弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2024年10月 5日

宮本常一と土佐源氏の真実


(霧山昴)
著者 井出 幸男 、 出版 新泉社

 有名な民族学者である宮本常一の代表作「忘れられた日本人」におさめられた「土佐源氏」はまことに衝撃的な内容です。昔から言われていることですけれど、日本人は古来、とても性に開放的でした。それを裏づける貴重な聞き書きの一つとして扱われてきました。
 しかし、この「聞き取り」には、事実に反するところがあり、これは実は聞き取りにもとづく宮本常一による文学作品ではないか、著者はそのことを実証しています。
 まず、「盲目の老人」は乞食ではなく、「橋の下」にも住んでいません。また、年齢も「80歳以上」ではなく、「72歳」でした。そして、何より、「土佐乞食のいろざんげ」という原作があったのです。
 宮本常一は、貴重な取材ノートを戦災にあって焼失したので、十数年たって、記憶で再現したと語っていました。
 「老人」は「橋の下」ではなく、「橋のたもと」に住んでいて、「乞食」ではなく、妻子とともに水車で精米・製粉業を営んでいた。緑内障で失明したが、その前は、腕ききの博労(ばくろう)であった(運営業ということ)。
 宮本常一自身が妻とは別の女性と一緒に旅を続けていた。
 「老人」のコトバに「土佐弁」ではなく、宮本の出身地である周防(すおう)大島の方言が入っている。たとえば、「ランプをかねる」というのは、「ランプを頭で突き上げて落とす」という意味。これは土佐弁にはないコトバ。
 宮本常一の聞いた相手の「老人」の本名は、「山本槌造(つちぞう)」。子どもも男2人、女3人を育てあげた。その孫が取材に応じて、祖父のことを語っている。
祖父の「槌造」は昭和22年に「76歳」で亡くなっているので、宮本常一が取材したときには「72歳」であって、「80歳以上」ではなかった。
「強盗亀」の正体も判明している。そして、山の中に「落し宿」という「盗人宿」があったのは事実のようだ。盗っ人が持ち込み、誰かが安く買い取って、売りさばいていた、そんな仲継ぎをする「旅館」が山中にあった。
 「強盗亀」は捕まって、41歳のとき死刑(処刑)されていますが、ずっと最後まで行動を共にしていた妻が3人いたというのも事実のようで、驚かされます。よほど、生命力、行動力があったのでしょう。
 したがって、宮本常一の書いた「土佐源氏」は純然たるルポタージュというものではなく、虚構(フィクション)をまじえた「文学作品」として捉えるべきだというのが著者の主張です。なるほど、そうなんでしょうね...。
 宮本常一にまつわる伝説をえりわけて真実を探ろうとする真摯(しんし)な姿勢に学ばされました。
(2016年5月刊。2500円+税)

2024年10月 4日

ヤンバルの戦い(1)


(霧山昴)
著者 しんざと けんしん 、 出版 琉球新報社

 沖縄戦の実情をリアルに紹介してくれるマンガ本です。本当にマンガというのは馬鹿にしてはいけないと思います。すごい迫真力があります。
日本の帝国軍人たち、とりわけ高級幹部の独善と権威主義がひどすぎて、腹が立つどころではありません。
 結局、沖縄はアメリカ軍による本土進攻を遅らせるための捨て石とされました。
 沖縄にどんどん航空基地をつくるよう大本営は命令します。ところが、肝心の資材が十分ではありません。そのうえ、飛行機だって飛行士だって大量確保はおぼつかないのです。
 アメリカ軍が沖縄に迫ってきたとき、沖縄の人々は訓練と思ったり、日本軍が来てくれたと錯覚したり、まさかまさかアメリカ軍が来襲するとは思っていなかったのです。
 沖縄には、満州にいた関東軍の精鋭部隊が続々と転入してきます。それで、沖縄の人々は頼もしい味方が来てくれた。これでアメリカ軍を撃退してくれると束の間の安心感に浸ったようです。
 でも、アメリカ軍の上空からの襲撃によって、その多くが焼失してしまいました。
 対馬丸事件という大悲劇も発生しました。沖縄の子どもたちを九州へ疎開させるというのです。速度の遅い貨物船はアメリカの潜水艦に狙われて、あえなく撃沈されてしまいます。大勢の子どもたちが海中に沈んでいきました。
いま、日本政府は台湾危機をあおり立て、南西諸島と沖縄から九州へ住民を避難させると言っています。
 とんでもないことです。全住民を乗せる船も飛行機なんてありませんし、対馬丸のように撃沈(ミサイルによって)されない保障なんて、どこにもありません。政府は危機をあおるのは止めてほしいです。それよりお米の確保が先決です。減反政策をやめて、食糧自給率を引き上げる政策を今すぐ始めて下さい。
 著者は沖縄戦の実情を知らせるための劇画をシリーズで刊行しているそうです。ぜひ読みたいものです。
 
