弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2007年10月18日

中国戦線はどう描かれたか

著者:荒井とみよ、出版社:岩波書店
 昭和13年(1938年)、林芙美子は日本軍の漢口攻略作戦に従軍作家として参加した。この作戦は、実は、とても従軍作家たちを招待できるような、余裕のある戦争ではなかった。長い行軍に疲れ果てた兵隊、大陸の熱暑と疫病で苦しむ兵隊、作戦の遂行もままならないありさまだった。相次ぐ戦病死者で部隊の体裁も保てない状態が続いていた。
 だからこそ、日中戦争を続行するために銃後の人々の感情動員が求められた。
 中国との宣伝戦は、もう一つの必死の戦さだった。従軍作家たちには、たぶん、その自覚はなかっただろう。
 戦後、中国人学者が林芙美子を次のように批判しています。
 林芙美子は、ペン部隊の数少ない女性作家として、武漢の前線で大いに頭角を現わし、侵略戦争の積極的な協力者であった。彼女にとってみれば、戦争がもたらしたのは、名声・栄誉と虚栄心の満足だ。敗戦は、逆に、これらかつての自己陶酔の一切を一瞬にして三文の価値もなしにし、あわれや糞土のごとくに変えてしまった。
 なーるほど、と言うしかありません。侵略戦争に協力したペン部隊の作家として、次の人たちがあげられています。ええーっ、こんな人までが・・・、と驚きます。戦争って、本当に文化人まで根こそぎ動員するのですね。
 佐藤春夫、古屋信子、小島政二郎、吉川英治、尾崎士郎、石川達三、深田久彌、藤田嗣治、西條八十、佐多稲子、丹羽文雄、豊田正子、そして菊池寛。
 『一兵士の従軍記録』というものも紹介されています。歩兵上等兵、伍長、軍曹という地位にあった人の日中戦争従軍記です。
 昭和13年7月から8月にかけて、部隊は南京経由で常州に入る。「支那の暑さ、盛夏となって味わうに、南の暑さは殺人的だ」という日々。
 炎天下の行軍。大隊は、炎熱のため、落伍者はいうに及ばず、死者まで出す。一日かけて前進してきた道が間違っていたとの知らせで引き返す。フラフラの行軍。敵弾の飛びかう下での眠り。サイダー一本で蘇る歩兵たち。
 やっと生き返ったのに、翌日になると、命令なく後退したという理由で、戦場へ戻れと言われる。なんと無理な命令だろうか。なんと軍人は辛いものか。
 兵隊は赤紙で生まれるのではない。戦友の死、無理難題の作戦、飢えや寒さ、また炎暑に苦しむなかで、兵隊になっていくのである。
 敵への憎悪は、戦闘のはじめの段階ではなかった。しかし、厭戦気分と裏表になった闘争心が徐々に肥大して彼らは兵隊になっていく。
 出発時に194人だった部隊が、2年後、20数人になっていた。
 実は、私の父も、この昭和13年(1938年)11月に応召し、中国大陸に1等兵として従軍しているのです。久留米の第56連隊(第18師団)に所属していました。武漢攻略作戦です。父は広東周辺にいたようですが、前線で危ない目にあったものの命拾いし、痔、脚気、マラリア、赤痢と次々に病気にかかり、ついに本国送還命令が出ました。1939年7月、台湾の高雄に上陸し、高雄と台北の病院で入院・治療を受け、1940年1月、本土に帰ってくることができました。
 林芙美子の従軍日記で描かれているような日本軍の悲惨な状況は、父の置かれていた状況でもあったわけです。その子として、私も歴史の現実をきちんと受けとめ、私の子どもたちに伝えなければいけないと思いました。
(2007年5月刊。2400円+税)

