弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
人間
2009年7月27日
単純な脳、複雑な「私」
著者 池谷 裕二、 出版 朝日出版社
日本の高校で、高校生相手に話をした内容が本になっていますので、大変分かりやすく、しかも興味深い内容が満載です。うへーっ、脳って、こういうものなんだ。人間って、こういう存在だったのか……、と目からウロコの数々です。さあ、読んでみましょう。
人間は、長時間接しているほど好きになってくる。これは脳の性質による。社内結婚が多いのは、そのため。何度も会っていると、もうそれだけで好きになってしまう性質が脳にある。なーるほど、ですね。だましの手口として、足しげく通っているうちに、甘い話に断りきれなくさせるというのがあります。
恋愛関係にあるのか自信がないとき、周囲から反対されると、緊張してドキドキしてしまう。ところが、このドキドキ感を脳は相手がより魅力的なのだからこうなるんだと間違ってラベルづけしてしまい、どんどん好きになっていく。うむむ、だから本心で反対したいときには、表面上は反対せずに放っておいたほうがいいのですね。
直感は意外と正しい。というのは、直感は学習、つまり本人の努力の賜物(たまもの)だから。直感は訓練によって身につく。経験に裏付けられていない勘は、直感ではない。
大人になっても、成長する脳部位が2つある。一つは前頭葉で、もう一つは基底核である。直感は、年齢とともに成長していくのである。
記憶というのは、覚えていると意識できること、「これは私が覚えている内容」というものばかりではなく、もう一つのタイプもある。
たくわえた情報は、それ単体で思い出されるのではなく、そこに付帯された情報によって影響を受け、記憶そのものがすり替わってしまう。つまり、人間の記憶というのは都合よく捻じ曲げられてしまうものなのだ。情報は、きちんと保管され、正確に読み出されるというより、記憶は積極的に再構築されるものなのである。とりわけ、思い出すときに再構築される。
記憶は、生まれては変わり、生まれては変わる。この行程を繰り返して行って、どんどんと変化していく。だから、「見た」という感覚というものは、怪しいものでしかない。そうなんですよね。私も、大学時代、紛争の最前線にいたことは間違いないのですが、たとえば寮食堂で開かれていた代議員大会が全共闘の集団に襲われたとき、寮食堂の中に代議員としていて襲われたのか、外にいて救援活動をしていたのか、今なお自分の体験が思い出せません。今のところ、内側にいて襲われたことにしているのですが……。ちなみにこのとき、かの有名な舛添要一大臣は中にいて、10人の代表団のメンバーに立候補したのですが見事に落選しました。これは記録が残っていますので間違いありません。彼は当時から右翼的行動をしていて、学生のなかに支持を集めることができませんでした。
感情と行動はどちらが変えやすいか。既成事実を変えるのは大変だが、心の方は容易に変えられる。だから、脳は感情を行動に整合するよう変化させてしまう。
むひょう。そうなんですね。そんなことまでするのですか……。
脳は、現に起きてしまった行動や状態を、自分に納得のいくような形で、うまく理由づけして説明してしまう。現状に合わせて都合よく説明するのが脳の働きである。ええっ……。
人間って生き物は、主観経験の原因や根拠を無意識のうちにいつも探索している。ぼくらは本当は自分が道化師にすぎないことを知らないまま生活している。根拠もないくせに妙に自分の信念に自信をもって生きている。
脳は、ノイズから生まれる秩序をエネルギー源として用いているため、外部供給として必要なエネルギー量はわずか1日400キロカロリーで済む。電力量に換算すると、20ワットという驚くべき少量のエネルギーである。
脳、そして人間を知り、考えさせられる本です。
(2009年6月刊。1700円+税)
2009年7月21日
「流れる臓器」血液の科学
著者 中竹 俊彦、 出版 講談社ブルーバック新書
