弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦前)
2018年6月 5日
八甲田山、消された真実
(霧山昴)
著者 伊藤 薫 、 出版 山と渓谷社
日清戦争(1894年)で日本が勝ち、日露戦争(1904年)が始まる2年前の明治35年(1902年)1月、雪中訓練のために八甲田山に向かった歩兵第5連隊第2大隊は山中で遭難し、将兵199人が亡くなった。
この事件については、新田次郎『八甲田山、死の彷徨』が書かれ、映画「八甲田山」になりました。
この本の著者は元自衛隊員で、八甲田演習に10回ほど参加した経験がありますので、説得力があります。
遭難後の事故報告は、都合の悪いことは陰蔽あるいは捏造し、ちょっとした成果は誇張するのが常のとおりだった。
予行行軍と予備行軍の違い・・・。予行行軍は、本番とほとんど同じ編成・装備で田代まで行軍し、露営すること。予備行軍は、編成・装備・距離等に関係なく、たとえば本番のために1個小隊40名が10キロ行軍するようなこと。
行軍計画と軍命令の違いは何か・・・。紙に書いたものが計画、それを下達すれば命令となる。
行軍計画で一番重要なのは、時間計画である。陸軍の夕食は17時。だから、遅くとも15時には露営地に到着していないと17時に給食はできない。
八甲田山に向かった将兵は、温泉に入って一杯やろうと考えていた。
当時の日本軍には、防寒・凍傷に関する教育不足があった。それは軍の防寒に対する未熟さと制度の問題があった。下士官以下の兵士には下着は支給品で木綿だった。ところが綿は汗を吸収すると肌にぴったりとへばりついて身体を冷やすので、冬には不向き。毛にすると、汗をかいても身体に密着することなく、かつ保温性もあった。
そして、兵士はワラ靴をはいて行軍した。ワラ靴は、歩くときにはあたたかいけれど、運動止めると、それに付着した雪塊でかえって凍傷を起こしていた。さらにワラ靴を長くはいていると、編み目に入り込んだ雪がヒトの体温で溶けてワラが濡れ、じわじわと広がってワラ靴のなかがびちゃびちゃになる。気温が低いときには、そのまま凍ってしまう。
目的地の田代を知らず、計画と準備は不十分なまま、二大隊は悲劇へと突き進んでいった。このとき救出された将兵は、じっと同じ場所でほとんど動いていないことが判明した。
八甲田山事件は血気盛んな日本軍の将校が準備不足のまま成果を上げようとして起きた悲劇だった。そして、功名心にはやる福島の冒険を師団長が評価した。このことのもつ意味は大きい。通説や新田次郎の本とは違った視点から事件の真相を究明している本です。
(2018年2月刊。1700円+税)
2018年5月11日
戦争とトラウマ
(霧山昴)
著者 中村 江里 、 出版 吉川弘文館
戦争中、日本軍兵士には戦争神経症患者は少なかった。それは、戦死がこのうえない名誉と考えられていたうえ、生物として有する生命維持への恐怖を最小にし、結果として欲求不満を最小にする状況であったからだ。
こんなバカげた意見を2002年に発表した自衛隊員(研究者)がいたそうです。これって、まったく観念論の極致です。戦場と戦病死の実際を完全に無視した観念的精神論者の筆法でしかありません。
この本は、病院に残された資料をもとに戦争神経症患者の実態に迫っています。終戦直後、軍部は一斉に証拠隠滅を図りました。それは満州にあった七三一部隊だけではなかったのです。病院でも次々に資料が焼却されていきました。日本軍そして今の自衛隊の真相隠しは悪しき伝統なのです。
アフガニスタン・イラク戦争に派遣されたアメリカ軍兵士のなかでは、戦死した兵士よりもアメリカ国内に戻って自殺した帰還兵のほうが多い。
戦争では、加害者が被害者意識をもち、被害者がむしろ加害者意識や生き残ったことへの罪悪感を抱いてしまうという転倒現象がみられる。
日本兵士については、加害者としての一面があると同時に、国によって戦場へ駆り出されたという被害者の一面もあった。
戦時中、中国において上官の命令で罪のない市民を殺してしまったことによるトラウマを戦後の日本でずっとかかえ、慢性の統合失調症患者と扱われてきた男性がいる。