2007年10月17日

ナガサキ昭和20年夏

著者:ジョージ・ウェラー、出版社:毎日新聞社
 GHQが封印した幻の潜入ルポというサブ・タイトルがついています。オビには、「マッカーサーに逆らい、被爆直後の長崎に命がけで一番乗りした米国人ピュリツァー賞記者。60年経て日の目を見た、歴史的ルポ」となっています。なるほど、そのとおりです。
 1945年9月7日、長崎の惨状を著者が写真にとっています。荒れ果てた長崎は、まったくのゴーストタウンです。
 原爆放射能が人体にもたらす恐るべき影響について無知だった著者は、長崎に入った第一日目の原稿には、「街には痛ましいという雰囲気はない」と書いていた。しかし、日がたつにつれて、病院で被爆者を見たり医師の話を聞いているうちに意識が変わっていった。はじめ外傷もなく元気だった人が、2〜3週間後あるいは1ヶ月後に急に全身状態が悪くなって、嘔吐、下痢、腸内出血など手の施しようもなく死んでいく。
 ところが、このルポは、原爆の想像を絶する惨禍が世界に知られるのを恐れたマッカーサー司令部によって公表を差し止められた。
 そして、私は、この本で大牟田にあった捕虜収容所について、写真つきのルポを読み、初めてその実情を詳しく知ったのです。
 大牟田にあった第17捕虜収容所は1700人を収容する、日本最大の連合軍兵士捕虜収容所である。その多くは、炭鉱で毎日、8〜10時間も働かされていた。
 彼らの何人かは、長崎に原爆を投下される状況を目撃した。
 「大きなキノコのような白い雲がどんどんふくれ上がり、その中は真っ赤で、中心部分が地上まで届いているように見えた」
 「初め白い煙が噴き出してキノコの形にふくれあがり、そして突然、内部で発火した。恐ろしかった。雲が発火したようだった」
 「ぱっと光ったあと、白い雲が巨大なパラシュートの形に広がり、その中心にオレンジ色の光が輝いている。30分ほど、そのままだった」
 「大きな火の玉が空に浮いていて、どんどん大きくなっていった。30分しても、まだそのままだった。新しいタイプのガスではないかと思った」
 炭鉱で働かされていた捕虜たちは次のように語った。
 「日本軍の処遇というのは、頻繁に行われる殴打と粗末な衣服、粗末な食べ物ということに尽きる。空腹のあまり盗みを働く者もいた。苛酷な冬だった」
 「一番の困難は、坑内の湧水、低い天井の下で腰をかがめていること、重い材木を運ぶこと。いつも日本人の監督に殴られることだった」
 連合軍捕虜収容所の隣に中国人炭鉱労働者収容所があった。2年前に中国を出発するときに1236人いたのに、日本に到着して300人が死亡した。現在、50人が重病。
 この収容所では2年間に日本人衛兵により殺された者が70人を数え、加えて病死者が120人、現在の生存者は546人。生き残っている中国人の多くは骨と皮という状態である。
 大牟田には、三井亜鉛工場で働く250人のイギリス人と、炭鉱で働く700人にのぼるアメリカ人と数人のイギリス人がいた。イギリス人のほとんどは、シンガポールとフィリピンで捕虜となった。
 オーストラリア人が420人いて、うち300人は700人のアメリカ人とともに炭鉱で働いていたという記事もあります。
 アメリカ人700人とその他の連合国人1000人という表現もあります。
 700人のアメリカ人は、フィリピンで捕虜になったようです。バターンとコレヒドールで捕虜になったとあります。捕虜収容所にいた病人の多くはナチ収容所のユダヤ人と似た状態にありました。まさしく骨と皮のみの白人の若者の写真が紹介されています。
 著者は飯塚にあった第7捕虜収容所にもまわっています。ここには、アメリカ人186人、オランダ人360人、イギリス人2人が炭鉱で働かされていました。
 大牟田にあった第17捕虜収容所は日本最大の収容所であり、かつ、もっとも苛酷な収容所の一つだった。施設そのものは、ほかのところより多少よく、少なくとも年間、数ヶ月は水浴びができた。33棟の建物は、もともと三井鉱山が作業員宿舎として建てたもの、炭鉱は収容所から歩いて1.5キロメートルのところにあった。
 33棟もの建物から成る捕虜収容所が大牟田のどこにあったのか、私はぜひ知りたいと思いました。あとで、三池港の近くにあったことが分かりました。中国人収容所や朝鮮人収容所も近くにありました。
 捕虜収容所のフクハラ所長は、「収容所長として最も凶悪かつ非人間的な所長であった」ので、戦争犯罪人として有罪となり、1946年前半に絞首刑に処せられた。
 このフクハラ所長を取り上げた本を以前に読んだような気がします。題名も何もかも忘れてしまいましたので、改めて見つけて読もうと思います。
(2007年7月刊。2800円+税)

