弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦後)

2024年10月18日

戦友会狂騒曲


(霧山昴)
著者 遠藤 美幸 、 出版 地平社

 著者はビルマ戦を研究している学者であり、二児の母親でもある。元兵士の遺族でもないのに、ひょんなことから戦友会の「お世話係」となって月1回の戦友会に顔を出すようになった。2005年のこと。しかし、年月がたって、元兵士たちが次々に亡くなっていき、この戦友会は2007年12月に解散した。そのあと有志が集まるようになったのにも関わる。
現在、もはや元兵士が主導する戦友会は日本には存在しない。当然ですよね。戦後80年になろうとしているのですから、終戦時に20歳の人は100歳なのです。著者が関わった戦友会は「第二師団勇(いさむ)会」。第二師団の通称号は「勇」。第二師団は福島、新潟、宮城三県から編成された部隊。第二師団はガダルカナル、中国雲南省、ビルマ方面の激戦地で戦った。
戦友会は多様な形態があり、明確に定義が出来ないのが特徴。
 戦友会は、あくまで任意の民間団体。戦友による会費と寄付が財源。1965年から1969年までが戦友会設立のピークで、その最盛期は短かった。1980年代には3分の1に減少した。
 戦友会の「勇会」は1980年代の最盛期には130~150人の参加があったが、2003年にはわずか15人にまで激減した。
 この戦友会に、著者たちが接近してきて加入した。「自虐史観」を排し、大東亜戦争は聖戦だった、東南アジアの虐げられた貧しい民衆を解放してやったと主張する集団。日本軍が強制連行してつくった慰安所の存在を否定する。しかし、元兵士たちには自ら慰安所を設立したという体験があるので、話がかみあわない。
ガダルカナル島戦に従事した第二師団は1万人余。そのうち8千人近くが戦死した(戦死率76%)。ビルマ戦線の総兵力は1万8千人で戦死者は1万3千人(戦死率68%)。この戦死率の異常な高さに思わず息を呑みます。これって、戦病傷者を考えたら全滅というレベルですよね。
 ビルマ戦線の日本軍総兵力は33万人でうち19万人が戦死した。まさに「地獄のビルマ戦」です。そんな苛酷な戦場体験をもって生還した水足中尉は、もし今、戦争が起きたらどうするか...と自問して答える。
 「私は戦争になったら逃げます。戦争に行って最大の卑怯者になりました。戦争は何としても阻止しなければいけません。勝ってもダメです。自衛隊もいけません」
 金泉軍曹の口癖は...。
 「私は軍隊が大嫌い。二度と戦争してはいけない。最初から相手が憎いわけではないのに殺しあう。相手にも親兄弟がいて、死んだら悲しむでしょう。戦争ほど愚かなことはない。勝っても負けても意味がない。しょせん、国同士の関係だからね」
 磯部憲兵軍曹は、即答する。
 「戦争に行けと言われたら、私は一目散に山にでも逃げますね。米袋をかついで逃げますよ」
 ところが、戦場体験のない人は、その「負い目」から勇ましい言葉を発することがある。
 戦友会では階級がモノをいう。元兵士たちは、かつての上官の前では本音を言わない。言えないのだ。
 激戦のなか、どのようにして生き残ることが出来たのかと問われ、金泉軍曹はこう答えた。
 「自分だけ生き残ろうとずるいことをした人は、みな死んでしまった。他人(ひと)のことを助けて初めて他人に助けてもらえる」
 偕行社は自然消滅の危機にあったが、陸上自衛隊OBとつながって、「陸修偕行社」として存続している。
 実は私も「偕行社」を利用させてもらったことがあります。亡母の異母姉の夫(中村次喜蔵中将)の軍歴を知りたかったのです。すぐ調べていろいろ親切に教えてもらいました。ありがたかったです。
(2024年7月刊。1800円+税)

