弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2014年7月 3日

日本軍と日本兵


著者  一ノ瀬 俊也 、 出版  講談社現代新書

 第二次大戦中の日本の将兵は本当に強かったのか、敵側(この場合は、アメリカ軍側)がどう見ていたのかが紹介されています。結論からいうと、日本軍の将兵はそれほど強くはなかった。やっぱりフツーの人間だったということです。死を恐れない不屈の神兵などでは決してありませんでした。
 日本の将兵は勝っているときには勇敢だが、負けそうになると、とたんに死を恐れ、弱くなった。勝ち目がないと、明らかに死ぬのを嫌がり、総崩れになると、豚のようにわめいた。
 日本兵は、上官の命令どおりに動く集団戦を得意とする。個人の技能や判断力に頼って戦うのは不得手だ。
 日本軍の将兵を捕虜にすると、厚遇に感謝し、実に協力的になる。
 いったん捕まえた日本兵の捕虜は実に御しやすく、有用だった。尋問官がうまく乗せれば、喜んで、何でもしゃべる。命が救われたと知ると、そのお返しをしようとして、求められている情報を与えようとする。
 日本軍ほど宗教性の薄い軍隊はいない。世界史的にも異質な存在なのではないか。神道はあるわけですが・・・。
 ガダルカナル島で日本軍3万人あまりが倒れたが、そのうち3分の2は病気で死んだ。戦死者は1万人をはるかに下まわっている。他方、アメリカ軍の戦死者は1000人だけ。
日本軍の将兵の最大の弱点は、予期せざる事態に、うまく対処できないこと。戦闘機械の優秀な歯車ではあっても、急速に変化する状況に対応する才覚も準備もない。
 このような生来の弱点は、自由な志向や個人の自発性をきびしく退け、管理されてきた人生と、少なくとも部分的には関係がある。
 第二次大戦における日本軍の戦い方の実際を敵(アメリカ軍)側の資料によって紹介した貴重な本だと思いました。かの軍事オタクのイシバ氏にはぜひ読んでほしい本だと思いました。
(2014年1月刊。800円+税)