血液は体外に置くと15分間以内に自然に凝固する。出血を最小限に食い止める防御能力である。
赤血球には細胞内に核や顆粒がなく、自然に変形することができる。
血小板は、いち早く損なわれた場所を見つけ出し、多数の血小板が集まってケガの表面を覆って、出血を防ぐ。血液が自然に固まる現象(凝固)と、出血が止まる現象(止血)とは、似ているけれど異なるもの。止血は、血小板の働きによる。凝固とは、血漿に含まれる多くの凝固因子がいくつもの反応段階を滝のように下って進むメカニズムである。
ヒトの血液量(重さ)は、体重の7.7%。私のように体重が65キロある人間では、5キロもの血液が体内を循環していることになります。重さからすると、最大級の臓器であり、まさに「流れる臓器」といえる。
心臓は握りこぶしほどの大きさであり、一回の振動で80グラム(ミリットル)の血液を送り出す。コーヒーカップ半分ほどの量である。しかし、これを1分間に72回も繰り返しているから、1時間で5.5リットル、1日にすると8千リットル、つまり8トンにもなる。こんな動きを平均80年間も休みなく続けられるポンプを人間は今も作ることが出来ない。人間の身体中の血液は1分間ですべて入れ替わっている。
首の長いキリンは、最高血圧は200~300ミリもある。キリンの首の付け根にワンダーネットという血管の塊があり、一時的にそこに血液をためて血圧が高まるのを防いでいる。
人間は汗をかくことが唯一の積極的な体温冷却法である。そのため、水分が不足した状態が続くと十分に放熱できず、ついには熱射病となって意識を失い、倒れてしまう。
血液中の脂肪分は、タンパク質のカプセルに入った状態(リポタンパク)で循環しているので、脂肪分のために血液がベタベタになることはない。サラサラとかドロドロとか言う言葉は、広告宣伝のための無理な表現にすぎない。
健康な血流も、液体として見ると、もともと自力では血管内を流れることのできないほど、ドロリとしている。むしろ、サラサラ流れたら、そっちのほうがよほど不健康な状態である。
血液型の自己申告は、医療現場ではまったくあてにしていない。
血液型性格判断は、全くのウソであり、それに科学的な根拠のないことはすでに十二分に明らかになっている。A型とかAB型とかで一喜一憂する必要などないと、つくづく思います。まあ、スナックなどで場を持たせるための話題にはなるのでしょうが。
コレステロールは、なくてはならない大切な栄養素である。いくつかのホルモンの原料になるし、細胞膜の重要な成分でもある。そして、コレステロール値が低すぎると、うつ病になりやすく、むしろ脳卒中やガンのリスクが増えて死亡率が高くなる傾向にある。実は、先日の人間ドッグでコレステロール値が高いという指摘を受けました。あまり心配ないことのようで、安心しました。
(2009年2月刊。820円+税)
2009年7月 6日
ゆびさきの宇宙
著者 生井 久美子、 出版 岩波書店
表紙裏に書かれている文章を紹介します。
目が見えず、耳も聞こえない。ヘレン・ケラーと同じような障害をもつ東大教授・福島 智。羽をもがれるようにして、光と音を失って育つ。3歳で目に異常が見つかり、4歳で右眼を摘出。9歳で左の視力も失う。14歳で右耳、そして18歳ですべての音も奪われ、盲ろう者となる。
無音漆黒の世界にたった一人。地球からひきはがされ、果てしない宇宙に放り出されたような孤独と不安。それを救ったのが母の考案した指点字と指点字通訳の実践だった。盲ろう者として初めて大学に進学。いくつものバリアを突破してきた。そして、恋も結婚も……。でも、生きること自体が戦いだ。
いやはや、すさまじい戦いです。私など、ついつい尻ごみしたくなるような障害に、ユーモアたっぷりに挑戦してきたひとがいるのです。人間の能力に限界ってないんだな。心の底から、そのことを確信させてくれる、いつのまにか元気の湧き出る本です。最近ちょっとくたびれたな。そんなときのあなたにぴったりの本です。
さあ、頁をひらいてみましょう。堅苦しさを感じたり、息詰まる思いをさせることのほとんどない本です。ああ、本当に大変な人だな。それでも、なんだ、私なんかとちっとも変らないんだな。そんな思いにしばしば駆られます。
