弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
社会
2007年2月16日
電話はなぜつながるのか
著者:米田正明、出版社:日経BP社
私は、地下鉄のホームで携帯電話をつかって話している人を見かけるたびに、不思議でなりません。どうしてコンクリートの固まりの地下で電波障害を起こすこともなく、地上の人と話ができるのでしょうか・・・。
小さな細い電話線しかないのに、何万人、いや何百万人もの人々が一斉に電話をかけて混線しないのはなぜなのか。これまた理解できずに悩んでいました。この本を読んで、少しだけ理解がすすみました。もちろん、まぜ全部を理解したというわけではありません。本当に、この世は不思議なことだらけです。
電話ネットワークは、電話交換機のつながり。電話交換機同士は、1000本以上の線を束ねた太いケーブルでつながっている。これは、1000車線の道路でつながっているようなもの。
電話網を電話の動脈だとすると、共通線信号網は神経にあたる。共通線信号網がないと、電話交換機同士はお互いにメッセージを交換できない。
電話線の長さは、平均2.2キロ。
電話の音声は電気信号として電話線の中を進む。その速さは、真空中の60〜70%で、秒速18〜21万キロ。ポリエチレン絶縁体をつかうため、光速より少し遅くなる。
電話の声は、1秒間に300〜400回往復運動する音(周波数300Hzから3400Hz)を扱う。
電話の音声は、1秒あたり8000個の数値で表す。それぞれの数値は0〜255とする。この256段階の音を0か1で表すと、8ケタ(8ビット)が必要となる。だから、1秒あたりの音は、800×8ビットで6万4000ビットとなる。これを64キロビット/秒という。
人間の聴覚は小さい音の変化は敏感に感じとるが、大きな音量になると、音の変化に鈍感になる。そこで、耳が敏感な小さな音はなるべく細かく、耳が鈍感な大きな音は大ざっぱに数値化している。
複数の回線を一つの高速な伝送路に時間的に区切って束ねる。これを時分割多重という。光ファイバーをつかうと64ビット/秒の電話回線を2000本多重できる。
音を波形グラフで表し、これを刻々と高さの目盛りを読みとり、すべてデジタル情報に置き換えるのです。
要するに、音を電波に乗せるということは音波の速度ではなく、光速(正しくは、その6〜7割)ですすむので、1秒間に地球を7まわり半するだけの長いヒモがあり、そこに、0か1の数をたくさん並べても、並べ切れないほどになるという仕掛けです。
それでは、いったい、どうやってその長いレールにうまく乗せ、また、それから降ろす(取り出す)というのでしょうか。そこが分からなくなりました。
それにしても、電話がつながる根本のところが、この本を読むといろいろ図解してありますので、素人にもそれなりに分かります。
レバレッジ・リーディング
著者:本田直之、出版社:東洋経済新報社
読書とは投資活動そのもの。本を読むのは、自分に投資すること。そして、それはこのうえなく割のいい投資である。1500円の本で学んだことをビジネスに生かせたら、元がとれるどころか、10倍いや100倍の利益が返ってくる。
本を読まないから時間がないのだ。忙しくてヒマがないというのは事実に反している。
本当は、本を読めば読むほど、時間が生まれる。本を読まないから、時間がない。というのは、本を読まない人は、他人の経験や知恵から学ばず、何もかも独力でゼロから始めるので、時間がかかって仕方ないから。
ゲーテは、常に時間はたっぷりあるし、うまく使いさえすれば、このように言っている。
うーん、なるほど・・・、そうなんですよね。
できるだけたくさんの本を効率よく読むことが肝心。読書をしない一流のビジネスパーソンは存在しない。
本は自腹を切って買うこと。書きこみをし、よれよれになっても構わない。お金を出すと、元をとってやろうと真剣に読む。
著者は本を年に600冊ほど購入し、400冊を読む。本代は月に7〜8万円。私とあまり変わりません。私は年に500冊の単行本を読みます。本代も月に10万円ほどになります。ちなみに、夜の巷での飲み代はほとんどありません。ただし、接待・交際費はあります。後輩の弁護士や司法修習生と飲食をともにする機会は多いのです。
