弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
中国
2018年1月25日
興隆の旅
(霧山昴)
著者 中国・山地の人々と交流する会 、 出版 花伝社
日本軍・三光作戦の被害にあった中国の村を日本人一行が訪れた記録集です。
中国河北省興隆県は北京市の北東に位置し、三方を長城で囲まれた山深い地域。1933年の日本軍による熱河作戦によって満州国に組み込まれた。それ以降、抗日軍と日本軍の激しい攻防が繰り返された。
興隆県は1996年まで外国人に対して未開放区だった。そこへ、1997年8月、日本の小中高校の教師集団が訪問したのです。
ここには、人圏があった。人を集中させて、八路軍を人民から隔絶させ餓死させようと考えて日本軍がったこと。人々は、着るものも食べるものもなく、すべて日本軍に奪いとられた。
日本人訪問団は日本から持っていった算数セットをつかって算数の授業をした。授業が終わると、校庭で教材贈呈式。そのあとは子どもたちとフォークダンス。宿泊は、村内の農家に25人が分宿。ホテルも宿泊施設もない村で、25人もの訪問団を泊めるのは、村にとって一大事件だった。
日本軍の蛮行で被害にあった体験を村人が語りはじめます。本当は、今日、ここに来たくはなかった。日本人を恐れていた。でも、今日来ている日本人は前に来た日本人とは違うと言われてやってきた。
日本軍の憲兵は、中国人を捕まえて投降させ、スパイにて中国人を殺させた。男たちは全部捕えられ、女と子どもしか残らなかったので、ここは「寡婦村」と呼ばれるようになった。無人区で中国人を見つけたら、一人残らず殺す。それが当時の日本軍のやり方だった。
2010年8月まで、11回も続いた日中交流の旅でした。日本人のゆがんだ歴史認識は、その加害の真実を知らない、知らされていないことにもよると思います。私自身もそうでした。しっかり歴史の真実を知ることは、真の日中友好の基礎ではないかと思います。日中友好の旅の貴重な記録集です。
(2017年3月刊。1600円+税)
2017年11月28日
中国はなぜ軍拡を続けるのか
(霧山昴)
著者 阿南 友亮 、 出版 新潮選書
中国の軍事的脅威を真顔で語る人がいるのに、私は驚きます。中国へ実際に行ってみると、とても「共産主義の国・中国」とは思えません。日本以上に資本主義国として発展しているとしか思えないのです。
なるほど、中国の「国防費」は90年代以降ほぼ毎年10%以上増え続けていて、その総額はアメリカに次いで世界第二位の規模に達している。しかし、中国の軍事力は、その内実が問題です。この本は、中国の軍事力の実体を描き、議論しています。
中国をよくみると、国家、とりわけ主権を独占していると共産党と主権へのアクセスを事実上もっていない民間社会とのあいだに根深い相互不信と緊張状態があることが分かる。
習近平政権は「7つの禁句」(七不講)を示してる。普遍的価値、報道の自由、市民社会、市民の権利、党の歴史的な誤り、特権資産階級、司法の独立。うひゃあ、司法の独立もタブーなんですね。そう言えば、中国司法官のトップがナンバー2とともに最近、逮捕・失脚しましたよね・・・。2兆円の不正蓄財というのですから、本当だとしたら、恐るべき構造的汚職構造があることになります。そんなシステムが出来ていたということでしょうから、決して一人ではやれるはずがありません。
中国の人口の6割以上を占める農村戸籍保持者は、社会保障面で制度的にないがしろにされていて、不当に厳しい生活を強いられてきた。
中華民族が太古の昔から存在したというのはフィクションにすぎず、実は100年前から提唱されているものにすぎない。
中国は、一見すると強大な国に見えるが、実はまとまりに乏しい。中国社会の内部で富の偏在が深刻化し、これが中国社会を引き裂きつつある。
中国の特権サークルにいる人々は、中国国内よりも海外にお金を落とすことを好んでいる。中国の富裕層の6割が移民の準備をすすめている。党幹部の多くは、相も変わらず権力と国有資産を駆使して大金を蓄え続けている。習政権の唱える「反腐敗」闘争も、党幹部の広範な利権を守るための巧妙な「人治」の一手段である。
