弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦前)
2016年4月23日
吾が青春に悔あり
(霧山昴)
著者 菅野 孝明 、 出版 ふくしま平和のための戦争展実行委員会
日本軍の兵営のなかで無意味かつ不合理な初年兵へのリンチなどが横行していたことを、絵と文章によって体験を通じて明らかにした貴重な記録集です。
著者は大正10年(1921年)に福島で生まれ、20歳で受けた徴兵検査では兵隊には不適な丙種合格となりました。
そして、国民徴用令による強制動員で東京の電機工場で働いていました。
ところが、ついに1944年2月に招集令状が来て、朝鮮工兵隊にとられ、翌年(1945年)2月には東京は赤羽工兵隊に転属し、東京大空襲を経験します。復員できたのは、1945年の8月ではなく、同年10月でした。
初年兵に対する理不尽な上官のリンチの数々はすさまじいものです。ともかく兵隊の命を粗末に扱う帝国軍ですから、もう滅茶苦茶です。牛肉とかセミとか名づけられた拷問に耐えるしかありませんでした。
ところが、いじめるばかりの上等兵を仕返しに闇討ちすることもあったようです。そして、軍内では演芸大会があり、芸達者な兵は、それが我が身を助けます。
ウヨクデーは、兵士たちによる最高のほめ言葉。サヨクデーは、最低という、さげすみの言葉。どこから来た言葉でしょうか。まさか、右翼とか左翼から来ている言葉じゃないでしょうね・・・。
あまりの辛さに脱走兵が出て、それを追いかけにも行きます。
ともかく、この本は、たくさんのイラストがありますので、どうしようもなく不合理な軍隊生活の様子がよく分ります。こんな社会に戻してはいけないと痛感するばかりでした。ぜひ、あなたも手にとってご一読ください。
(2016年1月刊。1800円+税)
2016年4月 5日
トンヤンクイがやってきた
(霧山昴)
著者 岡崎 ひでたか 、 出版 新日本出版社
戦争中、日本は中国で何をしたのか、そして日本人は国内でどんな生活をしていたのか、対比させながら話が進んでいきます。中学生や高校生、若い人にぜひ読んでほしいと思いました。340頁もありますが、なんとか挑戦してほしいものです。
中国は上海近くの農村地帯で生活している子どもの目から、抗日戦争の無惨な実際が語られます。悪虐非道な日本軍は、最新兵器を駆使するので、中国軍はとてもかないません。それでも、中国の人々は、ひそかに抗日の戦いをはじめ、子どもたちもそれに関わるのです。ここらあたりは、著者が現地で取材した実話にもとづいていますので、真に迫っています。
著者が取材に行ったとき、部屋の中は怒りの炎に包まれていた。恐ろしい燃えるような眼に囲まれた。中国の民衆にとって、まだ戦争は終わっていなかった。そうなんです。加害者は忘れても、被害者は、ずっと忘れることができないものなんですよね。
日本が戦争を反省して、憲法9条を定めたことをふくめて、お詫びの言葉を述べると、すっかり部屋は穏やかな平和の色に包まれた。
世の中は星(陸軍)と錨(いかり。海軍)に闇に顔、ばか者のみが行列に立つ(清沢冽)
中国は、鉄鉱石にしろ石炭にしろ、日本とはケタ違いの生産量でべらぼうに安い。タダ同然。労働者はいくらでもいて、賃金はうんと安くてすむ。だから、中国で工場をはじめたら、企業はもうけ過ぎてもうけ過ぎて・・・。それに、協力するのは、つわものぞろいの関東軍。
職業軍人は、戦争を起こしたくて、待っていた。出世できるチャンスだから・・・。 職業軍人は、戦争がないと手柄をたてられず、出世が難しい。
「軍事予算をどんどん増やす。そして、献金を集める。戦争は大儲けのチャンスよ」
中国の人々は日本軍を「トンヤンクイ」と呼んだ。東洋の魂だ。
日本軍が食料微発に来たときの対応4ヶ条。
① 逃げ隠れして、会うのを避ける。
② かくれることが出来なくなっても、粘り強く、一日でも先送りする。
③ コメを出すしかないときには、水にひたしてふかしておく
④ コメの袋のなかに、ニセ物を入れるなど、工夫する。
いやはや、戦争というのは、まさしく生活全般を根底からひっくり返すものだと痛感しました。親子読書の一冊にしてみたらいかがでしょうか・・・?