2014年6月25日

法廷で裁かれる日本の戦争責任


著者  瑞慶山 茂 、 出版  高文研

 太平洋戦争は正しかったなどとNHKの経営委員(百田茂樹)が暴言を吐くのを社会が許容しているようで、本当に残念です。日本国憲法の前文には、政府の行為によって、戦争の惨禍を再び、くり返してはならないと明記しています。
この本は、強制連行、「従軍慰安婦」、空襲、原爆、沖縄戦・・・など、戦後日本で裁判所によって明らかになった事実が紹介されています。そして、担当した弁護士がその判決について解説しています。
 本当に、アジアへの侵略戦争を始め、無数の人々を苦しめた日本軍とそれを支えた日本の政財界の責任は重大です。そのことに目をつぶっていてアジアで日本はやってけるはずがありません。加害者は忘れても、被害者は末代まで忘れるはずがないのです。
 2段組みで600頁もの大作です。読んで気の重くなる本ではありますが、「自虐史観」などという前に知るべき歴史的現実だと思います。
 戦後世代である私たちの責任は、国家に対し国家責任を履行させるための個人責任であり、個人として直接的に対外的対内的に賠償責任を負うわけではない。いわば間接責任の一種である。そして、ここでの戦争責任は、法的賠償責任ではなく、政治的責任と道義的責任である。だからこそ、戦後世代は国のあり方について積極的に考え、参加し、発言すべきなのである。私も、この考えにまったく同感です。
 山口地裁下関支部の判決(1998年)は、「『慰安婦』としての性的強制は重大な人権侵害であり、人類にとって許すべからざる犯罪である。・・・・戦後、これを放置してきた国には、この被害回復義をつくさなかった違法があり、損害賠償をすべき責任がある」とした。
 東京高裁の判決も、「業者を監視し、慰安所の実質的管理をしていたのは軍であったから、軍は業者の使用者としての管理を怠った責任がある」とした。
 このように、「従軍慰安婦」の問題は、単に「強制連行」されたかどうかだけではありません。
 河野談話について、アメリカ政府がその見直しを止めるように安倍政権に忠告しているのは当然のことです。これは不当な内政干渉というべきものではないでしょう。なぜなら、日韓政府はもっと仲良くしてくださいと言っているわけですので・・・。
 日本軍のトップにいた岡村寧次・北支那派遣軍総司令官は、「現在の各兵団は、ほとんどみな慰安婦団を随行し、兵站の一部となっている有様である。第六師団のごときは、慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である」と述べた。
 間(はざま)組は、中国(主として河北省)で拉致した中国人1500人を1949年4月に日本へ強制連行し、福島、長野、群馬などの発電所で苛酷な労働を強制した。この強制労働の16ヶ月間のうちに53人もの死亡者が出ている(死亡率8.7%)。このほか、負傷率も43%と異常に高い。
 長野地裁の辻次郎裁判長は、判決言渡のとき、「私的見解」と断りながら、次のように述べた。
 「提訴から8年かかったことをお詫びします。また、和解が成立しなかったことを残念に思い、お詫びします。私は団塊の世代で、全共闘世代に属するが、率直に言って私たちの上の世代に人たちは、ずいぶん酷いことをしたという感想を持ちます。
 裁判官をしていると、訴状を見ただけで、この事案は救済したいと思う事案があります。この事案も、そういう事案です。一人の人間としては、この事件は救済しなければならない事案だと思います。心情的には勝たせたいと思っています。でも、結論として勝たせることができない場合もあります。このことには個人的葛藤があり、釈然としないときがあるのです」
 ここまで言うのなら、もう一歩踏み込んで原告勝訴の判決を書けばいいのに・・・と思ったことでした。
 戦前、中国から強制連行されてきた中国人は4万人近くで、そのうち死亡者は7千人近く(17.5%の死亡率)、しかも1~2年のあいだに死亡している。ところが、国は、終戦直前に三井や三菱に対して6千万円近くの国家補償をした。これは、三井鉱山や三菱鉱業が、1日あたり5円の賃金を支払ったとして国に対して損失額を計上したことを根拠とする。しかし、現実には、中国人に賃金を支払ってはいなかった。それなのに、巨額の賠償金を国からもらっていたのである。ひどいものです。このような国の大企業優遇は今も変わりませんよね。
 貴重な文献であり、大いに活用してほしいものです。
(2014年3月刊。6000円+税)

2014年6月21日

黒田官兵衛


著者  渡辺 大門 、 出版  講談社現代新書

 黒田氏は、播磨国(姫路周辺)の一土豪だった。何かの契機で小寺氏と結びつき、その配下におさまった。そして、自らの貴種性をアピールするために、佐々木黒田氏や赤松氏の支族とするに至ったのではないか・・・。
 小寺氏が赤松氏の有力な支族というのは誤りで、小寺氏は「年寄」だった。この「年寄」とは、赤松氏一族ではない有力な氏族で構成される重臣、奉行人という地位にあった人々の呼称。
 官兵衛の叔父にあたる休夢は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として登用された。
 御伽衆とは①咄(はなし)がうまいこと、②咄に適応する体験や技術を有することが条件だった。その目的は、主人を楽しませることだった。
 休夢は茶道だけではなく、和歌や連歌にも通じていた。
黒田家にしたがった播磨出身土豪層は、姫路を中心として勢力基盤を築いた土豪層だった。「黒田二十四騎」と称された土豪たちは、黒田家の発展とともに重臣に取り立てられた。
 黒田氏は現在の西播磨基盤をもった土豪であり、土地集積を行いながら発展を遂げていった。その間、黒田氏は周辺の土豪層を従え、やがて小寺氏の配下に加わった。
 官兵衛には、三人の弟と三人の妹がいた。そして、兄弟たちは、仲違いすることなく、一致団結して黒田家を守り立てていった。
 官兵衛が村重によって幽閉され、かえって黒田家中は一致団結した。官兵衛の幽閉生活は一年にも及んだ。
 官兵衛の主家である小寺氏は秀吉に対して、最終的には逃亡した。その子孫は、のちに福岡藩主となった黒田長政に仕えた。
 官兵衛は死ぬ直前、家臣たちを枕元に呼び出しては悪態をついた。ののしられた家臣たちは、身に覚えがなく、ただ困惑するだけだった。たまりかねて、息子の長政が理由を問うと、官兵衛は、次のように答えた。
 家臣にひどい仕打ちをすることによって自分が疎まれ、一刻も早く長政の時代が到来することを願ったのだ。
 つまり、死にのぞんだ官兵衛は、あえて嫌われ役を演じてみせたのでした。
 なかなか実証的な本だと感嘆しました。
(2013年9月刊。800円+税)

