弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
中国
2024年1月23日
懐郷
(霧山昴)
著者 リムイ・アキ 、 出版 田畑書店
台湾の小説です。それも原住民族の一つ、タイヤル族の女性が主人公です。その名前は懐湘(ホワイシアン)といいます。
早婚です。15歳、中学生のときに結婚し(夫は17歳)、まもなく子どもを出産します。ところが、若い夫は怠け者のうえに、暴力夫でもありました。妻に手を出し、子どもたちにも容赦ありません。
原住民のしきたりに従って結婚したので、別れるのも簡単にはいきません。その苦労、辛さが微に入り、細に入って刻明に描写されていきますので、読みすすめるのが辛くなります。でも、救いがあります。どんなに暴力を振るわれても、自分を見失うことはなく、ついに子どもを残してでも家を出て、ひとり立ちするのです。タイヤル族の女性はたくましいし、明るいのです。
「苦境にあっても屈することなく努力を続けるタイヤル女性」というのは、本のオビのフレーズですが、まったくそのとおりです。だから、感情移入しても、なんとか読みすすめることができるのでした。
タイヤル族にもいくつものグループがあるようですが、台湾原住民というと、私は、戦前に起きた「霧社事件」を思い出しました。台湾にある高山の中まで進出していた日本人が、1930(昭和5)年10月27日、運動会をしている最中に、現地住民(当時、日本軍が高砂族と呼んでいたタイヤル族)に襲撃され、134人もの日本人が殺害されました。これは日本軍による圧制への原住民族の反乱です。台湾にいる日本軍はもちろん放置できず、大々的な討伐軍(3千人以上)を組織して原住民族を徹底的に弾圧しました(1000人を殺害し、強制移住させました)。
この霧社事件は日本に大きなショックを与えると同時に、台湾では英雄的な抗日事件と記憶され、今に至っています。最近も台湾映画になり、日本でも上映されました。私も天神までみにいきましたが、実に感動的な映画でした。
いま、ガザ地区をイスラエルが暴力的に支配しようとしていますが、いかなる圧制も永遠に続くことはありません。イスラエルがガザ地区を支配できるどうかも疑わしいと思いますが、仮りに支配できたとしても、永続的に支配するなんて、まったくもって考えられません。同じように、一刻も早くロシア軍はウクライナから撤退すべきだと考えます。
夫から暴力をふるわれた女性は、必ず悲惨な日々を送ると言われている。しかし、自信と能力と取り戻すことさえできれば、女性の生命は、男性には想像もできないほど、したたかなのだ。
これは、弁護士生活50年になる私の実感とぴったり合致します。本当に悲惨な状況に置かれている女性が少なくないのは、弁護士として数えきれないほど目のあたりにした事実・現実です。でも、その一方で、したたかに、たくましく生き抜けている女性が多い(少なくないというより、多いというほうが適切です)のも現実です。男性だって、引きこもりを続けていたり、うつに悩んでいる人が少なくないどころか、多数います。
タイヤル族が住むのは標高800メートルほどの高い集落、そして標高1800メートルもある高地です。主人公はこの800メートルの集落から標高1800メートルの集落へ嫁入りしたわけですから、どんなにか大変だったことでしょう。
読み終えたとき、思わず大きく溜め息をついてしまいました。
(2023年9月刊。税込3080円)
2024年1月21日
隋、「流星王朝」の光芒
(霧山昴)
著者 平田 陽一郎 、 出版 中公新書
中国の統一王朝、隋。わずか37年間しか続かなかった隋帝国の内情を明らかにした新書です。
隋の初代は文帝楊堅で、二代目の煬帝(ようだい)は、大運河を築き、帝国を拡大しました。ところが高句麗遠征に失敗して、唐に滅ぼされてしまったのでした。