「人を殺せる」兵士こそが「正常」だという圧倒的な価値体系のもとで生きなければならなかった元兵士のなかには、個人の良心や戦後の市民社会における加害行為を否定する論理とのギャップに苦しみながら戦後を生きた人々が間違いなくいる。
トラウマを負った人は「二つの時計」をもっている。一つは、現在その人が生きている時間であり、もう一つは時間がたっても色あせず、瞬間冷凍されたかのように保存されている過去の心的外傷体験に関わる時間である。「戦場」という空間から離れ、「戦時」という時間が終わってもなお、傷が心身に刻み込まれて残っている。
戦争は狂気。敵も味方も、恐怖と憎悪にゆがんだものすごい形相でにらみあい、黙ったまま突き殺し、切殺し、逃げまどい、追いすがる。こんな白兵戦を経験したら、どんな人間でも鬼になってしまう・・・。
戦時中、兵士の欠乏に悩んだ当局は、不合格としていた知的障がい者たちも徴集し、軍務を担わせた。しかし、それは「帯患入隊」ということなので、恩給や傷痍(しょうい)軍人としての恩典は与えられなかった。
ええっ、これはひどいですね、ひどすぎます。
今ではかなり知られていることですが、日本軍は兵士が人を殺すことへの抵抗感をなくすため「実的刺突」を実施していた。これは、初年兵教育のなかで、生きている中国人を標的として、銃剣で刺し殺すというものです。その中国人は、たまたま日本軍に捕まったというだけで、殺人犯として死刑宣告になったとか、スパイとして潜入した中国兵とかいうものではありません。刺し殺すことに何の大義名分もなかったのです。
「なに、相手は中国人、チャンコロじゃねえか。オレは世界一優秀な大和民族なんだ。まして天皇陛下と同じ上官の命令じゃないか。一人や二人、いや、国のためなら、もっと殺せる」
こう考え、納得させて、日本兵は鬼と化していくのです。これでトラウマにならないほうが人間として不思議です。
日本兵に戦争神経症患者が少なかったというのは、肝心な記録が焼却処分されているなかで、自分に都合の良い資料だけをもとに、ヘイトスピーチと同じ精神構造でやっつけた妄想にすぎません。戦争の現実は直視する必要があります。
(2018年3月刊。4600円+税)
2018年4月24日
日本の戦争、歴史認識と戦争責任
(霧山昴)
著者 山田 朗 、 出版 新日本出版社
大変勉強になる本でした。司馬遼太郎の『坂の上の雲』がまず批判されています。なるほど、と思いました。日露戦争は、成功の頂点、アジア太平洋戦争は失敗の頂点と、司馬は単純に二分してとらえている。しかし、実のところ、近代日本の失敗の典型であるアジア太平洋戦争の種は、すべての日露戦争でまかれている。
日露戦争で日本が勝利したことによって、日本陸海軍が軍部として、つまり政治勢力として登場するようになった。軍の立場は、日露戦争を終わることで強められ、かつ一つの官僚制度として確立した。
日露戦争において、日英同盟の存在は、日本が日露戦争を遂行できた最大の前提だった。日露戦争の戦費は18億円。これは当時の国家予算の6倍にあたる。そしてその4割は外国からの借金で、これがなかったら日本は戦争できなかった。そのお金を貸してくれたのは、イギリスとアメリカだった。
日本海軍の主力戦艦6隻すべてがイギリス製だった。装甲巡洋艦8隻のうち4隻も、やはりイギリス製で、しかも最新鋭のものだった。このように、イギリスが全面的にテコ入れしたため、日本海軍は世界でもっとも水準の高い軍艦を保有していた。
日本軍は、大陸での戦いでロシア軍に徹底的な打撃を与えることが常にできなかった。その最大の要因は、日本軍の鉄砲弾の不足にあった。
「満州国」のかかげた「五族協和」でいう「五族」とは、漢・満・蒙・回・蔵の五族ではない。日・朝・漢・満・蒙の五族だった。
満州国には、憲法も国籍法も成立しなかった。日本は国籍法によって二重国籍を認めていない。満州国に国籍法ができると、満州国に居住する日本人は、満州国民となるのを恐れた。というのは、日本国籍を有しているのに、「満州国」に国籍法ができると、満州国に居住する日本人は「満州国民」になってしまう。
アベ首相がハワイの真珠湾を訪問したときのスピーチ(2016年12月27日)についても厳しく批判しています。日本軍が戦争を始めたのは、ハワイの真珠湾攻撃ではなかった。それより70分も前に、日本軍はマレーシアで戦争を始めていた。日本軍にとって、ハワイは主作戦ではなかった。つまり、マレーやフィリピンへの南方侵攻作戦が主作戦だった。ハワイ作戦は、あくまでも支作戦だった。