(2024年6月刊。3850円)

2024年9月25日

ザボンよ、たわわに実れ


(霧山昴)
著者 力武 晴紀 、 出版 花伝社

 戦前、1930年代に存在した無産者診療所。そこで活動した若き「女医」、金高(かねたか)満すゑの半生を紹介した本です。
戦前、治安維持法という悪法が人々の自由な言論と行動を厳しく弾圧していたとき、不正を憎み、目覚めた若者は行動を起こしました。
 この本の主人公・満すゑは佐世保に明治41(1908)年に生まれました。私の父は明治42年生まれなので、一つだけ年長になります。
 佐世保は昔も今も「軍港」です。昔は日本海軍の拠点港であり、今は米軍と海上自衛隊が支配しています。母親が急死し、叔父の家へ父親と二人で同居するようになり、やがて父親も病死してしまいます。それでも、養女となって佐世保高等女学校に入学。片道3時間かけて、毎日、徒歩で通学したというのですから、想像を絶します。午前5時に家を出たというのです。
女学校時代は「女傑」と教師から評価されていたといいます。教師から頼まれて女学校内の派閥抗争の仲裁人になったというのです。もはや、並みの女の子の域を超えていますね...。そして、上京して、東京女子医学専門学校に入学します。よほど、学業成績が良かったのでしょう。
 そして、この女子医専に社研(社会科学研究会)があり、満すゑも入って活動を始めます。
 なぜ戦争なんかするのか、生活が苦しくなるばかりなのに...。そんな疑問をもってレーニンの「帝国主義論」を読んで納得するのです。私も大学生のころ、マルクスそしてレーニンの本を必死で読みました。今ではほとんど内容なんて忘れてしまいましたが、ともかく、その緻密な論理展開にはしびれした。そうか、そういうことなのか...。目が覚める思いでした。
 満すゑは1931(昭和6)年の卒業試験の最中、特高警察に検挙されました。学生仲間がかばってくれて試験を受けていたのですが、ついに捕まってしまい、卒業できなくなりました。それでも、学校当局は卒業式のときに、名前を呼んだというのです。
 そして、五反田駅近くに1930年1月に設立された大崎無産者診療所に入って、医師の資格はないまま手伝うようになります。いま全国各地にある民医連の通院・診療所のハシリです。
 1933(昭和8)年8月、満すゑは27歳のとき、治安維持法違反で検挙され、翌年、5月に起訴されます。
 私の父・茂は当時、法政大学法文学部の学生で、我妻栄から民法を教えられ、また高文司法科試験を受験しました(不合格)。まったく同じころ東京にいたわけです。
 そして、満すゑは市ヶ谷刑務所に2年半、囚人として収容されました。出所したときは、すっかり衰弱して、肋骨がゴツゴツ浮き出て、洗濯板みたいな身体になっていたそうです。
 それでも満すゑは1939年4月、女子医専に復学し、翌1940年3月、31歳のとき卒業することができました。
 そして新潟に行き、五泉診療所そして葛塚診療所で医師として働くようになったのです。
戦後は、民医連の病院のいくつかで働き、最後は東京中野区の桜山診療所で働いた。
 すごいですね、三度も検挙されたけど、屈することなく医師として活動を続けたのです。1997年12月、89歳で死亡。その一生を追った労作です。
(2023年11月刊。1800円+税)