中国解放軍は、実質的に共産党内の武装部門の担い手。軍隊の最重要任務は、共産党の独裁体制を防衛することにある。
解放軍の将兵は230万人。中国人民武装警察は66万人。そして人民警察が200万人。民兵部隊は400万人。合計1000万人ものボディガードによって中国共産党は守られている。
中国解放軍は戦争経験の豊富な部隊である。大躍進と文化大革命は、中国社会にあった共産党に対する高い期待と信頼を著しく傷つけた。
中国における究極の権力の源泉は、国家主席でも共産党の総書記でもなく、共産党中央軍事委員会主席である。
毛沢東は、40年間、軍隊の最高指揮権を握っていたからこそ、文化大革命という暴力の祭典を開催しえた。
中国解放軍はベトナムの民兵に対しても大苦戦を強いられた。中越戦争によって解放軍はショック状態に陥った。
鄧小平は、解放軍が部門・部隊ごとに自前で企業を設立し、ビジネスを展開することを期待した。軍ビジネスの発展は、当然ながら、解放軍の腐敗を進行させた。
解放軍の兵力は90年代以降、増えていないどころか、減り続けている。ところが人件費は増えている。そこには解放軍将兵の待遇改善をはかる意図が見えてくる。
解放軍の空軍のもつ航空機は4000機をこえている。しかし、そのうち3000機は、1950年代のソ連が開発した代物である。解放軍のもつ唯一の空母は、ソ連の空母をスクラップ状態になっていたのを解放軍が格好の値で購入して、改修したもの。
解放軍の海軍・空軍の戦力は、ようやく1980年代のソ連軍の水準にまで来たばかりということ。
共産党は、中国国内からの一党支配体制に対する異議申立を暴力で封じ込め、アメリカを中心とする同盟のネットワークに力で対抗する意図をすてない限り、党の軍隊の待遇改善と装備充実について手を抜くことができない。
最後のところに、この本のタイトルにある疑問が解明されます。中国の現在(とくに政治・社会)をふまえた的確な現状分析本だと感嘆しました。一読をおすすめします。
(2017年8月刊。1500円+税)
2017年10月10日
「空白の五マイル」
(霧山昴)
著者 角幡 唯介 、 出版 集英社文庫
命がけの冒険とは、こういうのを言うんだろうなと、つくづく思いました。
読んでいるほうの私まで、遭難して命を落としてしまいそうな気分になってくる本です。
早稲田大学探検部のOBである著者は、2002年12月、一人でチベットのツァンボー峡谷の探検に挑戦した。ツァンボー川はチベットの母なる川。ツァンボー川は、チベット高原を西から東に流れたあと、ヒマラヤ山脈の東端に位置する二つの大きな山にはさまれた峡谷部で円弧を描き、その流れを大きく南に旋回させる。そこはツァンボー川大屈曲部と呼ばれる。
山で一番こわいのは毒ヘビ。夏には、ヘビにかまれて死ぬ村人もいる。冬ならヘビは冬眠している。だから雪が積もっていても、冬のほうが探検には適している。
密林に足を踏み入れると、日本の山とはまるで勝手が異なることを知った。地面の土は柔らかく、傾斜が強いので、一歩足を踏み込むたびに半歩ずるっと滑る。灌木はつかむとメキっと柔らかい音を立てて折れてしまう。滑落の原因になる。障害となる岩場が頻繁にあらわれる。
ツァンボー川で1993年9月に遭難死した日本人青年の相棒で生き残った人が、いま東京で弁護士をしているという話も紹介されます(只野靖弁護士)。そんな経歴の弁護士もいるのですね、驚きました。
著者の場合は、15メートルほども滑落したけれど、幸いなことに途中のマツの木にひっかかって、運良く助かります。2時間あまりに到達できると予測した沢を渡るのに、実際には20時間以上もかかったのでした。
川に温泉があるのを見つけて、衣服を脱ぐと、自分の体に不気味な異変が生じていた。手の指先から足のつま先に至るまで、全身が赤いぶつぶつで覆われている。手のひらで触れてみると、ハ虫類のうろこのようにぼこぼこしている。数え切れないほどのダニが体に群がっていたのだ。ダニの咬傷はどんどん増え、表面からすき間がなくなてしまうくらいに、体はかゆいぶつぶつに覆われた。
