弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2015年8月 8日

豊臣秀次

(霧山昴)
著者  藤田 恒春 、 出版  吉川弘文館

 かの秀次について、著者は次のように評しています。
 戦いの場における獅子奮迅の活躍もなければ、一領主として領地支配に専念した形跡もなく、といって秀吉の影法師的役割を果たせたわけでもない。要するに、至って凡庸なる青年にすぎなかった。
 秀次28歳の人生をかえりみると、操り人形のごとく操られていたとはいえ、秀次なりに公家たちへの学問の奨励をとおして、自らも漢和連句などに関心を見出し、また古典の蒐集などへも関心を示し、それが軌道に乗り始めたと思う矢先に降って湧いたような事件に巻き込まれてしまった。志半ばにして、汚名を着せられたまま葬り去られたことは、無念だったろう。
 秀次は、生前から悪者に仕立てられてきたきらいがある。本人の行状に帰するところでもあるが、秀次が書き残した書状には、世評とは別の細やかなる心をもちあわせた青年の一面をのぞかせている。不出来の甥子が叔父(秀吉)になんとか気に入ってもらおうと努力はしていたのである。
 いずれにしても、秀次を葬り去ることによって一番の痛手を蒙ったのは、ほかでもなく、当の秀吉本人だった。
 これは、まったく同感です。我が子(秀頼)が可愛いばかりに甥をばっさり冷酷・無惨に殺してしまったら、その一家に未来はありえません。
秀吉は、家康との小牧・長久手の合戦のとき、みじめに敗退した。そのときの秀吉側の大将が秀次だった。
秀次は、剣術や射術へ人並み以上に関心をもち、腕前も人並み以上だった。それは、秀次の失態に激怒した秀吉が、鍛錬のために、それぞれの武芸者を秀次につけた成果と考えられる。
 中納言秀次は、ひと月のあいだに、秀吉が体現していた関白職を、みずから望むことなく譲られた。秀吉は、みずから天下人として関白職を体現していたが、秀次には、その度量も器量もないままで関白職を継職したことになり、ここに秀吉の理解しえないムリがあった。
 禁裏内の手練手管に富んだ年上の公卿たちを相手の矢面に立たされたら、何人といえども、気が滅入ってしまうだろう。武士としての実績も少なく、叔父の秀吉に担ぎ出されただけの、しかも年若の秀次には、あまりにも重すぎる荷であったろう。
 秀次は切腹させられ、その秀次の首を前にして、秀次の妻妾30数人がことごとく首をはねられた。この秀吉のとった行動は、「悪魔の仕業」以上のものだったが、次第に秀吉の行為は問われることなく、秀次のみ「殺生関白」の異名が定着・形成していった。しかし、秀次の武将たちがほとんど処罰されていないことは秀次事件が冤罪であったことを裏付けている。
なるほど、なーるほど、そうだったのか、そうだよね・・・、と思いながら、一気に読み通しました。
(2015年3月刊。2200円+税)