2024年9月 4日

未来にかけた日々(前編・後編)


(霧山昴)
著者 勝目テル 、 出版 平和ふじん新聞社

 戦前、関東消費組合連盟で活動し、戦後も民主的な活動を続けた著者がその人生を振り返っています。国立国会図書館のコピーサービスで読みました。本当に便利な世の中になったものです。著者が70歳前半の1975年9月に刊行されています。
 著者がまだ30歳台前半のころ、いかにも活気盛んな年頃です。そして、著者によると、1930年、31年は、戦前の日本の労働者の闘いがもっとも華やかな時代だったというのです。帝国主義政府の圧制が強まり、治安維持法が猛威をふるっていましたが、労働者も小作人も屈することなく、大勢が声を上げて圧制と果敢に闘っていたのです。
 1931年、労働者によるストライキは2284件で、小作人を中心とする農民の闘いも活発で、小作争議2478件も起きた。
どうですか、今の日本と比べて圧倒的に多いではありませんか。東京・新宿のデパートが閉店を強行するというので労組がストライキをしたとき、久々のストライキだと世間の注目を集めたことはまだ記憶に新しいところです。現代日本では「死語」同然のストライキですが、帝国政府の強権的な圧制の中で、労働者も農民も大きく声をあげ、ストライキに突入していました。現代に生きる私たちは、同じ日本人として彼らに敬意を表するだけでなく、労働者としての当然の権利を行使すべきだと考えています。それでは次に行きましょう。
 女性の参政権、投票権が戦前には認められていなかったことを体験として知る人は今や、ほとんどいません。昨今の女性は、せっかく敗戦後に勝ちとった選挙権を放棄している人が、あまりに多い状況は、本当に残念です。まあ、これは男性も同じことです。
 1932年2月、衆議院は婦人公民権案が可決された。ところが、貴族院で否決され、女性の選挙権は認められなかったのです。「女性に選挙権なんか与えたら、日本の美しい風俗がこわれるから」というのです。笑止千万です。衆議院で可決されたという事実は私は知りませんでした。
 同じ1932年3月には20日から23日まで、東京の地下鉄が全面ストップしました。地下鉄で働く労働者がストライキに突入し、地下の電車に籠城したからです。150人が参加しました。警官隊が地下に突入しようとしましたが、争議団が「触ると死ぬぞ」と大書して通電した柵で対抗したため突入を断念し、結局、労働者側が大きな成果を勝ちとり、その勝利で終わりました。
 そして、同年8月1日は国際的な反戦デーで、「米よこせ」の運動が大々的に取り組まれました。農村では娘の身売りなど、大変深刻な状況が生まれているなか、政府は米が余っているとして、1升わずか8銭で海外に米を売ろうとしていたのです。それを聞きつけた市民が大手町にあった農林省へ「米よこせ」を要求して押しかけました。
 日本人は昔から裁判を嫌っていたというのが根拠のない間違いであるのと同じように、日本人は昔からモノ言わない、羊のようにおとなしい人間ばっかりだというのも、まったくの間違いなのです。日本人だって、立ち上がるときはあります。声を上げ、要求を大勢で叫んだのです。
 先日、台湾の民主化運動を紹介する本を読んで日本とは決定的に違うのは、台湾には運動によって成果を勝ち取った成功体験が、最近、二つはあるそうです。ところが、日本では10年前の安保法制反対運動は弁護士会を含めて大きく盛り上がりましたが、安保法制法は制定されてしまいました。また、集団的自衛権の行使も認められるようになりました(幸い、まだ、現実の行使はありません)。日本に欠けているのは成功体験、そして自信をもった若者の運動です。本当に残念です。
 1933年11月、著者が治安維持法違反で検挙され、両国警察署の留置場に入れられていたときのエピソードは、まさしく胸を打ちます。
 11月7日は、ロシア革命の記念日。これを監房内で祝うことを企画していると、そこに布施辰治弁護士が両国署にまわされてきたのです。そこで、著者は革命記念日と布施辰治弁護士の歓迎会を企画して、看守長の同意を取りつけ、ついに実現したというのです。これには、いくらなんでも...と、びっくりたまげました。
 さらに、遠い親類にあたる海軍少将を動かし、なんと両国署から出ることが出来たというのです。いやはや、権力機構というものの、いいかげんさも知ることができました。
(1975年9月刊。定価不詳)