「自虐史観」だなんて、つべこべ言わず、この本を読んでほしいものです。いい本です。ご一読をおすすめします。
(2015年12月刊。1800円+税)
2016年4月 1日
第二次世界大戦1939-45(下)
(霧山昴)
著者 アント二・-ビーヴァ― 、 出版 白水社
いよいよ第二次世界大戦の下巻にたどり着き、ようやく読了しました。なにしろ500頁もの大作なのです。そして、内容がずっしり重たいので、そうそう簡単に読み飛ばすわけにはいきません。
知らないこと、知らなかったことが、いくつもありました。そして、今日的意義のある記述が至るところにあるのです。たとえば、空爆です。イギリスはドイツの都市に住宅爆弾を繰り返しました。大変な被害をもたらしたのですが、戦争終結には直結しませんでした。これは、イギリス空軍の大将のまったく間違いだったと著者は厳しく批判しています。私もまったく同感です。
イギリス爆撃機軍団を率いるハリス将軍は、都市への戦略爆撃によってドイツを屈服させると豪語していた。しかし、結果は、そうならなかった。むしろ、鉄道線路こそ狙うべきだったのです。そして、工場です。ところが、イギリス軍(ハリス将軍)は安易にも都市住民の虐殺に走ってしまいました。絶滅収容所への線路を叩いてほしいという要請も無視したようです。とても罪深い過ちだったと思います。
同じように都市への爆撃を重視したのが、アメリカ空軍のカーチスルメイ将軍です。ルメイ将軍は、日本の製造業の中心地帯をひとつ残らず燃やしつくす決意だった。そして、それを着実に実行していった。まさしく日本人大量虐殺の張本人ですが、戦後日本は、そんなルメイ将軍に大勲章を授与しているのです。こんな人物に勲章をやるなんて、日本政府のアメリカへの従属性というか、奴隷根性はどうしようもありません。腹が立ってなりません。
そして、この本は、日本軍に人肉食が横行していたことを再三きびしく指摘しています。
日本兵は糧食不足に悩んだあげく、地元住民や捕虜を食料源とみなした。若い中国人女性を犯し、殺し、喰った。「味が良くて、柔らかかった。豚肉より美味だった」という日本軍兵士の告白が紹介されています。おぞましいばかりです。
そして、七三一部隊は、中国人捕虜3000人以上を生体実験で無惨に殺していくのに、アメリカ軍はそのデータを入手して、誰ひとり、犯罪者として訴追することはなかったのです。
こんな事実に目をつぶって、戦争にはひどいことがある。日本だけが悪いことをしたわけではない、なんて開き直るのは許されることではありません。
自虐史観とかいって、都合の悪いことに目をつむっていては、憎しみあいが増すばかりです。悪いことをしたことに正面から向きあって、はっきり謝罪し、二度しないことを世界の人々に固く誓約することこそ必要な態度だと思います。
それにしても、スターリンの悪知恵、悪らつさには、今さらながら背筋も凍る思いです。
チャーチル首相は、終戦直後の総選挙で惨敗しました。それほど、イギリス軍のなかに上官そして、不合理な命令ばかり出していた政府の命令に怒っていた人たちが多かったということです。
スターリンはチャーチルの失墜にショックを受け、ソ連軍をきびしく取り締まったというのです。ジューコフ将軍は、そのあおりを喰らって、しばし冷や飯を食べることになります。
世の中はタテから見るだけでなく、ヨコからも見る必要があることを教えてくれる本でもありました。ずっしりと重たい戦記本です。ぜひご一読下さい。
(2015年8月刊。3300円+税)
2016年3月24日
初日への手紙Ⅱ
(霧山昴)
著者 井上ひさし 、 出版 白水社
圧倒されます。そして、ぐいぐいと引きずり込まれてしまいます。
時がたつのを忘れます。読みおえたとき、胸が熱くなっています。今日は、すごいいい本に出会えたな、そう思って感謝の気持ちで一杯になります。
新国立劇場のこけら落とし(初演)の作品として井上ひさしは新作を目ざします。いつものように、凝りにこった台本です。戦前の日本史、天皇の言動、軍部の動向、そして被爆死してしまった演劇人のことなどを徹底して調べあげ、見やすい年表をつくり、そして登場人物の人形を机の上に並べてストーリーを考えに考え抜いて文字にしていくのです。