2024年9月 6日

藍子


(霧山昴)
著者 草川 八重子 、 出版 花伝社

 朝鮮戦争が勃発したのは1950年6月25日。このころ、京都の高校生だった著者が、当時の社会問題と格闘する日々を振り返っています。
藍子の通う高校では、生徒会が総会を開いてイールズ声明(共産主義の教授は追放すべきだというもの)に反対することを決議しようとします。しかし、そんな決議をしたら、アカい高校と見られて生徒の就職が困難になるという現実重視派から反対の声が上がるのでした。
 前年(1949年)4月の総選挙で共産党は35人の国会議員を当選させたのに、GHQが共産党の追放を決め、6月の参議院選挙で当選した2人も無効とされてしまった。そして、下山、三鷹、松川という大事件が相次いで起き、世の中は急速に反共ムードが高まっていった。
 この高校には民青団の支部があり活発に活動しています。藍子は初め反発しながらも、戦争反対の声を上げるべきだと考え直して加入します。そして、オモテとウラの活動があるうちのウラにまわされます。レポ、要するに連絡係です。当時は、こんな活動も高校生にさせていたのですね、驚きました。
 驚いたと言えば、まだ高校生なのに、男子生徒が山村工作隊員に選ばれ、丹波の山村に入って革命の抵抗基地づくりをしたというのです。そして、その活動の一つが地主宅に投石して窓ガラスを破れというものでした。そんなことして、世の中に大変動が起きるはずもありませんが、当時は、大真面目だったのですね。
 高校生の藍子は疑問も抱きます。当然です。
 何でも「革命のため」と理由をつければ、指導者は勝手なことができて、藍子はひたすら我慢しなければならないのか...。そんなことはないはず。
 「革命」は世の中をひっくり返して、虐(しいた)げられていたものが権力をとること。労働者が、自分たちの政府をつくること。それを成し遂げる人間は、自由で積極的な自分の意思で活動すべきだろう...。
 著者は1934年生まれですので、私よりひとまわり年長です。50歳前後からたくさんの本を書いています。今回の本は、共産党の「50年問題」を、高校生だった自分の体験を描くことによって、「あの時代を抹消してもいい」のかと問いかけています。90歳になる著者が「体力と気力のある間にと蛮勇を振る」って書いたという貴重な記録です。それにしても、多感な女子高校生の会話まで見事に「再現」されている筆力には驚嘆するしかありません。
(2024年8月刊。2200円)

2024年5月29日

陸軍将校たちの戦後史


(霧山昴)
著者 角田 燎 、 出版 新曜社

 旧陸軍のエリートとして戦争の中枢にあった陸軍将校たちのうち生き残ったものは戦後、政治活動から距離をとって、親睦互助を目的とした偕行社を設立しました。
 本書は、その偕行社が、当初は戦争責任も問い、自己批判もしていたのですが、次第に政治団体となっていき、戦争責任をあいまいにする方向で動いていくのです。本書は、その経過をたどっています。
 陸軍士官学校(陸士)の卒業年次には大きな意味があります。といっても、最後の陸士61期の生徒は5000人を超すとのこと。東条英機は16期、牛島満(沖縄戦の司令官)は20期、硫黄島で戦った栗林忠道は26期、悪名高い辻正信は30期、そして戦後に政界で暗躍した瀬島隆三は44期。
 太平洋戦争の特徴の第一は、大量の餓死者を出したこと、第二は、海没者が多いこと。海軍の軍人・軍属が18万2千人に対して、陸軍もほぼ同数の17万6千人となっている。
 第三は、特攻隊、特攻戦死が登場したこと。第四に、自殺や軍医等による傷病兵の殺害、投降兵士の殺害が多かったこと。
「偕行」とは、「共に軍に加わろう」という意味。偕行社は、1957年に財団法人となった。
 やがて偕行社は、強烈な反共主義的姿勢をもち、軍人恩給などの権利を求める団体として活動していくようになった。
 ビルマ(ミャンマー)でのインパール作戦の指揮官・牟田口廉也(22期)は、戦後なお、「自分のやったことは間違っていなかった」などと堂々と開き直りました。
 偕行社は、会員の老齢化によって、元本の取り崩しが続いて、29億円の資産が13億円となってしまった。そして会員が減少するなか若い人たちを迎え入れるため、自衛官も会員になれることにした。
 私の母の異母姉の夫(中村次喜蔵)は、第一次大戦時の青島(チンタオ)攻略戦において、独軍の要塞を攻略したことで、大正天皇の面前で講和をしたとのことです。この中村中将は、日本の敗戦後、なおソ連軍と戦おうとしていました。そこへ、無駄な抵抗はやめろと言わんばかりの停戦命令が大本営から来たあと、自決したのでした。その自決の前後を知りたくて、偕行社に照会したのです。すると、自決したときの状況や場所など、本当に細かいところまで教えてくれました。本当に助かりました。偕行社が実際に生きた団体であることを実感しました。
(2023年7月刊。2900円+税)