こりゃあ、ヘビも怖いけれど、ダニも怖いっていうこうとですね・・・。ようやく3日後、なんとか村にたどり着くことができたのです。
そして、2009年12月に再び著者は挑戦するのです。
せっかく就職できた朝日新聞記者の職を投げうってからの挑戦です。そして、再び最悪の死の危険に直面します。
体の状態は疲労を通り越して、衰弱の域に入った。すでに出発してから20日がたっている。朝食をとって出発して1時間半くらいは普通に動けるのだが、それから急に疲れが襲ってくる。疲れというより、エネルギーが足りなくて体を動かせないという感じだ。斜面に傾斜があると、四つんばいにならないと登れない。倒木に足先がひっかかったら、手で足をもちあげなければならなかった。しかも大きな声で気合いを入れながら。その大声を逃すにも疲労を感じた。体内に蓄えられていた脂肪がついに完全に燃え尽きたのかもしれない・・・。たくましかったはずの太ももはモデルのように細くなり、肋骨は見事に浮き出て、なでるとカタカタと乾いた感触が手に残る。
すさまじいばかりの探検記です。真夏の夜にゾクゾクさせる涼味あふれる本だと言えましょうか・・・。
(2012年9月刊。600円+税)
2017年9月21日
モンゴル帝国誕生
(霧山昴)
著者 白石 典之 、 出版 講談社選書メチエ
チンギス・カンの実像を垣間見た思いのする本です。
なにしろ、チンギス・カンの宮殿跡が発掘され、その遺跡からチンギス・カンの国のなり立を推測しているので、具体的根拠があります。なかでも私が注目したのは、鉄との結びつきと気候変動の点です。
チンギス・カンの宮殿は、大草原の大天幕というのではなく、鉄と骨角でつくられた武器を用い、土とレンガでつくられた家に住む、そんな暮らしぶりだった。
チンギス・カンの生まれた年は1154年、1155年、1162年、1167年と定まっていない。没年は1227年と確定しているが、死因や死んだ場所には不明なところが多々ある。
チンギス・カンの「カン」は王という意味。息子で第二代君主からは「カアン」と名乗った。これは唯一無二の君主という意味で、皇帝にあたる。ではなぜチンギス・カンは、カアンを名乗らなかったのか・・・。
モンゴルに逆らわなければ、信教の自由と自治を認めた寛容さは、抵抗すれば容赦なく殺戮するという残虐さの裏返しでもあった。
アウラガ遺跡には、チンギスの宮殿、その死後に霊を祀った廟、武器をつくった工房跡が見つかった。
天幕の大きさは、とても100人入れないくらい。基礎に掘立柱と日干しレンガを使った質素な構造だった。鍛冶だけに特化した鉄工房も見つかった。
貴族の墓の副葬品には、馬具一式のほかは、鉄製武器、金メッキの青銅帯金具と銀椀が出土するくらいだ。
モンゴル高原は、際だって気候の厳しい地域だ。夏は最高40度、冬にはマイナス40度まで下がる。なんと、80度も上下する。
草原は意外にデリケートで、夏季の気温が1度上下しただけで、草の生育に大きな影響が出る。それが2度も上下すると、遊牧にダメージを与える。
樹木の年輪を利用してチンギスの時代の気候を探ると、やや温暖で湿潤な時期だった。
アウラガ遺跡の周辺では、農耕もおこなわれていた。そして、アウラガ遺跡の食物残渣からは、サケ科やコイ科の魚骨が少なからず出土した。チンギスのころは魚を食べない仏教が普及しておらず、魚をふつうに食べていたのだ。
モンゴル高原に暮らす人々の馬への愛着は強く深い。モンゴルでは3600万頭の家畜が飼育されているが、その6%の200万頭が馬だ。
モンゴルの男子は15歳になると、兵士として戦争にかり出された。歩兵ではなく、騎兵だ。チンギスの騎馬軍団の主力は、モウコ種、小柄の馬が中心だった。モウコ種は、体高が低いため、乗りやすく安定もいい。持久力にも優れている。耐塞性があって、餌の少ない状況に耐え抜く能力をもっている。大草原では、平時でも戦時でも、長距離移動が欠かせないので、このモウコ種が適役だ。
