弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2022年7月21日

満洲国グランドホテル


(霧山昴)
著者 平山 周吉 、 出版 芸術新聞社

満洲のことを今、調べています。叔父(父の弟)が25歳で応召して満洲に渡り、工兵(2等兵)としてトンネル掘りなどしていました。日本敗戦後はソ連軍の下で使われたあと、八路軍(パーロ。中国共産党の軍隊)の求めに応じて技術員となり、紡績工場で働き、ついでに新工場をたちあげ、指導員として8年ほど働いていたのでした。今、それはどういう状況だったのかを調べているのです。知らないことだらけなので、古い写真もあり、調べれば調べるほど、ワクワクしてきます。
1931(昭和6)年9月に始まった満洲事変のとき、日本人が満州に23万人いた。日本敗戦時には、その7倍近い155万人の日本人がいた。開拓団や青少年義勇団が増えていたのです。「王道楽土」を夢見て内地を出て満州にたどり着いたとたん、開拓団員たちはとんでもない悲惨な現実に直面させられるのでした。
満洲では、日本人が米、朝鮮人が米と高梁(コーリャン)、中国人は高梁が主食として配給されていた。まさしく、目に見えた差別が公然と横行していたのです。これで「五族協和」だと、笑わせます。
錦州は張学良の本拠地だった。石原莞彌が空から爆撃した。
岸信介は、満州国に入って、40歳で実業部の次長となって、実業部の実権を握った。
河本大作・大佐と甘粕正彦大尉の二人は、「一ヒコ一サク」として、ペアを組み、組まされた。河本大作は、日本敗戦後の1953(昭和18)年に拘置所で死去した(71歳)。
満洲には、日露戦争の「成果」としての満鉄付属地があった。ここは、治外法権の地で、日本軍の介入を許さなかった。この満鉄付属地の存在は、日露戦争の勝利によって日本が得た重要な権益だった。したがって、軍部と財務省の協議は難航した。
日本軍は、匪族と良民の分離工作をしたが、これは完全な失敗だった。
日本支配下の満州の各都市には多くの「密吸煙館」があった。そこでは公然とアヘンの吸飲を許した。アヘンについては、専売制を敷いたことから、「専売益金」を担保として借金し、満州国を国営した。
昭和天皇は、将軍に対して、「満州事変は、関東軍の謀略だったとの噂を聞いたが、どうなのか」と質問した。その模範回答は、謀略の存在をはっきり認めつつ、関東軍の所為ではないとするものだった。昭和天皇は、それにうまうま乗せられた。いや、真相を知っていて、「乗せられた」ふりをしただけなのかもしれない。
関東軍は莫大な機密費をもっていた。お金をもっていたのは、陸軍と満鉄。それぞれ3000万円ほど持っていた。
四平街は奉天と新京の中間にある。この四平街には満鉄の図書館もあった。四平街には戦車学校があった。
1935(昭和25)年の秋、満鉄育成学校に入ったが、ここは完全自治の寄宿舎だった。
満洲国立大学ハルピン学院に転院した。少数精鋭なので、1学年100人(うち日本人60人)だった。
ノモンハン事件の前、天皇は国境の不明確なものを、無理することはない、としていた。
知らないこと、オンパレードの本でした。
(2022年4月刊。税込3850円)