まさしく身(生命)を削る必死に作業です。10日間、お風呂にも入れないほど、一刻一秒も惜しんで、睡眠時間を削って、それでも開演初日まであとわずかというのに、台本はまだ完成していません。遅筆堂として有名でした。
しかし、出来あがった台本の素晴らしさは観客の心を大いに揺さぶります。だけど、これでは演じる役者はたまりませんよね・・・。
そんな舞台裏が井上ひさしの送ったFAXを通じて明らかにされています。
「状況はますます切迫してきましたが、命がけでやっているのですから、きっと活路は見つかるはず・・・。そう信じて続けます」
「連日、4時間しか眠れません」「今夜、久しぶりに普通のごはんを食べました。ストレスで胃をこわして体力を失くしたのが夏バテの原因です」
「小生の基本は、やはり半分は小説家のせいか、文字で読むものとして戯曲を書いています。文字で意味を、ルビで音を、が基本になっています」
「戸倉 役者なんてものはね、真っ当に働いている世間様のお情けにすがって生きている屑、人間の屑だ。なんか悲しくて、そんなものに成り下がれるというんだよ。
丸山 俳優は百姓になる、漁師になる、仕立て屋になる、キコリになる、大工になる、鉄道員にも商人にも軍人にも巡査にもなれる。
俳優は、この世に生をうけたありとあらゆる人間を創り出すことができるんです。
人間の屑にそんな神様のようなことができますか。人間の中でも宝石のような人たちが俳優になるんです。なぜなら、心が宝石のようにきれいで、ピカピカ輝いている者でないかぎり、すなおに人の心の中に入っていって、その人そのものになりきることができないからです」
いやあ、いいセリフですね。こんなセリフを私も自分の本のなかに書いて生かしてみたいです・・・。
「ある程度は観客に挑戦する。観客の期待への挑戦。期待の上を行く」
「短いセリフ(台詞)には笑いを、長いモノローグには涙を」
「コトバは世界を認識する枠組みです」
「人間のドラマは、人間の内面に起きる、外面の表現ではない」
「スパイは必ず二重スパイになる。そういう運命である。そしてスパイは、相手からもっとも信頼された瞬間に裏切る」
「お二人を前に、頭の中でスシ詰めになって混乱していたアイデア群をしゃべっているうちに、芝居の全貌がくっきりと見えてきました」
そうなんですよね。いくらかのアイデアがある時点で、それを理解しあえる人に話していくと、それが具体的に固まり、生き生きとして発展していくものなんですよね。最後に、井上ひさしの言葉を紹介します。
「劇場は、人間が連帯しあうことだけを体験するところです。劇場は、人間がいったん死んで、つまり無になって、いっしょになって生まれ買われるところです。劇場に神様がいると明らかに思うときがあります。その神様は、突然いるというのではありません。俳優とお客が一緒になったとき、現れてる演劇の神様がいる。これはみんなでつくる神様です」
いい本です。井上ひさしの汗と温かい体温を感じさせてくれる本でもあります。このところ疲れたなと感じているあなたにおすすめの一冊です。
(2015年10月刊。3400円+税)
2016年2月14日
日本陸軍とモンゴル
(霧山昴)
著者 楊 海英 、 出版 中公新書
ノモンハン戦争で日本軍が負けた原因の一つに、日本軍のモンゴル人部隊の処遇があることを初めて知りました。この戦場では敵味方の双方にモンゴル人兵士がいたのでした。
日本軍は、モンゴル民族を自分のいいように利用したということがよく分かる本です。
モンゴル人も日本を利用しようとしたようですが、結局、漢民族を主体とする中国の圧制下に取り込まれてしまったのでした。
やはり、当事者からの鋭い告発ないしには知りえない歴史があるのだと痛感した次第です。内モンゴル、外モンゴルと日本人である私たちは気安く呼んでいます。しかし、これは清朝(中国)がモンゴルを政治的に分断するための概念であって、モンゴル人自身は、そういう名称を好まない。モンゴル人は、南モンゴルと北モンゴルという地理的な呼称を愛してきた。
モンゴルの民族主義者たちは、日本の力を借りて中国からの独立をねらってモンゴル聯合自治政府をつくった。内モンゴル人民革命党の若い軍人たちは、満州国とモンゴル自治邦に暮らし、日本と協力しながら、民族自決の時を待った。
