弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦前)
2024年2月25日
戦後の特高官僚
(霧山昴)
著者 柳河瀬 精 、 出版 日本機関紙出版
戦前、特高警察が治安維持法なる悪法を武器として、心ある人々をさんざん拷問してきたことは広く知られています。しかし、彼らが戦後、実は罪に問われることがないどころか、立身出世を重ねていたことは、ほとんど知られていません。私も詳しいことは知りませんでした。
その典型は、作家の小林多喜二に対する拷問を直接手がけた中川成夫です。この中川成夫は、戦後、東映に入って取締役興行部長となり、「警視庁物語」シリーズに関わりました。そして、東京都北区で教育委員、ついには教育委員長に就任しています。信じられません。
特高警察官たちは国会議員になって国政を動かしました。増田甲子七、増原恵吉、ほかです。衆議院議員に29人、参議院議員に11人もいます。熊本県知事もつとめた寺本広作、東京知事選にも出た原文兵衛もそうです。
警察の中枢にも多くの特高官僚だった連中がのさばっています。そのなかには3人も警視総監になっています。
初代の警視庁特高部長であり、警視総監にもなった安倍源基は国家公安委員にもなっています。
共産党対策を専門とする公安調査庁にも、特高官僚たちが次々に採用されています。その数はあまりに多く、この本で6頁にわたって紹介されています。
防衛庁でもまた、その中枢に特高官僚たちが採用されました。悪法として有名な治安維持法によって投獄された犠牲者は十数万人にのぼり、警察の留置場で虐殺された人が80人、獄死した人は1617人。
いやあ、すごい本でした。丹念に地道に記録にあたって収集していてつくられた貴重な記録です。
読み終えたとき、その空恐ろしさに、思わず身がぶるっと震えてしまいました。どうぞご一読してみて下さい。
(2005年4月刊。1714円+税)
2024年2月23日
永遠の都1(夏の海辺)
(霧山昴)
著者 加賀 乙彦 、 出版 新潮文庫
1998(平成9)年5月に発刊された文庫です。この時代の雰囲気を知りたいと思って、ネットで注文しました。というのも、私の父は1927(昭和2)年4月、17歳のときに大川市から上京し、東京で苦学生を始めたのです。逓信省で働きながら法政大学の国語漢文科(夜間)に通いはじめました。そこを卒業し、法学部に移って、司法試験を受験しました(不合格)。合格したら何になるつもりだったのかと私が問うと、検察官がいいかなと思っていたとの答えが返ってきたので驚いてしまいました。なんで弁護士を目指さなかったのだろうと不思議に思ったのですが、その当時の社会状況を少し調べると、すぐに理由が分かりました。
弁護士が法廷で3.15や4.16で捕まった共産党員の弁護をすると、それ自体が治安維持法違反にひっかけられたのでした。布施辰治は東京弁護士会から除名されていますが、それは弁護士会による懲戒手続で決まったのではありません。裁判所に置かれた懲戒裁判所が除名相当と判断したのです。弁護士会は当時、裁判所検事局の監督下にあり、検事正が弁護士会の運営にまでいちいち口をはさんでいました。いやはや...、です。
この第1巻では陸軍省内での相沢中佐による永田鉄山少将の斬殺事件が話題になっています。それは陸軍対海軍の争いでもありました。主人公の父親の医師は、日本海海戦のとき従軍医師だったので、もちろん海軍派なのです。
この医師は、病院内で妾(めかけ)がいることを高言していました。妻は、そのことに大いに不満なのですが、離婚する気は夫婦ともありません。
上流階級で浮気・不倫があたり前に横行していた状況が、小説の大きな背景事情として語られています。
女は生活の保障のために結婚する。子どもを産み育てる単なる牝(めす)になる。すると、夫は女郎買いを始め、女は単なる牝に終わりたくないから恋人を探して不倫の関係を結ぶ。
こう断言したのは、帝大セツルメントで子ども会をしている夏江。すると、「何だか主義者みたい」と夏江は言われてしまうのでした。「主義者」とは、何らかの思想を持った人のことです。今なら高く評価されるはずのものが、危険思想の持ち主だと周囲からみられていたのでした。