指点字とは、6つの点で表す点字の仕組みを応用して、盲ろう者の両手の人さし指、中指、薬指の計6本の指先の手の甲側に指先でポンポンと打つもの。本のうしろに図解もありますが、馴れるまでは大変そうです。
盲ろうの人は、世界に人口1万人に1人の割合以上はいる。日本にも2万人ほどいると推定されている。盲ろうは、感覚器における全身性障害である。盲ろうは、限りなく情報が削り取られた状態である。盲ろう者は、内部で戦場体験をしている。
弱視のときには、もっと視力が落ちるかもしれない、そのストレスを感じる。しかし、全盲になったら、これ以上悪くなりようがないと心が安定して、明るい人間になる。
そういうものなんですかね、人間って……。
自殺を考えたことはない。あわてなくても、いずれ、みんな死ぬんだから。
いやあ、すごい達観です。これを、まさしく悟りを開いた境地というのでしょうね。
夫婦げんかも指点字でする。妻は指点字で夫に不満をぶつける。夫は口で言い返す。しかも、口八丁。白を黒と言いくるめることだってできる。妻は泣きながら指点字で応戦する。しかし、その声は夫には聞こえない。指がもつれる。もつれると夫は読みとれなくなり、お互いにイライラして感情的になる。
うひゃあ、夫婦げんかも手をつなぎながらやるのですね。すごいですよ。
福島智は、2005年3月、適応障害と診断された。25年間の盲ろうという極限状態のストレスの蓄積からだ。なるほど、そうなんですね。フツーの人だからなったのですね。
福島が右手をほおに当てるロダンの考える人のポーズをとるときには、誰も僕に指点字を打つなというサインだ。通訳を受けていても、オレが発言するんだというときには、指を丸めて他者の発言を受け付けないポーズをする。
福島の公式の場での次のスピーチは、笑わせます。こんなことを堂々と言えるなんて、いやはや、なんともたいしたものです。
9歳で失明し、18歳で聴力を失って、全盲ろうになった。9年ごとに何かを失って……。27歳でビールの飲み過ぎで腹が出てスマートさを、36歳で髪が薄くなってきて若さを失って。でも、45歳で博士号を得て、これからは何かを得ていく人生になるのかなと思っている……。
福島は、2001年に東大教授となった。2008年5月、学術博士号をとった。福島研究室は、駒場の東大第二キャンパス3号館の5階にある。
福島が文献の引用箇所を決めるには、全体を読まなくてはいけない。点字は、斜め読み、速読、ざっと内容を掴むことができない。パソコンも一度に一行しか指では読めない。
点字と指点字をつかう福島にとって、指は目であり耳。過酷な作業のため、腱鞘炎に苦しんだ。うむむ、大変なんですね。速読、いのち。そんな私には、とても想像すらできません。
障害者の問題は、社会の本当の豊かさの実態を示すショーウィンドウである。
まさにそのとおりだと思います。
先週は大雨となり、カラ梅雨にはならなかったようです。雨上がりの朝、ウグイスが澄んだ音色の鳴き声を響かせてくれます。もう一種の小鳥は、さらに甲高く清澄な歌をさえずってくれるのです。オオルリかなと思うのですがはっきりしません。
アガパンサスの青い花にマルハナバチが頭からもぐりこみ、丸くお尻を見せるのがとてもかわいらしいんです。同じようにグラジオラスの花にも頭を突っ込んでいます。
(2009年4月刊。1800円+税)
2009年6月14日
老後も進化する脳
著者 リータ・レーヴィ・モンタルチーニ、 出版 朝日新聞出版
著者はなんと、1909年生まれ。ええっ、100歳ではありませんか。はじめ目を疑いました。ムッソリーニの反ユダヤ人政策のためにタリアを脱出し、ベルギーそしてアメリカに渡って研究を続けた脳神経の研究家(女性)です。1986年に、ノーベル生理学・医学賞を受賞しています。そして、2001年からはイタリア上院の終身議員なのです。
そんな著者の紡ぎ出す言葉ですから、千釣の重みがあります。