2022年7月20日

太平洋の試練(上)―レイテから終戦まで


(霧山昴)
著者 イアン・トール 、 出版 文芸春秋

日米の太平洋戦争を詳細に明らかにしている戦史です。マッカーサー将軍が、いかに自分のことしか考えない、嘘つき放題の人物であったか、いやになるほど暴露されています。
そして、それは、台湾を攻めるのか、フィリピンを攻めるのか、その二者択一の選択に関わっていました。
続いて、地獄のペリリュー攻防戦が詳しく紹介されます。平成天皇がわざわざ足を運んで一躍有名となった小島です。よく出来たマンガ本もシリーズで出版されました。
フィリピンではレイテ島をめぐる攻防戦、例の栗田艦隊の謎のUターンも迫ります。どれもこれも見逃せない戦史です。ところで、私は、この600頁ほどもある部厚い戦史・上巻の巻末の記述に目を奪われてしまいました。紹介します。
日米両軍がレイテ島で死闘を繰り広げたあとの1944年12月。アメリカの艦隊のあらゆる艦内では毎晩、新しい映画が上映された。映画交換艦に指定された駆逐艦には何百本という映画、何千巻というフィルムのライブラリーを管理し、発表された予定表にしたがって艦隊内を巡回した。そして、米軍慰問協会のミュージカル・レビューが艦から艦へとまわり、芸能人は1日に4回から5回も同じ出し物を演じた。
風光明媚な島モグモグには、ピクニック場、テニスコート、バレーボールコート、ボクシングリング、野球場、バーベキュー場、ビアガーデンがあった。そして、水兵たちには、ひとり2缶のビールが配給された。賄賂をつかうと、もっと強い酒も手に入れることができた。毎晩1万から1万5千の下士官兵と、5百から1千の士官で大いににぎわっていた。
いやあ、これって、わが日本帝国陸海軍の兵士さんには考えられないことですよね。せいぜい、軍公認の慰安婦施設があるだけでしたから...(今でも自民党は認めたがりませんが、争いようのない歴史的事実です)。
マッカーサー将軍は、ひたすらアメリカ本国で人気を得て、アメリカの大統領選挙に出ることしか念頭になかった。マッカーサーの配下の下士官兵には、自分さえよければいいというマッカーサー将軍はまったく不人気だった。
マッカーサー将軍は、フィリピンから脱出するときも、レイテ島に再上陸するときも、決して「我々」とは言わず、必ず「私」という一人称をつかった。いやあ、これは、ひどい、ひどすぎますよね...。
この本は、マッカーサー将軍について、「連続作話魔」だと決めつけています。しかし、この本を読むと、それは誇張でもなんでもないことが分かります。日本にマッカーサー将軍とともにやって来たホイットニーは、「作り話とでっちあげた会話だらけの聖人マッカーサー伝」を出版したとしています。その本の内容は、嘘つきが、別の嘘つきから聞いた話を焼き直したものだとしているのです。
いやはや、マッカーサーもホイットニーも、とんだくわせ者だったんですね...。
そして、8月9日のソ連の満州進攻にアメリカが期待していた事実も明らかにされます。つまり、東京にいる現人神(あらひとがみ)である天皇が降伏して停戦命令を出したとしても、満州にいる100万の日本軍は従わないかもしれない、そんな日本軍をソ連軍が撃滅してくれることをアメリカは期待していたというのです。
なーるほど、ですね。中国にいる100万以上の日本軍が天皇の1回の放送でたちまち武器を使わなくなるなんて、アメリカ政府と軍には信じられなかったのです。たしかに、ごく一部でしたが、終戦後も戦おうとして日本軍将兵がいましたからね...。でも、日本兵の大勢は停戦命令を喜んで受け入れたのでした。
ペリリュー島の日本軍兵士は、バンザイ突撃方式で向こう見ずに押し寄せてくるのではなく、物陰から物陰へと横切った、抜け目なく戦い、立場が逆なら、アメリカ海兵隊員たちがそうしたのとまったく同じやり方で攻撃した。
なので、せいぜい4日から5日かで終わるはずの戦闘が、なんとも続いた。
兵力1万1千の日本軍守備隊は、満州にいた関東軍の精鋭第14師団から選抜されていた。
アメリカ海兵連隊は、ペリリュー島の戦闘の最初の8日間で1749人の損害を蒙った。攻撃部隊は56%の死傷者を出し、第一大隊は71%もの驚異的な損害を蒙った。第1海兵師団は67786人の損害を蒙り、そのうち1300人以上が戦死した。多くの生存者もPTSDに悩まされた。
1949年9月15日の上陸から2ヶ月後の11月24日、日本軍のトップ・中川大佐の最期まで戦いは続き、さらに、1947年3月、33人もの日本軍元兵士が投降してきた。
ペリリュー島で戦った2万8千人のアメリカ海兵隊員と陸軍将兵のうち、死傷者は40%、うち戦死者1800人、負傷者は8千人。これに対し、日本軍守備隊1万1千人のほぼ全員が死亡。
レイテ沖海戦において日本艦隊は決定的に敗北した。このとき、栗田は疲れ切っていた。3日前から、一睡もしてしなかった。しかも、旗艦を撃沈され、55歳の海軍中将は海中を命がけで泳がざるをえなかった。
日本軍将兵は軍艦は軍艦と戦うものだと訓練されていたから、上陸中のアメリカ艦船を襲撃するという発想はなかった。
約束された航空支援は影も形もなかった。連合艦隊司令部の愚かさと硬直性について現場には憤満やるかたなかった。栗田は臆病からではなく、司令部への不満、部下の志気の低下によって行動しただけ...。
この本では、アメリカのイルガー提督の美名も、その実像をあばいています。要するに、マッカーサーと同じ虚像だったということです。
私は、前に、沖縄の熾烈な攻防戦について、アメリカの戦史研究家が、アメリカ軍は沖縄で日本軍と死闘をくり広げる必要なんてなかったのだという指摘を読んだことがあります。それよりむしろ、防備のうすい九州、いや本土を直接に攻撃したほうが、終戦は早まったはずだというのです。なーるほど、これも一理あるかなと思います。いかがでしょうか...。
人間ドックで泊ったホテルで一心に読みふけりました。
(2022年3月刊。税込2970円)

