弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦前)
2024年7月25日
死の工場
(霧山昴)
著者 シェルダン・H・ハリス 、 出版 柏書房
戦前の日本軍の犯した悪悪・最凶の戦争犯罪の一つが、七三一部隊による人体実験そして大量虐殺だと私は思います。
死刑囚を人体実験して殺したというのではありません(もちろん、それも許されないことです)。日本軍に反抗した、あるいは反抗しそうな人を、勝手に、何の法的手続をとることもなく、七三一部隊に送って、「マルタ(丸太)」と称して、あたかも人格をもたない物体かのように扱って、殺りくしていったのです。こんな極悪非道なことが許されるはずはありません。ところが、その凶悪犯罪をした医学者たちはまったく刑事訴追されることなく、それどころか戦後の日本の医学界そして製薬業界に君臨していたというのです。
そして、この凶悪犯罪は、当時の軍部当局だけでなく、皇族も知悉していました。皇族たちは七三一部隊の施設の現地を何度も訪問し、部隊長の石井四郎の講演をありがたく拝聴しています。だから、七三一部隊の犯した戦争犯罪が天皇の責任に直結しないはずがなかったのです。
それを止めたのが、なんとアメリカ軍トップでした。アメリカ軍は七三一部隊にいた石井四郎はじめとする幹部連中と取引したのです。つまり、戦争犯罪を免責してやるからといって、人体実験のデータを要求して手に入れたのでした。
それと同時に、七三一部隊の人体実験被害者のなかに、中国人やロシア人だけでなくアメリカ人もいたという告発を握りつぶしてしまいました。もしも、七三一部隊によって殺された被害者のなかに連合軍捕虜としてアメリカ人がいたとしたら、それをアメリカ国内に知られたら、七三一部隊幹部との闇(ヤミ)取引なんか、すぐに吹き飛んでしまったはずです。
有力な皇族であった東久邇(ひがしくに)は、七三一部隊の本拠地(平房の施設)を訪問しているし、天皇の弟の秩父宮は石井四郎の講演を聞いていて、もう一人の弟の三笠宮も平房を訪問している。また、竹田宮恒徳は主計官として、平房に頻繁に訪れている。
昭和天皇自身も石井四郎と少なくとも公式に2回は会っている。
日本軍による連合軍の捕虜収容所は満州の奉天にあったのです。この捕虜収容所は11942年11月から1945年8月までありました。
日本軍がフィリピンを占領して、「バターン、死の行進」で有名な捕虜の一部を奉天に送ったのです。この収容所に2000人以上を収容し、全部で19の兵舎がありました。悪い食糧事情、不潔な宿舎そして厳しい寒さのなかで、次々に収容者は死んでいきました。直接の死因は栄養不足、ビタミン不足による死亡のようです。
この本では、結局、アメリカとイギリス、オランダの将兵あわせて1671人が生き残ったのに、誰も日本の細菌戦の被害にあったと訴えなかったとしています。
日本軍と石井四郎たちが、アメリカ人、イギリス人、オランダ人だけは決して手をつけなかったというのは今の私にはとても信じがたいのですが...。「厳密に統制された高度の国家機密である」とFBIがコメントしていたというのですから、やはり疑わしいこと限りありません。アメリカの公文書館のどこかに、隠された文書が埋もれたままになっているのではないでしょうか...。
(1999年7月刊。3800円+税)
2024年7月17日
日ソ戦争
(霧山昴)
著者 麻田 雅文 、 出版 中公新書
ソ連が日本敗戦の直前に突如として満州に侵攻してきたことを卑怯だという日本人が今なお少なくありません。でも、それはアメリカが願っていたことであり、アメリカはソ連の日本侵攻のために莫大な物資(トラックや兵器、ガソリンなど)を無償で提供していたのです。ソ連のスターリンは何度もアメリカの軍需援助を求め、アメリカはそれに応じていました。なぜか...。アメリカ兵の死傷者を少しでも減らしたかったからです。アメリカ軍は日本本土に侵攻したら、100万人のアメリカ兵が死傷すると予測していました。実際には、「捨て石」にされた沖縄の犠牲の下、本土決戦はなかったので、「100万人」どころか本土では死者が「ゼロ」だったわけです。(「ゼロ」というのは、本土決戦によるものとしては、というだけです)。
