弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
中国
2016年9月15日
歌垣の世界
(霧山昴)
著者 工藤 隆 、 出版 勉誠出版
古代日本に歌垣(うたがき)という風習があることは知っていましたが、現代中国に山奥の少数民族が今も歌垣の風習を残しているところがあるというのです。すごい発見です。
8世紀の『古事記』や『風土記』に歌垣のことが書き記され、筑波山での歌垣が紹介されている。時期は春の農耕開始の前、秋の収穫のあと。足柄山より東側の諸国の男女が集まる大規模な歌会(うたかい)だった。
歌垣は酒を飲みながらの宴会とは違うもの。若い男女の場合には、配偶者や恋人を得るという実用的な目的が最優先であり、そのために真剣に歌い続ける。
歌垣を性の開放の場と結びつけるのは正しくないというのが著者の考えです。
歌垣の現場は、見物人もいる公開の場であり、相手の歌が終わるか終わらないうちに定型の音数にあわせて即興の歌詞を延々と繰り出し続けるから、むしろ冷静で知的で抑制的な空気が流れているのが普通。
著者は1995年8月、中国の雲南省でぺー(白)族の生きている歌垣を目撃しました。
歌垣で歌を交わすためには、韻の踏み方、言葉の選び方、歌垣を持続させるための表現技術その他の「うたのワザ」の修練が必要。そして、長時間にわたって歌をかけあうには、歌の言葉の膨大な蓄積と、その場に応じた当意即妙の受け答えの、勘のようなものが具体化されていなければならない。
即興の歌詞を間髪を入れず交互に出し続けるためには、一人の歌い手がじっくりと冷静な頭脳の状態を維持しなければならないので、集団で踊りながら歌うのも難しい。
歌垣の歌の本体部は、個人がその場の状況、相手の雰囲気にあわせて紡ぎ出す膨大な量の即興的な歌詞にある。文字の歌のように、じっくり考えて推敲する時間はない。間があかないように歌をつないでいくことが重要なのである。
歌の中心はあくまで歌詞にあるのだから、楽器はなくてもかまわない。ときには10時間にも及ぶ長時間を、神経を張りつめて相手の歌詞を聞き、それへの自分の返歌を考え、途絶えることがないように、さまざまな「歌のワザ」を工夫する。これは、酒に酔っていては出来ないことだし、その場で一気に性関係に至るなど、起きようがない。
歌垣は、台湾や古代朝鮮半島には認められない。日本では、かつて奄美・沖縄には認められた。
古代日本の「歌垣」を、現代中国の少数民族の歌垣と対比させながら論じた興味深い本です。
(2015年12月刊。4800円+税)
2016年6月 9日
南シナ海
(霧山昴)
著者 ビル・ヘイトン 、 出版 河出書房新社
「中国の脅威」があおりたてられています。その実体を紹介している本です。
世界の海上貿易の半分以上がマラッカ海峡を通じて行われている。世界の液化天然ガスの半分、原油の3分の1がここを通って運ばれている。その船の流れが止まったら、それほどたたないうちに世界のどこかで明かりが消え始める。ことほどさように、南シナ海は世界貿易のかなめであり、衝突のるつぼでもある。
かつて、南シナ海は「日本の湖」だった。この状態は1945年1月まで続いた。
領土紛争において、国際法の体系では、近さよりも発見者の権利のほうが優先される。国際法は、長らく過去数世紀のあいだ、征服者や探検家にとって有利な規則だった。
資源量と埋蔵量は雲泥の差がある。資源量とは、地下に存在する量のこと。埋蔵量とはそこから取り出せる割合のこと。一般に技術的に採掘可能なのは、資源量の3分の1ほど。採掘して商業的に採算がとれるのは10分の1ほどにすぎない。
マレーシアの人口の4分の1を中国系の人々が占める。シンガポールでは、国民の4分の3を中国系が占めている。
カンボジアのフン・セン首相の3人の息子は全員がアメリカで軍事訓練を受けている。そしてこのフン一族を中国が大枚をはたいて「買収」しつつある。