2022年7月14日

ボマーマフィアと東京大空襲


(霧山昴)
著者 マルコム・グラッドウェル 、 出版 光文社

アメリカ軍による大空襲によって、東京では一夜にして10万人以上の罪なき市民が殺されました。B29が、大量の焼夷弾を投下したからです。
アメリカは、東京への無差別爆撃を世界で初めて敢行したのは日本。中国の重慶へ無差別爆撃を繰り返したのです。
大都市への無差別爆撃を敢行する前に、日本家屋をアメリカで再現して、ナパーム爆弾の効果を検証していたのです。本書を読んで、初めて知りました。
日本家屋は2戸ずつの棟が12棟、計24戸建設された。仕切りの障子、日本式の雨戸まで完璧に再現された。日本家屋に特徴的な厚さ5センチのわらの敷物(畳のこと)が重要。爆弾が階下に貫通するときの主な抵抗になるから。ナパーム弾を使うと、6分以内に制御不能になる等級Aの火災を日本家屋に68%の成功率でひきおこす。試算すると、ロンドン市内の可燃率が15%なのに対して、大阪中心部では80%、これは都市のほぼ全域。ナパーム弾は、燃えさかる粘着性ゲルの大きな塊をまき散らす爆弾。
粘着性のあるものを使うと、効果がずっと高い。何にでも付着して、輻射(ふくしゃ)熱を直接伝えるから。ナパーム弾は非常に威力が高い。カーチス・ルメイは、B29に最大限のナパームを搭載するため、防御手段は尾部機銃のみとし、余分な装備をすべて撤去した。要するに、日本人を効率よく殺戮することを最優先にしたのです。
3時間の攻撃のなかで1665トンものナパーム弾が投下され、41平方キロにわたって、すべてが焼き尽くされ、10万人をこえる人々が亡くなった。
作戦を遂行したB29の乗員は、基地に帰還したとき、ひどく動揺していた。地獄の入り口をのぞきこんでいる気がしたからだ。
この東京大空襲を敢行したカーチス・ルメイに対して、日本政府は1964年に勲一等旭日大緩章を授与した。よくぞ大量の「不要」な日本人を殺してくれました...というに等しい勲章の授与ではありませんか...。自民党政府が、ここまでアメリカに従属し、奴隷根性そのものであることに怒りとともに涙が抑えきれません。
この本は、精密爆撃が無差別爆撃かという論争が、アメリカとイギリス軍部であったことを明らかにしています。
精密爆撃は口でいうほど簡単なことではない。なにしろ、最大時速800キロで飛んでいて、高度9000メートルの飛行機から、爆弾を投下する。地上に落ちるまで30秒ほどかかる。これは大変な計算を必要とする。そこで、ノルデン爆撃照準器が開発された。
ナチス・ドイツのボールベアリング産業(工場)を連合軍の飛行機が爆撃した。ボールベアリンクは軍需産業の基礎をなしている。ところが、作戦に参加した乗員の4人に1人が帰らぬ人となった。あまりに高率が悪いとして中止された。ところが、ナチス・ドイツ側では、もし連合軍がボールベアリング工場への爆撃を続けていたら、まもなく、息の根が止まっただろうとみていた。いやあ、歴史では、そんなことも起こるのですね。
そこで市民の戦争意欲をくじくために都市への無差別爆撃が敢行された。しかし、攻撃が市民の士気をくじくことはなかった。かえって戦意を高めた。しかし、イギリスはそれを知っても、なお、ドイツは違うはずだと、ドイツの大都市への無差別爆撃を敢行した。
戦争というのが、いかに非人間的であり、非論理的なものであるが、今のロシアによるウクライナ侵略戦争のリアルな映像を見ても、つくづくそう思います。
(2022年5月刊。税込1870円)

