弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦前)
2014年12月 5日
二・二六事件と青年将校
著者 筒井 清忠 、 出版 吉川弘文館
青年将校の過激な言動を考えるときに忘れてはいけないのが、その当時の社会状況。
第一次世界大戦(1941~18)のあと、多大の死者・犠牲者を出したことから、戦後は世界的に反戦平和・軍縮ムードとなった。
ワシントン海軍軍縮会議(1921~22年)は、海軍の軍縮がやられ、次いで陸軍の軍縮(1925年)が行われた。山梨軍縮(1922年)では、将校2200人、准下士官以下6万人、馬匹1万3000頭が整理された。宇垣軍縮(1925年)では、4個師団が廃止となり、将校1200人、准下士官以下3万3000人、馬匹6000頭が整理された。この結果、9万6400人、全体の3分の1の軍人が首切りにあった。
陸軍士官学校を出て、職業軍人の道しか考えたことのない将校たちは、十分な再就職先も配慮されなかったため、社会に放り出されて途方に暮れた。
そして、社会全体として軍人の社会的地位が下落し、軍人受難時代となった。
陸軍省などに勤める者は、通勤途上で嫌がらせを受けるので、私服で通勤し、登庁してから軍服に着替え、帰宅時に私服に着替える有り様だった。
給与も低いので、若手将校の「嫁不足」が深刻化し、前途に希望を失い、「自我」「人間」の問題に悩む青年将校が激増した。
国家改造運動に加入しようという青年将校たちが現れた背景には、こうした軍人たちを追い詰める社会的状況が存在していた。
加藤高明首相の護憲三派内閣の下で、大正14年(1925年)に普通選挙法が成立した。第一回の普通選挙の実施は昭和3年(1928年)だが、法律が成立してすぐから、各政党は大量に増えた有権者の獲得に向けて動き出していった。大量の選挙民を奪い合う選挙戦は一掃の政治資金を要することになり、疑獄事件が頻発した。また、選挙に勝利するための官僚の政治的利用・正当化は露骨きわまりないものとなった。
選挙を扱う内務省の中では、知事から署長・巡査に至るまで、政友会か民政党かに色分けされた。
国民の政党政治への不信感は巨大なものとなっていった。
薩長藩閥政府において、明治以来、海軍では山本権兵衛を中心にした薩摩閥の勢力が強かった。陸軍は山県有朋を中心にした長州閥によって牛耳られてきた。この長州閥は、岡山出身ながらそれを受け継いだ宇垣一成閥へと転換した。
これに対抗したのが九州閥だった。上原勇作、宇都宮太郎、荒木貞夫、真崎甚三郎らである。
永田鉄山は、結果として陸軍の派閥化を推進した人物である。皇道派と統制派の対立が激しくなったころ、永田は陸軍の派閥解消を提言した。しかし、二葉会、木曜会、一夕会の結成に積極的に動いた永田には、それを言う資格はない。
二・二六事件の首謀者の青年将校たちは、日露戦争前後から大正初期に生まれ、10代後半の青春期を大正後期から昭和初期にかけて迎えている。自らの存在を根源から脅かすものの中に生きることによって昂進化された危機意識が、昭和恐慌期の悲惨な下層階級に遭遇したことにより限界を突破しようとしたのが青年将校の昭和維新運動であり、二・二六事件だった。
ほとんどの青年将校が軍縮期に軍人としての生き方に懐疑心を抱きはじめており、社会問題に関心をもったのが初年兵教育においてであった。
青年将校の出身地としては東北出身者より九州出身者が多い。無期以上の20人のうち7人が九州出身者である。
青年将校の一人の言葉は驚くべきものです。
「日本は天皇の独裁国であってはなりません。天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります。しかるに、今の日本は何というざまでありましょうか。天皇を政治的中心とさせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財閥の独裁国ではありませんか。いやいや、よくよく観察すると、この特権階級の独裁政治は、天皇をさえないがしろにしているのでありますぞ。天皇をロボットにしたてまつって、彼らが自恣専断を思うままに続けておりますぞ」
「天皇陛下、何という御失政でありますか。何というザマです」
