弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2022年1月25日

「太平洋の巨鷲」山本五十六


(霧山昴)
著者 大木 毅 、 出版 角川新書

父親が56歳のときにさずかった子なので、五十六(いそろく)と名付けた。
なーんだ、そういうことだったのか...。
「五十六少年は、おとなしくて、本当に黙りっ子だった」
言葉を尽くすのを億劫(おっくう)がる人物だった。話が通じないと思った相手には、言わなければならないことまでも言わないと評された。そして、本人は、この「沈黙」をある種の知恵と考えていたようだ。でも、これって、部下は困りますよね。
1919(大正8)年4月、山本はアメリカ駐在を命じられた。アメリカ駐在中に、山本は航空機の威力に注目した。そして、アメリカの巨大な石油施設を眼にしてアメリカの力を実感しただろう。山本は、大艦巨砲主義から航空主兵論に乗りかえた。そして、山本は、自ら飛行機の操縦を習得した。山本は航空本部長となり、航空機産業の調整に努力し、大量生産体制を整えるのに奮闘した。ただ、山本は先見的な航空主兵論を力説しながらも、それは不徹底だった。
北支事変、日華事変、支那事変と日本が呼んだのは、アメリカとの関係で「戦争」と呼べなかったということ。アメリカは1935年に中立法を制定していて、戦争していると大統領が認定した国に対しては、兵器や軍需物資の輸出を禁じていた。なので、もし、日本が中国に宣戦布告し、国際法上の戦争をはじめてしまえば、日本はアメリカから石油や鉄を輸入できなくなってしまう。
南京への無差別爆撃は日本軍が世界史上初めてなした蛮行だとされているが、これは山本の発案によるものという有力説がある。山本は、このとき海軍次官の中将だった。大都市への無差別爆撃は、そこに住む住民を恐怖のドン底に陥れて戦意を喪失させることを狙ったもの。しかし、現実は、身内を殺された人々は、戦意喪失どころか、ますます戦意を高揚させた。
これはヨーロッパでも同じ。ドイツのロケット攻撃を受けたロンドン市民、イギリス軍による無差別攻撃にさらされたドイツの都市住民はますます戦意を高揚させた。日本の本土大空襲を指揮したアメリカ軍のカーチス・ルメイ将軍も同じように間違った執念の持ち主でした。
山本は、日独同盟に強く反対していた。それは、アメリカとの戦争につながりかねないとの判断からだった。
1940年9月の時点で、山本は対アメリカ戦で勝算がない、自信のもてる軍備ができるはずがないと考えていた。真珠湾攻撃において第二撃を断念するのもやむなしと山本たちは判断していた。燃料も爆撃も欠如していた。
山本は1943年4月18日、搭乗していた一式陸攻機が、日本の暗号を解読していたアメリカ軍の戦闘機によって撃墜されて死亡した。要は、アメリカ軍は日本軍の暗号を全部解読していて、日本軍の行動をすべて認識し、予想していたということです。これは科学・技術の発達をアメリカ軍は取り入れていたこと、日本軍は相変わらず古臭い精神主義にとらわれていたことを意味しています。皇軍の優位性を今なお誇大妄想的に言いつのる一部の日本人は、この客観的事実に目をつぶって、自己満足しているにすぎません。
(2021年8月刊。税込1012円)