2007年10月11日

大本襲撃

著者:早瀬圭一、出版社:毎日新聞社
 戦前の宗教弾圧事件として名高い大本(おおもと)教弾圧事件の詳細を描いた本です。その苛酷な弾圧を初めて知りました。
 当局の大本教についての認識は次のようなものだった。
 明治25年のはじめ、綾部の町はずれで半農半行商を世すぎとして一家の生計を支えてきた57歳の老婆・出口なおは、その遺伝性素質がこの生活上の重圧の限界で発作を起こして、精神の異状を呈した。
 この狂女は、いくぶん平静さを取り戻すにつれ、土地の俗信である艮(うしとら)の金神(こんじん)や、従前の信仰であった天理教、金光教の教説をおりまぜて、独自の経文を口にし、病者に対しては、これまた一種の我流の施法をはじめた。医学的に後進地であった地方のため、新奇な物珍しさも手伝い、注目されるようになった。
 そこへ、上田喜三郎青年が助手として登場した。上田青年は、一度は排斥されたのち、再び、出口王仁三郎と名前を変えて迎えいれられた。
 開祖なおは文字を知らなかった。しかし、神が、「おまえが書くのではない。神が書かすのであるから、疑わずに筆を持て」と命じるので、近くにあった一本の古釘を手にとってみると、ひとりでに手が動き、文字を書きはじめた。紙に筆をおろすと、ひらがなで、スラスラと文字が書けだした。これが筆先のはじまりである。
 開祖なおは、大正7年に死ぬまで26年間にわたって、膨大な筆先を書いている。筆先で一貫しているのは、世の立替え、立直しということである。
 筆先は、すべてひらがなで書かれているため、意味が判明しやすいように漢字をあてたのが出口王仁三郎である。
 大正に入るころから、陸海軍の幹部クラスや岡田茂吉(後の世界救世教の主宰者)、谷口雅春(後の「生長の家」の主宰者)などが相次いで大本に入った。軍人たちの入信が当局に警戒心を強めた。小山内薫や尾上菊五郎、中村吉右衛門なども大正9年ころ、大本に入信した。
 このような大本教を治安維持法違反として検挙したのですから、いかにも国家権力の横暴きわまれりというものです。治安維持法では国体の変革を目的とする結社をつくれば2年以上の懲役・禁固に処せられます。
 三千世界一度に開く梅の花、梅で開いて松で治める
 これは大本の開教宣言の一句です。これが治安維持法にいう国体の変革を目ざすものと解釈されるのです。信じられません。まったく恐ろしいことです。狂気の沙汰とは、このことです。
 王仁三郎による教理が指向するものは、現在の統治の根本を否定し、代わって、自らがその地位を占有せんとするものであるから、明らかに国体を変革することを目的としている。
 ええーっ、これってウソでしょ。マジ、本気って、ありえないよね。そんな感じです。
 大本は、いわゆる宗教ではない。大本は神意を実行する団体である。単に教をしていて、人にいわゆる信仰心を起こさせるだけのところでなくして、神示(教典)をその機に応じて実地に活用する団体である。
 このようにこじつけて、当局は大本教の弾圧をはじめます。
 昭和10年(1935年)12月8日午前0時、臨時年末一斉警戒の名目で京都府警の警察官500人が京都御所に集結。大型バス18台と数台の普通車やトラックに分乗、各編隊に分かれた。遠い綾部へ向かう大隊は午前1時に、近い亀岡行きの大隊は午前3時に出発。途中で、警官に大本襲撃の目的が明かされた。同時に、大本は決死隊を結成していて、銃などの兵器も準備している。警官隊は皆殺しにあうかもしれない、などのウワサが飛びかい、はち巻きや下履きを配られた警官たちは必死の形相だった。
 もちろん、何ごともなく、教団側は無抵抗のまま大勢の信者が逮捕されます。教団の建物は全部が取りこわされてしまいました。
 綾部の大本総本部は300人の警官で包囲し、まず電話線を切り、午前4時半、突入した。信者は無抵抗だった。
 松江の大本別院にいた王仁三郎・すみ夫妻も逮捕された。大本教の幹部44人が検挙され、信徒1500人が取り調べを受け、うち300人が身柄を拘束された。
 警察当局は大本は妖教、邪教、怪教だというイメージをつくりあげ、大阪毎日新聞などが連日、センセーショナルに書きたてた。しかし、信者はきわめて冷静に対応した。
 取り調べは京都府警特高課があたった。竹刀(しない)、焼けヒバシ、水責めなど、あらゆる拷問の道具と手段を用いた。まったく、2年前に東京の築地署で小林多喜二が受けたのと同じ拷問だった。
 三年ぶり 慣れなじめたるボッカブリ、妻は無事なか、子らはふえたか。
 これは、教祖すみが、独房に入れられているとき、夫婦者のゴキブリを見つけて仲良くしていた情景をふまえた歌です。
 昭和11年3月。京都府知事は大本の建物について、すべて破却せよとの命令を出した。
 結局、昭和11年(1936年)の暮れまでに987人が検挙され、318人が送検された。その取調べ中(1年)に、自殺1人、拷問のあげく衰弱死2人、自殺未遂2人を出した。
 昭和12年、裁判が始まり、大本は清瀬一郎ほか、18人の弁護団を結成した。
 教祖すみは、裁判の日には人前に出るのだから、白粉くらいつけようと思い、白粉のかわりに白い粉状の歯磨き粉を顔に塗った。
 このころの教祖すみの写真がありますが、屈託ない笑顔を見せていて、驚きます。次の王仁三郎の言葉もすごいものです。
 人間というものは過ぎ去ったことをいくら悔やんでみたところで、絶対に取り戻せるものではない。また来ぬ日のことをいくら心配してみたところで、決して思うようにはならぬ世の中だ。人間の自由になるのは、今というこの瞬間だけだ。だからわしらは、今というこの瞬間をいかに楽しく、いかに有効に送るかだけより考えてはおらぬ。あとは一切神様にお任せしておけばよい。昨日、刑務所に入っていたことも考えなければ、明日、刑務所に入っていなければならぬと考えたこともない。そんな不可能なことで心配して自分の命を削るくらいばかなことはない。未決が1年だろうが、7年だろうが同じことじゃよ。
 ここにあります、人間の自由になるのは今というこの瞬間だけだ、というのに、私は眼をぐーんと開かされた思いです。
 大本教弾圧事件について、その時代背景ともどもよく知ることができました。
(2007年5月刊。1600円+税)