著者は1929年生まれの精神科医師であり、作家です。戦前・戦後のセツルメント活動にも深く関わっていますので、同じくセツラーだった私にとっては大先輩にあたります。
(1998年5月刊。552円+税)
2024年2月22日
南京事件と新聞報道
(霧山昴)
著者 上丸 洋一 、 出版 朝日新聞出版
「東京にいると、いつの間にか、みんな聖戦という言葉の魔術にかかっていた。ところが、中国の現地に来てみると、戦場とは、殺人、強盗、強姦、放火...、あらゆる凶悪犯罪が集団的に行われている恐ろしいところだった」
これは、読売新聞上海支局の小俣行男記者が戦後(1967年)に出版した本で書いている文章です。
「いちど残虐な行為が始まると、自然に残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐(しぎゃく)的心理になるらしい。荷物を市民に運ばせて、用がすむと、『ご苦労さん』という代わりに射ち殺してしまう。不感症になっていて、そんなことには驚かない有り様だった」
これは、南京の日本大使館参事官だった日高信六郎の1966年に刊行された本のなかの文章。
大阪毎日新聞の記者・五島広作は中国へ従軍記者として出発する前に師団の情報参謀から次のように申し渡された(1937年7月末)。
「軍に不利な情報は、原則として一切書いてはいかん。戦地では、許された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は、即時、内地送還。記事は検閲が原則。軍機の秘密事項を書き送った奴は、戦時陸軍刑法で銃殺だ」
従軍記者の使命は何か...。架空の武勇伝を書くこと。つまり、神話づくりが従軍記者の任務だった。新聞記者は、事実をも真実をも伝えるものでなく、軍の発表にしたがって、国民を鼓舞する「ペンの兵士」であることが使命であった。
日本軍は上海戦で大変な苦戦をした。中国兵が予想外に強かったのです。中国の16歳から20歳までの青少年兵は、徹底した排(抗)日教育の結果、学生が銃をもって参戦している。最後の一兵まで一歩も退かず、銃剣で突き刺しても平然たるものだった。
祖国に対する非常な愛国心から、抗日の精神が強く教育されているので士気は日本軍に比べてはるかに高い。「支那(中国)軍は予想以上に非常に強い」。これが日本軍の現地上層部の共通認識だった。
日本軍の幹部は、新聞を読みながら戦争していた。記者の使命は、郷土出身の兵士と銃後の双方を励まして、国家に貢献すること、国策である戦争の遂行に役立つことだった。記者は、「報道報国」と呼び、自らを「報道戦士」と呼んだ。
武器をもたない中国民衆にとって、日の丸を掲げることは日本軍に襲われないための窮余の一策だった。敵意のないことを示して、せめて命だけは助かりたい、ということ。それを日本の新聞は、日本軍に都合よく、中国民衆が日本軍を歓迎している光景と読みかえて報道した。
ところが、現実には、そのような日の丸を掲げた中国人青年を日本軍は次々に殺害していった。こんなことをする「皇軍」が中国を永く支配できるはずもありません。
日本軍は、右手で「東洋平和」の大義を掲げ、左手で中国の村々を放火して焼いた。
中国の農民と兵士は、外見からは見分けがつかない。なので、怪しいと見れば、十分に確かめることなく、すべて殺した。
南京への途上、「百人斬り競争」をしていた向井敏明と野田毅は、戦後、南京で開かれた軍事法廷で裁かれ、1948年1月、死刑に処せられた。この2人が、実際に最前線で突撃して白兵戦の中で斬ったのは、せいぜい4人から5人。あとは、捕虜を並ばせておいて斬ったのがほとんど。これは、まさしく戦時刑法でも捕虜虐待にあたるもの。
戦後、作家として高名な石川達三は、1935年に芥川賞を受賞したあと、南京へ行き、日本に帰ってから「生きている兵隊」を書いた。これは中央公論1938年3月号に載せられ、すぐに発禁となった。そして、1938年9月、有罪判決(禁錮4ヶ月、執行猶予3年)を受けた。この本は戦後(1945年12月)に発刊されると、初版5万部を2ヶ月で売りつくした、まさにベストセラーとなった。それほど戦争の真実を知りたい日本人もいたわけです。
戦場に出向いて、戦争の実際を見聞しながらも、戦後になってからも沈然し続けた記者がほとんど。なぜなのか...。