「中国の脅威」は、なるほど数字だけを見ると、空恐ろしい。いまの中国は、海軍力は世界第二位、軍事費も世界第二位。中国の2012年の防衛費は1660億ドルで、前年比12%増。
ところが、中国の艦船は、アメリカに比べて、二、三世代も遅れている。中国は狂ったように軍艦を建造してるが、1990年代のアメリカの水準にも達していない。中国の航空母艦「遼寧」は、航空機を射出するカタパトルを持たず、スキージャンプ甲板を使っている。したがって、艦載ジェット機J-15は、射程の短い軽いミサイルしか搭載できず、燃料満タンで発艦するときには、電子妨害措置を搭載できない。
中国海軍は近代的な海軍になったとは言えない。ほとんどの兵士がろくな教育をうけていない。下士官兵は主として小農の子で、14歳以降に教育を受けてきた者はほとんどいない。士官にも大卒者は3分の1もいない。新兵補充は、今も徴兵制だし、兵役はわずか2年なので、高度な技術を身につける機会もない。
中国の人民解放軍海軍は、すべての面において、現代戦の経験をもたない。対潜水艦船や長距離ミサイル攻撃はまったく経験していないし、掃海艇すら十分に保有していない。現在の中国海軍は、ほとんどアメリカの脅威になっていない。
外国の政府では、中国軍の戦力増強ばかりが話題になっているが、当の中国軍内部では自軍の相対的な弱さばかりが話題になっている。
南シナ海で大々的な撃ちあいが始まったとしたら、おそらくベトナム海軍が最強だろう。中国海軍にとっては、リスクが大きすぎる。ベトナム海軍には、新型の対艦ミサイル「バスチオン」があり、攻撃できる潜水艦があるうえ、損傷したら、すぐに基地に戻れる。ところが、中国海軍は損傷したら1000マイル先まで戻るしかない。
中国海軍って、見かけほどでもないんですね・・・。
緊張の続く南シナ海問題には、簡単な解決法はない。どちらの側も武力対決は望んでいない。しかし、領有権の主張で譲歩して、緊張を緩和したいとも考えていない。
中国の領有権の主張には歴史的な「根拠」はないけれど、その「理由」はたしかにある。そのあたりが分らないと、南シナ海問題は理解できないし、ましてや解決の糸口すら見つけられないだろう・・・。
なーるほど、問題の一端が、よく分かりました。
(2015年12月刊。2900円+税)
2016年6月 8日
中国第二の大陸・アフリカ
(霧山昴)
著者 ハワード.W.フレンチ 、 出版 白水社
今、アフリカ大陸には100万人もの中国人がいる。ええっ、これって驚きますよね。
中国政府の後押しで中国企業がアフリカ大陸にどんどん進出していて、そこに中国人労働者が働いています。それだけではなく、中国人がアフリカで商売もしているのです。そんな状況をアメリカ人の記者が現地取材したルポルタージュです。
著者が行ったのはアフリカの、モザンピーク、ザンビア、セネガル、リベリア、ギニア、シェラレオネ、マリ、ガーナ、タンザニア、ナミビアです。
著者は、英語、フランス語はもちろん、中国語も話せる語学の達人記者なのです。
中国は、現代版バーター取引を実践している。アフリカの開発途上国は、新しい鉄道や自動車道や空港を中国に建ててもらい、その費用を炭化水素や鉱物資源を長期にわたって確実に提供することで支払う。この方式で、中国企業はアフリカ諸国の大規模契約を次々と獲得していった。
習近平は国家主席に就任したあと、初の外遊先としてアメリカではなく、アフリカ大陸を選んだ。中国政府の幹部たちは1年のうちに何度もアフリカを訪問している。
中国は多くの中国人を実質的に輸出している。中国人は考えられる限り、あらゆる職業に急速に浸透している。
2001年~2010年までに、中国の輸出入銀行は、アフリカ諸国に対して世界銀行よりも125億ドルも多い627億ドルを融資した。