この本を読んで驚いたのは、スターリンは、日本が無条件降伏しても、すぐにドイツのように軍事強国として日本はよみがえるだろうと予測していたというところです。一般のソ連国民にとって、ナチス・ドイツからは大勢の近親者を殺されたことから発奮したが、4年も中立を守った日本が相手では切迫感がなく、日ソ戦争はソ連国民が奮り立つ戦争ではなかった。ソ連国民は厭戦(えんせん)気分にあった。そこで、スターリンはソ連国民の士気を鼓舞するため日露戦争で敗れた復讐に見せるよう演出した。
スターリンは日本の復讐を恐れて4つの手を打った。第1は、日本の民主化の推進、第2は対日同盟網の構築、第3に南樺太(カラフト)と千島列島の併合、第4に元日本兵のシベリア抑留。
スターリンは北海道を占領しようとしたのをアメリカに阻止されたことからシベリア抑留を始めたという説がありますが、それはないと私は考えています。ソ連は独ソ戦で2700万人もの国民を失って、労働力が不足していたのです。荒れ果てた国土の復興にドイツ兵捕虜を使いはじめ、それに味をしめて日本兵も使いはじめたというのが、もっともありうるところだと私は思います。
ただ、そのとき、ポーランドの将校3万人をスターリンのソ連軍が虐殺した「カチンの森事件」のように、元日本兵の将校たちも抹殺される危険があったのです。スターリンがその気にならなかったのは幸いでした。まあ、それほど、復興のニーズが差し迫っていたのでしょう。
スターリンは満州にあった工場の機械やあらゆる機材をソ連領に運び去りました。そして、この本では、武器は中国共産党に渡したとされていますが、実はスターリンは中国共産党を信用しておらず、むしろ蔣介石の国民党を信頼して、武器もこちらに渡そうとしていたのです。ところが、腐敗した国民党軍がやる気もなくモタモタしているうちに、ハツラツとした中国共産党軍(「八路」、パーロ)が先に「満州」を占領してしまったことから、日本軍の武器の大半は八路軍(パーロ)に渡ったということです。
大変興味深い内容で一杯の新書でした。
(2024年5月刊。980円+税)
2024年6月26日
治安維持法小史
(霧山昴)
著者 奥平 康弘 、 出版 岩波現代文庫
治安維持法は1925(大正14)年に制定された。そして1928(昭和3)年に、緊急勅令で大きく改正された。このとき、「死刑または無期」とされ、「目的遂行罪」が導入された。
警察犯処罰例の浮浪罪(徘徊罪)、そして行政執行法の予防検束が治安維持法と一体として運用された。
容疑者を逮捕するけれど、起訴して裁判にかけるという正式手続きには進めず、身柄を拘束し続けるといいうのが圧倒的に多かった。したがって、治安維持法は刑事法というより、検察や警察にとっての行政運営法とでもいうべきものだった。
ということは、治安維持法によって、何人が起訴されたかというのは氷山の一角にすぎないことになって、その数字で状況が分かったつもりになってはいけないということです。
さらに、特高・内務官僚という伝統的な権力者とならんで、思想検察という新しい名を冠した司法官僚が登場し、決定的に重要な担い手になった。
1941年に全面改訂された新しい治安維持法は、第一審判決に控訴を認めず、上告しかできないとした。三審制ではなく、二審制としたということ。
さらに、予防拘禁制度が導入された。非転向者が出所してきたときの「再犯」の可能性を当局は心配した。そこで、非転向者については、刑期満了しても「再犯」の可能性ありとして拘禁し続けられるようにした。
企画院事件は、治安維持法というのは、権力者が政治目的をもって利用しようと思えば、いかようにでも利用できる、便利な法律だった。
治安維持法の怖さをひしひしと感じることができました。
(2017年6月刊。1360円+税)
2024年6月25日
銀座ハイカラ女性史
(霧山昴)
著者 野口 孝一 、 出版 平凡社
亡父は1927(昭和2)年に17歳のとき上京し、逓信省で働きながら法政大学(夜間)に学び、やがて昼の法文学部法律学科に入って、1933(昭和8)年に高文司法科試験を受けました(不合格)。NHK朝ドラ「虎に翼」の寅子が合格したのは5年後(1938年)です。