他民族の支配下にあったモンゴル人は、近代化を先駆けていた日本から騎兵の術を学ぶために大挙して日本にきて、陸軍士官学校で日本人と机を並べて学びあった。
モンゴル人は、日本の力を借りて中国からの独立を果たそうとしただけで、日本の下僕になる気はなかった。
中国人は、日本式の訓練で育ったモンゴルの軍人を「日本刀を吊るした奴ら」と呼んで侮辱した。
モンゴル人の同盟者だった満州人は、それまで中国人の草原への入植を禁止していた。日本が内モンゴルで設置した興安軍官学校は、モンゴル民族にとってもっとも人気のある学校となった。
興安軍官学校は、モンゴル民族の復興とチンギス・ハーン時代の栄光を復活させる目的で創設された、モンゴル人からなる学校だった。
満州の「馬賊」と言えばロマンを誘うが、実態は中国人の侵略と入植に抵抗していたモンゴル人の自衛団である。
日本は常にロシア(ソ連)を意識していた。ロシアもまた日本の出方を注目していた。犠牲にされたのはモンゴル民族で、漁夫の利を得たのは中国だった。
モンゴルは中華ではないし、モンゴル人も、中国人ではない。
『夕陽と拳銃』(檀一雄)のモデルとなった伊達順之助(仙台藩主の本裔)はモンゴル独立に共鳴した日本人馬賊として知られ、戦後、戦犯として処刑された。
中国からの独立を獲得するのに日本は利用できる勢力だとモンゴル人はみていた。そこで、モンゴル人は積極的に日本に「協力する」よう変わった。
3000人のモンゴル独立軍に関東軍は3000丁の銃と20万発の弾薬を提供して支援した。関東軍でモンゴル人と接触していたのは甘粕正彦だった。甘粕はアナーキストの大杉栄らを虐殺した張本人だ。
日本が思い描く楽天地は日本人主導のものだった。モンゴル人は民族の独立を目指していた。両者の思惑は最初から異なっていた。
関東軍首脳部がモンゴル独立軍を自治軍に変えたのはモンゴル民族には独立の権利はなく、あくまでも自治権しか付与しないと宣言したようなものだった。
新生の満州国によって、モンゴル軍は治安維持だけでなく、ソ連の南進と中国の侵略を食い止めるに欠かせない戦力だった事実に日本側は気がついていた。
戦後の日本は、満州と内モンゴルを占領した中国政府と中国人に対しては過去の侵略行為を反省したが、モンゴル人と満州人に対しては何ら意思表示をしてこなかった。
今日、中国政府は、モンゴルもチベットも、そしてウイグルも民族ではなく、単なる「族群」(エスニック・グループ)だと定義している。
モンゴル人は、とにかく草原が開墾されるのに心底から嫌悪感を抱く。
モンゴル人と日本が戦前に深い交流があったことを初めて知りました。歴史の奥深さを見た思いです。
(2015年11月刊。840円+税)
2016年1月27日
兵士たちの戦場
(霧山昴)
著者 山田 朗 、 出版 岩波書店
この本は、851点もの戦争体験者の回想録(単行本)のうち100人ほどの兵士の体験などを再構成したものです。
全体像は分からなくても、戦場のリアルはひしひしと伝わってきます。戦争というのが、いかに理不尽なものか、不合理の極致であることがよくよく分ります。
1937年に始まった日中戦争は、1938年に入っても、終息の兆しは見えなかった。日本の政府も軍当局も、国共合作にまで至った中国軍民の抗日意識の高揚を見誤っていた。
日本が中国に深く侵入すればするほど、中国だけではなく、欧米諸国との対立を強め、諸国の対中国支持を増大させた。そして、そのことが、ますます戦争を泥沼化させるという悪循環に落ち込んだ。日中戦争中といえども、列国の権益である上海の共同租界に日本軍は踏み込むことも出来ない。
1939年当時の中国にいた日本軍は70万人。ただし、日本軍は分散配置されて、広大な占領地を維持するのが精いっぱいの状態だった。これに対して、中国軍は1939年11月ころから全戦線において冬季攻勢を展開した。 中国大陸に日本軍が70万人いたと言っても、蒋介石軍と組織的な戦闘を支えているのは、全体の半分ほど。残りの半分は、占領地の警備兵だった。これを日本軍は、高度分散配置と呼んだ。太平洋の孤島にばらまかせた守備隊と同じような状態だった。
