弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2025年3月19日

わたしの人生


(霧山昴)
著者 ダーチャ・マライーニ 、 出版 新潮クレスト・ブックス

 第二次大戦中、イタリア人が日本で収容所に入れられているということを初めて知りました。
 著者は2歳のとき日本に来ました。父親は北海道帝国大学でアイヌ文化を研究していました。なので、札幌で幸せな生活を過ごしました。その後、京都に移っていたところ、1943年にイタリアが連合国軍に降伏したため、日本政府は在留イタリア人に踏み絵を迫ったのです。あくまでファシスト政権に忠誠を誓うかどうか、です。
 両親そろって拒否したため、名古屋郊外の天白村にあった民間人抑留所に入れられました。両親は孤児院に入れるか問われたとき、それも拒否し、一家4人(娘2人)で収容所で厳しい・苦しい生活を過ごすことになりました。
 7歳から9歳まで、育ち盛りの少女なのに、すさまじい飢えを体験することになったのです。
 監視する警察官たちは、日本政府の支給する食料を横取りしたため、収容されていた人たちは栄養不足から病気になっていきました。警官たちの残飯まであさり、野菜をとって食べ、ヘビやカエルを捕まえて子どもたちに食べさせたのです。
 たまに親切な日本人もいましたが、たいていは敵性外国人だとして、またイタリア人は裏切り者だと罵倒する日本の軍人たちがほとんどでした。日本の風習を知っている著者の父親は彼らの前面で包丁で指を切断して抗議までしています。
 野菜不足から脚気になり、すると頻尿になった。
 収容所では、子どもがいても子どもは配給の対象にはなっていなかった。なんということでしょう...。子どもだった著者は空腹のあり、地面をはっているアリまで食べたとのこと。指でつぶして口に入れ、かみもしないで呑み込んだ。しばらくして中毒にかかって、もう食べられなくなった。いやはや、アリを子どもが食べただなんて...。
 毎晩、死ぬ準備をした。輪廻(りんね)観を信じていたから、死んだらすぐに、生前のふるまいによって、別の姿に生まれ変わると思っていた。
 収容されたイタリア人は16人。ユダヤ人教授、宣教師、商人、元外交官など...。
 日本人の警官たちは、毛布を1枚ふやしてとか、ノミやシラミ退治のための殺虫剤がほしいと頼むと、「おまえらは裏切り者だから死んであたりまえなんだ。寛大だから生かしてやってるんだ」と答えた。
 日本の敗戦が色濃くなっていくと、配給が減っていった。1日の配給はひとり生米一ゴウ(130グラム)のみ。
 日本の敗戦によって解放された。自由の味は、かけがえのないものだった。そして生命と太陽に恋する肉体を回復させるエネルギーが戻った。
 著者は、過去の記憶を未来に生かすべきだと考え、自分の収容所での体験を語り、また書いたのです。
(2024年11月刊。2145円)

