弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

中国

2022年11月27日

地図と拳

(霧山昴)
著者 小川 哲 、 出版 集英社

 戦前の満州を舞台とする小説です。630頁もある大作なので、読みはじめてから読了するまで、珍しく1ヶ月もかかってしまいました。
 ところで、驚くのは、オビのキャッチフレーズです。「日本SF界の新星が放つ、歴史×空想小説」とあるではありませんか。ええっ、これがSF小説なの...。私には信じられません。私は満州を舞台とする小説だと思って読んだのに、「歴史・空想小説」だなんて...。そんなこと言ったら、歴史物は、みんな「空想小説」ですよね。
 つまり、たとえば主人公の武将が何を言ったか、どんなことを考えていたのかなんて、みんな作者が空想(想像)したに決まっています。それを、いかに真に迫ったものとして読ませるかに、作者の筆力がかかっているわけなんです。そして、それを私も日夜、精進しているつもりなのです。
 そして、もう一つ驚いたのは、こんな部厚い大作が6月に初版が出て、9月には第三刷だというのです。いったい、SF界では、著者はそれほど有名人なんですか...。ちっとも知りませんでした。
 まあ、ともかく満州を舞台とする本を、私は今、一生懸命に集めて読み込んでいるところです。というのも、私の叔父(父の弟)が、日本敗戦後の戦後、八路軍の要請にこたえて紡績工場の技師として働いていたのですが、国共内戦のさなかでしたので、満州各地を転々と放浪していました。それを叔父の手記をもとにして、それこそ歴史小説にしたいと考えて挑戦しているところなのです。
 この本のすごいところは、満州を舞台としているのですが、なんと、序章は1899年に始まるというところです。日露戦争(1894年)の5年後です。満州の利権を狙って外部勢力としてロシアと日本がつばぜりあいを初めている状況です。いやあ、すごいです。
 そして、1901年、1905年、1909年、1923年、1928年、1932年、34年、37年、38年、39年、41年、44年、最後に45年になります。これだけ細かく経緯をたどるというのは、並大抵のことではありません。完全に脱帽です。大変勉強になった「SF小説」です。
(2022年9月刊。税込2420円)

2022年11月20日

三国志名臣列伝・魏篇


(霧山昴)
著者 宮城谷 昌光 、 出版 文芸春秋

 著者の中国古典ものはかなり読んでいますが、いつも、その豊富な知識量に圧倒されてしまいます。もちろん著者の尽きせぬ想像力も大きいのだとは思いますが、登場人物の性格描写をふくめて、ことこまかな情景描写によって、頭の中に宮城谷ワールドをこつ然と思い浮かべることができるのです。すさまじい筆力です。
 ときは三国志の時代です。ですから曹操や劉備などがもちろん登場します。でも、本書は「名臣列伝」ですので、彼らを支えた「名臣」たちが次々に登場して目の前で大活躍します。
 曹操の奇策や奇襲は、兵法書を読んで発想したのではないか、そう考えている曹真に対して、曹遵は、「兵法書なんか読むな」と言った。兵法書には、薬もあるが、毒もある。主(あるじ)の才能は、そこから薬を取り出すことができること。主の才能に及ばない者は、かえって毒にあたって、兵を失い、身を滅ぼしてしまう。
 戦場は臨機応変の場だ。知識をひけらかす場ではない。兵法書の教えにしばられた者は叩きのめされることがある。戦場は巨大な生き物の背に乗っているようなもので、刻々と変わる戦に勝つためには、軍をひとつの大家族にする。兵士を弟や子のようにいたわり、結束を強靭(きょうじん)にし、しかも将軍の手足のように使えるようにする。すると、兵士は将軍を父のように仰ぎ、水も火も恐れずにすすむ。
 そのためには、兵士が食べ終わるのを待って、将は食べはじめる。兵営に戻るときも、兵士を先に入れる。就眠についても、すべての兵士が眠ったあと、将は眠る、
 いやあ、そこまでやるものなんですね...。
 相手を説得するときに用いる言葉には、適度な重みと浸潤(しんじゅん)性があり、相手の胸の深いところに届く。その言葉は人格から発し、信念の強さをともなっている。
 うむむ、相手を説得するには、こんな要素が欠かせないのですね...。
 『三国志』を久しぶりに読みたくなりました。血、湧き、肉、踊る。冒険小説のように、ひところ、はまってしまいました。私の中学生のころだったでしょうか。
(2021年9月刊。税込1870円)