日本が韓国・朝鮮を植民地した当時に良いことをしたのは、あくまでも植民地支配のために必要だったから。統治を円滑におこなうためにすぎない。単なる弾圧と搾取だけでは支配・統治は成り立たない。地域振興とか住民福祉を目的とした政策ではない。そして、アジア「解放」のためという宣伝をやりすぎてはならないというしばりが同時に軍部当局から発せられていた。
戦後の日本と日本軍がアジアで何をしたのか、正確な歴史認識が必要だと、本書を読みながら改めて思ったことでした。
(2018年1月刊。1600円+税)
2018年3月20日
不死身の特攻兵
(霧山昴)
著者 鴻上 尚史 、 出版 講談社現代新書
1944年11月の第1回の特攻作戦から、9回の出撃。陸軍参謀に「必ず死んでこい」と言われながら、命令に背き、生還を果たした特攻兵がいた。とても信じられない実話です。
しかも、この本の主人公の佐々木友次さんは、戦後の日本で長生きされて、2016年2月に92歳で亡くなられたのです。佐々木さんは北海道出身で、札幌の病院での死亡でした。
佐々木さんは、航空機乗員養成隊の出身ですが、同期の一人に日本航空のパイロットになり、よど号ハイジャック事件のときの石田真二機長がいます。
日本軍の飛行機がアメリカ軍の艦船に体当たりしても、卵をコンクリートにたたきつけるようなもの。卵はこわれるけれど、コンクリートは汚れるだけ。というのも、飛行機は身軽にするために軽金属を使って作られる。これに対して空母の甲板は鋼鉄。アメリカ艦船の装甲甲板を貫くには、800キロの撤甲爆弾を高度3千メートルで投下する必要があった。日本軍の飛行機が急降下したくらいでは、とても貫通するだけの落下速度にはならない。
日本軍のトップは「一機一艦」を目標として体当たりすると豪語した。しかし、現実には、艦船を爆撃で沈めるのは、とても難しいことだった。
陸軍参謀本部は、なにがなんでも1回目の体当たり攻撃を成功させる必要があった。そのために、技術優秀なパイロットたちを選んで特攻隊員に仕立あげた。
参謀本部は、爆弾を飛行機にしばりつけた。もし、操縦者が「卑怯未練」な気持ちになっても、爆弾を落とせず、体当たりするしかないように改装した。 これは操縦者を人間とは思わない冷酷無比であり、作戦にもなっていない作戦である。
司令官は死地に赴く特攻隊員に対して、きみたちだけを体当たりさせて死なせることはない、最後の一機には、この自分が乗って体当たりする決心だと言い切った。ところが実際には、早々に台湾を経由して日本本土へ帰っていった。
佐々木さんは、上官に向かってこう言った。
「私は必中攻撃でも死ななくてもいいと思います。その代わり、死ぬまで何度でも行って、爆弾を命中させます」
生きて帰ってきた佐々木さんに対して、司令官は次のように激しく罵倒した。
「貴様、それほど命が惜しいのか、腰抜けめ!」
佐々木さんが特攻に行ったとき、まさか生きて還ってくるとは思わなかったので、陸軍は戦死扱いした。それで故郷では葬式がおこなわれ、その位牌に供物をささげられた。そこで、佐々木さんは故郷の親に手紙を書くとき、死んでないとは書けないので、生きているとも書けなかったから、マニラに行って春が来たと書いた。
特攻兵の置かれた状況、そして日本軍の無謀かつ人命軽視の体質が実感として分かる本でした。
(2017年11月刊。880円+税)
2018年2月23日
治安維持法小史
(霧山昴)
著者 奥平 康弘 、 出版 岩波現代文庫
アベ政権の下で、現代日本の法体系と政治の運営が、戦前の暗黒政治と似てきていると心配しているのは私だけではないと思います。
秘密保護法や安保法制法が制定され、モリ・カケ事件では開示すべき情報は秘匿されたまま、アベの仲間だけが特別に優遇されて暴利をむさぼっている、そして軍事予算が肥大化していく反面、福祉・教育予算は削減される一方。ところが、国民はあきらめ感が強くて投票率はやっと過半数・・・。
それでも、まだ戦前にあったきわめつけの悪法である治安維持法がないだけ現代日本はましです。なにしろ治安維持法なるものは、ときの政権が好き勝手に政府にタテつく人々をブタ箱に送り込むことができたのです。ひどすぎます。
