弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
ヨーロッパ
2023年1月21日
パピルスが語る古代都市
(霧山昴)
著者 ピーター・パーソンズ 、 出版 知泉書館
1897年、パピルスがエジプトの都市の周りの、砂で覆われたゴミ捨て場から出土した。
パピルスの残存に必要なのは乾燥。エジプトの中部と南部では雨がほとんど降らず、砂に守られ、滅失しやすい遺物(パピルス)が数千年間も保存することができた。
1897年に発見されたのは「イエスの御言葉」。
エジプトのプトレマイオスの王国は、土地と職業に課税した。たとえば、ブドウ園と果樹園の収穫の6分の1が税として徴収された。油、塩、ビール、亜麻、パピルスなどの重要な生産物や輸出品は、国家が独占して売買するか、管理した。
ローマ帝国のなかでも、豊かで肥沃で攻めるのが難しいエジプトは傑出した存在であり続けた。エジプトは都市ローマが必要とする小麦の3分の1を供給し、皇帝位を狙う人物の拠点となりえた。
あまり教育を受けてない者たちは、エジプト人のアクセントで話し、子音のLとR、またDとTを区別できなかった。こりゃあ、まるで日本人ですね。
ミイラづくりにはお金がかかった。遺体をミイラにする処置のための費用は高かった。肖像画は生前に描かれ、死後にミイラの棺に差し込まれた。ミイラ肖像画は、古典古代世界から残存する、ほぼ唯一の肖像画。
口絵写真に何枚かの肖像画が紹介されていますが、とても鮮明な人物画です。
パピルス紙は、書物や記録簿のような長いテキストや日常生活に用いる短いテキストのために使われた。ナイル河谷では、貧乏人でなければ、パピルス紙は豊富に手に入れられた。
パピルス紙の製造は、まず、パピルスの茎を収穫し、皮を剥ぎ、髄組織の内部を長く切り、スライスして、薄く細長い短冊状にする。短冊を互いに接するように平らに並べ、その上に別の層をつくるように直角に短冊を置く。この2層を押し合わせると、樹液の多い髄が融合し、隣りあう短冊が、そして上下の層が結合して、柔軟で滑らかなシートができあがる。
文字を書くのはエジプトでは古くから行われていて、高い名声を伴っていた。神官と官僚は、ファラオの王国で職務を果たすため、書くことを求められ、異なる形の複雑な文字を習得した。
国家は現金と穀物の形で税を求めた。それを得るためには、農民と地方の役人の労働を必要とした。なので、土地台帳、税の会計、そして定期的な戸口調査からの情報という詳細で精緻な記録に頼っていた。大量のパピルス紙、文字を書く習慣、そして増大する官僚制のおかげだ。
浴場は、旅行者だけのものではなく、むしろ市民生活にとって重要だった。
家にはトイレがない。家具として尿瓶(しびん)や室内用便器があった。
都市には、エリートが存在した。都市社会のピラミッドの頂点には、公職者と都市参事会が君臨していた。
相続により財産の集積も分散もあった。
競技祭は、都市生活にさまざまな影響を与えた。市民も競技祭に参加し、代理としてであれ、栄冠を手にする機会を得た。
ローマ皇帝はファラオ。つまり、君主であり、神だった。ほとんどの皇帝はエジプトに姿を現さない神という存在だった。
パンは、たいてい自家製。パンづくりは伝統的に女性の仕事で、裕福な家では女奴隷が担い、早起きが必要だった。
手紙の形式には流行があった。プトレマイオス朝時代のギリシア人は横に長く縦に短い紙に短い手紙を書いた。ローマ時代には、横が短く、縦長の紙が好まれた。
パピルスを判読していった学者・研究者のみなさんの地道な努力には、今さらながら心からの声援を送ります。
(2022年8月刊。税込5500円)
2022年12月23日
兵士の革命、1918年ドイツ
(霧山昴)
著者 木村 靖三 、 出版 ちくま学芸文庫
1915年から始まった食糧配給制は、二重の意味で戦時体制の維持に打撃を与えた。一つは、不十分な量に対する不満。第二に、食糧統制が、巨大なヤミ市場の存在(生産量の3分の1がヤミに流れた)によって制度の実効性に疑義が出され、高額なヤミ価格に手の出せない労働者や低所得者層の反発は一層つのった。すなわち、「平等な」制度が、かえって社会の不平等を他の統制制度の不備を際立たせる目安として作用した。社会対立は、飢えた者と飢えざる者の対立として現れた。
