弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦前)
2015年9月27日
遊廓のストライキ
(霧山昴)
著者 山家 悠平 出版 共和国
戦前、女性を縛りつけていた遊廓でストライキが頻発していただなんて、驚きます。
第一の波(ピーク)は、1926年5月から10月までの半年間。このとき、広島、大阪、下関、品川などで娼妓たちの集団逃走と自由廃業要求が続いた。第二のピークは、1931年2月から2年間も続いた。全国9ケ所の遊廓でストライキが起こったが、うち半数が九州だった。佐賀武雄、小倉旭町、門司馬場、佐世保勝富、大牟田新地町。
1930年(昭和5年)、遊廓が全国に542、娼妓が5万2千人、芸妓8万人が働いていた。当時、日本には公娼制度があった。公娼制度とは、政府公認の管理売春制度である。
女性たちは、所轄の警察署に娼妓として登録し、鑑札を受けることで売春営業が許可された。鑑札料として、「賦金」と呼ばれる特別の税金を月々納める義務を負っていた。
遊廓の女性は、奉公契約をむすんだ奉公人であり、多額の前渡金に拘束されていた。奉公契約の形はとっていても、鞍替え(実質的な転売)の権利は抱主にあり、実際には人身売買だった。
娼妓たちは、貸座敷免許地内に居住しなくてはならず、警察署の許可がなければ、免許地の外に出ることも出来なかった。
女性たちには強制的な性病検査を義務づけられた。この目的は女性の保健・治療ではなく、兵士の保護にあった。
女性が前借金を返すためには、1日平均して3人の客をとる、年間1000人近い客をとらなければいけない。これが6年のあいだ続く。多いときには一晩で10人以上の客を相手にすることも珍しくはなかった。
6年で遊廓のなかの女性はだいたい入れ替わっていた。
娼妓の9割が10代後半から20代の女性で、30代後半になると遊廓を離れていた。
戦前、全国各地にあった遊廓の実情を調べた本です。大正期の労働運動の高揚期にあわせて遊廓でもストライキなどがあっていたとはまったく知らず、呆然としてしまいました。
(2015年5月刊)
2015年9月18日
満州難民
(霧山昴)
著者 井上 卓弥 、 出版 幻冬舎
いざというとき、国家は国民を助けず、冷酷に見捨ててしまう。
そのことを証明しているのが、戦争末期の満州難民です。軍隊も国も、さっさと自分たちは列車に乗って日本に帰り、寄る辺なき大勢の日本人家族が満州の地に取り残されてしまいました。
王道楽士をつくるという幻想にかられて満州へ移住していった日本人を、今の私たちが馬鹿な人々だと切り捨てるのは簡単ですが、それは日本の国策だったのです。その国策にしたがった人たちを日本の国家が見捨ててしまったのですから、国家指導者の責任は重いというべきです。
いま、自民・公明の安倍政権は嘘八百を並べたてて戦争法案を強引に成立させようとしています。日本の自衛隊をアメリカと一緒になって地球の裏側まで派遣して海外での戦争に参加させようとする憲法違反の法案なのに、国民に対しては中国や北朝鮮の脅威をあおりたてて法案の必要性をことさら言いつのっています。マスコミでは桜井よし子が安倍政権の応援団です。こんなひどいウソを一国の首相が言い続けて、それをNHKなどのマスコミがそのまま垂れ流しているのです。許せません。
主戦直後の8月9日、10日の2日間に、関東軍と軍属そしてその家族3万7000人が鉄道をフル稼働させて新京を発って南へ向かい、日本本土へ引き揚げていった。
当時、満州在住の日本人は155万人いて、開拓移民は2割ほど。その3割近い8万人ほどが生命を失った。日本政府は、満州に住む日本人の一般住民(民間人)の日本本国への帰還について、きわめて冷淡だった。満州での日本人死者17万6000人のうち、開拓移民の犠牲者は8万人近かった。
満州各都市における日本人死者は、終戦前に48万人の日本人人口をかかえた奉天が3万人で、一番多い。新京特別市は15万人の日本人人口が敗戦後は20万人にまでふくれあがり、うち2万7000人が亡くなった。