一つのテーマについて、たくさんの本を集中して読むこと。私は、たとえば一つのテーマについて30冊の本を読むようにしています。それは入門書でも何でもいいのです。これくらい読むと、大体のことが分かります。
著者は朝1番に早起きして風呂で本を1冊読むそうです。とてもマネできません。私はもっぱら移動中の電車や飛行機のなかです。周囲の騒音がほとんど耳に入らないほど集中して本が読めます。片道60分に本1冊というのが、私の標準的なペースです。ちなみに、この本は、電車のなかで15分ほどで読了しました。もちろん、たくさん赤エンピツを引きました。それをたどって、こうやって書いているのです。これを書くのに40分かかります。やはり、読む以上に書くのには時間がかかります。
速く読むといっても、問題意識をもって読むので、「ん?」と引っかかるところが出てくる。活字のなかで、そこだけ太く、濃く見えるというか、浮き上がって見えてくる。そこで、スピードを落とし、じっくり読む。
私は、赤エンピツを取り出して、アンダーラインを引きます。
著者はビジネス書ばかり読んでるそうですが、本当でしょうか。それでは人間の幅が狭くなってしまうんじゃありませんか。私は、いろんなジャンルに飽くことなく挑戦しています。
2007年2月15日
小泉規制改革を利権にした男・宮内義彦
著者:有森 隆、出版社:講談社
現代日本の悪名高い政商の実像を暴いた本です。こんな男が規制改革の旗ふりをしているのですから、日本の前途が危ぶまれるわけです。
宮内は2002年の時点で、地方は切り捨てていいと高言していました。
東京23区の人口は800万人。これを2倍の人口が住める街に改造すれば大変効率が上がる。所得配分を自然にゆだねると、過疎地の人口は町村等の中心地に移動し、地方の中核都市がさらに発展していく。
ここには経済効率しか念頭にありません。なんと貧相な頭でしょうか。
宮内義彦自身は政商と呼ばれることを大変嫌っているそうです。でも、右手で規制緩和をすすめながら、左手でその分野に自らビジネスを拡大していったのです。これを政商と言わずに何と言うでしょうか。
宮内は公人と私人(企業人)の立場を実に巧みに使い分ける。公人としては参入障壁が高い分野の扉をこじ開け、企業人としては先頭に立ってその分野に新規参入する。政策を自己に有利な方向に誘導していくのだ。
規制緩和の大義名分の下で自らこじあけたドアから、真っ先に足を踏み入れるのが宮内の流儀だ。
宮内は、官営経済と統制経済を解体することが戦後最大のビジネスチャンスを生み出す、こう語る。官製市場の規制緩和によって、公的サービスを肩代わりして収益源に変える。その一つが医療分野の民間開放である。宮内がまず足を踏み入れたのは、高知県でのPFI病院。次いで、神奈川県で株式会社病院に参入した。
宮内のオリックスがリース時代から一貫して収益の柱としているのは、パチンコ店とラブホテル。大阪にはパチンコ店の店内専門の部署がある。パチンコ店の店内工事やラブホテルの内装を行う内装工事会社を子会社にもっている。
宮内は読売社主・巨人オーナーの渡辺恒雄(ナベツネ)と犬猿の仲だった。
宮内ごときと大読売が日本シリーズで対決だって? 穢れる。不愉快。オリックスなんて、まともな正業ではない。
宮内は、規制緩和のインサイダーではないのか。宮内は1996年に行政改革委員会規制緩和小委員会座長に就任して以来、規制改革委員会委員長、総合規制改革会議議長、推進会議議長と、組織の名称は変わっても、常に、そのトップの座に君臨してきた。
宮内辞任のカウントダウンが始まったのは、村上ファンド事件の発覚からだった。宮内は最大の後ろだてだった小泉純一郎が首相の座からおりたあと、後任の安倍には嫌われていたので、渋々、トップをやめざるをえなかった。
私は弁護士会の役員として東京にほぼ常駐していたころ、自民党有力議員の昼食セミナーに参加したことがあります。講師は八代尚宏教授ともう一人、女性アナリストでした。規制緩和すれば日本経済は回復するという強いトーンの講演内容でしたが、その一つとして駐車違反取り締まりの民営化があげられていました。ええーっ、そんなことまで民営化しようというのか、と大変驚いたことを覚えています。しかし、これは既に実現してしまいました。この取り締まりにあたっている民間企業は警察等の行政OBと何らかの関係があると思いますが、いかがでしょうか。
彼らのすることには、すべて裏がある。何かの利権につながっていると思わなくてはいけません。