治安維持法が制定されたのは1925年(大正14年)。1928年に緊急勅令で大きく改正され、さらに1941年(昭和16年)に、大改正された。
治安維持法は、刑事法というよりも警察や検察にとっての行政運営法というべきものだった。その運用実態に着目しなければ、治安維持法を語ったことにはならない。
治安維持法をつかって容疑者を逮捕はするけれど、起訴して裁判にかけるという正式手続きにはすすめずに、身柄を拘束しつづけるだけというのが、圧倒的に多かった。
特別要視察人制度なるものがつくられた。これはプライバシーの侵害体系だった。警察にとって意味のあるすべての動向が把握され、要視察人は、政治上は丸裸にされたも同然となった。
「国体」というコトバが法律上の文言として採用されたのは、治安維持法がほとんど最初である。
京都学連事件では、検事も禁固刑を求刑していた。ところが、その後、国体変革を目的とする思想犯について、裁判所は破廉恥罪の一種と判断して懲役刑を適用するようになった。
1926年12月に、日本共産党は山形県の五色温泉で再建大会を開いた。1928年3月15日、警察は1000人もの人々を検挙した(3.15事件)が、3分の2はまもなく釈放された。このころ、党員は全国に400人ほどしかいなかった。この3.15をきっかけとして特高警察が強化された。特高警察が全国化され、専任警視40人、警部150人、特高専門の刑事1500人を増員した。特高警察だけで追加予算200万円が承認された。司法省の思想係検事の追加予算は32万円だった。
「目的遂行のためにする行為」なるものが付加された。目的遂行罪である。
1929年3月5日、山本宣治代議士が暗殺(刺殺)された。治安維持法に反対を主張することが、どんなに危険なものを示した。3.15で検挙されたうち、起訴されたのは480人ほど。逮捕されたもののほとんどが不起訴となっている。3.15そして4.16事件の弁護をしていた弁護士20人が目的遂行罪で一斉に検挙された。1941年以降は、弁護人は司法大臣があらかじめ指名した弁護士のなかからしか選任できないこととされた。弁護権の実質的な剥奪である。これらの検挙された弁護士たちは布施辰治をのぞいて、全員が転向を表明している。
1938年10月から1939年11月にかけての企画院事件は、体制内部の抗争を反映するものであったが、権力者が政治目的をもって治安維持法を利用しようと思えば、いかようにでも利用できる、便利な法律だということを実証した。
自由にモノを言えない社会になりつつあるのが本当に怖いですね。何かというと、フェイクニュースを信じ込んだ人が「弱者たたき」に走るという現実があります。先日、辺野古の基地建設反対で座り込みしている人は、みな日当2万円もらっている「外人部隊」だと信じ込んでサウナで声高に話している男性がいたというのをネットニュースで知りました。嘘も百回言えば本当になるというヒトラーばりの手法が現代日本で堂々と通用している風潮を早くなくしたいと思います。
(2017年6月刊。1360円+税)
2017年10月25日
皇軍兵士、シベリア抑留、撫順戦犯管理所
(霧山昴)
著者 絵鳩 毅 、 出版 花伝社
著者は28歳のとき補充兵として召集され、4年間の中国戦線での軍隊経験を経て、シベリアに5年間の抑留のあと、中国で戦犯管理所に6年間も収容されました。日本に帰国したのは、1956年9月、43歳のときでした。
その著者は東大でカントの道徳哲学を学び、文部省に入って検閲業務に嫌気がさして退職して高校教師になったのです。ところが、徴兵され兵士になって初年兵のときに受けた私的制裁(リンチ)はすさまじいものでした。
初年兵は、四六時中、私的制裁の恐怖にさらされていた。それに反抗できるのは脱走か自殺しかなかった。そして、それぞれ1人ずつ実行する初年兵がいた。
軍隊とは、人格を物体に変えようとする、あるいは人間を殺人鬼に変えようとする、無謀な軍需工場ではないのか・・・。初年兵は、次第に精神を荒廃させていった。
軍隊では要領が尊ばれる。「奴隷の仮面」をかぶって、相手の暴力をやわらげる。それは、自分が二重人格に落ちることを意味する。