亡父の7年あまりの東京での生活がどんなものだったのかを調べ、文章化しているところなので、銀座で女性がどんな仕事をし、服装をしていたのかを知りたくて、本書を読みすすめました。
まずは服装です。昭和の初めは、洋装よりも和服姿のほうが多かったのでした。1929(昭和4)年7月の銀座を歩いている女性は和服の女性10人に対して洋装が5人でした。すると、これは髪型にもつながります。女性が断髪するというのには、当時、大変な勇気が必要でした。1929(昭和4)年ころは過渡期です。路上で「亡国の髪」だとして水をかけられたり、髪を勝手にほぐされたりしました。とんでもない状況ですよね...。
1927(昭和2)年、銀座に「ハリウッド美容室」がオープンし、1930(昭和5)年には、「吉行あぐり美容室」が開設されました。1928(昭和3)年3月号の雑誌「女性」は「断髪物語」として断髪している各界の女性の経験談を特集した。
銀座といえば「銀ブラ」にはカフェーが欠かせません。銀座のカフェーの全盛期は1930(昭和5)年ころ。インテリや文士向けの「サロン春」は1929(昭和4)年11月に文士の社交場である交詢社ビルの1階に開店。この「サロン春」には1932年5月に起きた五・一五事件で危く青年将校たちに襲われかねなかったチャーリー・チャップリンが大相撲を見物したあと、夜にやって来ています。そして、1930年から1931年にかけて、関西系の大衆的カフェーが銀座に相次いでオープンしたのです。美人座、ゴンドラ、日輪、そして赤玉などです。
カフェーにつとめる女給は主としてチップを収入源としていて、業界一の稼ぎ頭(サイセリヤの大川京子)は、なんと月に580円を稼いだとのこと。すべてチップ収入。平均200円が相場だったので、破格の稼ぎです。
銀座の一角には花柳街(花街)があった。私は、その場所がどこかは分かりません。
政府高官は新橋芸妓を妻としたり、妾としていた。
伊藤博文と梅子、山県有朋と貞子、陸奥宗光とおりゅう、原敬と朝子、板垣退助と子清(しせい)、西園寺公望と房子、桂太郎とお鯉です。
銀座に生きる女性たちの生きざまを少しばかり知ることができました。
(2024年3月刊。3600円+税)
2024年6月24日
裁判官・三淵嘉子の生涯
(霧山昴)
著者 伊多波 碧 、 出版 潮文庫
NHKの朝ドラ「虎に翼」が、目下、大変な話題になっています。といっても、私はテレビはみませんし、このドラマをみるつもりもありません。
でも、このドラマの背景となっている昭和の初めの日本と東京には、大いに関心があります。私にとって、NHKの朝ドラは、なんといっても、「おはなはん」。樫山文枝の演じる「おはなはん」のほっこりとした笑顔には高校生のころ、本当に心が癒されていました。
そして、この朝ドラの主人公の寅子(ともこと呼ぶんですね。とらこ、とばかり思っていました)が高文司法科試験に合格したのは1938(昭和13)年のこと。私の父は、その5年前、法政大学の学生でしたが、同じく司法科試験を受けたのです(あえなく不合格。1回でやめました)。父は弱冠17歳のとき、1927(昭和2)年に大川市から上京して東京で7年間ほど生活しました。そのころの社会状況を調べはじめたところに、この4月からほとんど同じ時期に焦点をあてた朝ドラが始まったのですから、注目しないわけにはいきませんでした。
当時の司法科試験がどんなものだったか調べようとして苦労していたところ、後輩の弁護士(杉垣朋子弁護士)がインターネットで探しあててくれました。私の時代にあった『受験新報』の戦前版の『國家試験』という雑誌です。今では、居ながらにして国立国会図書館のコピーサービスを利用することができます。それによって、父が受験した司法科試験のスケジュール、そして試験問題がおよそ判明しました。
父は一次のペーパーテストで合格できませんでしたので口述試験を受験していませんが、口述試験の詳細な体験談も、この『國家試験』には再現されています。
この本に「全豹一般(ぜんぴょういっぱん)」という見慣れない用語が登場します。物事のごく一部を見て、全体を批評すること、だそうです。なるほど、私もしばしば陥る間違いです・・・。