2022年4月19日

731部隊全史


(霧山昴)
著者 常石 敬一 、 出版 高文研

南京大虐殺なんてなかったという嘘を信じたい人は、戦前の日本軍が虐殺なんかするはずがないと思い込んでもいます。でも、七三一部隊が満州(中国の東北部)で大勢の罪なき人々を人体実験の材料としつつ、殺害していったのは歴史的事実です。そして、この本を読むと、この七三一部隊の所業が戦後日本の現在に至るまで受け継がれていることがよく分かります。
その一つが、結核ワクチンである乾燥BCG。陸軍の石井機関が乾燥BCGを研究・開発したことを隠し、BCGを結核予防法の中心にすえ、日本は結核対策に取り組んだ。しかし、それは失敗だった。
現在、日本は結核の中まん延国になっている。2019年、日本の結核患者数は10万人あたり11.5人。これはフランスが8.7人、イギリスが8.0人に比べて、明らかに高い。にもかかわらず日本の結核対策は成功したという誤解・幻想が今なおはびこっている。うむむ、これは知りませんでした。
その二は、医学界です。東大そして京大教授が石井機関の嘱託となって、石井の求めに応じて弟子たちを七三一部隊に送りこんだ。そして、そのことを戦後は口をつぐみ、反省していない。嘱託をつとめた研究者は自分の手を汚すことなく、七三一部隊での研究は弟子たちの責任だとした。そして、戦後に発足した予防衛生研究所の初代、次いで二代目所長に就任した。この二人、慶大教授の小林六造と東大教授の小島三郎の名前を冠した医学賞が今に続いている。
七三一部隊がやったことの主要な問題点は、人体実験を実施したこと、そして細菌戦の試行。日本の敗戦直前の8月9日にソ連が攻め込んできたとき、日本陸軍は七三一部隊の即時全面撤退を決め、本部にいた4千人の部隊員のほぼ全員が8月末までに家族ともども日本に帰り着いた。そして、帰国する前、4日間かけて建物を爆破し、収容していた数百人を殺害した。
石井機関の予算は、7年間で1262万円。1931年の5.2万円、1935年の108.8万円。そして1937年の911万円と、ずば抜けて高額だった。
軍医にとって、七三一部隊は名誉、それに死なずにすむというメリットがあった。軍医にとって、戦場に出る危険性が少ない部隊で研究ができ、論文が書け、学位を得るのは大変好都合なことだった。
七三一部隊では人体実験の対象となった人々を「マルタ」と呼んだ。人と見ていない、まさに使い捨ての材料としか考えていなかった。被験者を生きた状態で解剖し、臓器を取り出していた(もちろん、その人は死に至る)。人体実験をふまえた論文のなかでは、被験者を「サル」としているが、それが虚偽であることは、サルが「頭痛を訴えた」とも書いていることから明らかだ。たしかに、「サルが頭痛を訴える」なんて、考えられません。
石井部隊が細菌戦を中国現地で敢行したとき(1942年の淅贛(ズイガン)作戦)、日本軍は七三一部隊の細菌爆弾によって、1万人がコレラにかかり、1700人もの死者を出した。このことは、七三一部隊による細菌戦は決してうまくいかないことを実地で疑う余地なく証明した。
戦前の七三一部隊の亡霊が現代日本でものさぼっていることを知ると、背中に冷や水が流れます。
(2022年4月刊。税込3850円)

 日曜日の午後、フジバカマ4株を植えつけました。前に1株すでに植えていますので、これで5株です。秋に花が咲いてアサギマダラがやってくることを願っています。
 いま、庭にはまだチューリップが咲いています。3月半ばからですから1ヶ月間はチューリップに癒されました。最後は純白の花でしめてくれます。オレンジ色の小さな花を咲かせるヒオウギ、紫色の矢車菊、うす紫色のシラー、そしてアイリスです。ジャーマンアイリスも、つぼみがふくらんできました。5月に入る前に花が咲きそうです。
 春は三寒四温といいますが、春の気配から、ときに初夏を思わせることもあります。
 ロシアの無法な戦争が2ヶ月近くも続いています。長期化しそうな気配もあり、本当に心配です。一日も早くロシアによる戦争をやめさせなければいけません。核兵器なんて、とんでもないことです。