2025年3月14日

大本営発表


(霧山昴)
著者 辻田 真佐憲 、 出版 幻冬舎新書

 「大本営発表」というコトバは、今でもデタラメなことを公然と言って恥じないという意味で使われることがあります。この本では、「あてにならない当局の発表」とされています。
3.11福島第一原発事故は、危く東日本全滅という超重大事故になるところでしたが、政府(原子力安全・保安院)と東京電力はあたかも重大事故ではないかのような発表を繰り返しましたので、これこそまさしく現代の「大本営発表」だと批判されたのは当然のことです。
 大本営発表とは、1937年11月から、1945年8月まで、大本営による戦況の発表のこと。大本営とは、日本軍の最高司令部。
 ところが、当初の大本営発表は事実にかなり忠実だった。なぜなら、緒戦で日本軍は次々に勝利していたからです。嘘をつく必要なんてありませんでした。
 問題は、日本軍が次々に重大な敗退をきたすようになってからです。本当は敗北したのに、それを隠そうとして、「大戦果」を華々しく報道しはじめました。
 大本営発表によれば、日本は連合軍(その内実はアメリカ軍)の戦艦を43隻も沈め、空母に至っては戦艦の2倍、84隻も沈めたとする。ところが、実際に喪失したのは、戦艦4隻、空母は11隻でしかなかった。ひとケタ違います。これに対して、日本軍の喪失は戦艦8隻か3隻、空母19隻が4隻に圧縮された。そして、撤退は「転進」、全滅は「玉砕」。本土空襲はいつだって「軽微」なものだった。
 大本営のなかで、作戦部はエリート中のエリートが集まる中枢部署で、傲岸(ごうがん)不遜であり、発言力がきわめて強かった。報道部は、作戦部に逆らうのが難しかった。
 新聞は、部数拡大をめぐってし烈な競争をしていた。そこで新聞は前線に従軍記者を送り込み、「従軍記」を連載し、世間の耳目を集めることによって販売部数を伸ばしていった。
 新聞は結局、便乗ビジネスに乗ったわけで、それは毒まんじゅうだった。事態を批判し検証するというメディアの使命を忘れ、死に至る病にむしばまれてしまった。
 しかも、大本営は新聞用紙の配分権を握っていたので、報道機関をコントロールできた。こうして、日本の新聞は、完全に大本営報道部の拡声器になってしまった。
 戦果の誇張は、現地部隊の報告をうのみにすることに始まった。ミッドウェー海戦で、日本の海軍は徹底的に敗北した。アメリカ軍は日本軍の暗号を解読していた。日本軍には情報の軽視があった。日本軍は、そもそも情報収集と分析力が不足していたので、戦果を誤認しがちだった。
 「転進」発表が相次ぐなかで、国民のなかに大本営発表を疑う人々が出てきた。決して大本営発表のいいなりばかりではなかった。
 山本五十六・連合艦隊司令長官が戦死したことを知り、海軍報道部の平出課長はショックで卒倒した。さらに、山本の次の古賀峯一司令長官も殉職してしまった。
海軍は敗北の事実を国民に伝えなかっただけでなく、陸軍にも真実を告げなかった。その結果、陸軍はフィリピンで悲惨な戦いを余儀なくされた。
 特攻隊に関する華々しい大本営発表によって、地上戦の餓死や戦病死という現実は、国民の視界から巧みに消し去られた。
 アメリカ海軍の空母は1942年10月以来、1隻も沈んでいない。それほどまでに頑丈だった。逆にいうと、日本海軍はアメリカ海軍にほどんど太刀打ちできなかった。
 大本営発表は、確たる方針もなく、その時々の状況に流されやすい性質をもっていた。とりわけ損害の隠蔽は、これに大きく影響を受けた。
 今のマスコミが、かつての大本営発表のように、当局の意のままに流されないことを切に願います。と同時に、SNSにおけるフェイクニュースの横行を同じく大変心配しています。
(2016年8月刊。860円+税)

