弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2007年2月 2日

朝鮮人戦時労働動員

著者:山田昭次、出版社:岩波書店
 朝鮮人が戦前、日本に渡ってきたのは自発的なものであって、強制されたわけではないという主張があるが、それは次のような調査結果からすると、まったく机上の観念論でしかない。
 1940年から始まった穀物供出制度により、朝鮮の農民は自家の飯半分まで取り上げられたので、貧困は一層激しくなり、農民の離村は強められた。下層農民の衣服はボロ着で、着換えもなかった。農民の主食は粟・稗・高梁・どんぐり・草根木皮そして副食物は野菜と味噌だけだった。1939年と1942年の旱害のときには、餓死者や栄養不良による行路死亡者が多数発生した。
 そのような状況のなかで、ある農民は毎日ひもじい思いの生活を送り、妻子が栄養不足のために死ぬことを恐れ、1939年11月にすすんで募集に応じた。すると、就業する職場も告げられないまま、日本に連行された。
 実は、私の亡父も三井の労務課徴用係として朝鮮に出向いたことがあります。京城の総督府に出頭すると、既に三井から連絡が行っていて、列車で500人ほどを連行してきたというのです。三井の職員9人で500人もの大勢の朝鮮人を日本へ連れてきたというのですから、なかには「自発」的な朝鮮人も少なくなかったと思います。亡父は、やっぱり朝鮮では食えなかったからね、と自分たちの行為を正当化していました。ところが、食べられないようにし向けたのは日本の政策だったわけです。
 昭和14年(1939年)から昭和16年までの3年間に、日本へ渡航した朝鮮人は 107万人。「募集」制度によって日本へ渡った朝鮮人は15万人。
 このように大量の出稼ぎ渡航者の存在と、強制連行者の併存が、戦時期の植民地朝鮮からの人口移動の実態だった。つまり、日本の責任は重いということです。
 1939年に朝鮮に「募集」に言った人の体験談が紹介されています。
 当時、朝鮮はどこへ行っても失業者ばかりで、「募集」への希望者が殺到して断るのに苦労した。
 1941年2月、内務省警保局保安課長は、日本へ連れてきた朝鮮人が逃亡しないよう、家族も日本へ呼び寄せることを促進するよう命じた。日本の官憲や企業は、家族呼び寄せを朝鮮人の逃亡などの防止手段として利用した。その結果、特高月報によると呼び寄せた家族数は、1943年12月現在で4万158人になった。
 貧しさという朝鮮人の生活条件の形成に日本が大きく関与していれば、朝鮮人の決断をそのような方向に導く条件をつくった日本の責任が問われねばならず、朝鮮人の対日渡航が自らの意志によると、単純に言えない。そして、農民の貧窮化の発端は、総督府による土地調査事業に出発している。
 朝鮮人戦時労働動員は戦時下の植民地他民族抑圧の一つの形態だった。朝鮮を日本の植民地としていた。植民地下にあっても、朝鮮人は朝鮮人であって、日本人ではなかった。日本人は、きちんとした事実認識をもつべきである。
 まったく同感です。亡父が強制連行に手を貸していたという一事をふまえて、私も自らがしたことではないとしても、朝鮮の人々に対して日本人の一員として謝罪すべきだと考えています。