2024年8月29日

忘れえぬサイパン1944


(霧山昴)
著者 吉永 直登 、 出版 同時代社

 サイパン島を守るために派遣されたのは、満州から来た戦車第9連隊と、名古屋で編成された陸軍第43師団(誉部隊)。
 アメリカ軍がサイパン島に上陸した1944年6月15日は、ノルマンディー上陸作戦(同年6月6日)と同じく「Dデー」と呼ばれた。アメリカ軍は、その日のうちに2万人のアメリカ兵を上陸させた。もちろん、M4中戦車やバズーカ砲とともに...。
日本軍はアメリカ軍の上陸を許さない「水際撃滅」作戦をとったが、初日にあっけなく崩れた。
後の硫黄島の戦いでは、栗林中将は「水際撃滅」を止めて、上陸直後を叩く作戦に替えています。
日本軍の九七式中戦車は装甲が薄いため、アメリカ軍のバズーカ砲によってたちまち撃破されてしまいました。
 アメリカ軍にも多数の戦死者を出しましたが、その遺体の回収に全力をあげました。これは今もそのようです。ところが、日本軍にはそのような理念も行動もありませんでした。
 アメリカ軍の飛行機はレーダーを使って、事前に日本の軍用機の通過ルートを予想していて、日本機より高い高度から見下すような格好で攻撃していったので、日本機は簡単に撃ち落とされた。これを「マリアナの七面鳥撃ち」と呼んで、日本軍を馬鹿にしています。物量だけでなく、科学、技術力にも圧倒的な差があったのです。「大和魂(やまとだましい)」を強調するだけの精神論では戦争に勝てるはずもありません。
 日本軍トップはアメリカ軍の実力を甘く見ていた。そしてアメリカ軍についての研究を怠っていた。これは今もそうですよね。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて、いい気になっていたらダメなのです。
海軍乙事件とは、日本軍の連合艦隊司令長官である古賀峯一大将が撃墜されたとき、別機に乗っていた福留繁中将(連合艦隊参謀長)がフィリピンゲリラに抑留され、機密文書を奪われて、アメリカ軍の手に渡ったというもの。ところが、この福留中将は解放されて軍に復帰して、その失態をとがめられることもなかった。
 しかし、アメリカ軍は機密文書を解読して、日本軍の動きを正確に知ることができた。ひどいものです。
サイパン島には日本軍の陸軍と海軍の将兵が4万人もいた。ただし、兵士の年齢は20代後半から30代が多かった。
 それに対して、サイパンに上陸したアメリカ兵7万1000人は20歳から22歳と若かった。そして、アメリカ軍は、陸軍と海兵隊のいくつもの師団をローテーションを組んで派遣した。休養と訓練期間を必ずはさみ、効率的な運用を目ざした。
 日本軍には休養をとり、部隊を効率よく運用するなどという発想はまったくなかった。いやはや...。ところで今の自衛隊は、その点は大丈夫なのでしょうか...?
 7月7日の夜明け前、日本軍は「バンザイ突撃」をし、アメリカ軍に多くの犠牲者を出した。このとき、実はアメリカ軍の同士撃ち(味方撃ち)が半分を占めているという説が紹介されています。日本兵が3000人も参加したとのことですが、本当でしょうか、ちょっと信じられない人数です。
 7月9日、サイパン島はアメリカ軍が完全占領し、大本営は7月18日、全員「玉砕」と発表した。そして、東条内閣が総辞職した。
 サイパンにはあまりにも有名な二つの崖があります。「バンザイクリフ(崖)」と「スーサイド(自殺)クリフ」です。そこで、死んだ日本人の人数は今も不明です。多くの自決は家族単位でした。ただし、死ぬことを必死に拒んだ子どもたちもいたとのことです。当然ですよね...。
 サイパン島で生き残った日本人は1万3000人ほど、そして朝鮮人が1400人ほどいた。ところが、1945年2月時点でも、800人ほどの日本兵(敗残兵)が山中に潜んでいたのでした。1945年12月に投降したのは大場大尉ら48人。そして、同じく12月22日、井上伍長ら13人が投降した。
サイパンを占領したアメリカ軍は、日本本土へB29爆撃機を飛ばした。のべ3万3401機。損害は485機、破損2707機。死亡した搭乗員は3041人。
 アメリカ軍は、70回の出撃に1機の割合でB29を失っていた。それでも、日本全土が焦土と化してしまいました。
 忘れてはならないサイパン島攻防戦の悲劇の実情が明らかにされています。
(2024年5月刊。1500円+税)

