弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦前)
2020年10月28日
日ソ戦争 1945年8月
(霧山昴)
著者 富田 武 、 出版 みすず書房
1945年8月9日、ソ連軍が突如として満州に攻め入ってきました。たちまち日本軍は総崩れで、開拓団をはじめとする多くの在満日本人が殺害されるなど多大の犠牲者を出しました。このときのソ連軍の蛮行を非難する人が多いのですが、では日本の軍部(関東軍)は、そのとき、いったい何をしていたのか、それを本書は明らかにしています。
まず関東軍はソ連軍の侵入経路の最前線基地をその前に撤収していました。そして、関東軍の精鋭を南方戦線に抽出して転戦させ、その穴埋めとして開拓団の男子を8割、10割ひっぱってきて員数あわせをしました。しかも、武器・弾薬も十分でない状態でした。さらに、ソ連軍の侵攻直前に関東軍の上層部は自分たちの家族を内地にいち早く帰国させておきながら、在満日本人に対しては関東軍がいるから安心せよとなどという大嘘をついていたのでした。
なので、在満日本人の多くが犠牲にあったのは関東軍の意図したところ、見捨てた結果でもあったのです。現地の開拓団はいざとなれば日本軍(関東軍)が守ってくれると固く信じ込んでいたため、脱出が遅れてしまったのです。それは、関東軍が住民に本当のことを知らせたらパニックになるから言えない(言わない)という論理の帰結でもありました。むごいものです。
敗戦を予期した関東軍高級将校たちは、8月4日ころから家財一切を軍団列車に乗せ、家族を連れて満州を逃げ出した。政府関係者も同じ。指導者を失った関東軍はまったく混乱し、兵隊は銃を捨ててひたすら南に走った。
8月2日、関東軍報道部長はラジオで、「関東軍は盤石。日本人、とくに国境開拓団は安心して仕事を続けて」と安心させた。そのうえで、関東軍の前線部隊は開拓団員や居留民を「玉砕」の道連れにした。
さらに、要塞建設にあたらせた中国人捕虜を、「機密の保護」の名目で殺害した。
満州の前線数百キロにあった堅固な陣地は、昭和20年の春から夏にかけて、日本軍の手によって見るも無残に破壊され、無防備地帯と化していった。
満蒙開拓団員や居留民を根こそぎ動員して関東軍は人員不足を埋めたものの、それでも定員の7割には達していなかった。そのうえ、新兵には三八式歩兵銃(明治38年の日露戦争時の銃)を支給したものの、その弾丸は十分ではなかった。新兵は訓練もろくに受けず、第二線陣地構築の労務を従事させられた。
ソ連軍は大きなT34戦車が何十台も一隊をなしてやって来るが、日本軍には戦車が1台もなかった。ソ連軍は各種の大砲を何十門も砲口を備えて打ち出すのに、日本軍は、加農砲3門、迫撃砲5門ほどしかない。ソ連軍は飛行機で絶えず偵察し、爆撃してくるが、日本軍には1機もなかった。日本軍の戦車は構造が時代遅れで、出力は弱く、ソ連軍の軽戦車とも比較にならないほどの弱さだった。
満州に来たソ連軍は独ソ戦に従事していたので、疲労困憊していた囚人部隊だというのは誤った俗説。独ソ戦のあとリフレッシュもできていて、新兵も補充されていた。そして政治教育は徹底していた。さらに、囚人だけの部隊はなく、囚人といっても経済犯が主であり、イレズミの囚人兵たちがソ連軍の主力というのは間違い。
いやあ、いろんな真実が語られています。さすがは学者です。1945年8月に日ソ戦争の状況を正しく知ることのできる貴重な本です。
(2020年7月刊。2700円+税)
2020年9月22日
赤星鉄馬、消えた富豪
(霧山昴)
著者 与那原 恵 、 出版 中央公論新社
全然知らない人でした。その名前を聞いたこともありません。
若くして大変な大金持ちだったというのですが、どうしてそんなことが可能だったのか、それも不思議でした。この本を読むと、要するに、権力者との太いコネ、そして戦争です。
まるで、アベ友の話と同じです。アベノマスクやGOTOキャンペーンは、アベの親しい仲間たちが大変な金もうけをできたことは間違いありません。それは決して下々(しもじも)の苦難を救うためではありませんでした。
そして、つい先日、自民党の女性議員たちが先制攻撃ができるようにしろとアベ政府にハッパをかけました。国民の生活はどうなってもよいけれど、「国家」は守らなければいけないという信じられない発想です。そこでは国民あっての「国」というのではありません。「国家」を守るために先制攻撃できるだけの強力な武器を備えるべきだという要請です。恐ろしい発想です。