2024年5月16日

ずっと、ずっと帰りを待っていました


(霧山昴)
著者 浜田 哲二・律子 、 出版 新潮社

 1945年4月から5月にかけて、沖縄で日本軍はアメリカ軍の大軍と文字どおりの死闘を展開しました。それは、東京の大本営からアメリカ軍の本土上陸を少しでも遅らせよという命令にもとづくもの。つまり、沖縄の日本軍は全滅してよいから、アメリカ軍と必死に戦い、その前進を少しでも遅らせろというものです。そこでは日本軍が勝利することなんて、ハナから期待されていませんでした。
 アメリカ側で戦史を研究している学者のなかにも、日本軍の頑強な抵抗を乗りこえ、それを踏みつぶすような苛烈な戦いをする意味はなかったとして、アメリカ軍の強引な戦法を厳しく批判している人がいます。沖縄なんかとり残して日本本土の上陸作戦を敢行したほうがアメリカ軍将兵の犠牲はよほど少なかったはずだというのです。それほど、沖縄におけるアメリカ軍の将兵の犠牲は大きかったのです。寸土を争う激闘にどれだけの意味があったのか、アメリカ側からも批判があるわけです。
 そのことは本書を読むと、よく分かります。日本軍の戦い方は、まったく特攻精神そのもの、生還を期さない戦法です。なので、この本の一方の主人公、伊東孝一という、当時24歳の若さで第一大隊長(大尉)として1000人もの部下を率いて戦い、アメリカ軍から陣地(高地)を奪還し、それでも生き残ったというのは奇跡としか言いようがありません。部下の9割は死亡したけれど、大隊長は生き残ったのでした。そして、この生き残った大隊長は、戦後、死んだ部下の遺族600人に手紙を送ったというのです。
 そして、手紙を受け取った遺族から返信がありました。その返信356通を著者夫婦は伊東孝一元大隊長(当時95歳)から預かったのです。著者夫婦は、この356通の返信を発信した遺族(さらに、その遺族)に面談して手渡すのを始めたのでした。
この返信された手紙の8割は北海道在住。というのも、部隊の将兵の所属が北海道だったから。
 1946(昭和21)年ころに発信された遺族を探し出すのは困難をきわめます。当然です。70年以上たっているのですから...。それでもなんとか探し出していきました。
 「どうして、あんなに早く、(アメリカ軍の)上陸直後にやられたとは思いませんでした。少しでも、奮戦した後だったらと、それのみ残念でなりません。過去のことは考えても何にもならず、将来の生活に身を固めて、父の顔も知らない一子、隆を一人前に育てあげ、故人の意思を生かせるべく、決心いたしました」
 その隆さんは、「驚いたなあ、お袋が親父をこんなにも思っとったとは...」と語りました。
 「承(うけたまわ)れば、主人の最期は壮烈なるものにして、その功績、その殊勲は至高なり、ということですが、それは空(むな)しき生命だったとあきらめる道しかありません」
 その子たちは、「私ら兄弟は、青森名物のねぶた祭が大嫌いでした。同級生たちが両親と楽しそうにしているのを見たくなかったのです。運動会の弁当は、近くの畑に落ちている未成熟のリンゴ、校庭から抜け出し...捨てられている実をかじって昼ご飯にしていました」と語ったのです。これを読んで、私はついつい涙があふれ出してしまいました。戦争のむごさは子どもに及ぶのですよね。
 「礎(いしずえ)とは肩書きだけ、犬猫よりおとる有り様ではありませんか。村長も二言目には犬死にだとしか申されません」
大切な息子が戦死したというのに、その代償となる遺族年金は雀の涙だった。これが庶民にとっての戦争の現実です。
「死に水くらいは飲めましたか。遺品など何もありませんでしたか。追撃砲の集中砲火を浴びたとか。肉一切れも残さずで飛び散ってしまったのですか」
アメリカ軍の土砂降りのような猛攻撃の下で、まさしく肉一片も残さず、将兵の肉体は跡形もなく飛び散って死んでいったのでした。本当にむごい戦争の現実がありました。その状況をなんとか遺族に伝えようとした伊東元大隊長の心境を推測するしかありません。
「今は淋しく一人残され、自親もなく子どももなければ、お金もなく、暗黒な遭遇、並みの社会生活から一人淋しく投げ出されたように、国を通じての敗国の惨めさ、路途に迷い、気力を一時は失わんばかりでした」
「赤裸々に申し上げますならば、本当は後を追いたい心で一杯なのでございます。すべてを死とともに葬り去ったなら、どんなに幸福かしれません。されど、残されし、三人のいとし子を思うとき、それは許されないことです。かつては歓呼の嵐に送った人々の心も今は荒(すさ)みにすさんで、敗戦国の哀れさ、ひとしお深うございます。でも、私は強く生き抜いて参ります。すべてを子らに捧げて、それがせめてもの、散りにし人への妻の誠ですもの」
伊東元大隊長は、2020年2月、99歳で死亡。
その生前、戦争は二度と起こしてはならないと語っていたとのこと。
著者夫妻は、356通の手帳の4分の1を遺族へ返還したそうです。大切なことを、よくぞ成し遂げられました。そして、その過程をふくめて本書にまとめ上げられたことに心より敬意を表します。
(2024年2月刊。1600円+税)