隋の母胎となった西魏・北周は、いわゆる漢族ではなく、鮮卑(せんぴ)を中心とする北族(ほくぞく。北方の騎馬遊牧民の流れをくむ人々)がヘゲモニーを握る遊牧系政権としての側面を有し、鮮卑よりの政治を実行した。
秦(しん)は十数年しかもたず、漢は400年続いたものの、その崩壊後は、三国時代として対抗・抗争する大分裂時代として400年も続いた。これに終止符を打ったのが隋。
北魏を支えた一番の柱は、優秀な騎馬軍事力。騎馬遊牧民は高度な騎射技術を身につけていた。
突厥(とっけつ)とは、もとアルタイ山脈方面で活動していたトルロ(テュルク)系の遊牧勢力のこと。
遊牧社会における女性の社会的地位は、南の農耕社会に比べて相対的に高かった。
隋の文帝は、「開西(かいせい)の菩薩(ぼさつ)天子」と尊称された。
インド伝来の仏教を、異国の教えとして排除しようとする動きがあった。
二代目の煬帝は、604年7月、36歳で即位した。水路を利用して食料を首都等に運んだ。
高句麗遠征のとき全軍30万のうち、損耗率8~9割という隋の大敗だった。
煬帝期の政府は、さながら「移動宮廷」の様相を呈していた。煬帝は、その最後は、頭を押さえて、跪かされた。そして、自ら解いて渡した白い絹のスカーフで縊(くび)り殺された。50歳だった。
唐の前の隋王朝について、少し知ることができました。
(2023年9月刊。1100円)
2023年12月 7日
唐...東ユーラシアの大帝国
(霧山昴)
著者 森部 豊 、 出版 中公新書
唐は、文化的にも人種的にも言語的にも複雑で、多民族から成るハイブリッドな王朝だった。唐の皇室そのものが、鮮卑(せんぴ)族の血、あるいはその文化を色濃くひくばかりか、唐の歴史をひもとくと、いたるところでチュルク系の騎馬遊牧民やイラン系のソグド人、あるいは朝鮮半島出身の人など、さまざまな出自の人たちが活躍していた。
唐の歴史は、「安史の乱」をはさんで、前半と後半とでは大きな違いがある。
唐朝は300年近い歴史を有し、その間ずっと色濃く遊牧色をおびていたというのではない。遊牧文化と中国的古典文化の融合した帰着点が唐だった。
唐を建国した初代皇帝の李淵(りえん)は隋の政権中枢にいた。この李淵の家系は、少なくとも文化面では鮮卑族。李淵の娘は軍の先頭に立って参戦したが、これは遊牧社会の気風を反映したもの。また、これは女性が活発に活動する唐という時代を告げる象徴的出来事でもある。
李淵は、軍の教練に突厥(とっけつ)方式の騎馬戦術をとりいれていた。なので、李淵軍の進軍スピードはきわめて速く、群雄との決戦で優位に立った。
李淵の妻は匈奴系の一族出身だった。また、ソグド人のグループも李淵に協力した。ソグド人は中央アジアのオアシス国家の住民。ソグド商人たちのネットワークは情報をやりとりしていた。ソグド人が信仰していたのはゾロアスター教。
唐は隋の統治システムを踏襲した。その根本となるのが律令。また、唐は隋の官制も引き継いだ。唐の政策は、皇帝のもとにおかれた宰相たちの合議で決定された。
李淵、すなわち初代皇帝・高祖には22人の子がいた。そのうち匈奴系の皇后とのあいだに生まれた次男の李世民が第二代皇帝となった。李世民は兄の李建成と仲は悪くなかったが、次第に溝が出来て、ついに先手を打った。李世民は皇帝太宗として23年ものあいだ君臨した。貞観(じょうかん)の治である。中国内に安定した平和が続いた。天下泰平となり、よく人材を登用した。
太宗が臣下の意見をよく聞きいれる態度を「兼聴」といい、これは『貞観(じょうかん)政要』を貫くテーマとなっている。
突厥(とっけつ)とは、チュルクトというソグド語で伝わった音を漢人が写したもの。「鉄勒(てつろく)」と表記することもある。
『西遊記』の三蔵法師のモデルとなった僧・玄奘(げんじょう)は唐の太宗の時代の人。中国での仏教教義の研究に限界を感じ、唐を密出国してインドへ求法(ぐほう)の旅に出た。