アフリカ全域で教育への投資が盛んになっている。2000~2008年のあいだに中学校の在籍者数は48%増え、高校進学率は80%も上昇した。
中国のプロジェクトの実行にあたって、中国企業は自社の作業員まで連れてくる。これがアフリカ人のよく口にする不満だ。
中国がアフリカへ投資するとき、しっかりとしたヒモが付いている。アフリカの借入国には、中国の事業者(企業)に発注し、中国の資材を使い、中国人労働者を雇うことが求められる。つまり、中国が貸し出した資金は中国に還元される。
いま、アフリカ各地で新しい幹線道路をつくっているのは、主に中国企業だ。
中国系企業がアフリカにおける市場シェア合戦で楽勝できたのは、強力なトリプルプレイのおかげだ。中国の国営銀行による低金利の資金調達、安い中国製資材、安い中国人労働力。この三拍子がそろえば怖いものはない。
市場への新規参入を果たすため、また巨大な国営建築セクターの完全雇用を維持するため、必要なら損失を出すことも、いとわない。
アフリカにやって来た中国人は、以外にもアフリカが気に入った。ここはチャンスが大きく広がる大陸で、たいていの国は居心地が良かったので、そこにとどまってひと旗あげようと考える中国人がたくさんいた。
草分けの中国人移住者たちは、あちらこちらで中国食品をつくり、互いに生活必需品を売り買いし、中国人向けの診療所や学校やレストラン、風俗店まで開いてコミュニティーをつくって、発展させていった。
中国の企業は、常にぎりぎりの状態で仕事をするから、品質に問題が出てくる。しかし、そのおかげで、中国の企業はいつまでも絶えず仕事が確保できることになる。なーるほど、ですね。
機器と労働者をアフリカの現地に送り込んでおいて、仕事がないというのでは困ってしまう。たとえ安値で利益が少なくても、仕事はあるほうがいい。だから、中国企業は安値をつける。
モザンビークには10万人の中国人がいる。
ナミビアの大統領は、娘を中国に留学させている。エリートは、みんな子弟を中国へ留学させている。中国が便宜をはかるのは、アフリカの政治家を操ろうという魂胆があるから・・・。アフリカと中国の深い関係をしっかり認識させてくれる本でした。
(2016年3月刊。2200円+税)
2016年1月17日
人間・始皇帝
(霧山昴)
著者 鶴間 和幸 、 出版 岩波新書
西安郊外にある兵馬俑博物館に二度行くことができました。その壮大なスケールは、まさに度肝を抜くものがあります。
日本の博物館にやってくるのはせいぜい数十個の立像です。それでも相当の迫力はありますが、現地で8000もの立像に接すると、そのものすごい物量には思わず息を呑んでしまいます。まさしく地下に大軍団が勢揃いしているのです。
どうして、こんな大軍団を地下につくったのか、またつくれたのか、世界の七不思議のひとつではないのでしょうか。この本は、秦の始皇帝の実像に迫っています。
始皇帝は、その名を趙正といい、13歳にして即位した。まだ小男子と呼ばれる子どもにすぎなかったから、国事は大臣に委ねられた。
秦では、庶民においては、子どもか大人かの判断は実年齢よりも身長を基準にした。男子は150センチ、女子は140センチ以下が子どもであった。また、17歳になったら一人前の男子として扱われた。
始皇帝陵の地下宮殿の深さは30メートルある。ところが15メートルも掘ると地下水が浸透してくる。そこで、地下深くに排水溝を設けた。そして地下宮殿が完成すると、この排水溝は埋めて地下ダムとした。
すごく高度な水利技術が発達していたのですね。それにしても、ユンボなどの重機がない時代に、どうやって地下30メートルまで掘り下げることが出来たのでしょうか・・・。
始皇帝が親政を始めるきっかけとなった内乱の起きたころ、ハレー彗星があらわれていた。
始皇帝が33歳のとき暗殺未遂事件が起きた。暗殺者は荊軻である。
秦の法律では、戦場で逃げた兵士の歩数の違いが処罰に反映し、異なっていた。