「日本国民の9割は貧苦にしなびて、おこる元気もないのでありますぞ」
二・二六事件の深層を知ることが出来ました。それにしても、この二・二六事件によって、軍部独裁がますます強まる一方、軍部内部で無責任体制が強まり、日本を戦争にひっぱっていったのですよね。安倍政権の生きつく先は、こんな無責任政治でしょう。許してはなりません。
(2014年8月刊。2600円+税)
2014年12月 2日
引き裂かれた青春
著者 北大生・スパイ冤罪事件の真相を広める会 、 出版 花伝社
特定秘密保護法が成立し、12月10日に実施されます。安倍内閣の戦争する国・日本づくりの一環として出来た法律です。
国家権力に都合の悪いことは何でも隠してしまおうというわけです。そして、少しでも自由に意見を言おうというものなら、有無をいわさず捕まえて、社会的に抹殺しようとするのです。
その犠牲者の一人が、北大生だった宮澤弘幸氏でした。特定秘密保護法が施行されようとする現在、戦前のスパイ冤罪事件を振り返って見ることには大きな意義があります。
宮澤弘幸氏は、北大工学の学生だった。1941年12月8日に軍機保護法違反で検挙され、翌1942年4月9日に起訴され、懲役15年の景が確定し、網走刑務所に収監された。宮城刑務所に移され、敗戦後の10月10日に釈放されたが、1947年2月に死亡した。
この宮澤弘幸氏が検挙された12月8日という日は、まさしく日本が真珠湾を攻撃して太平洋戦争に突入した当日です。全国の特高警察は、この日、111人を検挙しています。
この事件では、人が突然、理不尽にいなくなるところから始まった。そして、周囲の人は、そのことについて口を閉ざし、いなくなった人に、ことさらの無関心を装った。
みな、次に逮捕されるのは自分かもしれないと思うと、恐怖心で一杯になった。友の身を案じる余裕さえ失っていた。
当局は戦争を推進するに当たって、あえて反対する存在を捏造して国賊とし、もって戦争推進の世評を強くすることを狙った。
全国津々浦々に「防諜委員会」なるものが設けられ、年間3147回もの「防諜講演会」が開かれ、それには81万人を動員した。
この北大生・宮澤弘幸氏の裁判については、起訴状をふくむ捜査・公判記録の一切が失われ、判決文すら完全な形では残っていない。敗戦のどさくさに乗じて、それを保存すべき国家権力が自らの保身のために破棄隠滅してしまっていた。
北大で教えていたレーン夫妻の自宅を見張るために、特高警察はアジトを構えていた。
出入りするものを昼夜にわたって監視し、尾行したり、出入りする人物の所在・動向を確かめていた。宮澤弘幸氏は、警察から苛酷な拷問を受けた。
両足首を麻縄で縛られ、逆さに吊されて殴られた。両手を後ろに縛られ、それに棒を差し込んで、痛めつけられた。
そして、裁判は、すべて非公開だった。世間に公知の事実であっても、軍が秘密だといったら秘密なのである。しかも、そのとき、何の理由も根拠も示す必要がない。絶対的な秘密なのである。
実は、宮澤弘幸氏は、大東亜共栄圏構想に共感し、日本人優秀・指導者論の考えの持ち主だった。つまり、時代の子だった。日本軍を信じ、親近感を持っていたのだった。
宮澤弘幸氏は、戦後、亡くなる前に次のように語った。
「ぼくの唯一の罪は、英語やフランス語やイタリア語を学び、外の世界を知ろうとして、札幌の数少ない外国人と仲良かったことだった」
刑務所から出てきたとき、宮澤弘幸氏は、身体がなかった。ぺちゃんこの布団だった。声がことばにならなかった。23歳のはずが、まるで50歳のように見えた。口に歯は一本もなく、肌の色は黄色く、水膨れした体だった。
戦前の進取の気性に富んだ前途有為の人材が、軍部の戦争推進のための犠牲にさせられたことがよく分かる貴重な本です。
上田誠吉弁護士(故人)の著作を補完するものでもあります。ぜひ、ご一読ください。
(2014年9月刊。2500円+税)
2014年11月26日
中国民衆にとっての日中戦争
著者 石島 紀之 、 出版 研文出版
日本軍が中国編侵略して、大陸で何をやったのか。その事実に、現代日本人の私たちが目をふさぐわけにはいきません。それは自虐史観でも何でもなく、過去の歴史に向きあうのは当然のことです。過去に目をふさぐ者には、将来への展望を語る資格はありません。