赤星鉄馬の父は薩摩藩出身の赤星弥之助。樺山資紀(かばやますけのり)、五代友厚といった薩摩人脈を背景。父の弥之助は、もとは磯永弥之助だったが、赤星家再興のために養子となった。
赤星とは、さそり座の一等星、アンタレスの和名、夏の南の低空に見える赤い星のこと。
弥之助は、西郷隆盛のはじめた西南戦争を無益だと批判して、薩軍に加わらず、妻子ともども桜島に避難していたという。そして、薩英戦争で活躍したアームストロング砲を扱う武器商人のアームストロング社の代理人となった。
本書の主人公の赤星鉄馬はアメリカに留学した。アメリカの日本人は、このころ急増した。明治13年に148人、明治23年に2039人、鉄馬がアメリカに渡った明治33年に3万4326人、10年後の明治43年には2倍超の7万2157人となった。このころ永井荷風もアメリカに渡り、4年間の滞米生活を『あめりか物語』に描いている。これも私は知りませんでした...。
ところが、父の赤星弥之助は、明治37年12月に50歳で亡くなった(癌)。鉄馬が22歳、アメリカにいるときのこと。それで300万円の資産を相続した。「大日本百万長者一覧表」で三井や浅野などの財閥の総帥と肩を並べている。今の300万円とは、まるで違うのですね。
アメリカから日本に戻り、1年の兵役もすませると、結婚し、新婚旅行として、世界一周旅行に出かけた。さすがに超大金持ちは発想が違いますね。28歳の鉄馬が美人の妻(21歳)を連れて、トマス・クックの手引きで世界一周旅行に出かけたのでした。そのころ、トマス・クック社は3ヶ月間で2340円の世界一周旅行を上流階級の人々に売り込んでいたとのこと。
大正3年(1914年)に起きたジーメンス事件で、鉄馬は何の関係もしていないが、マスコミは鉄馬の名前をあげて軍部と経済人の癒着を問題とし、世間が沸騰した。
鉄馬は父から受け継いでいた資産を売りに出した。それは、510万円(今の110億4千万円)にのぼった。このお金の一部で、「財団法人敬明会」を設立し、皇族などを表に立てた。
鉄馬はゴルフや釣りを楽しんだ。鉄馬は釣りが好きなことから、ブラックバス(魚)の日本への投入に積極的だった。今では、ブラックバスは肉食魚として嫌われものでしかありません。
この本によると、吉田茂は戦前、大勢のスパイに監視されていたとのことです。知りませんでした。男女3人が女中や書生に化けていました。陸軍中野学校出身者である東輝次軍曹は、吉田の動静を逐一、報告していた。吉田宛ての手紙も開封して持参のカメラで写しとっていた。
鉄馬は、1951年(昭和26年)11月に69歳で亡くなった。
この本を読むまで、まったく知らなかった人の人生の一端を知ることのできた本です。
戦争で人を殺すのが金もうけにつながるというのは信じられないことですが、実際に、そうやってぜいたくな暮らしを過ごしているのですね...。許せませんが、今もそんな人たちが大勢いるのでしょう。
(2019年11月刊。2500円+税)
2020年9月18日
帝銀事件と日本の秘密戦
(霧山昴)
著者 山田 朗 、 出版 新日本出版社
帝銀事件とは1948年1月26日、東京で発生した銀行強盗殺人事件。銀行員12人が毒殺され、現金・小切手500万円が盗まれた。画家の平沢貞通が8月に逮捕され、9月に犯行を「自白」。しかし、裁判では一貫して否認して無実を主張したが、1955年に死刑が確定した。その後、19回も再審請求したが、すべて却下(今も請求中)。平沢は死刑執行も釈放もされず、事件から9年後の1987年5月に95歳で死亡した。
この本は帝銀事件の捜査にあたった警視庁捜査一家の甲斐文助係長の個人的なメモ(全12巻、3000頁、80万字という膨大なもの)を著者がパソコンに入力してデータとして整理しなおしたものをもととしています。
10人以上の銀行員に対して、平然と毒を飲ませ(行員を安心させるため自分も一口飲んでいる)たという手口、しかも、2回に分けて飲ませ、即死ではなく数分後に全員が死ぬ毒物という、素人にはとても出来ない手口。それは、人を何度も殺したことのある、しかも毒物の扱いに慣れた者でなければやれないことは明らか。素人の画家に出来るような手口ではない。
この甲斐捜査手記によると、捜査本部は、毒物(青酸化合物)を扱っていた日本陸軍の機関、部隊にターゲットを絞って捜査をすすめていたことが判明する。これらの関係者は、帝銀事件の犯人は、そのような機関ないし部隊の出身者だし、青酸化合物は青酸ニトリールだと特定した。もちろん、そのなかには、例の七三一部隊もふくまれている。