2014年6月17日

検証・真珠湾の謎と真実


著者  秦 郁彦 、 出版  中公文庫

 日本軍の真珠湾攻撃が成功したことについて、当時のアメリカ大統領であるルーズベルト陰謀説というのがあります。要するに、ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃を予知していながら、わざと初戦で負けてアメリカ国民を対日戦争に駆り立てたというものです。もっというと、ルーズベルトは好戦主義者、イギリスを助け、ドイツと戦争をするために日本との戦争を始めたかったということです。でも、それはありえないことだったと思います。
 そして、日本では、太平洋戦争を美化しようとする人々は、「ABCD包囲陣」なるものがあって、それと日本は戦わざるをえなかったと言いたいようです。
 しかし、「ABCD包囲陣」なるものの実態はなく、戦前の日本の新聞がつくり出した造語にすぎない。ましてや、ルーズベルトの陰謀ではない。それは、太平洋戦争が植民地解放のための戦争であったというのと同じである。
 真珠湾攻撃は、史上まれにみる希有壮大な大作戦であり、このような戦術を実行する人間がまさか日本にいるなどとは、アメリカの当局者たちは、ルーズベルトをふくめ誰も考えていなかった。
 山本五十六というのは、それだけの大戦術家だった。もし、あらかじめアメリカに発見され、待ち構えていたら、悲惨な敗北になった可能性のある大博打(ばくち)だった。その背景としては、アメリカは日本の戦力を過小評価していたという油断があった。
 日本海軍は最後までアメリカ軍の暗号が解読できなかった。これに対して、アメリカ軍は日本軍の暗号は1940年には完全に解読していた。日本外務省のパープル電報は、アメリカ軍によって、ほとんど解読されていた。
 12月5日、アメリカ軍の情報部は、日本はアメリカを攻撃しない、タイの占領の可能性があると報告した。
 開戦後の半年たって起きたミッドウェー海戦において、日本軍は秘密保全と敵情把握を軽視し、逆に日本の暗号を解読したアメリカ軍は日本艦隊を待ち伏せし、日本軍の大敗、アメリカの大勝利となった。
アメリカは、真珠湾では失敗したが、その後は失敗の教訓を生かした。日本軍は、真珠湾で成功したが、勝って兜の緒を締めよという先人の教えを忘れ、大敗したのだった。
 陰謀史観というものがありますが、この本を読むと、なるほど、ごまかされてはいけないものだと思いました。
(2011年11月刊。686円+税)