2024年1月 4日

硫黄島上陸


(霧山昴)
著者 酒井 聡平 、 出版 講談社

 クリント・イーストウッド監督の映画2部作でも描かれた日米最大の激戦地である硫黄島に遺族の一人であり、新聞記者でもある著者が3度も上陸した体験記を中心とする本です。  
硫黄島(「じま」と読むと思っていると、この本では「とう」と呼んでいます)での日本軍の激闘は1945年2月19日に始まり、3月26日に終了した。その組織的戦闘は36日間で終わったが、なお残存兵は散発的にアメリカ軍と戦った。結局、守備隊2万3000人のうち、戦死者は2万2000人。致死率95%。生存者は1000人しかいない。そして、戦没者2万2000人のうち、今なお1万人の遺骨は見つかっていない。
 日本政府が遺骨収集にまったく取り組まない時期が長く続いたうえ、今も細々としか遺骨収集作業は進められていない。
 この本を読んで、日本政府が熱心に取り組まなかった大きな理由の一つが分かりました。それは硫黄島が戦後、アメリカ軍の核兵器貯蔵庫として利用されていたことです。そんな島にアメリカ遺骨収集団を上陸させようとするわけがありません。
 そして、アメリカ軍の訓練基地として使われてきました。艦載機の離発着訓練(タッチ・アンド・ゴー)がなされたのです。厚木基地のような周辺に民家があるところと違って、ここは民間人がまったくいないので、誰からも文句は出ません。
まあ、それにしても、硫黄島に上陸するのが、こんなに大変なことだとは...、思わず溜め息が出ました。
いま、硫黄島は緑豊かなジャングルの島になっている。ただし、硫黄島は、当時も今も川がなく、雨も少ない、渇水の島。遺骨を探しに地下壕に入ると、内部はとんでもない熱さで、1回の作業は10分が限界。一酸化炭素の濃度も高いので、危険がある。そして、人間にかみつく、大きなムカデがいる。
硫黄島では自由な取材が原則として禁止。カメラの持ち込みも禁じられている(この本には許可を得て撮った写真はあります)。
人骨の年齢を推定する鑑定人がいる。たとえば、恥骨の結合部。若いころは波打っていて、そのうち加齢とともに平らになり、でこぼこ穴が空いてくる。また、頸椎のしわは、年齢とともに減っていくので、その減り具合から、年齢が推測できる。
硫黄島で日本軍守備隊は総延長18キロメートルの地下壕を駆使して持久戦を繰り広げた。地熱によって地下壕内部は70度にも達する。
アメリカ軍が占領したあと、硫黄島はB29の緊急着陸地となった。終戦までにのべ2000機に達し、硫黄島はB29の天国とまで言われた。
硫黄島の日本軍兵士たちは、いつか必ず連合軍が現れ、アメリカ軍を撃退し、自分たちを救出してくれると信じていたようです。でも、実際には、東京の大本営は早々に硫黄島を切って捨てていました。短期で陥落するのは必至とみていて、応援してもムダだと考えていたのです。
硫黄島には、朝鮮人軍属が1500人ほどいた。これも忘れてはいけない歴史的事実だ。
フィリピンで日本軍将兵は52万人が戦死した。そのうち37万人の遺骨が収集されていない。
靖国神社に参拝するより、海外に放置されている日本軍将兵の遺骨を発掘して日本に連れ帰ることのほうがよほど先決だと、この本を読みながら、つくづく思いました。
 
(2023年11月刊。1500円+税)