でも、天下国家を論じているふりをして弱者を食いものにする男って、本当にサイテーですよね。これでいっぱしの企業人気取りで大きな顔をしているのですから、日本の財界も墜ちたものです。お客様は神様、とまでいかなくても、金もうけするにしても、もう少し社会的弱者へ目配りしつつ金もうけしてほしいものです。
2007年2月14日
NHKvs日本政治
著者:エリス・クラウス、出版社:東洋経済新報社
NHK受信料を支払わない家庭が11万件。これは総契約数の0.3%。日本全国
3500万世帯がNHKと受信契約を結んでいる。支払い拒否は、10億円の収入減を意味する。実は、私もNHKの不祥事発覚以来、支払いを拒否しています。もっとも、私はテレビを見ることはまったくありません(ただし、ビデオで動物番組を見ることはあります。日曜日の夜に、1時間ほどですが・・・)ので、罪悪感はまったくありません。見てないのに、なぜ受信料を支払わなくてはいけないのか・・・、というわけです。今や成人してしまった子どもたち3人もテレビを見ないで育ちました。今の私と同じようにビデオだけは見ていました。じいちゃん(義父)が送ってくれていたのです。
NHKのニュースにおいては、驚くほど国家に注目し、よく登場する。政治的な話題のなかで最大の割合を占めているのが国家官僚機構の活動。官僚機構にやたらにたくさん注目するのがNHKの政治報道の特徴だ。逆に、NHKのニュースは、社会や市民個人についてはあまり報道しない。うむむ、なるほど、そう言われると、たしかにそうですよね。
NHKにおいて、国家は紛争を調整する人として描かれている。国家は、何よりもルールと意志決定の儀礼的な策定者として描かれている。国家は、国民の利益を守る、積極的な守護者として、社会の諸問題に対応する姿が描かれる。うーん、そうかー、それは片寄った見方ですよね。
日本の記者と取材源との関係で何より特殊なのは、記者クラブの存在。記者クラブは、日本新聞協会によって正式に認可され、規制されている。
記者クラブは、ジャーナリストを政治家や官僚たちとの親密な結びつきを生み出している。記者クラブの存在によって、政府からの自律というジャーナリストの職業規範は希薄になり、NHKの記者は組織の犬になってしまう。
記者たちの関係を調整する非公式の規制や規範があり、とても詳細だ。たとえば、番記者のルールに、質問は首相の腰が膝より低いときまでというのがある。つまり、首相が立ち上がったら質問は許されないのだ。
自民党の総務会の会合は、ドアが5センチだけ開いている。15分ごとに記者が交代して立ち聞きするという慣習がある。そうやってリークして、世論を誘導しようとする。
NHKのニュースは、昼のニュースについて午前10時に会議が開かれ、夜7時のニュースについては、午後4時の会議で最終決定がなされる。しかし、20人もの人が集まっては何もできない。これは芝居にすぎない。メインプロデューサーの決めたことを正式なものにする儀式が行われるだけのこと。
NHKはきわめて政治的に動く。たとえば消費税導入の前、世論調査の結果、国民の 46%が反対、賛成はわずか19%だけだった。このとき、NHKは、まったく無視して放映しなかった。
アナウンサーはジャーナリストではない。彼らは1分間に300文字というペースを守って読むだけ。ニュースを取材することはない。トーキングマシーンでしかない。あくまでニュースは台本に従って動いていく。
NHK会長を承認しているのは、現実には首相をはじめとする自民党の首脳たち。
NHK会長のポストは与党の人事決定によるもの。それは内閣のポスト配分とほとんど同じ。会長に選出されるためには、多くの場合、自民党内に支援者が必要となる。少なくとも、首相や自民党内の有力派閥の領袖を敵にまわさないように努力しなければならない。
日本とアメリカの記者の最大に違いは、アメリカの記者が独自の報道スタイルを発展させていくのに対して、日本の記者が書くものは比較的似ていること。日本の記者は基本的に企業人間であり同じ組織内部の人々と交流してきた。
NHKの局長クラスは臨時職員を雇う権限をもつので、政治家や有力者の家族や交際範囲を採用してきた。縁故採用者でも、2〜3年で正規採用のチャンスをもらえる。そのときの試験は、一般の入社試験に比べて、はるかにやさしい。