2022年10月10日

虹色のトロッキー


(霧山昴)
著者 安彦 良和 、 出版 中公文庫コミック版

 戦前、日本は中国東北部を「満州国」として「独立」させて支配していました。そのとき、日本軍部は日本政府と対立・抗争する関係にあり、日本軍部のなかでも暗闘が繰り広げられていました。それぞれの思惑が微妙にからみあって、難しいバランスの下で「満州国」は成り立っていたのです。
 そして、「満州国」には、相当数の白系ロシア人がいました。ロシア革命によって、ボリシェヴィキ・ソ連共産党から追われ、また嫌ってロシアの地を離れて中国に入りこんできたのです。日本軍の一部に、そんな白系ロシアの反共勢力と結びつこうとする動きがありました。本書の「トロッキー」は、そのような動きを象徴するものだと受けとめました。
 1巻から読みはじめて、8巻までを読了するのに、マンガ本なのに1ヶ月近くもかかったのは、満州国をめぐる複雑怪奇な動きを理解するのに骨が折れたからです。
 それにしても、私とほぼ同じ団塊世代の著者のストーリー展開は見事なものですし、絵もよく描けていると驚嘆するばかりです。
 満州に満州国エリート層を養成するための「建国大学」があったことは、このマンガ本シリーズを読む前に知りましたし、このコーナーでも紹介しています。「エリート養成」が看板ですから、思想的な締めつけはほどほどにしておく、つまり、かなりの自由主義教育がすすめられていたようです。でも、しょせん、軍部支配下での「自由」でしかありませんでした。
 満州国の首都は新京と名づけられ、近代的な大通りと豪層な建築物が立ち並びました。現在の長春です。
 そして、ハルビンには郊外に七三一部隊の本拠地があり、3000人以上もの罪なき人々をスパイ容疑などで捕まえ、人体実験の材料(「マルタ」と呼びました)とし、その全員を殺害・焼却してしまったのです。
 満州国で幅をきかせたのは、石原莞爾、甘粕正彦、東条英機そして辻政信らがいます。
 辻参謀は、ノモンハン事件においても、甚大な被害を日本軍にもたらしました。
 ノモンハン事件においては、ソ連軍の圧倒的な軍事力の下で、日本軍(関東軍)は、みじめに敗退していったのでした。
 モンゴル人将軍と日本人青年の出会いと結びつきの強さも登場します。いかにもスケールの大きな、ストーリー展開でした。
 それにしても、8巻シリーズという長編を完結させた著者のすごい力技(わざ)に脱帽します。
(2019年4月刊。各税込692円)