重工業の大企業には黄色組合(御用組合)が多かった。経営側と、その御用組織は、末端の労働者にとって、いずれも敵だった。
1918年以降、ドイツ軍の兵士たちが集団的に前線への移動を拒否した。
事実上の叛乱だが、軍当局は叛乱とすると、兵を逮捕し、それによって前線行きを免れさせることになるのを懸念して、ともかく部隊を前線に送り出すことに全力をあげた。そのため護送部隊が付いていった。
ドイツでは、将校の権威が急速に低下していった。高級将校が街頭で脅迫的野次をあびせられ、列車内の軍人用と民間人用の仕切りが無視され、軍人用の席が民間人によって占められるようになった。
ドイツには、もともと海軍力の伝統はなかった。陸軍の将官が海軍の指令官の地位にあった。軍の主力は圧倒的に陸軍だった。
海軍将校団は、ブルジョワ層出身者が多数を占めた。主力艦では、比較的高齢の将校が若く未経験の将校が多くなり、乗組員がベテラン化するのと対照的に艦内の士気は低下していった。
食事は将校用、下士官用、一般兵士用と、別立て。6月初め、戦艦「ルイトポルト」の乗組員が乾燥野菜の昼食を拒否して、ハンガーストライキに突入し、代わりの食事を要求した。そして、叛乱実行の罪で5人が死刑を宣告され、うち2名が銃殺された。
兵士たちの内情は、乗組員の半数は無関心で、4分の1が憤激し、気の毒な連中に心から同情し、4分の1が即時行動と償いへの覚悟をもっている。死刑という厳罰に震えあがったのは、ごく少数だけ。
海軍の兵士の不満の根拠は艦内生活への不満であり、将校への増悪だった。
海軍の水兵は蜂起という行動に気力を見いだし、行動の正当性に確信をもった。緊張感にみちた態度と、それに蜂起鎮圧部隊は圧倒され、解体していった。11月5日、もはや水兵の蜂起に対する組織的抵抗はなかった。市内のゼネストは予定どおり実施された。将校は武装を解かれた。蜂起後の将校団の無抵抗と退却の姿勢はあとあと大きな影響を及ぼした。
兵士評議会のメンバーは次々に交代した。そして活動的兵士の多くが、早くに軍を離れた。革命を開始し、数日で成功へと導いた海軍水平の大部分は、クリスマス前にはその家族のもとにいた。そして、兵士運動の特徴の一つに外部からの指導・監督を嫌う傾向がある。部隊構成員の意思のみを唯一の行動基準とし、それ以外の権威を認めなかった。領域的自律を志向する陸軍兵士と、横断的に行動する海軍水平は日常的に対立していた。兵士評議会が軍事的な領域から排除して、兵士の苦情処理機関に限定されていった。
労働者評議会メンバー200人のうち、あとでナチ党のメンバーになったのは2人しか確認できていない。兵士評議会300人のうち48人(16%)がナチ党員が関連組織のメンバー6人が存在していた。
ドイツ陸海軍兵士による1918年の革命の実際を丹念に詳しく究明していった貴重な労作だと思いました。
(2022年8月刊。税込1650円)
2022年12月21日
ナチ・ドイツの最後の8日間
(霧山昴)
著者 フォルカー・ウルリヒ 、 出版 すばる舎
1945年4月30日、ヒトラーは結婚したばかりの妻エファ・ブラウンとともに自殺した。ヒトラーは青酸カリを飲むと同時にピストルで頭(こめかみ)を撃った。そして、あらかじめ頼んでいたように部下たちが、ガソリンをかけて二人の遺体を燃やした。ヒトラーは、盟友ムッソリーニのように死体を広場に吊るされ恥ずかしめられないようにしたかった。
ソ連兵の一団が総統官邸にやってきて、ヒトラーの遺体を捜索した。スメルシュだ。歯科助手がヒトラーの義歯の特徴と一致していることを確認し、エファ・ブラウンのほうは歯科技工士が合成樹脂のブリッジを見て、彼女のものだと確認した。ところが、スターリンはなかなか納得しなかった。7月のポツダム会談のときも、ヒトラーはまだ生きているという考えに固執していた。最後の瞬間にヒトラーはベルリンを飛び立って、スペインに滞在している、あるいはUボートに乗って日本に逃れたのかもしれない...。疑ぐり深いスターリンならでは、ですね。
ドイツ東部の町デミンでは自殺が大流行した。家族全員が群れをなして自殺した。毒を飲み、頭に銃弾を撃ち込み、首を吊った。大部分の人は溺死(できし)を選んだ。500人から1000人が自殺した。これほどの自殺者を出した都市町はほかにない。