この本は、日本軍が中国で何をしたかについて、現地の中国民衆の声を拾い集め、その置かれた状況を明らかにした貴重な本です。
当時の中国では、とくに農村部では、ほとんどの民衆が文字を読めず、記録することができなかった。民衆は、自分の生活にしか関心がなく、どこの国と戦っているのか知らない民衆も多かった。
日本軍は抗日根拠地を飢餓状態にして壊滅するため、根拠地の食糧を焼却し、あるいは略奪した。日本軍は「放火隊」を組織して、家屋や食料を焼き払った。
民衆にとって、食糧問題こそ、戦時生活のもっとも重要なカギだった。
多くの中国農民は日本軍が来るまで、それほど恐怖心をもっていなかった。ところが、日本軍の残酷さは、民衆の思いもよらないものだった。この日本の残酷さは、民衆に二通りの反応をもたらした。
その一は、怒りと憎しみである。
その二は、恐怖と混乱である。
このように、日本軍の侵略に直面した民衆の反応は複雑だった。
民衆を八路軍(共産党の軍隊)に動員するのは容易なことではなかった。民衆には「まともな人間は兵隊にならない」という伝統的観念が存在していたし、日本軍との苛烈な戦いに対する恐怖心もあった。
八路軍は1940年8月から百団大戦を始めた。
八路軍が一定の成果をあげたあと、日本軍が報復のため反攻に転じた。徹底した掃蕩と三光政策を実施し、抗日根拠地の中心地域の民衆は重大な損害を蒙った。この日本軍の「三光政策」は共産党と八路軍にとって予想外だった。
百団大戦は日本軍の華北支配に大きな打撃を与え、共産党と八路軍の威信を内外で高めた。しかし、共産党と八路軍が百団大戦で支払った代価も多大だった。日本軍の強力で残酷な反撃によって、抗日根拠地は大きな試練をむかえた。
1942年は、日本軍との武装闘争と経済闘争とが、もっとも激烈な年であり、抗日根拠地にとって、もっとも困難な年だった。
百団大戦のあと、日本軍が三光作戦のような残虐で徹底した掃蕩を実施すると、民衆のなかには恐日病・悲観・失望の心理がひろがり、掃蕩は八路軍の日本軍への攻撃のせいであると考え、怒りを八路軍や共産党に向ける者もいた。したがって、日本軍の残虐行為が民衆(農民)のナショナリズムの形成と直接結びついていたわけでもなかった。
なるほど、そういうことだったのですね。しかし、結局のところ、このような困難を次第に克服し、中国の民衆と結びついて、共産党軍(紅軍)は、日本軍を圧倒していったわけです。
日本軍が中国で何をしたのか、それはどんな問題を引きおこしたのかがよく分析されている本です。
(2014年7月刊。2700円+税)
2014年10月24日
日本軍「慰安婦」問題すべての疑問に答えます
「女たちの戦争と平和資料館」 編著 、 出版 合同出版
「朝日」叩きは異常です。済州島から「強制連行」があったかどうかだけが「慰安婦」問題ではないことは明らかです。にもかかわらず、「吉田証言」の嘘でもって「慰安婦」問題そのものがなかったかのようなキャンペーンは異常です。こうやって思想統制、マスコミ操作をしていくのかと思うと、背筋に冷たいものを感じます。
日本軍がアジア各地へ侵略し、ひどいことをしたのは厳然たる事実です。それに目をつぶって、「美しい日本」だなんて、それこそ愛国心の欠如そのものではないでしょうか。あるがままの日本をきちんと受けとめ、少しでも住みやすい社会を目ざして努力することこそ、今を生きる私たちの責務だと私は思います。
この本は、たくさんの資料と豊富な写真、そして加害者と被害者双方の証言によって、「慰安婦」問題を全面的に明らかにしています。60頁あまりの、カラー図版が満載で、すっきり分かりやすいテキストです。ご一読を強くおすすめします。
「従軍慰安婦」という言葉は、「自らすすんで軍に従った」と誤解されかねない。そして、これは戦後になって使われはじめた「造語」である。そこで本書では「慰安婦」とした。
国際社会では、より正確に実態を示す「日本軍性奴隷」という言葉が使われている。
「慰安所」には、三つのタイプがあった。一つは、日本軍直営の慰安所、二つは、軍が民間に慰安所の経営を委託した日本軍専用の慰安所、三つには、軍が民間の売春宿を日本軍用に指定した慰安所。いずれのケースでも、日本軍が慰安所経営について統制し、監督していた。