2021年12月27日

幻の村


(霧山昴)
著者 手塚 孝典 、 出版 早稲田新書

満蒙開拓団の悲惨な歴史をたどった新書です。
満蒙開拓団は、1931年の満州事変、翌年の満州建国のあと、1936年に閣議決定されて日本の国策となった、現在の中国東北部へ日本人500万人を移住させる計画によるもの。
「満州に行けば地主になれる」
こんな政府のコトバをうかつにも信じて、農業の担い手としての成人男性とその家族が海を渡った。その真実は、日本の公設企業が現地の農民から安く買いたたいた農作地と家屋を与えられ、中国人をよそへ追いやる入植だった。そして、それはソ連国境の防衛と、植民地支配が目的だった。また、日本の軍事を担う、陸軍の関東軍への食糧供給など兵站(へいたん)の役割も担っていた。
この本は、長野県にすむ胡桃澤盛(さわもり)を主人公としている。彼は36歳のとき、旧・河野村の村長に就き、総勢95人の河野村開拓団を満州に送り出した。ところが戦後の日本に無事に戻ってきたのは22人のみ。73人が死亡した。翌年、この村長は42歳の若さで自死した。
河野村開拓団には敗戦時の8月15日に76人がいて、男性は4人のみ。7割が子ども。中国人の村人から取り囲まれた。そして、団長は暴力を受けて虫の息となり、日本人の手で殺された。そのあと、開拓団は集団自決をはじめた。まず、自分の子どもを首を絞めて殺した。そして、生き残った人々が長野県に戻ってきたときには、村をあげて送り出したはずなのに、厄介者扱いされた。
「好き勝手に満州に行って死んだ奴ら...」と、さげすまれた。戦死者とは違う扱いだった。
中国人が耕作していた土地を、日本人がタダ同然で追い出したところに開拓団は入植した。開拓団のほうは、先輩たちが開拓した土地だと信じていた。開拓団の生活は軍隊式で、日課には軍事訓練もあった。
日本敗戦後、関東軍は逃げるときに時間かせぎのため、橋を落としていった。そのため開拓団は逃げるのに苦労させられた。
満蒙開拓団青少年義勇軍は全国で8万5千人。そのうち3万人が命を落とした。
国策として満州へ送り出したにもかかわらず、日本政府は残留孤児の帰国について、「家族の問題」として、介入しない方針をとった。そして、公的な支援策はとらず、家族まかせにした。
満蒙開拓団がたどった苦難の歴史が教えるものは、政府(国)や当局(村)の言っていることをうかつに信用してしまう(うのみにする)と、生命も財産も失うことがあるし、自己責任として、信じたほうが悪いとされることがあるということです。
それにしても、今の自民党(自民・公明)政権のひどさ(無責任さ)は、あまりにもひどすぎますよね。アベノマスクにしても8千万枚が配られずに倉庫に眠っていて、倉庫代がかさんでいる。1千万枚が不良品であり、その検品代に21億円もかけたうえ、廃棄処分する。これから子どもに配られる10万円の半分をクーポン券にして、その配布のための事務手数料に1千億円近くかけようとする...。信じられないムダづかいです。私は絶対に許せません。プンプンプン...。投票率が5割ほどでしかない状況がすべてを許しているのです。
(2021年7月刊。税込990円)

 12月25日、天神でアメリカ映画『ダーク・ウォーターズ』をみました。デュポン社(化学製品のメーカー)がテフロンには生物への重大な健康被害を与えることを実験して知悉していながら消費者に対しては安全・便利だとウソを言って莫大な利益をあげていたのを企業側の弁護士がデュポン社とたたかうことになり、大変な苦労の末に勝訴したという実話にもとづく映画です。
 日本でも水俣病やイタイイタイ病裁判があるわけですが、わずかな弁護士が大企業と裁判して勝てた背景には情報開示制度が生きていることがよく分かりました。
 また、クラスアクション(集団訴訟)を活用し、大々的な疫学調査を国にさせたところも注目すべきところがあり、大変勉強になりました。
 残念なことに観客はわずか5人だったようです。