ある子どもは亡くなる前に、「僕を穴のなかに埋めないでね」と言い残して息を引きとった。本当に可哀想です。何度読んでも涙が出てきます。
終戦当時、朝鮮半島にいた日本人は、北緯38度線より北に30~40万人、南側に50~60万人。合計80~100万人。朝鮮北部にとめおかれた日本人は難民7万人をふくめて40万人。そして、1年間で3万4000人が亡くなった。その犠牲者の大半が子どもと女性。厳冬期のことだった。
戦争の悲惨さを改めて実感させる本となっています。
このような事態を引き起こした政府の責任は厳しく追及されるべきですし、いま再び安倍政権は同じ道に突きすすもうとしています。許せません。
(2015年5月刊。1900円+税)
2015年9月17日
生きて帰ってきた男
(霧山昴)
著者 小熊 英二 出版 岩波新書
著者の父親の伝記です。さすがに社会学者だけあって、裏付け調査がすごいのです。父親の語る話が細かいところまで具体的なのには驚かされます。この親にして、この子あり、という気がしました。よくぞ、ここまで調べ尽くしたものです。
実は、私も父の聞き書きをもとにして、同じような伝記を完成させたことがあります。父が病気(癌)のため入院しているときに、テープレコーダーを病室に持ち込み、その生い立ちを語ってもらい、あとでテープ起こしをし、また、私なりに歴史を調べ、父が語った事実を裏付けていったのです。
たとえば、私の父は「三井」の労務係の一員として、朝鮮半島に徴用に行っています。朝鮮人の強制連行は炭鉱でひどかったのですが、化学工場では無理でした。勤労意欲のない人を、精密な化学工場で無理に働かせても、まともな商品はつくれなかったというのです。なるほど、と私は思いました。強制労働は単純肉体労働でしか役に立たない、このことを父からの聞きとりで理解しました。
この本は新書版で390頁もある、大変な労作です。最後に紹介された言葉がいいです。さまざまな質問の最後に、人生の苦しい局面で、もっとも大事なことは何だったかを訊いた。
父親はシベリアに抑留され、また戦後の日本で結核療養所に入っていた。未来がまったく見えないとき、人間にとって何がいちばん大切だと思ったか?
「希望だ。それがあれば、人間は生きていける」
この答えだけでも、本書はここに紹介する価値があると思いました。
著者は、最後に、こう書いています。
父はやがて死ぬ。それは避けえない必然である。しかし、父の経験を聞き、意味を与え、永らえさせることはできる。それは、今を生きている私たちにできることであり、また私たちにしかできないことである。
なるほど、そうなんですよね。団塊世代の私たちは、みな定年退職してしまっていて、自分を振り返っています。先日、私が母のことをまとめた本(こちらも新書版)をネットで知ったとして、私の見知らぬ人から手続をもらいました。なんと、私と同じ年に生まれ、同じ年に東大に入った人でした。母の異母姉の夫の孫にあたる人ですから、私とまんざら縁のない人ではありません。世の中は狭いものだと痛感しましたし、ネットの威力を改めて思い知らされました。
1937年12月、南京が陥落したとき、「提灯行列」があった。下のほうは冷めていた。戦争について、勝った話ばかりが伝わってきて、そのたびに日本軍が占領した場所に地国の上に旗を立てる。ところが、いくら旗を立てても、戦争が終わらない。
なるほど、こんな冷めた見方が当時もあったのですね。
旧制中学の国語教師は、乃木希典について、こう言った。
「乃木さんは、日本では偉いことになっていますが、外国では、軍人としては能力不足で、そのため多くの犠牲者が出たと言われている」
ホント、そうなんですよね、、、。
サイパンで日本軍が「玉砕」し、東京が空襲されるようになって、日本の敗北が論理的に考えると必至になった。このとき、人々は、それ以上のことは考えられなかった。考える能力もなければ、情報もなかった。考えたくなかったのかもしれない、、、。人間は悪いことは信じたくない。 いつでも希望的観測をもってしまう。