2007年10月 1日

パール判事

著者:中島岳志、出版社:白水社
 日本の戦争責任を裁いた東京裁判において、敢然と「日本無罪」論を主張したインド出身のパール判事の実像を描いた貴重な労作です。パール判決が「日本無罪」を主張したわけではないことを改めて認識しました。小林よしのりをはじめとする右翼の論者にぜひ読んでもらいたい本です。
 パール判事は1886年の生まれ。インドはカルカッタ出身というのではなく、今のバングラデシュのベンガル地方の小さな農村に生まれた。陶工カースト出身で、父親が急死して経済的にも貧しかった。それでも、村の小学校を優秀な成績で卒業したため、奨学金を得て、カルカッタ大学に入ることができた。
 パールは、熱烈なガンジー信奉者だった。
 東京裁判の判事に就任するまで、パールはカルカッタ大学の副総長であった。東京裁判に判事を派遣できるかどうかは、インドの国際的地位と名誉に関わる重大な問題であった。宗主国のイギリスを味方につけ、アメリカに圧力をかけて、インドはようやく判事の地位を獲得することができた。
 東京裁判は1946年5月3日に開廷した。遅れて着任したパールが法廷に初めて姿を現したのは5月17日のこと。だから、パールは東京裁判の正当性をめぐる弁護人の意見を聞くことができなかった。
 ブレークニー弁護人は、戦争は犯罪ではない、もしそれが犯罪とされるのなら、原爆投下によって広島・長崎で罪なき市民を大量虐殺したアメリカの戦争犯罪の責任が問われないのは不公平だと指摘した。
 パールは、原爆投下について、残虐で非人道的な行為であり、決して許すことはできないとしつつ、しかしながら、「人道に対する罪」が国際法として成立していなかった以上は、この罪で裁くことはできないと判断した。
 さらに、日本軍による南京大虐殺について、パールは法廷に提出された証拠や証言には問題があることを鋭く指摘しつつ、それでもなお南京虐殺の存在を証明する証拠は圧倒的であり、この事件は事実あったと認定した。すなわち、南京虐殺は実際に起こった事件であり、個別的なケースはともかくとして、その存在自体を疑うことはできないと断言した。
 パールは、検察官の起訴した事実について無罪としたが、それはあくまで国際法上の刑事責任において「無罪」としただけで、日本の道義的責任までも「無罪」としたわけではない。パールは次のように述べました。
 日本の為政者はさまざまな過ちを犯し、悪事を行った。また、アジア各地で残虐行為をくり返し、多大なる被害を与えた。その行為は鬼畜のような性格をもっており、どれほど非難してもし過ぎることはない。当然、その道義的罪は重い。しかし、「平和に対する罪」と「人道に対する罪」は事後法であり、そもそも国際法上の犯罪として確立されていないため、刑事上の「犯罪」に問うことができない。
 パールは、再び日本にやって来たとき、広島の原爆慰霊碑の碑文を読んで憤りの声明を発表した。
 原爆の責任の所在をあいまいにし、アメリカの顔色をうかがう日本人。主体性を失い、無批判にアメリカに追随する日本人。東京裁判を忘却し、再軍備の道を突きすすみ、朝鮮戦争をサポートする日本人。
 そうなんです。パールはアメリカの意向を至上の価値として仰ぐ戦後日本の軽薄さに憤ったのです。戦争に対する反省の仕方を誤り、再び平和の道を踏み外そうとする日本に苛立ったわけです。
 パールは、東京裁判の判決書において、あくまでも「A級戦犯の刑事責任」のみを対象としていた。パールはB級戦犯の刑事上の責任は認めており、日本の行為のすべてを免罪にしたわけではない。
 パールは、判決書の中で、東条一派は多くの悪事を行った、日本の為政者、外交官そして政治家はおそらく間違っていた、みずから過ちを犯したのであろうと明言した。
 パールは決して「日本無罪」と主張したわけではない。「A級戦犯は法的には無罪」と言っただけで、指導者たちの道義的責任までも冤罪したわけではない。ましてや、日本の植民地政策を正当化したり、大東亜戦争を肯定する主張など、一切していない。
 なーるほど、やっぱり、そうなんですよね・・・。
(2007年8月刊。1800円+税)