「戦場のむごたらしさは妻や子には話せない。聞いたらショックでメシが食えなくなる」
「語りたくない、忘れたい。どうせ理解してもらえないなら、いっそ何も見えなかったことにしたい。そこにいなかったことにしたい。何も起きなかったことにしたい」
そして、「戦前の多くの知識人は、日本型ファシズムの体制には批判的であったが、始めた戦争には勝たなければならない。したがって、戦争努力には協力しなければならない、そう考えた」。これは、評論家の加藤周一の指摘です。
真実から目をふさいでいいはずがありません。それを「自虐史観」だなんて決めつけるのは大きな間違いです。それにしても、南京事件という日本軍の大虐殺をまだ疑っている人がいるようなのが、本当に残念です。
(2023年10月刊。2600円+税)
2024年1月30日
小畑哲雄が語る戦中・戦後の体験
(霧山昴)
著者 小畑 哲雄 、 出版 京都・114番平和委員会
95歳になっても反戦・平和のため自らの戦中・戦後の体験を話せるというのは実に素晴らしいことです。
1937(昭和12)年12月、日本軍は南京を占領しました。悪名高い南京大虐殺を日本軍が敢行したときのことです。このとき、日本では、南京が陥落したので、これで戦争は終わりだ、万々歳だとして提灯行列をして喜びました。著者は10歳でした。
日本軍が真珠湾を攻撃して開戦した12月8日は、日本で月曜日なので、アメリカ・ハワイは日曜日、安息日でみんな休んでいたところに日本は奇襲攻撃をかけたのです。
日本軍による南京攻略のとき、日本軍の若い将校2人が「百人斬り競争」というのをして、日本の新聞で連日、大きく報道されました。これは戦場で斬り込んでいって何十人も敵兵を斬ったというのではありません。すでに「捕虜」となっていた中国人(兵隊も民間人も)を並べて首を斬ったというものです。典型的な捕虜虐待ですから、国際法違反は明らかです。戦後、この2人は中国で戦犯として裁かれ、死刑になっています。
著者は陸軍経理学校に入ります。建前としては、日本の軍隊も私的制裁は禁止されていたそうです。初めて知りました。私的制裁が公認されているとばかり思っていました。ただ、なかには本当に私的制裁をしない上官もいたようです。
荒川さんという区隊長は、「指揮官は部下を殺したらいけない。その部下が、将来、将校になるかもしれない」「指揮官がしっかりしていなかったら、部下を殺すことになる。ようく考えて、やり方を間違えないようにしないと、組織を壊してしまう。部下を殺してしまう」と言って、著者を戒(いまし)めたそうです。この荒川さんはレーニンの本も読んでいたそうですから、たいしたものです。
この本を読んで、「召集」と「招集」の違いを認識しました。
「召集令状」というのは、召(め)し集めるもの。「招き集める」ものではない。
「注記」(ちゅうき)とは、兵隊になって一番先にすることは、全部の持ち物に自分の名前を書くこと。
「上衣(じょうい)」とは、上着のこと。
「一装」は、正式な儀式のときの制服。「二装」は儀式や外出のとき着るもの、「三装」は普段着。
8月15日の終戦を告げる玉音放送では、最後に、「朕(ちん)は、ここに国体を護持し得て」と続く。「国体」、つまり国の体制、天皇制はちゃんと残ることを日本国民に伝えた。これが一番の眼目だった。
いやあ、すごい講演録でした。高齢になっても自分の体験を客観的事実も踏まえて話せるというのは素晴らしいことです。
(2023年11月刊。500円+税)
2024年1月25日
ちっちゃな捕虜
(霧山昴)
著者 リーセ・クリステンセン 、 出版 高文研
第二次大戦中の日本軍の抑留所を生きのびたノルウェー人少女の話です。いったい北欧のノルウェー人がどうして日本軍の収容所にいたのか不思議でしたが、舞台がインドネシアだと分かって納得できました。日本軍はインドシナ半島を制圧したあとインドネシアまで占領したのです。それも他と同じように凶暴な圧制を敷いたのでした。
日本軍によって、ジャカルタ(当時はバタビア)に住んでいたノルウェー人一家である著者たちも「捕虜収容所」に入れられたのです。