石井四郎にも何回となく面談して追求しているのですが、いつものらりくらりだったようです。それにしても、著者は、戦後3年もたってない1948年1月(犯行日)から8月までのあいだに、日本軍の秘密戦争機関・部隊のほぼ全容を警視庁の捜査本部が把握していたことに驚いています。ただし、占領軍が七三一部隊の石井四郎以下と取引して、「研究」資料の提供とひきかえに免責したこと、世間には一切秘匿にしたままにするという大方針でもありました。
その結果、日本軍が中国大陸で残虐非道なことをしていたことを日本国民は知らされず、知ることなく、ひらすら戦争の被害者とばかり思い込むようになって今日に至っているわけです。
この本のなかに、七三一部隊と同じことをしていた日本人医学者の次のような述懐が紹介されています。恐るべき内容です。戦争は本当に怖いものです。
「はじめは厭(いや)であったが、馴(な)れると一つの趣味になった。
オレが先に飲んでみせるから心配しなくともよいから飲めと言ってやった。捕虜の茶碗には印をつけてある(ので、自分は安心して飲める)」
目の前で生きた人間に毒物を投与して死に至らしめる残酷な実験が「馴れると一つの趣味になる」というのは、戦争が、あるいは軍事科学に歯どめなく没入することは、人間の正常な倫理観を破壊してしまうことを示している。戦争に勝利するため、研究成果をあげるという大義名分がかかげられたとき、真面目な人間、使命感をもつ研究者であればあるほど、人間性を喪失してしまうという戦争の恐ろしさを示す実例だ。いやはや、人を殺すのが「趣味」になった科学者(医師)がいたのですね。チャップリンの映画「殺人狂時代」を思い出します。
七三一部隊と同じようなことをしていた「六研」での話...。
人間には荷札をつけ、青酸ガスを吸わせて、「1号は何分(で死んだ)、2号は何分」と観察する。そして、その死後の遺体処分は、特設焼却場で電気仕掛けでミジンも残らないようにしてしまう。粉にして上空に飛ばしてしまう。
「捕虜」とされているのは、「反満抗日運動」によって捕まった中国の人々であったり、ロシア人であったりした。
七三一部隊は敗戦直前の1945年8月11、12日の2日間で、残っていた捕虜400人近くを全員殺した。4分の1は縄を一本ずつ与えたので、首吊り自殺した。残りは青酸カリを飲ませたり、クロロホルム注射で殺して「処理」した。青酸ガスで殺したという報告もある。
いやはや、日本陸軍というもののあまりに残酷な本質に接すると、同じ日本人として身の毛がよだちます。本当に残念ですが、中国の人々には申し訳ないことをしたと思います。これは決して自虐史観なんかではありません。
1948年は、極東軍事裁判でA級戦犯に対する判決が出された年であり、BC級戦犯の裁判はまだ継続していた。大牟田にあった連合軍捕虜収容所の初代・二代の所長は捕虜虐殺(アメリカ人2人が死亡)によって死刑となり、絞首刑1号そして2号となりました。
この同じ時期に同じような、はるかに大量の「捕虜」殺害をした七三一部隊の石井四郎部隊長以下は免責され、やがて要職を歴任していったのです。
平沢貞通は、政治力学に翻弄された哀れな犠牲者だった。まさしく、そのとおりです。
大変な労作に驚嘆してしまいました。
(2020年7月刊。2000円+税)
2020年8月28日
告白
(霧山昴)
著者 川 恵実 、 出版 かもがわ出版
岐阜・黒川の満蒙開拓団73年の記録というサブ・タイトルのついた本です。2017年8月に、NHKのEテレ特集が本になったものです。衝撃的な内容です。
岐阜県の黒川開拓団650人は日本敗戦に孤立し、中国人から襲撃されていた。そこで、開拓団が生きのびるため18歳以上20歳前後の未婚女性15人をソ連兵に差し出し、「性の接待」をし、そのおかげでソ連兵から護衛され、食糧などをもらって1年間生きのび、650人の団員のうち450人が日本に帰国することができた。
このとき「接待」した当時20歳の女性が顔と名前を出して、証言したのです。
黒川開拓団が入植した場所は、ハルピンと新京の中間あたり。開拓団に行った人は、日本でも生活に困窮していた人々。国策に応じて村をあげて満州に渡った。黒川開拓団の隣の開拓団は敗戦直後に270人が全員自決したところもあった。
黒川開拓団でも自決しようという声は強かったが、生きて日本に帰ろうと呼びかける人がいて、まとまった。そして、中国の匪賊を追い払ってもらおうとソ連兵に助けを求めに行った。