2025年3月 9日

一身にして二生、一人にして両身


(霧山昴)
著者 石田 雄 、 出版 岩波書店

 東大の社会科学研究所(社研)の教授であり、政治研究者として高名な著者が父親のこと、戦後日本のことを語った本です。
父親は戦前、内務官僚として警視総監もつとめました。熊本の五高時代からの親友である大内兵衛(東京帝大経済学部教授)が治安維持法違反で特高警察に逮捕された。
 人民戦線事件。前年まで警視総監をして管内各署を巡視していて、すべてを知り尽くしていたと思っていたところ、大内兵衛が留置されていた淀橋警察署に出かけて想像もしない状況を見聞した。自分の親友が狭い雑居房でスリや強盗と一緒に劣悪な条件でスシ詰めにされていたのを知った。それを知った父親はすぐに警視庁に行き、そのときの警視総監である安倍源基(特高の警察の元締として悪名高い)に会い待遇改善を要請した。大内兵衛は「憎むべき」思想犯なので、安倍警視総監が快く改善に乗り出したとは考えられない。ただ、先輩の頼みなので、無下には扱えず、淀橋署より混み方の少ない早稲田警察署に大内兵衛は移された。そういうことがあったのですね。留置場のひどさは想像できます。 
日本の敗戦後、父親は、「たくさんの人を縛った罪滅ぼし」をするため、刑事被告人の国選弁護人をしはじめた。そして、国選弁護人として何回も小菅刑務所(東京拘置所)で被告人に面会し、話しているうちに、犯罪者に対する観方が180度変わった。
 権力の側から見ていたときは、被疑者・被告人は悪い人間で、それを捕えて罰するのは必要だし、当然のことだと思っていた。ところが、被告人の眼で見ると、彼らは、まさしく社会的矛盾の被害者だと考えられる。また、死刑囚の弁護をしているうちに、死刑制度は廃止すべきだと考えるようになった。
 そうなんですね。昔も今も、目の前の現実をしっかり受けとめると、考え方が180度変わってしまうことがあるのですね...。
 著者は、「政治改革」をマスコミと多くの学者が礼賛するなかで、結局、小選挙区制が導入されたことを苦々しく振り返っています。今の日本の政治をおかしくしている原因の一つが、この小選挙区制です。元の中選挙区制に戻すか、全国完全比例代表制に変えて、民意が国政に正確に反映されるようにすべきだと思います。
 日本人が第二次世界大戦の被害者であることは間違いありません。しかし、同時に加害者側でもあったことを忘れてはいけないと、著者は再三強調しています。まことにそのとおりです。朝鮮半島そして中国大陸への侵攻だけでなく、東南アジアへ広く進出していって、多くの罪なき民衆を殺し、資源を奪い、市民生活を破壊していったのです。
 それは、戦後の朝鮮戦争そしてベトナム戦争についても言えます。日本は明らかに加害者であり、戦争による利益を受けたのです。
考えさせられる事実、そして指摘がありました。
(2006年6月刊。2400円+税)

2025年3月 7日

忘れられた無差別爆撃


(霧山昴)
著者 纐纈 厚 、 出版 不二出版

 検証・錦州爆撃というサブタイトルのついた本です。
1931年9月18日に始まった満州事変の翌月(10月)8日に日本軍は錦州を爆撃した。世界最初の都市への無差別爆撃だった。日本軍が攻撃したのは中国軍の兵営というより、錦州駅など市内の中心地。錦州市は当時の人口180万人、日本人も多く住んでいたが、日本人居住区は攻撃対象からはずされた。錦州爆撃はきわめて用意周到な計画にもとづくものだった。
 この錦州無差別爆撃はアメリカやイギリスをひどく怒らせ、国際世論は日本を厳しく糾弾した。錦州爆撃は国際社会から猛烈な批判を浴びた。それまでは日本の軍事行動をある程度は容認していたアメリカも姿勢を一変させた。
 このとき石原莞爾は自ら出撃機に搭乗して陣頭指揮した。石原ら関東軍と陸軍中央は目ざすところは同じだったが、主導権をどちらが握るかで争っていた。石原莞爾の性急ぶりに、陸軍中央が振り回された。
 関東軍が独走し、それを陸軍中央が追認するというパターンが常だった。
錦州爆撃で出撃した日本陸軍機は、複合機の八八式偵察機とポテー機。まだ専用の爆撃機は完成していなかったのです。25キログラムの爆弾を吊しておいて、結局、手で放り投げたようです。出動した飛行機は11機で、爆弾は80個。この爆撃による死者は35人で、うち1人はロシア人の教授だった。その未亡人に対して150円の見舞金が支給された。
日本軍は、この爆撃について偵察飛行していると、地上から中国軍が銃撃してきたので、自衛のために爆弾を投下しただけだと強弁した。もちろん国際世論は納得しなった。
 昭和天皇は、当初こそ関東軍の独断専行を心配していたが、錦州を占領すると、勅語によって関東軍をたたえた。
 「朕、深くその忠烈を嘉(よみ)す」(1932年1月8日)
 これによって、満州事変が天皇によって正当化された。そして、もはや関東軍の独走を止める者はいなかった。
 
 1932年2月に来日したリットン調査団も、10月に発表した報告書で、満州事変における関東軍の行動を自衛的行為とは認め難いとし、錦州爆撃も非難した。
 この錦州は、1948年10月、毛沢東の八路軍と蒋介石の国民党軍の満州を舞台とする決戦場にもなっています。八路軍20万人に包囲され、国民党軍10万人は激戦の末、降伏した(『八路軍とともに』花伝社に詳しい)。大変勉強になりました。
(2024年11月刊。3300円)