日本軍がしたことは「点呼」(テンコー)で、まず人員確認。炎天下に飲まず食わずに並ばせ立たせておいても平気です。そして若い女性を見つけるとひっ立てて行き、小屋へ連れていきます。日本兵の慰安のためと言ってはばかりません。寝るところは不潔そのもの。ネズミがいて、ゴキブリがいて、蚊がいて...。そして、とにかく臭い。悪臭のなかでの生活。
食べ物もろくに与えられず、病気になっても薬なんか全然なし。
次々に死者が出て、外へ運び出し、山積み状態...。本当に、日本軍(皇軍と呼んでいました)って残虐なことをしたんですね。これでもか、これでもかって、読み進めるのが辛くなります。
日本軍が東南アジアの民衆のために解放してやったんだという言説がいかにインチキで、真実に反しているか、嫌というほど思い知らされます。
子どもたちのために秘密の教室が開かれ、そこで教えていた若い女性は日本軍に発見されると残虐なやり方で死に至ります。
著者は「天使の死」と名づけていますが、どんなに無念だったことでしょう。
著者はまだ10歳の、好奇心いっぱいの少女でした。よくぞ苛酷な「収容所」生活を生きのびたものです。生きるためには、少々の「泥棒」もしています。
日本敗戦でインドネシアに平和が戻ったかというと、簡単ではありませんでした。でも、そこはまだ少女には分かりません。そして、ノルウェーに無事に帰国したあと、両親の不仲は解消されず離婚に至ったことなど、戦争の傷跡はあとあとまで家族の心のうちに深く深く残っていたことが語られます。
そして、ドイツとは違って日本政府が責任を認めず、学校で侵略と虐殺の歴史的事実を教えていないことを厳しく糾弾しています。本当に、そのとおりです。
過去の事実をなかったことのようにしてしまうのは、将来また大きな間違いをする可能性があるということです。大軍拡予算がまかり通ろうとしている今、読まれるべき本の一つだと思いました。
(2023年10月刊。2700円+税)
2024年1月10日
ビルマ、絶望の戦場
(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版 岩波書店
史上最悪の無謀な作戦と言われているインパール作戦をふくむビルマ戦における日本軍の死者16万7000人の8割は、インパール作戦が中止された1944年7月以降に命を落としていた。
ところが、将兵を残して日本軍の最高幹部たちはいち早く飛行機に分乗してタイへ逃れていたのです。しかも、インパール作戦遂行にあたって強硬に作戦遂行を主張した張本人の田中新一ビルマ方面軍参謀長(中将)は、日本国内にまで無事帰還し、戦後も生き永らえて83歳で亡くなったのでした。こんなことって許されていいのでしょうか。疑問です。
イギリス軍は日本軍の指導者について、次のように的確に評価しました。
「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、肉体的勇気とは異なる、道徳的勇気の欠如にある。彼らは、自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がない」
いやはや、まったく図星ですよね。これって...。
田中参謀長は「強気一点張り」の観念偏を振りかざし、図上作戦を強行させた。「放漫非常識」な作戦だった。
「わしが全責任をもってやる、という能力と気迫」で押し切った。
作戦に不満を表明した師団長や参謀は次々に更迭(こうてつ)された。こんなに上層部が混乱していたら、勝てるものも勝てなくなりますよね。「気迫」の前に装備がまったく欠如していた。ですから、ひどすぎます。
さらにイギリス軍による日本軍の評価を紹介します。
「日本軍の強さは、個々の日本兵の精神にあった。日本兵は死ぬまで戦い続け、行進し続けた」
「日本軍は、計画がうまくいっている間は、アリのように非常で大胆。しかし、計画が狂うと、アリのように混乱し、立て直しに手間どって、元の計画にいつまでもしがみつくのが常だった」
久留米にいまもある高級料亭「萃香園(すいこうえん)」がビルマのラングーンに出店し、ビルマにいた日本軍の高級将校たち専用の娯楽施設になっていたというのは初耳でした。彼らは、この萃香園で「女と酒の逸楽」に浸っていたのです。「萃香園参謀」とまで呼ばれていたそうですから、勇ましく偉そうなのは口先だけだったわけです。