2015年5月 3日

冬を待つ城

                                (霧山昴)
著者  安部 龍太郎 、 出版  新潮社

 戦国時代の東北、陸奥(みちのく)九戸城に立てこもって豊臣秀吉勢15万を相手に見事にたたかった九戸(くのへ)政実(まさざね)が主役の小説です。なかなかに読ませます。
 秀吉は朝鮮出兵のためには、寒さに強い東北の人々を朝鮮で働かせるつもりだった。人狩りだ。ところが、それを察知した九戸政実たちは、あの手この手を使い、盛んに謀略を用いてまで、ついに自分の生命と引き換えに人狩りを実現させなかった。
 東北のたたかいが秀吉の朝鮮出兵と結びついたなんて、知りませんでした。本当に史実を反映した話なのでしょうか。それとも小説という創作なのでしょうか、誰か教えてください。
 かつては南部家と九戸家、久慈家は対等な親戚につきあいをしていた。それが秀吉の指示により南部信直の配下に九戸も久慈も立たされることになった。
 東北の雄である伊達政宗、蒲生(かもう)氏郷(うじさと)も登場します。話は謀略に次ぐ謀略として展開していきますので、面白いことこのうえありません。地形をふくめて、よく調べて書かれているので、本当に読ませます。
 3000の城兵で15万の包囲軍と戦う。しかも、玉砕ではなく、勝てるという、なんと、それも3日間で・・・。
 本当ですか、信じられません。そして、それが現実のものになっていくのです。
 二戸市、久慈市のそれぞれ市史が参考文献に上がっていますので。よく調べたことが分かります。
 クライマックスは九戸城を大軍の秀吉勢が包囲する戦いです。これにも『骨が語る奥州戦国九戸藩城』という本が参考文献としてあがっています。
 史実を基本として、あまり曲げることなく読みものに仕立てあげる。私も、ぜひ挑戦してみたいと思っています。450頁もの大作です。2日かけて、じっくり読み通しました。
(2014年10月刊。2000円+税)

2015年4月25日

織田信長、その虚像と実像

                                 (霧山昴)
著者  松下  浩 、 出版  サンライズ出版

 織田信長は尾張の戦国大名として登場することが多いが、これは正確ではない。信長の家は、下守護代織田大和守家に仕える奉行人の家であった。つまり、信長の出自は尾張の戦国大名ではなく、尾張守護代の家臣だった。
 織田家のルーツは、越前国織田庄(現・福井県越前町)にある。
 信長の正室は、美濃の戦国大名である斎藤道三の娘・帰蝶(きちょう)である。
桶狭間の戦いは、国境付近における小規模な戦闘に過ぎなかった。
 今川義元の出陣は、大軍を率いて上洛するとか、尾張を征服するといったものではなく、尾張国境付近の拠点確保という領国支配の安定を目的としたものだった。
 信長軍が義元の本陣を切り崩し、大将の義元まで討ちとったのは、多分に偶然の要素が大きかった。今川勢の先陣に戦闘をしかけたつもりが、それがたまたま義元本陣だったのである。結果だけをみれば、織田軍が奇襲をしかけたように見えるが、当初から計画されていたものではなく、偶発的なものだった。
 信長が「天下布武」の印文を使いはじめたときの「天下」とは、決して日本全国を意味するものではなかった。その「天下」とは、京都を中心とした朝廷・幕府などの中央政治の再建といった意味に理解される。
 永禄13年(1570年)の浅井長政の離反は信長にとって信じがたいものだった。しかし、浅井氏からすれば、自身の領地は、信長によって与えられたものではなく、父祖伝来の地である。本来、対等であるはずの同盟者・信長が上位に立つような態度を浅井氏は受け入れがたかったのではないか・・・・。
 信長の寺社への基本的な対応は保護であり、宗教弾圧などは一切していない。信長が上洛したときに宿舎としたのは、本能寺や妙顕寺といった法華宗寺院であったことからも、信長が法華宗に敵対していたのではないことが分かる。
 信長の宗教勢力に対する態度は、あくまで政治勢力として自分に敵対するか否かが基準となるのであり、宗派や信仰自体を問題とするものではない。信長が比叡山を焼いたのは、浅井・朝倉軍に味方して信長に敵対したからであり、決して天台宗という宗教自体に対する弾圧ではない。信長は敵対する寺社に対して厳しい攻撃をしたことはあっても、宗教そのものを弾圧したことはない。
 信長が一向一揆と戦い、さらに本願寺と対立したのは、本願寺が六角氏や三好三人衆など反信長勢力に協力していたからである。
 天正4年(1576年)に築城が始まった安土城は、その構造からも、天下人の居城として築こうという信長の意図がうかがえる。城郭が合戦のための拠点ではなく、政治的シンボルとして意識され始めたことを意味している。
 楽市楽座令があるが、自立的に存在していた在地の商業拠点を安土城下へと集中させようとする意図が認められる。つまり、商人の自立性を解体し、権力に奉仕する存在として位置づけようとしたのだ。
 安土行幸は、天皇との結びつきを視覚的に広く知らせることによって、信長の戦争に大義を与え、信長軍に天皇の軍隊としての位置づけを与えるためのセレモニーだと考えられる。すなわち、信長と天皇との深い結びつきを広く視覚的に印象づけ、信長の統一戦が天下静謐のために行われていることを広くアピールする狙いがあった。
 信長は、決して天皇制を打倒するというようなことは考えておらず、あくまで天皇制の枠組みを維持したなかで、自身が天下を成敗する権限を振るう国家を構想していたのではないか・・・。
 信長は決して革命家ではなく、旧秩序の破壊者でもなく、新しい時代の創造者でもない。信長は旧来の秩序に基本的に従い、自らが生きた中世という時代に向き合って、その枠組みの中で、合理的・現実的に対応したリアリストであった。
 信長の文書発給にしても、礼を尽くすべき相手には価値の高い紙を使い、文書の目的や相手によって、きちんと文書を使い分けている。
 信長と家臣とのあいだには、人格的な結びつきはほとんどなく、家臣たちは自立して大名への道を進んでいく。信長が家臣からの裏切りを何度も経験しているのは、信長と家臣との人間的関係の希薄さの表れだろう。
織田信長の実像に迫った、面白く読める本です。
(2014年6月刊。1200円+税)