2025年2月12日

昭和文化、1925-1945


(霧山昴)
著者 南博・社会心理研究所 、 出版 勁草書房

 亡父は17歳のとき、働くあてもないまま単身、上京しました。昭和2年(1927年)3月のことです。それから7年間、東京で生活しました。この7年間、日本はまさしく激動の時代であり、戦争へひた走りに突き進んでいきました。軍部の横暴を止める力がなかったのです。
 金融恐慌があり、満州事変があり、五・一五事件が起き、「満州国」が建国しました。国際連盟も脱退します。
 亡父は幸いにも逓信省にもぐり込むことが出来、仕事が決まると、次は法政大学で学ぶようになりました。初めは夜間の文学部国語・漢文科、そして法文学部の法律学科に移りました。我妻栄に学び、司法科試験を受験しました(不合格)。
 そのころの学生生活をしっかり調べ、刻明に再現していきました。『父の帝都東京日記』というタイトルをつけて出版したところ、父が日記をつけていたのが残っていたと誤解する人が出てきました。もちろん、そんな「日記」なんて、何もありません。私が亡父になりかわって当時の社会状況との関わりあいを明らかにしていったのです。亡父の日記はありませんが、法政大学の古ぼけた卒業記念アルバムが残っていて、その余白に父が貼りつけた写真が何枚もあり、学友たちと肩を組んでいる写真もあります。
 根が真面目な亡父は、きっと「マルクス・ボーイ」たちから、いろいろ勧誘されたのだろうと思いますが、「道」を踏みはずすことはなかったようです。
兵隊にとられて(応召)中国に渡りましたが、幸いにも病気にかかり、無事に日本に生還することができました(そのおかげで今日の私がここにいるわけです)。
 昭和6(1931)年ころの給料(賃金)は、陸軍少佐160円、陸軍大尉130円、中尉85円、軍曹67円。
1円で買える「円本」なるものが売り出され、爆発的な人気を得た。
 「現代日本文学全集」は各巻が1冊1円だったのに、第1回配本(尾崎紅葉集)は予約購読者が25万部だった。「世界文学全集」も刊行され、「レ・ミゼラブル」は58万部もの予約読者がいた。まさしく、すさまじいばかりの数字です。それにも大量ですね...。次に岩波文庫が対抗するように出現した。
 雑誌「キング」は、1927年に売り出したとき、140万部を発行した。これはすごいですね。
 日本でラジオ放送が始まったのは1925(大正14)年3月のこと。10年たっても(1934年)ラジオの普及率は15.5%しかなかった。ラジオの普及率が65%に達したのは戦後の1953年のこと。
軍歌が一般に普及したのは案外に遅く、「勝ってくるぞと勇ましく誓って国を出たからにゃ」(露営の歌)は、1930年代も後半のころ。
 「出てこい=ミッツ、マッカーサー。出てくりゃ、地獄へ蹴落とし」
 かけ声だけは勇ましいのですが、裏づける物質がありませんでした。兵站無視の日本が戦争に勝てるはずもなかったのです。
 戦前を複眼的に見るときには欠かせない本だと思いました。
(1987年4月刊。4800円+税)