1938年に寅子は司法科試験に合格しましたが、そのころ女性には参政権がなかったことを忘れてはいけません。女性は裁判官になれないという前に、参政権がなかったのです。つまり、女性は政治を語るほどの能力はないとされていたわけです。とんでもないことです。ところが、今は、どうですか・・・。男も女も投票所に足を運ぶのはせいぜい有権者の半分もいません。先日、沖縄の県会議員選挙で、デニー知事を支える「オール沖縄」が議席を減らしましたが、このときだって投票率は5割に達していません。裁判所が下から上まで、政府にタテついても勝たせてあげないよという判決を出し続けているなかで、あきらめ、絶望感が広く、深く浸透しています。それでも、めげずに、ひどいことはひどいと声をあげるしかありません。何千万円の裏金をふところにしておいて、税金が課されないなんて、おかしいでしょう。法改正といいつつも、領収書が公開されるのは10年後だというのです。10年後に、今の議員が生きていますか。維新はないでしょうし、自民党も公明党も10年後に果たしてあるでしょうか。
この本はテレビのストーリーも下敷きにして書かれた小説(フィクション)です。まったく商魂たくましいですね。感服します。3ヶ月で5刷りというのもすごいです。
(2024年6月刊。880円+税)
2024年6月 2日
芥川龍之介
(霧山昴)
著者 関口 安義(編集) 、 出版 新潮社
新潮日本文学アルバムの1冊です。前から本棚にあったものを引っぱり出しました。
さすがの天才です。早くも小学生のとき、同級生とともに回覧雑誌を始めています。たいしたものです。そのころ、漢詩・漢文も学んでいて、素読に励んでいました。10歳のころからは、英語と漢学を学んでいます。英語はナショナル・リーダーを、漢学は日本外史をテキストにしています。いやはや、とんでもない早熟さですよね。
中学生のときも回覧雑誌を発行していて、「我輩も犬である」を書いたというのです。そして、「義仲論」を書いて活字になっています。
「彼の一生は失敗の一生也...。しかれども彼の生涯は男らしき生涯なり」
芥川龍之介が「鼻」を発表すると、それを読んだ夏目漱石から激賞されます。
「大変面白いと思います」
「上品な趣があります」
「文章が要領を得て、よく整っています」
ところが、若くして文壇に出現した芥川龍之介をねたんで、酷評・妄評、そして嫉妬評につきまとわれ、「芥川を批判したら一流」とまでの風評があったのでした。
どこの世界でも、出る杭は打たれるというのですね。しかし、芥川の偉いところは、そんな評言を読むたびに次作で彼らを見返そうと、厖大な執筆エネルギーを得て、さらに小説を書き上げていったことです。すごいものです。
芥川龍之介は、「桃太郎」伝説を読み替えました。
「鬼」たちは平和を愛し、安穏に島で暮らしていたのです。誰に迷惑をかけるでもなく、踊りを踊ったり、古代詩人の詩を歌ったりして、妻や娘たちと一緒に平和に生活していました。
そこへ、何の理由もなく桃太郎たちは攻め入り、「進め、進め。鬼という鬼は見つけ次第、一匹も残らず殺してしまえ」と、日の丸の扇を打ち握り、犬猿雉の3匹を引き連れて鬼を殺してまわったのでした。
これは、まさしく帝国主義日本の戯画です。芥川龍之介は、戦前の日本で桃太郎に軍国主義の権化を見たのです。この芥川による「桃太郎」は、1924年7月1日号の「サンデー毎日」に発表されたものです。まさしく大正末期ですが、軍国主義が強まっている状況でもありました。芥川の状況認識(歴史認識)は、見事に的確なものでした。いやあ、さすがですよね。
1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のとき、31歳の芥川龍之介は田端の自宅付近で自警団に加わり、朝鮮人狩りを目撃しました。そして、「侏儒の言葉」のなかに、「我々は互に憐(あわれ)まなければならない。いはんや殺戮(さつりく)を喜ぶなどは...。相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手軽である」と書いています。芥川龍之介は朝鮮人迫害を厳しく告発しているのです。