2022年10月 6日

日本人が夢見た満洲という幻影


(霧山昴)
著者 船尾 修 、 出版 新日本出版社

 私は幸いにして大連に行ったことがあります。1回目は旅順には立入れませんでした。2回目で日露戦争で有名な203高地にものぼりました。「のぼった」といっても、歩いてではなく、観光バスです。頂上には「爾霊山(にれいざん。二〇三)」と揮毫(きごう)された実弾型の記念碑が今もそびえ立っています。この頂上から日本軍は当時もっていた陸軍最大の二八センチ砲で、旅順港内に停泊していたロシア艦船を砲撃したのでした。
 私は訪れていませんが、旅順刑務所が建物としてそっくり残っていて一般公開の博物館になっているそうです。ここは、ハルビン駅で枢密院議長だった伊藤博文を暗殺した安重根が収容され、刑死したところでもあります。安重根は今では朝鮮の英雄です。中国でも、「抗日烈士」とされています。
 なぜ伊藤博文が満州のハルビン駅まで行ったのか...。ロシアの外務大臣と満州分割を協議するためでした。二つの帝国が自分勝手に中国を分割して統治しようとしたのです。そんなことは許さないとした安重根の暗殺行為が称えられるのには理由があります。
 奉天も長春(新京)も行ったことはありませんが、日本は満州国統治の過程でどでかい道路と広場をつくり、高層建築物を次々につくっていったようです。しかも、驚くべきことに、中国は、そのまま、多くの日本式建物を残して、今も使っているのです。
 満州国というのは、たかだか13年半ほど存在した「国」にすぎない。
 かつての官公庁の建物は巨大で威圧感がある。ただ、デザインが独特で、美しい。これほどたくさん残っているとは思いもよらなかった。いやあ、著者の撮った豊富なカラー写真が、それを実感させます。
 関東軍の「関東」とは「関」の東側。「関」とは、万里の長城の東端である山海関の東側に位置するということ。
 遼東半島は関東州と名づけられたが、ここは満州国の一部ではない。日本の租借(そしゃく)地という名の領土であった。
 満州(マンジュ)は、文殊(モンジュ)に由来する。文殊菩薩(ぼさつ)は、チベット仏教を信仰する女真族がなかでも崇敬していた。
 清朝の太祖はヌルハチといい、女真族と名乗っていた。その息子ホンタイジが民族名を満州族と改めた。その民族発祥の地を盛京と呼び、その後、奉天、現在の瀋陽となった。
 日本軍に爆殺された張作霖の息子の張学良は満鉄に平行(併行)した鉄道を敷設した結果、満鉄の経営は悪化した。ええっ、満鉄と併行した線路に列車が走っていたというのは初耳でした。満鉄に走っていた特急のアジア号はいかにも格好よいですよね...。
 満州国が日本のカイライ政権であることは明々白々でした。それでも、20ヶ国と国交を結んでいたというのにも驚かされます。南京国民政府も国交を樹立したというのですから、開いた口がふさがりません。そのうえ、国交がなくても、アメリカもイギリスもソ連も満州国に領事館を置いていた。いやあ、そうだったんですか...。
 ちなみに、現在の北朝鮮と国家を樹立している国は164ヶ国もあるとのこと。これまた驚きです。
 私は大連には行ったことがあります。人口600万人という巨大な大都市です。
 戦前は数万人ほどの小都市でした。大連の人口は終戦時に60万人、そのうち20万人を日本人が占めた。そして、満鉄がありました。満鉄の社員は総数40万人。現在のトヨタ自動車の社員が36万人なので、それより多かった。これまた、意外や意外の大きさです。
 この本で、満州国には国籍法がなかったことを知りました。つくれなかったのです。「五族協和」として、満州人、漢人、蒙古人、朝鮮人、そして日本人です。でも、白系ロシア人も大勢いました。日本は二重国籍を認めていない。だから満州国籍を選ぶと、日本国籍を失ってしまう。でも、日本人は、そんなことはしたくない...。なので、国籍法は制定しなかった、というのです。
 満鉄社員は、月給が高いだけでなく、遠隔地手当が充実していて、住宅も提供され、日本企業として破格の待遇だった。
  幻の満州国を今も残る豪壮な建物の写真とともにかえりみる貴重な本でした。
(2022年7月刊。税込3080円)

2022年9月23日

洪流


(霧山昴)
著者 程 極明 、 出版 KKブロス

 日中戦争のころ南京に生まれ育ち、国共内戦下の上海の復旦大学で学生運動の幹部として活動した学生群像を生き生きと描いた小説です。
 1937年夏の南京から物語は始まります。日本が日中戦争を始め、中国に対して無法にも侵略戦争を仕掛けてきました。蒋介石の中国軍は戦わずして撤退し、日本軍によって人々の住む町は無残にも焼き払われ、虐殺が始まります。日本軍に対する抵抗はまだまだ弱いものでした。中国共産党は南京に地下党を建設し、8回も市委員会を設けたが、すべて失敗した。みな殺されるか逮捕された。勇敢なだけでは革命に勝利できない。過去の路線は、あまりにも「左」寄りで、大衆から離反していた。地下党の規律は、もっと厳格でないと、すぐに破壊されてしまう。
 党中央は、密かに素早く、長期に埋伏し、力を蓄え、時期を待つ方針を打ち出した。せっかちにならず、「左」の過ちを犯さず、一時的な衝動に走らない。豪放的なものを利用し、大衆を団結させる。これを少しずつ実践していったのです。まさしく、苦難にみちた粘り強い取り組みがすすめられました。
 大学生たちは、南京のアヘン撲滅運動に立ち上がり、実力行動を起こしました。これには多くの民衆が賛同しましたし、南京政府も日本憲兵隊も手が出せませんでした。
 1945年夏、日本敗戦のあと、蒋介石の国民党政府が南京を支配した。南京の大学に対して、国民党の特務組織(公安当局の手先。スパイ・弾圧機関)が目をつけ、すきあらば弾圧しようと目を光らせた。国民党政府は、3ヶ月で共産党を負かすことができると豪語した。
 アメリカのトルーマン大統領はマーシャル将軍を中国に特使として派遣し、国共両党の軍事衝突を防ぐため、調停を試み、1946年1月10日、双十協定が成立し、停戦が実現した。
 1946年4月、国共内戦が中国の東北地方で始まった。
 1947年2月、毛沢東は「中国の政局は新たな段階に発展しようとしている。全国的に反帝・反封建闘争が発展し、今は新たな人民革命の前夜である」と指示した。 
 学生たちが南京でも北京、上海でも立ち上がった。蒋介石は、学生運動の鎮圧にふみ切った。これに対して、共産党の側は戦略を弾力的で運用することで抵抗した。
中間分子の意識の高まりも見なくてはいけないが、彼らの進歩が高いとみるべきではない。民衆には、休養し、考える時間がいる、進歩分子のレベルだけで大多数の学生を推し量ってはいけない。学生運動は波状的に前進するもので、直線的には発展しない。
 なかなか考えられた指示ですね。革命に勇敢さは必要だが、勇ましいだけで無謀なら、革命大衆の情熱と生命をムダにしてしまう。そのとおりなんでしょうね。よく分かります。
 1948年5月の上海解放の日までが描かれた、手に汗を握るストーリー展開でした。
 地下党活動の様子が、その困難さと知恵・工夫のあり方をふくめて具体的に紹介されています。訳者の井出叔子氏に注文して入手した本です。読みごたえ十分の本でした。
(2022年6月刊。税込1300円)