オルズ川の戦いの勝利で、「金」側の部将として頭角をあらわしたチンギスは、鉄資源の入手に大きな関心をはらった。チンギスが親金派に寝返り、そのうえ、ジュルキンからバヤン・オラーンを奪ったのは、「金」の鉄資源を手に入れ、それを大量に運ぶ交通路の確保のためだった。チンギスにとって、鉄は国づくりの基本だった。
鉄は鉄鉱石ではなく、製錬を経た加工しやすいインゴットとして運んだ。
小型で、軽量のインゴットをモンゴルの鉄器生産に導入したのは、チンギスのオリジナル。インゴットと簡便な鍛冶道具を携えると、戦いの前線でも武器の製作や防具の修繕が可能だった。これにより臨機応変で、機動・可動的な鉄生産が可能になった。チンギス当時の軍隊の進軍スピードは、1日20キロメートルほどだった。
こんなふうにチンギス・カンの時代の具体的な状況を紹介されると、イメージが一新されますよね。
厳しい気候のモンゴル現地に著者は何ヶ月間も滞在したこともあるそうですが、その労苦が、こうやって本にまとまり、居ながらにしてチンギス・カンのことを教えていただけるというのは、まことにありがたいことです。
(2017年7月刊。1650円+税)
2017年6月15日
中国経済を読み解く
(霧山昴)
著者 室井 秀太郎 、 出版 文眞堂
このところ中国へ旅行していませんが、北京や上海・大連には何回か行ったことがあります。その都度、どんどん超巨大都市になっていくのを目のあたりしました。
中国共産党による一党支配下にあるにせよ、「共産中国」などと呼ぶより資本主義を謳歌している国としか見れません。
シルクロードにも行きましたが、ウルムチも大都会だと思いました。重慶や北京、西安も、いずれも日本の東京に勝るとも劣らない巨大都市です。
この本は、日経新聞の記者として中国に常駐していた体験もふまえて、中国経済をみるときに欠かせない視点を提供しています。わずか150頁ほどの薄っぺらな本ですが、いくつかの大切な欠かせない視点が盛り込まれていて勉強になりました。
日本人は、中国経済が移行経済であることを、よく認識していない。
中国にも証券取引所があるが、地方政府に上場企業の枠を割り当てたことから、地方政府は、効率の悪い地方の国有企業を救済するために株式市場を利用した。株式市場は、成長性のある企業を育てる場はなく、赤字企業を救済する手段になっている。
株式市場では個人投資家が中心で、個別株式の値動きに着目して、短期的な売買で値上り益を確保しようとする行動をとることが多い。
中国の株式市場には、うさんくささが付きまとう。中国的な市場経済とは、あくまで「社会主義」の冠がかぶせられた、資本主義国のものとは異質のものだ。
都市と農村の実質的な所得格差は5~6倍もある。東部地域の1人あたりの平均可処分所得は2万8223元、中部地域は1万8442元と、東部の65%。そして西部地域は1万6868元で、東部の60%。
業種でみると、最高の金融業と最低の農・林・牧・漁業では3.6倍の差がある。
これらの格差は固定化する傾向にある。
中国では、土地は国有であり、土地そのものを売買することはできない。しかし、土地の使用権は売買できる。そこで、地方政府は、農民から安い価格で収用した土地の使用権を不動産開発会社に高く売却して、差額を得ている。
インテリやマスコミ関係者のあいだでは共産党が求心力を失っている。
アメリカは、中国の最大の輸出先である。2015年の中国のアメリカ向け輸出は4095億ドルで、中国の輸出の18%を占めた。そして、中国のアメリカからの輸入は1487億ドルで、輸入全体の8.8%を占める。つまり、輸入額は輸出額の3分の1でしかない。
中国の外貨準備は3兆ドルを維持しており、日本の外貨準備の3倍。
外貨準備の大半はドルで運用されている。なかでも、アメリカの国債の保有額は1兆ドルを超えており、中国は世界最大のアメリカ国債保有国である。
中国にとって、ドルの価値が低下すると、外貨準備が目減りしてしまうという問題がある。中国はアメリカとの貿易で黒字をため込み、蓄積された外貨でアメリカの国債を購入してアメリカの借金を支えているという相互依存関係ができあがっている。