2025年1月30日

不条理を生き貫いて


(霧山昴)
著者 藤沼 敏子 、 出版 津成書院

 「34人の中国残留婦人たち」というサブタイトルのついた本です。550頁もある部厚い本ですが、読後感もずっしり重たいものがありました。
戦後生まれの著者による、戦前、満州に渡り、日本敗戦後も中国に残留していた女性(その大半が日本に帰国)にインタビューしたものが中心です。
日本敗戦直後の日本政府の方針は、日本への帰還を進めるどころか、「居留民はできる限り定着の方針をとる」というものでした。これは、敗戦直後は日本国内の食糧が良くないことを理由とするものではありましたが、「満州」国にいる日本人がどのような悲惨な状況に置かれているかを無視したものであり、まったく人道的配慮のない方針です。
その結果、1945年6月、満州国にいた日本人166万人のうち、敗戦直後に24万5千人が死亡した。日ソ戦により6万人、終戦後18万5千人だと厚生省は推計している。そして、日本から満州に渡っていた開拓団の死亡者が8万人を占めた。
満州に残留した日本人女性は、敗戦直後の混乱の中を生きのび、やっと収容所や避難所にたどり着いたときは裸同然。飢餓と戦い、寒さと戦い、怒涛の大河に飲み込まれつつも、浮き沈みしながら、奇跡的に命をつないだ。収容所では、「今日、死ぬか、明日、死ぬか」って、朝、目が覚めてみると、「あ、今日も生きとった」と。
 中国残留孤児たちは、中国では「リーベンクイズ(日本鬼子)」と言われ、日本では、「中国人、中国へ帰れ」と言われ、いったい「自分は何人なのか?」と悩む人が多かった。
 それに対して、残留婦人は、日本人としての揺るがぬ自覚が強く、それは中国にいたときも日本への帰国後も変わらない人が多い。なかには戦前のまま封印された美しい日本語を話す人も多かった。
 残留婦人たちは、身をもって体験した満蒙開拓の真相を語った。
 満蒙「開拓」とは名ばかりで、実は中国人の畑や家をタダ同然で奪ったものだった。また、「五族協和」と言いながら、トップは日本人だった。
日本の敗戦後、ソ連兵や現地中国人の襲撃・略奪そしてレイプ(強姦)にあったとき、「日本人が悪いことをしてきたから、仕返しされた」とつぶやいた。
 収容所では、飢えと寒さと伝染病が延し、バタバタと仲間の日本人が死んでいくなか、「野垂れ死にか、さもなくばトンヤンシー(幼な妻)か、現地人の妻妾になるか」の選択肢しかなかった。
著者が1995年ころ、残留婦人にインタビューに行ったとき、正座して何度も何度も謝る女性がいた。「中国人と結婚して申し訳なかった」と言う。
 日本人のいない田舎、ラジオも新聞もなく、いわば閉じ込められてしまったような生活を過していた。その生活が嫌だといっても逃げ出すことのできない生活が続いていた。情報も通信手段もない状況に置かれたのが日本人女性たちだった。
 中国では、嫁さんもらうのにお金かかるし、貧しい人は中国人の嫁さんがもらえない。小さいときには養女として引き取って、大きくなったら自分の子どもと結婚させる(トンヤンシー)。
 開拓団って、関東軍のために食料つくっていたんだけど、国(日本)にはそう思ってもらえなかった。軍人だけが国を守ってきたんじゃない。軍人と開拓団への扱いがあまりにも違いすぎる。日本の政府って、あんまり不公平だ。軍人には恩給あるのに、開拓団には何にもない。
今になると、「あの戦争は間違っていた」と分かる。でも、あのころはそんなことは考えもしなかった。働くばかりで、そんな暇なかった。
 とても貴重なインタビューを集めた本だと思います。
(2019年7月刊。2500円+税)