ただ、このころ唐の皇室が重視したのは仏教ではなく、道教だった。ちなみに、隋は仏教帝国。太宗が僧玄奘を重用したのは、仏教信仰からではなく、中央アジアに勢力をもつ西突厥をほろぼすため、玄奘のもつ最新の中央アジアの情報を必要としていたから。
中国史上、唯一の女性皇帝となったのは武則天。高宗は病弱だったので、そのパートナーだった武則天が一気に浮上した。武則天を日本では則天武后と呼ぶほうが多いが、これは彼女が皇帝になったことを暗に認めないという史観が反映している。
日本は唐へたびたび使節を派遣した。遣唐使である。結局、唐にたどり着いたのは15回のみ。阿部仲麻呂もその一人。仲麻呂は日本へ戻ろうとした船が季節風で流されベトナムに浮着した。このため、結局、中国に70歳で亡くなるまで住んでいた。
唐の歴史を概観することができて、大変勉強になりました。
(2023年3月刊。1100円+税)
2023年11月24日
ある紅衛兵の告白(下)
(霧山昴)
著者 梁 暁声 、 出版 情報センター出版局
私と同世代の中国人は、かの文化大革命の大嵐のなかで、もまれにもまれ、命を落とし、迫害のなかで発狂し、家族をバラバラにされてしまいました。
学校も工場も、まともに機能しなくなったため、学術・文化が停滞し、大量の文盲が生まれました。そして、工場だけでなく農業も生産活動がほとんどストップし、行政機能が崩壊したため、大量の餓死者を出してしまいました。
それでも、私と同世代の青少年は、はじめは気楽なものでした。学校の授業がなくなり、教師が打倒され、権威というものは毛沢東のほかには何もなく、無料で北京まで行って、憧れの毛沢東を一目見ることができたのです。
権威がなくなると、たちまち群雄割拠です。紅衛兵にも、いくつものグループが生まれ、「我こそは正統派、毛沢東公認だ」と、それぞれ主張して収拾がつきません。すると、いったい、人々はどんな生活を過ごすことになるのか...、実に惨たんたる有り様が、次から次に展開していきます。
親を反動派と告発する、ごく親しかったはずの近所の人を「黒五類」と関わりあいがあると密告する...。人間関係がギシギシして、ちょっとした言葉づかいの間違いが命とりになってしまうのです。
さらに、紅衛兵のグループ同士の抗争が始まります。すると、そこには、権威ある上部機関なるものが存在しないのですから、あとは物理的な力が決めることになります。
毛沢東は軍隊だけは文化大革命の外に置きたかったようです(軍隊は自分が動かすだけだと毛沢東は考えていたのです)。そうもいきません。軍隊を巻き込んだ紅衛兵の集団同士の衝突は武力抗争そのもの。戦車や装甲車が出動し、小銃だけでなく、機関銃も登場し、まさしく内戦状態に陥ってしまいます。
工場を、どちらの紅衛兵集団がとるのか、どちらが毛沢東に認めてもらえるのか...、緊迫した状況が続くなか、ついに毛沢東は一方を支持すると通知したのです。それに反した集団は当然ながら反革命集団として迫害されることになります。それも、言論だけではなく、銃撃戦があり、肉体的な抹殺をともなうのでした。
主人公の父は大騒動のなかで所在不明が続いています。主人公の若き男性(14歳から16歳)は、一方の紅衛兵集団に足を踏み入れ、危うく、銃撃戦のなかに巻き込まれ一命を落としてしまうところでした。なんとか助かったものの、母親は発狂したか、発狂寸前のありさま。
いやはや、中国の文化大革命のときの地方(ハルピン)における実情が手にとるように理解できました(と思いました)。
(1991年1月刊。1500円)
2023年9月20日
旧満州に消えた父の姿を追って
(霧山昴)
著者 諸住 昌弘 、 出版 梓書院
著者の父親・諸住(もろずみ)茂夫は、明治44(1910)年10月に小樽市で生まれ、日大専門工科を卒業して間(はざま)組に入社した。24歳のとき満州に渡り、土木工事を従事したが、そのなかで水豊発電所の建設に土木技師として関わった。水豊発電所は鴨緑江上流に今もある巨大なダムで、間組が朝鮮側、西松組が満州側を担当してつくり上げた。