習近平は、毛沢東を除くと、新中国の歴史上初めての後ろ盾をもたない共産党トップである。このため習近平は、就任直後から、自らの立場を正当化する必要に迫られた。そこで習近平が実行したのは、反腐敗闘争の推進と、自らへの権力の集中と、宣伝の強化である。
北朝鮮の金正恩政権がいつまでもつのか、はなはだ疑問ですが、中国共産党による一党支配だって、その内実は危いようです。しかし、ひるがえって、わが日本はどうでしょうか。「一強多弱」と言われる安倍政権だって、もろいものだと思います。加計学園はひどいものですし、森友学園問題だって、まだまだ収拾したはずはありませんし・・・。
(2017年1月刊。1600円+税)
2017年4月28日
張作霖
(霧山昴)
著者 杉山 祐之 、 出版 白水社
満州某重大事件とも呼ばれる日本軍による張作霖爆殺(暗殺)事件までの経緯が刻明にたどられている本です。
張作霖というと、なんとなく馬賊の頭目というイメージですが、この本を読むとなかなかの人物だったようです。中国の政争、派閥抗争史としても興味深く読みましたが、著者の筆力はたいしたものだと感嘆しました。読み物としても面白いのです。
ちなみに、最近の日本の「ネトウヨ」一味のなかに、張作霖暗殺はコミンテルンによるものだという人がいるようです。昭和天皇が、この事件の報告をめぐって田中義一首相を嫌って退陣に追い込んだ事実が明らかとなっている今日、あまりにナンセンスな説であり、ネトウヨの知的レベルの低さをあらわしているだけだと思います。
張作霖爆殺事件は1928年6月に起きたが、この事件は、日本敗戦に至る亡国の軌跡への決定的な分岐点だった。
張作霖は、1875年3月、奉天近くの農村で、雑貨店主の三男として生まれた。父親は博徒でもあった。張作霖は、13歳のころ、3ヶ月間だけ教育を受けた。要するに、張作霖は正規の教育は受けていないのです。ところが、軍の近代化など教育には熱心でした。単なる馬賊ではなかったのです。
張作霖の14歳のころ、父親は殺され、そのあと一家は生活に苦労したようです。
張作霖は、獣医を始めた。馬の治療が出来たということです。
張作霖は、誰にでも、好かれる面をもっていると同時に、激しい衝動、人を凍りつかせる冷酷さももちあわせていた。張作霖は小柄で、身長162センチだった。
張作霖が匪賊に加わったのは1897年春ころの2ヶ月間のみ。人質の見張り役をしていた。22歳のころということになります。
張作霖は、人を見きわめ、信じ、用い、報いた。徹頭徹尾、人を生かした。いろんな事業に力を入れ、稼いだお金は部下にばらまいた。
袁世凱の下に張作霖は入り、38歳の若さで中将位の師団長となった。奉天最大の武人であった。張作霖は、日本との対立を慎重に避けた。張作霖は、44歳にして名実ともに「東北王」になった。
日本政府は、張作霖を完全には信用しなかった。張作霖は、日本の支援を得たいとき、困ったときには、日本との協力を口にする。だが、張作霖は、満州で日本が権益を拡大しようとすると、表面では笑顔を見せながら、のらりくらりと、裏では頑強に抵抗した。満州では、外国人への土地家屋貸借を禁じる条例が次々に施行されていった。
張作霖にすれば、何かと口実を設けて権益を拡大しようとする日本にフリーハンドを与えるわけにはいかない。中国では親日的であることが「売国」行為と見なされつつあった。義俠を誇る張作霖にとって、中国人から売国奴呼ばわりされることは耐えられない屈辱である。
張作霖は、若いころから、ためらうことなく新兵器を採用した。機関銃を導入し、迫撃砲を外国から買いいれた。
ソ連と国境を接し、その力や冷酷さ、詐謀を目にしてきた張作霖は、ソ連と共産党を恐れ、心底から嫌っていた。
1927年6月、張作霖は北京で大元師となった。国家元首である。