2023年11月17日

龍の子を生きて


(霧山昴)
著者 二ッ森 範子 、 出版 こうち書房

 八路軍従軍看護婦の手記というサブタイトルのついた本です。
八路軍というのは中国共産党の軍隊です。日本が中国に侵略戦争を仕掛けていたとき、頑強に戦いました。蒋介石の国民党軍と一緒に日本軍と戦っていた時期もあります。国共合作によって誕生した名前です。中国では「パーロ」とも呼ばれていました。
そんな八路軍に日本敗戦後に大勢の日本人が参加しました。日本軍がアメリカに無条件降伏したといっても、中国現地の八路軍は装備は貧弱で、人員も足りていませんでしたから、日本人に「助っ人」を頼んだのです。
私の叔父(父の弟)も応召して関東軍の兵士(工兵)として山中で地下陣地を構築していましたが、八路軍の求めに応じて、紡績工場の技術者として戦後8年間、働いていました(1953年6月、日本に帰国)。私は、叔父の手記を基として『八路軍(パーロ)とともに』という本(花伝社)をこの7月に刊行しました。まだ読んでいない人は、ぜひ買い求めてください。少し付加、訂正したいところがありますので、改訂版を出したいのですが、売れゆきがかんばしくありません。どうぞお助けください。
山形県の山村で生まれ育った著者は、16歳(数え)のとき、満州に渡って看護婦になりました。満州の中央にあるハルビンの義勇隊中央医院が職場です。もちろん、初めは看護婦になる勉強から始まります。
待遇は、日本(内地)に比べるともったいないほど良かった。祭日には、お菓子もお餅もあった。満州に渡ってきた義勇隊の少年たちが次々に病人として運び込まれてきました。栄養失調と結核が目立って多かった。厳しい苛酷すぎる自然環境でした。
日本軍の敗戦(8月15日)の前、8月9日深夜、ソ連軍が突如として満州に、侵攻してきた。頼りの関東軍は、その精鋭部隊は南方戦線に送り出されていて、員数あわせだけで成りたっている、見かけ倒しの軍隊にすぎなかった。
ソ連軍のあとは、国民党軍がやってきて、ついに八路軍も姿をあらわした。国民党軍は規律のなさから現地の人々から総スカンを喰った。
八路軍は、日本人の医師や看護婦に対して、あくまで紳士的に、礼儀正しく、協力を要請してきた。そして、著者はそれに応じることを決断した。やがて国共内戦が始まりました。
共産党軍(八路軍)は当初、アメリカ式の最新兵器を有する国民党軍に追われていましたので、著者も八路軍と一緒に広い満州をわたり歩いたのでした。
著者が初めて出会ったときの八路軍の兵隊は、ノミとシラミ、そして垢(あか)にもまみれて行軍していた。こんなみすぼらしい軍隊が、最後には勝つだなんて、とうてい信じられなかった。しかし、負けるという気もしなかった。
病院は忙しく、毎日、大変だったが、暗い雰囲気はまったくない。毎日、変化があり、刺激的で楽しく、満ち足りた日々だった。
1948年春になると、八路軍は勢いがあり、進撃に転じていた。このころ著者は19歳の看護師で、1日40キロを行軍した。
著者たちは「三大規律、八項注意」の歌をうたい、「一日に3つは良いことをしよう」と決めて実践していた。
1953年4月、25歳の著者は日本に帰国し、宮城県にある坂病院で看護婦として働きはじめた。中国での看護婦としての大変さがよく伝わってくる手記でした。岡山の山崎博幸弁護士(26期、同期です)に紹介され、インターネットで注文して読みました。
(1995年12月刊。1500円)

