弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦前)

2024年3月23日

『国家試験』


(霧山昴)
著者 国家試験編集部 、 出版 育成洞

 私の亡父は法政大学法文学部法律学科の学生のころ、高等文官司法科試験を1回だけ受験しました(残念ながら不合格)。1933(昭和8)年6月のことです。このときの合格者には川島武宜教授(民法)がいます。
 いま、亡父の足取りを調べていますので、このころの司法科試験は何月に、どこで、どんな問題が出題されていたのか、口述試験はあったのか、知りたかったのです。
受験雑誌があったらしいことを知って、ネットで検索してみました。すると、出てきたのが、この雑誌です。今は、国立国会図書館にわざわざ行かなくても、いながらにしてコピーサービスを注文して利用することができます。本当に便利な世の中になりました。
今度、NHKの朝ドラの主人公になる三淵嘉子の伝記によると、当時の試験会場として貴族院も使われていたというのですが、1933年の試験会場は今のところは判明していません。それでも、6月末ころ、1日2科目の4日間ということは分かりました。試験科目は私のとき(1972年5~9月)とほぼ同じです。憲・民・刑に商法、民訴か刑訴、そして選択科目2科目(私は社会政策と労働法でした)。
論文式はどうやら事例式ではなく、抽象的な一問を論じる形式のものだったようです。
論文式を無事にパス(合格)したら、口述試験です。これも私のときと同じです。この受験雑誌には口述試験の状況を再現した合格体験記も載せられています。私のときには『受験新報』が花盛りでしたが、この雑誌にも詳細な口述試験の問答が紹介されています。
このころの試験官といえば、末弘厳太郎、穂積重遠、牧野英一、鳩山秀夫など、そうそうたるメンバーです。
合格するために必要な精神状態についても、先に合格した先輩が次のように書いています。
あせらず、あわてず、粛々と堅実な歩みをすすめていくしかない。
そして、試験に合格したいという希望が必要、意思が堅固でなければいけない。私のころ、そして今でも通用する心がまえが求められています。
亡父は司法科試験のために猛勉強しすぎて神経衰弱になったとこぼしていました。私もちょっぴり、そうなりました(ほとんど1日、寝て、なんとか回復しました)。
有名な伊藤塾の塾長(伊藤真弁護士)に、戦前も受験雑誌があり、口述試験の問答が詳しく再現されていると話したことがあります。さすがの伊藤弁護士も知らなかったとのことでした。調べてはみるものなんですよね...。
(非売品、国会図書館コピーサービス)

2024年3月22日

女子鉄道院と日本近代


(霧山昴)
著者 若林 宣 、 出版 青弓社

 いま、昭和はじめの東京の状況を調べていますので、この本を読んでみました。
 東京市電(東京都ではなく、東京市でした)の女性車掌は、1925年に始まりましたが、1927年には廃止されました。ところが、1934年3月に復活しています。いったん廃止されたのは終車まで勤務させられないのと、更衣室が必要だからというのです。復活した理由は「経費の圧縮」。つまり、女性のほうが安上がりだという理由です。どれくらい安いかというと、男性なら日給1円7銭のところ、女性は90銭でした。
 そして、男性は運賃の着服横領が多いけれど、女性はそんなことしないだろうという事情もありました。このころは、車掌が車内で運賃を乗客から徴収していたのです。すると、乗客が満杯のときなど、料金の過不足が出てくるのは避けられません。それが全部、車掌の責任にさせられていました。そして、当局は、ときに密偵を車内に送り込んで車掌を監視していました。弁償させられていたのです。
 乗客のなかには今でいう「カスハラ」をするのもいて、女性だとなおさら泣かされたようです。そして、女性が働くと、女性をつけ上がらせるという世間の冷たい眼にもさらされました。
 1933(昭和8)年2月2日、武蔵野鉄道(現・西武池袋線)の労働者は始発からストに突入した。解雇撤回、手当を減額するな、そして、女性を採用するな、でした。低賃金の女性が採用されると、男性の職場が荒されるというのです。
 鉄道が走り出したころ、踏切番の仕事は女性が担っていた。鉄道に雇われている夫の妻として踏切番の仕事をした。ところが、この仕事は危険だった。というのは、まだ鉄道の怖さを知らないので、子どもたちまで平気で線路内に立ち入る。それで子どもを助けようとして、踏切番が犠牲になることも少なくなかった。
 踏切番として働く女性の賃金は4円。これは男性が9円81銭もらっているので、その半額以下。
 国鉄に女性の車掌が登場したのは1944(昭和19)年のこと。戦時下にあったからとされている。男性が兵役にとられて、いなかったのです。
 かつてバスには女性の車掌がいて、バスの車内で切符を売ったり、パンチを入れたりしていました。戦後まもなく生まれた私の記憶でもあります。それが、いつのまにか車掌はなくなり、ワンマンバスになってしまいました。
 鉄道とバスをめぐる、昔のことがよく分かりました。
(2023年12月刊。2400円+税)