2014年5月22日

日本降伏


著者  纐纈 厚 、 出版  日本評論社

 日本では、太平洋戦争に負けたのに、敗戦と言わずに終戦と呼ぶのが定着した感があります。日本は理不尽かつ野蛮な侵略戦争をはじめ、無残に敗れ去ったのだと思いますが、安倍首相のような反省なき人々は、今なお聖戦だったと言いたいようです。
 ですから、欧米からすると安倍首相はとんでもない政治家だと警戒されるのです。
 靖国神社に安倍首相や150人もの国会議員が参拝をくり返していますが、昭和天皇も今の天皇も絶対に参拝しようとしない理由について、日本人はもっと深刻に、真剣に考えてみる必要があるのではないでしょうか。
 それは、靖国神社が単に戦死者をまつる場というのではなく、日本が始めた戦争が侵略戦争ではなかった、聖戦だったと主張する宣伝の場だからなのです。そんなところに天皇が言って参拝することはできないのです。
 昭和天皇が終戦の決断をしたという人、そう考えている人は多いわけですが、その真相は簡単なものではありません。
 昭和天皇は、文字どおり戦争指導の頂点に位置していた。しかし、その指導には一貫性を欠いていた。動揺、変節、執着とあきらめなど、安定したリーダーシップを発揮したとは言えない。
 まさしく、昭和天皇も、動揺する、ふつうの人間だったというわけです。
 開戦決定と同じく、終戦決定も、きわめて紆余曲折を経て、いたずらに時間を浪費していった。日本人は、「終戦」という価値中立的な用語で、あの歴史を記憶しておくことにした。
 いったい、戦争終結の担い手は、誰だったのか・・・。開戦前、海軍にとっては英米と戦うだけの戦力準備も開戦意思も十分になかった。海軍側の陸軍側への姿勢は、この時期に対立感情から増悪に近いものになっていった。
 海軍は、陸軍主導の政治と戦争指導の展開に不満をつのらせ、陸軍への対抗心を深めていった。海軍にとって、もっとも警戒すべきは、陸軍の対ソ開戦だった。
 昭和天皇は絶対に勝利する戦争を欲した。だから、どっちつかずのあいまいな参謀総長の答えに苛立ちを示した。
 木戸の推挙を受けて、昭和天皇は日米交渉への悪影響を知悉しながら、あえて東條を首相として選択した。
 開戦責任を問うとすれば、東条と並んで木戸幸一の存在はきわめて大きい。
 東条は、昭和天皇の忠実な代行者だった。それまで東条内閣を強く支持してきた翼賛会がサイパン陥落の責任をめぐり「善処すべし」と決議したことは、事実上、東条内閣への不信を表明したことになる。東条に日米開戦時の戦争指導内閣をになわせ、忠実な軍事官僚であった東条を通じて政治指導と戦争指導をすすめてきた昭和天皇は、最後まで東条に未練を残していた。天皇は明確な戦争継続論者だった。
 昭和天皇は開戦決定に自ら賛成したうえ、終戦決定も実は不本意だったのです。
 昭和天皇は、木戸を通じて反東条勢力の動向を把握したため、最終的に東条支援を撤回するに至った。
昭和天皇は、戦争継続が終結かで揺れ動いていた。戦局が悪化の一途をたどるなか、昭和天皇は戦争の継続と勝利への自身を失っていくものの、一撃論をくり返して、戦果を期待しながら戦争継続に執着していた。
いずれ日本が敗戦に追い込まれたとき、国体護持のためには、戦争責任者の確定が求められる。そのとき、皇室が責任追及されないためには、開戦時の首相である東条に一切の責任を負わせるのが得策だという考えがあった。戦局悪化の責任を東条に負わせ、天皇や皇族への戦争責任追及の可能性をなくすために、当局は知恵をしぼった。
 1945年6月、鈴木貫太郎内閣が発足した。このとき、昭和天皇は依然として沖縄の戦局に期待していた。聖断の目的は天皇制の維持すなわち団体護持の一点であり、「下万民のため」というのは表向きの理由にすぎなかった。もし「下万民のため」というのなら、もっと早く戦争終結が実行されたはずである。聖断のシナリオとは、日本国土と国民とを戦争の被害から即時に救うために企画されたものではない。戦争による敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任をタナ上げするために着想された、一種の政治的演出にすぎないものだった。最後の時局収拾策としての「聖断」は、天皇や木戸の「英断」でも、「主体的判断」でもなかった。
 重臣・宮中グループに共通する国内矛盾噴出への可能性に対する恐怖心と、それによる国体崩壊の危機感こそ、彼らをその根底から戦争終結と、天皇の聖断を切り札とする「早期」戦争終結へと向かわせた最大の理由であった。
 天皇の明確な意思によって日米戦争は開始された。そして、アジア太平洋戦争は終結した。日本の侵略戦争を正当化するものはない。「ABCD包囲網」なるものは、フィクションにすぎない。
戦争終結を天皇の「聖断」によるものとする俗説を根底から批判する本です。一読に価します。
(2013年12月刊。2200円+税)