「久留米から100名、大牟田と福岡を合わせて約30名の芸者がビルマへと行った」「その芸者たちのほとんどは借金をかかえていた」
ビルマ方面軍の司令官だった木村兵太郎司令官は「東条の茶坊主」と陰口された将軍。東条が失脚したので、東京からビルマ方面軍にまわされたそうです。
日本軍とは何か、何だったのか、「皇軍」の実態を改めて問い直させてくる本です。一読をおすすめします。
(2023年7月刊。2200円+税)
2023年12月 5日
B-29の昭和史
(霧山昴)
著者 若林 宣 、 出版 ちくま新書
第二次大戦の末期、日本全土を焼け野原にしたのは、アメリカ軍による空襲です。そのときの爆撃機がB-29。日本を石器時代に戻してやると豪語していたカーチス・ルメイ将軍は、戦後、その「功績」を認められて、天皇から勲一等を授与してもらいました。当時も今も、アメリカのやることには一切タテつかない(つけない)という卑屈すぎる日本政府当局者の姿勢は不動です。
パレスチナにイスラエルが大々的に空襲をかけ、地上軍を侵攻させても、日本政府はアメリカの顔色をうかがうばかりで、イスラエルは戦争やめろという国連の決議に棄権してしまいました。涙が出るほど、情けないです。
B-29の開発は1940年初めに始まった。当初、B-29はトラブルの多発に悩まされた。とりわけ深刻だったのはエンジン。しばしば離陸時に火災を起こした。
1944年に入っても、作戦可能なB-29はそろわなかった。
B-29は全身30メートル、全幅43メートル、自重30トンという大きな機体。機内は高々度に備えて与圧される。機内の空気はエンジンの熱を利用して暖房できた。乗員は11人。爆撃搭載量は9トン。航続距離は5000キロメートルという超重爆撃機。
B-29の生産は、ボーイング社だけでなく、ベル社もマーチン社でもおこなわれた。その部品製造には自動車産業も加わり、アメリカ工業界あげての生産体制だった。
B-29の日本爆撃の初回は、1944年6月15日から16日の八幡製鉄所を目標とする北九州爆撃だ。アメリカ軍による日本東土空襲の始まりは1942(昭和17)年4月18日の「ドゥーリットル空襲」。このときは、B-29ではなく、B-25爆撃機。このとき、B-25が16機やってきて、空襲によって日本人50人以上が死亡している。
高々度を飛んでくるB-29に対して、日本軍の戦闘機はまるで歯が立たなかった。
1945年8月15日、日本が敗戦したことを告げた直後、大阪と福岡では捕虜殺害が始まった。
1945年8月10日、福岡市内の油山で逃げなかった捕虜8人を処刑した。うち5人は斬首により、残る2人も空手の技を試されたあと、斬首。そして、8月15日の午後、玉音遊送のあと、捕虜17人の残りを油山で処刑した。
1950年代に入ると、さしものB-29は次第に旧式化した。
当時3歳くらいだった姉は夜にB-29が焼い弾を投下するのを見上げて「きれいかねー」と叫んだといいます。夜空の花火ならいいのですが...。
B-29は、まさしく「空の要塞」であり、日本全土を焼き尽くしていったのでした。
今、ガザ地区はどうなっているのでしょうか。毎日、心が痛みます。
(2023年6月刊。980円+税)
2023年12月 1日
飴売り具学永
(霧山昴)
著者 キム・ジョンス(文)、ハン・ジョン(絵) 、 出版 展望社
関東大震災で日本人民衆に虐殺された朝鮮人青年の物語です。このとき数千人の朝鮮人が虐殺されましたが、この具学永(ク・ハギョン)は名前と年齢が判明していて、虐殺されたあとまもなく日本人によって墓も建立されたのでした。
そんな例は他になく、唯一人のようです。
事件発生から80年後、今から20年前、2003年、日弁連(日本弁護士連合会)は日本政府に次のとおり勧告した。
「国は、関東大震災直後の朝鮮人・中国人に対する虐殺事件に関し、軍隊による虐殺の被害者・遺族および虚偽の伝達など国の行為に誘発された自警団による虐殺の被害者・遺族に対し、その責任を認め、謝罪すべきである」
残念なことに、日本政府は責任を認めることも謝罪することもありませんでした。それどころか、松野官房長官は確認できる記録がないなどと平然とウソの答弁をして開き直りました。東京都の小池都知事も同じです。自分に都合の悪い事実は認めず、シラを切って通そうとするのが、この国のトップ政治家です。ある意味で、戦前の大本営発表と共通していて、怖いと思います。