芥川龍之介は1927(昭和2)年7月に大量の睡眠薬を飲んで自殺しました(35歳)が、その3ヶ月前にも妻の友人と帝国ホテルで心中しようとしたというのです。驚きました。
「唯ぼんやりした不安」と遺書に書いて自死を選んだ天才作家の心中は、なかなか理解しがたいものがあります。いま、昭和初期の日本の状況を調べていますので、そのなかで登場する芥川龍之介について、少し紹介しました。
(1983年10月刊。980円)
2024年5月26日
「チャップリンが日本を走った」
(霧山昴)
著者 千葉 伸夫 、 出版 青蛙房
チャップリンは1932年5月に日本にやってきました。
5.15事件で首相官邸を襲撃し、犬養毅首相を殺害した青年将校たちは、首相官邸でのチャップリン歓迎会を襲撃する計画だったのですが、予定が変更となり、チャップリンは無事だったのです。本書も踏まえて少し詳しく紹介します。
5月14日 アメリカから有名な俳優チャップリンが来日した。
チャップリンの秘書は高野虎市(チャップリンからは「コーノ」と呼ばれていた)という日本人で、チャップリンはとても気に入っていて、チャップリンの邸宅の世話も日本人チームにまかせるほどだった。チャップリンは神戸から東京に向かった。昼12時25分に神戸発の特急列車「燕」に乗って東京入りする。夜9時20分に東京駅に着いたとき、チャップリンを一目でも見ようと4万人もの大群衆が東京駅の内外を取り囲んだ。入場券だけでも8000枚が発行されていて、警官300人が警備にあたった。
これほどのチャップリンの大歓迎については、「暗い世相を吹き飛ばしたくて鬱屈(うっくつ)した民衆が起こした大嵐」だと評されている。
このチャップリンを暗殺しようと考えた集団がいた。五・一五事件を起こした青年将校たちだ。日曜日(15日)夕方から首相官邸でチャップリン歓迎会が開催されると新聞で報じられた。そこを襲撃しようというのだ。その狙いは、第一に日本の支配階級が多数集まるだろうから、攻撃対象として最適だということ、第二にアメリカの有名俳優を攻撃することによって日米関係を困難なものにして人心の動揺を起こし、それによって革命の進展を促進することができる。青年将校たちは、そう考えた。ところが、来日する直前の報道でチャップリンは熱病にかかって入院し、来日が遅れるという。首相官邸を襲うのは警備の手薄な日曜日でなければいけない。それで、チャップリン歓迎会が15日に開かれないのなら、それはあきらめ、ともかく15日に首相官邸を襲撃することは変えないこととした。
チャップリンの予定はさらに変更になり、当初の予定どおり15日夕方から歓迎会を首相官邸で開くことになった。ところが、チャップリンの気が変わり、歓迎会は17日に先のばしにして、15日は国技館へ大相撲を見物に行くことになった。
チャップリンは15日の午後から国技館へ大相撲を見に行った。そして、夜は銀座のカフェ-「サロン春」に行って楽しんだ。
夕方5時半すぎ、首相官邸に青年将校たちが強引に押し入った。海軍の青年将校と陸軍士官学校の生徒から成る一団だ。陸軍の青年将校たちは、意見の相違から加わっていない。
首相官邸にいた犬養首相の家族は異変に気がつくと、直ちに避難するように勧めた。この時点では、その可能性はあった。しかし、犬養首相は、「私は逃げない。そいつたちに会おう。会って話せば分かる」と言って、12畳の客間に入り、椅子に腰かけて軍人たちを待った。
そこへ将校たち9人が入ってきて犬養首相を取り囲んだ。犬養首相が何か話そうとすると、将校の1人が「問答無用、撃て!」と叫んだ。立って卓に両手をついている犬養首相に向かって拳銃が発射された。しかも9発も...。犬養首相(78歳)はその場で死亡した(五・一五事件)。このとき、青年将校たちは同時に警視庁と政友会本部にも乱入している。
「話せば分かる」と言って将校たちと対話しようとした丸腰の首相に対して、軍人たちが「問答無用」と叫んで拳銃を乱射して殺害するというのは、あまりにむごい話です。
それにしても、五・一五事件のとき、チャップリンが狙われていたとは驚きです。
(1992年11月刊。2300円)
2024年5月25日
救援会小史(前編)
(霧山昴)
著者 日本国民救援会 、 出版 左同
