弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2007年9月14日

団塊世代の同時代史

著者:天沼 香、出版社:吉川弘文館
 団塊の世代という言葉を造り出したのは堺屋太一です。1950年生まれの著者は、このネーミングを嫌っています。私自身は、それほど悪い言葉ではないと思って使っていますが、この本によって団塊世代って、まるで極悪人集団であるかのように言われているのを知って、イヤーな気分になりました。団塊世代をそんなに人非人(にんぴにん)みたいに言うなよな、おい、っていう感じです。まあしかし、歴史用語として、すっかり定着してしまった団塊世代です。私はこれからも使っていくつもりです。
 「現代用語の基礎知識」(2006年版。インターネットにおされて売れないため、廃刊になるそうです)には、「彼らは一見、新時代の創造者のようにみえるが、実は時代の破壊者だった。全共闘をつくって学生運動に事実上の終止符を打ち・・・」とあるそうです。いやあ、ひどい定義です。でたらめもいいとこ、でしょう。時代の破壊者だというレッテルを貼って悪者にするなんて、やめてほしいですよ。それに一部の人たちが全共闘をつくったのは間違いありませんが、学生運動の全盛期は、もう少し続いていたと思います。「事実上の終止符を打ち」というのは、いったい何を指しているんでしょうかね。連合赤軍事件のことなら、あれは学生運動とちょっと別のものだと私は思いますけど、どうなんでしょうか・・・。
 宮台真司准教授(首都大学東京)は、団塊世代について、次のように罵倒しているとのこと。信じられません。
 「団塊世代は、いまだに日の丸に一体化する輩が右で、赤色旗に一体化する輩が左だ、といった稚拙な認識のまま。右も左も、国家だ、党だ、と大いなるものに寄りすがる腰抜けばかり。既成図式に寄りかかって思考停止に陥る輩しかいない。利他のフリをしたエゴイスト・・・」
 ええ、腰抜けで悪うございますよ。なんとでも言いなさい。
 市川孝一・文教大学教授は、次のように言う。
 「団塊世代は、別名、全共闘世代とも呼ばれ、その後、成長する過程の節々で何かと問題を引き起こすことになる世代でもある」
 いったい、我々が、節々で、どんな問題を起こして世間様にご迷惑をおかけしたというんでありゃんすかねえ。とんと見当もつきません。
 団塊世代の名付け親である堺屋太一は、団塊世代は従順なのが特徴だと決めつける。
 「親や兄姉たちがつくった戦後のコンセプトに対して非常に忠実で、疑問も持たない。団塊の兄姉たちは安保騒動のときに、岸内閣を倒せと叫んで体制変更の議論をした。団塊の学園紛争では、学園のここが悪いとかで、佐藤内閣を倒せと言ったやつはいない。全体の大きな体制に対しては極めて従順な世代。みんなが塊として行動した」
 とんでもない事実誤認ですよ、これって。でも、まあ、会社人間と化した団塊世代が今の世の中の動きに対して、もっと怒るべきなのに沈黙を守っているというのは少々あたっているのかもしれません。そして、著者は次のように言います。
 団塊世代の多くは、真面目に、それなりの責任感をもって、地道に、バブルの恩恵などに浴することもなく、平凡な後半生を送った。「食い逃げ」などという、さもしい行為は、したくてもできなかったのが大多数の団塊世代だった。
 うんうん、この指摘はあたっていると私も思います。
 そして、いま、団塊世代は三つのWがあたっている。割のあわない、分かってもらえない、侘びしい世代である。これは、私の属する団塊男性の一部にものの見事にあてはまる呼称だ。
 いやあ、まいりました。私は、この三つのWから抜け出すべく、この書評を毎日せっせと書いているわけです。なにしろこれからが人生の華なんですからね。精一杯、楽しみたいと思います。
 それにしても、団塊世代の体験した大学闘争を詳細に再現した神水理一郎『清冽の炎』(第1〜3巻。花伝社)が、ちっとも売れないそうです。あのころのことは思い出したくないという団塊世代が、実は、想像以上に多いということが判明しました。まだまだ、あのころのことが心の奥深くでトラウマになり、封印されているようです。もっと、その封印を解き放って、おおらかに生きていきたいものだと思います。みなさん、ぜひ『清冽の炎』を買ってやってください。本屋で注文したら、すぐ入手できますので・・・。
(2007年9月刊。1700円+税)