2025年1月28日

九月、東京の路上で


(霧山昴)
著者 加藤 直樹 、 出版 ころから

 1923年9月1日、午前11時58分、関東大地震が発生した。昼食どきだったので、火災が発生し、広がった。同時多発的で、しかも強風にあおられ、東京市の4割以上、横浜市でも8割が焼失した。倒壊・焼失家屋は29万3千棟、死者・行方不明者は10万5千人以上。被害総額は当時の国家予算の3.4倍。
 このとき、「朝鮮人暴動」の流言が広がり、実際に朝鮮人へ危害を加えることになった。
9月2日の未明、品川警察署は数千の群衆に取り囲まれ、「朝鮮人を殺せ」と人々は叫んでいた。
 当時、日本に仕事を求めて多くの朝鮮人がやってきていて、女工や建設労働者として働いていた。少なくとも8万人以上とみられていた。彼らの半数近くは日本語が話せなかった。
 自警団は、「パピプペポと言ってみろ」「15円50銭と言ってみろ」と、朝鮮人には発音が難しい言葉を言わせて判別していた。
 内務省の警保局長は2日、「朝鮮人が各地で放火しているので、厳しく取り締まるよう」という趣旨の通牒を発した。「流言」が事実として公認されてしまった。
 世田谷区千歳烏山(からすやま)にある烏山神社の境内に13本の椎の木が植えられている。これは「殺された朝鮮人13人の霊をとむらって地元の人が植えたもの」と語り伝えられているが、よくよく真相を調べてみると、実は、朝鮮人を虐殺した地元の自警団員12人が殺人罪で起訴されたことから、郷土愛として起訴された被告への「同情」として植樹されたものだった。朝鮮人虐殺は当時の状況では仕方のないことだったとされたというわけです。
 多くの朝鮮人・中国人が虐殺されたが、一人の軍人も裁かれることはなかった。
 「このたびのことは、天災と思ってあきらめるように」と役人から申し渡されたという。
亀戸警察(江東区)では南葛労働組合の幹部を逮捕・連行してきて、虐殺した。平沢計七や川合義虎など10人以上の人々が殺害されたことが判明している。
 埼玉県内でも200人以上の朝鮮人が虐殺された。その下手人たちは起訴されたが、執行猶予が95人、実刑になったのは21人、無罪2人だった。
 デマを信じて行動した人々は、それこそ普段は「善良な市民」だったのでしょう。それが、殺人鬼のように「殺せ、殺せ」と叫んで、実際行動に移ったわけです。
 先日の兵庫県知事選挙で斉藤知事を「正義の味方」と誤信して、駅前に出かけて拍手し手を振っていた人々と同じ現象ではないでしょうか。心底から恐れおののきます。
 そんな状況も考えたら、関東大震災のときの朝鮮人大虐殺は決して過去のことではないことを今しっかりと確認する必要があると思います。それにしても、デマなのか、本当(真実)なのか、簡単には分からないことが多くなったというのも事実ですね...。
 福岡県弁護士会が昨年12月14日に著者を招いて開いた講演会の会場で購入した本です。
(2024年3月刊。1980円)

2025年1月23日

ゾルゲ事件、80年目の真実


(霧山昴)
著者 名越 健郎 、 出版 文春新書

 ロシアの独裁者のようなプーチン大統領は、高校生のころ、「ゾルゲのようなスパイになりたかった」と語ったそうです。
 「20世紀最大のスパイ」とも呼ばれるゾルゲは、石油業を営む裕福なドイツ人の父とロシア人の母の子として、アゼルバイジャンのバクー郊外で生まれた。3歳のとき、一家はドイツに移住した。第一次世界大業ではドイツ陸軍に志願し、戦場で3度も負傷した。
その入院中にマルクス主義に目覚め、ドイツ共産党に入党。ドイツで活動中にコミンテルン本部で働くようにすすめられ、モスクワに移り、ソ連共産に入党した。そして、赤軍参謀本部の情報本部にスカウトされて上海に赴任(1930年)。
 そこで、尾崎秀実(朝日新聞記者)やアグネス・スメドレーらと知りあい情報網を築き、中国共産党との連絡役もつとめた。
 1933年9月、東京に来てドイツの新聞社の特派員を隠れ蓑(みの)として、8年のあいだ活動した。
 1941年10月に摘発され、1944年11月7日、処刑された。検挙されたゾルゲ機関関係者は35人という多数だった。
戦後長くゾルゲの存在は忘れられていたが、今では、ロシアでは英雄として称賛されている。ゾルゲ通りがロシアの50もの都市にあり、モスクワの地下鉄にはゾルゲ駅もある。
 ゾルゲの墓は多摩霊園にあり、ロシア政府の要人が来日したら参拝している。
 当時のソ連にとって、日本軍が北進(ソ連を攻める)するのか南進(東南アジアへの進出)するのかはぜひ知りたいところだった。ゾルゲは、日本の南進政策を知り、ソ連に通報した。それによって、ソ連は極東にいた数十個師団そして数千の戦車を西部戦線に移動させ、対ナチス戦を勝利に導いた。これが「ゾルゲ神話」。
ゾルゲは駐日のドイツ大使オイゲン・オット大使に気に入られ、ドイツ大使館内に部屋まで与えられていたようです。ゾルゲはナチスにも入党しているが、もちろん偽装入党であり、転向したのではない。
 ゾルゲが日本で情報を入手してせっせとモスクワに送っていたとき、ソ連ではスターリンの粛清が猛威を振るっていた。ゾルゲを派遣した上司たちも次々に処刑されていった。そして、ついにゾルゲ自身もドイツのスパイではないかとまで疑われた。そんなゾルゲが送ってきた情報(日本は南進を決定した)をスターリンが信用しなかったという説は信憑性がある。
 スターリンは、ゾルゲが送ってきたドイツのソ連への侵攻が迫っているという情報も無視した。そのため、ソ連の人々は大変な災難を蒙ったわけです。
 それでも、ソ連は結局、日本の北進はないと正しく判断はしたから、ゾルゲの通報はムダにはなりませんでした。ゾルゲ事件を振り返ることができました。
(2024年11月刊。1100円+税)