ドイツ国民の大部分はヒトラーの死の知らせを聞いても、悲しむことはなく、むしろ無関心だった。神格化されていた総統神話は、戦争末期の日々には急速に衰退していた。ナチズムも本質的な魅力を失った。魔法は消え去り、呪縛は解けた。
ヒトラーの死によって終戦が間近になったことで、少なからぬ人々がほっとしていた。
100万人が住むハンブルクではナチスのカウフマンがトップとして君臨していたが、ヒトラーの意向に反して無血でイギリス軍に明け渡すことを決意した。そのことによってカウフマンはいわば英雄となり、収監はされたものの、戦犯として法廷で追及されることもなく、戦後も裕福な市民として余生を暮らした。
ソ連兵によるドイツ女性の強姦はあまりにも目にあまるものがあった。それは、女性たちをものにすることで敗者に屈辱を味あわせたいという欲求でもあった。
これに対して、アメリカ兵やイギリス兵の場合には、暴力を使う必要がなく、少なからぬドイツ人女性がドルやタバコ・チョコレートとひき換えに進んで彼らに身を任せた。
ドイツ軍の捕虜となったソ連人兵士は570万人のうち300万人が死亡したが、そのほとんどは意図的に餓死させられた。アメリカ軍の捕虜収容所で死亡したドイツ兵士は8千人から4万人にとどまる。アメリカ軍は、ドイツ軍のような集団虐殺の意図はなかった。
マレーネ・ディートリッヒはハリウッド女優として有名だったが、その姉はドイツに残り、ナチス兵士向けの映画館を経営するなどしていた。それを知って、マレーネ・ディートリッヒは、自分は一人っ子として、姉の存在を口にすることはなかった。いやあ、そんなこともあったんですね...。
ドイツ国民は敗戦後、人間の姿をした悪魔であるヒトラーに従っていただけ、自分たちこそが犠牲者だと考えるようになった。誰もが迫害を受けていたユダヤ人たちを助けていたと主張し、その説明書をもらおうとした。
ヒトラー死亡後のドイツの様子を丹念に追って、人々の動き、目論見を明らかにした460頁もの労作です。とても読みごたえがありました。
(2022年7月刊。税込4950円)
2022年11月17日
追跡・間宮林蔵探検ルート
(霧山昴)
著者 相原 秀起 、 出版 北海道大学出版社
北海道の北、かつては日本領だったサハリンが大陸とは別の島だというのを探検して確認した間宮林蔵の足跡を北海道新聞の記者がたどったのでした。サハリンと大陸との間は今も間宮海峡と呼ばれています(今のロシアでも呼んでいるのでしょうか...?)。
間宮林蔵がサハリンを探検したのは1808(文化5)年から翌年にかけての2年間。そのとき間宮林蔵は30歳前後。そうなんですね、やはり若さが必要ですよね。
伊能忠敬は50歳台から日本全国を歩いて測量しましたが、寒さの厳しさが格段に違うサハリンには、やはり若さが不可欠ですよね。
伊能忠敬は、北海道の大部分を間宮林蔵の測量を基にしているそうです。
北海道新聞の記者である著者は、北海道大学(北大)探検部出身とのこと。すごいですね。
間宮林蔵が現地で実測して作成した地図は、現代の衛星データを利用してつくった地図と比べても遜色がないほどの正確さがある。
いやあ、実に、これって、すごいことですよね。基本は人間の足ですからね...。
間宮林蔵の描いた絵は、まるでドローンを飛ばして見たように、一定高度に視点を置いて、俯瞰(ふかん)するように描いた。間宮林蔵は、上空から見た風景を想像して絵を描いている。すごい、すごーい。
当時、サハリンの村では女性の力がすごく強かった。女性上位の村で、女性からの誘惑を間宮林蔵はなんとか拒絶して、村の男たちとのトラブルを避けた。僻地(へきち)で女性問題を起こすのは、探検家や冒険家にとっては、今も昔もタブーなのだ。なるほど、そうなんでしょうね...。
現在、サハリンでは犬ぞりはまったく姿を消して、スノーモービル全盛だ。日本のヤマハ製が人気だ。
サハリンには、アイヌの子孫だという「ワイサリ」と名乗る人々が住んでいる。
間宮林蔵はアイヌの集落でアイヌの女性と結ばれて、女の子が生まれ、北海道に子孫がいるそうですが、その名前は「間見谷」です。そして、東京と茨城県にも間宮家が続いているそうです。
この本は、北大構内の売店で購入しました。北大では、久しぶりにポプラ並木も見学しました。
(2022年4月刊。税込2750円)
2022年11月16日
村の公証人
(霧山昴)
著者 ニコル・ルメートル 、 出版 名古屋大学出版会