悪人

著者:吉田修一、出版社:朝日新聞社
 佐賀県内で実際に起きた殺人事件をモデルとする小説です。現代日本社会のドロドロとした内情がよく描かれていますが、読んでいるうちに、だんだん気が滅入ってきました。
 この本は久留米の富永孝太朗弁護士のおすすめで読みました。
 ケータイの出会い系サイトで簡単に男と女が出会うことのできる環境があります。また、福岡でいうと、天神界隈に若い男女が集まり、お互いに接点を求めています。そんななかで、偶発的にせよ、犯罪も生まれます。
 親に愛されないまま、少なくとも愛されたという実感のないまま育った子どもたちが大勢います。彼らにも愛を求める権利があります。その衝動を抑えることはできません。
 寂しい思いを胸にぐっと秘めたまま一日一日を過ごしている男女が何と多いことか。この本を読みながら、私は毎日の弁護士としての生活を思い出していました。
 自己破産の申立を決意して生活を必死で立て直そうとしている人たちを励ますのが、私の毎日の仕事です。ホント、大変なんです。50代そして60代になると、ろくな仕事はありません。求人がないのです。離婚して独身生活の人も多く、男性だと食事は毎食コンビニ弁当という人が珍しくありません。ホント、食うや食わず、そして、食生活が偏ってしまいます。一家団らんという言葉とは縁遠い生活です。うつ病など、精神的な病いをふくめて、病気もちの人も多いですね。癌を三つも四つもかかえている。そんな人が何人も依頼者のなかにいます。
 そんな寂しい人々が、見知らぬ人からであっても、ちょっとした優しい言葉をかけられたとき、無防備のまま尾いて行ったとして、誰がそれを責めることができるでしょうか。
 結果を見て、犯人を厳罰に処せ、と叫ぶのは簡単です。日本もアメリカのように重罰化の方向へひた走っています。おかげで、刑務所は全国どこでも超満員。だから、経費削減、安上がり方策として、刑務所の民営化もついに始まりました。もっと社会が全体として弱者に優しくしなければ、ますます犯罪は増え、おちおち夜道は危なくて歩けない、といったアメリカのようになってしまいます。
 先日、博多でマイケル・ムーア監督の最新作の映画『シッコ』をみました。アメリカって、お金持ちには世界最高水準の医療を至れり尽くせりです。でも、貧乏人は医療保険もなく、高い病院代が支払えないと、入院先の病院から追い出され、文字どおり路上に放り出されるという悲惨な、信じがたい現実があります。アメリカのような日本になってはいけません。ところで、この映画では、同時に、カナダやフランスそしてイギリスまでも、医療費がタダで、市民は安心して診てもらえるということも紹介しています。そうなんです。同じ資本主義国家といっても、アメリカが異常なんです。日本はその異常なアメリカばかりを手本として、医療費の自己負担率を引き上げ、さらに保険会社にガッポガッポともうけさせようとしているのです。とんでもないことですよね。
 日本社会の現実を、小説を読みながら、いろいろ考えさせられました。
(2007年4月刊。1800円+税)

職場砂漠

著者:岸 宣仁、出版社:朝日新書
 サラリーマンが職場で悩むことのトップは、昔も今も、人間関係だ。
 職場のメンタルヘルスを低下させる要因として、もっとも影響が大きいものは、職場での上司と部下、同僚同士のコミュニケーションの希薄化があげられる。成果主義が企業に浸透するようになって注目されているのが、パワーハラスメント、つまり上司による部下いじめだ。
 おまえら、やる気のないやつは、ガンガン言って自殺しても平気だ。オレは冷淡だよ。
 仕事しないで給料高いのは、辞めてもいいよ。結果がでないのなら、辞めろ。
 結論は数字でしょう。プロセスなんかは、どうでもよい。
 いやあ、ひどいですよね。こんなことを大勢いる前でガンガン言われたら、気が変になってしまいますよ。ノイローゼにならないほうが不思議でしょ。
 成果主義の浸透やリストラの常態化などで、日本の会社の上司はおしなべて「強大化」した。そして、「強大化する上司」に目をつけられたら、その部下は確実に悲劇を迎える。
 今また、終身雇用を支持する声が増えた。
 英語大好き、外国人大好き、ごますり大好き、そして仕事は知らない。外資系企業を渡り歩く外資屋がいるが、むしろ英語屋と呼ぶべき。この英語屋は、本国に向けて業績の数字だけを上手に見せることに気をつかい、国内の社員に対しては居丈高な態度をとる。
 パワーハラスメントは日常茶飯事だ。最近では、中国への投資資金を確保するため、日本法人により高い収益を求める外資系企業が増えている。外資系に勤める日本人社員は 100万人をこえた。そこでは収益至上主義が強まり、退職強要などが激しくなる可能性がある。
 会社は過労死(自殺)などが世間に公表されないよう、労基署で業務上認定されないよう、労災申請の取り下げを条件として、巨額の補償金を支払うことがある。当初、労災申請を取り下げたら1億円出すと会社側が言ってきたのに対して、2億円を要求したところ、1億4000万円を支払った会社がある。それほど会社は労災認定を恐れている。
 いやいや、ひどい会社の内情です。「働きすぎ時代の悲劇」というサブ・タイトルのついた本ですが、ホント、考えさせられます。
 朝、雨戸を開けようとしたら、ヤモリがポトリと肩におちてきました。ヤモリは慌てて逃げ去りました。わが家の窓によく貼りついているヤモリ君です。外で百舌鳥が甲高く鳴くのを聞くと秋の気配を感じます。庭には赤トンボも舞っています。来週ころから稲刈りが始まりそうです。
(2007年7月刊700円+税)