2007年9月20日

蟻の兵隊

著者:池谷 豊、出版社:新潮社
 敗戦したあとも中国に残って、毛沢東の率いる中国紅軍と3年半も戦っていた日本兵の集団がいたなんて、ちっとも知りませんでした。
 中国山西省に駐屯していた北支派遣軍第一軍の将兵2600人は、中国国民党系軍閥の部隊に編入され、戦後なおも3年8ヶ月にわたって中国共産党軍と戦い、550人あまりが戦死した。生き残った者も700人以上が捕虜となり、長い抑留生活を強いられた。ようやく帰国できたのは昭和30年前後のこと。帰国したとき、これら元日本兵は逃亡兵の扱いを受けた。日本政府は、残留将兵たちが自らの意思で残留し、勝手に戦争を続けたとみなし、戦後補償を拒否した。
 2001年5月、元残留将兵ら13人が軍人恩給の支給を求めて国を訴える裁判を起こした。しかし、一審判決で敗訴した。日本って、ホント、むごい国ですよね。
 中国国民党系の軍閥の首領は閻錫山(えんしゃくざん)。彼は、1904年、21歳のときに日本へ留学し、陸軍士官学校に入学した。閻は孫文の中国革命同盟会に加盟し、弘前の連隊に勤務するなどした。5年間の日本留学を終えて中国に戻ると、山西省で大隊長級の軍人となった。そして、次第に力を蓄え、山西省に独立王国のようなものを築くにいたった。そこで、蒋介石は、閻錫山の軍隊と八路軍とを戦わせ、双方の弱体化を狙った。閻にとって、八路軍と衝突するのは蒋介石を利することになる。それを悟った閻は、日本軍と手を結ぶことにした。
 昭和20年の終戦時、日本の北支派遣軍第一軍は5万9000人いた。そのうち、閻は1万5000人を残留させ、自軍に編入することを試みた。名目は「鉄道修理工作部隊」とした。第一軍当局は、閻の要請を受け入れ、現地除隊の手続きをとらないことにした。現地除隊してしまえば、好きこのんで残留する将兵が誰もいなくなるからである。
 ところが、南京にある支那派遣軍総司令部から派遣された参謀が、山西省で軍の命令に反して勝手に日本兵の一部が残留しようとしているのを知り、妨害した。その結果、動揺が生じて、1万5000人の予定が残留者は2600人にまで激減した。
 日本兵の残留工作にあたった軍幹部の認識は次のようなものだった。
 蒋介石の国民党軍は、正規軍400万、地方部隊200万で、合計600万の大軍があった。これにアメリカが46億ドルの兵器を提供した。B29機、戦車、重砲、自動銃、火炎放射器、通信機。これに対する中国共産党軍は90万。兵器は蒋介石軍や日本軍から取り上げたもの。だから、1年か1年半で、人民解放軍を撃滅できる。
 ところが、八路軍は、徐向前の率いる20万の大軍、そして、猛将といわれた賀竜の率いる10万の大軍が進攻しており、山西省は陸の孤島になりつつあった。
 日本軍は山西軍を教育するだけでいい、直接の戦闘には加わらなくてよいという約束はたちまち反故にされ、早くも戦死傷者が出た。それまでは「逃げる八路軍」の体験しかなかった日本の将兵は、人海戦術で正面から戦いを挑んでくる共産党軍の存在を初めて知った。
 装備も士気も劣る山西軍との共同戦線なので、日本軍は必然的に最前線に立たされることになった。そこで、八路軍は、むしろ残留日本軍を標的に戦闘を仕掛けてきた。
 そんななか、中国残留をすすめていた山岡参謀長が帰国し、澄田第一軍司令官も日本に帰国した。澄田は帰国する前、次のように訓示した。
 祖国日本の復興のためにがんばれ。自分は閻将軍と台湾に行き、日本に帰ったら、必ず2万の救援軍を連れて帰ってくる。
 日本から2万の義勇兵を連れて中国に戻ることを約束したというのです。なんということでしょう・・・。この澄田元司令官は昭和54年に89歳で天寿をまっとうし、昭和29年9月に勲一等旭日大緩章をもらっています。まだ山西省で残留日本将兵が死闘をくり広げているころになります。
 軍隊そして軍人の無責任さには、ほとほと呆れてしまいます。
(2007年7月刊。1400円+税)

2007年9月19日

第百一師団団長日誌

著者:古川隆久、出版社:中央公論新社
 伊東政喜中将の日中戦争というサブ・タイトルがついています。数少ない師団長クラスの日誌が物語る戦場の現実、オビに書かれているとおりでしょう。
 遺族の提供によって東京を母体とする特設師団(101師団)の実情がさらに解明されたわけです。素人ながら、その意義は大きいと思いました。
 盧溝橋(ろこうきょう)事件が勃発したのは70年前の1937年(昭和12年)7月7日のこと。日中戦争が始まった。その4年後には太平洋戦争へと拡大していく。
 日中戦争初期の1937年8月から1938年9月にかけて、第101師団長であった伊東政喜(まさよし)陸軍中将の日誌を解読し、中国側の資料もふまえて丁寧な解説がついています。素人にも大変わかりやすい内容の本です。
 第101師団は、いわゆる特設師団であり、予備、後備役の召集兵、つまり現役兵としての勤務を終えて社会に戻り、その中堅層として活躍していた人々で編成された部隊である。首都東京を根拠地とする部隊であるうえ、激戦地に投入されたため、多くの美談や武勇伝を生み、人々に広く知られた。
 伊東日誌はA5版のノート6冊から成る。伊東は、1881年(明治14年)に、大分市に生まれた。大分中学から陸軍幼年学校へすすんだ。そして陸軍士官学校を1902年に卒業し、砲兵少尉に任官した。さらに陸軍大学校に進学した。陸大は、30歳以下の少尉や中尉のなかから上官の推薦を受けた者が受験できる学校で、作戦をたてる役目をもつ参謀将校の養成を目的とした。師団長・軍司令官、陸軍中央の要職といった陸軍の高官は、陸大を卒業していないと、まずなれない。
 中国に駐屯する日本陸軍の傍若無人のふるまいが日中戦争を引き起こした。その背景には徹底した中国蔑視があった。それがまかり通った原因として、日本の軍隊が政府の指揮下になく、独自の組織となっていた(統帥権の独立)こととあわせて、日本社会に中国蔑視が蔓延していたことがあった。日本の陸軍や一般の人々は、中国軍の実力はたいしたことはなく、本気を出せばすぐに降参するだろうと高をくくっていた。ところが中国軍は、かねてドイツ軍から顧問を招いて上海地区に強固な陣地を構築し、精鋭部隊を配置していた。伊東師団長の率いる第101師団は、このような状況のなかで上海へ出征していった。
 特設師団は常設師団よりも兵器の配備の点でも格段の差別を受けた。旧式兵器であり、機関銃以上の火力は、せいぜい半分程度だった。携行する砲弾も常設師団の3分の1でしかなかった。
 第101師団が東京を出発するときには、楽観的かつ熱狂的な雰囲気の中で戦地に向けて出発していった。日誌には次のように書かれています。
 特設師団は編成素質不良にして、かつ、訓練の時間なく、しかも、もっとも堅固な敵正面の攻撃にあてられ、参戦以来3週間、昼夜連続の戦闘をなし、相当の死傷者を出した。
 幹部の死傷が多いのは、近接戦闘において自ら先頭に立つによる。そうしないと兵が従わないからだ。こんな涙ぐましい美談が少なくない。
 この「美談」は、そのままでは内地で報道することができませんでした。それはそうでしょうね。兵隊の士気がないことが明らかになってしまうからですね。
 東京で、第101師団について、不名誉な噂が広まり、伊東師団長はやきもきさせられました。第101師団は杭州攻略戦に参加したため、南京事件にかかわらずにすんでいます。南京大虐殺事件について、著者はあったことを否定できないとしています。私も、そう思います。このころ、日本軍の軍紀(綱紀)が相当ゆるんでいたことを、伊東師団長も再三、日誌のなかで嘆いています。
 ところで、このころ、日本は軍需景気に沸いていたということを私は初めて認識しました。そうなんです。戦争は、一部の人間にとっては、もうかり、楽をさせるものなのです。このころ、正月の映画興行がにぎわい、国内観光旅行客が急増しました。出版業界もバブルという好況になりました。
 軍需産業の繁栄と、日本が中国に負けるはずはないという思いこみによる将来への楽観視が、中国大陸の戦場の苛酷さとうらはらに、戦後1980年代日本のバブル景気を思わせる雰囲気を、この時代の日本はもっていた。読売新聞は、東京で一日3回発行していた。
 慰安所設置のことにも日誌はふれています。陸軍当局の方針として慰安所が設立され、運用されていたことは歴史的事実なのです。
 また、第101師団が、日中戦争で毒ガスをつかっていることも判明します。青剤(ホスゲン)や茶剤(青酸)のようなガスで直接的に多数の死者を出すものではなく、赤剤つまり、くしゃみ、嘔吐剤であり、戦力・戦意の一時的な喪失を狙ったものでした。
 なぜ、日中戦争で特設師団が勝つよう(多用)されたかについて、ちょうど同じ時期の日本を分析した岩波新書『満州事変から日中戦争』(加藤陽子。2007年6月刊。780円+税)には、次のように説明されています。
 日本軍の陣容を眺めると、特設師団(番号が三桁の師団や、軍縮で廃止された師団番号をつかって編成された師団)が含まれていることから分かるように、参謀本部は、ソ連の動向を考慮するあまり、現役兵率の高い精鋭部隊を上海・南京戦に投入しなかった。つまり、陸軍はあくまで北(ソ連)を向いていたのである。
 この日誌を読んで、当時の日本軍の状況が師団長レベルの考えから、よくとらえることができました。ちなみに、600頁もの大部の本です。読み終わったあと、つい昼寝の枕にしてしまいました。ちょうどいい高さなのです。井上ひさしの『吉里吉里国』を読んだときを思い出しました。
(2007年6月刊。4200円+税)