2014年4月11日

検証・防空法


著者  水島 朝穂・大前 治 、 出版  法律文化社

 水島教授は、私の尊敬する憲法学者ですが、戦前の日本が、いかに国民の生命・財産を無視する国家であったのか、実に詳しく論証しています。さすが、学者です。
 アメリカ軍は日本の都市を空襲する前に、それを予告するビラ(伝単)を投下して退去するよう警告していたのですね。初めて知りました。
 当局は、その米軍による警告ビラを改修し、住民が逃げ出すのを防止していました。それで、空襲被害は大きくなったのです。なぜ都市から逃げたらいけないのか。それは、戦意喪失につながるから、なのです。
 終戦1ヵ月前の7月に、青森市に、アメリカ軍が空襲を警告するビラを大量に投下した。市民は続々、郊外へ避難していった。すると、青森県は、7月末までに戻って来ないと、住民台帳から削除して、配給物資を停止すると通知した。
 台帳からの削除は、「非国民」のレッテルとなり、社会からの抹殺に等しい。市民は、次々に戻ってきた。そして、アメリカ軍は、予告どおり空襲した。その結果、1000人ほどの死傷者を出すに至った。この青森県の通告は、防空法にもとづくものだった。
 1941年の防空法の改正審議のとき、佐藤賢了・陸軍省軍務課長(のちに陸軍中将)は、次のように述べた。
 「空襲を受けた場合、実害そのものはたいしたものではない。周章狼狽・混乱に陥ることが一番恐ろしい。また、それが一時の混乱ではなく、ついに戦争継続意思の破綻になるのが、もっとも恐ろしい」
 国民を戦争体制にしばりつけ、兵士と同じように生命を投げ捨てて国を守れと説く軍民共生共死の思想である。兵士の敵前逃亡は許されず、民間人も都市からの事前退去を許されない。それを認めると、国家への忠誠心や、戦争協力意思が破綻し、空襲への恐怖心や敗北的観念が蔓延する。人員や物資を戦争に総動員する体制が維持できなくなる。
 そこで、政府は都市から住民が退去することの禁止を法定した。国民は、戦線離脱が許されなくなった。全国民が国を守る兵士として、「死の覚悟」を強いられ、退路を絶ったのが、1941年の防空法改正だった。都市から逃亡したものは、「非国民」であり、都市に戻る資格はない。
 このように、政府の公刊物で「非国民」という言葉が堂々と使用されていた。
 焼夷弾には、水をかけても、爆発するだけで、何の効果もない。このことを政府は知っていて、国民に隠すことにした。
空襲にあったとき、ロンドンやバルセロナなどでは、地下鉄の駅や通路が大規模な公衆避難場所として解放され、その結果、多くの市民の生命が助かった。しかし、日本では、空襲があるときには、地下鉄、地下通路の入り口は封鎖された。人々を地上に追いやってしまい、その結果として犠牲者が増えた。
 「町内会、常会、隣組は、逃げたくても逃げられない」という相互監視体制である。その装置としての隣組が整備された。
 1945年6月、帝国議会は、「義勇兵役法」を制定施行した。15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子は、すべて「義勇兵」となり、軍の指揮下に入って、本土決戦に備えることになった。
 空襲被害による国を被告とした裁判が進行中ですが、安倍首相の突出した異常さから目を離すわけにはいきません。本当に、それでいいのでしょうか・・・。
(2014年2月刊。2800円+税)