人生でもっとも恐るべき悲哀の時期と見なされている老年期を、いかにして生涯でもっとも晴れやかな、それまでに劣らず実り多き時期にするのか。
人生ゲームに賭けられたものは大きい。人生ゲームにおいて最大の価値をもつ札とは、自らの知的・心理的活動を巧みに運用する能力であり、それは一生、ことに老年期において一層ものを言うようになる。
理屈では、人類のすべての個体にその切り札が備わっていることになるのだが、それを活用できる条件に恵まれているのは、ほんのわずかな人々にすぎない。
人は、60歳、また70歳を超すと、毎年10万単位で脳細胞を失っていると考えられる。この莫大な損失は、老年期の創造的活動などとうてい不可能と考えたくなるほど、ドラマチックに感じられるかもしれない。しかし、脳を構成する神経細胞数がどれほど天文学的数字であるかを思えば、実は、たいした数ではない。すなわち、人間の脳は年齢(とし)をとるにしたがって、一部のニューロンを失い、生化学的に変質するのは事実である。しかし、それにもかかわらず、その変化は多くの個体において、認識能力や想像力の減退をほとんどもたらさない。
人間には死の自覚がある。しかし、それにもちゃんとした対抗手段が存在する。私たちには、とてつもない脳の能力があることを自覚すればいいのだ。この能力は、他の器官とは異なり、いくら使い続けても消耗しない。それどころか、さらに強化され、それまでの人生を営んできた活動の渦の中では発揮しそびれた素質を改めて輝かせてくれるのである。
還暦の年齢になり、この10年間をいかに充実したものにするか真剣に考えている私ですが、この本に出会って、脳こそ疲れを知らず、消耗することもなく、絶えず発展していける存在であることを改めて認識し、自信を持って次に足を踏み出すことができそうです。
蛇(じゃ)踊りを体験しました。見ていると感嘆そうですが、やってみると意外に難しいことがわかりました。
解説によると、龍の尻尾がぴくぴくと動いているのは、龍がいらついていることをあらわしているとのこと。龍の身体がくねくね回るとき、こんがらがらないようにする秘訣があるのですね。
トランペットよりずい分と細長いチャルメラは、物悲しげな甲高い音をたて、ジャランジャランと銅鑼が叩かれるなか、龍が玉を求めてくねくねと踊るのは勇壮なものです。いい体験をさせてもらいました。
(2009年2月刊。1600円+税)
2009年5月14日
動的平衡
著者 福岡 伸一、 出版 木楽舎
各紙の書評で取り上げられ、注目していた本です。うむむ、なるほど、そうなのか……。うんうん、唸りながら読みました。期待にたがわず、実に面白い、というか興味深い本です。人間って、いったいどういう存在なんだろう、と悩んでいるひとに、特におすすめします。
食べて、寝て、排泄して、人間の身体なんて、まるで管(くだ)みたいなものじゃないか。そんな疑問を持っているひとには、その悩みを解決するヒントが盛りだくさんの本です。
生命現象は、絶え間ない分子の交換の上に成り立っている。つまり、動的な分子の平衡状態の上に、生物は存在している。
食べ物にふくまれる分子が、またたく間に身体の構成部分となり、また次の瞬間には、それは身体の外へ抜け出していく。そのような分子の流れこそが生きていることなのだ。
ヒトの身体を構成している分子は、次々と代謝され、新しい分子と入れ替わっている。それは脳細胞といえども例外ではない。記憶物質なんていうものは脳には存在しえない。分子レベルで記憶する物質的基盤は、脳のどこにもない。あるのは、絶え間なく動いている状態の、ある一瞬を見れば全体としてゆるい秩序を持つ分子の「淀み」である。
人間の記憶とは、脳のどこかにビデオテープのようなものが古い順に並んでいるのではなく、想起した瞬間に作り出されている何ものか、なのである。つまり、過去とは現在のことであり、懐かしいものがあるとすれば、それは過去が懐かしいのではなく、今、懐かしいという状態にあるにすぎない。