2015年4月19日

豊臣秀頼

                               (霧山昴)
著者  福田 千鶴 、 出版  吉川弘文館

 秀頼の実像に迫った本です。
 秀頼は秀吉の実子ではないという説は誤りだと断言しています。
 秀頼の頭蓋骨ではないかと思われるものが、1980年に、大坂城三の丸跡の発掘調査で発見されています。秀吉の遺骨もあるそうですので、ぜひDNA鑑定をしてほしいものだと思いました。
 いずれにせよ、当時の戦国武将たちは、秀頼が秀吉の実子だということはまったく疑っていなかったようですね。そうでなければ、関ヶ原の戦いも、大坂冬の陣も、夏の陣も、違った話になってしまいます。
 そして、秀頼についても、「バカ殿」ではなかったからこそ、家康が恐れ、抹殺するしかないと考えたとされています。
 豊臣秀吉の死後、凡庸な秀頼と、その母親である茶々が淫乱な悪女であったことから、自ら滅亡した、いわば自業自得なのだというのが定説のようになっている。果たして、本当にそうなのか・・・。
 秀頼の生母は、浅井茶々。茶々は、近江小谷(おだに)城主の浅井長政を父に、織田信長の妹である市(いち)を母に、浅井三姉妹(茶々、初、江)の長女として生まれた。
 茶々は、一般には「淀殿(よどどの)」、「淀君(よどぎみ)」として知られているが、これは江戸時代になってから定着した呼び名であり、茶々の生存中には呼ばれていない。
 茶々が、独立した御殿をもち、居所にちなむ名前で呼ばれたことは、天下人である豊臣秀頼の妻の一人であったことを内外に示すものである。
 茶々が男子を産んだことを知ると、秀吉は、朝鮮出兵を放り投げて名護屋をあとにした。8月15日に出発して、25日には大阪に到着した。秀吉にとって、朝鮮出兵の凱旋パレードなどは二の次でしかなかった。秀吉は出発予定を10日も早めているのである。
 茶々が、懐妊の時期に名護屋に在陣している確かな証拠がある。それは、高極高次の書状である。
高極高次は、名護屋在陣中に待女を懐妊させてしまい、それが生母を怒らせてしまった。それで、大坂に向けて、とりなしを願う手紙を出した。
 名護屋では、茶々が懐妊した事実を誰もが知る状況となったが、まだ大阪にはその情報が伝わっていないと書いている。このことから、茶々は名護屋にいるとするのが妥当な解釈だ。こう書いています。なるほど、と思います。
 茶々は、秀吉の第一夫人である寧(ねね)と同等の妻である。優先順位は寧が先であっても、茶々も秀吉の妻なのである。決して「愛妾」というものではない、あくまでも茶々も「妻」なのである。天下人であり、武家関白である秀吉の妻が一人でなければならないとする理由は、制度・経済・倫理・慣習・歴史などの、あらゆる観点からみて存在しない。
 茶々を秀吉の妾(側室)とするのは、江戸時代になってからの史料にしかない。秀頼は、秀吉の正妻である茶々から生まれた嫡出子であり、秀吉自身が秀頼のことを実子かどうかを疑う要素はまったくなかった。多くの人々が秀頼に対して、秀吉の遺児として崇めたことも、これを裏付けている。
秀頼は文禄2年(1593年)8月3日、大阪城二の丸で生まれた。そして、生母の茶々が母乳を与えて育てた。
 茶々と寧は、対立関係になく、協調する関係だった。
 秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いにおいて、豊臣恩顧の武将たちは、「秀頼様」のために石田方と戦ったのであり、「家康様」のためではなかった。つまり、西も東も、ともに秀頼守護を大義名分として戦った。
 家康は関ヶ原合戦の勝利によって天下人となったが、それは秀頼が成人するまで天下を預かる場としてであった。そこで、家康は合戦が生じた原因は起請を破った秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことの正当化を図った。
 この家康に対して、秀頼は冷静な頭脳戦で応じた。
 大阪冬の陣、そして夏の陣において秀頼側が敗北したのは、徳川方が大坂方の勢いを挫くため、総大将の秀頼を出陣させないように謀略を仕組んだためだった。このことは徳川方の日誌から読みとれる。すなわち、秀頼敗北の最大の原因は、大坂城内の意思決定が分裂していたことにある。
 秀頼は、家康にとって、「凡庸」ではなく、「賢き人」だったので、抹殺するしかなかったということを実証した、画期的な本です。
(2014年11月刊。1700円+税)