自民党の有力幹部は、みなこのNHKの裏口を利用してきた。
NHKは、自民党からときどき批判されることもあるが、NHKは自民党の支配に大きく寄与しているし、自民党もそのことを十分に意識している。
NHKは自民党の影響力に弱いし、官僚支配を揺さぶることは一切表現しない。
自民党が政権を握っている限り、NHKが完全に解体されることはないし、完全な商業化や民営化されることもないだろう。
NHKって、自民党営放送って名前を変えたほうがいいですよね。この本を読んで、私は改めてそう思いました。
2007年2月 9日
徴税権力── 国税庁の研究
著者:落合博実、出版社:文藝春秋
新潟地検の検事正が、妻と義母の遺産相続について東京の税務署から2億数千万円の申告漏れを指摘されたことについて税務署長宛に抗議文を送りつけたことがありました。
1996年1月のことです。新潟地方検察庁の封筒をつかい、検事正の肩書をつけての抗議文でした。
自分は公益の代表者として調査を止めさせることが出来る。検察庁の立場から見ても不満が残る、と抗議文に書かれていました。驚くべき職権濫用です。検事正への処分が戒告処分にとどまったのが不思議でなりません。
国税庁は一般職員に決してノルマを課していないといいます。しかし、国税局や税務署では、各年度ごとに増差総額をまとめていますから、一線の調査官には無言のプレッシャーになっている。
国税庁は世論の動向にきわめて敏感な官庁である。中小企業には厳罰でのぞみながら、巨大企業はマルサの聖域となっている。マルサは一度も大企業に踏みこんだことがない。ところが、もし大企業をあげると、その効果は絶大なものがあります。ケタが違うからです。三菱商事がカリブ海のバハマにペーパーカンパニーをつくっている課税逃れを摘発されたとき、隠し所得はなんと110億円でした。
大企業の海外取引に国税当局がちょっと目をつけると、次のとおりの税額が回収できたのです。ホンダ117億円、京セラ127億円、船井電機165億円、武田薬品570億円、ソニー324億円、マツダ76億円、三菱商事22億円、三井物産25億円。
すごいものです。まだまだあることでしょう。これはほんの氷山の一角だと思います。
大新聞などのマスコミのほか、創価学会にも申告漏れないし課税逃れがあると著者は指摘しています。ところが、公明党が政権与党になって、国税庁は方針を変え、甘い姿勢を示すようになったといいます。権力は国税よりも強し、なのです。困ったことです・・・。
小泉純一郎も、地元の暴力団関係企業やゼネコンのために秘書が口利きをしたと厳しく糾弾されています。人生いろいろ、そんな言い逃れは許せません。
国税庁が警察や検察をしのぐ日本最強の情報収集力を本当にもっているのかは大いに疑問です。でも、アル・カポネが捕まったのは脱税によるものでした。金丸信自民党副総裁も脱税による逮捕で失墜してしまいました。国税権力は今後も時の権力者にしっかり目を光らせてほしい、納税者の一人として願っています。
若者はなぜ3年で辞めるのか
著者:城 繁幸、出版社:光文社新書
この著者の「内側から見た富士通・成果主義の崩壊」は大ベストセラーになりましたが、成果主義の虚像を事実をもって暴いた点に深い感銘を覚えたことを覚えています。
大企業の人事部は、たいてい通常の人事業務に加えて、結婚仲介的業務がある。
なーるほど、今でもそうなんですね。官庁のキャリア組についても同じ部署があると聞きますが・・・。
企業が欲しがっているのは、組織のコアとなれる能力と、一定の専門性をもった人材である。TOEICは、ちょっと前は500点そこそこだったが、今は600点代後半にまで上がっている。このように企業が学生に課すハードルは上がっている。
企業においては、権限は、能力ではなく年齢で決まる。技術者にとっては、事務系よりはるかに深刻だ。キャリアを重ねても、必ずしも人材の価値が上がるとは限らない。なぜなら、技術の蓄積よりも、革新のスピードのほうが重要になった業種が急速に増えているから。
日本の企業において、休暇は会社の温情によるサービスであり、労働者の権利とは認知されていない。もちろん、労基法では権利とされている。そんな無茶苦茶な労働環境の下で、黙々と働く日本人は、勤勉ではあるが、ヒツジの従順さのようなものだ。
ヒツジを逃がさないようにするには方法が二つある。一つは逃げられないように鎖でつなぐ。もう一つは、そもそも逃げようという気を起こさせないこと。