張作霖暗殺のシナリオは、張作霖を殺し、治安が乱れたところで関東軍を出動させ、一気に満州を制圧するというものだった。日本の朝鮮軍から呼び集められた工兵隊が橋脚の上部に200キロの黄色爆薬を仕掛けた。張作霖の乗っていた車両は吹き飛ばされ原形をとどめていなかった。張作霖は10メートルも飛んでいたが、まだ生きてはいた。亡くなったのは4時間後だった。起爆スイッチを入れたのは、鉄橋から300メートル離れた監視所にいた独立守備隊の東宮(とうみや)鉄男(かねお)大尉だった。亡くなったとき、張作霖は53歳だった。日本軍は爆破「犯人」として中国人3人を捕まえようとして2人を殺したが1人に逃げられた。この3人は日本軍に騙されたカムフラージュ用の浮浪者だった。逃げた1人は、張学良のもとに駆け込んで、すべてを話した。
張作霖を抹殺すれば満州問題は解決するというのは河本大佐らの甘い期待は、妄想でしかなかった。
日本政府は、日本軍の手による暗殺事件だと判明しても、それを発表することは出来なかった。国際社会からの批判を恐れて、満州某重大事件として、あいまいにしてしまった。
やはり、正すべきときに正しておかないと、あとで大変なことになるというわけです。
今の「森友学園事件」だって、権力行使の事実を明らかにすることが何より大切なことで、うやむやにしてはいけないということです。
大変な力作ですので、戦前の満州に関心のある人は強くご一読をおすすめします。
(2017年4月刊。2600円+税)
2017年4月 5日
赤い星は如何にして昇ったか
(霧山昴)
著者 石川 禎浩 、 出版 臨川書店
毛沢東がまだ有名ではなかったころ、日本をふくむ国際社会が毛沢東をどう見ていたのかを知ることのできる本です。
日本の外務省が1937年8月の官報の付録に載せた毛沢東の顔写真は、今から見ると、どう考えてもまったくの別人。革命家という雰囲気はまったくない。太った、人の好さそうなブルジョアという印象の中年男性の顔写真。とても「極悪人」には見えません。それほど、この1937年の時点では毛沢東は知られていなかったのです。
その毛沢東を世界に紹介したのが、アメリカ人ジャーナリストのエドガー・スノーによる、『中国の赤い星』でした。1937年秋にイギリスで、1938年初めにアメリカで刊行され、ベストセラーになりました。
当時、エドガー・スノーは32歳の若さです。取材申請を許可されて3ヶ月ものあいだ赤軍根拠地に入り、毛沢東に直接取材したのです。毛沢東が自分の生い立ちから青少年時代までを語った本は、この『赤い星』が唯一といえる貴重な本です。
私も大学生のころに読み、とても感銘を受けました。もっとも、そのころには文化大革命が進行中でしたし、あとになって、その本質が毛沢東による権力奪還闘争ということを知りました。今では、毛沢東とは、要するに権力欲にとりつかれたエゴイストだったと今では考えています。功もあったけれど、はるかに罪が大きい。
毛沢東は生涯、外国に行ったことは一度もない。中国語しか話せない。
毛沢東は4度結婚している。4回目の妻が例の悪名高い江青で、このときは多くの党幹部の反対を押し切って結婚した。毛沢東には三人の男の子と三人の娘がいて、娘二人は、今も生きているようです。全然ニュースになりませんね。なぜでしょうか・・・。
毛沢東の肖像画が、本物の写真をもとにして描かれたのは1934年が初めて。これは、1927年3月に武漢で撮影された国民党幹部の集合写真の一人としてうつっている写真をもとにしている。国共合作時代、毛沢東は共産党員でありながら国民党員であり、国民党の中央委員として活動していたというわけです。
エドガー・スノーは、中国共産党の根拠地へ一人でいったのではなく、もう一人、ジョージ・ハテムという医師と二人だった。そして、孫文の妻・宋慶齢がエドガー・スノーの中共基地への潜入を手助けした。
戦前の日本では、この『赤い星』は一般に刊行されることはなかった。要するに、日本は敵がどういう人物であり、集団であるかを知らないまま戦争していたことになる。これは、ひどいですよね。「敵」を知らないで戦争に勝てるはずはありませんから・・・。
エドガー・スノーの『赤い星』と毛沢東の初期の活動状況、それについての日本の認識について知ることのできる興味深い本です。