2024年8月18日

永遠の都6(炎都)


(霧山昴)
著者 加賀 乙彦  、 出版 新潮文庫

 戦前の帝大セツルメントが紹介されています。著者はセツルメント活動をしていたのです。
 帝大セツルメントは関東大震災後に生まれた学生救護団を母体にして、大正13年に帝大セツルメントのハウスが柳島元町に落成して始まった。次第に、託児所、診療所、法律相談部、市民教育部、図書部、調査部と活動範囲を広げていった。
東大本郷の五月祭のセツルメント展示場に制服の女学生が数人立ち止まった。いずれも良家のお嬢さんらしく、アイロンの掛かった白の上着に、紺のスカートを着て、作りたての人形のような、ほつれ毛一本ない三つ編みを垂れている。聖心女学院の学生たちだった。
 まさか来るとは思わず誘ったら、そのうちの一人が本当にセツルのハウスにやって来た。
ハウスは2階建ての洋館で、下に医務室、託児所、図書室、食堂、台所、小使室、浴室があり、上は法律相談室、調査室、教室、物置、そして10のレジデント室があった。
この法律相談室には、民法の大家としてあまりにも著名な末弘厳太郎そして我妻栄も週に1回やってきて、市民からの相談を学生と一緒に対応していました。
 聖心の女学生は、ハウス付近のスラム街を案内された。戸口がなく、すだれを垂らしただけで内部がまる見えのあばら屋では、病人が臥(ふ)せっているそばで赤ん坊が泣いている。軒が傾いた屋では、破れ障子の奥で老婆たちが手内職をしている。運河の岸に鋳物や紡績の町工場が並び、排水で水は黒く、酒瓶、紙屑、猫の死骸、野菜屑が悪臭を立てている。吾嬬(あずま)町の皮革工場に近づくと特有の糞臭が漂い、ドブ川は何とも形容できない醜悪な色をなして、淀んでいる。そして、このスラム街の向こうには、赤い連子窓の並ぶ色町がある。
それを全部見てまわったあと、聖心の女学生はセツルに入りたいと言って、セツラーの一人になった。
私も大学に入った4月に川崎セツルメントに入りました。幸区古市場です。そこはスラム街ではなく、大小町工場で働く労働者の街です。いわゆる民間アパートが至るところにありました。
まだまだ娯楽の少ない時代でしたから、青年労働者たちと早朝ボーリング大会、オールナイト、スケートそしてハイキングやキャンプを企画すると参加してくれました。もちろん、アカ攻撃もかかってきました。大企業の労務管理としてZD運動などが盛んなころのことです。女子学生もいろんな大学から参加していました。津田塾大学、東京学芸大学、栄養短大などです。
 日本が戦争に近づこうとしているころ、日本に長く住む神父がこう言った。
 「これから日本がどうなるかは分からない。しかし、満州事変以来、軍部が武力拡張政策で国を引っぱって行く方向では平和な未来は来ないだろう。戦争というのは、一度、火がつくと、どんどん燃え広がって、収拾がつかなくなる。そうならないことを祈るより仕方がない」
いやあ、まるで、いまの日本にぴったりあてはまる言葉ではありませんか...。「台湾危機」などをあおり立てて、軍備大拡張、そして敗戦記念日に広島で臆面もなく、「核抑止力」をふりかざす日本の首相。狂っています。声を大にして批判することが必要なときです。
(1997年7月刊。629円+税)