企業が体育会系を好むのは、彼らが主体性をもたない人間だから。徹底した組織への自己犠牲の精神、体罰さえも含む厳しい上下関係というようなカビの生えた遺物が、いまも多く体育会では脈々と受け継がれている。
彼らは、並の若者よりずっと従順な羊でいてくれる可能性が高い。つまり、つまらない仕事でも、上司に言われた以上はきっちりこなしてくれる。休日返上で深夜まで働き続けても、文句は言わない。彼らにとっては、我慢こそ最大の美徳なのだ。
他人より少しでも偏差値の高い大学を出て、なるたけ大きくて立派だと思われている会社に入り、定年まで勤める。夜遅くまで面白くもない作業をこなし、疲れきってはネコの額のような部屋に寝るために帰る。そして、日が昇るとまた、同じような人間であふれかえった電車にゆられて、人生でもっとも多くの時間を過ごす職場へ向かう・・・。
それこそが幸せだと教えこまれてきた。だが、少なくとも、それだけで一定の物質的、精神的充足が得られた時代は、15年以上も昔に終わった。
その証拠に、満員電車に乗る人たちの顔を見るといい。そこに、いくばくかの充足感や、生の喜びが見えるだろうか。そこにあるのは、それが幸福だと無邪気に信じ込んでいる哀れな羊か、途中で気がついたとしても、もうあと戻りできないまま、与えられる草を食むことに決めた老いた羊たちの姿だ。
著者は、若者はもっと自分の権利を主張すべきだ。自分の人生を大切にすべきだ。投票所に行って、きっちり意思表示すべきだ。こう強く主張しています。この点は、まったく同感です。
21世紀のマルクス主義
著者:佐々木 力、出版社:ちくま学芸文庫
数学史を専攻すると同時にマルクス主義とりわけトロツキイの信奉者でもあるという著者がマルクス主義を現代に復権させようと主張している本です。
著者はコミュニズムを共産主義と訳すのは、若干アナクロニズムであり、賞味期限が切れているという印象を抱いています。共産というより共生というべきではないかと主張するのです。
著者は環境社会主義を説きます。この環境社会主義は、初版社会主義の解放目標を保持し、社会民主主義の軟弱な改良主義的目的と、官僚社会主義の生産主義的構造とを拒否する。エコロジー的枠組み内での社会主義的生産の手段と目的を再定義することを主張する。持続可能社会のために本質的な成長の限界を尊重する。
現代帝国主義は、自然に敵対する帝国主義である。とくに、核兵器は、現代帝国主義の政治的、モラル的矛盾の結節点である。
ソ連「社会主義」の一時的挫折、中国の市場原理の導入をもって、マルクス主義本来の社会主義プログラムの蹉跌とみるのは、あまりに早計である。
ソ連邦時代の公有財産は、彼らのもとで急成長した新興成金によって「強奪」されてしまった。かつての「労働者国家」ソ連邦が変貌した現在の資本主義ロシアでは、かつてのノーメンクラトゥーラである「デモクラトーゥラ」は国民の資産をかすめとって私物化し、さらに「強奪化」し、経済を混乱の極に陥れている。彼らを国際資本が助けている。
今日の大方の論者は、ソ連邦の崩壊をもって社会主義思想一般までも有効さを喪失したかのように喧伝しているが、レーニンとトロツキイは、ソヴィエト国家を社会主義をめざすべき政体と見なし、その意味で「社会主義的」政体と呼んでいたものの、マルクス主義的意味での本来的な社会主義体制であると断定的に名指ししたことはないのだ。
アメリカ型資本主義が勝利した。ソ連型社会主義は敗北した。マルクス主義なんて前世紀の遺物だ。そんな通説がいま根本的に疑われているのは確かです。なにしろ、アメリカ型資本の基盤の弱さには定評があります。その典型的例が治安の悪さです。人々が安心して暮らすこともできない社会にしておきながら、世界の憲兵として全世界を支配しようなんて、虫が良すぎます。
マルクス主義の復権がなるかどうかは別として、政治の光はもっと弱者保護に向かうべきだと私はつくづく思います。ところが、安倍政権の高官が先日、格差を云々することは社会主義をもとめているようなものだと強弁しました。現代日本で格差が加速度的に拡大しているのは現実です。その格差縮小を目ざすのが社会主義だというのなら、日本は社会主義を目ざすべきだということになります。
2007年2月 7日
小泉の勝利、メディアの敗北
著者:上杉 隆、出版社:草思社