お母さん、お母さんって泣くだけ...。医務室に行くのも恥ずかしいよ。洗浄してもらうじゃない。子どもが出来たら困るのと、病気が移っちゃ困るのと...。
15人の女性のうち4人が性病や発疹チフスで命を落とした。
この本を読んで救われるのは、日本に帰国してから、開拓団仲間などと結婚し、子どもをもうけて、苦労しながらも幸せに暮らしたことが写真とともに紹介されていることです(もちろん、映像でも紹介されたことでしょう)。
ただ、日本の子どもたちに戦争の苦労の話をするときに、さすがに「性の接待」の話はしなかったとのこと。それはそうでしょうね、ちょっと難しすぎますよね...。
貴重な歴史記録を映像と写真で生々しく伝えてくれる本でした。目をそらしたいけれど、目をそむいてはいけない重たい歴史です。一読をおすすめします。
(2020年3月刊。2500円+税)
2020年6月30日
河口慧海
(霧山昴)
著者 高山 龍三 、 出版 ミルネルヴァ書房
河口慧海(えかい)の『チベット旅行記』(講談社学術文庫)を読んだときには、その圧倒的な迫力に、ついたじたじとなってしまいました。禁断の地、チベットに苦労して入り、修行し、仏教問答をする求道士の姿に接し、ただただ呆れ、驚嘆したものです。
この本は河口慧海に関する総合文典のようなものです。驚くのは、1929年生まれの著者自身が1958年ころ1ヶ月も現地を歩き、チベット人村に滞在したことがあるということです。したがって、土地勘があるわけです。これは、やはり違いますよね...。
「探検記」としてもてはやされた『チベット旅行記』によって、多くの読者はこの本を探検談としても評価したが、本当は仏教の書として読んでほしいと著者は願っています。
河口慧海のチベット探究の目的は、真の仏教を求めたものだった。
河口慧海は、明治になる2年前の1866年、堺に生まれた。長男であり、小学6年生のとき、父の意向で退学し、家業である桶樽づくりの仕事を手伝った。それでも、勉学を志し、夜学校や晩晴書院などで勉強した。
そして、15歳のとき、慧海は、釈迦の伝記を読んで発心した。酒、たばこ、肉食をしない、女性に近づかないという三つの誓願を生涯にわたって実行した。
27歳からは、午後は食べない、非時食戒(ひじじきかい)という戒律を守り、それを守った。昼までにお茶を沸かし、麦こがし粉をバターや植物油とともにこねて食べた。一日一食主義だ。
1897年6月、友人有志からもらった530円をふところにしてチベットに向かった。この530円というのは、今のお金だといくらになるのでしょうか...。
インドに着くと、ヒマラヤ山麓の地で、チベット語とくに俗語の習得につとめた。
慧海がチベットのラサに到着したのは、日本を発って4年後、チベットに入って8ヶ月後だった。慧海はインドからまずネパールに密入国した。1899年1月のこと。ネパールの山村に1年半滞在し、モンゴル人のラマ僧からチベット仏教と文法を学び、チベット人のあいだで生活して、習慣を身につけ、風土順化した。すごいですね...。ずっと1日1食なのですよ。もちろんネパール語も勉強しています。
ネパールでは、外国人を部屋に入れたり、一緒に食事するのが禁じられていたので、家の外、岩の下、森の中で夜を明かさなければならなかった。
厳しい戒律を守る慧海は、村人から尊敬され、何人もの村人に授戒を受けさせた。村に居着いてもらおうと、慧海に娘を嫁にしてもらおうとした村長もいたようです。
慧海は、チベット人の風俗習慣を身につけるだけでなく、石を背負って山登りのトレーニングまでしたのでした。いやはや、なんとすごいこと。35歳のことです。
国境の峠で昼食をとる。背負っている荷をおろし、袋から麦こがしの粉を出して椀に入れ、それに雪とバターを加えてこね、トウガラシと塩をつけて食べる。これがチベット人のもっとも普通の食べ物だ。慧海は、これを「極楽世界の百味の飲食(おんじき)」と表現した。このあと、午後は、一切食べないのです。ああ、なんということでしょう。空腹に耐えるのも修行のうちなのです。
慧海はチベットのラサに滞在しているとき、二の腕の骨の外れた小僧を直してやったことから、それが評判となって「にわか医者」(セライ・アムチ)と呼ばれるようになった。地元の医者たちが、仕事を奪われて報復してこないか心配されたというのですから、並の評判ではありません。