2021年12月15日

第七師団と戦争の時代


(霧山昴)
著者 渡辺 浩平 、 出版 白水社

北海道にあった第七師団の生い立ちから敗戦のときに解放するまでを追跡した労作です。
北鎮という言葉を初めて知り(聞き)ました。北方の脅威から自らを護るという意味だそうです。北とはロシア(ソ連)を指します。
第七師団は屯田兵を前身とし、中国・満州に渡ってノモンハンで戦い、また沖縄でも戦っています。師団というのは1万人あまりの兵力をもち、聯隊(れんたい)は2千人ほどの将兵がいる。師団長は中将があたる。
第七師団の歩兵第二十五聯隊は屯田兵を母体とし、1896(明治29)年に札幌の東の月寒(つきさむ)の地で誕生した。そして、この第二十五聯隊は、1945年8月17日に樺太の逢坂で聯隊旗が焼かれて消滅した。
第七師団の本来的任務は一貫して北方の護り。
屯田兵は、正式名称は屯田憲兵。ええっ、これまた初めて知りました。憲兵だったのですか...。屯田兵は、シベリアのコサック兵を模して、黒田清隆が進言してできた制度。
第七師団の用地は540万坪。そこに3個の歩兵聯隊(26、27、28)と騎兵、工兵、野戦砲兵、輜重(しちょう)兵がそれぞれ1個聯隊、師団司令部、病院、監獄、憲兵隊、兵器廠や官舎、それに火力発電所もあった。もちろん、練兵場や演習場も。
日露戦争のときの旅順港を見おろす203高地の攻略戦にも第二十五聯隊は出動しています。このとき、63人のアイヌ兵がいて、うち51人が戦功により勲章を授与された。この戦闘で、第七師団は、3割強、6206人の死傷者を出した。
ロシア(ソ連)の二コラエフスク市(尼港)における日本人虐殺事件にも第七師団は関わっている。1917年にロシアで革命が起こり、ソビエト政府が誕生した。そこへ、英仏、米日がシベリアに出兵して内政干渉を試みた。その名目は、チェコ軍団の救出ということだった。1918年8月に第七師団がシベリアに派兵された。
尼港事件は、1920(大正9)年5月24日に発生した。
尼港の日本軍守備隊はわずか300人。包囲するパルチザンは2000人。日本軍の救援は遅れ、日本の将兵と市民はパルチザンに処刑された。このころの日本人居留民は500人。うち、天草・島原出身者を主体とする娼妓が90人いた。また、パルチザンのリーダーは、直後の7月に赤軍によって処刑されている。
シベリア出兵したのは、当時21個師団のうちの10個師団。24万の兵力を送り出し、死者5千人、負傷者2600人、戦費は9億円にのぼった。日本はシベリアの資源を開拓して得ようとしていた。
ノモンハン事件のときにも、1939(昭和14)年5月から9月にかけて、満州(チチハル)にいた第七師団が出動した。
その第26聯隊長だった須見新一郎は、火焔瓶によってソ連軍の戦車と戦った考案者として名高いが、ノモンハン戦記のなかで、「御粗末なる作戦屋」として日本軍高官たちを痛烈に批判している。関東軍の植田謙吉司令官、辻政信らの参謀、そして小松原道太郎・第23師団長らを激しく非難した。
ノモンハン事件では、ソ連軍も莫大な被害を出したことが今では判明していますが、ジューコフ将軍が最大限の物量を集中させて日本軍を圧倒したこと自体は事実です。この戦果によってジューコフ将軍はスターリンに認められて、ソ連赤軍のトップにのぼりつめました。
そして、第七師団は沖縄に渡ってアメリカ軍と戦い、また樺太ではソ連軍と8月15日のあとまで戦ったのでした。
第七師団の歩みは、日本軍の歩みでもあることがよく分かる貴重な労作だと思いました。
(2021年11月刊。税込2750円)