2023年10月13日

朝鮮戦争・無差別爆撃の出撃基地・日本


(霧山昴)
著者 林 博史 、 出版 高文研

 朝鮮戦争が始まったのは1950(昭和25)年6月25日。北朝鮮軍が突如として韓国に侵攻してきた。以前は、韓国軍・米軍が北侵したのが始まりという説もありましたが、今では完全に否定されています。ソ連崩壊後に、いろいろ裏付資料が出てきました。
 そして、1953(昭和28)年7月27日に停戦協定が結ばれるまで、3年1ヶ月も戦争は続き、莫大な死傷者を出しました。アメリカ軍の戦死者は3万3667人。韓国軍は25万人以上で、民間人をあわせて100万人をこえる。これに対して、中国人民義勇軍の死者は少なくとも50万人、多ければ100万人。北朝鮮軍は50万人の死者と民間人200万人以上が死亡したとみられている。つまり、当時の朝鮮半島の人口3000万人の1割300万人が南北あわせて亡くなったということ。これは大変な数字です。
 この本を読むと、アメリカ軍の爆撃によって韓国北部と朝鮮がまさしく焦土に化したことがよく分かります。日本敗戦後の東京や広島の写真以上の惨状です。まったく荒野と化しています。そして、それを敢行したアメリカ空軍の出撃機数累計2万277機のうち、日本の横田基地から7531機、嘉手納基地から1万2746機が朝鮮爆撃に行っています。これは、大半が日本から出撃していって朝鮮を焦土と化したということです。
日本は朝鮮戦争のおかげで特需ブームに湧き立ち、目ざましい戦後復興を実現したのでした。いわば、他人(ひと)の不幸を自らの金もうけのタネとして復興したというわけです。
 ソ連は朝鮮戦争に表向きは参戦していませんが、実は大量の戦闘機とパイロットを北朝鮮軍に提供しています。ソ連製のミグ15戦闘機にアメリカの戦闘機のほとんどは対抗できず、唯一F86戦闘機のみが対抗できました。
 朝鮮半島の都市人口は、ソウル(京城)が77万人、平壌が22万人、あとはすべて10万人以下でしかなかった。農村に人々は住んでいました。
 アメリカ空軍はナパーム弾を大量に投下したが、そのナパーム弾15万個は、日本の工場でつくられた。
プロペラ機であり、速度の遅いB29は、ミグ15戦闘機の攻撃には弱かった。
 B29は日本の基地から出撃するにあたって、何度も墜落するなど事故を多発させたが、これは旧式化していたことによる。
日本の都市を太平洋戦争中にじゅうたん爆撃し、焼け野原にしてしまったアメリカ軍の指揮官、カーチス・ルメイは、朝鮮戦争のときは戦略空軍司令官だった。このカーチス・ルメイは、ソ連との全面核戦争をいかにして戦い抜くかにばかり関心があり、局地戦である朝鮮戦争にはほとんど関心がなかった。
 この一文を読むまで、カーチス・ルメイ将軍は、日本への無差別、じゅうたん爆撃の効果を踏まえて朝鮮戦争のときも、それを強引に実行しようと考えていたと想像していました。ところが、そうではなかったというのです。カーチス・ルメイ将軍(戦略空軍司令官)の影は朝鮮戦争では薄いのです。
朝鮮戦争の戦闘場面に少なくない日本人に参加していた事実があります。機雷掃海作業や軍需物資の輸送だけでなく、炊事夫や通訳として雇われていた日本人も兵士になっていたのです。
 そして、日本人が目のあたりにしたのが露骨な黒人差別でした。アメリカ人にとって、韓国人も北朝鮮人のいずれかが判明するのには骨が折れました。
 アメリカ人たちは、韓国人も北朝鮮人もグック、クーリー、また「訓練されたサル」とか「軍服を着た無知茡昧の苦力ども」とまったく差別意識まる出し、軽視のまま呼んでいました。自らの戦争犯罪を認めず、戦争責任をとらない点では日本もアメリカも同じ。都市や農村の無差別爆撃は国際法に違反する明らかな犯罪。でも、アメリカも日本も、まったく知らぬ顔をして今に至っています。
 朝鮮戦争を爆撃機の効果という点で、恐ろしさを実感できる本でした。
(2023年6月刊。2500円+税)

2023年8月 8日

下山事件


(霧山昴)
著者 柴田 哲孝 、 出版 祥伝社文庫

 1949(昭和24)年7月5日、初代の国鉄総裁・下山定則が朝から行方不明となり、翌7月6日未明に国鉄常磐線の北千住駅と綾瀬駅の中間地点で遺体となって発見された。いわゆる下山事件。ときは日本占領下、マッカーサーのGHQが日本を支配していた。
 下山総裁は国鉄合理化にともなう10万人規模の人員整理の渦中にあり、7月4日に第一次人員整理として3万700人の名簿を発表したばかりだった。このころ、7月15日には三鷹駅で無人電車が暴走して死傷者を出した三鷹事件、8月17日には福島県内で機関車が脱線転覆して乗務員3人が死亡した松川事件が起きていた。松川事件については政府は直後から共産党が犯人だと発表し、共産党関係者や国労の組合員などが逮捕・起訴され、いったんは死刑判決まで出たものの、被告人らのアリバイを証明する物証(諏訪メモ)が掘り起こされて、逆転無罪となった。GHQないしCIA等のアメリカ機関がからんだ謀略事件というのが今では有力となっている。
 この本は矢板玄(くろし)が代表をつとめるY機関(亜細亜(アジア)産業の別名)が関わっていたという説を中心として語られています。GHQのキャノン機関の下請け機関として、非合法工作にいくつも関わっていたというのです。著者の祖父は柴田宏(ユタカ)。1970(昭和45)年7月に69歳のとき病死した。
事件当時、下山総裁は、精神的にかなり追いつめられていた。下山総裁への殺人予告電話がかかってきた。
 失踪当日、下山総裁の行動はいかにも不思議なものだった。これは自殺しようとしている人の行動とは矛盾している。
 CIAをはじめとするプロの謀報員のプロパガンダには、一定の法則がある。その9割は「実話」で、残る1割に「虚偽」を挿入してカバーストーリーを構成する。たとえば、人名、地名、日時などを入れ替える。
 下山総裁の遺体はいかにも不審な轢死体であるのに、検視した医師は自殺だと断定した。これに対して布施健検事が疑問を呈した。東大の法医学教室(古畑鑑定)は、死後轢断と判定した。
下山総裁は腕の血管を切られ、血を抜き取られて死んだというCICの元協力者だった朝鮮人の証言がある。
田中清玄と西尾末広の二人は、下山事件の周辺に登場する。
 下山総裁の遺体が発見された大友野の轢断現場には、下山総裁が身につけていたはずのロイド眼鏡、ネクタイ、ライター、シガレットケース、シャープペンシルがついに発見されなかった。そして、右側の靴が大きく裂けていたのに、右足はまったく無傷だった。
 キャノン機関のキャノンは1981年、自宅のガレージで射殺体になって発見された。享年66歳。自殺とされた。
M資金はウィロビーのWを裏返しにしたらMになる。ウィロビーの裏金という意味。
 伊藤律も共産党の情報をどんどん持ってきていた、ただのスパイだ。
GHQは国防省、CIAは国務省。両者は敵対していた。
下山総裁が事件当日、3時間近くも休息したはずの末広旅館で、ヘビースモーカーなのに1本もタバコを吸っていないという。そして、女将の長島フクの夫は特高警察官あがり。現場は大きく左にカーブしている。戦前の中国・満州での張作霖爆殺事件のカーブと同じ構図だ。
 矢板玄は1998年5月、83歳で死亡した。矢板玄も統一協会の後援者だった。亜細亜産業は七三一部隊と奇妙な符号がある。
戦後の疑惑にみちた事件について、その真相に一歩迫っている本だと思いました。
(2017年5月刊。857円+税)