2007年8月31日

湖の南

著者:富岡多恵子、出版社:新潮社
 事件のあったのが5月11日。5月27日に大津地方裁判所で開かれた裁判で、津田三蔵は通常の謀殺未遂罪で無期徒刑となった。そして7月2日に北海道の釧路に到着。そのとき、「身体・衰弱し、普通の労務に堪えなかった」三蔵は、9月30日に釧路集治監で死亡した。36歳だった。
 裁判のために東京からわざわざ大津までやってきた西郷従道内相は、同じく大津にきていた児島大審院長に対して、次のようにののしった。
 「もう裁判官の顔を見るのもいやだ。今まで負けて帰ったことはないのに、今度は負けて帰る。この結果がどうなるか、見てろよ」
 いやあ、ひどい裁判干渉の言葉です。三蔵は裁判のとき、次のように言った。
 「もはや、わが国法により処断せらるるのほかなし。ただ、願わくは、わが国法により専断せられ、なにとぞロシア国におもねるようなことなく、わが国の法律をもって公明正大の処分あらんことを願うのみ」
 津田三蔵は西南戦争に従軍して負傷している。それは、田原坂の戦いではないが、そのときの功績によって勲七等を受け、百円が下賜された。いずれにしても、10年間の兵役に従事したあと、三蔵は警察官になった。
 西南戦争で死んだ兵士を悼む記念碑の前にロシア人が立った。そして、皇太子歓迎の花火の音が西南戦争のときの戦場の光景を三蔵に思い出させ、凶行にかりたてていった。
 津田三蔵の大津事件の真相が、三蔵自身の手紙などから明らかにされていく過程は、ゾクゾクするほどの面白さです。
 このとき日本で負傷したロシアのニコライ皇太子は23歳。そして、50歳のときに皇帝を追われ、レーニン治世下のソ連で一家もろとも銃殺された。
 いろいろ知らなかった事実を知ることができました。
(2007年3月刊。1680円)