湖南省にある古井戸から15万枚という大量の木簡が発見された。
皇も帝と同じく、天を意味している。大臣たちは帝より皇を選んだ。秦王はそれに対して帝号にこだわり、皇と帝を組み合わせて皇帝という称号を自ら選んだ。
秦は軍事ではなく、祭祀を通して統一事業を浸透させていこうとする立場だった。中央で統一を宣言するだけでは、とうてい治まりきれないほど秦帝国の領域は広大だった。そこで、始皇帝は自ら何度も地方を巡行していたのだ。始皇帝は全国を統一したあと、5回も地方巡行している。
始皇帝は、秦帝国の周縁に 夷を置き、中華と蛮夷の世界を対置させた帝国を築き上げようとした。
秦皇帝では、行政文書、度量衡、車軸の規格の一元化などが進められ、違反した官吏は法で厳しく罰せられた。
始皇帝は天文の動きをかなり重視していた。皇帝も庶民も変わらず、古代の人々にとって、天文は日常の生活と結びついていた。
始皇帝陵は、3キロ離れた驪山(りざん)の乙地点を中心とした視界に入る連峰と一体化した景観をもっていた。2200年前の北極星の位置が真北だった。
偉大な始皇帝の業績を最新の研究成果をもとにしてたどることのできる新書です。
(2015年10月刊。800円+税)
2015年12月26日
インバウンドの衝撃
(霧山昴)
著者 牧野 知弘 、 出版 祥伝社新書
今、福岡港には連日のように大型客船が入港し、中国人による「爆買い」が進行中です。なにしろ一隻で4000人もの客が乗っていますので、福岡県内の観光バス100台が港に集結し、市内の各所で渋滞騒ぎが起きるのです。一部の商店は大もうけしているようですね。
中国人爆買いの対象は、医薬品、化粧品そして温水便座。中国では日本製をうたったニセモノが横行しているので、日本でホンモノを買う。
2003年の訪日外国人521万人のうち、トップは韓国で146万人、28%だった。
2014年には台湾283万人(21%)、韓国276万人(20%)、中国241万人(18%)。中国と台湾の人々が激増している。東南アジアからも160万人(12%)と増えている。
「円安」もその要因になっている。各国で旅行する余裕のある中間所得層が増え、ビザが緩和されたことも急増した理由。
中国人は、日本をふくめた海外の不動産に投資することが増えている。都内に新しく建設されるタワーマンションは、中国人富裕層に圧倒的な人気がある。
東京のホテルが絶好調で、今やお得意様は、すっかり外国人。東京には1万室のホテルが足りない。京都に行って泊まりたくても「宿がない」状況になっている。
外国人観光客が増えること自体は歓迎すべきことです。異文化交流は、もっと進めたほうがいいと思います。それこそ草の根からの平和外交です。自衛隊の軍備を強化するより、観光地の整備・立て直しにお金をつかったほうが、どれだけ建設的なことでしょうか。
アベ政権の危険な軍備拡張路線は一刻も早く止めさせましょう。
(2015年10月刊。800円+税)
2015年11月28日
中国人の頭の中
(霧山昴)
著者 青樹 明子 、 出版 新潮新書
かなりの日本人がアベ政権のあおりたてる中国脅威論に惑わされて「中国って、何となく怖い国だ」と思い込まされています。そのため、観光目的で中国へ行く日本人が激減しています。ところが、中国人の訪日はすごいものです。「爆買い」という目新しいコトバまで出てきました。日本って、安心、安全な国だというのです。そして、日本製品への高い信頼感から、ベビー用品、炊飯器、ウォシュレットまで、日本で買い込んで中国へ持ち帰るのです。日本の景気回復に中国人の「爆買い」は今、大きく貢献しています。福岡でも、連日、港に大型客船が入港し、県内中にある観光バスが出迎え、キャナルその他の店へ送迎しているのです。大変な経済効果です。