近世フランスの地方に住む公証人テラードたちの生活を記録した家政書を紹介した本です。ときはアンリ4世からルイ13世のころ、1600年前後ですから、日本では関ヶ原合戦(1600年)の前後にあたります。つまり戦国時代の末期で、江戸時代初期のころのフランスです。
場所はフランスの中心部のバ・リムーザン地方、その北部のフレスリーヌの村です。
主人公のピエール・テラード1世は1559年に生まれ、1628年に69歳で亡くなりました。
ピエールは村の公証人であり、書記であり、魔術師(シャーマン)だった。
ピエールは、文字を書く技量に熟達した。文字を自在に書くことで、農村の名士をして頭角をあらわした。そして、隣人やイトコたちに貸付を繰り返して所有地を広げていった。貸し付けたのは金銭だけでなく、穀物や家畜もあった。1601年4月から翌1602年12月までに114回の貸付けを行っていて、このうち77回はライ麦の貸付けだった。
この当時、宗教戦争の終結は、多数の農民が借金の重圧に押しつぶされて没落する事態を生み、所有地の集積を促進した。借金で首が回らなくなった債務者たちは財産を失った。ただし、彼らは先祖伝来の所有地の上で暮らし、自分たちの土地を耕し、その地は依然として、彼らの家名を冠している。彼らは追い出されることはなかった。それでも所有者としての地位は喪失した。収穫物折半による土地賃貸借が、この地方ではあたりまえ。家畜と農具を提供するのは土地所有者。家畜は投資目的で運用する。土地は、3分の1が耕作地で、3分の2が雑草地や放牧地。牧畜は重要性が高い。高地の荒野では羊の群れだけが生きていけるので、ここでは羊が圧倒的に多い。
ここでは狼との戦いは、ありふれた現実である。しかし、危険はそれだけではない。家畜伝染病も怖い。1頭のメス牛は、数頭のメス羊よりももうかる。ソバは、ライ麦のような麦角病はなく、貴重な自家消費用穀物だ。
家名を安定化するため、兄弟経営団を更新する。災難をできるだけ避けるには、複数の人数が得策だという打算にもとづいている。
女性は、慣習法によって、まったく自由に相続人を指定する権利をもっている。用益権を自らの手元に留保しながら、自分の全財産を一人の相続人に譲渡することもできる。
農民の世界では、夫婦財産制が非常に普及していた。原則として、新婦(妻)は、遺言により持参金を譲渡できる。これが、家族集団内における新婦の力の要因となっている。
新婦に持参金は、しばしば婚家の借金返済に充当される。そして、婚姻関係が解消されると、持参金は原則として「妻」側に返還される。
新しい家庭の懐(ふところ)に入った持参金は、災厄の折に利用できる資本としての価値しかない。家族にとって新婦の持参金とは、危機的な財政難を立て直したり、それまでの債務の相殺を容易にしたり、ときには土地の購入に投資するのに、とりわけ有用だった。
潤沢な持参金をそなえを娘であれば、相続人の妻の座は射程のなかにある。
2番目の結婚から生まれた娘たちは母親の権利と父親の遺留分だけである。
職業訓練は、子どもたちの出生順による。長男は文字を書く訓練をし、公証人の官職を継承して共有財産を管理しなければならない。次男も文字を書く訓練をし、長男の代わりを務める可能性と家族集団に奉仕すべく司祭になる可能性に備える。三男以下は、意欲と適性があれば文字を習うが、それは破局的な人口減少が起きたとき、自分に財産の相続権が生じるかもしれないからだ。娘たちは、文字の習得をしないが、この措置もタブーでなくなるのは遠くない。
読み書きができることは、法律専門家になるためだけでなく、聖職につく条件でもある。司祭になるのは、個人の意向より、一家の決断が優先する。その全権は家長に委ねられている。
公証人は、人口1000人から1500人につき1人の割合でいる。公証人は、家庭や村落における社会の安全装置だった。
344頁もの大作ですが、近世フランスの公証人であり、農民である人の記録から、この当時のフランス人の生活の全体像が浮かびあがってくる気がしました。少々値がはりましたが、読んでなるほどと思いました。やはり、いつだって読み書きは必須なんだねと実感もしました。
(2022年5月刊。税込6380円)
2022年10月29日
裏切り(上・下)
(霧山昴)
著者 シャルロッテ・リンク 、 出版 創元推理文庫