2022年4月16日

「経済戦士」の父との対話


(霧山昴)
著者 大川 真郎 、 出版 浪速社

1942(昭和17)年5月、広島の宇品港を出航して3日後、大洋丸は鹿児島の男女群島沖でアメリカの潜水艦の魚雷により撃沈された。犠牲者は著者の父をふくむ800人余。亡父の遺体は遠く韓国の済州島に打ち上げられた。亡父は、今の武田薬品の社員15人の1人として、インドネシアへマラリヤの予防薬キニーネの原料であるキナ皮の確保に行こうとしていた。
大洋丸には、陸軍が選んだ百社のエリート社員・技術者千人が乗船していた。彼らは戦場でたたかう戦士と区別して、経済戦士、企業戦士あるいは産業戦士と呼ばれていた。
大洋丸は敵潜水艦に対する十分な備えのない、まるはだかの状態で進んでいた。
陸軍本部は想定外の被害に仰天し、国民の戦意喪失をおそれて事件を隠蔽した。真相が広く明らかになったのは戦後のこと。
亡父死亡のとき、著者は1歳2ヶ月。当然のことながら、亡父の記憶は何もない。母は当時27歳で、その死は86歳のとき。亡父は、1年間の志願兵をつとめたあと武田製薬に入社した。亡父は武田製薬に会社員として勤めながら、俳人として活動するようになった。いわば二つの顔をもっていた。
亡父が俳句をはじめたのは18歳のとき、新宮中学校に在学中のころ。
亡父は大阪薬専に入ると、松瀬青々の主宰する俳句誌『倦島』に出稿しはじめた。
松瀬青々は、俳句にリアリズムを求め、俳句を「自然界の妙に触れるとともに、人間生活の浄化をはかるにある」という「自然讃仰」の立場をとっていて、亡父はこれに共鳴した。青々の門下である西村白雲郷が句誌『鳥雲』を創刊すると、22歳の亡父は、その同人となった。
亡父は軍務として、1941(昭和16)年5月、中国大陸の上海や南京に行っています。南京大虐殺のことは知らされていなかったようですが、紫金山麓の野中に日本と中国の戦没者の墓標が並んでいるのを見て一句を読んでいます。
墓標二つ 怨讐とほく 風薫る 
怨讐とは、恨んで仇とすることです。
亡父の会社員のときの写真が紹介されています。著者に似ているというより、はるかに精悍な印象です。会社員として、かなり出来る人だったのではないでしょうか...。
亡父の日記を紹介し、著者は次のように亡父を評価しています。
「父は、自分を客観的にみつめ、きちんと自己評価しようと心がけた人だったようだ。自己を過大評価したり、自信過剰に陥ることを恐れていたようにも思われる」
さらに、亡父について、著者はこう評しています。
「父が為政者、マスコミにいささかも疑問をもたなかったのは残念であり、その意味で父は普通の人だったと思う」
反戦、反権力の弁護士として活躍し、大阪で生きてきた著者は、亡父の俳句や日記を整理するなかで、自分とよく似た性格、感性、心情などを見出し、喜び、親子の絆を強く感じたとのこと。同時に、この作業は、父の思想に疑問を投げかける無言の「対話」でもあったという。
そして、最後に、著者は亡父をしのびつつ、感性豊かで詩情にあふれ、文才のある人が、早々に生を終えざるをえなかったことを無念に思い、あらためて許しがたい戦争であり、為政者だったと結んでいる。
著者から贈呈していただきました。貴重な労作です。ありがとうございました。
(2022年4月刊。税込1650円)

2022年4月 1日

奄美・喜界島の沖縄戦


(霧山昴)
著者 大倉 忠夫 、 出版 高文研

著者は横須賀で活動してきた弁護士ですが、父親が喜界島からの出稼ぎ労働者で、戦前(1939年7月)、父とともに喜界島に渡り、8歳から戦後(1949年3月)17歳まで喜界島で生活していました。
沖縄戦がたたかわれたときには、喜界島にいて危ない目にもあっています。その自分の体験をふまえて喜界島と沖縄におけるアメリカ軍との戦闘を刻明に調査し、再現しています。580頁もある大作ですが、著者の執念深い調査によって本当に詳しく沖縄戦の実情を追体験することができます。
喜界島ではアメリカ軍の飛行機が墜落し、逮捕・連行された2人のアメリカ兵を日本軍が斬首してしまうという事件も起きています。戦後、そのことが明るみに出て、2人の日本兵がアメリカの軍事法廷で死刑判決を受け、1人は処刑されています。もう1人はなぜか減軽されて、やがて釈放されました。
戦前の喜界島の人口は1万5千人。小学校(国民学校)は6校あった。
喜界島に日本兵が3千人もいて、島民は軍の対空砲火は集落を守るためにも使われると信じていた。しかし、日本軍が島民を守ってくれるというのは、アメリカ軍の空爆が始まるとたちまち幻想でしかなかったことが明らかになった。
アメリカ軍による空爆が激しくなって、著者たちはムヤ(喪屋)に潜り込んだ。これは先祖が掘った古い横穴式の風葬跡である。
宇垣まとい将軍は敗戦が決まったあと、部下22人(11機)を自らの自殺につきあわせた。これは本当にひどい話です。うち3機は途中で不時着していますので、結局16人が無理心中のようにして亡くなったのでした。
喜界島の全戸数4千戸のうち半分近くが空爆のため焼失してしまった。
8月15日のあとも沖縄の兵士は戦闘を続けたようです。9月5日に日本軍は降伏式にのぞみ、ようやく戦争が終わりました。
喜界島のアメリカ兵捕虜斬殺事件では、一番の責任者である伊藤三郎大尉が戦後いち早く行方をくらましてしまい、アメリカ軍は裁判にかけることができなかった。そこで、裁判のストーリーには、伊藤大尉は出てこないように検察官は苦労した。
この横浜で開かれた軍事法廷は、ともかく十分な弁護権が行使できなかったようです。
91歳にもなる著者が長年の調査・研究の成果を1冊の本にまとめたことに心より敬意を表します。私が45年前に横浜弁護士会(現・神奈川県弁護士会)に所属していたとき、著者と面識がありました。お元気であること、かつ、大著をまとめあげられたことに驚いてもいます。喜界島から見た沖縄戦、とくに日本軍の特攻作戦の実際がよく分かる本です。
(2021年11月刊。税込3300円)