2022年9月22日

証言・人体実験


(霧山昴)
著者 吉林省社会科学院・中央檔案館 、 出版 同文館

 日本軍が中国で行った最大の蛮行の一つが七三一部隊における人体実験と虐殺です。
 この本は七三一部隊の関係者が戦後の中国で自らの犯した戦争犯罪について、取調に応じて自白している調書を抜粋、編集したものです。見方によっては、中国で元日本兵が
洗脳され、あらぬこと、自分がしておらず、するはずもなかった「自白」を心ならずもしたというのかもしれません。でも、この本に書かれていることの表現ぶりからは、あくまで反省心から真実を吐露しているとしか思えません。
 七三一部隊で工作員として、つまりスパイではなく、単に技術者として働いていた人は、一日に10円ないし20円の収入、多い人は30~40円ももらっていた。毎月20円の食費を差し引いて、家に50~60円も送金すると、手元にお金がほとんど残らなかった。やがて、給料があがり暮らしは豊かになり、故郷の家には1000円ほども送金できるようになった。
ハルビン市の監獄から受刑者を連れていく自動車は、幌つきのトラック2台、座席に首、腰、足をしばる鉄の鎖(くさり)が設置された自動車が1台あった。
 七三一部隊はコレラ菌などを培養し、航空班が上空から細菌をばらまいた。そのため、罪なき中国の人々のあいだにチフスが流行した。ところが、「これは、ソ連が細菌を散布したせいだ」と嘘を言って広めた。
 細菌ビラもまいた。墨汁のなかにペスト菌を入れてビラを書いて、空からビラをまくのだ。
 七三一部隊はハルビンの郊外にあり、平房駅から専用鉄道(3キロの長さ)が内部に入っていた。
 「マルタ」と呼ばれた実験に供される人々は、重い足枷(あしかせ)がはめられ、足を動かすたびに「ガチャガチャ」と鉄の刑具がぶつかる鈍い音がした。これらの人々が反抗をくわだて、素直に殺されないようなときには、警備員はその場で殺すことが許されていた。
 彼らは、人間としての一切の権利を奪われ、「マルタ」と呼ばれ、胸に記されたアラビア数字の番号で扱われた。彼らは、中国人、ソ連人、朝鮮人。女性もいた。多くは捕虜で、19歳から40歳くらい。
 七三一部隊に送るのを「特移扱」と呼んだが、そのためにスパイだとむりやり「自供」させた。水責め、殴打、電気ショック、手の指にエンピツをはさむなどの拷問が加えられた。
 ハルビン香坊にあったソ連赤軍捕虜収容所にいた赤軍兵士を七三一部隊に送っていた。
 毎週2回、トラックでハルビンから七三一部隊へネズミが運ばれていた。ハルビンの小学校に命じて小学生を動員して、ネズミを集めて七三一部隊に送った。チャムス市でも全市の生徒にネズミ捕りをさせ、毎日300匹のネズミを七三一部隊に送った。
 七三一部隊で人体実験の対象となり虐殺された人は少なくとも3000人。部隊の日本人も3000人ほどいた。敗戦時には1500人ほどに減っていたが、それは少し前から内に帰していたから。
 七三一部隊員が自らの犯した悪業を割に素直に自白しているという印象を受けました。
中国とソ連は七三一部隊員は裁判にかけましたが、アメリカは石井四郎と取引し、実験成果を受け継ぐことで、全員を免責してしまいました。東京裁判で彼らが被告人席に立たされ、おぞましい蛮行が少しでも明らかになっていれば、「聖戦」論なるものが戦後日本に定着することはなかったと思います。
七三一部隊は忘れてはいけない日本の負の歴史です。
(1991年3月刊。税込2800円)