シベリア抑留で、日本人が次々に死んでいった。おそらくロシア人は、日本兵がこんなに寒さに弱くて、犠牲者が続出するとは思っていなかったのだろう。
栄養失調になると小便が近くなる。もう少しひどくなると、下痢になる。夜中に、みんな頻繁に起きて小便に行っていた。便所で尻を出しても、尻は丸いから凍傷にはならない。凍傷になるのは、鼻とか指だ。鼻が赤くなっていたら、気をつけてゆっくり暖めないと、鼻が落ちる。誰もが、他人の消息を気づかうような、人間的な感情が失せていた。
戦前、「生きて虜囚の集めを受けず」という戦陣訓を教え込まれていた将兵は、自決に失敗した東条英機を軽蔑したし、昭和天皇は終戦の責任をとって自決すると思っていた。
著者の父親は、日本に帰ってきた昭和26年から4年間、結核のために療養所生活を余儀なくされた。
淡々と、体験した事実を具体的かつ詳細に語っていくのには、言葉が出ないほど圧倒されてしまいます。でも、こうやってフツーの日本人の戦前・戦後の歩みが語られ、明らかにされるのは、とてもいいことだと思いました。そこには「自虐史観」というナンセンスな非難は存在する余地がありません。
(2015年6月刊。940円+税)
2015年9月11日
人びとはなぜ満州へ渡ったのか
(霧山昴)
著者 小林 信介 出版 世界思想社
戦前の満州(現在の中国東北部)には、100万人をこえる日本人がいた。その3分の1は農業移民だった。そして、長野県は満州移民をもっとも多く送り出した。
満州への農業移民には、3つのパターンがあった。
自由移民・・・個人単位で満州に渡った。
分村移民・・・ひとつの村が送り出しの母体となって移民を送り出す。
分郷移民・・・近隣町村が合同してひとつの開拓団を組織した。
戦前の恐慌は1934年が底で、その後は長野県の経済は回復傾向にあった。そして、徴兵・徴用が相次いだことから、農村は労働力不足の状況となった。そこで、農家の過剰人口を前提とする大量の移民送出は困難になったが、大陸政策上の理由から、満州移民は要求され続けた。
一般開拓団が行き詰まりをみせはじめると、多くの青少年が義勇軍として満州へ送られた。関東軍の予備兵力である。
1945年8月9日、ソ連軍は満州へ侵攻を始めた。このとき、関東軍は主力が南方に派遣されており、また、関東軍による「根こそぎ動員」によって満州各地の開拓村には壮年男子はおらず、老人、女性、子どもが残されていた。
満州開拓は、日本の大陸侵略を前提としたものであり、満州の大地に根をおろしていなかった。現地の中国人は、開拓民をうらんでおり、日本人を歓迎するどころではなかった。
長野県が送り出した開拓民2万6000人のうち、日本に帰還したのは1万1000人ほど。半数以上が日本に帰国していない。帰国できなかった。
この本は、阿智村の長岳寺の住職・山本慈昭氏の活動を紹介しています。私も先日、映画『望郷の鐘』をみました。山本慈昭氏ら開拓民の悲惨な体験を身近に実感できる内容の映画です。泣けて仕方がありませんでした。2013年4月には、満蒙開拓平和記念館が開館しています。
長野県が青少年を満州へ義勇軍として送り出すのが多かった原因の一つに、教師が農家の二・三男をそそのかしたことがあげられる。それは、前段に長野県では「教員赤化」事件で138人という、大量の意欲的な教師が特高警察から逮捕されたこと、このとき信濃教育会も当局からにらまれたことによる。そこで、信濃教育会は、「海外発展」を打ち出すことによって信濃教育会への風当たりを援和させようとしたのだろう。
国の政策(国策)は、コロコロ変わる。その犠牲(しわ寄せ)は国民にかぶってくる。
このことを改めて実感させられる本でした。アベ政権にだまされてはいけません。「国を守るため」というのは、「国民を守る」ことに直結しておらず、矛盾することが多いことを学ぶべきだと痛感させられました。
(2015年8月刊。2500円+税)
2015年8月28日
朝鮮王公族
(霧山昴)