2007年9月13日

ビキニ事件の表と裏

著者:大石又七、出版社:かもがわ出版
 1954年3月1日、アメリカは中部太平洋のビキニ環礁で、広島型原爆の1000倍といわれる15メガトンの巨大な水爆実験を行った。
 環礁に、高さ50メートルのやぐらを組んで水爆を置き、午前6時45分に点火した。爆発と同時に直径4〜5キロメートルの巨大な火の玉があがり、珊瑚礁の小島を蒸発させた。それらの粉じんは、強力な放射能を含み、キノコ雲となって3万4000メートルの高さにまで上昇した。あとには、深さ60メートル、直径2000メートルの大穴があいた。その海域でマグロ漁をしていた第五福竜丸は、乗組員23人全員が被爆した。
 被爆した船は第五福竜丸だけではない。政府が把握しただけでも856隻。およそ  1000隻に及ぶ。
 そのとき、サアーと夕焼け色が空いっぱいに流れた。左舷の水平線から一段と濃い閃光が放たれた。
 12、3分が過ぎたころ、空は明るくなり、西の水平線上に入道雲を5つ6つ重ねたような巨大なキノコ雲が空を突いていた。
 2時間ほど過ぎたころ、白いものが空からぱらぱらと降りはじめた。ちょうどみぞれが降ってきたという感じだった。
 やがて風を伴い、雨も少しまじってたくさん吹きつけてきた。目や鼻、耳、口など、そして下着の内側に入り、チクチクと刺さるような感じで、イライラした。
 みんな目を真っ赤にして、こすりながら作業した。水中眼鏡をかける者もいた。鉢巻きをした者は頭の上に白く積もらせ、デッキの上には足跡がついた。唇につくものをなめてみると、溶けないので、砂をなめているようにジャリジャリして固い。熱くもないし、匂いも味も何だろう。
 知らないとは恐ろしい。強力な放射能のかたまりをなめたり、かんだりしていた。
 近くの危険区域で何かが行われた。アメリカ軍の大事なものかもしれない。それをオレたちは見てしまった。秘密のことなら、当然、アメリカ軍の軍艦や飛行機、潜水艦も近くにいるはず。見つかったら大変なことになる。見えたら、すぐに焼津に無線をうつ。見えるまでは打たない。うっかり打てば、自分たちがここにいることをアメリカ軍に知らせてしまう。見つかったら間違いなくアメリカ軍に連行される。へたすると沈められてしまう。
 第5福竜丸は、なんとか逃げ切り、3月14日、焼津港に帰り着いた。翌々日、3月16日、読売新聞がスクープで報道した。
 日本の医師団は、灰にふくまれている放射能がどんな性質のものか、治療に役立てるため教えてほしいとアメリカに求めた。しかし、アメリカは軍事上の機密だといって、何も答えなかった。そこで日本の科学者たちは、灰を独自に分析した。その結果、アメリカの最高軍事機密である水爆の構造まで解明した。
 水爆の構造とは、中心に原爆を起爆剤として置き、点火して核分裂を起こす。そこで 7000万度以上の超高熱をつくり、その外側にある重水素リチウムに核融合を起こさせる。これが水素爆弾だ。そして、水爆ブラボーは、そのまた外側を大量の天然ウランで包んでいた。そこに高いエネルギーの中性子がぶつかり、ウラン238が核分裂を起こすとともに、膨大な量の死の灰、ウラン237がつくり出された。これが汚い放射能だ。
 だから、アメリカは何も教えなかった。日本の科学者が解明したことによって、結果的には世界中が知ることになり、良かったと言える。
 この被爆事件について、アメリカ政府と日本政府が極秘のうちに手打ちしていた関係書類が最近公開された。200万ドル(7億2000万円)で決着が図られた。日本政府はその見積もりでも25億円に達していた被害総額を知りながら、その4分の1程度で早期に幕引きし、「アメリカの責任を今後一切問わない」とした。ひどーい、許せませんよね。
 ところが、大石さんらに対して、日本国民の一部から怒りの目が向けられました。騒ぎを起こしたうえに見舞金をもらって、まだ生きている・・・。
 なんという妬(ねた)み心でしょう。最近のイラクにおける日本人人質に対する自己責任を口実とする非難の大合唱を思い出させます。心の狭い人が日本人に少なくないって、本当に残念ですよね。
 大石さんは、今も、元気に被爆体験を語る活動を続けておられます。今後とも、お元気にご活躍されることを心から祈念します。
(2007年7月刊。1500円+税)