本書は日本人と中国人との相互不信を取り除きたいと頑張ってきた日本人女性の体験にもとづく本です。なるほど、そういうことだったのかと、思わずひとり納得することが多々ありました。
日中文化交流をすすめるキーポイントは、一流のもの、最新のものを送っていくこと。
採算を度外視して、日本映画を中国に紹介し続けた日本の映画人たちがいた。
これってすごいですね。心から敬意を表します。
中国製も、それなりに高性能だ。しかし、日本製は、本当に高性能。日本製の炊飯器を使った中国人は一様に驚く。米が水を吸収し炊き上げていく過程は、まさしく先進科学。実に精密にできている。炊き上がったご飯は、ふっくらしていて、やわらかくて、おいしい。そして、使い勝手が中国製と段違いだ。中国製は、炊き上がると周りに水が漏れる。日本製は、もちろん水漏れしない。日本製だと内釜にお米の粘りが残らないから、洗うときにラク。主婦として、この差は無視できない。
日本製品は、正規の保証書さえあれば、どこでも修理してくれる。中国製は、アフター・サービスの点で、かなり劣る。日本製の驚くべき点は、保証書と領収書があれば、きちんと修理してくれること。しかし、もっと驚くべき点は、壊れて修理したという話を、あまり聞かないこと。
2015年春節の爆買いでブームになったのが、日本製便座。中国製シャワートイレは、日本製と似て非なるものの典型。中国製シャワートイレは、いきなり熱湯が出た。しばらく噴水のように熱湯がトイレ中にあふれて、床が水浸しになった。
水温、マッサージ、節電機能、すべてにおて至れり尽くせりの日本製は、中国では入手できない。
なーるほど、そういうことだったのですね・・・。
そして、食。食に対する中国人の不信感は、日本人の想像をはるかに上回る。一定レベル以上のレストランで食事をしても、知らないうちに粗悪な食材が口に入ってきてしまう。事態は深刻だ。ニセモノの羊肉。ネズミやキツネの肉を、ゼラチン、亜硫酸塩で加工し、これにカルシウム酸という着色料をつけて完成させる。こんなとんでもないニセ羊肉が、上海の自由市場を経由して大手レストランにも大量に流通していた。トホホ・・・ですね。
日本では、水も空気も、安心かつ安全。食べるものも安心、安全。何を買っても安心、安全。だから、日本に行きたい。いつまでも、そんな日本でありがたいものです・・・。
日本と中国の裏の裏まで知り尽くした日本人女性の体験レポートです。
久しく中国に行っていませんが、近いうちに中国に行ってみたいなと思いました。
(2015年9月刊。700円+税)
2015年9月 6日
おとなの絵本・玄奘三蔵
(霧山昴)
著者 清原雅彦 、 出版 スーパーエディション
これは、すばらしいロマンあふれる、おとなのための絵本です。
テーマは、中国は唐の時代に、はるばるインドまで歩いて仏教典を探し求めて帰国した僧玄奘です。
玄奘は26歳のとき、中国の都・長安を発ってインドへ向かいます。当時の中国は、国外へ人々が出ることを禁止していたので、玄奘は農民に変装し、お忍びで出かけたのでした。
この本は、絵本ですから、たくさんの絵があります。素朴なタッチの絵です。私は『嵐の夜に』の絵本を思い出しました。
私も一度だけトルファンに言ったことがあります。高昌故城があります。炎熱の地です。昔は、地底に縦横無尽に通路をつくり、地底の住居で生活していたのでした。
三蔵法師と言えば、火焔山です。灼熱の地です。紅い、草木のない岩だらけの山がそそり立っています。まさしく地の果てという感じです。
著者は、私の尊敬する北九州の弁護士です。音楽に堪能だというのは昔から聞いて知っていました。とこらが、今回の絵本に接して、こんなにも味わい深い絵を描けるとは、驚きました。しかも、奥様が絵を補足しているとのことです。私も行ったことのある大雁塔については見事な切り絵です。すごいです。
夫婦合作というのも素晴らしい、大変な傑作絵本です。