ところが、父、茂夫は1945年5月、34歳で臨時招集された。日本軍の敗色は濃く、精強を誇っていた満州の関東軍は南方そして日本本土へ転出して「張り子の虎」状態になっているなか、兵員のみ充足するという召集だった。茂夫は派手な見送りもなく、ひっそりと軍隊に入営した。軍人としての基本訓練もないまま、ソ連との国境地帯に配備された。
茂夫の所属する124師団は1万5千の兵員を擁していたが、関東軍の1945年1月の作戦計画では「玉砕」することになっていた。8月9日にソ連軍が突如として侵攻してくると、最新のT―34型戦車によって日本軍の陣地は次々に撃破され、8月13日、茂夫は戦死した(ことになっている)。
しかし、茂夫の妻、すなわち著者の母親は、「死んだという証拠はないから生きている」と言い続けた。それを受けて、間組は、茂夫を未帰還者として扱い、17年ものあいだ休職扱いで給料を支払った。この給料によって著者たち一家は戦後を生きのびることができた。間組って偉いですね...。このような扱いは異例なのでしょうか、知りたいところです。
著者は1943年5月に安東市(今の丹東市)で生まれています。なので3歳のときに日本へ引き揚げころの記憶はありません。しかし、記録をもとに、丹東市を訪問し、旧宅付近を探索し、また、日本への引き揚げの行程をたどったのでした。
日本に帰国したとき、母親29歳、5歳と3歳の兄弟、そして1歳の娘という3人の幼な子を連れていたのです。いやはや大変な苦労をされたと思いますが、母は「忘れてしまった」と、子どもである著者に詳しいことはまったく話さなかったとのこと。それだけ思い出したくない、辛い体験だったわけでしょう。
それでも、著者は父親と同じ師団にいて生き残った人から詳しい話を聞き取ったりして、当時の状況を詳しく再現しています。その意味で大変貴重な記録になっています。著者より贈呈を受けました。ありがとうございます。
(2019年10月刊。1300円+税)
2023年8月11日
7歳の僕の留学体験記
(霧山昴)
著者 大橋 遼太郎 、 出版 日本僑報社
ええっ、7歳で留学なんかするの...。いま大学生の著者が、小学2年生のとき、母親の中国留学にあわせて中国の学校に通うことになった。嫌だ。僕は行かない。中国へなんか行かない。絶対に行かない。意地でも行かない。誰が何と言おうと行かない。柱にしがみついてでも行かない。と言って抵抗したわけなんですが...。
中国は母親の生まれ故郷で、8歳までくらしていたところ。ところが、何がどうなってこうなったのか、自分でも今でもよく分からないうちに僕は中国へ行くことになった。恐らく、中国でおもちゃをいっぱい買ってあげるとか、母親の美辞麗句にまんまと乗せられてしまったのだろう。
中国では、コトバが分からないので、小学2年生ではなく、もう一度1年生になった。そして、日本人の名前ではなく、中国名を名乗る。だから、級友たちは日本人と分からない。
学校の授業は午前8時から始まる。しかし、その前7時半から「自主学習の時間」があり、実は「強制学習」。算数だけは分かった。でも日本のようにBか2Bではなく、中国ではHか2H。そして、採点するとき、中国では正解は「〇」(マル)ではなく、「✓」(チェック)をつける。
著者は日本で折り紙を習っていたので、中国でも同じように折り紙をつくったら、たちまち注目された。「折り紙外交」の成果だ。
中国では、字の汚(きたな)い人は1点減点。隣の子が「当たり前だよ。字が汚いと、いい仕事に就(つ)けないんだよ」と解説してくれたので、渋々、納得した。