大震災のあと、恐ろしい内容の流言飛語(デマ)を飛ばしたのは、ほかならぬ政府当局でした。9月3日、大震災の2日後のことです。東京の内務省から埼玉県に電報が届きました。
「東京で不逞(ふてい)鮮人の不穏な動きがある。当局者は非常事態に際して適切な方策を講ぜよ」
こんな内容です。政府が公文書で指示するのですから、多くの日本人が信じたのは無理がありません。すぐに自警団が組織され、検問が始まります。「15円50銭」と言わせて、発音がおかしいと朝鮮人だとして、警察署に収容されました。
警察署長が、「不逞鮮人ではない」と言っても、300人近くにふくれあがった日本人の自警団員たちは警察署の中に押し入り、留置場にいたク・ハギョンを竹槍と日本刀で襲いかかって惨殺してしまったのでした。
ク・ハギョンの体には62ヶ所もの刺傷がありました。ひどいものです。いくら狂気の集団とはいえ、ひどすぎます。何の罪もない、無抵抗の人をよってたかって刺殺してしまうとは...。
ク・ハギョンと仲の良かった日本人青年(宮沢菊次郎)がお寺に墓碑を建ててくれるように頼んだのです。墓碑には、ク・ハギョンの故郷の住所、殺害された年月日と、28歳という年齢も刻まれ、今も埼玉の正樹院にあります。
わずか110頁の本です。よく出来た絵によって、視覚的にも分かりやすくなっています。ぜひ、あなたも手にとって読んでみてください。
(2022年4月刊。1650円)
2023年11月28日
関東大震災と民衆犯罪
(霧山昴)
著者 佐藤 冬樹 、 出版 筑摩選書
関東大震災のあと、官製のデマ(内務省つまり国が意図的に嘘と分かってデマを大々的に流しました)に踊らされた日本人民衆が無差別に朝鮮人など(中国人もいて、日本人の社会主義者なども含まれます)を大虐殺していった大惨事の内情を明らかにした本です。
官製デマを発信した国の責任、そして、それを無批判に受け入れてタレ流したマスコミの責任を鋭く告発していますが、同時に、それに乗って狂気の無差別大量殺人を敢行した日本人民衆の責任も追及している本でもあります。
この大虐殺事件について、殺人罪などで640人の日本人が起訴され、ほとんどが有罪となった。その被害者は「400人」以上。しかし、司法当局は大量殺人事件なのに、その捜査に熱心ではなかったし、犯人全員を検挙したわけでもない。民衆を刺激したくなかったからだ。
数百いや数千人の日本人民衆が警察署に押しかけ(30件)、そのうち11件では警察署内に乱入してまで留置場内に保護されていた朝鮮人を虐殺(竹槍や日本刀でなぶり殺し)した。
朝鮮人虐殺を生み出したのは、警察だと名乗る自動車が「朝鮮人200名が押しかけてきて町を焼き払おうとしているから、それに備え、警戒しろ」と呼びかけたことにある。
警察(正力松太郎)は、そんな事実はないことを確かめたうえで、このデマを「あっちこっちで触れてくれ」と新聞記者に頼んでまわった。デマと虐殺の拡散において、警察と新聞各社は共犯関係にある。恐怖と不安に取りつかれた民衆は男も女も凶暴そのものと化した。
警察がデマを承知で広めたのは、このころ朝鮮独立運動が活発になって、日本が朝鮮を植民地としての支配を続けられるのか心配していたから。
朝鮮人虐殺を敢行した日本人民衆は、「善良な国民(日本人)」だった。その職業は多種多校であって、下層民衆ではなかった。中間層か、それ以上の階層の人々も少なくなかった。
民衆による朝鮮人大虐殺が進行するなか、9月6日、治安当局は、ようやく朝鮮人の殺害を犯罪だと明言した。
そして、あとでは、民衆による虐殺はあったし、それは逮捕・起訴して、刑事上の責任は裁判と対象となった(ほとんどが有罪となったものの、早々に刑務所から釈放された)。
関東周辺で結成された自警団は、3700団、平均人数65人だったので、少なくとも70万人の武装民兵が組織された。自警団の中核は消防団員だった。関東の自警団員の6割以上は、消防団員だった。自警団は、人事前でも経営面でも公営団体だ。
自警団による朝鮮人虐殺(犯罪)の4つの特徴...。
その1は、徹底した攻撃性。武器を何一つ持たず、無抵抗の人々を殺し続けた。