 庭のチューリップが一気に咲きはじめました。今年はなぜか紅いチューリップが多いようです。もちろん、黄色も白もありますが...。白いスノードロップもあちこち咲いてくれています。
 雨戸を開けると、チューリップの群舞に出会えます。春を実感させる一瞬です。
 2月に植えたジャガイモが少し芽を出してくれました。こちらも楽しみです。
 春は心が浮き浮きしてきます。何かいいことがあったらいいですね。殺伐としたニュースばかりでは心が休まりません。春はやっぱりチューリップです。

2024年3月19日

戦前の日本


(霧山昴)
著者 武田 知弘 、 出版 彩図社

 私の父は17歳のときに大川市から単身上京し、24歳まで7年のあいだ東京にいました。1927(昭和2)年4月から1934年8月までのことです。
 このころの日本そして東京はまさしく激動の時代でした。大正デモクラシーという自由な雰囲気が少しは残っていましたが、次第に軍人がのさばり始め、五・一五事件が起きて犬養首相が首相官邸で「問答無用」と青年将校から射殺され、ついに政党政治が強制終了させられ、軍部独裁の政治が実現しました。
 そんな時代の様子を今いろいろ調べています。この文庫本を読み返したのも、その一環です(初版は平成28年)。
 戦前の日本は貿易大国だった。紡績業がその中心にあった。そして、なんと、自転車も重要な輸出品目でした。自転車の生産台数は大正12年に7万台、昭和3年に12万台、昭和8年に66万台、昭和11年に100万台を突破し、それ以降も同水準だった。
 次に玩具(オモチャ)。セルロイドや金属を使ったり...。昭和8年には輸出額は2000万円にのぼった。
そして、日本は中国や朝鮮半島から留学生を大量に受け入れていた。中国人留学生は5000人以上、そして朝鮮半島からは3万人ほどもいた。
 つい最近、日本政府は外国人が大学に行くときには、その授業料を日本人より高値に設定するというのです。まさか、と我が眼を疑いました。この反対に外国人学生の学費はタダにして、大いに諸外国から来てもらうようにすべきです。トマホークやオスプレイのようなものを買うお金はあっても「人材育成」のために使うお金なんてないというのです。まるでアベコベ政治です。
 昭和3(1928)年10月の人口調査によると、大阪市が233万人で、東京市は、それを下回る221万人でした。信じられません。それほど大阪市は活気に満ちていたのです。
 戦前の日本は、日本映画の黄金時代。上映される映画の8割近くは邦画だった。ドイツでは6割、英仏でも7割がアメリカ映画だったのに対比させると、いかに邦画が繁栄していたかです。おかげで有名な監督が輩出しました。
 サラリーマンは、平均月収が100円。ところが大企業では課長クラスで年収1万円(今の年収5000万円)。今は、もっと格差が大きくなっていると思います。
 寿司屋では、にぎりずしが25銭、ちらし寿司が30銭。大衆食堂では、朝食10銭、ライスカレー20銭でした。ところが、高級料理店では2円だった。コーヒーは10銭で飲めた。マイホームは4000円前後で建てることができた。
 知らなかったことが、たくさん出てきました。
(2016年9月刊。648円+税)