2007年9月11日

偽装請負

著者:朝日新聞特別報道チーム、出版社:朝日選書
 偽装請負の実態は、労働者派遣そのもの。しかし、請負契約を装っているので、労働者派遣法の制約は、すべて無視する。たとえば、派遣労働者だったら、一定の年限がきたら直接雇用の申し込み義務が発生するが、請負なので申し込まずに、同じ労働者を何年も都合良くつかうことができる。
 製造請負を管轄する役所がないので、偽装請負は野放しで増え続けた。仕事がヒマになれば、請負契約を打ち切って、一度にごそっと労働者のクビを切れる。不要の労働者を名指しでクビにする指名解雇も簡単。請負会社に一言、あいつを代えて、と言えば、次の日には別の労働者に変わっている。メーカーの正社員と会社が結んだ残業時間の協定にもしばられない。
 生産量にあわせて、労働力を増やしたり減らしたりできる偽装請負は、メーカーにとって麻薬のように危険で魅惑的だった。いったん使うと、中毒を起こし、手放せなくなる。
 健康管理や安全管理のほとんどを請負会社まかせにできるのも、メーカーにとって、ありがたい。自分の工場内で起きた労災事故であっても、その処理一切を請負会社がするものだから、メーカーの負担はない。
 日本経団連の御手洗会長はキャノン。キャノンはひどい偽装請負を続けて恥じない。大分キャノンで違法な偽装請負が行われていたことが、2005年、労働局の調査で発覚した。請負会社は、本来、独力で生産できる自前の設備やノウハウをもたなけらばならない。メーカーから、生産設備をタダで借りることは、モノづくりの能力を偽装するのと同じこと。適正な請負であれば、製品の出来高に応じて請負会社に代金を支払う。しかし、大分キャノンでは、実際に働いた人数と時間で支払額を決めるという契約だった。
 大分キャノンでは、朝日新聞の指摘したあとも請負労働者が増え続けた。2006年12月末、はたらく労働者は7000人。半年で1000人増えた。しかし、その大半が請負労働者だった。7000人のうち、7割の5000人が請負会社に雇われ、キャノンのために働いている。
 御手洗会長は、会長になる前、キャノンは人間尊重主義をとると高言しました。
 私は企業には社会的責任があると思う。人類との共生が企業の理念だ。人を大事にしろということ。キャノンは終身雇用という人事制度をとっている。
 御手洗がキャノンの経営者として終身雇用、人間尊重主義を説くことと、請負労働者を出来高払いで「採用」し、使い捨ての労働者を「雇う」のは矛盾しないか。
 御手洗は、その点を質問され、「全然、矛盾しない」と答えた。問題の労働者は、「うちの社員じゃないから」という理由だ。しかし、偽装請負は、れっきとした犯罪行為である。単なる企業倫理の問題ではない。
 ところで、製造工程のラインごとに指揮命令のできない一群の作業員がいて、本当に高い品質の製品をつくれるのか、はなはだ疑わしい。
 御手洗は、経済財政諮問会議で、請負法制には無理がありすぎるから改正すべきだという趣旨の発言しました。自ら違法行為をしておきながら、法律のほうを変えればいいんだというのです。まさに開き直りです。およよっ、と驚いてしまいました。人間尊重のカケラもそこにはありません。大企業の利益こそ万能であり、最優先すべきだというのです。
 こんな人が財界トップというのでは、日本の将来は、お先まっ暗です。アメリカに長く住んで大変苦労したと聞いていましたし、人間尊重・終身雇用を守るというので期待していたのですが、まったく裏切られてしまいました。私も、まだまだ人を見る目がなかったようですね。トホホ・・・。
 わが家のすぐ下の田圃では黄金の稲穂が頭を垂れはじめています。収穫の秋は、もうすぐです。庭に鮮やかな紅色の曼珠沙華が咲いています。酔芙蓉の花もようやく咲きはじめました。道端に白い見事なススキの穂を見かけました。昼には真夏の暑さが残っていますが、朝夕はめっきり涼しくなりました。子どもたちの運動会のシーズンが近づいています。
(2007年5月刊。700円+税)