2021年12月 7日

靖国神社と聖戦史観


(霧山昴)
著者 内田 雅敏 、 出版 藤田印刷エクセレントブックス

第二次大戦中に、非業・無念の死を強いられた死者たちに対しては、ひたすら追悼あるのみで、決して、彼らに感謝したり、彼らを称(たた)えたりしてはならない。称えた瞬間に死者の政治利用が始まり、死者を産み出した者の責任があいまいにされる。
これが著者の主張の根幹にあり、私もなるほどそうですねと共感します。
第二次大戦中に亡くなった日本人兵士の多くは餓死であり、戦病死でした。誰がそんな状況に前途有為な青年たちを追いやったのか...。もちろん、日本軍のトップであり、天皇と支配層です。
A級戦犯こそ靖國神社にふさわしい。靖國神社がA級戦犯を分祀することは絶対にありえない。なぜなら、分祀した瞬間に、「聖戦」思想を根幹とする靖國神社の歴史観が崩壊し、「靖國神社」でなくなってしまうから...。
中国や韓国からいくら抗議されても靖国神社は平気で無視しますが、アメリカから批判されると直ちに訂正するという、日本政府と同じ卑屈な対応をします。これまた、嫌ですよね...。信念があるようで、ないことがよく分かります。
私も靖国神社には一度行きました。悪名高い遊就館も見学しました。まさしく、「聖戦」のオンパレードで、日本はアジアの人々の解放のために戦ったと言わんばかりの展示ばかりでした。
1978年に靖國神社がA級戦犯を合祀したあと、昭和天皇は靖國神社への参拝はしていないし、明仁平成天皇にいたっては在任中、一度も靖國神社に参拝しなかった。
平成天皇は2015年に南太平洋のペリュリュー島にまで行って戦死した日本平兵士たちを慰霊しました(これで、私もペリュリュー島に関心をもち、マンガ本も読みました)。靖國神社は、ペリュリュー島よりも遠いのか...と、呪詛した人たちがいるそうです。本当に残念です。
この本を読んで、軍人恩給(遺族年金)が、「天皇の軍隊」の階級をそのまま生かしていることを知り、怒りを覚えました。大勢の兵士を戦場で餓死させた「戦犯」である「大将」の年金は年間761万円。それに対して、一般の兵士は、104万円にすぎず、7倍もの差があるというのです。ひどいものです。
著者は前に『靖国参拝の何が問題か』(平凡社新書)も刊行していて、この分野のエキスパートの弁護士です。改めて、大変勉強になりました。今後ますますのご活躍、ご健筆を祈念します。
(2021年10月刊。税込990円)

2021年11月30日

戦争と軍隊の政治社会史


(霧山昴)
著者 吉田 裕(編) 、 出版 大月書店

一橋大学で長く軍事史を教えていた吉田裕教授が退職するのを機に、退職記念論文集として発刊された本です。
日本では軍事史研究というと、戦後まもなくは、戦争を正当化するもの、戦争に奉仕する学問と捉えられ、皮膚感覚のレベルで忌避する傾向があった。そして、防衛研究所にあった戦史室は、旧軍エリート将校、それも陸軍中心の集団であり、侵略戦争だったことについての根本的な反省が欠如していた。
日本で、戦争・軍事のリアリティーが隠蔽・忌避されてきた結果、日本の若者たちが戦前の軍服を着てサバイバルゲームに撃ち興じるのを許す風潮を生じた。いやあ、これってまずいですよね。戦争が、いかに残虐なことをするものなのかという本質を語らないと、そうなるのでしょう...。
戦前の日本軍将兵が戦場での体験でショックを受けて精神的な病いにかかって日本内地に送還されたとき、公務起因とはされず、わずかな一時金が支払われるだけで恩給はもらえなかった。さらに、傷痍(しょうい)軍人の世界では、戦傷者は優者であり、戦病者は弱者という雰囲気があった。
日本軍将兵(軍属ふくむ)の死者は230万人とされ、そのうち戦死よりも餓死・栄養失調による死のほうが多かった。そして、陸軍の准士官以上は7割が生還しているのに対して、兵士の生還率は1割8分にすぎなかった。
初年兵は「慰安所」行きは男らしさの証(あかし)とされ、そこに行かないと、「男」であることを疑われた。また、古参兵は初年兵を「女役」つまり「慰安婦代役」をつとめさせられていたところもあった。しかし、なかなか日の目を見ない話として埋もれていた。
「慰安婦」は戦場につきものだった。女性の「性」を軍需品扱いにして平気でいられる日本人の異常さが、日本の豊かな経済成長を遂げさせたとするのなら、それはやがて日本の破滅の原因にもなるだろう...。まったく同感です。
日本人戦犯が敗戦後の新しい中国の収容所で加害者だったことを、いかに認識していったかを検証している論稿があります。
収容直後は、日本人将兵たちは、戦犯と扱われたことに対して、激しい反発や抵抗をしていた。ところが、看守らの対応が予想外に丁寧で、食事や監房の環境がきわめて人道的であったことから、戦犯たちは、次第に安心し、やがて、自ら学習の機会を求めた。
新中国は、いかに日本人戦犯たちが中国人に対して残虐な加害行為をしたことが明らかになっても死刑も無期刑も課すことはなかった。寛大な措置がとられたのです。
日本軍将兵が戦争中、罪なき中国人の少年や農民に対して、「実的刺突」をさせ、虐殺した。また、荷物運搬夫として連行した農民を「地雷よけ」として先頭を歩かせ、死に至らしめた。
日本国内に、このような日本軍の残虐な加害行為が広く知れわたっていない現実があるなかで、日本軍はアジアの解放者だったなどという誤った戦争史観がはびこっているのだと思います。とても残念なことです。その状況を克服するためにも本書が広く読まれることを願います。
(2021年7月刊。税込4950円)