(2016年11月刊。3000円+税)
2017年4月 2日
星空
(霧山昴)
著者 ジミー・リャオ 、 出版 ツー・ヴァージン
大人向けの不思議な絵本です。
夜の星空をボートに乗った少年と少女が眺めています。
少女の隣家に少年がひっこしてきた。そして、少女と同じ学校、同じクラスに入ってきた。
少年は路地裏でいじめられた。少女はそれを見て許せないと思って割って入り、二人ともケガをした。
少年はクラスでは無口だった。
ある日、二人は、そろって家出をした。目ざすは山の中の家。そこには、少女のおじいさんが住んでいた。でも、おじいさんは亡くなり、誰もいない。
二人は湖に浮かぶボートに乗って、夜の星空をあおぎ見た。
家に帰ると少女は病気になった。病気が治って家に戻ると、少年はひっこしていた。
少年の住んでいた部屋に入ると、たくさんの壁に魚の絵があり、そのなかに少女の絵もあった。
メルヘンの世界そのもの。ついつい引きずり込まれてしまう、そんな絵本です。
(2017年2月刊。2000円+税)
2017年2月24日
汝、ふたつの故国に殉ず
(霧山昴)
著者 門田 隆将 、 出版 角川書店
戦後、日本の敗戦によって日本軍が引き揚げたあと、中国本土から蒋介石の国民党軍が台湾に渡ってきて統治するようになります。
その初期に台湾人が弾圧された事件が、1947年2月28日に起きた「二二八事件」。2万人から3万人に及ぶ台湾人が虐殺された。しかも、狙われたのは台湾人の指導階級、知識人たちだった。
1947年から1987年まで戒厳令は継続した。なんと38年間。世界最長だ。
この本は、二二八事件で虐殺された一人の日本人、坂井徳章の生涯を紹介しています。
坂井徳章の父・坂井徳蔵は熊本県宇土市の出身。宇土の資産家の御曹司だった坂井徳蔵は20歳のとき、台湾へ渡り、警察官となった。
1915年8月、徳蔵の勤務していた派出所が新興宗教の信者を中心とする暴徒に襲われた。西米庵事件と呼ばれ、警察官と家族22人が亡くなった。その中に40歳の徳蔵もふくまれていた。その報復として、日本軍は台湾人を徹底して弾圧した。台湾人の死者は1254人に及んでいる。
父親を失った坂井家は窮乏生活を余儀なくされたが、徳章は成績抜群の子どもだった。そこで、徳章は師範学校に入学した。ところが、台湾では学校のトップは必ず内地人(日本人)で、本島人(台湾人)は、日本人の上には立てなかった。徳章は、そこに疑問を抱いた。その結果、徳章は3年に進級した直後に退学した。そして、やがて、巡査試験を受けた。19歳、20歳になる直前のこと。なんとか巡査になり、派出所勤務につく。そして、そこでも日本人の横暴に目をつぶることは出来なかった。警察をやめ、東京に出て高等文官試験に挑戦することにした。1939年(昭和14年)4月、32歳の春のこと。徳章は中央大学に聴講生として通学した。
昭和16年秋、徳章は高等文官司法科試験を受験し、合格した。そして、さらに昭和18年夏、徳章は高文の行政科試験にも合格した。
これはすごいですね。よほど出来たのですね。もちろん、大変な努力もしたことでしょうが・・・。
昭和18年9月、坂井徳章は台湾に戻り、台南市で弁護士業務を開始した。
日本の敗戦時、台湾には34万人の日本人が住んでいた。本島人(台湾人)は、600万人をこえる。
1947年2月。いつ何が起きても不思議でないほど、台湾人の我慢は限界に達していた。徳章たちは、騒乱の側に台南工学院の学生を向かわせるのではなく、逆に治安維持をまかせた。これによって学生たちの命も救われた。
徳章は憲兵隊に逮捕され、拷問を加えられた。「両手が使えんよ。指も使えん」、徳章は知人にこう言った。軍事法廷に徳章が引き出されたのは、3月13日の午前10時。死刑が宣告された。
「私を縛りつける必要はない」
「目隠しも必要ない」
「私には大和魂の血が流れている」
そして、最後に日本語で叫んだ。
「台湾人、バンザーイ!」