軍側の証言の一つとして、中曽根康弘元首相の本がある。海軍の主計大尉だった中曽根康弘は、自著(『終わりなき海軍』)において、「私は苦心して、慰安所をつくってやった」と書いている。
戦後になって、オランダの戦犯裁判において、慰安所を開設した責任者である岡田少佐には死刑、6人の将校と4人の慰安所業者には2年から20年の禁錮刑が言い渡された。
もと日本軍兵士の慰安所体験記と強姦したことの自白も紹介されています。
被害者となった女性の証言がいくつもあり、胸が痛みます。
「慰安婦」が「高収入を得ていた」という点については、激しいインフレのせいもあり、結局のところ無価値でしかない「軍票」をつかまされていただけだった。このようにコメントされています。
「慰安婦」とは、居住、廃業、選客、外出、休業の自由のない、まさしく「性奴隷」そのものだった。
アメリカの新聞に日本人が「慰安婦」を否定する意見広告を出しました(2007年6月14日)。政治家でいうと、稲田朋美(自民党)、河村たかし(民主党)、ジャーナリストでは桜井よしこ、学者として、藤村信勝そして、作曲家のすぎやまこういち、などの人たちです。この人たちこそ、低レベルの日本人がいるという見本をアメリカに示したのではありませんか。私は、恥ずかしいです。
しかし、肝心なことは、このような逆流の下で、「河野談話」が出されるとともに中学校の歴史の教科書にあった「慰安婦」記述が、今ではほとんど消えてしまっているという事実です。「美しい日本」を後世に伝えるという掛け声の下、不都合な真実は「抹消」(隠匿)されているのです。そんな国を愛するわけには生きません。いいところも悪いところもある。あるがままの日本をしっかり受けとめ、みんなで少しでも住みやすい国にしたいものです。
国連の勧告(2013年)は、「複数の国会議員をふくむ国および地方の、高い地位の公人や政治家による、事実の公的な否定や被害者に再び心的外傷を負わせることが継続していること」に、深い懸念を持ち続けていると指摘しています。
日本がますますおかしな国にならないように声をあげていきたいと思います。そのための教科書として絶好です。
(2014年7月刊。1500円+税)
2014年7月 3日
日本軍と日本兵
著者 一ノ瀬 俊也 、 出版 講談社現代新書
第二次大戦中の日本の将兵は本当に強かったのか、敵側(この場合は、アメリカ軍側)がどう見ていたのかが紹介されています。結論からいうと、日本軍の将兵はそれほど強くはなかった。やっぱりフツーの人間だったということです。死を恐れない不屈の神兵などでは決してありませんでした。
日本の将兵は勝っているときには勇敢だが、負けそうになると、とたんに死を恐れ、弱くなった。勝ち目がないと、明らかに死ぬのを嫌がり、総崩れになると、豚のようにわめいた。
日本兵は、上官の命令どおりに動く集団戦を得意とする。個人の技能や判断力に頼って戦うのは不得手だ。
日本軍の将兵を捕虜にすると、厚遇に感謝し、実に協力的になる。
いったん捕まえた日本兵の捕虜は実に御しやすく、有用だった。尋問官がうまく乗せれば、喜んで、何でもしゃべる。命が救われたと知ると、そのお返しをしようとして、求められている情報を与えようとする。
日本軍ほど宗教性の薄い軍隊はいない。世界史的にも異質な存在なのではないか。神道はあるわけですが・・・。
ガダルカナル島で日本軍3万人あまりが倒れたが、そのうち3分の2は病気で死んだ。戦死者は1万人をはるかに下まわっている。他方、アメリカ軍の戦死者は1000人だけ。
日本軍の将兵の最大の弱点は、予期せざる事態に、うまく対処できないこと。戦闘機械の優秀な歯車ではあっても、急速に変化する状況に対応する才覚も準備もない。
このような生来の弱点は、自由な志向や個人の自発性をきびしく退け、管理されてきた人生と、少なくとも部分的には関係がある。
第二次大戦における日本軍の戦い方の実際を敵(アメリカ軍)側の資料によって紹介した貴重な本だと思いました。かの軍事オタクのイシバ氏にはぜひ読んでほしい本だと思いました。
(2014年1月刊。800円+税)
2014年6月25日
法廷で裁かれる日本の戦争責任
著者 瑞慶山 茂 、 出版 高文研