2021年11月10日

暁の宇品


(霧山昴)
著者 堀川 惠子 、 出版 講談社

日本軍が兵站を無視して精神論ばかりで戦争をすすめていたのは有名ですが、それは兵員・物資の輸送の面でも顕著だったことを本書で知りました。
アメリカは原爆を日本に投下するにあたって、「目標検討委員会」を設置して、議論した。そこであがったのは17都市、それを4つにしぼった。京都・広島・横浜・小倉。
京都(古都)を破壊すると、日本人の反発が強まり、占領後の統治が難しくなるとの懸念から京都は外された。広島は一貫して目標の筆頭にあがり続けた。それは、広島の沖に日本軍最大の輸送基地・宇品があったことによる。
宇品は広島の軍港の名。宇品地区の中心にあったのは、陸軍船舶司令部。暁部隊として知られる。
太平洋戦争中に撃沈された輸送船は、小型船まで含めると7200隻以上。出征した船員の2人に1人が戦死している。
なぜ、広島の宇品が戦争の玄関口となったのか...。理由の一つは、鉄道。日清戦争(1894年)のころ、東京を起点とした鉄道は広島まで開通したばかりだった。全国から集めた兵隊や物資を戦場に運ぶには、出航する港に鉄道がつながっているのが好都合。
宇品港は岸壁の際まで最大10メートルの深さがあり、港のすぐ近くまで大型船をつけることができた。周辺の島々が風をさえぎってくれるため、波も穏やかで、使用できる海面も広い。港の周辺に最大200隻もの船舶を碇泊させて作業することができた。
陸軍は、宇品地区に陸軍糧秣支厰を置き、精米工場や缶詰工場、糧秣倉庫を建設した。
海上輸送なのに、陸軍が船を動かすことになったのは、海軍が陸軍の部隊を船で外地へ運ぶ輸送任務を拒絶したから。陸軍船舶司令部は、船と船員をもたない海運会社のようなもの。
陸軍は戦争が起きるたび民間から船と労働者を必死にかき集め、日清戦争のとき24万人、日露戦争では109万人の将兵を宇品から朝鮮半島や大陸へ運んだ。陸軍部隊の輸送業務、乗船、搭乗、陸上への携陸は、すべて陸軍が計画・遂行し、海軍はその護衛のみを担当することが法令上、明記された。
最初は工兵の一分科にすぎなかった船舶工兵は、次第に増大し、独立した工兵連隊となったあと、船舶兵という兵種として18万人を擁した。
宇品港(広島港)に陸軍船舶輸送司令部が置かれ、田尻昌次・陸軍中将が司令官となった。配下の軍人・軍属は10万人、年間予算は2億円。
ところが、圧倒的に船舶が足りなかった。遊覧観光に使われていた古いプロペラ船までひっぱってきた。このため船舶不足によって国内物流が停滞しはじめた。その結果の石炭不足から、非鉄金属の生産にまで影響が出はじめた。船が足りないので新造しようとしても、世界的に鋼材が値上がりしていたため、造船業に鋼材がまわされてこなかった。
島国から軍隊を運ぶのは船しかない。軍隊が外征すれば、そこへ軍需品や糧秣を届けるのも船。資源を入手するために南方に進出するために兵を送るにも船がいるし、資源を運んでくるのもまた船。一にも二にも船が必要。日本は、その船が圧倒的に不足した。
田尻中将は、57歳で司令官の座を追われた。諭旨免職だった。それは船舶不足の現実をふまえて中央に意見集中したことへの報復措置だった。残った司令部では、表面上の強気が支配した。弱音を吐いたら、最前線に飛ばされ、命の保障がなくなってしまう...。
陸海軍部も政府も、船舶の重要性は十分に知っていた。しかし、その脆弱性に真剣に向きあう誠意をもたなかった。圧倒的な船舶不足を証明する科学的データは排除され、脚色され、ねじ曲げられた。あらゆる疑問は保身のための沈黙のなかで、「ナントカナル」と封じ込められた。
いやはや、今はやりの忖度の世界ですよね、これって...。
よくぞ、ここまで調べあげたものだと驚嘆しながら、息を呑みつつ最後まで一気に読み通しました。
(2021年7月刊。税込2090円)