その2は、性別も年齢も問わず、朝鮮人すべてを襲撃した無差別性。乳幼児や妊娠中の女性さえ惨殺した。
その3は、警察への反発。警察署まで襲撃した。
その4は、群衆による犯罪。
自警団にとって、朝鮮人は、震火災にともなう、あらゆる災厄の源だった。
日本人が自警団によって殺害されたのは、無差別殺人にともなう、必然だった。
警察、そして国は、朝鮮人虐殺事件の責任一切を住民と自警団に押しつけた。マスコミも、それを受け入れて大々的に報道した。
日本人被害者の7割は、工場や会社、警察、軍隊に属する人々だった。農民や漁民はまったくいない。
善良な民衆が、ある日突然、凶暴な犯罪集団と化し、そのおかした犯罪について弁解し、合理化し、隠匿し、ひいてはそんなものはなかったとまで開き直ってしまったのです。デマって、本当に恐いですよね。
(2023年8月刊。1800円+税)
晩秋の候となり、紅葉が美しく見頃です。先日、上京したとき日比谷公園のイチョウが実に見事なので、つい見とれてしまいました。
庭にフジバカマを追加して植えました。アサギマダラが来てくれることをひたすら願っています。
庭で掘り上げたサツマイモを2週間たったので、オーブンで焼いて食べました。小ぶりなのですが、ほどよい甘さのものもあり、法律事務所に持参して、所員のみなさんに持って帰ってもらうことにしました。
報道によると熊本に新しく立地する台湾の半導体メーカーに国は1兆円も投下するそうです。でも、肝心な部品の生産は台湾でするので、日本へ技術移転することはないそうです。日本の司法予算は3222億円なのです。その3倍も民間企業にくれてやるとは...。地下水汚染も心配です。
2023年11月 3日
森と魚と激戦地
(霧山昴)
著者 清水 靖子 、 出版 三省堂書店
太平洋の島々で、日本軍がとても非道な残虐行為を繰り返していたことを知り、身震いする思いでした。
1943年10月28日、ブーゲンビル島ブインの第8艦隊司令部は436人もの捕虜を銃殺してしまった。これを目撃した日本人兵士(福山孝之氏)が、戦後、戦火のなかでつけていた日記をもとに『ソロモン戦記』を出版して明らかにしている。
同じ1943年10月には、ウェーク島でも日本軍はアメリカ軍の来襲を受けたとき、民間人捕虜98人を銃殺した。
1945年8月15日の日本敗戦のあと、8月17日、日本軍はオーシャン(バナバ)島でバナバ人160人を全員殺害した。
1943年3月、トラック諸島のデュフロン島で、アメリカ軍の潜水艦の乗組員たち50人ほどを捕虜とし、生体実験の対象とした。第4海軍病院で、病院長の岩波浩軍医大佐の主導する生体実験だった。銃剣で突き刺し、最後に日本刀で斬首させた。この事件では、グアム戦犯裁判で岩波病院長には死刑が宣告され、1949年1月に絞首刑が執行された。
1943年3月、ニューアイルランド島ケビアン沖の駆逐艦「秋風」船上でドイツ人宣教師など62人を日本軍は集団処刑した(秋風事件)。この事件は、戦後、横浜での軍事法廷にかけられたが、「秋風」が南東方面艦隊の指揮下にあったことが明らかとなって、「無罪」とされた。極東軍事法廷も十分な審理を尽くせなかったようですが、その有力な要因は、日本の復員局が裁判対策を尽くしていたからとのこと。
1944年7月14日、ニューギニア本島のティンブンケ村で男性99人、女性1人の村民が集団虐殺された。
日本軍はラバウルを10万人もの兵(海軍3万、陸軍7万)で占領していた。このとき、日本軍は各地に「慰安所」を設立した。陸軍省はコンドームを1941年だけで第17軍に334万個、南海支隊に4万個を配布した。修道院も慰安所として使った。朝鮮人女性が200人から300人もすし詰めに入れられていた。日本人女性も1棟に20人ほどで8棟あった。
軍医が検査すると、90%の女性が性病をもっていた。女性は1人あたり1日平均で40人の兵士の相手をさせられた。1日で80人から90人という女性までいた。兵士たちは、上官から「死ぬ前に慰安所に行っとけ」と命令されていた。
この本には、戦後の日本が日商岩井などの総合商社によってパプアニューギニアの豊かな森を大々的な伐採によって荒廃させていった事実も告発しています。
気の滅入る話が綿々と続くので、読み終えたとき、たまらない疲労感がありました。
(2023年6月刊。2970円)