昼食休憩は1時間半もある。家に帰ったり、レストランや食堂で食べてもいい。著者は配達弁当を食べた。家に帰った3人を除いて、残る42人は学校で配達弁当を食べる。2ヶ月に1度は、「水餃子」のみ。他に、ご飯やおかずはまったくない。それでも、美味しいので文句はない。
中国では、大手塾会社が小学校と提携して放課後の空き教室などを使って塾を開いている。ともかく、そのレパートリーの広さには呆れます。文章読解、作文、算数、数学オリンピック、英会話、ニュートン物理、児童画、漫画、水彩画、演劇、話し方、エアロビクス、ストリートダンス、サッカー、バスケットボール、将棋、マジック、ギター、バイオリン、二胡...。
著者は硬筆とペーパー工作を申し込んだ。学校が塾に大変身。放課後から夜の7時ころまである。
中国の子どもはよく勉強する。実は、よく勉強させられている。
国語の授業のとき、タイトルは「小英雄」。日本軍が村に迫ってきた。少年が村への案内を頼まれた...。残虐な日本軍に抗する中国人の戦いを日本人の子どもが受けとめきれないのも当然です。
中国は2学期制。前期は9月から春節(中国の正月、1月中旬)休み前まで。後期は春節休み明けから6月末まで。
著者は3年生の前期で中国の小学校を終わって日本に戻りました。
中国での最後に、みんなで集合写真をとり、また、プレゼントを交換しあった。
小学校のころまでなんでしょうか、語学を少しの苦労はしてもなんとか身につけることができるのは...。うらやましい限りです。私なんか、40年以上もフランス語を勉強しているのに、今もって、スラスラ話すことなんて出来ません。恥ずかしい限りです。それでも、ボケ防止のつもりで、毎朝、せっせと書き取りしています。
面白い本でした。子ども(小学校)にとっての中国生活の苦労が実感できました。
(2023年3月刊。1600円+税)
2023年7月13日
ある紅衛兵の告白(上)
(霧山昴)
著者 梁 暁声 、 出版 情報センター出版局
中国に、かつて文化大革命なる大騒動があっていたというのは、今や昔の話となりました。
著者は1949年にハルビンで生まれていますから、1948年生まれの私と同じ世代で、まさしく紅衛兵世代なのです。著者は中学生のときに、晴れて紅衛兵になれました。
この文化大革命のとき、中国は生まれた家族関係によって、大変な差別がありました。貧農出身なら紅五類として紅衛兵になれる。しかし、父や祖父が商売していたなら、「小(プチ)ブル」として、資本家階級に落とし込められ、「黒五類」に入れられる危険がある。
ともかく、当時の中国では毛沢東の権威は絶対・至高そのもの。誤った政策をとって権威が失墜していた毛沢東は、虚勢のような「権威」だけを頼りにして、「文化大革命」と称する「乾坤一擲」(けんこんいってき)の大博打(バクチ)に打って出たのです。当然のことながら、中国の社会は大混乱をきたします。
でも、その混乱を喜んだのが子どもたちでした。「紅衛兵」という腕章を巻いて、毛沢東に会いに北京まで無賃乗車の旅ができたのです。今では信じられませんよね...。
中国の人々は、中国共産党中央と毛沢東主席は、善人を冤罪にすることは絶対にないし、また悪人を見逃しすることもないと固く信じていた。それこそ、根拠もなく、信じ込んでいたのです。
当時の中国には、革命に熱狂する群衆があまりにもたくさんいた。それが文化大革命が終息するまで丸まる10年もかかってしまった原因となっている。
劉少奇国家主席は、毛沢東から激しく攻撃されたが、なぜ自分が攻撃されたのか、理解できなかった。
子どもたちは真新しい玩具(オモチャ)を手に入れると、例外なく、面白さのあまり際限なく遊ぶ。
子どもを主体とする紅衛兵のやんちゃぶりは、毛沢東もあとでブレーキをかけなければいけないほど、でした。
著者の親友は、紅衛兵になりたくて、自分の父親が国民党軍に一時、籍を置いていたことを広く公表し、父親を面罵し、足蹴りまでしたのでした。そのおかげで、紅衛兵にはなれました。でも、まもなく、父親は自殺してしまいました。