著者はドイツ在住のドイツ人なのに、イギリスを舞台とするミステリー小説です。文庫本で2冊の分量ですが、次々に起きる残虐な殺人事件の動機が不明なのです。被害者の1人は、イギリスのスコットランド・ヤード(警視庁)の独身女性刑事の父親の元警察官(警部)。いったいなぜ元警部が残虐な殺され方をしたのか...。その動機の解明は下巻の最後にまで先送りされます。
途中で浮かびあがった犯人は典型的なDV男。我が子に無関心な両親から捨てられたという思いでいた女性が、DV男の見かけだけの優しさから、ついには隷従状態と化してしまいます。どんなに叩かれ、馬鹿にされても、この人なしでは自分は生きていけないという思いからDV男の言うなりについていくのです。それはまるで統一協会の信者のようです。他人の忠告もききめがなく、目が覚めることがありません。
警察のなかの人間関係も寒々とした印象です。殺人犯人を検挙して成績をあげなければいけないので、とてもストレスがたまる職です。アルコールに頼ってついに中毒患者にまでなってしまう警部が登場します。
ドイツでは2015年に160万部と、もっとも売れたミステリー小説だそうで、その評判どおりなのか、そこに関心があって読んだのでした。時間がつくれる方には一読をおすすめします。それだけの価値はあります。
残虐な殺人の動機がこの本の最後で、やっと解明されます。なーるほど、...、そう思って初めからストーリー展開をたどると、あまり無理のない動機におさまっています。ネタバラシはしません。最後に、この本の末尾の文章を紹介します。
「人は極限状態を体験したあとでは、決して元の生活を完全に取り戻すことはできない。いちど受けた損傷は、もう治らない。これからは、ひとつの重荷を背負って生きていかねばならない。その重荷は二度と降ろすことができないかもしれない。でも、どれほど辛かろうと、これは今なお私たちの人生なんだから...」
最後まで、ハラハラしながら読ませますので、ドイツで大ベストセラーになったのも当然だと思いました。
(2022年6月刊。税込1320円)
2022年10月21日
ドレスデン爆撃1945
(霧山昴)
著者 シンクレア・マッケイ 、 出版 白水社
都市住民への無差別空爆を世界で初めて始めたのは日本軍。そしてアメリカ軍も1945年3月10日の東京大空襲で、一夜にして10万人以上の死傷者を出しました。日本の木造家屋を焼き尽くすために焼夷弾を念入りに開発・改良して実行に及んだのです。それを指揮したアメリカのカーチス・ルメイ将軍は戦後、日本より勲一等を授与されました(その名目は航空自衛隊の育成に貢献したこと)。罪なき日本人を10万人以上も殺傷した「敵」軍に勲章を授与するという日本政府の神経が信じられません。アメリカのやることなら何でもありがたがる、自民党政府の奴隷根性がよくあらわれています。
さて、この本は同じ1945年2月13,14日に英米空軍の猛威爆撃によってドレスデンが灰燼(かいじん)に帰した前後の状況を描いたものです。
ドレスデンはドイツ南部の都市、オーストリアに近い。しかし、かつてのナチス・ドイツの領土としては、中心部に位置する。そして、ヒトラー・ナチスの政策を早い段階で熱狂的に受け入れていた都市でもある。
終戦のわずか数週間前、1945年2月13日の一晩に、英米空軍の爆撃機796機が飛来して、「地獄の門を開いた」。この地獄の一夜で、2万5千人もの市民が殺された。
ソ連軍のドイツ進攻によってアウシュビッツ強制収容所が解放され、ユダヤ人の大量虐殺の事実が明るみに出たのは、この少し前の1月27日のこと。
ドイツの戦争遂行意思をなくすためには、産業施設に限定することなく、都市の破壊、労働者の殺害そして、共同体生活を崩壊させること。イギリスの爆撃機軍団のサー・アーサー・ハリス大将は、そう主張した。
爆撃は、まず照明弾投下機が一番に飛ぶ。一番に濃線色の照明弾を投下すると、明るい白色の棒状の焼夷弾が滝のように落ちていく。後続機が、赤い照明弾を落とす。そして、橙色、青、淡紅色がそれぞれ違った目標の目印となる。航空機乗組員は、みな志願兵だった。しかし、みな神経がずたずたになっていく。そして出撃中毒にもなる。
爆撃機はドレスデンの3千から4千メートル上空から、木造建築の内部と周囲に火をつける目的で、2種類の殺傷兵器を投下した。まず重さ1.8トンのブロック・バスターあるいはクッキー爆弾。路上にいた者は、みな爆発で発生した火で瞬時に炭化し、着衣を焼き尽くされ、裸の遺体が地面に残される。