タンパク質の新陳代謝速度が体内時計の秒針なのである。そして人間の新陳代謝速度は、加齢とともに確実に遅くなる。体内時計は徐々にゆっくりと回る。しかし、自己の体内時計の運針が徐々に遅くなっていることに気づかない。タンパク質の代謝回転が遅くなり、その結果、一年の感じ方は徐々に長くなっていく。にもかかわらず、実際の物理的な時間は、いつでも同じスピードで過ぎていく。つまり、年をとると一年が早く過ぎるのは、「分母が大きくなるから」ではない。実際の時間の経過に、自分の生命の回転速度がついていけないということなのだ。
うむむ、なんだか、なんだか、小難しくてよく分かりません。でも、また、なんとなく分かる気もしてくる指摘なのです。
生命体は、口に入れた食物をいったん粉々に分解することによって、そこに内包されていた他者の情報を解体する。これが消化である。タンパク質は、消化酵素によって、その構成単位、つまりアミノ酸まで分解されてから吸収される。タンパク質はアミノ酸にまで分解され、アミノ酸だけが特別な輸送機構によって消化管壁を通過し、初めて「体内」に入る。体内にはいったアミノ酸は、血流に乗って全身の細胞に運ばれる。そして細胞内に取り込まれて新たなたんぱく質に再合成され、新たな情報=意味を紡ぎ出す。
このように、生命活動とはアミノ酸というアルファベットによる不断の並べ替え(アナグラム)であるといってよい。
私たちが食べたものは、口から入って胃や腸に達するが、この時点では、まだ本当の意味では体内に入ったわけではない。まだ、身体の「外側」にある。体内にいつ入るかというと、消化管内で消化され、低分子化された栄養素が消化管壁を透過して体内の血液中に入ったとき。
食べ物とは、エネルギー源であるというより、むしろ情報源なのである。だから、身体の中の特定のたんぱく質を補うために、外部の特定のタンパク質を摂取するというのは、まったく無意味な行為なのである。
消化管内は、食べた食品タンパク質と、これを解体しようとする消化酵素が、ほぼ等量、グシャグシャに混じり合ったカオス状態にある。そして、消化酵素もまたタンパク質なので、最終的に消化酵素は消化酵素自身も消化し、アミノ酸になる。それらは、再び消化管壁から吸収される。消化管内でひとたびアミノ酸にまで分解されると、それはもともと食品タンパク質だったのか、消化酵素だったのか見分けはつかない。つまり、人間は食べ物とともに、自分自身をも食べているのだ。
ふむふむ、難しい生命の神秘が、実に分かりやすく(でしょうね)解き明かされています。読んで絶対に損をすることはない本だと私も思いました。
(2009年3月刊。1524円+税)
2009年5月 4日
西太后の不老術
著者 宮原 桂、 出版 新潮新書
高麗人参は現在、そのほとんどが栽培物である。収穫するまでに6、7年かかるうえに、畑の養分を全部吸収してしまうため、収穫後の数年間は畑を休ませる必要がある。そのため、栽培物であっても高価である。野生種となると、栽培物の50~100倍の値がつく貴重品だ。
清朝の皇帝のうち、乾隆帝の長寿の秘訣は「参麦飲」にあった。高麗人参と麦門冬(ばくもんどう)という二つの生薬(しょうやく)から構成されていた。高麗人参は「百草の王」とも呼ばれ、清代には、良質なものは同量の黄金の値を上回った。す、すごいですね、これって。
西太后は、日頃から高麗人参の切れはしをそのまましゃぶっていた。高麗人参には、消化器系と呼吸器系を補強するだけでなく、血圧調節作用もある。
高麗人参は、ウコギ科オタネニンジンの肥大根で、その効能は元気を補い、消化器系を健やかにし、からだを潤し、精神を安定させ、思惟活動を活性化する、つまり幅広くからだを助ける。
ストレスにもめげず74歳まで長生きした西太后の食生活を、カルテなどをもとに追究した本です。不老長寿とまではいかなかったわけですが、滋養強壮力の強い生薬を用いた薬膳料理を好んだのでした。
私も、実は20年来、高麗人参酒を愛飲しています。おちょこで一杯のむのが毎晩の楽しみです。
(2009年3月刊。1100円+税)
2009年5月 1日
がん哲学外来入門
著者 樋野 興夫、 出版 毎日新聞社