実際に、こういうことは、よく起きていたようです。国民党軍にいた兵士が共産党軍に入るというのは、中国革命を成功に導いた大きな要因なわけですが、文化大革命のときは、それはあたかも逃れられない大罪のように扱われてしまったのでした。
文化大革命という異常な時代をひしひしと実感させる体験記です。
(1991年1月刊。1500円)
2023年6月20日
権力の劇場
(霧山昴)
著者 呉 国光 、 出版 中央公論新社
中国共産党の大会について、その制度と運用を徹底的に解明した500頁もの大作です。大変興味深い内容で、なるほど、そういうことなのかと、つい腠を打ってしまいました。
中国共産党の党規約によると、党大会の代表は、地方あるいは部内の選挙で選出される。しかし、実際には必ずしも党規約の規定に従ってはいない。
中央指導部の「協議」によるとされるのは、指名であり、一般党員に投票権の行使はない。そして、代表は、たとえ選ばれて代表になったとしても、政治的な研修を受け、さらに資格審査に合格しなければ、党大会に参加する資格をもつわけではない。
毛沢東は、絶対的な勝利が保証されるまでは、党大会を開催しなかった。
中央政治局は実質的な権力を掌握しているが、中央委員会と党大会は、そうではない。
党大会が開幕するときには、中央指導部が設定した目標を達成するため、大会が円滑に運営されるよう、すべてが整えられている。目標の達成を妨げるかもしれない不確実性は、制度と政治の両側面から最小限におさえられてきた。
大会主席団の選挙も、きわめて不明朗だ。
党大会に出席した全国各地の代表は徹底して優遇される。代表が享受できる特権は、党大会を組織する指導者との一体感をさらに強める。
党大会の決議は、およそ半頁ほどでしかない。これに対して指導者による報告は小冊子ほどの分量がある。これは、この報告こそ、党の政治方針と綱領を決めるうえで、きわめて重要な意味をもっていることを顕著に表している。
党大会に出席した代表たちは、報告の「精神」を会得すべく、報告を「学習」している。
党のイデオロギーと綱領は、常に挑戦に直面している。ただ、その挑戦は、ボトムアップ、つまり党大会の代表や一般党員によるものではない。その反対に、トップダウン、つまり党大会で選出された指導者たちによってなされる。
指導者たちは、自分が必要だと認めると、任意に、党規約に依拠しない裁量権によってイデオロギーと党の綱領に挑む。
毛沢東そして他の指導者が、ヨーロッパに起源をもつマルクス・レーニン主義の原理に教条主義的に拘束されたことは、これまで一度もない。
党の指導者たちは、党大会における政治報告をきわめて重視している。この作成過程こそが党のエリートたちが綱領をめぐって周到かつ慎重に協議し、共通認識を形成していくメカニズムとなっている。
党大会において政治報告に対して、深刻かつ重大な挑戦が行われたことは一度もない。党大会は、台本にそって華やかに演出される。党大会は舞台劇と同一の属性を有する。
党規約は重要なものであるはず。ところが、実際のところ中国共産党は党規約を軽視してきた。党は組織運営において党規約を守らない。党規約とは、党の最高指導者が部下に対して、あるいは党中央の集団指導部がまとめて党全体を牽制するための特権のように考えられている。したがって、一般党員が自身の権利を守るために党規約をもち出したとしても、その試みは決して成功しないだろう。党規約は堂々として恐ろしくさえ見えるが、実際には歯をもたず、かみつくことのできない「張子の虎」にすぎない。
中国共産党の選挙制度は、候補者間の競争を認めていない。
中国共産党の選挙過程は、投票、集票、集議の段階で終わらない。票決後の段階も続く。そこでは選挙結果の取り消しまで可能だ。