2007年8月21日

陸軍特攻・振武寮

著者:林 えいだい、出版社:東方出版
 思わず腹が立ってしまう本です。いえ、著者に対してではありません。軍人のいやらしさに、対してです。死んで華を咲かせてこい、などと偉そうに命令しておいて、自分は後方で酒など飲んで、のうのうとしている。そして、最前線から生きて帰ってきたら、その兵士を懲罰したというのです。人命軽視というのは軍隊の相も変わらぬ体質です。あー、やだ、やだ。そんな軍人に日本が再び支配されるなんて、まっぴらごめんです。そんな気持ちに、しっかりさせる本でした。
 戦争末期。特攻機には不良機が続出していた。なぜか? たとえば、飛行機の部品をつくっていたのは、慣れない高等女学校の生徒たち。彼女らが必死にヤスリで削っても、しょせんは素人集団。熟練工でないため、不良品が続出するのもやむをえなかった。これは、ナチスの軍事工場で、動員された女工たちが意識的なサボタージュ(不良品をわざとつくっていた)とは違うものです。国の生産管理そのものに無理があったわけです。
 部品の不良品が続出し、何回テストしても不合格となる。作業する女学生の精神がたるんでいるからだと検査官は責任を作業する女学生に転嫁した。しかし、資財の不足は決定的だった。3月27日、アメリカ軍のB29による大刀洗飛行場大空襲によって、九州一を誇った大刀洗陸軍航空厰が全滅した。そのため熊本県菊池にある陸軍航空分厰と山口県下関にある小月分厰とに故障機が殺到した。
 大刀洗飛行場は、陸軍が誇る西日本一の飛行場だった。そこで1万人が働いていた。大刀洗航空機製作所は、百式重爆撃機「飛龍」を製造した。1万3000人の従業員がいた。飛行場の上空は気流が安定していて、飛行訓練には最適だった。
 飛行機の操縦士というのは、募集しても短期間では教育できない。一人前の操縦士を育てるには3年はかかるといわれていた。そこで、大学や専門学校に在学している学生に白羽の矢が立った。学問して基礎教育はできている。思想的にも大人になっている。体力的にも訓練に耐えられる。そのような学生を集めて、特別に操縦士の早期育成教育をすることになった。勅令によって、特別操縦見習士官という制度がつくられた。
 教官と助教は、日頃から、生徒の操縦に注目している。本人の性格まで分析して、体の動きが機敏で反応が早いのは戦闘機、動作がゆったりしているのは重爆、素早くて目がいいのは偵察と決まっていた。分けられた者をみると、いつも納得させられた。
 もともと陸軍の航空隊は、海上の敵機動部隊への艦船攻撃の訓練を受けたことがない。陸軍の航空本部長は特攻作戦に反対した。
 特攻隊というのは捨て身の戦法で、飛行機も操縦士も同時に失って再び戦闘につかえないという重大な欠陥がある。これは戦術的にも間違った戦法であって、本来やるべきことではない。お金をかけて長いあいだ養成した優秀な操縦士を、たった一度の体当たりで失うことに疑問をもった。しかし、そのように反対した本部長も参謀も更迭され、総入れ替えとなった。
 特攻隊をつとめるときには、熱望する、希望する、希望しないという3つの設定で回答を迫る。このとき、希望しないと書くのは、熱望すると書くよりも勇気がいった。うーん、たしかに、そうでしょうね・・・。
 陸軍の爆弾は、爆発した瞬間に広がり、敵兵をなぎ倒して死傷させることが目的であって、もともと艦船攻撃用のものではない。海軍の雷撃隊が使用する魚雷は、鉄鋼爆弾といって、戦闘艦の厚い鉄板を貫いて爆発する。陸軍の250キロ爆弾は、コンクリートの上に卵をぶつけるようなもので破壊力がない。
 特攻隊が出撃する前の軍司令官の訓辞は次のようなものでした。
 お前たちは、生きながらの神である。日本の国を救うのは、お前たち以外にはない。一命を投げ出して、国のためにいさぎよく死んでくれ。お前たちのことは、畏くも上耳に達するようにする。軍司令官も参謀も、最後の一機で突っ込む覚悟だ。お前たちだけを見殺しにはしない。
 うむむ、なんとカッコいい激励のコトバでしょう。でも、現実は、そうではありませんでした。乗った飛行機が故障して帰ってくると、次のようにののしられました。
 貴様たち、なんで帰ってきた。卑怯者のお前たちに与える飛行機なんかない。卑怯者、死ぬのが怖いから帰ってきたのか!
 特攻隊で出撃して死にきれない隊員は、軍人精神がたるんでいる証拠だ。飯を食う資格がない。まず、反省文を書け。教育勅語と軍人勅諭をオレがいいというまで書け。
 貴様ら、その態度は何か。それでも軍人か。何で生きて帰ってきたのか。貴様たちは、そんなに死ぬのが怖いのか。
 盛大な見送りを受けた特攻隊員が生きて帰還したとき、それは罪悪として非難された。しかし、死に追いやった者が生還者に言うべき言葉ではない。そのとおりですよ、まったく。そして、実は、生還者をののしった参謀は戦後、長生きした。しかし、80歳になるまで生還者や遺族から襲われることを恐れて、自分の護身用としてピストルと軍刀を身辺から離さなかった。なんということでしょう。おぞましい人生ですね。特攻隊の現実を考えさせらる本でした。
 お盆休みに知覧へ行ってきました。たくさんの特攻隊員の顔写真を見ながら、死にたくなかっただろうな、とつくづく思いました。お国のために死んでこい、オレもあとから続くなんて言った偉いさんたちのほとんどは、若者への言葉を違えて安穏な戦後を過ごしたのではないでしょうか。改めて腹が立つのを抑えきれませんでした。
(2007年3月刊。2800円)