2006年12月28日

闘魂

著者:堀江芳孝、出版社:光人社NF文庫
 硫黄島。小笠原兵団参謀の回想というサブ・タイトルのついた本です。1965年(昭和40年)に書かれています。
 著者は陸軍士官学校を卒業し、連隊旗手となり、陸軍大学を卒業後、連絡参謀、第31軍参謀そして小笠原兵団参謀を歴任します。硫黄島参謀として、栗林忠道中将とともに硫黄島守備計画をたて、そのあと派遣参謀として父島で終戦を迎えて、日本に生還しました。陸軍少佐です。
 第二次大戦の激戦地として硫黄島が必ずあげられる理由の一つに、筆の力があると著者は指摘しています。
 硫黄島には詩人がいた。歌人がいた。作家がいた。その筆の力も見落としてはならない。誰であろうか。栗林兵団長その人である。彼が大本営に打電(父島を経由した)した一字一句は、それも刻一刻死期迫る洞穴の中で、ローソクの火を頼りに独特の細いこまかい字で綴った報告は、世界一流の文字でなくて何であろう。
 私も、なるほど、と思いました。
 硫黄島には、1944年6月ころ、1150人ほどの島民がいた。それを7月に3回にわけて内地へ引き揚げさせた。
 栗林中将の死について、著者は次のように書いています。
 常時側近に行動していた下士官の話によると、3月17日夜の出撃時に脚に負傷して行動が不自由となり、3月27日朝、高石参謀長、中根参謀とともに自決した。これが真相のようだ。
 この本を読んで驚くのは、日本軍が栗林中将の死亡のころに3000人いて、5月中旬ころも1500人ほどが硫黄島の荒野を潜行していただろうと書かれていることです。日本軍捕虜は1,125人でした。
 生き残った人たちの手記が紹介されています。いずれも鬼気迫るものがあります。
 死ぬまで祖国を思い、陛下の万歳をとなえて死んでいったのである。かわいい妻子を捨て、家を捨て、国家のために殉じたものではないか。戦いは一国を支配する特権階級と他の国の特権階級との間の争いではないか。われわれ将兵は使役に駆り出されたに過ぎないのだ。日本国民は、こぞって戦没者の霊に捧ぐべきものは捧ぐべきではなかろうか。
 映画「硫黄島からの手紙」を見ました。アメリカ人がつくったとはとても思えない出来ばえでした。こうやって戦争のなかで有為の人材があたら失われていったんだなと万感胸に迫るものがありました。この人たちのおかげで今の平和な日本があります。戦前の反省を生かした日本国憲法を子や孫のためにも守り抜かなければいけないと改めて強く思ったことでした。
 本日(12月28日)で、御用納めとなります。この一年のご愛読を感謝いたします。新年もどうぞ引き続きお読みください。書評を分類分けして検索できるようにしました。仙台の小松亀一弁護士の提案によるものです。ご活用をお願いします。
 みなさん、どうぞよいお年をお迎えください。

2006年12月27日

清冽の炎 第2巻・碧山の夏

著者:神水理一郎、出版社:花伝社
 この本を読んだ読者が出版社に送った愛読者カードをまず紹介します。
 いつかセツルメントの体験者の本が出ると待ちわびていました。1974年から4年間、私はF市で学生セツルメントをやっていました。セツル用語でいうOSです。時代はちょっと違いますが、懐かしいです。あれから30年。今でもOSをセツラーネームで呼びあっています。今後も続けて書いて下さい。
 この本は、サブ・タイトルで1968東大駒場とあるように、1968年の東大駒場での出来事が描かれています。6月、安田講堂を占拠した学生を排除するために機動隊が導入されました。当局の一方的な機動隊導入に東大の学生が安田講堂前で6000人大集会を開きました。
 この第2巻は、その続きとして7月1日から始まります。東大駒場では大教室(900番教室)で何度も代議員大会が開かれ、激しい議論が続いたうえ、ついに無期限ストライキに突入することになりました。
 セツルメントは夏は合宿の季節です。奥那須の山奥深くにある三斗小屋温泉にセツラーが50人ほども4泊5日で合宿し、徹底的に議論しました。夜は闇ナベ、昼はハイキングもあります。人生を語りあう、楽しくも厳しい夏合宿です。路線の対立も表面化してきます。社会をどうとらえるか、将来、自分のすすむべき進路はどうするか、さまざまに心が揺れ動くなか、恋愛を語ります。
 若者サークルにやってくる青年労働者のなかには会社からアカ攻撃を受け、脱落していく人も出てきます。単に真面目に勉強したいと思っても、左翼思想に染まったと会社から思われると排除されていく苛酷現実が彼らを待ち受けているのです。
 9月に新学期が再開してもストライキは続行中。闘争の獲得目標がみえにくくなっているなかで、全共闘はバリケードストライキへ戦術をアップさせようとします。それではかえって学生の団結が損なわれ、闘争勝利は難しくなると反対する力が一段と強まり、ノンセクト学生がクラス連合を結成します。
 セツルメントの地域の実践とは何か、1968年の東大闘争はどのように進行していったのか、著者渾身の大作第2弾です。ぜひ買って読んでやってください。
 第3巻は1968年10月、11月を取り上げます。10.21沖縄闘争、11.22全国学生1万人集会と、そして東大と全国の学園闘争は、いよいよ大きく盛り上がります。
 第4巻は12月、1月そして第5巻は2月、3月と続きます。そのあとは、登場人物の数十年後の現在を描いた第6巻が予定されているのです。
 ところが、第1巻はさっぱり売れず、第2巻の売れ行きも芳しくはありません。 どうぞ、みなさん第6巻の完成が実現するよう応援してください。よろしくお願いします。

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