太平洋戦争は正しかったなどとNHKの経営委員(百田茂樹)が暴言を吐くのを社会が許容しているようで、本当に残念です。日本国憲法の前文には、政府の行為によって、戦争の惨禍を再び、くり返してはならないと明記しています。
この本は、強制連行、「従軍慰安婦」、空襲、原爆、沖縄戦・・・など、戦後日本で裁判所によって明らかになった事実が紹介されています。そして、担当した弁護士がその判決について解説しています。
本当に、アジアへの侵略戦争を始め、無数の人々を苦しめた日本軍とそれを支えた日本の政財界の責任は重大です。そのことに目をつぶっていてアジアで日本はやってけるはずがありません。加害者は忘れても、被害者は末代まで忘れるはずがないのです。
2段組みで600頁もの大作です。読んで気の重くなる本ではありますが、「自虐史観」などという前に知るべき歴史的現実だと思います。
戦後世代である私たちの責任は、国家に対し国家責任を履行させるための個人責任であり、個人として直接的に対外的対内的に賠償責任を負うわけではない。いわば間接責任の一種である。そして、ここでの戦争責任は、法的賠償責任ではなく、政治的責任と道義的責任である。だからこそ、戦後世代は国のあり方について積極的に考え、参加し、発言すべきなのである。私も、この考えにまったく同感です。
山口地裁下関支部の判決(1998年)は、「『慰安婦』としての性的強制は重大な人権侵害であり、人類にとって許すべからざる犯罪である。・・・・戦後、これを放置してきた国には、この被害回復義をつくさなかった違法があり、損害賠償をすべき責任がある」とした。
東京高裁の判決も、「業者を監視し、慰安所の実質的管理をしていたのは軍であったから、軍は業者の使用者としての管理を怠った責任がある」とした。
このように、「従軍慰安婦」の問題は、単に「強制連行」されたかどうかだけではありません。
河野談話について、アメリカ政府がその見直しを止めるように安倍政権に忠告しているのは当然のことです。これは不当な内政干渉というべきものではないでしょう。なぜなら、日韓政府はもっと仲良くしてくださいと言っているわけですので・・・。
日本軍のトップにいた岡村寧次・北支那派遣軍総司令官は、「現在の各兵団は、ほとんどみな慰安婦団を随行し、兵站の一部となっている有様である。第六師団のごときは、慰安婦団を同行しながら、強姦罪は跡を絶たない有様である」と述べた。
間(はざま)組は、中国(主として河北省)で拉致した中国人1500人を1949年4月に日本へ強制連行し、福島、長野、群馬などの発電所で苛酷な労働を強制した。この強制労働の16ヶ月間のうちに53人もの死亡者が出ている(死亡率8.7%)。このほか、負傷率も43%と異常に高い。
長野地裁の辻次郎裁判長は、判決言渡のとき、「私的見解」と断りながら、次のように述べた。
「提訴から8年かかったことをお詫びします。また、和解が成立しなかったことを残念に思い、お詫びします。私は団塊の世代で、全共闘世代に属するが、率直に言って私たちの上の世代に人たちは、ずいぶん酷いことをしたという感想を持ちます。
裁判官をしていると、訴状を見ただけで、この事案は救済したいと思う事案があります。この事案も、そういう事案です。一人の人間としては、この事件は救済しなければならない事案だと思います。心情的には勝たせたいと思っています。でも、結論として勝たせることができない場合もあります。このことには個人的葛藤があり、釈然としないときがあるのです」
ここまで言うのなら、もう一歩踏み込んで原告勝訴の判決を書けばいいのに・・・と思ったことでした。
戦前、中国から強制連行されてきた中国人は4万人近くで、そのうち死亡者は7千人近く(17.5%の死亡率)、しかも1~2年のあいだに死亡している。ところが、国は、終戦直前に三井や三菱に対して6千万円近くの国家補償をした。これは、三井鉱山や三菱鉱業が、1日あたり5円の賃金を支払ったとして国に対して損失額を計上したことを根拠とする。しかし、現実には、中国人に賃金を支払ってはいなかった。それなのに、巨額の賠償金を国からもらっていたのである。ひどいものです。このような国の大企業優遇は今も変わりませんよね。
貴重な文献であり、大いに活用してほしいものです。