2024年2月27日

岩田健治、若い魂


(霧山昴)
著者 井出 節夫 、 出版 ウィンかもがわ

 1933(昭和8)年2月に長野県で起きた「長野県教員赤化事件」の真相に迫った本です。「2.4事件」の報道が解禁されたのは9月15日。このころは事件が起きてもすぐに報道されることはなく、半年以上たってセンセーショナルに報道されるのが常でした。
 この日、「信濃毎日新聞」は4頁の号外を発行しました。「戦慄(せんりつ)!教育赤化の全貌(ぜんぼう)」「教科書を巧みに逆用し教壇の神聖を汚辱す」などの見出しで世間に大きな衝撃を与えたのです。
 「南信日日新聞」もひどいものです。「全信濃を挙げて赤化のルツボに踊る、教壇から童心に魔手を延す赤化教員の地下活動」と報道しました。いかにも恐ろしそうです。
 長野県下の小学校教員が100人近く検挙され、顔写真つきで報道されました。そのなかに高瀬小学校の岩田健治校長(37歳)もふくまれていたのです。
 岩田校長は2月21日に検挙され、6月6日に釈放されるまで3ヶ月以上も警察署の留置場に入れられました。その処遇のひどさが日記に書かれています。
 「布団を入れた薄団のひどいことときたら全く話にならない。ボロボロに切れた綿がゴロゴロごてって居る真中に大穴がある。しかも悪臭、鼻をつく」
 ただし、校長という立場にあったからか拷問は受けていなかったようです。
岩田校長は日誌に次のように書いています。
 「いったい俺のしたことの何が悪いと言うんだ。まったく訳が分からない」
 「革命、共産党、俺らは何らそんなことに関係はない。単なる文化運動が、どうして治安維持法に引っかかるのだ。秘密運動だという、その秘密とはいったい何だ。同志数人の会合、先輩宅に集まる数人の懇談会、それがどうして秘密運動か」
 岩田校長は検挙されたというだけで7月に懲戒免職処分を受けました。ところが、実は、翌1934年3月に起訴猶予処分を受けているのです。
 「信濃毎日新聞」の社説(評論)もまたひどいものです。
 「叛逆の心理を(児童に)注ぎ込まんとする教育者は、厳罰に処するとともに、その一方を挙げて、これを教育界から除草すべきである」
 「彼らは言うところの二重人格者である。変態心理学者である彼らは教壇に立ちつつ、ある間はジキール博士であるけれども、一度これを下れば獰猛(どうもう)なる悪漢ハイドになる」
 これらの新聞は戦争遂行という国策遂行に積極的に加担していったのでした。そして、信濃教育会は共産主義の本拠であるかのように全国に報道されたことから、その「汚名」を挽回すべく、満蒙開拓青少年義勇軍の送り出しが全国第1位でした。子どもたち本位の教育を目ざし、進歩的伝統を誇っていた長野県教育界は、この「2.4事件」によって一転して戦争遂行にひたすら協力する反動的団体に変貌してしまったのです。
 恐ろしいフレームアップ事件でした。ただ、この本を読んで救いを感じたのは、岩田校長が日本敗戦後、共産党に入り、ついには国政選挙の候補者として活躍するまでになった(当選はしていません)ことです。戦前の屈辱を戦後になって見事に晴らしたのでした。たいしたものです。
 昨年(2023年)は「2.4事件」から90周年という節目の年でした。それを記念して刊行された本です。「教員赤化事件」という、おどろおどろしいレッテルを貼りつけられたものの、その内実はきわめて穏当な教育実践の交流であったことを明らかにした本でもあります。貴重な労作として、ご一読をおすすめします。
(2023年12月刊。1800円+税)