2014年3月30日

折られた花


著者  マルゲリート・ハーマー 、 出版  新教出版社

 日本軍が「従軍慰安婦」としたのは、朝鮮・中国の女性だけではなかったのです。インドネシアを占領した日本軍は、そこにいたオランダ人女性を強制的に慰安婦にしたのでした。
安倍内閣は、例の河野談話を見直し、なんとか強制連行ではなく、女性が任意に応じて、金もうけをしていたとしたいようです。とんでもないことです。だまされて連れていかれた人(女性)を「強制連行」ではなかったというなんて、ペテンそのものではありませんか。
 彼女たち全員に共通していたのは恥辱感だ。若いころに自分の身に降りかかったことを恥ずかしく思っていた。悲しみと怒りが、こうした女性たち全員の心に深く根ざした。そして、日本政府が日本軍による強制売春の歴史をたびたび否定するたびに、この女性たちは傷ついた。
 インドネシアは、旧オランダ領東インドであり、推定して3万人の現地女性が日本軍の売春宿で強制的に使役された。
 1942年2月、日本軍はジャワに上陸し、オランダ王国軍は降伏した。
 オランダ王国軍の将兵は、日本軍の捕虜となり、鉄道工事のためにタイへ送られた。
 アメリカ、イギリス、オーストラリアの兵士もふくめ、総数4万2000人の男たちが日本軍の捕虜となった。
少女や若い女性は日本語の書類に、訳も分からないままサインさせられた。それは、「自由意志でやります」という書類だった。性経験のなかった少女たちが、来る日も来る日も、確実に20人ほどの兵士たちに犯された。やりあうのはあきらめ、犯されるままになった。
 1944年のはじめ、オランダ人の少女や女性が抑留所から連行されて、売春を強制されるに至った。200人から300人のオランダ国籍の女性が日本軍用の売春宿に入れられた。
 終戦後、家に帰ったとき、母親は娘を信用しなかった。そして性病が彼女を苦しめた。
箱入り娘として教育を受けてきた彼女は、売春宿なるものが存在することすら知らず、ましてそこで何が行われているかなど知っているはずもなかった。彼女たちは、文字どおり無邪気で純真な少女たちだった。少女たちは最後には抵抗するのを止めた。日本軍は、彼女たちの親がどこの抑留所にいるかを知っていたから、家族に累が及ぶのを怖れたのだ。いつまでも厄介な娘は、一般兵用の売春宿に移された。
戦前戦中に日本軍が海外でしたことを知ると、それは自虐史観だと指摘されるなんて、おかしなことです。真実にしっかり向きあってこそ、ありのままの日本を知ることです。でたらめな歴史観にまどわされたら目も曇ってしまいます。
 日本軍って、アジアの各地で聖戦と称して、本当にひどいことをしたんだと痛切に感じます。
(2013年12月刊。1300円+税)