苦力(中国人の労働者。クーリー)を横一線に並べ、その後を着剣した日本兵が追い立てる。八路軍の仕かけた地雷をいや応なしに自らの生死を賭けた「人間地雷探知機」にしたのだ。おかげで日本兵は一人も死傷者を出さず、中国人には死傷者が出たものの、そのまま放置して日本軍は前進した。
初年兵を迎え入れて、捕虜の「実的刺突」を実施した。生きた中国人を突き殺すのだ。30人ほどの中国人捕虜は、みな逃げ遅れた農民たちだった。
「戦争に非道はつきものだ」
「戦争だ、やむをえない」
このように自分に言いきかせて自己弁護した。
「これでお前たちもやっと一人前の兵隊になれたなあ、おめでとう」
と初年兵を励ました。
シベリアで食うや食わずの生活から中国の戦犯管理所に入ると、十分な食事が与えられ、著者たちは驚き、感謝するのでした。
管理所の職員が一日に2食の高梁飯(コーリャンメシ)しか食べていないのに、日本人戦犯は白米飯を一日3食とっていた。さらには、おはぎ、寿司、モチ、かまぼこまでも食べていた。人間の食事だった。そして、週に1回は、大きな湯舟で風呂に入ることができた。月に1回は理髪室で調髪してもらった。このように中国では日本人戦犯を人間として扱ってくれた。
部屋では連日の遊び合戦が展開された。囲碁・将棋・マージャン・トランプ・花札。
戦前、中国人をチャンコロと軽蔑し、殴る、蹴る、犯す、焼く、殺すと、非業の限りを尽くした日本人戦犯に対して、被害者の中国人は殴りもしなければ、声を荒げることさえしなかった。この一貫した中国当局の人道主義的待遇、管理所職員たちの人間的偉大さの前に、戦犯たちは、ついに頭を下げざるをえなかった。そして、反省と自己批判の立場に移ることができた。
これは決して洗脳ではありませんよね。人間的処遇のなかで十分な時間をかけて、到達した考えを「洗脳」なんて言葉で片付けてほしくはありません。
ところが、日本に帰った元日本兵に対して、日本社会は「中国帰り」として冷遇したのでした。
著者は97歳のときに講話をしたあとの質疑応答のとき、「もしもまた同じような状況になったら、どうしますか?」と問われ、「私はまた、同じようにするでしょう。皆さんだって、そうです。それが戦争です」と答えた。実に重たい答えです。じっくり考えさせられる、価値ある本です。
(2017年8月刊。2000円+税)
2017年10月19日
「飽食した悪魔」の戦後
(霧山昴)
著者 加藤 哲郎 、 出版 花伝社
七三一部隊の中心部分は石井四郎をはじめとして終戦直前に満州から大量のデータと資材・金員とともに日本へ帰国し、部隊として存続していた。このことを初めて知りました。
そして末端の隊員には厳重な箝口令を敷いて軍人恩給も受けられないようにしながら、自分たちは大金をもとにのうのうと暮らし、多額の年金をもらっていたのです。そのうえ、アメリカ占領軍と裏取引して、人体実験のデータをアメリカに提供するかわりに戦犯として訴追されないという免責保証を得ていました。
こんな「悪」が栄えていいものでしょうか・・・。本当に疑問です。
1936年、軍令により関東軍防疫給水部(大日本帝国陸軍731部隊)が設立された。飛行場、神社、プールまである巨大な施設で、冷暖房完備の近代的施設をもち、監獄を付設して、少なくとも3000人を「実験」により殺した。1940年当時、年間予算1000万円(現在の90億円)が会計監査なしで支給されていた。
日本軍に抵抗したとして捕えた中国人、朝鮮人、ロシア人、モンゴル人などを人体実験のために収容し、囚人はマルタと呼んだ。憲兵・警察が容疑者を七三一部隊に移送してくるのを特移(特別移送扱い)と呼び、憲兵は特移を増やせば出世していった。その一人が伊東静子弁護士の父親で、44人を七三一部隊に特移扱いで送ったのです。
終戦時、残っていた400人の囚人を全員殺して遺体は燃やし、その灰は川に投げこんだ。
戦後、石井四郎は戦犯として追及されるのを恐れて、故郷の千葉では病死したとして偽の葬式までした。実際には、自宅をアメリカ兵相手の売春宿にして、ひっそり暮らしていたが1959年に67歳でガンによって死亡した。
七三一部隊が人体実験そして細菌戦を実際にやっていた事実が明るみに出ると、ジュネーブ議定書違反で問題となるだけでなく、七三一部隊を設立し動かしていた陸軍中央、それを承認していた昭和天皇の戦争責任問題にまで及ぶ危険があった。