戦前の暗黒裁判の実情が明らかにされています。
1932(昭和7)年の朝鮮共産党事件について、東京で活躍していた谷村直雄弁護士(故人)が紹介しています。
公判は、一人ずつの文字どおりの分離・暗黒(非公開)裁判。法廷は広い東京地裁の陪審法廷。地下監房から、法廷の床に設置された蓋板を押し上げて一人ずつ出てくる。被告人が分離・暗黒裁判に抗議すると、神垣秀介裁判長は即座に発言禁止を申し渡す。それでも被告人が発言を続けると、直ちに「退廷」を命じ、看守数人が有無を言わさず、地下監房へ連れ戻す。一人が1分もかからないほど、次々に「発言禁止」、「退廷」の連続。
弁護人として、たまりかねて神垣裁判長に対して、「もっと裁判らしく進行されたい」と抗議すると、神垣裁判長は、怒気を含んでこう言った。
「弁護人は、当裁判所が無慈悲で不親切だ、とでも言うのですか」
そして、谷村弁護人が何か言うと、被告人に対してと同じく、「発言中止」とし、さらに「退廷」を命じた。
この神垣判事は、意識的重刑主義というのであろうか、検事の求刑より重い判決を平気で言い渡すので有名だった。
私は体験したことがありませんが、求刑より重い判決を言い渡す裁判官は今でもいます。しかし、神垣判事は治安維持法違反被告事件について、意識的に求刑以上の刑を言い渡していたのだと思います。「アカ」を撲滅するのが裁判所の使命だと心底から勘違いしていたのでしょう。
古い冊子(新書版)を本棚の隅からひっぱり出してみました。貴重な記録になっています。
(1970年7月刊。250円)
2024年5月24日
「穂積重遠」
(霧山昴)
著者 大村 敦志 、 出版 ミネルヴァ書房
NHKの朝ドラ「寅に翼」が話題を呼んでいますね。穂積重遠のモデルも登場していますが、穂積重遠は帝大セツルに深く関わっていました。
東京帝大セツルは、1923(大正12)年9月1日に起きた関東大震災のときに活躍した学生救護団を母体として、1928(昭和37)年に発足した。
高名な東大教授である末弘厳太郎と穂積重遠教授が発足以来、関わっている。二人とも東京帝大法学部長を重任するほどの大物。
セツルメントは、下層庶民社会の矛盾を法的紛争を通じてつかみうる貴重な観察と究明の場として設立が呼びかけられた。法学部生による法律相談部だけではなく、労働学校(講座)や幼児を対象とする活動なども展開した。
法律相談部で扱うのは、借地借家事件をはじめとする民事相談が大部分を占める。
セツルメントハウスのあるあたりは大雨が降ると道路と溝の区別がつかなくなるほど一面、水に覆われてしまうので危ない。雨が降ったときは両教授ともゴム長靴をはいてセツルメントハウスに通ったが、あまりの大雨のため途中で教授が引き返したということもある。
法律相談の日は週に2回、夜にある。穂積教授が火曜日、我妻教授が金曜日と分担していた。
法律相談に関わった学者には、川島武宜、舟橋諄一、杉之原舜一などの助教授たちもいる。また、学生セツラーのなかには、馬場義続(戦後、検事総長)など、官側で出世した人も少なくない。さらに、原嘉道弁護士や小野清一郎教授なども帝大セツルの顧問だった。
宮内府や東京府・市そして三井報恩会からも帝大セツルは経済的に支援されていたが、これには穂積重遠男爵の関与が大きい。
この柳島地区は、まさしく貧民衛であり、世帯の平均年収は、月に46円から42円、そして37円と、年々低下していった欠食児童や栄養不良児童も多い。お金に余裕がないため、毎日の飯米も1升買いする家庭が多い。男たちのほうは、3日に1度しか仕事にありつけないということもしばしばだった。
セツルメント法律相談部は、①知識の分与と困難の救済、②生きた法の姿の認識、③事態の分析・整理・法律適用の実地演習を目標として掲げた。
セツルメントの学生のなかには共産主義思想に共鳴する者も少なくなく、1931年7月、セツルメントハウスに「帝国主義戦争反対」と書いた大きな垂れ幕が掲げられた。
そんなこともあって、セツルはアカではないか、アカの巣窟(そうくつ)になっているのではないかという、疑いの目で見る当局の目は厳しくなるばかりだった。