1903年5月に慧海は無事に日本に帰国したのですが、それからは一躍、「時の人」として注目を集めたようです。それでも、日本国内よりも、ヨーロッパで高く評価されていたのでした。
南方(みなみかた)熊楠という明治の人物も突出した偉人ですが、私には河口慧海も同じようにケタはずれの人物だと思えます。このような先人がいるのを知ると、日本人も満更ではないと思え、少しばかり安心もします。なにしろ、無知・無能のくせに威張りちらすことにかけては天下一品のアベ首相とその取り巻き、そして50%前後の支持率を「誇る」という状況にガッカリさせられる毎日なのですから...。
(2020年1月刊。3800円+税)
2020年6月17日
民衆の教育経験
(霧山昴)
著者 大門 正克 、 出版 岩波現代文庫
戦前の日本の子どもたちと学校との関わりが明らかにされています。
「生活極めて困難故に本人を要す」
これは戦前の小学校の内部書類にくり返し出てくる文章だというのですが、私はとっさに何のことやら分かりませんでした。要するに、生活が大変なので、子どもを学校にやれない、不就業を認めてほしいという申請書にある文章なのです。
その理由は、さまざまです。小さい弟妹がいる、病人がいる、一家多人数、年寄りがいる...。ところが、「戸主54歳」とか「戸主人力車夫」というのもあり、いったいこれは何なのか...。
ともかく、生活するに子どもが必要なので、学校にはやれないという申請書を出して、それが認められていたのです。これは、東京都下の田無(たなし)町の小学校のことで、ときは日清(1894年)、日露(1904年)戦争のころのことです。
長野県の五加村では、日清・日露戦争のころ、女子の未就学が減少し、男子だけでなく、女子も6歳になると小学校に通うようになった。ところが、日露戦争のころには、家計補助や子守を理由とした女子の中途退学者が膨大に出現し、女子の多くは卒業を待たずに尋常小学校をやめていた。
初等教育の定着は、むしろ農村で先行して、大都市では遅れた。
明治期の小学校では、日ごろ、教室で、「国家有為の人物」になる必要性をくり返し説かれていた。
山形県豊田村では、1931年ころ、白米を食べる農家が一般的であり、副食物は自家栽培の野菜で、肉類や魚が食卓にのぼることはまれだった。食事は銘々膳を用いる農家が多く、飯台(ちゃぶ台)を使うのは非農家の俸給生活者くらいだった。
日光や灯火が少なく、暗い室内で作業したり本を読み、家の中には煙が立ちこめているため、子どもをふくめて一家全員がトラホームにかかっている例が少なくなかった。
東京市内の農家の女性は農家に嫁ぐことを嫌い、農家の青年が結婚しようとすれば、遠方の農村から相手を探さなければならなかった。農家の親のなかにも、娘を農家に嫁入りさせたくないというのもいた。
下層農家の女子まで、農家に嫁ぐことを好まず、女中や女工として都市にはたらきに出ることが増えた。
東京の中野駅近くにあった桃園第二尋常小学校では、1931年9月の柳条湖事件に始まる満州事変のあと、子どもたちは、「らんぼうな支那」、「我が(日本軍)兵士は、実に正義のために今、寒い満州で意地の悪い支那人と戦っている」と書いた。「らんぼうな中国」に対する、「正義の日本」という対比です。学校は満州事変のころの民衆動員の有力な場となっていた。
戦前、戦中の子どもたちの実像を知ることのできる貴重な文庫本です。
(2019年9月刊。1420円+税)
2020年4月16日
証言・治安維持法
(霧山昴)
著者 NHK・Eテレ特集・取材班 、 出版 NHK出版新書
2018年8月18日にEテレで放送された番組「治安維持法10万人の記録」が本になったのです。戦後の治安維持法の犠牲者(検挙された人)がまだ存命し、証言したというのにも驚きました。
なんと103歳の杉浦正男さんが、27歳の印刷工だったとき、治安維持法に反していると警察にひっぱられ、柔道場で殴る、蹴るの拷問を受けたことを証言したというのです。仲間にレーニンの本とか吉野源三郎の『君たちはどう生きるか』という本を貸して読ませたのが「犯罪」だといいます。
この吉野源三郎も治安維持法の「目的遂行罪」で検挙されていたのですね...。
当時、陸軍の予備隊として兵役中だったのですが、1年半も陸軍刑務所に入れられ、軍法会議にかけられました。この獄中、吉野は自殺を図ったとのこと。出獄して、2年のあいだ失業したあと、1937年に児童向け文庫として出版したのが『君たちはどう生きるか』でした。
治安維持法が成立したのは1925年(大正末期)で、主として当時の日本で急速に影響力を伸ばしつつあった共産党を取り締まるためにつくられた。