著者 新城 道彦 、 出版 中公新書
1910年、日本が韓国を併合したとき、天皇は詔書を発して「王族」、「公族」を創設した。大韓帝国皇室の人々についての身分である。これは、戦後の1947年まで存続した。
日本が1910年に韓国を併合して以降、補助金が不要だったのは1919年の1年のみで、あとは、ずっと赤字だった。台湾は、日本の編入からわずか10年で補助金を辞退するまでに経済的に発展し、宗主国(日本)に金銭的な利益をもたらした。韓国とは、まったく対照的だ。日本の財界や言論界では、韓国併合による財政負担増を非難する声が少なくなかった。
それでも、経済性を度外視して日本が韓国帝国を支配下に置こうとした目的は、国防にあった。危機意識があった。とくに北方にはロシアという明確な仮想敵国が存在していたので、朝鮮半島の確保は急を要する課題だと考えられていた。
大韓帝国では、1903年ころ経済支出の43%を軍事費が占めていて、財政紊乱(びんらん)の原因となっていた。そのうえ、兵員は1万人にみたなかった。
朝鮮貴族令が定められ、朝鮮貴族には日本の華族と同一の礼遇が保障された。ただし、朝鮮貴族のなかに、公爵になった者はいない。
日本の皇族が朝鮮の王公族に嫁いでも、めとることはできなかった。朝鮮人の血を皇族に入れないという考えが宮内省にあった・・・。
日本の首相として韓国併合を成立させた桂太郎が国葬にならなかったのに、併合された側の李太正が国葬になった。なぜか? この答えは単純であり、朝鮮人を懐柔するためだった。
李太正の国葬のとき、寂寞たる国葬に比べて、内葬は盛況だった。1万5000人以上の人々が集まった。国葬の会場では、朝鮮人のほとんどがボイコットしたため、会席は空席だらけになった。国葬を押しつけたのは失敗だった。
どこの国だって、他民族から支配されたとき、独立を目ざしてがんばるものですよね。生半可な日本の懐柔策は朝鮮の人々を完全におさえこむことは出来なかったわけです。そりゃあ、そうですよね。
帝国日本に準皇族の身分が存続していたなんて、ちっとも知りませんでした。
(2015年3月刊。840円+税)
2015年8月11日
テキヤと社会主義
(霧山昴)
著者 猪野 健治 、 出版 筑摩書房
テキヤのなかに社会主義者がいただなんて、信じられませんよね。
この本は、テキヤの生態を紹介するとともに、社会主義者やアナキストとの関わりを教えてくれます。
なかでも私が注目したのは三宅正太郎判事の行動です。今の時代にはとても考えられない行動を裁判官がとったのでした。
香具師(やし。てきや)の社会は、今や崩壊の危機にある。トランク一つをぶら下げて、どこにでも行く、「寅さん」のような自由な空間は存在しない。香具師の社会には、次の厳守事項があり、これを破ると「破門」される。それは全国の同業者に回状がまわされ、業界から締め出される。
バヒハルナ・・・おカネをごまかすな。
タレコムナ・・・警察そして部外者に身内や内輪のことを漏らすな。
バシタトルナ・・・仲間の妻女や交際相手に手を出すな。
香具師の社会は閉鎖社会なため、内部のことは部外者にはうかがい知れない。
バイネタ・・・商品。ロクマ・・・特殊な才覚、技術がないとできないもの(街頭易者)
大ジメ・・・口上で人を多数集めて商売すること。
ギシュウ・・・主義者。社会主義者や無政府主義のこと。
香具師の稼業は、毎日が修行なのだ。その積みかさねで、不退転の度胸と根性が磨きあげられていく。警察との駆け引きも自然に上達する。
香具師の世界には、「メンツウ」の習慣がある。面通。初対面の挨拶。
「寅さん」のような純粋な一匹狼は、実は存在しない。どこかの一家に所属していないと、香具師としての商売はできない。
てきやは一家とか組を名乗っているが、それはヤクザ組織を意味するのではない。本来は単なる稼業名であって、商売の「屋号」のようなもの。
「友だちは5本の指」という言葉が香具師の世界にある。同じ青天井の下で商売をやっているのだから、みんな仲間だという意味。同類意識は非常に強い。ただ、そこでも、兄弟分の関係や親分子分関係は重視される。