2023年4月18日

流れる星は生きている


(霧山昴)
著者 藤原 てい 、 出版 中公文庫

 1945(昭和20)年8月、日本敗戦後の満州から生命からがら日本に逃げ帰ってくる涙ぐましい体験記です。漫画家のちばてつや、ゴジラ俳優の宝田明も同じような体験をしています。著者のこの本は戦後、空前の大ベストセラーとなり、映画化もされたそうですが、残念ながら見ていません。この本の初出は1949年5月で、1971年5月に発刊され、早くも1976年に文庫本になっています。私は改版25刷という2022年7月刊のものを読みました。
ともかくすさまじい内容で筆舌に尽くしがたいとは、このことでしょう。著者の夫は有名な作家の新田次郎で、二男は数学者の藤原正彦。
満州国は日本が植民地支配の道具としてつくっただけの国ですから、日本の敗戦と同時に瓦解し、それまで日本支配下で苦しめられていた現地の中国人、そして朝鮮人が、日本人避難民に一般的に親切なはずがありません(いえ、なかには親切な人もたくさんいました)。
日本人はグループをつくって、リーダーの統率下に行動します。基本的に武器を持たず、お金も少ししかない。食料も着るものも十分でないなかです。しらみと発疹チフスで次々に日本人が死んでいきます。抵抗力のない(弱い)老人と子どもたちがまっ先にやられます。ところが、著者は7歳の長男を頭(かしら)に3人の子どもを連れて、それこそ何度も死にかけて、ついに日本に4人全員が帰り着いたのです。すごいです。
二男(正彦)は4歳。1日2回のお粥(かゆ)ではお腹が満足するはずもない。「お母ちゃん、もっと食べたいよう」と泣く。
日本人会が出来ているが、日本人はみな露骨な利己主義を主張している。誰が何でもよい。ただ自分だけが一刻も早く逃げ出して救われたい。他人(ひと)のものを奪ってでも逃げ出そうとする醜い状況がすぐそこで見られた。
著者の一団とは別なグループが、すぐ近くを歩いていく。ときには牛車に乗っていく。著者は怒りのあまり、その一団のリーダーである「かっぱおやじ」に向かって怒鳴った。
「私をだましたね」
「なにい、生意気いうな。何をしようと勝手だ」
「自分ばかり良ければいいんだろ」
「なにをいう、この乞食(こじき)女め」
「かっぱおやじの馬鹿」
こんな激しい応酬をするのです。そのときの二人の必死の形相が想像できます。そして、別の人に向かって著者はこんな呪いの言葉も投げかけるのです。500円の借金申し込みを断った女性に対して、です。
「子どもたちが死んだら、一生あなたのせいにして、あなたを呪ってやるわ。私が死んだら、きっと幽霊になって、あなたをいじめ殺してやるわ」
その女性は、この脅しに屈して、500円を貸してくれたのでした。
4歳の二男の足はひどく傷ついていた。足の裏に血と砂と泥がこびりついたまま、はれあがっている。この足で山を越させなければいけない。可哀想というより、そうまでして生きている自分が憎らしくなった。「痛い、痛い」と泣く子を、蹴とばし、突きとばし、ひっぱたき、狂気のように山の上を目ざして登っていった。生まれて1年にならない赤ん坊には、大豆のかんだのを口移しで飲み込ませ、生味噌を水に溶かして飲ませた。乳が出ないから仕方がない。どんなに悪いことかは分かりきっていたが、それよりほかに方法がなかった。
38度線をこえ、最後に汽車に乗って釜山に行くまで、一家4人は4日間をリンゴ12個で生きのびた。下の二人は全身おできだらけ。栄養失調の症状の一つだ。大きなかさぶたが出来て、夜になって静かにしていると、たまらなくかゆくなる。子どもが泣くと、周囲の大人が叫ぶ。
「うるさい。なぜ子どもを泣かすんだ。そんな子どもの口は縫ってしまえ」
著者が対抗心をもっていた「かっぱおやじ」は40人の一団を見事まとめて日本に無事に連れ帰っているのを発見し、「完全な敗北」を認めざるをえなかったのです。
いやはや、まことに壮絶な生還体験記でした。植民地支配の末路の悲惨さをよくよく味わうことができました。いままた、軍事大国になって戦争へ近づこうとしている日本です。「戦前」にならないよう、今、ここで声を大にして、いくら軍事を増強しても平和は守れないと叫びたいものです。
(2022年7月刊。686円+税)