今日、日本国民の2人に1人はがんにかかり、3人に1人はがんで死んでいる。2006年の死者は33万人。これは秋田県や大津市の人口に匹敵する。うひゃー、すごいです。
ただし、がんになった人の約半数が治る時代になった。ああ、よかったです。
がん細胞は、正常な細胞ががん細胞に変化(がん化)したもの。ウィルスはがんのトリガー(引き金)の役回りではある。がんは感染しない。ふむふむ、なるほどです。
正常細胞を試験管の中で培養しようとしても、長く生きることはできない。細胞分裂を50回ほど繰り返したら、その先は増えない。ところが、がん細胞は、人間の体内と同じ37度の環境をつくり、それなりの栄養補給をすれば、永遠に生き続ける。現に、1951年に亡くなった人のがん細胞が、今なお培養液の中で生きている。な、なんと、すごい、すごい。
がん細胞は飢餓状態に弱い。がん細胞は熱に弱い。1センチのがん組織の中に、がん細胞は10の9乗個、10億個もある。がんの初期の成長スピードは、おそろしく緩慢で、死につながる一人前のがんになるまで10~20年かかる。む、む、む。ヒトはがんと共存しているんですね。そうと分かれば、共存共栄とはいかないものでしょうかね・・・。
日本では、がん治療の70%以上が外科手術。もう一つの治療の柱である放射線治療は25%程度で、欧米に比べてかなり低い。そうなんですか……。
遺伝性がんは5%、食生活など環境因子によるがんが70%。原因を特定できないがんが25%となっている。だから、遺伝との因果関係に悩む必要はない。なるほど、ですね。
日本人のがん患者の3割が、生きる希望を失って、うつ的症状を呈す。うつ病ではない。そこで、著者は、内村鑑三の次の言葉をがん患者に贈ります。
勇ましい、高尚な生涯。つまり、善のために戦う、真面目な生涯そのものが、もっとも尊く価値のあるもの。あなたには、死ぬという大切な仕事が残っている。どんな人にも、死は最後の大舞台なのである。がんは最期まで頭が働き続ける病なのだから、自らの手で「大切な仕事」を成就して終えてもらわなければならないのだ。
いやあ、そう言われると、そういうものなんでしょうが……。まだ、もう一つ、そこまでの悟りはとても開けませんね。
できれば、天寿と思われる年齢に達したころ、がんで死ぬ。これが理想だ。なるほど、この点はよく分かりました。がん哲学外来という、耳慣れないものをはじめた著者の話は、傾聴に値するものと思います。
(2009年1月刊。1700円+税)
2009年4月23日
奇跡の脳
著者 ジル・ボルト・テイラー、 出版 新潮社
37歳の若さで脳卒中に倒れた女性脳科学者が、8年後に見事カムバックしたという、奇跡そのものの実話です。本人が脳卒中に倒れた直後の状況を生々しく再現しているのも驚きです。実況中継しているかのようです。
著者が脳卒中を起こして倒れたのは、1996年12月10日の朝7時のこと。
眠たくて仕方がなかったとき、突然、左目の裏から脳を突き刺すような激しい痛みを感じた。のろのろと起き上ったものの、目の後ろのズキズキする痛みは鋭く、ちょうどカキ氷を食べたときにキーンとくる、あの感じだった。
茫然自失のうちに、ズキンズキンとする激痛が脳のなかでエスカレートしていく。
頭の中に、予想外の騒音が、鋭敏になって、痛む頭を直撃した。
何が起きてるの? こう自問した。正常な認識能力は途切れがちで、無能力状態になっていたが、どうにか身体を動かしてみた。脳は酩酊状態のような感じ。からだは不安定で重く、動きも非常に緩慢だ。右腕は完全に麻痺して、からだの横に垂れ下がってしまった。
これほど劇的に精神が無力になっていくのを味わっていても、左脳の自己中心的な心は、生命は不死身だという信念を尊大にも持ち続けていた。いずれ完全に回復できると楽観的に信じていた。
まったく自覚のなかった先天性の脳動静脈奇形によって大量の血液が大脳の左半球にどっと吐き出された。左脳にある高度な思考中枢に血液が降り注いだため、認知能力の高い機能が失われていった。