昭和61年に91歳でなくなった高嶋三治は、アナキストであり、香具師の世界に君臨した大御所である。アナキストたちは、関東大震災のさなかに軍部によって虐殺された大杉栄夫婦と一緒に殺された橘宗一少年までもが軍によって殺害され、古井戸に遺体が投げ込まれたことに激昴した。その復讐戦にたち上がったのが、アナキスト団体ギロチン社だった。
ギロチン社のテロ行動がことごとく失敗するなかで、高嶋三治は、いきなり警察に逮捕された。強盗殺人島の罪で・・・。まったく自分の身には覚えがない高嶋は真相を究明しようとした。一審の名古屋地裁は無罪。検察控訴がなされ、高裁の審理が始まる前、突然、三宅正太郎・裁判官が高嶋の独房にやってきた。
「私は、高裁の三宅正太郎だ。きみは間違いなく無罪だと思う。しかし、私がきみを無罪で釈放しても、警察は、次々と新しい手をつかって、きみを逮捕するだろう。一生を鉄格子のなかで過ごしていいものか・・・。やたら若い命をそんなに、空しく燃やし尽くしていいのか・・・。私が生きている間だけでも、アナーキストであることを読みとどまってほしい。シャバで自由に生きてみろ。必ず世の中の人のために役立つ男になれる。私は、きみに賭けてみたい」
三宅正太郎は、高嶋の過去の調書を見て、この男は骨がある。ぜひ会ってみようと思ったのだろう。そして、高嶋を博徒(ばくと)である本願寺一家の高瀬総裁に預け入れた。
昔の裁判官のなかには、このように留置場のなかにいる被告人のところへ押しかけ、将来展望を語ったというのです。今では、とてもそんなことは考えられませんね。この三宅正太郎は、「裁判の書」という、昔から有名な本を書いています。
(2015年2月刊。2000円+税)
2015年7月14日
日米開戦の正体
(霧山昴)
著者 孫崎 享 、 出版 祥伝社
著者は、集団的自衛権の行使容認に反対しています。私も同感です。そして、今の安倍政権のやっていることは、戦前の日本が犯した間違いをくり返そうとしていると鋭い口調で警告しています。
「真珠湾攻撃の愚」と、今日の「原発、TPP、消費税、集団的自衛権の愚」とを比較すると、驚くべき共通性がある。
①本質論が議論されない。
②詭弁(きべん)、嘘で重要な政策がどんどん進められる。
③本質論を説いて邪魔な人間とみなされた人は次々に排除されていく。
本当に、そのとおりです。安倍政権は怖いです。絶対に、そのうしろからついて行きたくはありません。そこに待っているのは「死」です。
戦前、日本の軍部と結びついていながら、戦後になると一転してアメリカと結びついた一群の人々がいる。その一人が牛場信彦。外務次官そして駐米大使を歴任した。もう一人が吉田茂。田中義一首相のもとで、満州での軍の使用を主張していた。戦後は首相となって、アメリカにべったり。
主義主張よりは、勢力の最強のものと一体になることを重視するという日本人の行動の悪い側面を体現している。
新聞で戦争報道が一番の「娯楽」となってしまうと、どうしても強硬な意見を吐く人たちがヒーローになっていく。戦争に批判的な人たちは、「腰抜け」とか「卑怯者」と叩かれる。
今まさに、現代日本がそのようになりつつあるのが怖いです・・・。
陸軍はロシア(ソ連)との戦争は考えていたが、アメリカと戦うなんてまったく考えていなかった。だから、対米戦略はない。ところが、その陸軍が「アメリカと戦うべし」と主張したのだから、状況は倒錯していた。
昭和天皇と側近の木戸幸一がもっとも恐れたのは、内乱、そして昭和天皇排除に動くことだった。この指摘には、強くなるほど、そうだったのか・・・、と思いました。
昭和天皇といえども、単なる掌中の玉でしかなく、絶対専制君主ではなかったのです。ですから、軍部は、もっと使い勝手のいい天皇をうみ出すのではないかと心配していたのです・・・。
木戸幸一は内乱を恐れたが、戦争は恐れなかった。自己一身の生命に対する危険は恐れたが、国家の生命に対する危険は、いささかも恐れなかった。日露戦争のあと、日本の国家予算の30%が国債費で、さらに30%が軍事費である。このような状況では、社会不安が出てくるのは当然。