2007年9月10日

加賀屋の流儀

著者:細井 勝、出版社:PHP研究所
 プロが選ぶ日本のホテル・旅館100選で、26年間にわたって総合1位を獲得しているという旅館があります。石川県の和倉温泉にある加賀屋です。
 私も、ぜひ一度行ってみたいと思っていました。昨年秋、加賀屋そのものではなく、その系列の「あえの風」旅館に泊まり、夕方、加賀屋を見学に行ってきました。木造の日本式家屋を想像していたのですが、実際には鉄筋コンクリート造りの高層旅館でした。泊まったわけではなく、せいぜい館内の土産品店をのぞいて少々の買い物をした程度で退散したのですが、人気ナンバーワンの香りだけはかいだ気がしました。
 加賀屋に行くのは決して簡単なことではありません。石川県能登半島の東側にある七尾市に和倉温泉はあります。はっきり言って、とってもへんぴな場所にある旅館です。ところが、年間の宿泊者はグループ2館で33万人。246の客室の稼働率が80%を上まわるというのですから、すごいものです。
 和倉温泉に来るお客は年間100万人。そのうち加賀屋グループ2館に3分の1の33万人が泊まる。和倉温泉の他の旅館は閑古鳥が泣き、地元商店街は閉店に追いこまれているという話を地元の弁護士から聞きました。加賀屋の繁栄は和倉温泉全体の底上げにはつながっていないようです。難しいところですね。
 客室係はマニュアルどおりに動くのではない。彼女たちは、お客を大浴場など館内を説明しながら客室に案内するまでに一人ひとりの客の背丈や身幅をそれとなく目測し、5センチきざみでそろえてある浴衣のなかからピタリと客の体にあうサイズの浴衣を選んで部屋へもってくる。
 加賀屋の客室係は165人。加賀屋に泊まると、夫婦2人だと10万円を見込む必要がある。だからこそ、求められるサービスの質は高く、サービスの種類も大きくなる。
 なーるほど、ですね。
 加賀屋は巨大旅館です。そのピーク時には一晩で1000食を調理し、供給する。そこで、料理のロボット搬送システムがあって、間違わない仕組みが出来あがっている。
 1500人ほどの収容能力をもつ加賀屋敷蒲団は3000枚。冬用と夏用がそれぞれいるので、常時6000枚という蒲団が必要。冬用の座蒲団は3000枚。夏用が1500枚。宴会場でつかう座蒲団が1000枚。ひえーっ、いずれもケタ違いです。
 土産物を売る売店が扱う商品は2100。旅館の売上げも全国ナンバーワン。加賀屋は、年に5回、3種類ずつ、部屋に出すお菓子を季節ごとに変えている。物販課のオリジナル商品だ。これは、すごーい。だから、土産物を売る店の実績単価は1人4000円を下回らない。うむむ、なんということ。これも、すごい、すごーい。
 一人ひとりのお客を大切にするという加賀屋は、実は、従業員をとても大切にしていると書いてあります。それが本当なら、すごくいいことですよね。そこで働く人が気持ちよく働いていれば、迎えられるお客も心が安まる空間が自然にできあがることでしょう。
 従業員のサービスがいかにもマニュアルどおりというホテルにぶつかると、いやなものです。私の定宿の一つとしている大きな外資系ホテルは、それこそ20年以上も通っていて、そこのゴールドカード会員になっているのに、このところホテルでチェックインするたびに、クレジットカードの呈示を求められます。まさしくマニュアルどおりです。誰でも一律にマニュアルを適用されると不愉快ですよね。それでも私がそこに泊まり続けるのは、朝6時からプールで泳げるからです。なぜか私の知る限り、内資系ホテルで、そんなに朝早くから泳げるところはありません。
(2006年9月刊。1680円)

2007年9月 6日

プロになるための文章術

著者:ノエ・リュークマン、出版社:河出書房新社
 書き出しの何ページかを仔細に読めば、全体の見当がつく。1ページ目にとんちんかんな会話があれば、その先、どの頁にもきっととんちんかんな会話があると思っていい。
 書き出しの5ページをお粗末と思ったら、念のため中ほどへ飛び、さらに巻末を見る。都合3ヶ所を拾い読む。これで原稿は評価できる。
 なーるほど、たしかにそうでしょう。といっても、私の文章については、ぜひ最後まで読んでください。お願いします。
 文章家として高度の水準を達成するために何にもまして重要なのは自信である。正面から創造の世界へ足を踏み入れる揺るぎない自信がなくては物書きはつとまらない。
 いやあ、そう言われてもですねー・・・。私には、自信なんて、ありませんよ・・・。うーん、困りました。
 もちこまれた原稿を没にするのにもっとも手っ取り早い方法は、形容詞と副詞の多用、誤用を洗い出すこと。
 形容詞や副詞を多用する書き手は、ともすれば表現が月並みである。
 形容詞や副詞に重複があると、一つだけ残してほかは削る。そのとき、もっとも印象の強い、新鮮な語彙を活かすようにする。
 修飾語なんか必要としないだけの迫力がある的確な名詞や動詞をつかいたい。推敲にあたっては、単語ひとつ削れば100ドルの得と思うくらいの気構えが必要である。
 物書きのたしなみとして、語彙は豊富であるべきである。
 言葉は物書きの道具である。言葉に精通していない物書きは道具箱に利器をもたない職人に等しい。語彙を増やすのは物書きのつとめと心得なければならない。
 実は、ここで操觚(そうこ)という漢語がつかってありました。私の知らないコトバです。岩波の国語辞典にのっているはずはない。そう思って引いてみると、なんと、あるのです。無知とは恐ろしいものです。変な自信があったのですが、バッサリ切られてしまいました。詩や文章をつくること、とあります。
 ただし、著者は次のように忠告します。新しい語彙を取り入れるのは大いに結構だ。だけど、それを日常会話や習作でしっかり身につけるのが肝腎であり、覚えたばかりの言葉を右から左へ作品につかうのは考え物だ。日頃つかい慣れない借り物のコトバで文章を書くべきではない。板についていない言葉は、たちまちメッキが剥げる。
 偽らざるところ、原稿を没にするにあたって、まずどこを見るかと言えば、会話である。会話は作者の力量を容赦なくあぶり出す。会話は感性の鏡である。
 会話を情報提供の手段として用いると、登場人物の輪郭があいまいになり、人間関係の起伏、陰翳を損なって、ときには作者自身さえ虚をつかれる人物の成長や、物語の意想外な発展を妨げる。
 会話を情報手段に用いる作家は、えてして筋立て優先で、それ以外には神経が行き届かない。
 会話が現在進行中の出来事を伝えるときは、「語る」のではなく、「見せる」ことが鉄則だ。登場人物に感情移入し、その立場で考えることが肝腎だ。人物は作者の創造だが、ひとたび動き出した人物を、作者は放任しなくてはならない。
 うむむ、そうなんですよね。私もいま体験をもとにした小説を書いていますが、ひとたび創り上げた登場人物は、ペンの思うまま走り出していって、作者といえども止めることができないというのを何度も実感しています。
 作家は、すべからく会話のほかに感情や心理を伝える技法を身につけるべきである。そうなんです。実は、これが難しいんです。
 原稿とは、実に複雑怪奇で油断のならない曲者である。読者に多少の努力を強いることは必要だが、その努力が重荷になってはいけない。読者がページを繰り続けるようでなくてはならないが、気忙しく追い立てるのも好ましくはない。
 うへーん、やっぱりプロになるのは難しそうです・・・。
(2007年6月刊。1890円)