2024年2月25日

戦後の特高官僚


(霧山昴)
著者 柳河瀬 精 、 出版 日本機関紙出版

 戦前、特高警察が治安維持法なる悪法を武器として、心ある人々をさんざん拷問してきたことは広く知られています。しかし、彼らが戦後、実は罪に問われることがないどころか、立身出世を重ねていたことは、ほとんど知られていません。私も詳しいことは知りませんでした。
 その典型は、作家の小林多喜二に対する拷問を直接手がけた中川成夫です。この中川成夫は、戦後、東映に入って取締役興行部長となり、「警視庁物語」シリーズに関わりました。そして、東京都北区で教育委員、ついには教育委員長に就任しています。信じられません。
 特高警察官たちは国会議員になって国政を動かしました。増田甲子七、増原恵吉、ほかです。衆議院議員に29人、参議院議員に11人もいます。熊本県知事もつとめた寺本広作、東京知事選にも出た原文兵衛もそうです。
 警察の中枢にも多くの特高官僚だった連中がのさばっています。そのなかには3人も警視総監になっています。
 初代の警視庁特高部長であり、警視総監にもなった安倍源基は国家公安委員にもなっています。
 共産党対策を専門とする公安調査庁にも、特高官僚たちが次々に採用されています。その数はあまりに多く、この本で6頁にわたって紹介されています。
 防衛庁でもまた、その中枢に特高官僚たちが採用されました。悪法として有名な治安維持法によって投獄された犠牲者は十数万人にのぼり、警察の留置場で虐殺された人が80人、獄死した人は1617人。
 いやあ、すごい本でした。丹念に地道に記録にあたって収集していてつくられた貴重な記録です。
 読み終えたとき、その空恐ろしさに、思わず身がぶるっと震えてしまいました。どうぞご一読してみて下さい。
(2005年4月刊。1714円+税)

2024年2月23日

永遠の都1(夏の海辺)


(霧山昴)
著者 加賀 乙彦 、 出版 新潮文庫

 1998(平成9)年5月に発刊された文庫です。この時代の雰囲気を知りたいと思って、ネットで注文しました。というのも、私の父は1927(昭和2)年4月、17歳のときに大川市から上京し、東京で苦学生を始めたのです。逓信省で働きながら法政大学の国語漢文科(夜間)に通いはじめました。そこを卒業し、法学部に移って、司法試験を受験しました(不合格)。合格したら何になるつもりだったのかと私が問うと、検察官がいいかなと思っていたとの答えが返ってきたので驚いてしまいました。なんで弁護士を目指さなかったのだろうと不思議に思ったのですが、その当時の社会状況を少し調べると、すぐに理由が分かりました。
 弁護士が法廷で3.15や4.16で捕まった共産党員の弁護をすると、それ自体が治安維持法違反にひっかけられたのでした。布施辰治は東京弁護士会から除名されていますが、それは弁護士会による懲戒手続で決まったのではありません。裁判所に置かれた懲戒裁判所が除名相当と判断したのです。弁護士会は当時、裁判所検事局の監督下にあり、検事正が弁護士会の運営にまでいちいち口をはさんでいました。いやはや...、です。
 この第1巻では陸軍省内での相沢中佐による永田鉄山少将の斬殺事件が話題になっています。それは陸軍対海軍の争いでもありました。主人公の父親の医師は、日本海海戦のとき従軍医師だったので、もちろん海軍派なのです。
 この医師は、病院内で妾(めかけ)がいることを高言していました。妻は、そのことに大いに不満なのですが、離婚する気は夫婦ともありません。
 上流階級で浮気・不倫があたり前に横行していた状況が、小説の大きな背景事情として語られています。
女は生活の保障のために結婚する。子どもを産み育てる単なる牝(めす)になる。すると、夫は女郎買いを始め、女は単なる牝に終わりたくないから恋人を探して不倫の関係を結ぶ。
 こう断言したのは、帝大セツルメントで子ども会をしている夏江。すると、「何だか主義者みたい」と夏江は言われてしまうのでした。「主義者」とは、何らかの思想を持った人のことです。今なら高く評価されるはずのものが、危険思想の持ち主だと周囲からみられていたのでした。
 著者は1929年生まれの精神科医師であり、作家です。戦前・戦後のセツルメント活動にも深く関わっていますので、同じくセツラーだった私にとっては大先輩にあたります。
(1998年5月刊。552円+税)