著者は、なんと1977年から今日まで、毎年のようにシルクロードや中央アジアを旅行してきたとのことです。例のタリバンに爆破されてしまったバーミヤン谷の大仏も現地で拝んだことがあるそうです。
玄奘は26歳のときに中国を出て、43歳になって帰国したのでした。途中で何度となく強盗に襲われ、危ない目にあっています。そのたびに奇跡が起きました。
そして、中国に持って帰った仏教典を弟子たちとともに翻訳していったのです。それが、「大唐西域記」という旅行記とは別に、1335巻にものぼるのです。引用文を引用します。
「玄奘は長身白皙で、血色はよく、眉目は画いたように端麗であった。声は澄み、言葉はさわやかで対談の相手を倦ませなかった。長時間、人と語っていても態度がくずれず、清潔な白木綿の衣を常用していた。
歩くときは、あせらず、せまらず、前方を直視して、そちこちと目を動かすことがなかった。態度の落ち着いて清らかなことは池中の蓮花にたとえられようか。自身は戒律を厳しく守ったけれども、他人に対しては寛大であった。しかし、孤独を楽しみ、交遊は好まぬ方であった」
ながいあいだのシルクロードへの旅が、このように見事な絵本に結実したのですね。すばらしいことです。長年のご労苦の結晶を贈呈していただきました。本当にありがとうございます。
今後ともお元気にお過ごしください。
(2015年2月刊。4800円+税)
2015年8月12日
流(りゅう)
(霧山昴)
著者 東山 彰良 、 出版 講談社
著者は台湾に生まれ、9歳のときから日本に移り住んでいます。
著者が台湾で生まれたとき、私は大学2年生で、東京にいました。大学紛争に突入した年のことです。
この本の主人公は、著者よりひとまわり上の世代、すなわち父親の歩みを追っています。
1975年4月、蒋介石総統がなくなったとき、主人公は高等中学校(日本の高校です)の2年生、17歳だった。
反共教育を学校で徹底してたたき込まれていたから、共産党は殲滅すべき憎き悪であり、毛沢東の頭には角が生えていると信じこんでいた。
そして、主人公の祖父がある日、無惨な姿で殺されているのが発見された。物盗りより強盗殺人は考えられず、顔見知りによる犯行説が浮上した。なぜ祖父は殺されたのか。いったい祖父は戦前、どこで何をしていたのか、それが次第に明らかにされていきます。
主人公は軍隊に入らなくてすむよう画策しますが、ついに軍隊に入ります。
規律や愛国心、厳しい上下関係をたたき込むために、陸軍軍官学校では先輩による後輩いびりが日常的に行われていた。この学校で学ぶのは、絶対服従の精神、ともにいじめを耐え抜いた仲間たちに対する連帯感と帰属意識だ。
そして、次の世代へと受け継がれるのは、怒りの鉾先を何の恨みもない人たちへとすりかえる、その巧みな自己欺瞞である。進級したら、次は、後輩をいたぶる側にまわる。
日本の防衛大学校でも、実は、ここに書かれているのと同じ理不尽ないじめが確固たる伝統として根付いているそうです。防大のいじめ裁判を担当した弁護士から教えてもらいました。もし、それが本当なら、防衛大学校なんかに私の身内は絶対に行かせたくありません。
主人公は、腹にめりこむ軍靴や容赦ない平手打ち、えんえんと終わらない腕立て伏せに辟易してしまったことから、半年で自主退学することにした。
なんたる人生のムダづかい。とてもじゃないけれど、耐えられなかった。
今も徴兵制のある韓国では、同じように考えている若者と親世代が多いようですが、なかなか徴兵制は廃止されません。残念です。徴兵制って、柔軟な思考力を型にはめ、自分の頭で考えないように訓練するというのですから、国の発展力がそがれてしまいますよね。
そして、祖父のいた中国大陸へ主人公は出かけていき、そこで終戦直後に何が起きていたのかを知り、殺人事件の真相にたどり着くのでした。