2007年8月10日

盗聴二・二六事件

著者:中田整一、出版社:文藝春秋
 2.26事件を新たな視点で掘り下げた本だと思いました。
 2.26事件が始まると、逓信大臣の命令のもとに電話の盗聴が開始された。これは陸軍省軍務局との協議のうえのことだった。しかし、実は、盗聴は憲兵隊によって事件の1ヶ月以上も前から始まっていた。そして、試作段階にあった円盤録音機をつかうことになった。戒厳司令部、陸軍省、逓信省が協力し、了解のもとで盗聴され、録音された。
 2.26事件のとき、戒厳令はすんなり施行されたのではない。この機に乗じて軍部が軍政を布き、政治的野望の実現を図るのではないかと警戒する人々がいたからである。たとえば、警視庁は強く反対した。海軍も当初は反対した。
 西田税は5.15事件(1923年)のとき、陸軍側の参加を阻止したことから、計画を他にもらす恐れがあるとして血盟団員からピストルで撃たれた。2.26事件については、計画から決行・終結に至るまで終始、部外者の立場にあり、むしろ事件を起こすのには反対だった。
 盗聴記録によると、誰かが北一輝の名を騙って電話をかけている。謀略が進行していた。偽電話をかけたのは戒厳司令部の通信主任の濱田大尉であった。
 陸軍上層部は、北一輝や西田税ら、外部の民間人が2.26事件の首謀者であるという図式に固執していた。2.26事件の軍事裁判にあたっては、青年将校に激励の電話を入れたにすぎない北一輝と西田税を極刑に処すというのが初めから陸軍中央の方針であった。北と西田が悪いんだ。青年将校は、単にくっついていっただけ、というわけである。裁判長は北と西田を首魁とするには証拠不十分であるとした。死刑に反対する裁判長と死刑相当という残る4人の判事とで見解が分かれた。
 そのため、10ヶ月も審理は中断し、昭和12年8月13日、弁論再開、証拠調べ終了、8月14日、判決宣告、8月19日に死刑が執行された。銃殺刑であった。北は54才、西田は36歳だった。同年9月25日、真崎甚三郎大将には無罪の判決が下された。
 これは、いかにもひどい政治的な裁判ですよね。判決宣告して、わずか5日後に死刑執行だなんて、まさしく日本は軍部独裁体制にあったのですね。おー怖い、怖い。
 陸軍は、事件処理に名をかりて、着々と軍部独裁の政治体制を確立していった。青年将校らのテロリズムは、軍国主義の暴走に格好の口実を与える結果となった。
 防衛庁が防衛省に昇格してしまいました。アメリカ軍に隅々まで統制されている自衛隊は、自民党の改憲案(新憲法草案)では自衛軍になるということです。軍部独走を果たして止められるでしょうか。軍事裁判所は司法権の独立を貫くことができるでしょうか。心配になるばかりです。

2007年6月22日

戦場に舞ったビラ

著者:一ノ瀬俊也、出版社:講談社
 第二次大戦中、日本軍とアメリカ軍が戦場でまいたビラ、伝単と言います、を収集して、その効果を検証した異色の本です。
 日米両軍とも、伝単の作成には力を注いだ。日本は陸軍参謀本部に、アメリカはマッカーサー軍司令部に、それぞれ専門の部署をおいていた。
 アメリカ軍は1942年(昭和17年)4月、空母ホーネットから長距離飛行が可能な陸軍の双発爆撃機B−25を16機発進させ、東京・横浜を空襲して中国大陸に着陸させるという奇策を用いた。このとき、アメリカ軍は「桐一葉」伝単を日本上空にまいた。
 「桐一葉、落ちて天下の秋を知る」にちなんだ伝単であり、「落つるは軍権必滅の凶兆なり」などと書かれていた。この伝単を考案したのは、戦前のアメリカで対日反戦運動を展開していた、後の評論家・石垣綾子だったという。
 ソロモン諸島に取り残された日本兵は、日本の大本営の大げさな戦果発表よりもアメリカ軍のまくビラの方がよほど信頼性があることをよく知っていた。そこでは、無気力・不感症になったような兵たちがアメリカ軍のまく伝単を拾っては貼りあわせて花札をつくり、毎晩、賭博を開帳していた。
 日本軍の士気の衰えがよく分かりますね。
 グアムにいた日本兵は、終戦になっても日本が降伏したことを知らず、ジャングルのなかにいて、敵から奪った手紙やごみという「意図せざる伝単」を通じて正確な情報を手に入れ、それによって自ら情勢を判断して投降した。
 横井庄一もジャングルのなかにいてアメリカ軍による投降勧告放送を聞いていたが、捕虜をつかったアメリカ軍の謀略だと解釈して応じなかった。このとき、日本陸軍の参謀自らが放送していたら応じていただろう。横井庄一は 1972年、28年間のジャングル生活の末にやっと投降した。
 1972年のことは今も覚えています。驚きでした。日本の戦後は終わっていないというのを実感させられた瞬間でした。
 日本軍に投降をすすめる伝単には、投降の「作法」を絵で示すものもあった。投降する日本兵がふんどし一つの裸で出てくる場面を当時の記録映像で見ることがある。それは、こうした伝単や投降放送の指示にもとづくものなのである。
 なるほど、投降するにもお互い生命をかけていたのですね。伝単の意義をしっかり理解することができました。
 わが家の田んぼに水が張られ、田植えが始まりました。蛙たちが一斉に鳴きはじめ、夏到来を告げています。

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