これまでの、からだの境界という感覚がなくなり、自分が宇宙の広大さと一体になった気がした。まぶたの内側では、稲光の嵐が荒れ狂い、頭では雷に打たれたかのような耐え難い痛みが脈動している。体の向きを変えようとしても、限界以上のエネルギーを必要とした。空気を吸うだけで、肋骨が痛む。目を通して入ってくる光が、火炎のように脳を焼く。しゃべることができないので、顔をシーツに埋め、明かりを暗くしてくれるように訴えた。
著者は精神的には障害を抱えたものの、意識は失わなかった。人間の意識は、同時に進行する多数のプログラムによって作られている。
外部の世界を知るための知覚は、左右の大脳半球のあいだの絶え間ない情報交換によって、見事に安定している。皮質の左右差によって、脳のそれぞれ半分は少しずつ違う機能に特化し、左右が一緒になったときに、脳は外部の世界の現実な知覚を精密に作ることが出来る。
自我の中枢と、自分を他人とは違う存在とみる左脳の意識を失ったが、右脳の意義と、からだを作り上げている細胞の意識は保っていた。
いつもは右脳より優勢なはずの左脳が動かないので、脳の他の部分が目覚めた。
脳卒中は、現代社会でもっとも人を無力にする病気である。そして右脳より左脳の方で、4倍以上の確率で脳卒中が起きていて、言語障害の原因になっている。
脳が治っていく過程で、一番力を発揮するのは脳である。そして、睡眠のもっている治癒作用に重きをおくことが大切だ。睡眠、そして学習と認知の訓練の間を縫って睡眠を取ることを大切にすべきだ。
うまく回復するためには、できないことではなく、できることに注目するのが非常に大切。成功の秘訣の一つは、回復するあいだ、自分で自分の邪魔をしないよう意識的に心がけること。感謝する態度は、肉体面と感情面の治癒に大きな効果をもたらす。
統合失調症と診断された人の多くが動く物体を見るときに、異常な眼の反応を示す。
すごい本です。これほど脳卒中で倒れた現場からの、生々しい体験レポートというのはないのではないでしょうか。そして、脳の回復力にも圧倒されます。あきらめるのは早すぎるのです。
(2009年3月刊。1700円+税)
2009年2月 9日
もうひとつの視覚
著者:メルヴィン・グッデイル、 発行:新曜社
見えるというのはどういうことか。「見えない」のに見ている現実がある。意識としては見ていなくても、実は見ているというわけなのです。いやあ、人間の脳の仕組みって、本当に複雑なんですね。限られた容積内の脳を活用するとしたら、要するに組み合わせを変えていくしかないのだと、最近、私も思うようになりました。
この本に主人公として登場してくる女性はイタリア北部の村でプロパンガス中毒(一酸化炭素中毒)で危うく助かったものの、脳の一部が損傷してしまいました。彼女は外見上は何の障害もないように思われたのに、本人からすると何も見えなくなってしまった。ところが、形は分からないのに、物の色や濃淡を見分けることができたのです。なんということでしょう。それでも、やっぱり見えないことには変わりがありません。そして、運動能力には影響がなく、記憶や聴覚、触覚なども変わりませんでした。
彼女は、物が「見えない」のにもかかわらず、目の前にあるエンピツを指で正確につかむことができたのです。つまり、意識的な視覚ではない、気づかないところの視覚能力によって、運動できる能力を保持していたというわけです。
視覚システムにおいては、2つがまったく独立している。一つは行為を誘導し、もう一つは知覚を担当する。知覚を担当するのは腹側経路である。これは、外界に関する豊富で詳細な表象を伝えるが、自己を基準にした光景の詳細な計測情報を捨てている。
行為の背側経路のほうは、行為に必要な自己中心座標で、物体の正確な計測値を伝えるが、その計算は一瞬のもので、たいていは選択された特定の目標物に限定されている。この二つのシステムはうまく調和しあう必要がある。たとえば、背側経路は、物体の大きさを計算していて、物体に手を近づけながら、空中で手の開き幅を調節している。