七三一部隊について、関東軍参謀の担当は昭和天皇のいとこである竹田宮恒徳王であり、天皇の弟である秩父宮や三笠宮も視察に来ていた。昭和天皇は七三一部隊の存在を知り、中国での細菌戦を承認していたとみるのが自然である。
七三一部隊は終戦のころには、一方でペストノミを増産して最後の手段として「貧者の核兵器」を準備していたが、他方では敗戦時の証拠隠滅・部隊解体の準備もすすめていた。
七三一部隊の本部勤務員1300人の大部分は8月15日の前に満州から姿を消した。そして、日本本土で七三一部隊はよみがえることになった。七三一部隊の仮本部が置かれたのは金沢市の野間神社だった。
七三一部隊は満州から日本へ膨大な物資を運び込んだ。武器・弾薬や医薬品・実験機器・データ・研究書籍、そして現金・貴金属・証券類・・・。数千人分の寝具・夏冬衣料・携帯食料・工具・日用品もあった。
いったい、それらはどこへ行ったのでしょうか・・・。
七三一部隊は8月15日のあとに命からがら日本へ逃げ帰ってきたと考えていたのですが、まったく違いました。幹部連中は日本に戻ってからも引き続き給料までもらっていたとのこと、信じられません。
細菌戦の各種病原体による200人以上の症例から作成された顕微鏡用標本が8000枚も日本に持ち帰ってきていて、寺に隠したり、山中に埋められた。アメリカは、そのような貴重なデータを25万円(今日の2500万円相当)で買い取り、また、七三一部隊員の戦争責任を免除した。
石井四郎の隠匿資金は年間2000万円(現在の価値で20億円)とみられている。
七三一部隊の出身者たちが日本ブラッドバンクを設立し、のちにミドリ十字社となった。薬害エイズをひきおこした製薬会社である。
法曹界(とりわけ裁判所)で戦争責任が厳しく追及されているわけではありませんが、医学界ではもっと重大な戦争責任を問われるべき医師・医学者たちが出世していき、医師の世界に君臨していたようです。ひどいものです。
400頁もある貴重な大作です。戦前の日本人が中国大陸で実際に何をしたのか、忘れてよいはずがありません。これに「自虐史観」なんていう下劣なレッテルを貼るのはやめてください。
(2017年5月刊。3500円+税)
2017年10月 6日
日中戦争全史(下)
(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版 高文研
1938年1月の大本営政府連絡会議において、陸軍の参謀本部は中国との長期泥沼戦に突入するのを阻止しようとした。なぜか・・・。
このころ日本陸軍は、3ヶ月に及んだ上海戦に19万人を投入し、戦死傷者4万人という大損害を蒙っていた。それ以上に戦病者も膨大だった。南京攻略戦に20万人の陸軍を投入し、「首都南京を占領すれば中国は屈服する」はずだったのに、失敗してしまった。ゴールの見えない長期戦・消耗戦に、陸軍はこれ以上の負担と犠牲を蒙るのを回避しようとしたのである。
これに対して海軍首脳は、日本という国の運命より、日中戦争に乗じて海軍臨時軍事費を存分につかって、仮想敵のアメリカ海軍・空軍に勝てる艦隊戦力と航空兵力をいかに構築するのかばかりが関心事だった。本当に無責任きわまりありません。海軍は平和派なんて、真っ赤なウソなのです。
1938年末、日本の動員兵力は陸軍で113万人、海軍で16万人、合計129万人。このうち中国に派遣されたのは関東軍をふくめて96万人に達していた。
1939年7月のノモンハン戦争において日本軍は圧倒的な近代兵器を大量に駆使するソ連赤軍に惨敗してしまった。戦死傷者は2万人近い。
敗戦の責任をとって関東軍のトップは更迭された。ところが強硬論によって関東軍を泥沼の苦戦に引きずり込んだ作戦参謀の服部卓四郎中佐や辻政信少佐は、やがて東京の参謀本部の作戦課長、作戦班長に就任し、アジア太平洋戦争開戦の推進者となった。
まことに無責任な軍幹部たちです。そして、服部卓四郎は戦後は戦史研究者として長生きしています。この服部史観は海軍を擁護する俗説を広めました。
1940年8月、八路軍が百団大戦を開始した。このころ、八路軍・新四軍は60万人、民兵は200万人。解放区の人口は4000万人に達していた。日本軍は八路軍の戦力を軽視し、分隊単位で高度分散配置していたので、八路軍は、道路・鉄道の各所を破壊して分断したうえで奇襲攻撃をかけた。