(2014年3月刊。6000円+税)
2014年6月21日
黒田官兵衛
著者 渡辺 大門 、 出版 講談社現代新書
黒田氏は、播磨国(姫路周辺)の一土豪だった。何かの契機で小寺氏と結びつき、その配下におさまった。そして、自らの貴種性をアピールするために、佐々木黒田氏や赤松氏の支族とするに至ったのではないか・・・。
小寺氏が赤松氏の有力な支族というのは誤りで、小寺氏は「年寄」だった。この「年寄」とは、赤松氏一族ではない有力な氏族で構成される重臣、奉行人という地位にあった人々の呼称。
官兵衛の叔父にあたる休夢は、秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)として登用された。
御伽衆とは①咄(はなし)がうまいこと、②咄に適応する体験や技術を有することが条件だった。その目的は、主人を楽しませることだった。
休夢は茶道だけではなく、和歌や連歌にも通じていた。
黒田家にしたがった播磨出身土豪層は、姫路を中心として勢力基盤を築いた土豪層だった。「黒田二十四騎」と称された土豪たちは、黒田家の発展とともに重臣に取り立てられた。
黒田氏は現在の西播磨基盤をもった土豪であり、土地集積を行いながら発展を遂げていった。その間、黒田氏は周辺の土豪層を従え、やがて小寺氏の配下に加わった。
官兵衛には、三人の弟と三人の妹がいた。そして、兄弟たちは、仲違いすることなく、一致団結して黒田家を守り立てていった。
官兵衛が村重によって幽閉され、かえって黒田家中は一致団結した。官兵衛の幽閉生活は一年にも及んだ。
官兵衛の主家である小寺氏は秀吉に対して、最終的には逃亡した。その子孫は、のちに福岡藩主となった黒田長政に仕えた。
官兵衛は死ぬ直前、家臣たちを枕元に呼び出しては悪態をついた。ののしられた家臣たちは、身に覚えがなく、ただ困惑するだけだった。たまりかねて、息子の長政が理由を問うと、官兵衛は、次のように答えた。
家臣にひどい仕打ちをすることによって自分が疎まれ、一刻も早く長政の時代が到来することを願ったのだ。
つまり、死にのぞんだ官兵衛は、あえて嫌われ役を演じてみせたのでした。
なかなか実証的な本だと感嘆しました。
(2013年9月刊。800円+税)
2014年6月17日
検証・真珠湾の謎と真実
著者 秦 郁彦 、 出版 中公文庫
日本軍の真珠湾攻撃が成功したことについて、当時のアメリカ大統領であるルーズベルト陰謀説というのがあります。要するに、ルーズベルト大統領は日本軍の真珠湾攻撃を予知していながら、わざと初戦で負けてアメリカ国民を対日戦争に駆り立てたというものです。もっというと、ルーズベルトは好戦主義者、イギリスを助け、ドイツと戦争をするために日本との戦争を始めたかったということです。でも、それはありえないことだったと思います。
そして、日本では、太平洋戦争を美化しようとする人々は、「ABCD包囲陣」なるものがあって、それと日本は戦わざるをえなかったと言いたいようです。
しかし、「ABCD包囲陣」なるものの実態はなく、戦前の日本の新聞がつくり出した造語にすぎない。ましてや、ルーズベルトの陰謀ではない。それは、太平洋戦争が植民地解放のための戦争であったというのと同じである。
真珠湾攻撃は、史上まれにみる希有壮大な大作戦であり、このような戦術を実行する人間がまさか日本にいるなどとは、アメリカの当局者たちは、ルーズベルトをふくめ誰も考えていなかった。
山本五十六というのは、それだけの大戦術家だった。もし、あらかじめアメリカに発見され、待ち構えていたら、悲惨な敗北になった可能性のある大博打(ばくち)だった。その背景としては、アメリカは日本の戦力を過小評価していたという油断があった。
日本海軍は最後までアメリカ軍の暗号が解読できなかった。これに対して、アメリカ軍は日本軍の暗号は1940年には完全に解読していた。日本外務省のパープル電報は、アメリカ軍によって、ほとんど解読されていた。
12月5日、アメリカ軍の情報部は、日本はアメリカを攻撃しない、タイの占領の可能性があると報告した。
開戦後の半年たって起きたミッドウェー海戦において、日本軍は秘密保全と敵情把握を軽視し、逆に日本の暗号を解読したアメリカ軍は日本艦隊を待ち伏せし、日本軍の大敗、アメリカの大勝利となった。