背側経路は、いま現在の視覚入力にほぼ完全に支配されていて、単独では物体の重さを計算できない。背側経路だけでも物体の大きさを計算することはできるが、物体がどんな素材でできているかという点を理解するには、腹側経路が必要である。そして、腹側経路は大きさの計算も材質の計算もできる。結局、腹側経路は、ヒトの知覚体験を構築する上で、休みなく大きさを計算し続けているのだ。
テーブルの上にある物が何かを認識し、そこにある他のものと自分のカップとを区別できるのは腹側経路のおかげである。また、カップの取っ手の部分を選び出せるのも腹側経路のおかげである。しかし、カップの取っ手だと分かり、ある行為を決めてから、取っ手に手や指をうまく持っていけるかどうかは背側経路の視覚運動システムによる。
このように、外界に関する意識的な社会体験は、背側経路ではなく、腹側経路の産物なのである。そして、腹側経路の神経活動と視覚的意識との間には強い相関がある。腹側経路は視覚的意識の回路に必須である。腹側回路がなければ、視覚的意識は生じない。
腹側の知覚経路と背側の行為経路の間には、複雑だが、たえまない相互作用があって、適応的な行動が生み出されている。
うむむ、単に見るというだけでも、それって実は簡単なことではないのですね。とても面白い、脳に関する本でした。
(2008年4月刊。2500円+税)
2009年1月 1日
ヒトのなかの魚、魚のなかのヒト
著者:ニール・シュービン、 発行:早川書房
何十億年にわたって、すべての生物は水中にしかすんでいなかった。そのあと、3億
6500万年前の時点では、生物は陸上にも生息していた。水中と陸上という2つの環境における生活は根本的に異なっている。水中で呼吸するためには、陸上で呼吸するのとは非常に異なった器官を必要とする。排出、摂餌、運動についても同じ。だから、それまでとはまったく違った種類の体を作り出さなければならなかった。
カエルとヒトのあいだには、並はずれた類似性がある。
上腕・前腕・手首や掌さえもつ最古の動物は、ウロコと膜を持っていた。そして、その動物は、なんと魚だった。
歯を知らなくして人体について理解することは、事実上、不可能である。歯を調べるだけで、その動物について多くを知ることができる。歯の隆起、くぼみ、畝(うね)は、歯の持ち主が何を食べていたかを反映している。歯は、動物たちの生活様式をのぞきこめる強力な窓になっている。
哺乳類が持つ、もっとも際立った特徴のいくつかは耳の内部にある。哺乳類の中耳にある骨は、他のいかなる動物のものとも似ていない。哺乳類は、3つの耳骨をもつが、爬虫類や両生類には一つしかない。魚類は一つももっていない。
爬虫類のアゴの一部を形成したのと同じ鰓弓(さいきゅう)が、哺乳類の耳小骨を形成していた。内耳は、流動性のあるゲル状のリンパ液で満たされている。このリンパ液のなかに、特殊化した神経細胞が毛のような突起を突き出している。リンパ液が動くと、神経細胞の末端サービサが反応する。頭を傾けると、リンパ液に満たされた袋の上にある小さな耳石が動く。すると、この「袋状のもの」に入っている神経端末の感覚毛が曲がり、それが「あなたの頭は傾いている」と知らせる。
ヒトの感覚器は、地球の重力化で働くように調整されている。宇宙カプセルの無重力状態で働くようにはなっていない。浮遊しながら、ヒトの眼が視覚的な上下を記録していくと、内耳の感覚器はすっかり混乱してしまい、いとも簡単に気分が悪くなってしまう。宇宙酔いは切実な検討課題である。
ヒトが酒を飲みすぎると、血液中に大量のアルコールを取り込むことになる。耳の管の内部のリンパ液には、最初のうちはほんのわずかしか含まれない。けれども、時間の経過とともに、アルコールが血中から内耳のリンパ液のなかに拡散していく。アルコールはリンパ液よりも軽いので、アルコールが入ってくるにつれてオリーブ油が対流を起こしてリンパ液が渦を巻く。この対流が酔っぱらいに大混乱を引き起こす。有毛細胞が刺激を受けて、脳は自分が動いているのだと考える。しかs、動いてはいない。人の脳が騙されているだけのこと。
ヒトの身体の不思議、魚との異同などが語られている面白い本です。
(2008年9月刊。2000円+税)