2014年3月27日

ノモンハン1939


著者  スチュアート・D・ゴールドマン 、 出版  みすず書房

 アメリカの学者がノモンハン事件を徹底的に分析・検証した本です。
 1939年5月から9月まで、戦闘が断続的に続いた。
 この紛争は単なる国境衝突事件ではない。10万人もの人が、また1000もの装甲車両と軍用機が4ヵ月のあいだ激烈な戦闘に投入された。死傷者は4万人にのぼる。宣戦布告なき小戦争だった。
 日本軍は、攻撃機が200機、陸軍唯一の独立戦車旅団も出動した。
 ノモンハンでの戦いが頂点に達したとき(1939年8月)、ヒトラーとスターリンは独ソ不可侵条約を締結した。だから、スターリンは、ノモンハンで日本に対して断固たる措置をとることができた。
 満州事変のあと、日本の陸軍内では、「関東軍」は中央の命令を無視する部隊として定着した。
満州における日本の軍事作戦は1931年秋から翌年春まで続いたが、極東地域におけるソ連の軍事的弱点を知っていたスターリンは、厳正中立の政策をとった。ソ連が軍事介入しなかったばかりか、国境線沿いで示威活動することもなかった。
 1937年時点で、ソ連赤軍は順風満帆とはとても言えない状況にあった。その2年前に始まったスターリンの大粛清が規模と激しさを増し、軍に波及していた。赤軍の首脳部がほとんど粛清され、消えていった。
 1937年6月の時点で、日本の陸軍は、司令官レベルの処刑は赤軍の統制を乱し、日本にとって赤軍はもはや恐れるに足りない存在だと結論づけた。
 1936年11月に、日本はドイツと防共協定を結んでいた。
 1939年3月、ドイツ軍がチェコスロヴァキアに侵攻した。
 1938年6月、ソ連のリュシコフ少将が日本に亡命した。
 1938年の張鼓峰の戦いでソ連軍に敗北したことによって帝国陸軍の名誉と威信は大いに傷ついた。関東軍は、屈辱感を味わった。
 砲や戦車、飛行機といった物質面で質量ともにソ連が優位に立っていることが明らかになったにもかかわらず、日本軍の首脳は、この点をまったく顧みなかった。
関東軍の小松原中将は当時52歳。帝国陸軍きってのロシア通だったが、戦闘を経験したことはなかった。かつて、ハルビンで特務機関長をつとめていた。
 辻政信少佐(関東軍作戦課)は、奇矯な人種差別者で、獣性をむき出しにして蛮行に及ぶことがあった。辻少佐のつくった「満ソ国境紛争処理要綱」は、問題を解決するより、むしろ紛争をひきおこすためにつくられたようなものだった。
 関東軍を抑え込むためには、軍司令部の人員を大幅に異動させるという強硬な措置が必要だった。だが、ときの参謀本部には、あえて波風を立てるようなことを考える者は誰もいなかった。関東軍は野放しにされ、独断にもとづく行動を許されたも同然だった。
 日本軍の過剰な自信は、日本軍の情報活動の不満の結果でもあり、原因もある。ソ連の戦力を関東軍が過小評価し続けたのは、彼らの慢心に帰することができる。
 陸軍大臣の板垣中将は顔見知りの辻少佐を擁護した。
 1939年に満州国にあった自動車のうち、関東軍がつかえたのは800台。これに対してソ連は420台以上の自動車を動員し、兵站業務をすすめていた。
 ノモンハンでは、飛行機とパイロットの数において、ソ連が2対1で日本に優位に立っていた。ノモンハン事件で日本軍の死傷者は2万3000人。これに対して、ソ連は2万6000人。
 しかし、赤軍の力がはっきり実証され、関東軍が無残な敗北を喫した事実は否定しようがない。関東軍はソ連に対する全面戦争を決断した。しかし、陸軍中央はそれを許さず、大々的な人事異動を行った。こうして関東軍司令部の中枢グループは崩壊した。ところが、別の場所で息を吹き返した。
 ノモンハン事件で関東軍の味わった苦い経験は、深い刻印を残し、それが北進から南進への日本の方針転換への主な要因となった。
 ノモンハン事件の責任者が太平洋戦争の有力な開戦論者になった。服部卓四郎中佐と辻政信少佐である。この二人は参謀本部作戦課の中枢にポストを得た。
 1939年に起きたノモンハン事件が、日本とヨーロッパに大いなる影響をもたらした大事件だったことがよく分かる本です。
(2013年12月刊。3800円+税)
 私の住む団地の桜が満開となりました。熊本城の桜は8分咲きでした。週末がちょうど見頃になりますね。
 ハクモクレンそしてシモクレンも、あちこち満開です。我が家の庭のチューリップもに日に日に花が増えています。春は、いいですね。なんだか浮き浮きしてきます。