アメリカは、真珠湾では失敗したが、その後は失敗の教訓を生かした。日本軍は、真珠湾で成功したが、勝って兜の緒を締めよという先人の教えを忘れ、大敗したのだった。
陰謀史観というものがありますが、この本を読むと、なるほど、ごまかされてはいけないものだと思いました。
(2011年11月刊。686円+税)
2014年5月22日
日本降伏
著者 纐纈 厚 、 出版 日本評論社
日本では、太平洋戦争に負けたのに、敗戦と言わずに終戦と呼ぶのが定着した感があります。日本は理不尽かつ野蛮な侵略戦争をはじめ、無残に敗れ去ったのだと思いますが、安倍首相のような反省なき人々は、今なお聖戦だったと言いたいようです。
ですから、欧米からすると安倍首相はとんでもない政治家だと警戒されるのです。
靖国神社に安倍首相や150人もの国会議員が参拝をくり返していますが、昭和天皇も今の天皇も絶対に参拝しようとしない理由について、日本人はもっと深刻に、真剣に考えてみる必要があるのではないでしょうか。
それは、靖国神社が単に戦死者をまつる場というのではなく、日本が始めた戦争が侵略戦争ではなかった、聖戦だったと主張する宣伝の場だからなのです。そんなところに天皇が言って参拝することはできないのです。
昭和天皇が終戦の決断をしたという人、そう考えている人は多いわけですが、その真相は簡単なものではありません。
昭和天皇は、文字どおり戦争指導の頂点に位置していた。しかし、その指導には一貫性を欠いていた。動揺、変節、執着とあきらめなど、安定したリーダーシップを発揮したとは言えない。
まさしく、昭和天皇も、動揺する、ふつうの人間だったというわけです。
開戦決定と同じく、終戦決定も、きわめて紆余曲折を経て、いたずらに時間を浪費していった。日本人は、「終戦」という価値中立的な用語で、あの歴史を記憶しておくことにした。
いったい、戦争終結の担い手は、誰だったのか・・・。開戦前、海軍にとっては英米と戦うだけの戦力準備も開戦意思も十分になかった。海軍側の陸軍側への姿勢は、この時期に対立感情から増悪に近いものになっていった。
海軍は、陸軍主導の政治と戦争指導の展開に不満をつのらせ、陸軍への対抗心を深めていった。海軍にとって、もっとも警戒すべきは、陸軍の対ソ開戦だった。
昭和天皇は絶対に勝利する戦争を欲した。だから、どっちつかずのあいまいな参謀総長の答えに苛立ちを示した。
木戸の推挙を受けて、昭和天皇は日米交渉への悪影響を知悉しながら、あえて東條を首相として選択した。
開戦責任を問うとすれば、東条と並んで木戸幸一の存在はきわめて大きい。
東条は、昭和天皇の忠実な代行者だった。それまで東条内閣を強く支持してきた翼賛会がサイパン陥落の責任をめぐり「善処すべし」と決議したことは、事実上、東条内閣への不信を表明したことになる。東条に日米開戦時の戦争指導内閣をになわせ、忠実な軍事官僚であった東条を通じて政治指導と戦争指導をすすめてきた昭和天皇は、最後まで東条に未練を残していた。天皇は明確な戦争継続論者だった。
昭和天皇は開戦決定に自ら賛成したうえ、終戦決定も実は不本意だったのです。
昭和天皇は、木戸を通じて反東条勢力の動向を把握したため、最終的に東条支援を撤回するに至った。
昭和天皇は、戦争継続が終結かで揺れ動いていた。戦局が悪化の一途をたどるなか、昭和天皇は戦争の継続と勝利への自身を失っていくものの、一撃論をくり返して、戦果を期待しながら戦争継続に執着していた。
いずれ日本が敗戦に追い込まれたとき、国体護持のためには、戦争責任者の確定が求められる。そのとき、皇室が責任追及されないためには、開戦時の首相である東条に一切の責任を負わせるのが得策だという考えがあった。戦局悪化の責任を東条に負わせ、天皇や皇族への戦争責任追及の可能性をなくすために、当局は知恵をしぼった。
1945年6月、鈴木貫太郎内閣が発足した。このとき、昭和天皇は依然として沖縄の戦局に期待していた。聖断の目的は天皇制の維持すなわち団体護持の一点であり、「下万民のため」というのは表向きの理由にすぎなかった。もし「下万民のため」というのなら、もっと早く戦争終結が実行されたはずである。聖断のシナリオとは、日本国土と国民とを戦争の被害から即時に救うために企画されたものではない。戦争による敗北という政治指導の失敗の結果から生ずる政治責任をタナ上げするために着想された、一種の政治的演出にすぎないものだった。最後の時局収拾策としての「聖断」は、天皇や木戸の「英断」でも、「主体的判断」でもなかった。