圧倒的な筆力によって、ぐいぐいと引きずり込まれてしまいました。さすが全員一致で直木賞を受賞しただけはある本です。中国大陸の国共内戦、そして台湾独立後の国民党支配に至って、それが安定するまでの歴史状況をふまえた推理小説というべきものでしょうか・・・。
(2015年7月刊。1600円+税)
2015年4月 8日
中国国境・熱戦の跡を歩く
著者 石井 明 、 出版 岩波書店
中国が周辺諸国と戦闘した、その現場を足で歩いて調べた貴重な本です。
1949年、国共内戦の最終段階、中国共産党は台湾解放の準備を急いだ。劉少奇は台湾解放を楽観視していたが、毛沢東のほうは、それほど楽観視してはいなかった。
実際には、1949年10月に始まった国共内戦では、金門島に向かった人民解放軍9000は全滅した。4000名が戦死し、5000名が捕虜となった。
この金門島の戦闘については、日本軍の元将校が国民党軍を指導していたようです。
今や、台湾と中国大陸は平和的な共存関係の確立を模索している。
朝鮮戦争が始まったのは1950年6月25日。中国軍が人民志願軍として参戦したのは、同年10月25日から。そして、1951年4月、中国人民志願軍は、第五次戦役を発動した。ところが、中国軍60軍180師団は壊滅状態になった。全師団1万人のうち7000人を失い、5000人が捕虜となった。60軍をふくむ第三兵団は失踪者1万5000人を出し、あとの停戦交渉で中国軍捕虜の帰還問題が大きな問題となった。
このとき、アメリカ軍は、中国人民志願軍は1週間分の食糧を背負って攻勢をかけてくると読んでいた。そこで、志願軍に付きまとって離れず、志願軍得意の不意打ちなどの運動戦にもち込むのを防ぐ戦術をとって中国軍を圧倒した。
1969年3月、中国は珍宝島地区でソ連に向けて戦いを起こした。人民解放軍は緻密な事前の準備のうえで、「自衛反撃戦」に出た。
毛沢東が対外的な危機をつくり出して、中国人民の気持ちを外敵に向けさせて一つに団結させ、そのエネルギーを対内的な政治目標の達成に向けて、方向づける政治手法が認められる。
毛沢東は「反ソ」をつかって、文化大革命による混乱を収拾し、国内の支持を取りつけようとした。中国全土でのデモと抗議集会への参加者は4億人をこえた。これは中国史上、例のない大規模なものだった。「反ソ」の高まりのなかで、「団結の大会」、「勝利の大会」を演出する必要があった。
長らくアメリカの主要敵とみなしてきた中国には、新たな脅威であるソ連と二正面作戦を戦う力はない。そのため、その後、中国はソ連に対抗するため、アメリカに接近していった。
アメリカのベトナム侵略戦争のとき、中国はベトナムに支援部隊を送っていた。のべ32万人。最多時には17万人を送っていた。高射砲部隊、鉄道建設、通信線の敷設等の任務を担った。中国兵の死者も1100人ほどいた。
そして、中国は1979年2月、22万5000の戦闘部隊でベトナムに攻め込んだ。10年戦争の始まりだった。中国軍は、1万人以上が戦死した。中国軍に作戦指導の誤りがあった。
1990年9月、江沢民総書記とグエン・バン・リン書記長が密かに会談し、関係の正常化が図られた。
中国での国共内戦と朝鮮半島での朝鮮戦争の二つは、今なお、最終的に終結していない。
そこで、著者は、この二つの戦争を終結させるために平和を回復したことを確認する二つの平和協定を結ぶことが必要だと提言しています。なるほど、と思いました。
中国という国がどのような国であるか、歴史的にかつ地理的に解明した貴重な基本的文献だと思います。
(2014年8月刊。2400円+税)
2015年3月26日
人民解放軍と中国政治
著者 林 載桓 、 出版 名古屋大学出版会
中国の文化大革命と中国軍(人民解放軍)との関わりについて、大変興味深い分析がなされていて感嘆しながら読みすすめていきました。