1949年8月から12月まで、中国の華北で、105個団(連隊)、40万の大兵力で三次にわたって「百団対戦」と呼ばれる大攻勢をかけてきた。「百団大戦」において、日本軍が恐れたのは、八路軍の迫撃砲の集中射撃、兵士の密集突撃、正確な狙撃だった。
ゼロ戦は航続力と攻撃力は強大。しかし、パイロット用の防弾鋼板や燃料タンクの防弾装置を欠いていた。
日本軍は、中国で偽札を使った経済謀略戦をすすめた。このとき、45億円(45億元)の偽札が印刷され、30億元が中国で使われた。大半は、中国での日本軍の物資購入のときに使われた。ところが、インフレをねらった偽札が、インフレによってほとんど無価値になってしまった。
中国戦線において長期の警備駐留は、日本軍将兵の軍紀を次第に頽廃させていった。
中隊長から事実上の死刑宣告を受けた軍曹は思い余って、その日の夜、中隊長室に手榴弾を投げこみ、中隊長を即死させた。軍曹は軍法会議で死刑となり、銃殺された。
別の中隊では、中隊長の大尉が微発した物資を中国人商人に売り払って大金を貯め込んでいた。この大尉はついに、不法蓄財を追及され、陸軍一等兵に降格されたあげく、自決を強要された。
私も亡き父の戦争体験談を生前に少し聞いて活字にしたことがありますが、聞き手のほうが当時の状況をよく調べておかないと、話がかみあわないと思いました。それでも、聞き出さないよりはましなのですが・・・。
過酷すぎる状況は、思い出したくないということもあって、話がはずまないのです。その点、この本は、よくまとめられていて、さすがは学者だと感嘆しました。
日本の自衛隊が海外へ行ってアメリカ軍の下働きさせられて「戦死」させられようとしています。戦後が終わり、戦前になろうとしているのです。その意味で、本書は戦争の悲惨な状況を知るという点で意味があります。
(2015年8月刊。2800円+税)
2016年1月15日
天皇陛下の私生活
(霧山昴)
著者 米窪 明美 、 出版 新潮社
1945年の1月1日から12月31日までの昭和天皇の日常生活を丹念に解明しています。戦前は現人神(あらひとがみ)ということで、天皇は神様そのものという存在だったわけですが、実際には不自由な生活が明らかにされています。たとえば、不自由という点では、なにより親子一緒に自由に暮らせないというのが信じられません。
昔は、生まれてまもなく里子に出し、丈夫な子どもに育つようにしていたのです。そして、子どもたちが大きくなってからも、親である天皇夫婦と一緒に生活することはなかったのです。なんという非人間的な生活でしょうか・・・。
ちなみに戦前は、皇居と言わず、宮城(きゅうじょう)と呼んでいたのですね。戦後の昭和23年(私の生まれた年です)から、皇居と呼ぶようになりました。
1945年1月、天皇は43歳、皇后は41歳だった。ということは、9年前の2,26事件のとき、天皇は34歳だったわけです。反乱軍を許せないと昭和天皇が怒ったのも分かる気がします。
そして30代を戦争指導者として日夜、戦争指導に没頭していたというわけです。ですから、沖縄戦でもう一回勝ってから終戦交渉しようなんていう発想をして、たくさんの罪なき日本人を死に至らせてしまったわけです。
その反省を今の天皇は体をもってあらわしているのだと思います。ですから、制度は別として、私は今の天皇を人間として心から尊敬しています。
昭和天皇は、不器用なうえに、唱歌も下手だった。私も音痴ですが、手先は不器用というわけではありません。
皇居での天皇夫婦は、洗面所は供用だが、風呂とトイレは各別に専用のものがあった。トイレが別なのは、水洗トイレであっても、医師が毎回検便していたのです。尿検査もありました。健康も厳重に管理されていたわけです。トイレで自由に水に流せないのは警察の留置場と同じです。ちなみに、これは、今も続いていると承知しています。皇族も大変なんですよね・・・。
昭和天皇は、毎朝、消毒済の新聞を隅から隅まで読んだ。広告に至るまで目を通していた。これは折り込み広告のことではないでしょうね・・・。