2023年1月 9日

抑留記

(霧山昴)
著者 竹原 潔 、 出版 すいれん舎

 著者は1906年生まれなので、日本敗戦(1945年)時は39歳。陸軍士官学校を卒業した職業軍人で、陸軍中佐。情報関係の将校として、アガバ機関という特務機関長も務めている。日本に帰国したのは1956年12月なので、11年もシベリアに抑留されていた。山崎豊子の『不毛地帯』のモデルの一人とのこと。
 シベリアのラーゲリ(収容所)でも日本軍の中佐としての誇りを捨てず、ロシア人を「ロスケ」(露助。ロシア人に対する蔑称。日本人に対するジャップのようなもの)と呼んで恥じるところがない。
 著者はなぜ日本が侵略戦争をしたのか、満州を支配した日本軍が何をしたのか、驚くほどまったく反省していません。日本軍は強かったと「ロスケ」に言われて、得意然としています。そんな致命的弱点がある体験記なのですが、人間としての誇りは失わないという点は、最近の映画「ラーゲリより愛を込めて」の主人公・山本幡男に共通するところがあり、共感できるところも少なくないのです。つまり、戦争というものの非人間性をこの本も明らかにしています。
 日本の敗戦直後、師団参謀として金策するのにアヘンを確保し、それを蒙古人に売っています。そこでもアヘンの害悪という点は、まったく念頭にありません。日本人将兵1万人を救うのが先決だという発想であり、論理なのです。
 著者のアガバ機関というのは、蒙古系のブリカート人を保護・育成して、ソ連軍に対抗する勢力として利用しようという仕事をしたようです(もちろん失敗しています)。
 ノモンハン事件でソ連軍の捕虜となり、日本軍に戻れず、やむなくブリカート人になってしまった日本人も登場します。これも、日本軍の限界というか、弱点なのですが、著者は、何ら問題としていません。
 シベリア抑留では、たくさんの日本人がソ連側のスパイになるよう勧誘されたようです。著者は情報将校として、スパイの接し方、利用したり裏切らせたりしています。さすが・・・です。
 著者は50歳のとき帰国し、1982年に76歳で亡くなっています。
ソ連のラーゲリで12年も生き抜いた囚人が生き抜く心得を三つあげた。その一つは、できるだけ働かないこと。殺人的なノルマをこなそうとしたら、その代償は死。その二は、犬(スパイ)に気をつけること。犬はどこでもいる。地位の維持、保身のため、つくり話を当局にたれこむ。その三は、人とはケンカをしないこと。人を殺すのなんか、なんとも思わない囚人が少なくない。
 ラーゲリの食事は、1日300グラムの黒パンと、わずかばかりの豌豆(えんどう)スープだけ。ソ連は、日本軍元兵士だけでなく、満州国の官吏、満鉄の職員、そしてフツーの市民までスパイ容疑でシベリアへ連行し、強制労働に従事させた。
 シベリアのラーゲリに収容されると、虚脱状態になって、元兵士たちを指導するなんて、とてもできない師団長や参謀たちがいた。それに対して、著者は敗戦の虚脱状態から抜け出させて、軍記厳正、志気旺盛の兵隊に戻そうとしたのです。
なかなか迫力満点の体験記でした。ご一読ください。
(2022年8月刊。税込4400円)

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