治安維持法による検挙者は、20年間で、のべ6万8千人をこえる。
1927年の検挙者は20人だったのに、翌1928年には3426人となった。一気に150倍。これは、1928年3月の「三・一五事件」で1600人あまりが逮捕されたことによる。これには1926年に共産党が再建されていたことが背景となっている。
当時の共産党の幹部で、あとで転向し、戦後は右翼として暗躍した三田村四郎を義父とする女性も証言しています。三田村四郎は転向声明を出したものの、治安維持法が戦後に廃止されるまで獄中にいたとのことです。
特高警察官として「活躍」した人の子どもも登場します。
1928年の「三・一五事件」で検挙した1600人のうち、共産党員は400人あまりで、全体の7割は釈放せざるをえなかった。これをなんとかするために、「目的遂行罪」を導入した。この目的遂行罪こそ、共産党の取り締まりだけでなく、広く検挙を正当化した。そして、そこに裁判所のチェック機能は働いていなかった。
治安維持法は、その効果として、刑罰を課すという前に、検挙そのものが、与える社会的な影響が期待されていた。
1933年の検挙者は1万5千人に近かった。ところが、翌1934年には4千人となり1935年には1785人にまで激減した。
日本で、1928年から1938年までに治安維持法違反で無期懲役を言い渡された人は1人だけなのに、朝鮮では39人。懲役15年以上の刑についても、日本が7人なのに、朝鮮は48人だった。朝鮮では、治安維持法違反は共産主義運動をしたからではなく、独立運動をしたことがあたるとされていた。
いやはや、天下の悪法であることが、いくつもの証言を通じて嫌になるほどよく分かりました。
(2019年1月刊。900円+税)
2020年4月15日
五色の虹
(霧山昴)
著者 三浦 英之 、 出版 集英社
満州に建国大学なるものがあったこと、その卒業生たちが戦後、とくに韓国では大活躍したことなど、初めて知る話ばかりでした。
建国大学は、日本政府が満州国の将来の国家運営を担わせるべく、日本そして満州全域から選抜した「スーパーエリート」の養成所だった。日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの学生が6年間、異民族と共同生活を送った。それは「五族協和」の実践でもあった。
建国大学では日本人学生は定員の半分まで、残り半数は中国、朝鮮、モンゴル、ロシアの各民族に割りあてられた。そして、建国大学の学生には言論の自由という特権が付与された。それは、日本政府を公然と批判する自由を認めていた。
建国大学の設立には、参謀本部の石原莞爾(かんじ)大佐が深く関わっていたとのことです。そして、石原大佐の意を受けて、関東軍参謀本部の辻正信大尉も具体的に関与しています。
1学年の定員は150人、修学期間は、前期3年と後期3年の計6年間。全寮制を基本として、授業料は全額を官費でまかない、学生には月5万円の「手当」が支給される。学問、勤労実務、軍事訓練の3つが教育指針となっている。
建国大学は1945年8月の満州国崩壊とともに消え去った。開学して、わずか8年間存在したのみだった。建国大学の出身者は1400人。2010年の時点の生存者は350人。
戦後、日本人学生の多くはシベリアに抑留された。そして日本に帰国したあとも、あまり良い処遇を受けていない。
中国人やロシア人、モンゴル人は日本帝国主義への協力者とみなされ、自己批判を強要された。ところが、韓国では、姜栄勲のように軍幹部から首相になった人がいる。政府や軍、警察、大学、主要銀行などの主要ポストを建国大学出身者が握っていて、政財界には建国大学出身者のサークルのようなものがつくられていた。なぜか...。
建国大学出身者は、語学力に優れ、国際感覚を身につけているうえ、当時の韓国でもっとも求められていた軍事知識を有していたから...。
中国人学生たちは、建国大学のなかで、反満抗日運動の組織をつくって活動していたようです。
建国大学の卒業生たちを訪問してまわる旅の様子も興味深いものがあります。中国、韓国、台湾、そしてカザフスタンです。埋もれていた歴史を掘り起こす作業が、どんなに大変なのか、少し分かりました...。
(2016年8月刊。1700円+税)
2020年3月31日
西田信春――甦る死
(霧山昴)
著者 上杉 朋史 、 出版 学習の友社