日露戦争が真珠湾攻撃につながっていった大きい理由は、経済問題と、それに起因する社会不安だ。政府は、増税し、物価は高騰する、国民の不満が高まり、現状変革を望む。この不満から、左翼運動が活発化し、それを抑える弾圧が強まる。急進的な勢力が「革新」を求める。その代表が軍部の「革新」グループ。
戦前の吉田茂は、中国への派兵を先頭切って論じていた。戦後には「反軍の代表」だったかのような顔をしているが、実は正反対のことを提唱し、軍部にとり入っていた。
軍にとって、統帥権とは、軍に反対するものがいたときに遣う言葉であって、天皇の意向を最大限に尊重して動くのではないことを、熱河作戦が示している。天皇といえども、その一線をこえたときには、「大なる紛擾と政変」を覚悟せざるをえない。熱河作戦は、天皇でも軍の意向に逆らえないことを示した。
いま、戦後70年の平和が、安倍政権によって「強制終了」させられようとしています。とんでもないことです。昨日と同じ平和な明日が保障されない日本になりそうです。戦争反対の声を、みんなが国会に向けて突き上げるときです。
(2015年5月刊。1750円+税)
2015年6月16日
戦艦大和講義
(霧山昴)
著者 一ノ瀬 俊也 、 出版 人文書院
戦艦大和は、世界一の威力ある主砲を積んで、1941年に就役し、1945年4月、沖縄へ来襲したアメリカに渡航して沈没された。このとき、乗組員2700人が艦とともに死亡した。
日本人は、「大和」の物語を通じて、「あの戦争」の記憶を自分の都合にあうようにつくり直してきた。
「宇宙戦艦ヤマト」は、日本人が地球を救う話だ。1970年代につくられたのは、高度成長を終えた日本人の優越感と劣等感が背景にある。完膚なきまでに負けた戦争を、空想の世界でやり直すことによって、心の傷の回復を試みたのだ。
私も、幼かった息子と一緒に、この「宇宙戦艦ヤマト」に夢中になったことがあります(もちろん、息子ほどではありませんでしたが・・・)。
なぜ、「大和」は沖縄へ出撃したのか?
沖縄にたどり着く前に、米空母機に撃沈される可能性が高いことは、その前にレイテ沖開戦で沈められた「武蔵」で実証ずみだった。だから、「大和」への出撃命令は、軍事的合理性を欠いていた。
海軍にとって、「大和」などの戦力を沖縄で使い切ることによって、「海軍には、もう戦力がないのだから、戦争は止めるべきだ」という発言権が得られることになるという考えがあったのではないか・・・。これって、恐ろしい官僚的発想です。人命軽視そのものです。
「大和」は、4月7日、九州沖で米機動部隊の放った攻撃機300機から攻撃され、撃沈されてしまった。3056人が死に、276人が生還した。
「大和」は、最後まで日本国民に名前を公表されることがなかった。
「大和」の艦長も乗組員も、一億国民が後に続いて死ぬと思ったからこそ、先に死地へ向かったのだ。そのとき、内地の日本人の命や安逸な生活を守ることは念頭になかった。すなわち、死の平等性が特攻の推進力となっていた。これを現代日本人は、すっかり忘れ去っている。
その余の日本人は、特攻せず、敵国アメリカに降伏して生きのびた。広島・長崎に落とされた原子爆弾が、それまでの「1億総特攻」という強がりを止め、生きのびるための格好の口実となった。
「大和」の生存者には、生き残ってしまったことへの罪悪感をかかえながら、戦後を生きていった。
「大和」とは、日本にとって、そして日本人にとって何だったのか、戦後それはどう変容したのか、面白い視点で考え直してみた画期的な本です。
(2014年10月刊。860円+税)
2015年5月27日
ドクター・ハック
(霧山昴)
著者 中田 整一 、 出版 平凡社
ドイツ人であるフリードリッヒ・ハックは、1887年10月にドイツのフライブルグで生まれた。大学で経済学博士になったことから、ドクター・ハックと呼ばれるようになった。