2024年8月17日

物語青年運動史(戦前編)


(霧山昴)
著者 吉村 金之助 、 出版 日本青年出版社

 いま昭和の初期(2年から9年までの7年間)、東京で生活していた亡父のことを調べて書いています。
 東京に地下鉄が出来たのは1927年12月30日でした。当初は、上野と浅草のあいだ、わずか10分ほどを走っていました。10銭硬貨を入れると、棒がまわって入れるもので、まだ切符ではありませんでした。ところが、紙の切符を女性が売る形式に変わりました。地下の売り場に、朝6時から夜中までいなくてはなりません。汚れた空気と、ガンガンひびく、ものすごい電車の音に耐えなければいけなかったのです。
 そして、日給が男子は1円15銭なのに女子は70銭でした。そこで、従業員は会社にバレないように労働組合をつくり、ついにストライキに突入しました。会社自体が新しいのですから従業員は、16歳から28歳と、みな若い。運転手は男子で、女子は切符売りなどです。
 ストに突入したのは1932(昭和7)年3月20日の夜。
 しかし、いきなり争議に入ったのではありません。まずは軍資金の確保です。みんなでお金を出しあって、1000円を集め、それで食糧を買い込みました。パン600斥(64円しました)。砂糖1俵、醤油3升、梅干したる、かつお節30本、みかん1箱など...。地下にみんなで1ヶ月間は籠城する覚悟でした。電車4台を地下に留め置き、警官と会社が運び出さないよう、鉄条網を張って、900ボルトの電流を流し、「されると死ぬぞ」と大書したのです。そのため警官隊は地下に突入できませんでした。
 結局、ストライキは3日間で終わりました。会社側が労働者の要求の多くを受け入れたのです。神田と浅草駅には便所をつくり、詰所にはオゾン発生器をつける。女子の最賃は90銭、出札手当、トンネル手当各2円を支給するなど、です。
 ところが、警察はストライキ終結して、1ヶ月後の4月18日に、主要メンバー46人を検挙して弾圧しました。
 それでも、このような壮大なストライキが戦前の東京地下鉄であったことを知っておいた方がいいと思います。どうせ弾圧されてしまったんだから、むなしい...なんて思わず、納得できないことは、「はて」と疑問を口にして声を上げるのは、やはり大切なことなのです。
(1968年2月刊。420円)