2024年2月22日

南京事件と新聞報道


(霧山昴)
著者 上丸 洋一 、 出版 朝日新聞出版

 「東京にいると、いつの間にか、みんな聖戦という言葉の魔術にかかっていた。ところが、中国の現地に来てみると、戦場とは、殺人、強盗、強姦、放火...、あらゆる凶悪犯罪が集団的に行われている恐ろしいところだった」
 これは、読売新聞上海支局の小俣行男記者が戦後(1967年)に出版した本で書いている文章です。
 「いちど残虐な行為が始まると、自然に残虐なことに慣れ、また一種の嗜虐(しぎゃく)的心理になるらしい。荷物を市民に運ばせて、用がすむと、『ご苦労さん』という代わりに射ち殺してしまう。不感症になっていて、そんなことには驚かない有り様だった」
 これは、南京の日本大使館参事官だった日高信六郎の1966年に刊行された本のなかの文章。
 大阪毎日新聞の記者・五島広作は中国へ従軍記者として出発する前に師団の情報参謀から次のように申し渡された(1937年7月末)。
 「軍に不利な情報は、原則として一切書いてはいかん。戦地では、許された以外のことを書いてはいかん。この命令に違反した奴は、即時、内地送還。記事は検閲が原則。軍機の秘密事項を書き送った奴は、戦時陸軍刑法で銃殺だ」
 従軍記者の使命は何か...。架空の武勇伝を書くこと。つまり、神話づくりが従軍記者の任務だった。新聞記者は、事実をも真実をも伝えるものでなく、軍の発表にしたがって、国民を鼓舞する「ペンの兵士」であることが使命であった。
 日本軍は上海戦で大変な苦戦をした。中国兵が予想外に強かったのです。中国の16歳から20歳までの青少年兵は、徹底した排(抗)日教育の結果、学生が銃をもって参戦している。最後の一兵まで一歩も退かず、銃剣で突き刺しても平然たるものだった。
 祖国に対する非常な愛国心から、抗日の精神が強く教育されているので士気は日本軍に比べてはるかに高い。「支那(中国)軍は予想以上に非常に強い」。これが日本軍の現地上層部の共通認識だった。
 日本軍の幹部は、新聞を読みながら戦争していた。記者の使命は、郷土出身の兵士と銃後の双方を励まして、国家に貢献すること、国策である戦争の遂行に役立つことだった。記者は、「報道報国」と呼び、自らを「報道戦士」と呼んだ。
 武器をもたない中国民衆にとって、日の丸を掲げることは日本軍に襲われないための窮余の一策だった。敵意のないことを示して、せめて命だけは助かりたい、ということ。それを日本の新聞は、日本軍に都合よく、中国民衆が日本軍を歓迎している光景と読みかえて報道した。
 ところが、現実には、そのような日の丸を掲げた中国人青年を日本軍は次々に殺害していった。こんなことをする「皇軍」が中国を永く支配できるはずもありません。
 日本軍は、右手で「東洋平和」の大義を掲げ、左手で中国の村々を放火して焼いた。
 中国の農民と兵士は、外見からは見分けがつかない。なので、怪しいと見れば、十分に確かめることなく、すべて殺した。
 南京への途上、「百人斬り競争」をしていた向井敏明と野田毅は、戦後、南京で開かれた軍事法廷で裁かれ、1948年1月、死刑に処せられた。この2人が、実際に最前線で突撃して白兵戦の中で斬ったのは、せいぜい4人から5人。あとは、捕虜を並ばせておいて斬ったのがほとんど。これは、まさしく戦時刑法でも捕虜虐待にあたるもの。
 戦後、作家として高名な石川達三は、1935年に芥川賞を受賞したあと、南京へ行き、日本に帰ってから「生きている兵隊」を書いた。これは中央公論1938年3月号に載せられ、すぐに発禁となった。そして、1938年9月、有罪判決(禁錮4ヶ月、執行猶予3年)を受けた。この本は戦後(1945年12月)に発刊されると、初版5万部を2ヶ月で売りつくした、まさにベストセラーとなった。それほど戦争の真実を知りたい日本人もいたわけです。
 戦場に出向いて、戦争の実際を見聞しながらも、戦後になってからも沈然し続けた記者がほとんど。なぜなのか...。
 「戦場のむごたらしさは妻や子には話せない。聞いたらショックでメシが食えなくなる」
 「語りたくない、忘れたい。どうせ理解してもらえないなら、いっそ何も見えなかったことにしたい。そこにいなかったことにしたい。何も起きなかったことにしたい」
 そして、「戦前の多くの知識人は、日本型ファシズムの体制には批判的であったが、始めた戦争には勝たなければならない。したがって、戦争努力には協力しなければならない、そう考えた」。これは、評論家の加藤周一の指摘です。
 真実から目をふさいでいいはずがありません。それを「自虐史観」だなんて決めつけるのは大きな間違いです。それにしても、南京事件という日本軍の大虐殺をまだ疑っている人がいるようなのが、本当に残念です。
(2023年10月刊。2600円+税)