北海道出身の青年が、福岡で活動中に久留米で逮捕され、その日のうちに拷問のために死亡した事件がようやく明らかにされたのでした。
その青年が偽名を使って活動していたため、特高警察も共産党の幹部だという以上は分からなかったようです。死後、九大で解剖されましたが、遺体(遺骨)の行方は結局、今も分からないままです。
この青年は西田信春。北海道は新十津川の出身で、東京帝大に入り、新人会で活動したあと、卒業後は、日本共産党の九州地方の再建責任者となって活動していたのです。
西田信春が生まれたのは1903年(明治36年)1月のことです。日露戦争の前年になります。西田の父・西田英太郎は新十津川村の村長にもなっています。西田は札幌一中を卒業して東京に出て1921年に一高に入学しました。同級生に経団連会長もつとめた大槻文平がいて、西田とは親交があったようです。他にも、堀辰雄、古在由重、志賀義雄、尾崎秀実など、壮々たる人がいます。大槻文平は『西田と私』という冊子を書いているとのこと。
西田は1924年4月に東京帝大文学部に入りました。中野重治や石堂清倫が同級生です。東京帝大で西田はマルクス主義に触れたのでした。日記が残っています。
そして、1925年12月に東京帝大新人会に加入しました。新人会はマルクス主義を勉強し実践する団体です。このころ東京では共同印刷で大争議が発生しています。
1926年に、東大で学生委員の選挙があり、民主化を目ざして西田は立候補し、中野重治とともに当選しました。
西田は1928年1月に京都伏見連隊に幹部候補生1年志願兵として入隊しました。除隊したあと、西田は『無産者の新聞』に入社し、その編集局員になりました。
1929年4月16日、西田は全国一斉検挙(四・一六事件)で逮捕された。1931年11月に保釈出獄するまで、2年7ヶ月間の刑務所生活を余儀なくされた。
1932年8月、西田は日本共産党九州地方オルグとして福岡にやってきた。鳥飼の樋井川の土手下の民家に間借りし、ここをアジトにした。西田は、九州では岡、坂本、坂田、伊藤そして平田を名乗っていて、誰も本名を知らなかった。西田は、すべてに慎重で、細心の注意と警戒を怠らなかったが、警察のスパイの2人(笹倉栄、富安熊吉)の正体を見抜けない心根の優しさと弱さがあった。西田の逮捕は、このスパイのタレ込みによった。
西田は1932年12月末に船小屋温泉(肥後屋旅館と綿屋旅館)で九州地方党会議を主宰し、九州地方の党を再建させた。このとき、柴村一重(戦後、郷土史家として有名です)も参加している。
1933年2月、九州地方空前の共産党大弾圧事件が発生した。「九州二・一一事件」と呼ばれる。総検挙者数は508人、うち起訴は80人。福岡県で323人、鹿児島73人、熊本46人、長崎40人...。西田はその前日の2月10日、久留米駅前で逮捕され、福岡警察署に連行・拘束されて、2月11日に殺害された。西田の屍体鑑定書が発掘(発見)されたのは19666年のことでした。私服刑事が、「あんまり白状しないから、しょうがないから足をもって警察署の2階から階段を上から下まで引きおろし、下から上までじっとやって、4回か5回やったら死んじゃった」という。ショック死ではないか...。
拷問は、2月16日の午後から2月11日の深夜まで、およそ10時間から12時間は続いた...。西田が特高警察から虐殺されたころ、岩田義道、小林多喜二、そして野呂栄太郎が同じように犠牲にあっています。特高警察をつかった戦前の権力の横暴は絶対に許すことができません。
それにしても、よく調べあげたものです。330頁の立派な本になっています。このような先人の生命をかけた苦労を忘れるわけにはいきません。いい本でした。若い人にもぜひ読んでほしいものです。
(2020年2月刊。1500円+税)
2020年3月27日
古川苞―その不屈の生涯
(霧山昴)
著者 藤田 廣登 、 出版 国民救援会葛飾支部
苞って漢字、読めませんよね。しげる、と読みます。古川苞は三・一五事件で逮捕された1600人のなかの一人でした。
三・一五事件とは、1928年(昭和3年)3月15日の未明、1道3府27県において、特高警察によって全国一斉に共産党とその同調者と目された人1600人が治安維持法違反として検挙された事件です。この年、初めての第1回男子普通選挙が実施され、労農党が躍進し、山本宜治も当選しました。3月15日というのは、この選挙直後のことです。