毛沢東の最大の目的は、通常の独裁者と同じく権力の維持、つまり政治的存続だった。死ぬまで「挑戦不可能な権威」として毛沢東は君臨し続けたが、かといって国内外に競争相手のいない安泰な状況が保証されていたわけでもない。毛沢東は意思決定過程への支配力を保持することに格別の注意を払っていた。
毛沢東は、権力の維持とともに、あるいは、それを通じて中国社会の全面的変革を図ろうとした。
毛沢東は過度な抑圧によって大衆を政治から遊離させることを決して望ましく思わなかった。単なる服従ではなく、社会の積極的な協力にもとづいた統治を好んでいた。スターリン流のテロと人殺しは、毛沢東にとって、あくまで最後の手段だった。
1969年に発生した中国とソ連の武力衝突、珍宝島事件は、中国側の周到な「仕掛け」の結果だった。対外的に「適切な」危機をつくり出し、国内動員の挺子にしようとする毛沢東の政治的意図が色濃く反映されていた。
戦備体制の構築の大前提として、各地で派閥闘争の即刻の解消、とりわけ「武闘」の無条件停止が求められ、同時に軍内部の団結、軍政団結、軍民団結の強化が強く訴えられていた。なかでも、駐留部隊に対する大衆団体の攻撃・批判の厳禁、違反行為に対する厳しい処分が強調された。
文化大革命による社会の混乱を収拾するため、中国とソ連の「武力衝突」が利用されたというのです・・・。
林彪勢力の組織基盤の強化には、毛沢東が直接に関与していた。そして、林彪勢力が政権を簒奪する「陰謀」を企図していたとか、その影響力が「膨脹」していたという実態は疑わしい。では、なぜ、林彪は排除されなければならなかったのか・・・?
毛沢東の林彪勢力への攻勢は、現に実在する脅威を対象としたというよりは、将来の情勢変化に対する一種の予防策としての性格を帯びていた。林彪事件は、独裁者による後継者の否定に、その本質がある。
林彪の突然の死は、毛沢東にしてもほとんど予期できなかった出来事だった。毛沢東は、林彪を「消滅」させようとまでは思っていなかった。
この林彪事件のもたらした衝撃により、毛沢東は、国政全般で一定の妥協を迫られた。毛沢東は林彪を「極左」ではなく「極右」批判とした。「極左」批判の高まりが文革の全面否定につながることを恐れたのだろう。
毛沢東は、人民解放軍を自らのイデオロギーの宣伝と実践に忠実な組織にすべく、直接の軍統制を妨げる制度的、人格的爽雑物を取り除くことに細心の注意を払ってきた。それは、制度的には、軍を党の党勢から切り離すことを意味し、その過程で党と軍にまたがる、あるいは国家と軍をつなぐ制度的立場にあった多くの軍幹部が犠牲になった。前者の典型は羅瑞卿であり、後者は楊成武である。
1973年12月の八大軍区司令員の相互移動は、政治における解放軍の影響力の縮小を最大の課題としていた。同時に、毛沢東は鄧小平の政治局と中央軍委入りの、総参謀長への任命を公表した。
1975年に、省指導部における軍人の割合は一気に20%台へ減少した。
1979年2月から3月までの中国のベトナム侵攻作戦は中国軍の惨敗で終了した。
中越戦争は、大規模な軍事動員とは対照的に、国内ではほとんど宣伝されず、およそ秘密裏に行われた戦争だった。人民解放軍(中国軍)は、適切な戦術を通じて、大規模な兵力を運用できなかった。
ランソンをめぐる戦闘では、ベトナムの一個連隊が中国側の2個軍を相手に1週間も抗戦に成功している。中国軍は、とても効率的な作戦が行える状態ではなかった。その原因は、解放軍による統治活動の長期化にあった。
鄧小平は、それにもかかわらず、権力の維持と強化に成功した。それは、対ベトナム戦争の遂行を軍改革の「プロセス」のなかに明確に位置づけることに成功したからである。
中国軍を毛沢東は思うように操っていたこと、しかし同時に必ずしも思うようには中国軍が動かなかったことが明らかにされています。複雑・怪奇な中国政治の断面を鋭く分析している本として、中国軍と文化大革命との関わりに関心のある人には強く一読をおすすめします。
(2014年11月刊。5500円+税)