重臣・宮中グループに共通する国内矛盾噴出への可能性に対する恐怖心と、それによる国体崩壊の危機感こそ、彼らをその根底から戦争終結と、天皇の聖断を切り札とする「早期」戦争終結へと向かわせた最大の理由であった。
天皇の明確な意思によって日米戦争は開始された。そして、アジア太平洋戦争は終結した。日本の侵略戦争を正当化するものはない。「ABCD包囲網」なるものは、フィクションにすぎない。
戦争終結を天皇の「聖断」によるものとする俗説を根底から批判する本です。一読に価します。
(2013年12月刊。2200円+税)
2014年4月11日
検証・防空法
著者 水島 朝穂・大前 治 、 出版 法律文化社
水島教授は、私の尊敬する憲法学者ですが、戦前の日本が、いかに国民の生命・財産を無視する国家であったのか、実に詳しく論証しています。さすが、学者です。
アメリカ軍は日本の都市を空襲する前に、それを予告するビラ(伝単)を投下して退去するよう警告していたのですね。初めて知りました。
当局は、その米軍による警告ビラを改修し、住民が逃げ出すのを防止していました。それで、空襲被害は大きくなったのです。なぜ都市から逃げたらいけないのか。それは、戦意喪失につながるから、なのです。
終戦1ヵ月前の7月に、青森市に、アメリカ軍が空襲を警告するビラを大量に投下した。市民は続々、郊外へ避難していった。すると、青森県は、7月末までに戻って来ないと、住民台帳から削除して、配給物資を停止すると通知した。
台帳からの削除は、「非国民」のレッテルとなり、社会からの抹殺に等しい。市民は、次々に戻ってきた。そして、アメリカ軍は、予告どおり空襲した。その結果、1000人ほどの死傷者を出すに至った。この青森県の通告は、防空法にもとづくものだった。
1941年の防空法の改正審議のとき、佐藤賢了・陸軍省軍務課長(のちに陸軍中将)は、次のように述べた。
「空襲を受けた場合、実害そのものはたいしたものではない。周章狼狽・混乱に陥ることが一番恐ろしい。また、それが一時の混乱ではなく、ついに戦争継続意思の破綻になるのが、もっとも恐ろしい」
国民を戦争体制にしばりつけ、兵士と同じように生命を投げ捨てて国を守れと説く軍民共生共死の思想である。兵士の敵前逃亡は許されず、民間人も都市からの事前退去を許されない。それを認めると、国家への忠誠心や、戦争協力意思が破綻し、空襲への恐怖心や敗北的観念が蔓延する。人員や物資を戦争に総動員する体制が維持できなくなる。
そこで、政府は都市から住民が退去することの禁止を法定した。国民は、戦線離脱が許されなくなった。全国民が国を守る兵士として、「死の覚悟」を強いられ、退路を絶ったのが、1941年の防空法改正だった。都市から逃亡したものは、「非国民」であり、都市に戻る資格はない。
このように、政府の公刊物で「非国民」という言葉が堂々と使用されていた。
焼夷弾には、水をかけても、爆発するだけで、何の効果もない。このことを政府は知っていて、国民に隠すことにした。
空襲にあったとき、ロンドンやバルセロナなどでは、地下鉄の駅や通路が大規模な公衆避難場所として解放され、その結果、多くの市民の生命が助かった。しかし、日本では、空襲があるときには、地下鉄、地下通路の入り口は封鎖された。人々を地上に追いやってしまい、その結果として犠牲者が増えた。
「町内会、常会、隣組は、逃げたくても逃げられない」という相互監視体制である。その装置としての隣組が整備された。
1945年6月、帝国議会は、「義勇兵役法」を制定施行した。15歳から60歳までの男子、17歳から40歳までの女子は、すべて「義勇兵」となり、軍の指揮下に入って、本土決戦に備えることになった。
空襲被害による国を被告とした裁判が進行中ですが、安倍首相の突出した異常さから目を離すわけにはいきません。本当に、それでいいのでしょうか・・・。
(2014年2月刊。2800円+税)