第一波の爆撃機244機とモスキート9機は、15分間のうちに、880トンの爆弾を投下した。その57%が高性能爆弾、43%が焼夷弾。そして、1.8トンの投下地雷弾などによって建築物が破壊された。数十万の焼夷弾が、さまざまな装置で点火されて次々に投下され、床板、家具、木造梁(はり)、衣類の只中で、ますます燃え盛る炎に燃料を注いだ。
第二波の爆撃機は552機。1.8トンの「クッキー」、その他の爆弾と焼夷弾、総計1800トンが炎の届いていない地域に投下された。
この前、B17爆撃機による精密爆撃は、望まれていたほど精密な結果をもたらさなかった。目標から何キロも離れたところに落下した。
このドレスデン爆撃について、ナチスのゲッペル宣伝相は「テロ爆撃」と非難した。そして、大量の市民を無差別に死に追いやっていいのかという論理的問題として大いに議論となった。ハリス大将は、イギリス王室からの勲章授与には応じたが、政府からの表彰は回辞した。
イギリス空軍は、5万の搭乗員が戦死した。30回の作戦飛行から生還できた者は3人に1人もいなかった。ドイツ空軍との空中戦は、まさしく死闘だったのですね。
イギリス空軍の航空機乗組員12万5千人のうち、5万5千人以上が戦死した。
アメリカ軍の航空兵2万6千人がヨーロッパ戦線で死亡した。猛烈な対空砲火と、零下の気温にさらされ、また酸素不足と凍傷にも苦しみながら任務を遂行していた。
この精神的重圧をやわらげるため、基地内に楽しく、くつろいだ雰囲気をつくり出す努力が尽くされた。食事はいつも豊富で、故郷で供される種類のパンが提供された。パブに入り、ダンスホールにも行けた。
ドレスデンの死者は13万5千人をこえ、20万人に達するともみられている。
ドレスデン爆撃は犯罪なのか...。1960年代のイギリスでは、とりわけ芸術界で、ドレスデン爆撃は邪悪で、恥ずべき出来事だという見解が定着した。
東京大空襲だって、広島・長崎の原爆投下と同じように戦争犯罪だと私は考えています、カーチス・ルメイ将軍はやはり犯罪をおかしたのであり、日本政府による勲章授与は大きな間違いだと私は考えています。いかがでしょうか...。
380頁もの大作を久しぶりの北海道行きの飛行機のなかで必死の思いで読みました。
(2022年8月刊。税込4730円)
庭の一隅にフジバカマを4株植えて、花が咲いています。小ぶりの可愛らしい花です。アサギマダラ(チョウチョ)を招こうとしているのですが、まだ来てくれません。九州を縦断飛行中に立ち寄ってくれることを期待しているのですが...。
チューリップの球根を植えつけはじめました。毎年500本近く植えています。
いま、エンゼルストランペットが花盛りです。黄色いトランペットがたくさんぶら下がっています。キンモクセイがようやく咲き出しましたが、今年は匂いがまだ弱い気がします。
2022年9月25日
スコットランド全史
(霧山昴)
著者 桜井 俊彰 、 出版 集英社新書
スコットランドの歴史を「運命の石」を軸として説明する新書です。
「運命の石」は、エディンバラ城の宮殿2階に安置されている、重さ152キログラムの直方体の石。サイズは、670×420×265ミリメートル。何の装飾もない。 この「運命の石」が、1996年7月イギリスからスコットランドの700年ぶりに返されたのでした。
イギリスとスコットランドは、伝統的に違いがあるようです。スコットランドアは伝統的に親フランスで、イギリスのEV離脱には一貫して反対した。
ふえっ、スコットランドって、親フランスなんですか、知りませんでした。
スコットランド人は、ヨーロッパ文明の母体であるギリシアの亡命王子と、その妻であるエジプトのファラオの娘の末裔(まつえい)。いやぁ、これこそ、ちっとも知りませんでした・・・。
スコットランド人は、ピクト人、ブリトン人、アングロサクソン人、ヴァイキング、ノルマン人などが、時期を違えてやって来て、時間をかけて混じりあうことで、形成された。スコットランド人という単一の民族がはじめから住んでいたのではない。
それが、イングランドとの13世紀終盤に勃発したスコットランド独立戦争のなかで、自分たちはスコットランド人だというアイデンティティ国家意識をもつようになった。なるほど、そういうことなんですね・・・。