2022年3月25日

蓬莱の海へ


(霧山昴)
著者 青山 惠昭 、 出版 ボーダーインク

台湾で戦後まもなく起きた蒋介石の国府軍による大量虐殺事件、二・二八事件の被害者には日本人もいたというのです。日本敗戦時まで日本は台湾を支配していたのですから、戦後まもなくの出来事として日本人が虐殺被害に巻き込まれたのは不思議なことではありませんでした。
台湾へ中国本土で共産党軍に負けていた蒋介石の軍隊が渡りつつあるなかで、台湾支配政治のひどさに台湾民衆が怒って立ち上がったのを蒋介石は軍隊をつかって大々的に弾圧したのです。それが1947年2月28日に起きたことから、二・二八事件と呼ばれました。
台湾は1987年まで戒厳令のもとにあり、政府批判なんてとんでもないということから、軍によるこの大量虐殺事件は、いわば台湾のタブーとして、語られることもなかったのでした。今でも、その犠牲者がどれだけなのか明確ではありません。当局の公式発表でも2万人前後とされていて、いや5万人、10万人という説もあるほどです。
3月8日、台湾の基隆(キールン)に国府軍の8千人と警察官2千人が中国本土から上陸し、たちまち無差別の住民殺戮(さつりく)が始まった。そのなかで著者の父・青山惠先(えさき)も殺害された。父親は与論島出身で、著者自身は台湾の基隆で生まれたので、湾生という。
与論島出身者が大牟田に移住し、三池炭鉱で働いていたのは知っていました。与論長屋があって、固まって生活していたようです。コトバと生活習慣が少し違うので、「ヨーロン、ヨーロン」と地元も子どもたちからはやしたてられ、差別扱いされていたと聞いています。大牟田には、与論島出身者の親睦団体があります。
そして、与論島から満州へも移民団体635人が渡っていたことを本書で初めて知りました。日本敗戦後、その移民団は日本の悪行を一身に背負って、地元住民から襲撃され、多くの移民が命を奪われ、また59人も自死していったというのです。政府の言いなりになって、国策に乗せられて行動すると、とんでもない目にあってしまうという悲劇が起きたのでした。
著者の父・青山惠先は明治41(1908)年生まれ。実は、私の父は明治42年生まれですので、ほぼ同世代なのです。
著者は父・惠先が二・二八事件で殺されたことに確信をもつと、まずは家裁へ失踪宣告の申立をした。それが認められて、父は戸籍上も死亡した。
そして、次に二・二八事件における殺害で死亡したことで台湾政府に賠償請求した。これに対して台湾当局は、いったんは請求を認めないと決定した。あとになって、これは政府当局の指示によるものだと判明した。そこで、台湾の人権派弁護士に依頼して台湾で裁判を起こしたところ、ついに請求が認められた。すごい執念ですね。
二・二八事件の被害者は当局の認定だけでも2万人前後はいるのに、このうち賠償が認められたのは、わずか900人ほどでしかない。あとの多くは、病死したことにして、遺族は当局を恐れて申立自体をしなかった。
日本人が二・二八事件で賠償を認められることについては、台湾の内部にも、日本政府は台湾出身の慰安婦に対する賠償すらしていない現実があるから、なんで、日本人にまで二・二八事件の賠償をする必要があるのか...という反対意見もあったようです。
日本政府の対応は本当にひどいと思いますが、かといって、二・二八事件に巻き込まれて虐殺された日本人の存在が判明した以上、それなりの賠償があって当然だと思います。なかなか難しいところですね...。大牟田の堀栄吉さんという、与論島出身者の子であり、三池炭鉱で働いていたという好人物も案内人として登場します。私もよく知る、思わず年齢を忘れさせる活発な人です。
大変苦労しながら父親が軍による虐殺にまき込まれて殺害された状況を掘り起こしたという執念の固まりのような本です。
(2021年11月刊。税込2420円)