2022年9月11日

「大地の子」(上)


(霧山昴)
著者 山崎 豊子 、 出版 文芸春秋

 いま、戦前、応召して中国東北部(満洲)で工兵として働いていた叔父(父の弟)が、戦後、八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)の要請に応じて技術員として紡績工場に働くようになり、結局、1953年5月に日本に帰国するまで、9年ほど中国にいたときのことを調べています。
 この本の主人公・陸一心は、日本が満州に送り込んだ開拓団の孤児として、大変な苦労をします。満州開拓団はまさに侵略者の一員でしたが、その生活は惨(みじ)めなものでした。終戦直前に「根こそぎ動員」によって働ける男たちは兵隊にとられ、開拓団に残ったのは老人と女性と子どもばかり。そこへソ連軍が突如として襲いかかってきて、また、恨みを買っていた現地の人々からも襲われました。
 7歳だった主人公は両親と死別し、妹ともはぐれて中国人にさらわれ、こき使われ、さらには売りに出されました。そのとき、ひょんなことから中国人の良心的な小学校教師に救われ、そこで養われます。地域でも学校でも「日本鬼子」としていじめられますが、心やさしい中国人少年もいて助けられます。
 養親の期待にこたえて必死に勉強して工業大学に入り、鉄工所に就職。
 ところが、文化大革命の嵐のなかで「反革命分子」として吊るしあげられ、冤罪でモンゴルの労働改造所に送られてしまうのでした。ここでの生活もひどいものですが、心優しき看護婦と出会い、また、幼なじみが主人公を労働改造所から助け出そうと努力します。
 いえ、なにより養父のがんばりがすごいのです。教師の職をなげうってまで、主人公を救出しようと北京にのぼって陳情活動を続けるのでした。
 30年ぶりに読みましたが、迫害のひどさに胸を痛め、また、心優しき人々が主人公の救出に執念を燃やす姿に接し、目頭が熱くなりました。著者の筆力に、今さらながら感服します。私もぜひこんな小説を書いてみたいと思いました。
(1992年1月刊。税込1400円)