2021年11月 5日

沖縄戦の子どもたち


(霧山昴)
著者 川満 彰 、 出版 吉川弘文館

沖縄では、師範学校・中学校・高等女学校・専門学校の全21校に通っていた10代の少年少女たちが学徒隊として招集され、戦場に立たされた。その人数は教員も含めて2016人。うち戦死者は1017人で、半数以上。学徒隊とは別に、北部(やんばる)では青年学校に通っていた少年1000人が遊撃隊(護郷隊)として招集され、160人の隊員が犠牲になった。
沖縄に第32軍が創設されたのは1944年3月。この年に兵役法が次々に改正され、徴兵検査が20歳から19歳に繰り下がった。志願でしか招集できない17歳と18歳にも兵籍を与え、徴兵検査を義務づけた。
沖縄の第32軍は、南西諸島を守り抜く戦争ではなく、捨て石部隊となって、日本本土決戦に向けて時間を稼ぐための戦争だった。沖縄の9校の鉄血勤皇隊、通信隊、そして6校の女子看護隊は、第32軍の持久戦の作戦計画にもとづいて配属された。動員されたのは1493人。そのうち犠牲となったのは学徒隊792人、教員24人、計816人。戦死率は47%、半数近くが犠牲となった。
6月18日に解散命令が出されたことで、鉄血勤皇隊や女子看護隊は戦場をさまようことになり、犠牲者はさらに急増した。
軍による解散命令って、やっぱり無責任ですよね。投降してよいとか、自分たちの身の安全を図れる具体的指示が必要だったのではないでしょうか。
6月18日に、米軍の地上部隊を指揮していた米第10軍司令官のバックナー中将が日本軍の攻撃で戦死した。
日本軍の牛島満司令官は、最後まで、「捨て石」となる持久戦を意識していた。
宮古島では、3万人もの第28師団の兵士が入ってきたので食糧不足となり、住民もふくめて飢餓状態に陥った。宮古島の戦没者2569人のうちの90%近くが栄養失調とマラリアで亡くなっている。
沖縄での少年兵たちは、遊撃戦どころではなく、常に米軍との戦場で正面から対峙させられ、米軍の標的となっていた。
うひゃあ、こ、これはひどい、ひどすぎる...。
そして、日本の少年兵のなかにはスパイ容疑で日本兵から射殺された人もいるというのです。むごい話です。
九州に疎開した沖縄の子どもたちは、ヤーサン(お腹が空いた)、ヒーサン(寒い)、シカラーサン(寂しい)状況に置かれた。
沖縄の日本平は中国戦線帰りの兵士がいて、自らが中国で犯した残虐行為を「武勇伝」として語っていたことから、アメリカ軍に捕まったら、男は八つ裂きにされ、女は強姦されて殺されると、自分たちが中国でしたことを米軍もすると言って恐怖心をあおった。
そして、戦後まで生きのびた子どもたちのうちの戦争孤児が多く生まれた。しかし、それが何人いたか、当局はつかみきれていない。3千人から4千人はいただろうというだけ。
そんな悲しい実情を掘り起こした大変な労作です。戦争にならないようにするのは、私たち大人の責任です。どんなすごい最新兵器を開発したり、所持していてもダメなのです。
(2021年6月刊。税込1870円)