2024年1月30日

小畑哲雄が語る戦中・戦後の体験


(霧山昴)
著者 小畑 哲雄 、 出版 京都・114番平和委員会

 95歳になっても反戦・平和のため自らの戦中・戦後の体験を話せるというのは実に素晴らしいことです。
 1937(昭和12)年12月、日本軍は南京を占領しました。悪名高い南京大虐殺を日本軍が敢行したときのことです。このとき、日本では、南京が陥落したので、これで戦争は終わりだ、万々歳だとして提灯行列をして喜びました。著者は10歳でした。
 日本軍が真珠湾を攻撃して開戦した12月8日は、日本で月曜日なので、アメリカ・ハワイは日曜日、安息日でみんな休んでいたところに日本は奇襲攻撃をかけたのです。
 日本軍による南京攻略のとき、日本軍の若い将校2人が「百人斬り競争」というのをして、日本の新聞で連日、大きく報道されました。これは戦場で斬り込んでいって何十人も敵兵を斬ったというのではありません。すでに「捕虜」となっていた中国人(兵隊も民間人も)を並べて首を斬ったというものです。典型的な捕虜虐待ですから、国際法違反は明らかです。戦後、この2人は中国で戦犯として裁かれ、死刑になっています。
 著者は陸軍経理学校に入ります。建前としては、日本の軍隊も私的制裁は禁止されていたそうです。初めて知りました。私的制裁が公認されているとばかり思っていました。ただ、なかには本当に私的制裁をしない上官もいたようです。
 荒川さんという区隊長は、「指揮官は部下を殺したらいけない。その部下が、将来、将校になるかもしれない」「指揮官がしっかりしていなかったら、部下を殺すことになる。ようく考えて、やり方を間違えないようにしないと、組織を壊してしまう。部下を殺してしまう」と言って、著者を戒(いまし)めたそうです。この荒川さんはレーニンの本も読んでいたそうですから、たいしたものです。
この本を読んで、「召集」と「招集」の違いを認識しました。
 「召集令状」というのは、召(め)し集めるもの。「招き集める」ものではない。
 「注記」(ちゅうき)とは、兵隊になって一番先にすることは、全部の持ち物に自分の名前を書くこと。
 「上衣(じょうい)」とは、上着のこと。
「一装」は、正式な儀式のときの制服。「二装」は儀式や外出のとき着るもの、「三装」は普段着。
8月15日の終戦を告げる玉音放送では、最後に、「朕(ちん)は、ここに国体を護持し得て」と続く。「国体」、つまり国の体制、天皇制はちゃんと残ることを日本国民に伝えた。これが一番の眼目だった。
いやあ、すごい講演録でした。高齢になっても自分の体験を客観的事実も踏まえて話せるというのは素晴らしいことです。
(2023年11月刊。500円+税)