古川苞は1906年(明治39年)に北海道・小樽で生まれました。父は公務員で転勤が多く、古川は東京で小学校、そして東北の山形中学、山形高校を卒業して、1926年に東京帝大に入学しました。文学部社会学科です。
亀井勝一郎と山形高校で同学年で、亀井も古川も東大新人会に加入しました。そして、古川は墨田区柳島元町で活動していた帝大セツルメントに参加したのでした。
この帝大セツルメントでは、労働者に社会科学を教える「労働学校」の人気が高かったのですが、古川は「市民学校」という地味な活動分野を選びました。セツルメント市民教育部に所属し、中等課の講師を引き受けたのです。
私も古川の40年後の1967年にセツルメントに入り、川崎市幸区古市場(ふるいちば)で、若者サークル活動をしていました。セツルメント青年部です。そこで、大いに学び、目を開かされました。
古川のセツルメント「市民学校」には、東京モスリン亀戸工場働く人たちも生徒にいたようです。この工場では、1926年7月に総同盟の指導するストライキが起きたのです。
セツルメントではセツラーネームというものがあり、私は高校生までの坊主頭が過渡期でしたので、マンガの主人公と同じイガグリと呼ばれました。古川は「コモさん」と呼ばれていたそうです。
古川は、生活が実に几帳面で、まじめだったけれど、社会人生徒に冗談を言って笑わせ、教室はいつも明るい雰囲気だったとのことです。
私は、昔も今も、人を笑わせるのは、あまり得意なほうではありません。
古川は、柳島町にあった帝大セツルメントの宿泊所に寝泊まりしてセツルメント活動に打ち込みました。私も、川崎に下宿しながらセツルメント活動を続けましたので、大いに共通するところがあります。
飯島喜美という若い女性も帝大セツルメントと接触して目ざめ、16歳で賃上げストライキの先頭に立ちました。この飯島喜美はモスクワのプロフィンテルン大会にも参加し、報告していますが、帰国して活動中に特高警察に逮捕され、激しい拷問を受けた末、1935年12月に24歳という若さで獄死してしまいました。
三・一五事件で逮捕されたとき、古川はまだ帝大生であり、警察のブラックリストにのっていなかったので、29日間の勾留で釈放されます。そして、1929年に再び四・一六事件で、特高による全国一斉検挙があり、古川も再び逮捕されました。このときは、小松川警察に40日間も勾留されて拷問を受けたことから、心臓脚気が悪化したことから釈放され、自宅(郷里の山形)に戻りました。
やがて、健康を回復すると、古川は、共産党中央部の秘密印刷所の任務についたのでした。当時は、私のセツルメント活動のころもまだそうでしたが、ガリ版印刷です。古川は、ガリ切りがうまかったのです。
そして、1930年2月に「二月事件」で逮捕され、今の中野区にあった豊多摩刑務所に入れられます。さらに市ヶ谷刑務所に移されたあと、古川はハンガーストライキを始めました。病気が悪化して、執行停止となり、古川は自宅に戻ることができました。古川は無口で、不言実行型の青年だったので、まもなく活動を秘密裡に再開します。
1934年6月、自転車に乗って移動中、古川は江島区大島で検挙されました。実に4度目です。古川は獄中でも完全黙秘を貫いて、がんばりました。しかし、腸結核のため、自宅に戻され、そこで1935年12月15日に亡くなったのです。29歳でした。
青砥(あおと)無産者診療所が1930年8月に設立したときには、古川の父親が200円も拠出したそうです。
セツルメント活動のなかで社会の現実を識り、自覚して立ち上がった偉大な先輩の話を知り、胸が熱くなりました。わずか56頁の小冊子ですが、よく出来ていると思いました。救援会の皆さん、これからもともに不当な弾圧を許さない取り組みをすすめましょう。
(2018年12月刊。300円+税)
木曜日の朝8時半、隣の駐車場の奥にある草ヤブからタヌキが1頭出てきました。丸々ふとった親ダヌキです。昔からタヌキ一家がこの草ヤブに棲んでいたことは分かっていましたが、白昼堂々と出現してきたのには驚きました。
いつもネコが団地内を同じように巡回するのですが、ネコの姿は見かけません。タヌキはゆったりした足取りで坂道をのぼり、団地内を悠然と歩いていきます。
やがて、巡回が終わったようで、草ヤブに戻っていきました。
いったい何をしたのでしょうか...。不思議です。
火曜日に東京の日比谷公園に行って桜が満開なのに驚きました。私の町ではまだ二分咲きです。そして、花壇のチューリップが全然咲いていません。わが家は、それこそチューリップは満々開です。東京と福岡では、こんなに違うのですよね...。