小泉純一郎が首相になったときの内閣支持率は80%。5年たって辞めたときの支持率は60%近かった。なんという馬鹿げた現象だろうか。自民党ではなく、日本社会を徹底して破壊した男に対して、日本人がこんなにまで高く評価するとは・・・。
この本は、小泉政権発足を支えた功労者でもある田中眞紀子の虚像を暴くところから始まります。
眞紀子の実母への冷たい仕打ち、秘書や身近な者に対する冷酷さ。弱者に光をあてる福祉の実現を目ざすと眞紀子が言うとき、その言葉はむなしい。しかし、その虚像を知りながら、マスコミは眞紀子を天まで高く持ち上げてきたし、今も持ち上げています。その罪はまことに重大です。
小泉のメディア戦略は、首席秘書官の飯島勲によって立てられた。活字よりテレビ、一般紙より週刊誌。一般紙にちょこっと書かれるよりも、スポーツ新聞にドーンと書かれたい。
テレビは政治劇場と化していた。ワイドショーなどの情報番組は、特異なキャラクターをもつ政治家を頻繁に取りあげ、主に主婦層をターゲットに昼間の視聴率を競っていた。
役者はそろっていた。小泉純一郎、田中眞紀子、塩川正十郎、竹中平蔵の言動が連日テレビにのって伝えられた。司会者やコメンテーターは、彼らは政治を分かりやすくしてくれた立役者として高く評価し、くり返し、その映像を流した。
本当にこんなことでいいのでしょうか。この本は「メディアの敗北」といっていますが、私はメディアは「敗北」したのではなく、小泉と一緒になって国民を欺した共犯者だと考えています。視聴率至上主義で、世の中がどうなろうと自分たちの知ったことじゃないと無責任に走ったのです。「敗北」なんて、きれいごとですませてほしくはありません。
テレビには陥穽がある。画面に流れる番組の大半は事前に録画されたものであり、番組制作者の恣意がたやすく入ってしまう余地がある。都合のいい場面やコメントを切りとり、視聴者の求めていると思われる番組づくりを繰り返す。
テレビに限らず、実は、日本のメディアにはタブーが多く存在する。
暴力団、芸能界の腐敗、電通、皇室など。私は、ほかにもまだたくさんのタブーがあると考えています。
日本のメディアは、自己規制によって自らタブーをつくっている。
2005年夏の郵政解散・総選挙について、著者は、それをジャーナリズムにとっての「敗北の墓碑」だと断言する。メディアは、小泉の欺瞞を暴き、視聴者や読者の前に提示し、選挙中に選択の材料として提供することができなかった。つまり、権力監視というジャーナリズムの最大の仕事を全うできなかった。
この本で救われるのは、著者がこうやって反省しているのを知ることができることです。しかし、この反省は決してジャーナリズム一般に共通しているとは思われません。悲しいことです。いままた安倍首相の憲法改正論を当然のことのようにマスコミはたれ流しているではありませんか・・・。
2007年2月 2日
ケータイの未来
著者:夏野 剛、出版社:ダイヤモンド社
おサイフケータイをカギとして利用する分譲マンションが福岡市にある。カギとして利用するほか、電子メールをつかった合鍵新規発行、帰宅をメールで知らせる解錠通知、カギのかけ忘れを確認する、入退室履歴を参照する、などなどができるすぐれものだ。
先日の新聞に日本のケータイ・メーカーは中国市場から撤退したとのことです。欧米のメーカーに負けてしまったのです。ところが、日本のケータイは世界のなかで抜群に質が高いというのです。機能や商品としての完成度が格段に違うそうです。それでも欧米のメーカーに安さで負けてしまいました。世の中、むずかしいですね。この原因は日本人のプレゼン能力のなさだけではないでしょう・・・。
おサイフケータイは、クレジット産業との一層の提携を考えているようです。月1万円以下ならドコモが与信する。そのほか、20万円以上のクレジット・カードとも結びつける。
ドコモは5兆円、KDDIが3兆円、ボーダフォンも1兆5千億円。日本のケータイ事業者は、いずれも1兆円企業。3社あわせて10兆円近い売上げがありながら、経済界のリーダーにはなりえていない。
私のケータイが目覚ましにもつかえるというのを最近知りました。そして、この本によると、人間の耳には音として聞こえないけれど、不快な音でない目覚ましの役目を果たす音域のものが開発されているそうです。すごーい・・・。