2025年1月16日

まだ見たきものあり


(霧山昴)
著者 永尾 広久 、 出版 花伝社

 父の帝都東京日記というサブタイトルのついた本です。
 著者の父は17歳のとき単身上京しました。大学に入るためではありません。従兄弟(イトコ)の伝手で、どこかの官庁に採用してもらうことに望みをかけてのことです。つまり、就職先が決まっていたのではなかったのでした。大胆といえば大胆、無鉄砲な気もしますが、ともかく百姓の長男でありながら、百姓が嫌で、田舎(大川市)を逃げ出したのです。それでも運良く、逓信省にもぐりこむことが出来ました。昭和2年(1927年)のことです。それから1934年まで7年間、東京にいました。
 この7年間というのは、日本も世界もまさしく激動の日々でした。なんといっても、日本は着々と戦争へと突き進んでいったのです。
 満州の関東軍は独断専行を繰り返します。1928年6月、張作霖を爆殺してしまいます。田中義一首相(陸軍大将)が天皇に「日本軍は無関係」と嘘の報告をして、天皇に叱責され、辞職してまもなく失意のうちに死亡。
 1932年1月には上海事変が勃発。日本軍が中国軍をなめてかかっていたところ、ドイツ軍事顧問国のテコ入れもあり、中国軍は頑強に抵抗し、日本軍は大苦戦を余儀なくされた。
政府は1928年2月、普通選挙を実施すると同時に治安維持法を施行した。特高警察による違法・不当な検挙が横行し、拷問も至るところで野放し。
 そして、治安維持法に死刑が導入され、「目的遂行罪」なる、とんでもない条項が追加された。
 茂青年は、逓信省で働きながら法政大学に通うようになった。そして、休日は映画をみ、また銀座で銀ブラを楽しんだ。初めは無声映画なので「カツドー」と呼ばれ、徳川夢声のような活弁が活躍していた。やがてトーキーになった。銀座には百貨店があり、カフェーが続々オープンした。
 軍人の横暴がひどく、政府要人や経済人が次々に暗殺された。
 法政大学では夜間の国語・漢文科から、昼の法律学科に移り、我妻栄教授の講義を受け、ついに高文司法科試験を受験するに至った。NHK朝ドラ「虎に翼」の主人公のモデルとなった三淵嘉子が受験する3年前のこと。
 当時すでに「受験新報」のような受験雑誌があり、茂は大いに参考にした。
 地下鉄争議は成果を勝ちとり、紡績工場の大きなストライキは会社と警察によって切り崩されてしまった。ターキー(水の江瀧子)たちの劇団員たちもストライキに突入した。
 茂は司法科試験に合格したら検察官になるつもりだった。というのも、弁護士は法廷で共産党員の弁護をしただけで治安維持法の目的遂行罪で有罪とされた。そして、裁判官のなかには「赤化判事」がいて、逮捕された。残るのは検察官という消去法の選択だった。大学教授も捕まり、華族の子弟も次々に検挙されていく。
 毎日毎日、目まぐるしいほど世の中は動いていたのです。それを日記風に再現した本です。この本にはとても信じられないエピソードが2つ登場します。
その1は、特高刑事が賭博罪で捕まり裁判になったとき、穂積重遠教授が法廷傍聴にやってきたら、裁判官が判決言渡しと同時に被告人の釈放を命じたうえ、傍聴席に向かって、「先生、これでよろしいでしょうか?」とお伺いをたてたということ。
その2は、警察署の留置場で看守たちが見守るなか、布施辰治弁護士の盛大な歓迎会がもたれたということ。歌あり、モノマネあり、踊りありのにぎやかさで、さすがの布施辰治も感極まった。
戦前の暗黒政治・社会のなかにも、こんなことがあったのですね...。
ぜひ、みなさん手にとってご一読ください。
(2025年1月刊。1650円)