昭和天皇は猫舌だったからいいようなものの、天皇の食べる料理は、車で5分もかかる大膳寮でつくったあと、毒見役もいたりして、すっかり冷めていた。こりゃあ、たまりませんね。まるで目黒のサンマの世界です。そして昭和天皇は、このサンマが大好きだったそうです。
昭和天皇は身長165センチ(私と同じです)、体重64キロ(私は68キロもあって、ダイエットに挑戦中です)だったのが、戦争中は56キロにまで落ち込んでしまいました。
天皇家は、いわば神道の本家のような存在なのだが、敵国アメリカのリンカーン大統領のブロンズ像が室内にあったり、クリスマスをみんなで祝ったりしていた。
昭和天皇は、アルコールが体質的にまったく飲めなかった。それで宴会のときには湯冷ましを酒に見せかけて飲んでいた。
終戦前に皇居はアメリカ軍の空襲によって2度も家屋が焼失している。2回目は、陸軍参謀本部からのもらい火で皇居が炎上した。
昭和天皇は一時は退位も考えていたようです。当然だと私は思います。
日本史の一駒として知っておくべき話だと思いながら読み通しました。
(2015年12月刊。1400円+税)
2016年1月10日
特攻―戦争と日本人
(霧山昴)
著者 栗原俊雄 、 出版 中公新書
1944年3月、陸軍航空部隊は組織的な「特攻」に踏み出した。後宮(うしろく)淳大将が航空総監・航空本部長に就任してからのこと。後宮は東条英機首相とは陸軍士官学校17期の同期で、東条とは関係が深かった。このころ東条は権力の絶頂期にあり、首相、陸相、軍需相そして参謀総長まで兼任していた。
これって、まるでナチス末期のヒトラーと同じですね・・・。権力集中は権力失墜の一歩手前です。アベ首相も同じようになるでしょう。
東条の意を受けた後宮は、着任して早々、「体当たり攻撃」の計画を指示した。
本当に無責任ですよね。自分は安全なところにいて、自らは死地に出向くことはなく、全と有為の青年を死に追いやるのですから・・・。
命令された今西六郎師団長(少将)は内心、特攻作戦に反対だった。
「体当たり部隊の編制化は、士気の保持が困難で、統御に困り、かえって戦力が低下するだろう」
フィリピン戦線ではじめられた特攻は、兵士が死ぬことを前提とするもの。この特攻隊を最初に送り出したのは、大西瀧治郎・海軍中将だった。
パイロットがひとりだちするのには膨大な時間がかかる。300飛行時間程度では、なんとか飛べるくらい。毎日3時間とんでも100日(3ヶ月)かかる。
ミッドウェー海戦のとき、日本軍は一挙に216人もの搭乗員(パイロット)を失った。致命的だった。
航空機の生産量は、日本は最大時(1944年)に2万8180機だった。これに対してアメリカは、その4倍の10万725機だった。
フィリピン戦線で初の神風特攻隊の隊長となった関大尉は、不満だった。
「日本もおしまいだよ。ぼくのような優秀なパイロットを殺すなんて。ぼくなら、体当たりせずとも、敵母艦の飛行甲板に500キロ爆弾を命中させる自信がある・・・」
そして、初めての特攻隊を送り出した猪口参謀、玉井副長、中島飛行長は戦死することなく、戦後を生きた。関大尉は23歳で死ぬことを迫られた。
わすれてはならないことは、この特攻作戦が昭和天皇によって認可されていたということ。
昭和天皇は、特攻作戦を聞いて、「よくやった」という、「お褒めの言葉」をもらした。これが、特攻遂行のエネルギーになった。昭和天皇は、特攻を褒めたたえたのだ。
特攻作戦によって昭和天皇が停戦に動くどころではなかった。それどころか、昭和天皇が喜んだということなら、もはや特攻は中止されるはずもない。
特攻機は、アメリカ軍の主力艦を一隻も沈めていない。アメリカ軍の迎撃能力の向上、そして特攻機のパイロットの心理状態が効果をあげることを許さなかった。
昭和天皇は、戦艦「大和」の出動について、戦後、「まったく馬鹿馬鹿しい戦闘であった」と語った。この無謀な作戦の犠牲になった4000人が、これを知ったら、どう思うだろうか・・・。そして、まぎれもなく「特攻」であった大和艦隊の戦死者は誰も特進の対象とはならなかった。
戦後まで生き残り、自民党の参議院議員までなった源田実は、「特攻で死んだ人々は、ほとんどすべて満足感をもって死んでいる」と書いた。いったい、どこに「満足感」の根拠があるのか・・・?