2024年1月25日

ちっちゃな捕虜


(霧山昴)
著者 リーセ・クリステンセン 、 出版 高文研

 第二次大戦中の日本軍の抑留所を生きのびたノルウェー人少女の話です。いったい北欧のノルウェー人がどうして日本軍の収容所にいたのか不思議でしたが、舞台がインドネシアだと分かって納得できました。日本軍はインドシナ半島を制圧したあとインドネシアまで占領したのです。それも他と同じように凶暴な圧制を敷いたのでした。
 日本軍によって、ジャカルタ(当時はバタビア)に住んでいたノルウェー人一家である著者たちも「捕虜収容所」に入れられたのです。
 日本軍がしたことは「点呼」(テンコー)で、まず人員確認。炎天下に飲まず食わずに並ばせ立たせておいても平気です。そして若い女性を見つけるとひっ立てて行き、小屋へ連れていきます。日本兵の慰安のためと言ってはばかりません。寝るところは不潔そのもの。ネズミがいて、ゴキブリがいて、蚊がいて...。そして、とにかく臭い。悪臭のなかでの生活。
 食べ物もろくに与えられず、病気になっても薬なんか全然なし。
 次々に死者が出て、外へ運び出し、山積み状態...。本当に、日本軍(皇軍と呼んでいました)って残虐なことをしたんですね。これでもか、これでもかって、読み進めるのが辛くなります。
 日本軍が東南アジアの民衆のために解放してやったんだという言説がいかにインチキで、真実に反しているか、嫌というほど思い知らされます。
子どもたちのために秘密の教室が開かれ、そこで教えていた若い女性は日本軍に発見されると残虐なやり方で死に至ります。
 著者は「天使の死」と名づけていますが、どんなに無念だったことでしょう。
 著者はまだ10歳の、好奇心いっぱいの少女でした。よくぞ苛酷な「収容所」生活を生きのびたものです。生きるためには、少々の「泥棒」もしています。
 日本敗戦でインドネシアに平和が戻ったかというと、簡単ではありませんでした。でも、そこはまだ少女には分かりません。そして、ノルウェーに無事に帰国したあと、両親の不仲は解消されず離婚に至ったことなど、戦争の傷跡はあとあとまで家族の心のうちに深く深く残っていたことが語られます。
 そして、ドイツとは違って日本政府が責任を認めず、学校で侵略と虐殺の歴史的事実を教えていないことを厳しく糾弾しています。本当に、そのとおりです。
 過去の事実をなかったことのようにしてしまうのは、将来また大きな間違いをする可能性があるということです。大軍拡予算がまかり通ろうとしている今、読まれるべき本の一つだと思いました。
(2023年10月刊。2700円+税)

2024年1月10日

ビルマ、絶望の戦場


(霧山昴)
著者 NHKスペシャル取材班 、 出版 岩波書店

 史上最悪の無謀な作戦と言われているインパール作戦をふくむビルマ戦における日本軍の死者16万7000人の8割は、インパール作戦が中止された1944年7月以降に命を落としていた。
 ところが、将兵を残して日本軍の最高幹部たちはいち早く飛行機に分乗してタイへ逃れていたのです。しかも、インパール作戦遂行にあたって強硬に作戦遂行を主張した張本人の田中新一ビルマ方面軍参謀長(中将)は、日本国内にまで無事帰還し、戦後も生き永らえて83歳で亡くなったのでした。こんなことって許されていいのでしょうか。疑問です。
 イギリス軍は日本軍の指導者について、次のように的確に評価しました。
「日本軍の指導者の根本的な欠陥は、肉体的勇気とは異なる、道徳的勇気の欠如にある。彼らは、自分たちが間違いを犯したこと、計画が失敗し、練り直しが必要であることを認める勇気がない」
いやはや、まったく図星ですよね。これって...。
田中参謀長は「強気一点張り」の観念偏を振りかざし、図上作戦を強行させた。「放漫非常識」な作戦だった。
「わしが全責任をもってやる、という能力と気迫」で押し切った。
作戦に不満を表明した師団長や参謀は次々に更迭(こうてつ)された。こんなに上層部が混乱していたら、勝てるものも勝てなくなりますよね。「気迫」の前に装備がまったく欠如していた。ですから、ひどすぎます。
さらにイギリス軍による日本軍の評価を紹介します。
「日本軍の強さは、個々の日本兵の精神にあった。日本兵は死ぬまで戦い続け、行進し続けた」
「日本軍は、計画がうまくいっている間は、アリのように非常で大胆。しかし、計画が狂うと、アリのように混乱し、立て直しに手間どって、元の計画にいつまでもしがみつくのが常だった」
久留米にいまもある高級料亭「萃香園(すいこうえん)」がビルマのラングーンに出店し、ビルマにいた日本軍の高級将校たち専用の娯楽施設になっていたというのは初耳でした。彼らは、この萃香園で「女と酒の逸楽」に浸っていたのです。「萃香園参謀」とまで呼ばれていたそうですから、勇ましく偉そうなのは口先だけだったわけです。
「久留米から100名、大牟田と福岡を合わせて約30名の芸者がビルマへと行った」「その芸者たちのほとんどは借金をかかえていた」
ビルマ方面軍の司令官だった木村兵太郎司令官は「東条の茶坊主」と陰口された将軍。東条が失脚したので、東京からビルマ方面軍にまわされたそうです。
日本軍とは何か、何だったのか、「皇軍」の実態を改めて問い直させてくる本です。一読をおすすめします。

(2023年7月刊。2200円+税)

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