2022年8月18日

続・新中国に貢献した日本人たち


(霧山昴)
著者 中国日中関係史学会 、 出版 日本僑報社

1945年8月15日、日本敗戦後、ソ連軍の次に満州に入ってきた八路軍(中国共産党の軍隊)は、日本人に次のように言った。
「日本に帰るまで八路軍に入りませんか。腹いっぱいご飯が食べられるし、時期が来たら必ず帰国させます」
翌日、数十人の日本人が八路軍に加わることにした。それは脅しに屈したというより、腹ペコの毎日だったので、食べさせてくれるのなら、それでいい。あとは帰国の日を待つだけだと考えたことによる。八路軍の共産思想に共鳴したからでは決してない。だいいち八路軍とはどういう軍隊か知らないし、共産思想については怖いというイメージしかなかったから。
ところが、八路軍とともに行動するなかで、多くの日本人が民衆を尊重し、共に戦うという点を文字どおり実践している八路軍に共鳴し、本心から八路軍を支えるように変わっていった。そして、それは多方面にわたった。多くの医師・看護婦が中国に残った。あたかも日本人経営の病院であるかのように...。工場の技術者として、また鉄道技師として...。新聞を発行し、映画製作にもあたった。
それだけでなく、中国人とともに最前線で八路軍の兵士として戦う日本人も多数いた。中国空軍のパイロット養成にも大きな力を発揮した。器材が乏しいなかで飛行機を飛べるようにしたうえで、中国人飛行士を養成していったというのです。すごいですね。
少なくない日本人が勤勉であり、創意・工夫に長(た)けているという特色を生かして毎日のように奮闘していたとのこと。
八路軍では階級の上下の差を少なくし、集団討議を重んじ、教育・学習の優先順位が上位にあった。ある日本人医師は連隊長級の待遇を受けて、毎月230万元をもらっていたとのこと。これは当時の日本のお金で3万円に相当し、日本人にとってもかなりの高収入を意味した。
日本敗戦後、中国の戦後復興は、国共内戦もあって本当に大変だったと思いますが、そのなかで少なくない日本人が新中国の建設に寄与していた事実を知るのはうれしい限りです。私の叔父(父の弟)も八路軍の要請に応じて紡績工場の技術員として戦後8年間、中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。
(2005年11月刊。税込2900円)
 お盆休みは遠出することなく、天神へ出かけて韓国映画「キングメーカー」を見ただけでした。庭にブルーベリーの青い実がぎっしりなっているのを摘み、夕食のデザートとしました。玄関脇の朝顔がとてもきれいで、自然に「お早よう。がんばってるね」と声をかけたくなります。雨も多いので、あっというまに雑草だらけになってしまいますので、雑草とりもしました。
 子どもたちがいなくなった子ども部屋を書庫としていますが、どうしても捨てられない愛着のある本、資料として残しておきたい本を選んで、この基準にあわないものは捨てるようにしています。そして、ジャンル別にまとめつつありますが、これが楽しい作業です。もう少ししたら、「私の本棚」シリーズとして私の個人ブログにジャンル別で紹介していくつもりです。
 お盆前まで、孫たちが来ていました。来てうれしい、帰ってうれしい。孫たちが来るたびにそう思います。「柱のキズ」を測ったら、この2月から半年間で3センチも身長が伸びていました。私のほうは身長が縮んでいくばかりです。
 室内でフワフワボールのキャッチボールをして遊んでもらったり、絵本を読んでやったりしました。今回は、「ダンプ園長やっつけた」が大人気でした。

2022年8月 5日

新中国に貢献した日本人たち


(霧山昴)
著者 中国中日関係史学会 、 出版 日本僑報社

ただいま、叔父(父の弟)が応召して満州に渡り、戦後も8年のあいだ八路軍(パーロ。
 中国共産党の軍隊)の要請にこたえて紡績工場の技術者として働いていたという手記の 裏付けをとろうとしています。その関係で大阪の石川元也弁護士の推薦で読み始めた本です。
 中国の周恩来首相は1954年に「多くの日本軍人が、日本終戦後武器を捨てたのち日本へ帰国することなく、中国人民解放軍に参加した。病院の医師と看護婦、工場の技師、学校の教官。・・・立派に働いて我々を助けてくれた。我々は深く感謝している。これが友情であり、これこそが真の友情である」との感謝の意を表明した。
 叔父は紡績工場の技師として、新工場の立ち上げに関わり、その運営が軌道に乗るように8年ものあいだ頑張ったわけです。そのころ叔父が日本の実家に送った手紙が残っていますが、千人の工場に日本人は叔父ただ一人だったそうです。いやぁ、よくぞがんばりました。 それでも、悪いことばかりではありません。同じように静岡から満州に夢をもってやってきた若き日本人女性と知り合い、結婚することになりました。同じ紡績工場で働いていたのです。
 この本を読むと、そんな日本人の青年男女が大変多かったことを知ることができます。
 私がもっとも驚いたのは、日本軍航空部隊の隊長だった人が中国空軍のパイロット養成の重責を担い、見事やり遂げていたという事実です。なにしろ、まともに飛べる飛行機もないなかで、残っていた部品を寄せ集めて、なんとか飛べる飛行機にして、それでパイロットを実地養成していたというのです。飛行中に故障が起きても脱出する落下傘もないのに空を飛んでいたというのですから、その勇気には呆れ、かつ圧倒されます。なんと、空では無事故だったというから、信じられません。
 医療分野でも、日本人は医師として、看護師として、大いに貢献したようです。負傷した中国人患者のためには、同じ血液型だと分かれば、すすんで献血もしていたというのです。本当に頭が下がります。
 北部の炭鉱でも大勢の日本人が労働者として働き、石炭増産の先頭に立っていたといいます。いやぁ、すごいですよね・・・。
 このような新生中国の誕生を助けた日本人の歩みはもっともっと広く今の私たちも知っていていいことだと思いました。三光作戦とか、帝国主義日本は中国大陸でさんざん悪業の限りをつくしたわけですが、もう一方では、こんなに良いことをした日本人もいたことを、両方とも、しっかり認識しておきたいものです。
(2006年10月刊。税込3080円)