2025年1月 9日

金子さんの戦争


(霧山昴)
著者 熊谷 伸一郎 、 出版 リトルモア

 日本軍が中国に侵攻し、支配していた地域では、まさしく残虐な行為をしていました。その実行部隊の一人だった金子安次・元陸軍伍長の話が本になっています。
 1920年1月に東京近くの浦安に生まれましたので、1909年生まれの私の父より10歳ほど下の世代です。漁師の次男でしたが漁師にはならず、小さな鉄屋に丁稚(でっち)奉公に出ました。
 浦安コトバでは、目上の人に対して兄貴の意味で「なーこう」と呼び、二人称は「いしや」と呼ぶ。貴様の意味でしょうか...。
 丁稚奉公しているときは無給。月に1回50銭もらうだけ。浅草に行って、漫才か映画を観る。漫才が10銭、映画は15銭。帰りに25銭の天丼を食べる。
 遊廓は吉原は高くて5円。庶民的な玉の井は1円50銭。ただ、これは晴れた日の値段で、雨の日は客が来ないので1円とか50銭と安くなる。
 出征のときは喜んで行った。母親が生きて帰ってこいとこっそり言ったので、軽蔑した。軍隊に行かないと一人前の人間にはなれないという感覚があった。会社から餞別として20円もらった。
日本刀と兵隊は叩けば叩くほど強くなると言われていた。
 兵隊は毎日、上官から叩かれた。
中国人が木に縛り付けられているのを刺突させられた。日本では僧侶していた1等兵がどうしても刺せないといって泣きだした。すると、上官からめちゃくちゃ殴られた。そのうち、その1等兵も平気で刺突するようになった。
 兵隊を戦場に慣れさせるためには、殺人が早い方法だ。これは師団長からの命令だった。初めは人を殺すのは嫌だけど、戦場を経験すると、だんだん人間を殺すことをなんとも思わなくなってくる。人を殺せなくて戦争なんか出来るかという気持ちになってくる。
 人を殺し、家屋をこわして燃やすのを楽しんでやるようになっていった。
4歳の男の子を連れた母親を強姦しようとして抵抗されたので、無理矢理に井戸に投げ込んだ。すると、それを見ていた男の子は、自ら「マーマー」と叫びながら井戸に飛び込んだ。上官が、「武士の情だ。手榴弾を投げ込んでやれ」と命じた。
 いやあ、これが戦場の現実なのですね。まさしく鬼畜の仕業です。
兵士たちが強姦しても輪姦しても軍法会議にかかることはない。
 行軍途中で落伍する兵士が出ても中隊長たちは平気で知らん顔。責任をもたなければいけないのは分隊長。行軍できない兵士は自殺するしかない。手榴弾は2発もたされていて、1発は戦闘用、あと1発は自決用。捕虜になるなということ。
 日本に帰国してから、中国でやっていたこと、とりわけ強姦・輪姦をしていたことを妻や娘に話せるわけがないので、黙っていた。
 そうなんですよね。なので、今でも軍規の厳粛な帝国軍人が中国でそんなことしたはずはない。みんな中国軍のデマだ、プロパガンダと言いはる人がいるのです。
戦争が本当に人間性を喪わせるものだということを実感させられる本です。
(2005年8月刊。1980円)

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