2022年3月15日

第32軍司令部壕


(霧山昴)
著者 牛島 貞満 、 出版 高文研

沖縄戦司令官・牛島満中将(死後、大将)の孫である著者が沖縄戦の実相に迫っている本です。
なにより私が驚いたのは、先日、焼失してしまった首里城の近くに長さ1キロメートルに及ぶ第32軍首里司令部壕があったということです。何回か調査され、米軍も沖縄占領直後に調査したようですが、現在は途中で崩落したりして、立入できない状態です。坑道は1050メートルの長さで、1000人がいたとのこと。司令官室があり、浴場もありました。
沖縄の第32軍は1944年に創設されたが、大本営から下達された命令は、「沖縄の土地や沖縄県民の防衛」ではなく、本土決戦準備のための時間稼ぎ、すなわち持久戦だった。この目的を知っていたのは、第32軍の将校たちだけで、沖縄県民は知らされなかった。
そして、アメリカ軍が沖縄に上陸して、すぐに2つの飛行場を占領したことを知った大本営は、持久戦の方針を撤回し、飛行場奪回と、敵の出血強要を命じた。
持久戦から攻勢へと変更されたが、この大本営の攻勢命令はその後、撤回されることはなかった。その結果、日本軍は6万4千人が戦死し、兵力の3分の2を喪った。アメリカ軍の戦死者は5千人だった。
アメリカの軍事専門家は、この多大な犠牲者を出した沖縄戦の推移について疑問を投げかけています。つまり、沖縄に籠って抵抗する日本軍を放っておいて、先に九州か房総など、本土を叩いたほうがよほど犠牲者が少なく、目的を達成できたはずだ、というのです。なるほど、そうかもしれないと思いました。
そして、第32軍が南部へ移動(撤退)せずに、首里にそのままとどまっていたら、住民の犠牲がもっと少なくてすんだはずだと、著者は批判しています。というのも、南部への撤退が始まった6月に、70%の人が亡くなっているからです。
6月22日に、牛島司令官が自死したあと、終戦の8月15日を過ぎてからも9月5日にまで日本兵の戦死者が出ている。降伏調印式は9月7日のこと。
ところで、牛島司令官が自死したのは、6月20日、22日、23日のどれが正しいのか議論があるようです。著者は6月22日説です。戸籍は6月22日死亡になっているのです。6月22日の日付で、牛島司令官を陸軍大将に任命して大本営は沖縄の兵士たちの士気をあげようとした。しかし、実際には士気は上からなかった。大将への昇進は牛島司令官は生前に知ることはできなかったし、ありえなかった。
1キロメートルもある司令部壕の中央辺に司令官室が位置していたようですが、酸素欠乏で苦しかったとのことです。攻めたアメリカ軍は、首里城の地下に日本軍が洞窟陣地を築いていることを知っていました。
壕の写真もたくさんあり、よく調べてあると驚嘆しています。
(2021年12月刊。税込1650円)

2022年3月 2日

戦略爆撃の思想


(霧山昴)
著者 前田 哲男 、 出版 朝日新聞社

日本の敗戦後、アメリカ軍は日本全土に対して焼土作戦を敢行しました。軍需工場を狙うのではなく、都市を狙い、大人も子どもも、女性も老人も戦闘員がどうか関係なく無差別に爆撃の対象としたのです。これって戦争に関する国際法に違反していると思います。ところが勝者のアメリカ軍の蛮行は何ら問題とされませんでした。原爆投下と同じです。
しかしながら、都市を狙って無差別爆弾を世界で最初に始めたのは、なんと日本軍でした。中国の重慶を狙ったのです。もちろん、その目的は都市住民の戦意を喪失させることでした。しかし、結果は逆でした。重慶の市民は戦意喪失どころか、ますます抗日意欲に燃えて立ち上がったのでした。
そして、アメリカ軍から派遣されて日本軍による爆撃を観察していたカーチス・ルメイは、あとで、日本の本土空襲の先頭に立ったのです。なんという歴史の皮肉でしょうか。
1939年5月。日本軍の重慶爆撃は、「戦政略爆撃」なる名称を公式に掲げて実施された。それは、組織的・継続的な軍事作戦だった。ドイツ空軍のゲルニカ(スペイン)攻撃より1年あとだったが、1日限りではなく、3年間、218次の攻撃回数を記録した。
空襲による直接の死者だけで中国側集計によると1万2千人近い。
重慶は、世界どこの首都より早く、また長く、かつ最も回数多く戦略爆撃の標的となった都市である。重慶爆撃は、東京空襲に先立つ無差別都市爆発の先例だった。
重慶爆撃では、加害者の人影は地上にはなかった。一方的な機械化された殺戮の世界だった。1万人以上の人々が、侵略者がどんな顔つきをしているのか、知る機会もなく死んでいった。日本軍は、重慶において、「工業期戦争の虐殺」と形容すべき、機械化された殺戮の戦術に先鞭をつけた。やがて、その悪夢の世界は、東京、大阪、名古屋をはじめ、日本全土主要都市の住民に追体験されることになる。
空からの殺戮につきまとう「目撃の不在」と「感触の消滅」という要素は、同時に、行為者の回心の機会をも閉ざしてしまう作用をもつ。
日本軍は、南京占領のあと武漢を攻略したが、これ以上の地上進攻はありえないという点で、政府も軍中央も現地の派遣軍も、三者の認識は一致していた。
敵の継戦意思を挫折させるという空からの爆撃作戦はヨーロッパ渡りではなく、日本独自のものだった。日本軍は協力を誓わない中国人をすべて潜在的な敵とみなした。
重慶の爆撃目標地点は、市内中心部の中央公園と定められた。
都市に対する爆撃でもっと威力を発揮するのが焼夷爆弾であることは既に証明ずみであったから、3000発の製造命令を出していた。
蒋介石の航空顧問として重慶に滞在していたアメリカ人のシエンノートは、日本軍による重慶爆撃を観察した体験をふまえて、アメリカ政府に対して、対日戦用として焼夷弾の開発をすすめるよう提言した。
日本軍は、5月3日に45機、5月4日に27機、計72機(1機7人、のべ504人)で、わずか2日間のうちに重慶市民5千人を上回る大殺戮を遂行した。
このとき重慶にいた、アメリカ人のエドカー・スノーは、重慶市民が精神的な破壊から免れていて大衆の抗戦意欲はますます強化されていることを理解した。むしろ、病労し、崩壊したのは、侵略者(日本軍)のほうだった。
ところが、日本軍首脳は、重慶の上空を制圧していれば、中国は屈服すると信じきっていた。1939年に海軍が失った機数は26機にのぼった。年間生産機数が38機だったかたら、損害許容率をはるかに超えてきた。
日本軍は1940年に「百一号作戦」を遂行した。井上成美少将が計画立案したもので、112日間、32回の無差別爆撃を遂行した。ところが、爆撃に必要な石油は、その大半がアメリカからの輸入に頼っていた。
ゼロ戦(零戦)が8月19日に護衛任務で同行した。ゼロ戦の航続力は3500キロで、重慶まで往復で960キロだった。9月13日、ゼロ戦と中国機が交戦したが、中国機27機が文字どおり「殲滅」されてしまった。1941年に日本軍は「102号作戦」を発動した。
1988年に発行された古い本ですが、歴史書でもあるので、記述されている内容な古臭くなってはいません。「敵基地攻撃論」に惑わされている人も少なくないようですが、戦略爆撃は罪なき人々を空から大量虐殺しただけで、日本軍にとって何のプラス面もありませんでした。そして、これを注意深く観察していたアメリカ軍将校によって日本は手ひどくしっぺ返しされたのです。大変勉強になりました。
(1988年8刊。税込2750円)