党大会の選挙は、指導部による事実上の自己任命と党大会代表による法的手続をふまえた承認を組み合わせることで、非民主主義的な制度に正当性を与えるための道具となっている。そして、このような選挙であっても政治的に無意味ということではない。むしろ、指導部が党大会代表たちが代表している全党から圧倒的な支持を得ていることを誇示するために、慎重かつ細心の注意を払った舞台設計、巧妙な演出、入念な予行演習を経て、最終的には豪華な舞台劇として上演されるのだ。
大変勉強になりました。苦労して読むだけの価値がある本です。
(2023年3月刊。3800円+税)
日曜日にフランス語検定試験(1級)を受けました。書面(ペーパー)で2時間、書き取りと聞き取り40分です。毎年のことながら、いつも大変緊張します。自己採点で71点(150点満点)でした。5割を目ざしていますが、道険しです。ともかくボケ防止に毎朝NHKのフランス語講座を聞き、CDで書き取りしています。
試験会場は西南学院大学でした。アガパンサスのブルーの花が見事に咲いていました。
自宅に戻ってから、サツマイモの苗を植えつけました。垂直に植えた方が大きくなるという説明書のとおりにやってみましたが、果たしてどうなるでしょうか...。
夏至も間近、今年も半分が過ぎようとしています。早いものですね...。
2023年6月18日
最後の猿まわし
(霧山昴)
著者 馬 宏傑 、 出版 みすず書房
阿蘇に猿まわし劇場がありますよね。何回か見に行った覚えがあります。
山口にも猿まわしの伝統芸があるようですが、今も続いているのでしょうか。
今では、ネットで検索したら簡単にすぐ判明することでしょうが、スマホと無縁な昔ながらの生活を送っている私には、そこらは不明です。
この本は、中国の猿まわしの人々の生活を中国の記者が一緒に旅をして明らかにしたものです。文化大革命のころに少年時代を過ごした著者が初めて手にした高級カメラは、リコーであり、マミヤであり、ミノルタでした。そして、著者は写真記者になったのです。
中国の猿まわし師は、長年、中国各地を渡り歩いていることもあり、非常に警戒心の強い集団だ。
中国には、猿まわしで生計を立てている地域が2つある。河南省南陽市の新野県と、安徽省毫州市の利辛県。利辛県のほうは数少なくなったが、新野県のほうは2002年に2千人が地方へ猿まわしに出かけた。新野県は、『三国志演義』の第40話で諸葛亮が火を放った、あの新野。この新野あたりは、土地がやせているため、家族を養うため猿まわしを業としている。
新野の多くの村は、数百年、ひいては千年以上に及ぶ猿まわしの歴史を有していて、人々は常に猿と生活を共にし、猿を自分の家の特別な一員としてきた。それは今に至るまで続いている。
「朝三暮図」では猿がバカにされているが、猿まわし師が猿を扱っている話でもある。そして、『西遊記』には、新野の方言がたくさん出てくるし、第28話には、猿まわしの話でもある。
猿まわし師たちは稼いだお金(現金)を「担ぎ荷」の中の箱にからくりをつくって隠し持って歩いていた。現金書留で送金できるようになってからは、それを利用したので、現金を隠しもって運ぶことはなくなった。
1970年から76年にかけて立て続けに干ばつや水害、害虫被害に襲われると、猿まわし集団も外に出てお金を稼いでくることが認められた。猿まわしの実入りはなかなか良く、多いと日に20~30元は稼げた。当時の労働者の月給が30~60元だったのに、かなりの高給取り。今は、それほどの稼ぎはできない。
文革期(文化大革命のころ)は、猿まわし師も文芸工作者として、世間への進出が認められた。
猿まわしの猿は、老いすぎても若すぎてもダメ。老いた猿は動きが悪く、幼なすぎると十分にしつけられていない。猿の「働き」のよし悪しは、体つき、かしこさ、できる芸の数で判断される。オスは若いもの、メスは老いたものを使えと言い習わされる。一般的には7歳前後の猿がもっとも曲芸に適している。立ち姿が美しく、生来の性格が悪くない猿を選ぶ。日々の訓練によって、猿が立つ脚の筋肉は強くなっていく。猿のうち年齢の近いオス猿を2頭、「家族」に入れてはいけない。