2021年10月26日

日本大空襲「実行犯」の告白


(霧山昴)
著者 鈴木 冬悠人 、 出版 新潮新書

日本の敗戦に至る1年間に、46万人近くの日本人がアメリカ空軍による無差別空襲によって殺されました。そのほとんどすべてが軍人ではなく、一般市民です。老人、女性そして子どもたちでした。
日本政府は、その大空襲を指揮したアメリカ空軍トップに対して、戦後、勲一等旭日大綬章(今の旭日大綬章)を贈っています。よくぞたくさんの罪なき市民(日本人)を殺していただきました、ありがとうございますという感謝の勲章です。ええっ、これって、いったいどういうことなのでしょうか...。もらった人は、日本大空襲を指揮した当時38歳のカーチス・ルメイ少将です。
「私は、過激なことをするつもりだった。日本人を皆殺しにしなければならなかった」と語った録音がアメリカに残っているそうです。このカーチス・ルメイはベトナム戦争のときは、北ベトナムを絨毯爆撃して、「ベトナムを石器時代に戻す」と豪語したことでも有名です。ともかく、殺せ、殺せ、ジャップもベトコンも皆殺しだ、と叫んだ男に、日本政府は最高の勲章を贈ってその努力に報いたのです。まあ、なんという恐ろしい現実でしょうか...。人が良いにもほどがあります。
1945年3月9日の東京大空襲のときに出動したB29は325機。合計して1600トンをこえる焼夷弾を積み込んでいた。32万700発を深夜1時、東京都民130万人の上空からまき散らした。
日本本土への空爆は2000回、日本全国237ヶ所を狙って投下された焼夷弾は2040万発。被害者は少なくとも45万8314人(原爆による被害者を含む)。これは、市民を恐怖に陥れ、戦争への意欲を失わせることを目的とした。すなわち、女性や子どもであっても、軍需品や必要な物資の生産に関わっていて、国の産業・軍事力を支えている。なので、全員が戦闘員とみなされるべきだという考えによる。
そして、アメリカ軍は市民への無差別爆撃を始めたのは自分ではない、先に日本軍がやったと弁明した。
たしかに日本軍は、1938年から3年半にわたって、中国・重慶に対して200回以上も空爆を繰り返し、市民1万人以上が犠牲になった。この重慶爆撃の惨状はアメリカ国内に詳しく伝わっていて、日本への空爆は当然だという世論がアメリカ国内にあった。
日本大空襲のとき、アメリカ軍は、あまりに焼夷弾を投下したので、タマ切れとなって、10カ月ほど休んだ時期があるとのこと。この10ヵ月で助かった人もいるのでしょうか...。
B29による爆撃は、当初は精密爆撃というふれこみで、日本軍の戦闘機をつくる工場を狙うはずだった。ところが、高度1万メートルを飛ぶB29は、目視による対象工場をとらえることが難しく、しかも、そんな高々度には偏西風というジェット気流があって、B29による精密爆撃は難しかった。そのうえ、日本軍はドイツ空軍と違って戦闘機で迎撃する態勢にないうえ、高射砲陣地も恐れるに足らないことが判明したので、大空襲のときは高度2000メートルまでおりて飛行して市民への無差別爆撃を敢行していた。
この本によると、B29の開発は原爆の開発費20億ドルに対して、30億ドルもかけたというのです。そして、通常なら10年かかるのを4年で完成させたのでした。アメリカの技術力のすごさです。
また、この当時は、まだアメリカ空軍は存在していなかったのを、なんとかB29の運用をヘンリー・ハップ・アーノルド大将が握り、日本大空襲の成功によって、ついに空軍を創設できたという裏話が紹介されています。
B29は、完成された爆撃機というのではなかったようですが、ともかく、人類史上もっとも街を破壊した航空機であることは間違いない。
いやはや、恐るべきアメリカ空軍です。それにしても、日本政府って、いったいアメリカの奴隷に甘んじる人ばかりなんでしょうかね、おぞましい限りです。
(2021年8月刊。税込836円)