スコットランドの初めにいたピクト人については今もよく分かっていないようですが、身体中を彩色したモヒカンカットとして映画で描かれたとのこと。ふむふむ・・・。
スコットランド女王メアリとエリザベス1世女王との確執。そして、やがてメアリによるエリザベス暗殺計画とその発覚、ついにはメアリの処刑に至る話は有名です。
この話も、スコットランドとイングランド、そしてフランスとのつながりの中で考えるべきものだと改めて認識されられました。さらに、処刑されたメアリの息子のスコットランド王ジェイムズ6世が、イングランド王としてジェイムズ1世になったというのです。世の中は、分かったようで分かりませんよね。
国王の戴冠式にずっと使われ続けてきた「運命の石」なるものがあることを初めて知りましたが、それだけでも、本書を読んだ甲斐があるというものです。
(2022年6月刊。税込1040円)
2022年9月24日
アンネ・フランクはひとりじゃなかった
(霧山昴)
著者 リアン・フェルフーフェン 、 出版 みすず書房
アンネ・フランクの『アンネの日記』は、私も、もちろん読んでいます。残念なことに、アンネの隠れ家の現地には行ったことがありません。アウシュヴィッツ収容所にも行っていません。本当に残念です。
この本は、アンネたち一家が隠れ家に潜む前の生活を紹介しています。立派な高層アパートに住み、大きな広場で、アンネたちは自由に伸び伸びと走りまわり、遊んでいたのでした。そんな楽しそうな息づかいの伝わってくる本です。
1939年6月12日、アンネが10歳の誕生日を迎えた日に、広場で8人の友だちとうつっている写真が表紙になっています。女の子たちは、みな屈託ない笑顔です。まだ、オランダにまでナチスの脅威はきていなかったのでした。
アムステルダムには、高さ40メートル、13階建ての超モダンなマンションがあった。それは「摩天楼」と呼ばれていた。そして、その周囲に4階建ての中層アパートが立ち並んでいる。そこにアンネ一家は住みはじめた。
大勢のユダヤ人がドイツから逃げて住むようになった。広々としたメルウェーデ広場でアンネは友だちと遊んだ。
ナチスによるユダヤ人迫害が強まり、1935年には、アムステルダムは、ヨーロッパで最大級のユダヤ人居住地となり、6万1千人に達した。その大部分は労働者階級だった。
1937年の時点でも、オランダのユダヤ人は、ドイツのような迫害がオランダで起きるはずがない、そんなのは、「まったくバカげた考えだ」と言っていた。
1938年の末、戦争が起きるかもしれないと考え、オランダ国民は念のためにガスマスクを用意した。1万個以上のガスマスクが売れた。
1940年5月10日、ドイツがいきなりオランダの「中立」を侵犯して攻めてきた。戦争だ。
1942年、アンネ・フランクは、恐ろしい話を知らないまま、楽しさいっぱいで13歳の誕生日を迎えた。
そうなんです。子どもは、戦争なんて知らないで、そんな心配をせずに毎日を楽しく過ごすのが一番です。でも、ロシアのウクライナ侵略戦争は、それを妨害しています。
オランダからユダヤ人4万人が強制・絶滅収容所に送られた。1943年6月20日、ユダヤ人一斉検挙で、この地域のユダヤ人たちが広場に集められている様子をとった写真があります。この日、アムステルダムだけでも捕まったユダヤ人は5500人もいたのでした。
そして、ユダヤ人一家が退去させられると、そのあとすぐに「ヘネイケ隊」と呼ばれる集団が入りこんで、目ぼしい家財道具を運び出して、私腹も肥やすのです。
戦後まで生きのびたアンネの父・オットー・フランクは、ひどく弱ってしまい、体重はわずか52キロだった。そして、隠れ家に残されていたアンネの日記を手渡されたのでした。日記を読むと、自分の娘として知っている少女とはまったく異なるアンネがそこにいた。知人は、「少女の書いた日記って、そんなに面白いものなのかね...」と疑問を口にしたという。
いやあ、そうなんですよね。でも、「アンネの日記」を読んで心を動かさない人がいるでしょうか...。私は、ベトナム戦争のときに書かれた『トゥイーの日記』(経済界)も、ぜひ多くの人に読んでほしいと考えています。これまた、すごい日記なんです。ぜひぜひ読んでみてください。
(2022年6月刊。税込4620円)
2022年9月19日
ザ・ナイン
(霧山昴)
著者 グウェン・ストラウス 、 出版 河出書房新社