自民・公明による安保法制法は日本を戦争する国へ推進しようとしています。戦争は不合理、狂気がひとり歩きしてしまいます。走り出す前に止めなくてはいけません。今なら、まだ十分まにあいます。
ご一緒に戦争法反対の声をあげましょう。運用させることなく法を廃止させなければなりません。
(2015年8月刊。820円+税)
2015年12月28日
第二次世界大戦1939-45(上)
(霧山昴)
著者 アントニー・ビーヴァ― 、 出版 白水社
本書について、半藤一利氏が、「東西の戦史の全容を網羅した決定版」だとオビに書いていますが、読んだ私もそう思いました。
正しい「歴史認識」のために必読書なのです。アベ首相も読むべきです(どうせ、読まないでしょうし、読んでも理解できないのでしょうが・・・)。
なにしろ第二次世界大戦を上・中・下の3巻にまとめていて、上巻だけで530頁もあるのです。とても全容を紹介することはできません。ヨーロッパ戦線から、日本をめぐる戦線までトータルに紹介しているのです。
著者の戦史ものは、「ノルマンディー上陸作戦」「パリ解放」など、いくつもあり、それなりに読んでいますが、いずれも本当に読みごたえがあります。
ヤン・キョンジョンという人物がいます(いました)。戦前、18歳のとき、朝鮮人のヤンは大日本帝国に徴兵され、満州の関東軍に配属された。ノモンハンの戦いでソ連赤軍に捕えられて収容所に入れられた。そして、対ドイツ戦の戦力補充のためソ連赤軍の兵士として、ハリコフの戦いに投入された。そこで、ドイツ軍の捕虜となり、今度はドイツ軍の「東方兵」の一員としてノルマンディー上陸作戦のときにはドイツ軍の守備隊の一員になった。そして、連合軍のノルマンディー上陸作戦が成功すると、アメリカ軍の捕虜となって、ついにアメリカへ渡った。アメリカで1992年、72歳で亡くなった。本当でしょうか・・・。実際、彼の半生を描いた映画をみた覚えがあります。信じられないほど劇的な人生ですよね・・・。
ヤンが24歳のとき、ノルマンディーで捕虜になったころの写真があります。ふてぶてしい顔は、歴戦の勇士とは、こんな顔をしてるのかと思わせます。
ヒトラーとナチ党は、ユダヤ人を孤立させる施策を講じ、一般市民の圧倒的多数を説得することに成功した。それ以降、人々はユダヤ人の運命に関心をもたなくなっていった。それがあまりにも簡単だったため、その後は、多くの人々がユダヤ人の家財の略奪、アパートの巻き上げ、ユダヤ系企業の「アーリア化」に狂奔した。
イギリスのチェンバレン首相は、虫垂が走るほど共産主義者が嫌いだったので、スターリンと交渉する気になれず、またポーランドの力量を過大評価していた。
要するに、イギリスはヒトラーとナチスをあなどっていたのです。ナチス・ドイツはスターリンとの協定によって多大なる恩恵をうけた。穀物・石油・マンガンはソ連が提供した。そしてゴムはありがたかった。
ソ連赤軍は、ポーランドに進入すると、ポーランド、ナショナリズムの延命に貢献しそうな人物、すなわち地主・法律家・教師・聖職者・ジャーナリスト・将校などをすべて摘発し、処刑した。階級闘争と民族去勢の同時達成が企図された。
フィンランド軍は15万人、しかも予備兵役と若者が占めていた。しまし、この15万人の兵士が100万人をこえるソ連赤軍に立ち向かった。赤軍の司令官は、粛清の恐怖におびえ、やみくもに将兵を前線に駆り立て、死なせていった。