1932年、鳩山一郎・法務大臣が自ら柳島のセツルメントハウスを非公式に訪問した。このときは穂積教授がつきっきりで案内した。また、1934年2月には我妻教授が妻とともにセツルメントを参観した。いずれも、セツルメントの「安全性」をアピールするためのものだった。
ついに1938年5月、帝大セツルメントの責任者に警視庁特高部が出頭を命じ、安倍源基特高部長が直々に取り調べた。そして、同年4月、帝大セツルメントは閉鎖された。
穂積教授は帝大セツルメントが解散したとき、セツラーとして活動してきた学生に向かって、「自分が上に立っていながら、潰してしまうとは、何とも申し訳ない」と頭を下げた。そして、「セツルメントは永久に生きている」と付け足した。
閉鎖にあたって、法律相談部に保管されていた貴重な相談記録は、我妻教授の所有するダットサン(車)に積み込まれ、穂積邸に届けられた。今も、製本された記録が東大法学部の教授室に保管されている。
私も戦後に再建された学生セツルメントのセツラーでした(川崎市幸区古市場)。
(2013年4月刊。3500円)
2024年5月21日
後期日中戦争・華北戦線
(霧山昴)
著者 広中 一成 、 出版 角川新書
自衛隊の幹部が今もなお「大東亜戦争」と呼んでいるのを知って、思わずひっくり返りそうになりました。「大東亜」って、一体、何のことですか...。
日本は朝鮮を植民地として支配し、満州も間接的に統治して、悪名高い七三一部隊を置いて人体実験を繰り返しました。そして中国大陸で日本軍は「三光作戦」をあくことなく強引にすすめました。焼き尽くし、奪い尽くし、殺し尽くすというのです。そんな悪虐非道の軍隊に民心がなびくはずもありません。日本軍が中国大陸で戦争に勝てなかったのは当然なのです。
日本は中国で点と線だけを支配していましたから、周囲を取り囲まれて全滅する拠点が生まれるのは必至です。
いやいや、太平洋方面とは違って、日本軍は中国大陸に何十万人もの軍隊を敗戦時まで常駐させていたのだから、決して日本は中国に負けてなんかいなかったんだと今なお強弁する人がいます。とんでもない間違いです。
たしかに、日本軍は上海から南京まで勝って前進しました。南京大虐殺はその過程で日本軍が犯した蛮行の一つですが、実のところ、それ以上は地上を前進することはできなかったのです。なので、上空から重慶を無差別爆撃しました。そのしっぺ返しが東京大空襲に始まる日本全土の都市への無差別爆弾攻撃であり、ヒロシマ・ナガサキへの原爆投下です。
1940年8月から12月まで、中国共産党の八路(はちろ)軍(「パーロ」と呼ばれます)は日本軍に果敢に攻撃をしかけました。八路軍の兵力は115個団・40万人です。八路軍も多大の犠牲を払いましたが、日本軍は3万人もの死傷者を出し、3千ヶ所の拠点を喪ったのでした。日本軍は、このときまで八路軍をまったくバカにしていたのでした。なので、不意打ちを喰ってしまったのです。
日本軍は深刻に反省して、八路軍についての認識をあらためました。日本軍の主任参謀は次のように報告しました。
「八路軍は単なる軍隊ではない。党、軍、官、民から成る組織体である。明確な使命感によって結合されているのであって、思想、軍事、政治、経済の諸施策を巧みに統合し、政治7分、軍事3分の配合で努力している。したがって、日本軍も軍事のみでは鎮圧できず、多元的複合施策を統合して発揮しなければならない」
しかし、日本軍がそのような多元的複合施策を展開できた(できる)はずもありません。
善良な日本人から成る、規律正しい日本軍が中国大陸で悪虐非道なことをするはずがない、そんなことをした証拠もないと今なお言いつのる日本人がいます。しかし、そんな人は単なる思い込みにすがっているに過ぎません。
今のイスラエルのガザ侵攻をみてください。すでに3万5千人以上の罪なきガザ市民が殺されています。一人ひとりのイスラエル軍兵士がいかに善良であっても軍隊となると、平気で大量人殺しをするのが戦争なのです。
「パーロ(八路軍)とともに」(花伝社)という本を書いた者として、後期日中戦争の実際を知りたいと思って読みました。ともかく、戦争だけはしてはいけません。岸田政権、それを支えている自民・公明党を支持していることは戦争を招き寄せているようなものだと、つくづく実感しています。
(2024年3月刊。960円+税)