2022年2月 1日

五・一五事件


(霧山昴)
著者 小山 俊樹 、 出版 中公新書

久しぶりに五・一五事件について書かれたものを読んで、いくつも新鮮な驚きがありました。五・一五事件が起きたのは1932(昭和7)年。「イクサになるか、五・一五」として年号を暗記しました。二・二六事件は1936(昭和11)年。「ひどく寒い日の二・二六」です。
五・一五事件には海軍将校グループと陸軍士官候補生だけで、陸軍の青年将校は一人も参加していないのですね。
五・一五事件のとき、チャーリー・チャップリンが来日中であり、首相官邸にチャップリンが訪問する予定だったのに、チャップリンが急に気が変わって遭難を免れたというのは知っていました。この本によると、首相官邸を襲撃するのを5月15日に設定したのは、チャップリンがこの日、首相官邸での歓迎会に出席するとの新聞記事を読んだからとのこと。15日は日曜日なので、休日に海軍将校が外出しても怪しまれないからだったのです。
なぜ犬養(いぬかい)毅首相が狙われたのか。それは、犬養首相個人の言動から来る個人的な怨恨ではなく、あくまで権力の象徴として打倒された。この計画は犬養首相が誕生する前からあったことから明らか。
首相官邸にいた犬養首相は銃を向ける海軍将校たちに向かって、「そう騒がんでも、静かに話せばわかるじゃないか」と言った。そして「話せばわかる。話せばわかる」と繰り返した。そして座って「まあ、話を聞こう」と言った。これに対して、「問答無益、撃て」と叫んで、黒岩と三上の二人が犬養首相の頭を狙って銃弾を撃ち込んだ。犬養首相は即死したのではなく、夜、容態が急変して死亡した。
五・一五事件の犯人たちの裁判は日本中から注目され、減軽嘆願書が殺到した。
被告人となった海軍将校たちは、海軍服を新調してもらって法廷にのぞんだ。逆に襲撃を受けた被害者であるはずの犬養家が、かえって世間から糾弾された。
被告人たちは「英雄」となり、事件は「義挙」となり、人々は被告人の供述に「涙」した。
報道はそのようにエスカレートしていった。犯人の海軍中尉たちは死刑を求刑されたのに、判決では禁固15年。そして、実際には、6年で仮出所している。
軍法会議における被告たちの主張は、「私心なき青年の純真」というイメージとして流された。「政党による軍部の圧迫」、「政党・財閥ら支配層の腐敗」、「農村の窮乏」。いわば軍を圧迫する腐敗した支配層、政党・財閥などの既得権益層に向けた「欠席裁判」として、軍法会議が利用されたのでした。
今の自衛隊の上層部と同じで、昔の陸海軍の上層部は、まさしく腐敗した支配層・既得権益層を構成していたのですが、そこには、もちろんメスが入りませんでした。
他にも、なぜ五・一五事件のあと政党政治がほろびたのか、など大切な視点があり、とても勉強になりました。
(2020年4月刊。税込990円)

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