2022年7月28日

沙飛(さひ)


(霧山昴)
著者 加藤 千洋 、 出版 平凡社

「中国のキャパ」と呼ばれた戦場写真の先駆者、沙飛の生涯を明らかにした本です。もっとも有名な写真は、八路軍の聶(じょう)栄臻(えいしん)司令官が4歳の日本人少女と手をつないでいるものです。
この女の子は、八路軍の百団大戦によって襲撃された炭鉱につとめていた両親とともに生活していたのですが、父とは生き別れ、このとき母は殺されて一人になったところを八路軍兵士に救われ、聶司令官の所へ運ばれたのでした。聶司令官は撤退するときに手紙を添えて日本軍に送り届けるよう手配し、少女は無事に救われたのです。そして、戦後40年もたって日本のマスコミが少女の現在を探しあてました。宮崎で生活していた女性は、そんな幼いころの記憶は何もなかったのです。
さて、問題は、この写真をとったカメラマンです。「沙飛」という名前のカメラマン。どんな経歴なのか、よく知られていませんでした。
沙飛は魯迅(ろじん)の生活最後の写真をとり、また毛沢東が高く評価したことで有名なベチューン医師の手術中の写真もとっています。
沙飛の本名は司徒傳。司徒は、中国では数少ない二文字の姓。1912年5月5日に生まれ、1950年3月に38歳で亡くなった。しかも、それは日本人主治医を射殺し、銃殺刑になったのだった。精神錯乱状態に陥って、八路軍に協力していた日本人医師を妄想にかられてピストルで射殺した。
1937年7月7日の盧溝橋事件のあと、8月に国共合作のなかで八路軍が誕生した。
総指揮は朱徳、副総指揮に彭徳懐。第115師団(林彪・師団長)、第120師団(賀竜・師団長)、第129師団(劉伯承・師団長)の3師団態勢で、総兵力は3~4万人。
第115師団で政治委員をつとめる聶栄臻はフランスに留学し、ベルギーの大学に学び、カメラの趣味もあった。なので、カメラマンの沙飛を部下として認めたと思われる。
「4歳の女の子」は、1980年7月に訪中し、北京の人民大会堂で、聶栄臻元帥と対面した。そして、「4歳の女の子」を助け出した元八路軍の兵士まで本人が名乗り出たことによって判明したというのです。生きのびていたのですね。百団大戦のときは17歳の兵士だったとのこと。そして、写真をとったのが沙飛という中国の戦場カメラマンだということも判明しました。
「4歳の女の子」を手紙とともに受けとった日本軍指揮官は聶司令官あてに返信を送ったというのです。ええっ、本当でしょうか...。
「子どもは確かに受けとった。貴部隊の人道主義精神に感謝する。将来、平和時に面会した際、謝意を伝えたい」
いやあ、立派な内容ですね。この日本軍指揮官の氏名は判明していないのでしょうか...。
百団大戦のあったのは1940(昭和15)年8月から11月にかけてのこと。炭鉱を守備していた日本軍は全滅したようです。「4歳の女の子」はトーチカで震えているところを八路軍兵士に救出されたのでした。名前を訊かれたとき「母ちゃんは死んだ」、「死んだ」と答えたので、「死んだ」を「しん」と聞いた八路軍の兵士が女の子を「興子」(しんこ)と名づけたというのです。なんとも泣けてくる名前です。
沙飛に殺された日本人医師は、津村勝という内科主任の医師(41歳)。河北省の石家荘の和平病院には、100人の医療スタッフをふくめて200人ほどの日本人がつとめていたのでした。これが、「留用者」と呼ばれる、日本敗戦後しばらく八路軍の求めに応じて中国にいた人たちです。医療関係者が断然多かったようです。
私の叔父(父の弟)は紡績工場のたちあげと技術指導する技術員として8年ほど中国にいて、1953年5月に日本に帰国しました。八路軍の三大規律・八項注意の素晴らしさを聞かされたものです。今、その叔父の中国における歩みを文章化しています。
(2022年4月刊。税込3080円)

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