百団大戦は、日本軍(北支那方面軍)の八路軍に対する認識を一変させ、その作戦方針を転換させる契機となった。主敵が国民政府軍から共産党軍に移っただけでなく、軍隊を相手にすることから、抗日民衆を相手にする戦闘に変化していった。
百団大戦後、日本軍は「正面戦場(国民政府軍戦場)」と「後方戦場」(敵後戦場)(共産党軍戦場)という二つの戦場での戦闘を強いられるようになった。
1943年2月のガタルカナル作戦を立案した参謀本部の主役は田中新一作戦部長、服部卓四郎作戦課長、辻政信作戦班長だった。
「海軍は陸軍にひきずられて太平洋戦争に突入した」という俗説があるが、真実は、その逆だ。海軍は日中戦争を利用して仮想敵である対米決戦に勝利するために軍備と戦力を強化し、南進政策に備えた。
日中戦争のおぞましい実態、軍部指導部の無責任さが如実に描写・分析されている労作です。広く読まれることを願います。
(2017年7月刊。)
2017年10月 5日
父の遺言
(霧山昴)
著者 伊東 秀子 、 出版 花伝社
規律正しく、仁慈の心をもつ日本人が中国大陸で虐殺したなんて真っ赤な嘘、だと真顔で言い張る日本人がいます。そんな人と、それを聞いてそうかもしれないと思っている人にはぜひ読んでほしい本です。
日本内地では善良な夫であり、優しい父親だった日本人が中国大陸に渡ると、罪なき中国の人々を殺害し、女性を強姦しても何とも思わない「日本鬼子」に変貌してしまうのです。恐ろしいことです。戦争が人間を殺人鬼に変えてしまいます。そこには、殺さなければ、自分が殺されるという論理しかないのです。
著者は国会議員になったこともある北海道の女性弁護士です。私より先輩ですが、今も元気に現役弁護士として活動しています。その父親が憲兵隊に所属していて、かの悪名高い七三一細菌部隊へ44人もの中国人を送ったのでした。その全員が石井四郎中将の率いる七三一部隊で人体実験の材料とされ、なぶり殺されてしまいました。
「日本鬼子」の非道さには言葉も出ません。戦後、父親は中国軍に収容され裁判にかけられます。しかし、死刑にならず数年の刑務所生活を経て日本へ帰国してきます。そして、日本では、昔のように好々爺として孫たちと接するのです。同時に、罪の償いをしなければいけないと子どもたちに伝えたのです。
著者は、その父親の思いをしっかり受けとめて生きてきました。
著者の父親は、満州にあった憲兵隊司令部に勤務し、満州各地で憲兵隊長をつとめた。著者の母親は、満州での特権的な暮らしに否定的だった。「よその国を占領し、中国の人たちを『満人』と呼んで奴隷のようにこき使い、特権的な生活をするなど、日本のやっていることはどこかおかしいといつも思っていた」
父親は中国で禁錮12年の刑期を終えて、1956年に日本へ帰国した。56歳だった。
父親は著者に対して、中国で裁判を受けた45人は、みな死刑になって当然のような残虐非道な戦争を指揮した者ばかりだったのに、誰も死刑・無期刑を受けなかったと語った。
大和民族の優秀さを示すために、中国人はダメだ、朝鮮人は下等だと、いつも民族に序列をつけていた。
中国人の1人や2人を殺したって、どうってことはない。どうせチャンコロだ。そんな大それた考えをもっていた。
中国では、日本に帰って共産主義を広めろと言われたことはない。そうではなくて、日本に帰ったら、平和な家庭を営んでください、それだけだった。すごいですね。泣けてきますよね・・・。
「戦争は、あっという間に起こり、起こったら誰も止められない。それが戦争というものだ」
「どんな真面目な人間でも、戦地では平然と人を殺し、他人の物資を奪い、女を見れば強姦する」
「戦局が不利になると、指揮官も兵隊もますます狂っていく。強気一辺倒になる。いま思えば、自分もそうだった」
Jアラートが鳴り響くなかで、恐怖心があおられ、「無暴なことをする北朝鮮なんか、やっつけろ」の大合唱が起こりつつあります。まさしく権力者による戦争誘導が今の日本で起きて、進行中です。私たちはもっと冷静になって、足元を見つめ直すべきではないでしょうか。