先日、FAXをケータイに送ることができるということも聞きました。インターネットと結びついたIモード・ショックによってケータイの進歩はとどまるところを知りません。でも、ケータイでテレビを見たり、本を読んだりって、本当に必要なのでしょうか。私もケータイは持っていますが、カバンのなかにしまい忘れたり、一日一回もつかわなかったりという程度でしかありません。公衆電話が町になくなってしまったので、ないと困るのです。
クライエントに私のケータイ番号を教えることもしていません。たまに突然呼び出し音が鳴るので出てみると、間違い電話だということがよくあります。
2007年2月 1日
憲法は政府に対する命令である
著者:ダグラス・ラミス、出版社:平凡社
日弁連会館で著者の講演を初めて聞きました。まさに目が洗われる思いがしました。著者は日本語ペラペラのアメリカ人です。津田塾大学で20年間、政治学を教えていました。退職後の現在は、沖縄に住んでいます。1960年にも海兵隊員として沖縄に駐留していました。1936年の生まれです。
著者は、日本国憲法が押しつけ憲法であることを否定するべきではないと主張します。
憲法とは、そもそも押しつけるものである。なぜなら、憲法は政府の権力・権限を制限するものだから。民衆が立ち上がって、政府の絶対権力を奪取し、それを制度化するために憲法を制定するというのが世界各地で起きたこと。
だから、問題は押しつけ憲法かどうか、なのではない。誰が、誰に、何を押しつけたのか、ということである。なーるほど、そういうことなんですよね・・・。
日本を占領・支配したGHQが憲法草案をつくって日本政府に渡したとき、ホイットニーは、日本政府がすぐに案を日本の民衆に公開しなければ、GHQが公開するぞ、と脅した。GHQは、日本の民衆が必ず憲法草案を支持するという自信があった。そして、その予測は当たった。日本の民衆は日本政府への新憲法の押しつけに参加したのである。
ところが、半年もたたずして、GHQのほうは日本の民衆を共産主義勢力ないし、そうなりやすい人々として敵意と恐怖心をもって見はじめた。そして、憲法施行してまもなくから後悔していた。
いま、憲法9条、とりわけ9条2項が問題となっている。交戦権とは、兵士が人を殺す権利である。侵略権なるものは、現在の国際法のもとでは、そもそも存在しない。
交戦権とは、侵略戦争をする権利ではなく、戦争自体をする根本的な権利である。交戦権は、兵士が戦場で人を殺しても殺人犯にはならないという特権だ。それは兵士個人の権利ではなく、国家の権利である。
国家とは、正当暴力を独占(しようと)する社会組織である。
自然権としての自衛権は、生きものに限って当てはまる。国家は生物でもなく、自然には存在しない人為的な組織である。したがって、国家が自然権の持ち主であるわけではない。自然権としての自衛権は国ではなく民衆が持っている。
日米安保条約によって、アメリカ政府が日本国の主権の一部をアメリカへ持って帰った。日本の外交政策の基本を決める権利はアメリカ政府が握っている。
著者は講演のなかで、日本の平和運動が安保条約反対を唱えることが少なく(小さく)なったことを不思議がっていました。なるほど、そう言われたら、たしかにそうですね。
日本の首都にたくさんの米軍基地があり、沖縄は基地の中に点々と町があって、日本人が住んでいるといった感じです。世界で何か紛争が起きるたびに、日本政府はアメリカ政府の指令のままに動く意志なきロボットの存在でしかありません。
世界中の笑われ者が日本という国です。そんな国が国連の安保常任理事国をめざすというのですから、ちゃんちゃらおかしいですよ。お金があれば、国連のポストだって買えると日本の支配層は錯覚しているのでしょうね。馬鹿げた話です。
日本の自衛隊は、軍隊の組織を持ち、軍服を着て、軍事訓練を受け、戦争のための武器をもっている。しかし、肝心の軍事行動はまったく出来ない。わけのわからない組織だ。これは歴史の産物である。これは、日本政府と日本民衆の平和勢力との矛盾なのである。しかし、このような矛盾した状況ではあるが、憲法ができてから現在までの60年間、日本の交戦権の下で、一人の人間も殺されたことはない、という事実がある。すなわち、一見すると死んだように見える憲法9条は、すっとこどっこい生きているということだ。
大変わかりやすく、日本国憲法がいかに今の世の中に必要なものか、アメリカ人が日本語で語った本です。一読を強くおすすめします。