2021年9月25日

アンブレイカブル


(霧山昴)
著者 柳 広司 、 出版 角川書店

もちろん小説だということは読みはじめる前に分かっていました。でも、てっきり現代社会のどこかを舞台としていると思っていたのです。ところが、実は舞台は戦前の北海道、しかも、蟹(かに)工船で働いていたことのある経験者が、なんと、あの小林多喜二に対して作業の実際を語るところから話は始まるのです。ええっ、この小説は小林多喜二がまだ銀行員だったとき、作家としての取材をどうやってしていたのか、から始まるのか...、驚きました。
語る体験者は2人。いずれもスネに傷をもつ身なので、目の前の大金が欲しいのです。そのため、小林多喜二に蟹工船での作業実態を語るのですが、それには実はウラがあって...。うむむ、この本は国家権力による思想統制の怖さに自然に読者の目が向くように仕組まれています。そして、それが自然な流れなのです。さすが、です。
次は戦前の反戦詩人としてそれなりに有名な鶴彬(つる・あきら)と憲兵大尉、そして特高との関わりあいの話です。展開が予想以上に速いので、ついていくのも大変です。
ときはゾルゲ事件が摘発された翌年です。
それにしても、戦前の特高警察って、怖いですよね。なにしろ何ら罪のない人々を捕まえては、ときによっては拷問を加えてでも罪を「自白」させ、刑務所に閉じ込め、また人間としての精神・身体のいずれもボロボロにしてしまうのですから...。
問題は、それが遠い過去のことであって、現代とは何の相互関連性はないとは言い切れないことです。これって、本当にゾクゾクするほどの怖さがあります。要するに、自分のやった本来なら正当な行為が、刑事処罰の対象であり、決して文句は言えない。いやはや、怖い、怖すぎます。
(2021年1月刊。税込1980円)

2021年7月21日

花岡の心を受け継ぐ


(霧山昴)
著者 池田 香代子 、 出版 かもがわ出版

戦争中の1944年から翌年45年にかけて、中国から1000人ほどの中国人が強制連行されて花岡鉱山で働かされるようになった。ところが、激しい労働にもかかわらず食糧事情は劣悪、そして、指導の名のもとに激しい暴行が加えられた。ついに中国人たちは1945年6月30日、蜂起を決意。しかし、実際には蜂起どころか、やっとの思いで集団で脱走。土地勘なく、言葉も話せず、体力のない中国人たちは山中で次々に捕まえられていった。捕まった中国人たちは炎天下の広場に座らされ、次々に死んでいった。このとき100人あまりが亡くなった。これを花岡事件という。
この花岡事件のおきた大館市では1950年から現在まで慰霊祭が行政の主宰でとりおこなわれている。実は、中国人犠牲者の供養は戦中から行われていた。これはすばらしい、すごいことです。
集団脱走して中国人たちは武器は何ももたず、とにかく疲労困憊の状態だったから、山中で捕まるとき、何ら抵抗しなかった、いやできなかった。なので、憲兵も警察も一発も発砲することがなかった。
慰霊碑には429人の中国人の氏名が刻まれている。この花岡鉱山に連れてこられた中国人は総勢1284人なので、3分の1が悲惨な状態で亡くなったことになる。
毎年6月30日に盛大に挙行される慰霊式には、市長、市議会議長をはじめとする市議が半数以上は出席するし、中国大使館からも参加している。何年か前までは生存者(幸存者)も列席していた。
花岡裁判で和解した原告は1000人、西松の広島安野は360人、三菱は376人。
和解も立派な解決法です。ただし、この本には、裁判所が判決で企業の法的責任を認めたら、もっと良かったと書かれています。まったく同感です。
原告側弁護団としてがんばった新美隆弁護士(故人)、そして内田雅敏弁護士の話が紹介されています。さらに和解を提案した裁判官は、退官後、慰霊碑に手を合わせに現地まで足を運んでいます。偉いですね。
インタビュアー(ナビゲーター)の著者の聴き取りによって、花岡事件と慰霊式の全体がすっきり分かりやすく紹介されていて、胸を打つ内容になっています。
この弁護団で活躍した内田雅敏弁護士から贈呈をうけました。ありがとうございます。
保守・革新を問わず、歴代の市長が70年以上も慰霊式を存続・実行しているというのは実にすばらしいことです。心より拍手を送ります。
(2021年7月刊。税込1980円)

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