二二八事件には、台湾人が当時の中国国民党の腐敗した台湾統治に反抗したことが無差別虐殺を引き起こしたという面だけでなく、国民党の統治者がこの機会に乗じて計画的に台湾各地のエリートを捕えて殺害した面の二つがあった。あの当時、一切の措置は蒋介石の指示によっておこなわれていた。大虐殺を実行した張本人たちは、蒋介石から、その後も重用されて昇進していった。
父親が日本人、母親は台湾人という坂井徳章は、弁護士として、台湾人のプライドを守って身を挺してたたかったのでした。
今までまったく知らなかった話ですが、心ある人は昔もいたんだなと驚嘆しました。
(2016年12月刊。1800円+税)
2016年12月20日
モンゴル帝国と長いその後
(霧山昴)
著者 杉山 正明 、 出版 講談社学術文庫
チンギス汗の建てたモンゴル帝国は短い帝国だったようで、実は、その影響は実に息の長いものだったことを示している文庫本です。
中国の元朝、大清国は、その後の大発展をふくめて、一貫して名実ともに満蒙連合政権であり続けた。
チムール帝国のあとに第二次チムール朝たるムガル帝国が誕生した。このムガルとはモンゴルのこと。タージ・マハルは第5代ムガル皇帝が17世紀に造営した宮殿。
チンギス・カンの風姿を伝える記録は、なぜか、まことに少ない。孫のフビライの肖像画を下敷きにして今あるチンギス・カンの肖像画が描かれたのではないか。
小柄な人が多かったモンゴル遊牧民のなかで、チンギス・カンは並みはずれた巨軀だった。そして猫のような目をしていて、ただものでは全くなかった。
モンゴル騎馬軍団は、耐久力はあるがスピードの出ない小型のモンゴル馬に乗る。よく飛ぶ短弓で短矢を射る。長弓も大小の弩(ど)も使い、馬上で槍を操る部隊もあった。馬と弓矢の軍団にすぎなかった。
モンゴル遊牧民たちは、きわめて淳朴にして、勇敢で、命令・規律によく従った。モンゴルの第一の強みは、その組織力・結束力にあった。次に、周到すぎるほど周到な計画性がある。外征に先立ち、チンギス・カンこと周辺は、自軍に対しては徹底した準備と意思統一、敵方については、これまた徹底した調査と調略工作をおこなった。たいてい、2年をかけた。できれば、戦う前に敵が崩れるか、自然のうちになびいてくれるように仕向けた。逆に、敵方への下工作や現地での根回しが不十分なまま敵軍と向かいあったときには、しばしば敗れた。
チンギス・カンは猪突猛進のアレクサンドロスのような戦場の勇者ではなかった。見切りの良さと、ころんでも動じない冷静さをもっていた。沈着・平静な組織者であり、戦略眼のたしかな老練の指導者だった。質朴・従順で、騎射の技倆にすぐれた機動軍団を率いていた。
モンゴルは、チンギス・カンの高原統一のころから、既に、どちらかというと戦わない軍隊だった。情報戦と組織戦を重視して、なるべく実戦しない。世にいう大量虐殺や恐怖の無敵軍団のイメージは、モンゴル自身が演出し、あおりたてていた戦略だった。誰であれ、自分たちと同じ「仲間」になれば、それでもう敵も味方もない。
モンゴル軍は、実は、それほど強くもなく、自分たちでも、そのことをよく知っていた。モンゴル西征軍は、ほとんど自損も消耗もせずに西征を続けた。
モンゴルは、モンゴルたる人の命を徹底して大切にした。モンゴル軍における自軍の戦死者をできるだけ回避しようとする態度の徹底ぶりには、驚くものがある。
モンゴル帝国には、あからさまな人種差別はほとんどなかった。能力、実力、パワー、識見、人脈、文才など人にまさる何かがあれば、どんどん用いられた。まことに風通しのよい時代だった。モンゴルは、さまざまな人々が共生する「開かれた帝国」だった。
「モンゴル」なるかたまりが多重構造であっただけでなく、システムとしての帝国も、大カアンの中央ウルスとその他の一族ウルスからなる多元の複合体だった。
イラクのバグダードとは、ペルシア語のバグ(神)がダード(与えた)地だった。アラビア語では「平安の都」と呼んだ。モンゴルのバグダード・イラク統治は、基本的に間接支配をつらぬいた。
チンギス・カンのモンゴル帝国の内実と、ヨーロッパに向けた西征の実態を再認識させられ、大変勉強になりました。
(2016年4月刊。1150円+税)