この本は、そんなカッカしている頭を冷ます力をもっています。ぜひ、ご一読ください。
(2016年8月刊。1700円+税)
2017年9月22日
日中戦争全史(上)
(霧山昴)
著者 笠原 十九司 、 出版 高文研
日本が戦前に中国大陸で何をしたのか、日本人は忘れてはならないことだと思います。
私の父も中国戦線にかり出され、病気のため内地送還になって終戦を迎えて私が生まれました。その父が中国大陸で何をしていたのか、改めて考えさせられました。
日中戦争は、徴兵制によって召集された日本の成年男子が中国戦場に駆り出され、中国の軍民を大量殺害した侵略戦争であった。日本国内では人に危害を与えたこともない善良な市民であった日本兵を中国戦場においては殺人者に仕立てる巧妙な日本軍隊の仕組みがあった。
いったい、どんな巧妙な仕掛けがあったというのでしょうか・・・。
戦争とは、国家あるいは民族の名において、敵とみなした相手国の兵士さらには民衆を殺害する、それも大規模、大量に殺害すること。ところが、日本人の多くには、戦争とは、人を殺すこと、それも大量殺人をする行為であるという認識や想像力が欠けている。そのため、膨大な日本軍が中国大陸において長期にわたって膨大な中国兵と民衆を殺害した戦争であったという本質を知らないでいる。
その根本的な理由は、日中戦争の戦場は、すべて中国であり、日本兵が中国兵や民衆を殺害する場面を目撃していないことによる。また、中国戦線から帰還した日本兵の多くが日本国内において中国大陸で自らのした殺害体験を語らなかったことによる。
それは、フランスやドイツのように国民が身近に殺し、殺される現場を目撃したのとは決定的に異なっています。
日本兵の新兵教育では、「刺突訓練」と呼ばれた、無抵抗な捕虜や民間人の両手をしばって杭にしばりつけ、それを三八式歩兵銃の銃剣で刺殺させた。この刺突を拒否した新兵はどうなるか。すさまじいリンチにあう。上官から、また新兵仲間からリンチの連続であった。ほぼ100%の兵士が目をつぶって最初の殺人を体験した。
私の父も病気になる前には前線で戦ったことがあり、「戦争ちゃ、えすかばい」と私に語ってくれました。「えすか」(怖い)というのは、自らも「刺突」したことも含んでいたんじゃないかと今になって私は思います。
朝鮮人を「鮮人」「チョン」と呼び、中国人を「シナ人」「チャン」などと蔑称して見下す差別・蔑視意識が日本の朝鮮植民地支配と、中国侵略戦争に加担していく日本人の国民意識を助長していた。
ひところ「バカチョン」カメラと言っていたことがありました。これも差別語を前提していたことを知ってから使われなくなりました。「ジャップ」と同じですよね。
映画「猿の惑星」の「猿」は日本人をイメージしているというのを聞いて、差別意識は諸国に普遍的に存在していることを知りました。それでもダメなものはダメなのです。
張作霖爆殺事件が起きたのは1928年(昭和3年)6月4日のこと。日本軍による謀略作戦であることは、当初から明らかだった。これを知った27歳の昭和天皇は怒って首相の田中義一に辞表を出せと迫った。そのショックから田中義一は辞職して2ヶ月後には狭心症で死んだ。
同じ1928年に治安維持法が強化され、日本は戦争「前史」から戦争「前夜」に転換した。捕虜の待遇に関するジュネーブ条約を日本は調印したものの、軍部の反対にあって批准しなかった。日本の軍部が反対したのは、日本軍兵士が捕虜は保護されることを知ったら、すすんで投降して捕虜になるのではないかと心配したからだった。
「捕虜をつくるな」という作戦方針は、日本兵の自決・玉砕となって捕虜となるなということの反面で、投降した中国人軍将兵を虐殺することになった。これこそ天皇の軍隊の一枚のコインの両面である。
南京戦に至る日本軍は補給を無視した強行軍を余儀なくされていた。
日本軍は現地調達主義をとった。その現実は、通過する地域の住民から食糧を奪って食べることであった。これは、戦時国際法に違反した略奪行為だった。
上巻だけで300頁あまりある大部な本ですが、日本人が、戦前、何をしていたのかを直視するための絶好のテキストだと思いました。
この本は、戦前の実際を知るうえで必須不可欠だと思います。とりわけ若い皆さんに一読を強く強くおすすめします。
(2017年7月刊。2300円+税)