2007年9月 5日

なぜ社員はやる気をなくしているか

著者:柴田昌治、出版社:日本経済新聞出版社
 80年代半ばころから、日本の会社では職場の様子が変わっていった。机を並べた同僚どうしの雑談も含めて、対話の機会が減りはじめた。ほとんどの会社で社内行事が少なくなり、アフターファイブのつきあいも激減している。とくに上司が部下をつれて飲みにいく機会が少なくなった。おやじ文化の後退は、明らかに日本的経営の強み(人間関係の濃さを背景とした強み)を損なっている。
 対話の機会が減ったのは、Eメールが普及してきたせいもある。しかし、メールでは伝えられない大切な情報がある。非データ系と呼んでいる情報が、知恵の創造という場面で果たしている役割は非常に大きい。
 今の若い人は、やる仕事が限定されているために、どうしても全体を見る目が育ちにくい。大局観が養われにくいのだ。全体が見えていない人間は余裕をなくす。見えていないから不安になるのだ。
 たしかにシステム化がすすみ、仕事自体ははるかに効率的になってきている。しかし、なぜか楽にはなっていない。アメリカ流の人事管理が一般的になり、請負や人材派遣があたりまえの状況のなかで閉塞感が蔓延し、会社に対するロイヤリティの低さはすでに世界でも最低クラスになっている。
 この本には棒グラフがついていて、日本人の会社への忠誠心や仕事への熱意は10ヶ国のうち最低だとことが示されています。私は腰が抜けるほど驚いてしまいました。会社人間という言葉は、今や死語になってしまったようです。
 日本人は、忠誠心、熱意がまったくないとした人が24%です。これはアメリカ17%、ドイツ18%、イギリス20% を上回ります。また、忠誠心が非常にあるとした人は9%に過ぎず、アメリカ人29%、イギリス人19%、ドイツ人13%よりもはるかに下回ります。いつのまに日本はこうなってしまったのでしょうか。フリーターが横行し、派遣社員や偽装請負が流行するなかで、日本は変質してしまったのですね。御手洗日本経団連会長は、ますますこの傾向を促進することになるでしょう。それでいいとは、私にはとても思えません。
 サラリーマンの美学とは何か。問題や不満があっても、自分ができる範囲のことだけをして、あとは黙って自分で自分を納得させる。不平不満は口にせず、組織を余計に混乱させないのがサラリーマンの美学だと考えているのである。目の前の利益だけを考えるのなら、会社にとってこれほど都合のいい社員はいない。そして、こういう人が多いほど、組織は見かけ上は、問題なく回っていく。
 派遣社員や偽装請負社員が混在していることによる社内の混乱状態について、著者には、もっと問題点を強く指摘してほしいと私は思いました。
 著者はスポンサーシップの効用を強調しています。初めて聞く言葉でした。
 狭義のリーダーシップと、スポンサーシップのもっとも大きな違いは、その部下に対する見方にある。狭義のリーダーシップでは、部下は指示によって自由に動かせる「駒」として認識されている。駒の評価は、指示された中身をどれだけ正確に実践しうるか、という点でなされる。これに対して、スポンサーシップにおける部下は、内発的な動機の有無で考える力、知恵を出しうる力が左右される主体的な存在として認識されている。
 狭義のリーダーシップでは、仕事上の答えをつくっていくのは、必ずリーダーである。これに対して、スポンサーシップでは、リーダーは自分の考えを押しつけるのではなく、部下の知恵を引き出しながら、一緒に答えをつくっていく。事実を大切にし、対話をくり返しながら知恵を生み出していく創造的な時間が、働く喜びを取り戻し、組織に活力をもたらしていく。
 スポンサーシップが機能している組織では、少々バランスは悪くても、「思い」のある人間のもつポテンシャルがまず評価される。こういう組織では、働くということの中に、何の遠慮もなく、自分の頭をフルにつかって答えを考えることが含まれているから、働くことが即、人の成長につながっていく。したがって、仕事にやり甲斐を感じ、仕事に楽しさを取り戻すことができるようになるし、働くことが、その人の幸せにもつながっていく。
 世の中に多い仕事のしかた、つまり、狭義のリーダーシップが幅を利かしている組織における仕事のしかたでは、部下の仕事はどうしてもマンネリ化しやすい。
 弁護士の仕事もマンネリ化しやすいものの一つです。人の顔こそ違っていても、言うことはほとんど同じ。そういう状況は弁護士なら誰でももっていると思います。そこで、ちょっとした創意工夫をふくめて何らかの知恵を出すようにしないと、たちまちマンネリ化して、意欲が著しく減退してしまうのです。これは、自戒の意味で書きました。
 日曜日、ツクツク法師が鳴いているそばで、ナツメの実を収穫しました。50コほどとれましたので、干して果実酒にするつもりです。サボテンがたくさん可愛い子をふやしましたので、地面におろしてやりました。両手で丸めた大きさ以上には大きくならず、子どもをつくったら親は枯れていきます。もう何代目でしょうか。気がつくと、そばに曼珠沙華の仲間の花が咲いています。次々と咲いていたヒマワリも終わりかけです。酔芙蓉はようやくツボミになりました。庭は秋の気配です。
(2007年5月刊。1575円)