まさしく波瀾万丈の生涯を送りました。第一次大戦では中国の青島にいて、27歳で日本軍の捕虜となります。すでに日本にいたことがあり、日本語を話す捕虜として貴重な存在でした。このとき、日本はドイツ将兵の捕虜を虐殺するどころか、高給優遇したのです。
それでも、将兵は脱走を試みるのです。ドクター・ハックは脱走の手伝いをしました。5人のうち1人は捕まりましたが、残る4人は無事にドイツに帰り着いたのでした。
ドクター・ハックは、逃亡幇助の罪で懲役1年6ヶ月の有罪となりました。収容された習志野俘虐収容所の所長は、53歳で病死してしまいましたが、西郷隆盛の長男でした。
ドクター・ハックは、1920年に釈放された。そして、33歳のドクター・ハックは、日本海軍や兵器産業のためにドイツの先進技術導入のエージェントになった。
ドイツに日本を紹介する映画が企画されました。そのとき、日本をよく知るドクター・ハックが活躍したのです。はじめは田中絹代が日本の女優として考えられていました。しかし、ファンク監督が原節子を見て、そのトリコになってしまったのです。
原節子は、日本を代表する大女優ナンバーワンだと思いますが、その引退後、今なおご存命にもかかわらず、一切その姿が報道されていません。立派ですね。個人情報の秘匿というのは、こうでなくてはいけないと私もつくづく思います。
ドクター・ハックは、満州国の溥儀皇帝にも面会しています。そして、ナチス・ドイツのカナリス提督の下で、スパイ活動をしていました。これは、ヒットラー・ナチスに共鳴していたのではなく、むしろ逆なのです。カナリスはドイツ敗戦前の直前にヒトラーによって処刑されています。
ドクター・ハックは、突然、ドイツの秘密警察「ゲシュタポ」に逮捕された。罪名は「同性愛」。まさしく、冤罪。ナチスの権力機構内の抗争によるもの。そして、ドクター・ハックを日本海軍が救った。
ドクター・ハックは、日本の終戦工作にも関わったようです。
いま、日本では戦前に間違ったことなんかしていないなどと開き直った言説があり、それをもてはやす人々がいます。しかし、日本人の権力者が間違いを犯し、日本という国の内外であまりにも大きな被害を与えたことは消せない事実です。それを無視して、日本はアジアにとっていいことをしたのだと言い張っても、まったく説得力がありません。もう少し、勇気をもって事実をみてほしいものです。
(2015年1月刊。1700円+税)
2015年5月17日
星砂物語
(霧山昴)
著者 ロジャー・パルバース 、 出版 講談社
アメリカ人による戦争中の沖縄は、鳩間島で起きた戦争体験記と称する小説です。
すごいです。登場人物になりきった思いで読みふけってしまいました。
ハトマ島は、沖縄本島ではないので、直接の戦闘行為はありません。ところが、そこに、日本の脱走兵とアメリカの負傷兵が同じ小さな洞窟に隠れているのです。さすがに昼間からうろうろするわけにはいきません。そこに16歳の日本人少女が登場します。アメリカで暮らしていて日本へ戻ってきたので、英語が話せます。負傷したアメリカ兵はこう言います。
人を殺すと、人間の性格は変わる。そのため兵隊がアメリカに帰って、母親や妻や姉たちとまた一緒に暮らすようになったとしても、彼自身が故郷へ実際に帰ることはできない。つまり、帰ったのはそれまでの彼ではないのだ・・・。
井上ひさしも亡くなる前に読んで絶賛したとされていますが、たしかに戦争の悲惨さを読み手が実感できる形で再現した小説だと思いました。しかも、それを「敵国」アメリカ人が日本語で書いたというのですから、驚嘆するしかありません。
自民党や公明党の幹部連中に読んでほしいと思いますが、恐らく彼らは見向きもしないのでしょうね。戦争の悲惨さなんて語ってほしくないでしょうから・・・。
でも、戦争になったら、いつ殺されるのか分からないのですよ。そして、いま自民・公明の安倍政権がすすめているのは、まさしく戦前への「回帰」なのです。本当に恐ろしい、怖い世の中です。
(2015年3月刊。1400円+税)