猿まわし師は、猿に自分たちと同じものを食べさせる。肉以外は、人が食べるものなら何でも食べさせる。食事のとき、猿まわし師は、自分たちより一番に猿に食事を与える。それが猿まわし師の決まりごと。それを破って、猿まわし師たちが先に食事すると、猿は怒って、鍋に石を投げ込む。猿って、人間をよく見てるんですね。
猿まわし師が集金するのは、まず外周から始める。外周の客は、いつでも立ち去れるから。
猿は暑がり。もともと、猿は密林に住んでいたので、炎天下で長時間の活動はできない。猿まわし師たちは、列車に運賃を支払わず、不正乗車して、旅費を節約する。すると、鉄道警察が発見したとき、お目こぼしがあるか否かは、大変な別れ目となる。
猿は肉や魚を食べられないとのこと。肉はともかく、魚も食べられないなんて、信じられません。
猿まわしはワンシーズンで3000元ほど稼げるので、1年で6000~8000元を稼ぐ。これは農業収入よりやや多い。そして、見物していた少女にこう言われた。「おじいさん、あなたは一生で、どれだけの人に楽しみを与えてきたことでしょう...」
そうですよね。人生は、お金だけではありません。やはり、人に喜ばれることをするのも大いなる生き甲斐です。
野生の猿は30年も長生きはできない。猿は老いてくると歯が削られて平らになって、モノが食べられなくなる。猿は若いほど顔のシワ(皺)が多く、年をとるにつれて、顔がつるつるになっていく。メス猿の顔がだんだん赤くなれば妊娠したと判断できる。出産は夜がほとんど。訓練は1歳をすぎたころから始める。
中国でも猿まわし芸は、もはや滅亡寸前にあるようです。
(2023年2月刊。3800円+税)
2023年5月 7日
上海
(霧山昴)
著者 工藤 哲 、 出版 平凡社新書
私もかなり昔に上海に行ったことがあります。超近代的な巨大都市なので、まさに圧倒されました。恐ろしい上海の現実を真っ先に紹介します。
上海では毎年30人以上の日本人が死んでいる。2004年には43人もの日本人が死んだ。とはいっても、この分母は大きいのです。上海市だけで4万4000人の日本人がいる(2012年には7万9000人)。
日系企業は上海市に1万あり、世界一位。日本人学校の生徒数は2200人、世界中に90ある日本人学校のなかでバンコクに次いで多い。そして世界で唯一、高等部がある。
死因のうち、病死では、心臓疾患と脳疾患、脳梗塞が増えている。上海に居住すると、緊張感が強いられ強いストレスがかかるところなのだ。そして、いたるところに監視カメラがあり、顔認証ですぐ街角での違反行為が摘発される。
スマホなしでは生活できない。あらゆるサービスがスマホと連動している。
建物が高層化しているため、街頭の監視カメラには上向きのものまである。危険な落下物を取り締まるためのもの。
中国の「モーレツ人間」をあらわすコトバとして、「九九六」というものがある。毎日、午前9時から夜9時まで、週6日間、働き通すこと。でも、実のところ、夜10時まで働くのが常態で、このあと帰宅しようとすると、タクシーをつかまえるのが難しい時間帯になっている。ホワイトカラーの8割で、残業が日常化している。
上海にいると、日本は資本主義の顔をした社会主義で、中国は社会主義の顔をした資本主義だと思える。日本が社会主義だなんて笑ってしまいますが、中国は明らかに資本主義そのものだと私も思います。
中国人、それも上海人は九州に来て「癒やし」を求める。なるほど、それは言えるかも...、と思います。阿蘇の大観峯は気宇壮大な気分に浸れますし、湯布院や黒川の温泉街って、気分をすっかり落ち着かせるから、日本人でも「最高!」って思いますよね。
上海そして中国の現実を手軽に知れる新書です。
(2022年2月刊。920円+税)