2007年9月 4日

獄中記

著者:佐藤 優、出版社:岩波書店
 著者は外(拘置所の外。つまり社会のこと)にいるとき、速読で、1日に  1500〜2000頁は本を読んでいた。速読とは、ペラペラと頁をめくりながらキーワードを目に焼きつけていく手法。目次と結論部分だけは、少しゆっくり読む。対象となるテーマがなじみのものなら、500頁程度の学術書なら30分、一般書なら15分で読める。そして、ワープロで20分ほどかけて読書メモをつくる。こうやって、1日で 1500〜2000頁の本を読むのは、そんなに難しいことではない。ただし、対象についての知識のない本については、この方法では不可能。どんな本でも斜めに読む方法という速読法はない。まずは、背景となる知識(教養)がどれほどあるかが問題なのだ。
 私は、著者ほど速くは読めません。ただし、一定知識がある分野なら、30分で本一冊を読了するというのは珍しいことではありません。
 締め切りに迫られる作業を抱えていると、他の分野の読書がはかどる。中学校、高校の定期試験勉強中に、その他の分野の読書に熱中したことを思い出す。
 いやあ、これは私にも心当たりがあります。試験と関係ない文学書をモーレツに読みたくなり、つい手にとって読みふけってしまうのです。そして、あわてて試験勉強に戻るという経験を何回もしました。ところが、その試験が終わって、ゆたーっとした気分に浸っているときには、ほとんど本を読む気がおきないのです。時間はたっぷりあるはず、なのですが・・・。
 人間は20歳前後で形成された人柄というのは、なかなか変わらないと思う。
 著者はこのように書いています。なるほど、私の場合にも、大学2年生のころに変わったままの考えを今もひきずっていますし、性格はそれ以前のものが、そのまま、という気がしています。意識的に人を変えようとしても難しいのですよね。それでも、私は学生のころ、セツルメントというサークルに入って、自己変革の必要性を大いに議論していました。人は変わるものだ、という確信をもつことも必要なのだとも思うのです。
 田中真紀子を政権中枢から排除しただけでも、鈴木宗男は日本の政治のために大きな貢献をしたと思う。
 著者はこう書いています。たしかに田中真紀子は一種の性格破綻者なのでしょうね。そんな人物を小泉純一郎が外務大臣に任命したことは大きな誤りでした。しかし、いずれ遅かれ速かれ、田中真紀子は馬脚をあらわして失脚していたのではないでしょうか。ですから、鈴木宗男が、そのことで日本の政治のために大きく貢献したと言われたら、ええっ、と大きな違和感を覚えてしまいます。
 1968〜73年くらいの大学が全共闘運動で機能不全に陥った時期に学生だった人々が、いま外務省の幹部になっている。この人たちは、一番重要な時期に基礎的な勉強をしていない。しかし、競争好きで政治的には悪ズレしているので、自らの権力を手放そうとはしない。団塊の世代である。この連中は、自分より上の世代の権威は認めないが、下の世代の台頭も許さない強圧的なところがある。この世代が去らない限り、外務省の組織が本格的に変化することはない。
 うむむ、私の属する団塊世代は、いわば保守反動の集団みたいですね。1968年6月から1969年3月ころまで、1年近く東大駒場で授業がなかったこと自体は事実ですが、「基礎的な勉強を(まったく)していない」と決めつけられると、つい反発したくもなります。ゼミと授業だけが基礎的な勉強ではないんじゃないの、と言いたいわけです。それでも、著者の指摘が半ば以上あたっていることは認めます。
 著者は獄中で学術書を200冊読み、60冊のノートを書いた。
 たいしたものです。日頃の教養の幅と深さの違いです。著者は拘置所に入って、まずはヘーゲルと聖書研究を始めたというのです。なかなか出来ることではありません。
 著者の学んだ同志社大学神学部は語学のウェイトが高く、英語、ドイツ語、現代と古典のギリシア語、ヘブライ語、ラテン語が必修だった。そのうえ、朝鮮語とサンスクリット語にも取り組んだといいます。自他ともに認める語学力のない私など、声も出ません。
 1日でA4 のペーパーを50〜60枚つかい、1本のボールペンを1週間で使い尽くしてしまう。そんな生活を送ったというのです。恐るべき人物ではあります。

