのホットラインを2回線確保していて、光芒が始まってからも連絡をとりあっていた。
民青は前夜のうちに本郷から完全に姿を消した。自民党は、そのことを知り、地団駄をふんで悔しがった。
安田講堂攻防戦の前、駒場では12月13日と1月11日に代議員大会が開かれた。12月13日の代議員大会は駒場寮の寮食堂で開かれ、全共闘の一部が突入して乱闘になったが、すぐさま再開された。代表団10人が選出された。1月11日の代議員大会は全共闘の乱入を恐れて駒場寮の屋上で開かれた。
1月10日、秩父宮ラグビー場で七学部集会と称する公開団交が開かれ、東大当局と学生との間で確認書がとりかわされた。
東大闘争の最終局面の息づまる展開が詳細に明らかにされます。大変な迫力です。
東大のなかで連日の息詰まるようなゲバルトがあっているなかでも、地域におけるセツルメント活動は続けられます。授業で学ぶだけではない、そこにはまさしく生きた学問の場がありました。
1巻、2巻、3巻と売れないまま続いてきたこの大河小説も、ついにクライマックスを迎えました。全国の書店で発売されています。書店にないときには、ぜひ花伝社へ注文してください(FAX03−3239−8272)。インターネットでアマゾンへ注文もできます。
第5巻は、1996年2月と3月。そして、第6巻は登場人物の20年後、30年後の姿を描きます。そこまでたどり着くためには出版社に出版しようという意欲をもたせる必要があります。ぜひ応援してやってください。
新年(2008年)は、東大闘争が始まって40年という記念すべき年なのです。
(2007年12月刊。1800円+税)
2007年12月 7日
半世紀前からの贈物
著者:内田雅敏、出版社:れんが書房新社
50年以上前の1953年(昭和28年)に発行された小学2年生の文集をもとに、当時の子どもたちの生活を再現した本です。私が小学校に上がったのはそれより2年あとになりますが、およそ同じような状況ですので、親近感を抱きながら読みふけりました。
著者は1945年生まれで、いまは東京で弁護士として活躍しています。小学校は愛知県蒲郡町立南部小学校(蒲南。がまなん)です。
かごの中の、じゅうしまつ(十姉妹)はちゅうちゅうないてせまい、かごのなかをとびまわっている、かわいそうだね。
私の家でも同じように十姉妹を飼っていました。鳥籠を買って、私もその世話をしていました。毎朝、水を取りかえ、アワなどのエサをやり、鳥籠のなかの鳥のフンを始末してきれいにしてやりました。小鳥たちが楽しそうに水浴びしているのを、いい気持ちで眺めました。
にわとり
ぼくがおまつりでかったひよこが大きくなってたまごをうんでくれましたが、このごろうまなくなってしまった。
わが家でも鶏小屋をつくって鶏を何羽か飼っていました。私も、そのエサになる雑草をとりに行っていました。丈夫な卵をうんでくれるように、貝殻をこまかく叩いたものもエサとして鶏にやっていました。飼っている鶏を父が絞め殺し、さばく様子を間近で見ていました。卵の生成過程が見事にできているのも見ました。卵の殻が、あとで黄身と白身にかぶさるようになっていく様子もしっかり見て、自然の不思議を実感したことを覚えています。
当時の少年雑誌は、今のような週刊ではなく、月刊。『冒険王』『少年画報』『少年』など。毎月7日の発売日が待ち遠しかった。
私の家でも少年雑誌を一つ購入していたように思います。記憶が定かではありませんが、付録に組立できる工作がついていて、その組立が大きな楽しみでした。恐らく『小学○年生』だったと思います。姫路城を再現するような工作がついていました。ワクワクドキドキする豪華版の付録でした。といっても、前号の予告の写真のほうがすごくて、期待に胸をふくらませて開けてみると、なーんだ、こんなものかとガッカリすることもたびたびでした。
蒲郡市の『広報がまごおり』に1年余にわたって連載したエッセーをもとにした本だということです。護憲派の弁護士として大活躍している著者の原点を知ることのできる好著です。
(2007年10月刊。700円+税)
2007年11月16日
マツヤマの記憶
著者:松山大学 出版社:成文社
日露戦争100年とロシア兵捕虜というサブ・タイトルがついた本です。203高地争奪戦のあと、旅順を守っていたロシア軍が降伏すると、日本へ大量のロシア兵捕虜が連行されてきました。当時の日本は、捕虜を人道的に扱い、国際社会で名誉ある地位を占めました。この本では、その実情と、隠された捕虜虐殺、そして捕虜処遇費用をロシアに全額弁償させた事実が紹介されています。飫肥に行ったときに小村寿太郎記念館で買い求めた本ですが、勉強になりました。世の中には知らないことって、ホント、たくさんあります。
1904年の日露戦争開戦は、ひとつくれよと露にゲンコ、というゴロあわせて暗記しました。2004年は、開戦100年にあたります。
松山収容所には、最大瞬間人員で3000人台後半から4000人台前半いた。埋葬者数は98人で、全国でもっとも多い。
松山が捕虜収容所として選ばれたのは、道後温泉が近くにあるため。日本側は、捕虜となるのは戦傷病兵で、戦闘意欲を失った兵達だろうと予測していたから。つまり、松山収容所の特色は、将校と傷病兵を主として受け入れたことにある。
ロシア兵捕虜の総数は7万9000人。捕虜になった場所は、旅順・開城4万4000人、奉天2万人、日本海海戦6100人、サハリン4700人だった。日本に連れてこられたロシア兵捕虜は、1905年11月から1906年2月にかけてロシア側に引き渡された。
戦争の最中、松山は、帝国の品位をかけて捕虜優遇策をとった。官民あげて観光客なみにもてなした。たとえば、朝はバター付・パンと牛乳入り紅茶。昼はバター付パンとスープ玉子付のライスカレー、紅茶。夕はバター付パンと野菜スープ、タンカツレツ、紅茶。そして、将校のなかには、町中に日本家屋を借り、女中を雇うのものもいた。
日本政府は、ロシア兵捕虜の給養に莫大な金額をつかった。食費だけで、将校には一日あたり60銭、下士官と兵卒には30銭を充てた。これに対して、日本の兵卒の食費は一日16銭にすぎなかった。破格の厚遇である。
日本政府は、戦争中、捕虜のため4900万円もの予算を割りあてた。これは開戦前の国家予算の2割にあたる。この経費は、日本政府が国の内外から借金してまかなった。そして、これを戦後になって、ロシア政府に返済させた。
日本側のかけた費用は、5000万円に達した。ロシア側は、2000人の日本人捕虜に対して、160万ルーブルをつかった。
捕虜将校には、自由散歩制度がとられていた。月水金は午前6時から正午まで、火木土は正午から午後6時まで。海水浴が許され、自転車で外出することも認められていた。
捕虜の将校は所持金も多く、戦時下の松山経済に好影響を与えた。当時の道後温泉は史上最高の収益を上げた。ロシアの捕虜は個人で1円50銭の貸し切りで1時間も楽しんだ。1日に300人も400人も入浴した。日本人は一人5厘、捕虜は一人1銭だった。
ところが、日露戦争の末期、南樺太(南サハリン)で、日本軍はロシア軍の敗残兵を捕虜としたのち、翌日、残らず銃殺した。ロシア兵捕虜を優遇しただけではなかったのです。
ふむふむ、知らなかったことだらけです。
(2004年3月刊。2000円+税)