フランスでナチス・ドイツに対するレジスタンス活動をしていた女性が次々にナチスに捕まり、強制収容所に入れられました。この本のメインは、強制収容所に入れられた9人の女性たちが共に脱出して、生きてフランスに帰りついたという奇跡的な実話を紹介しているところです。
彼女たちは20歳から29歳。ユダヤ人ではありません。若さと団結の力で死を乗りこえて生還したのです。彼女らはとても幸運だったと言えますが、その幸運を勝ちとる涙ぐましい努力もあり、単に運が良かったというだけではありません。
フランスでレジスタンス活動に身を投じているうちに逮捕され、収容所で囚われの身になっていた女性9人が、ソ連軍の侵攻によってナチス敗戦間近の1945年4月15日、強制収容所からの移動中に脱出を決行。連合軍との前線を求めてさまよう逃亡の旅は、いかにも危険にみちています。そこを知恵と工夫、そして、それを支える固い友情の絆、苦境さえ笑い飛ばすユーモア、そして時に歌声。何より生きのびようとする強い意思があったのでした。まったく知らない話です。
リーダー役をつとめるエレーヌは、ソルボンヌ大学出身の技術者。5ヶ国語を話した。最年少のジョゼは20歳で、養護施設の出身。美しい歌声で聴く人をうっとりさせた。
偵察役をつとめる人、勇敢さで優る人、グループの調停役の人。いろんな個性の若い9人の女性が助けあいながら脱出行を遂げていく様子が見事に紹介され、心を打たれます。しかも、それが悲愴感があまりなく、むしろ読んでほっこりしてくるのです。
収容されたのは、女性専用のラーフェンスブリュック強制収容所。アウシュヴィッツほどではありませんが、ここでも大勢の人々が「焼却処分」されています。少なくとも4万人が犠牲になったとのこと。
この本に紹介されるソ連兵(女性)のエピソードはすごいです。
ナチスから「散弾銃女」と呼ばれた彼女らには英雄のオーラがあった。自分たちの兄弟を殺すための銃弾はつくれないと、軍需工場での労働を拒否した。自分たち捕虜は、ジュネーブ条約の下、軍需品の製造を強制されないはずだと主張したのだ。収容所当局は、その罰として、また抵抗手段として、彼女らを何日も屋外に立たせて、水も食糧も与えてなかった。それでもソ連兵たちは挫(くじ)けない。ナチス親衛隊は怒り、そして驚嘆した。結局、ナチス親衛隊のほうが折れて、ソ連兵たちは、厨房での仕事を与えられた。うひゃあ、すごいですね。そんなことがあったなんて、ちっとも知りませんでした。『戦争は女の顔をしていない』に通じる話です。
ある日曜日の午後、点呼広場で点呼されているとき、赤軍兵士たちが、ぱりっとした服装で、一糸乱れぬ行進で広場に入ってきた。そして広場の中央までくると、兵士たちは赤軍の軍歌をうたいはじめた。大きく澄んだ声で、次々と、何曲も歌った。
いやあ、すごい、すごすぎますね。人間の尊厳を感じさせられます...。
ソ連兵たちは、クールで、排他的で、寡黙なエリート集団だった。
そして、もう一つ。強制収容所にいる女性たちのあいだで大人気だったのは、料理レシピとその口頭での解説。強制収容所のなかでは、誰もが空腹であり、飢えていた。しかし、また、だからこそレシピを聞くと、つかのまの慰めを見出した。話は材料のリストに始まる。順を追って料理の作り方を説明していく。規則的で体系的なレシピは、たとえ一時的であっても、安心をもたらした。つらい話はならない。食べ物に関する思い出話なら、それほど辛い気持ちにならず、人間らしさを取り戻すことができた。
強制収容所がアメリカ軍やソ連軍によって解放された直後の数日で、多くの被収容者が死亡した。ベルゲン・ベルゼン収容所だけで1万5千人も亡くなった。なんとか生きながらえてきた人が、解放されたとたん、安堵のうちに死んでいった。
収容所でナチスの将校の前で裸にさせられたことが、いつまでもトラウマになったという女性がいます。
「私は、自分の体が好きではない。男に、それもナチスの男に、初めて見られたときの視線の跡がいまだに残っているような気がするから。私は、それまで一度も他人の前で裸になったことはなかった。乳房がふくらみ、体が変わり始めたばかりの少女だったのに...。以来、私にとって、服を脱ぐことは、死や憎しみを連想させるものになった」
とてつもない勇気と必死に生きる意思を、そして人間らしいとは何かを感じさせる、元気に出る本でした。
(2022年8月刊。税込3135円)