2007年8月31日

選挙の裏側って、こんなに面白いんだ!

著者:三浦博史・前田和男、出版社:ビジネス社
 三浦博史は「保守」系の選挙プランナーとして、200近い選挙に関わってきた。前田和男は、民主党の辻恵弁護士の当選など、「革新」系の数十の選挙に関わった。
 2007年の東京都知事選で三浦は石原陣営の選挙参謀として、前田は浅野陣営の「勝手連」として対決した。
 いま、日本の選挙の投票率は、統一地方選挙で5割以下、今度の参院選でやっと6割近い。これではいけない。勝っても負けても選挙は面白い。みんなで行こう、投票所へ。
 私も、これには大賛成です。日本もフランス並みに8割の投票率にならないとダメですよね。私は、つくづくそう思います。
 選挙にお金がかかるのは常識だ。事務所の維持費や人件費などで、月200万円としても、3年で7200万円かかる。自民党の中堅代議士は、事務所とスタッフの維持だけで月500万円以上が必要だとしている。だから、一般には年に1億円、3年の準備期間をおくと3〜4億円ということになる。
 選挙運動では、革新といえば中高年、いまだに年寄りが中心にすわって、世代交代がすすんでいない。自民党保守系のほうが世代交代が早く、いまでは30〜40代が中心になっている。選挙は若手が生き生きしているところが強い。
 有権者は、好感がもてるから入れた、顔で選んだというケースが多い。年配の女性は圧倒的に若い男性が好きだし、年配の男性は若い女性を好む。そして、年配の人に人気のある若い候補は、男女問わず選挙に強い。かわいげがあって、けなげで、母性・父性本能をくすぐるような若い候補が選挙に強い人材だ。
 自民党は電通一本に頼らず、フラップジャパンという独立系のPR会社も採用した。民主党は電通Y&Rと博報堂が担当。
 候補者の演説も、声をつぶすような絶叫は忌み嫌われる。というのも、人は、はったりや嘘を言うときには、声が大きくなる。それを有権者は知っているからだ。
 候補者の話は変える必要はない。自分の得意なものを自分の言葉でくり返して話す。これが一番。民主党にはセクシーな候補者が多い。よくよく調べると、自民党から出たかったけれど、出れなかったので民主党にまわった。それで自民党も反省して公募制をとった。
 なーるほど、自民党も民主党も政策的にはまったく変わらないということですね。
 やたらと人がうろうろしている騒々しい選対は実は弱い。強い選対ほど、人が出払っていて事務所のなかは閑散としている。うむむ、そうなんですか・・・。にぎやかなほうがいいものだとばかり思っていました。
 街頭宣伝でウグイスよりもカラス(男声)のほうが受けが良い場合も出てきた。昼間、外にいるのは女性のほうが多いときには、男性の声で呼びかけたほうが効果的。
 革新陣営の選挙は、若い層を大切にしない選挙、自己満足の選挙をやっている。若い人をとりこみたいのなら、ブログ対策やIT対策をもっとすればいい。
 日本の若い層に革新はいない。
 うむむ、そう言われたら、たしかにそうなんですね。トホホ・・・。反省させられました。
 28日の夜は帰宅する途中に月食を目撃しました。不気味な紅い月でした。夜、寝る前にベランダに望遠鏡を出して再び皓々と明るさを取り戻した満月を眺めました。月のあばたが本当によく見えます。噴火口やら、谷や川などです。私の真夏の夜の楽しみです。ふと気がつきました。天空に大きな物体があるのに、なぜ落ちてこないんだろう。昔の人は、この疑問をどう解決したのだろうかって・・・。天空を眺めていると、いろんなことが思われます。そして、そのうち心安らかに眠ることができます。ありがたいことです。
(2007年6月刊。1300円+税)

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