2024年8月 2日

公爵家の娘


(霧山昴)
著者 浅見 雅男 、 出版 リブロポート

 昭和の初めころ、日本には「赤い華族」が何人も出現しました。公爵や子爵の息子や娘、貴族院議員の息子たちが日本共産党員になって活動したり、共産党に定期的にカンパしたりしていました。彼や彼女らは東京帝大や学習院の在学中に共産党に近づき、サークルをつくって組織的に活動していたのです。今も、そんな青年たちがいるのでしょうか...。
 赤い華族の先駆けは、なんといっても有馬頼寧です。トルストイの思想に傾倒し、被差別部落解放運動に自ら参加しています。
 さて、本書の主人公は岩倉靖子です。その曾祖父・岩倉具視(ともみ)が明治維新のときに果たした役割があまりにも大きかったので、わずか150石の家禄しかない、公家社会の下層に属していた岩倉具視の死後、息子・具定(ともさだ)は公爵になったのでした。その子・具張(ともはる)の娘が靖子。母は西郷隆盛の弟の従道(つぐみち)の長女の桜子。靖子が生まれたのは1913(大正2)年1月17日。
 岩倉具視は、三条実美(さねとみ)と同額の5千石を明治2年9月に「賞典禄」としてもらっている。岩倉具視は、華族のために第十五銀行を創設した。
靖子は女子学習院に入ったものの、途中で日本女子大に転入した。英文科である。そして、この日本女子大に学ぶころ、靖子は社会的に目覚めたらしい。
学習院に学ぶ学生たちのあいだに共産党を支持する学生サークルが存在して、活動していた。これって不思議な気がしますよね...。しかし、実は、珍しいことではなかたのです。それほど、貧富の差が激しく、目立つものだったのでしょうね。今も超格差社会であり、トヨタの会長が年収34億円というのに、月収10万円以下で暮らしている人はごろごろいる世の中です。ところが、イデオロギーとして、自己責任論から抜け出せない人が、いかに多いことでしょう。
 靖子は共産党のシンパとなり、サークル活動に熱心になっていきました。といっても党員になったわけではなく、ビラ配布に協力したり、カンパしたり、会に仲間を誘ったりする程度だったのです。ところが、治安維持法の「目的遂行罪」は、それを許しません。犯罪行為として立件できるのです。特高たちが靖子を検挙したのは1933(昭和8)年3月29日のこと。靖子は簡単に自白せず、転向もしませんでした。
 靖子の父・具張の姉は、東伏見宮依仁親王妃の周子、つまり近い親族に皇族がいたのです。こうなると、特高も特別な配慮が必要になってきます。なにしろ、天皇につらなる皇族に下手に関わってしまったら、自らの汚点になりかねないからです。
 そして、実際にも、昭和天皇は、「赤化華族」たちの処遇には関心をもち、木戸幸一を通じて働きかけていたようです。「木戸日記」に、その点が記載されているとのことです。
 靖子は起訴され、市ヶ谷刑務所に送られました。結局、保釈で自由の身になるまで、8ヶ月ものあいだ独房で過ごしています。靖子が転向を表明し、保釈が認められたのは1933年12月11日のこと。そして、10日後には自死したのでした。享年20歳です。公爵の娘としての葛藤が自死を決意させたようです。本当に残念でした。
(1991年4月刊。1442円)

2024年7月25日

死の工場


(霧山昴)
著者 シェルダン・H・ハリス 、 出版 柏書房

 戦前の日本軍の犯した悪悪・最凶の戦争犯罪の一つが、七三一部隊による人体実験そして大量虐殺だと私は思います。
死刑囚を人体実験して殺したというのではありません(もちろん、それも許されないことです)。日本軍に反抗した、あるいは反抗しそうな人を、勝手に、何の法的手続をとることもなく、七三一部隊に送って、「マルタ(丸太)」と称して、あたかも人格をもたない物体かのように扱って、殺りくしていったのです。こんな極悪非道なことが許されるはずはありません。ところが、その凶悪犯罪をした医学者たちはまったく刑事訴追されることなく、それどころか戦後の日本の医学界そして製薬業界に君臨していたというのです。
 そして、この凶悪犯罪は、当時の軍部当局だけでなく、皇族も知悉していました。皇族たちは七三一部隊の施設の現地を何度も訪問し、部隊長の石井四郎の講演をありがたく拝聴しています。だから、七三一部隊の犯した戦争犯罪が天皇の責任に直結しないはずがなかったのです。
 それを止めたのが、なんとアメリカ軍トップでした。アメリカ軍は七三一部隊にいた石井四郎はじめとする幹部連中と取引したのです。つまり、戦争犯罪を免責してやるからといって、人体実験のデータを要求して手に入れたのでした。
 それと同時に、七三一部隊の人体実験被害者のなかに、中国人やロシア人だけでなくアメリカ人もいたという告発を握りつぶしてしまいました。もしも、七三一部隊によって殺された被害者のなかに連合軍捕虜としてアメリカ人がいたとしたら、それをアメリカ国内に知られたら、七三一部隊幹部との闇(ヤミ)取引なんか、すぐに吹き飛んでしまったはずです。
 有力な皇族であった東久邇(ひがしくに)は、七三一部隊の本拠地(平房の施設)を訪問しているし、天皇の弟の秩父宮は石井四郎の講演を聞いていて、もう一人の弟の三笠宮も平房を訪問している。また、竹田宮恒徳は主計官として、平房に頻繁に訪れている。
 昭和天皇自身も石井四郎と少なくとも公式に2回は会っている。
 日本軍による連合軍の捕虜収容所は満州の奉天にあったのです。この捕虜収容所は11942年11月から1945年8月までありました。
 日本軍がフィリピンを占領して、「バターン、死の行進」で有名な捕虜の一部を奉天に送ったのです。この収容所に2000人以上を収容し、全部で19の兵舎がありました。悪い食糧事情、不潔な宿舎そして厳しい寒さのなかで、次々に収容者は死んでいきました。直接の死因は栄養不足、ビタミン不足による死亡のようです。
 この本では、結局、アメリカとイギリス、オランダの将兵あわせて1671人が生き残ったのに、誰も日本の細菌戦の被害にあったと訴えなかったとしています。
 日本軍と石井四郎たちが、アメリカ人、イギリス人、オランダ人だけは決して手をつけなかったというのは今の私にはとても信じがたいのですが...。「厳密に統制された高度の国家機密である」とFBIがコメントしていたというのですから、やはり疑わしいこと限りありません。アメリカの公文書館のどこかに、隠された文書が埋もれたままになっているのではないでしょうか...。
(1999年7月刊。3800円+税)