2014年3月 8日

満州航空の全貌


著者  前間 孝則 、 出版  草思社

 満州国の知られざる裏面史が明らかにされています。
15年戦争の幕開けとなった満州事変が起きたのは1931年(昭和6年)。奉天郊外の柳条湖での満鉄線の爆破事件に端を発する。
 1932年3月、日本のかいらい国家である「満州国」の建国が宣言された。そして、同じ年の9月、満州航空が誕生した。関東軍の揚力な後押しを受けて雄設された満州航空は、関東軍と一体となって大陸進出そして大陸支配の先兵として活躍した。満州全域に定期航空路網をつくりあげた満州航空は、途中から分離した満州飛行機製造をふくめると最盛期には8000人もの従業員を擁していた。
 満州航空は、国策の民間航空会社だったが、その現実は、群雄割拠する軍閥が各地域を支配しており、反日・抗日勢力のリアクションを受け、緊張を強いられながら運行する日々だった。
 関東軍は満州事変の時点において航空機を一機も保有していなかった。もちろん、航空輸送部隊も持っていなかった。
 満州航空の裏の顔は、軍命にもとづく「軍臨便」だった。満州航空は、「関東軍の二軍」「覆面部隊」などと呼ばれていた。軍人の移動や視察、負傷兵や武器・弾薬の輸送、危険のともなう偵察や邦人救出などを行っていた。
 満州航空の設立にあたっての出資金(資本金)350万円は、満鉄が150万円、満州国政府が100万円、住友が100万円出資した。このとき、三井・三菱は出資していないが、それは関東軍に対して不信感を抱いていたから。
 満州国はアヘン専売による利益を重要な財源としていた。アヘン中毒者は日本占領下で急速に増大していった。日本はアヘン専売利益の拡大を狙った。このアヘンを満州航空は運んでいた。アヘン2000トン、1000億円にもなる。
日本の関東軍そして満州国はまさしく死の商人として存続していたわけです。おぞましいことです。決して戦前を美化してはいけません。
 ところで、この本には杉野元兵長が生きていて、満州にひっそり生活していたと書かれています。日露戦争のとき「軍神」広瀬中佐が亡くなる直前、「杉野はいずこ」と叫んで探しまわった、あの杉野兵長です。実は生きていたのですが、名誉の戦死をしたことになっていたので、生きて故郷に帰ったとき、「おまえはもう日本にはおれない」と言われ、満州に渡って生活していたという話です。本当だとしたら、むごいことですね。
 いろいろ満州国の実態が分かる本でした。
(2013年5月刊。2600円+税)

2014年3月 2日

「愛国」の技法


著者  早川 タダノリ 、 出版  青弓社

 戦前の日本が「戦争を愛する国」へ向かうためには、権力と軍部による並々ならぬ思想動員があったことがよく分かる本でした。それにしても、驚くべき発見がいくつもありました。
 その一。日本人には、昔から日の丸を掲げる習慣があったわけではないということです。最近では、正月になっても、「日の丸」を掲げている家庭はまず見あたりません。今では、日本にそんな習慣はないと断言してよいでしょう。そして、実は、それは昭和10年代になっても同じことだったのです。そこで、政府は国威発揚キャンペーンの一環として、「日の丸」を掲げるように大々的に取り組んだのでした。
 なーんだ、という気がしました。いま、安倍政権は、憲法を改正して「日の丸」を国旗と定めようとしていますが、とんでもない時代錯誤でしかありません。ところが、教職員と子どもの思想を統制することだけは明確です。
 その二。戦前には徴兵保険というのがありました。富国徴兵保険相互会社というのがあって、徴兵されると、保険金がおりるというものです。これで入営に要する費用をまかなったのでした。この保険会社は大もうけしたようですが、いまでも「フコクしんらい生命」として現存しています。
 その三、出征兵士の妻の姦通問題に警察が目を光らせていて、その妊娠状況まで警察が管理していました。個人のプライバシーより出征兵士の士気を重んじていたというわけです。
 その四。これが一番の驚きでした。軍人稚児隊というものがあったというのです。写真があります。千葉県流山市にできたもので6歳とか7歳の少年勇士11人から成る部隊があったとのこと。この当時、子どもの軍服は大流行していた。七五三などのとき、ありふれた服装だった、というのです。
 陸・海軍も「軍事思想の涵養に資する」として、大将服や将校服の着用を認めていた。
 世の中が軍国主義に一色に染まるとこういうことが起きるのですね。こんな世の中にならないように、今がんばりましょうね。
(2014年1月刊。2000円+税)

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