日本軍は、1937年12月、すべての捕虜を殺せとの命令を受けて南京城内に入った。第16師団のある部隊だけで1万5千人の中国人捕虜を殺害した。南京事件の被害者は20万人近い。
その構成員から人間性を奪っていく帝国陸軍の矯正プロセスは、日本人兵士が中国に致着した瞬間から、さらに一段と強化される。
日本軍と戦っていた中国の国民党軍は、ソ連から500機の軍用機と150人の「志願」パイロットを受けとっていた。中国で常時150~200人のソ連パイロットが活動していて、2000人のソ連人が中国の空を飛んでいた。
ダンケルクの撤退戦において、イギリス海軍本部は、せめて4万5000人は救いたいと考えていた。しかし、現実には、33万8000人をイギリス本土へ運ぶことができた。うち19万3000人がイギリス人で、残りはフランス人だった。8万人のフランス人兵士が置き去りにされた。
ヒトラーがドイツ軍の進撃を停止させたのは、手持ちの装甲部隊が担当劣化していて、ここで虎の子を使い果たしたくなかったから。
バトル・オブ・ブリテンは、イギリス軍とドイツ軍との空軍同士の戦いだった。このとき、イギリス空軍は723機を失った。しかし、ドイツ空軍は2000機も喪失した。ドイツ空軍はイギリスを夜間爆撃して2万3000人が亡くなった。しかし、イギリス国民の戦意は喪失するどころか、高まる一方だった。
よくぞ調べあげ、まとめたと驚嘆するばかりです。
(2015年9月刊。3300円+税)
2015年12月20日
満州と岸信介
(霧山昴)
著者 太田 尚樹 、 出版 カドカワ
アベ首相の憧れの祖父・岸信介を美化した本です。ただ、岸信介が満州国づくりに深く関わっていたことを再認識することができる本でもあります。
満州国の表の顔は、満州産業開発5ヶ年計画によって、東洋一の規模の豊満ダム、鴨緑江水電、重工業、製鋼所、浅野セメント、住友金属、沖電気・・・、そして満鉄「あじあ号」、ヤマトホテル、関東軍司令部・・・。このようにして、広大な原野に大都市が出現した。
岸信介にとって、満州にいた3年間は、革新官僚・岸信介が政治家・岸信介に変貌していく3年間でもあった。
夜の満州は甘粕正彦が支配していた。甘粕はアナーキストの大杉栄一家を関東大震災のときに虐殺した張本人である。岸は甘粕を頼りにしていた。
満州国の裏の顔は阿片。岸信介が阿片による金もうけ無縁だったはずはない。岸の側近であった古海忠之は、自分が阿片に深く関わっていたことを認めている。
満州国というのは、関東軍の機密費づくりの巨大な装置だった。謀略に使われる機密費を阿片によって捻出していたのが総務庁だった。岸信介は総務庁の次長として、それを取り仕切っていた。
阿片の上がりは、満州中央銀行、上海と大連の横浜正金銀行、台湾銀行の口座に預けられていた。中国大陸に広く展開する総勢100万の日本軍を維持するのに、国家予算ではとうてい追いつかない。そればかりか、内地の陸軍部隊も阿片から収益に頼る部分が大きかった。
阿片を吸引していた中国人が廃人となっていったのです。その悲惨な状況をつくり出した責任は日本軍にもありました。本書は、その点に触れることはありません。あくまで岸の手柄話に終始しています。良心に欠けているところがあるようで、とても残念です。
(2015年9月刊。1700円+税)