2024年7月17日

日ソ戦争


(霧山昴)
著者 麻田 雅文 、 出版 中公新書

 ソ連が日本敗戦の直前に突如として満州に侵攻してきたことを卑怯だという日本人が今なお少なくありません。でも、それはアメリカが願っていたことであり、アメリカはソ連の日本侵攻のために莫大な物資(トラックや兵器、ガソリンなど)を無償で提供していたのです。ソ連のスターリンは何度もアメリカの軍需援助を求め、アメリカはそれに応じていました。なぜか...。アメリカ兵の死傷者を少しでも減らしたかったからです。アメリカ軍は日本本土に侵攻したら、100万人のアメリカ兵が死傷すると予測していました。実際には、「捨て石」にされた沖縄の犠牲の下、本土決戦はなかったので、「100万人」どころか本土では死者が「ゼロ」だったわけです。(「ゼロ」というのは、本土決戦によるものとしては、というだけです)。
 この本を読んで驚いたのは、スターリンは、日本が無条件降伏しても、すぐにドイツのように軍事強国として日本はよみがえるだろうと予測していたというところです。一般のソ連国民にとって、ナチス・ドイツからは大勢の近親者を殺されたことから発奮したが、4年も中立を守った日本が相手では切迫感がなく、日ソ戦争はソ連国民が奮り立つ戦争ではなかった。ソ連国民は厭戦(えんせん)気分にあった。そこで、スターリンはソ連国民の士気を鼓舞するため日露戦争で敗れた復讐に見せるよう演出した。
スターリンは日本の復讐を恐れて4つの手を打った。第1は、日本の民主化の推進、第2は対日同盟網の構築、第3に南樺太(カラフト)と千島列島の併合、第4に元日本兵のシベリア抑留。
スターリンは北海道を占領しようとしたのをアメリカに阻止されたことからシベリア抑留を始めたという説がありますが、それはないと私は考えています。ソ連は独ソ戦で2700万人もの国民を失って、労働力が不足していたのです。荒れ果てた国土の復興にドイツ兵捕虜を使いはじめ、それに味をしめて日本兵も使いはじめたというのが、もっともありうるところだと私は思います。
 ただ、そのとき、ポーランドの将校3万人をスターリンのソ連軍が虐殺した「カチンの森事件」のように、元日本兵の将校たちも抹殺される危険があったのです。スターリンがその気にならなかったのは幸いでした。まあ、それほど、復興のニーズが差し迫っていたのでしょう。
 スターリンは満州にあった工場の機械やあらゆる機材をソ連領に運び去りました。そして、この本では、武器は中国共産党に渡したとされていますが、実はスターリンは中国共産党を信用しておらず、むしろ蔣介石の国民党を信頼して、武器もこちらに渡そうとしていたのです。ところが、腐敗した国民党軍がやる気もなくモタモタしているうちに、ハツラツとした中国共産党軍(「八路」、パーロ)が先に「満州」を占領してしまったことから、日本軍の武器の大半は八路軍(パーロ)に渡ったということです。
 大変興味深い内容で一杯の新書でした。
(2024年5月刊。980円+税)

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