2015年4月11日

再検証・長篠の戦い


著者  藤本 正行 、 出版  洋泉社

 長篠の戦いで、織田・徳川連合軍が武田勝頼軍の騎馬隊を敗退させたのは、3千挺の鉄砲を3段構えで迎え撃ったからとするのが通説でした。しかし、そんなことは考えられないという批判説が有力になっていました。そこへ、当時すでに鉄砲3段(列)撃ちもあったことが証明されているという有力な反論が出てきました。
 これに対して、本書は、やっぱり鉄砲3段撃ちなどなかったと反論しています。文献の読み方の解説もあって、なかなかに説得的です。
 戦場を設楽原(しだらがはら)と呼ぶ必然性はない。むしろ「あるみ原(有海原)というのが正しい。しかし、この戦いは、古くから「長篠の戦い」と呼ばれてきたし、長篠城の攻防戦が戦いの原因であって、決戦も長篠方面で行われたのだから、「長篠の戦い」と呼んでいい。この長篠の戦いで武田勝頼が惨敗したことから、勝頼を「バカ殿」視する見方が有力ですが、著者は必ずしもそうとは言えないと勝頼を擁護しています。勝頼を評価する本は先に紹介しています。
 前方の織田軍は少なそうだし、臆病風が吹いているようだ。味方の長篠城包囲軍は、織田・徳川連合軍の別動隊に蹴散らされてしまい、後方からの攻撃がありそうだ。ならば、無傷の主力軍をぶつけて敵の増援軍の来る前に織田・徳川軍を叩いたほうが有利だと判断しても何ら不思議ではなかった。なーるほど、と思いました。
長篠の戦いは、日の出から始まったものの、最初は小競り合い程度だった。ところが、別動隊が武田軍の背後にあらわれ、主戦場では、徳川軍が柵から押し出した。これで前後をはさまれた武田軍は午前11時ころに総攻撃を開始し、午後2時ころには総崩れとなった。
武田軍は、主だった武将が少数の騎馬武者と多数の歩兵で構成された部隊を率いて攻撃するという通常のやり方をとった。それに対して織田軍はそうした部隊を出さず、銃兵ばかりを追加投入して、武田軍を迎撃した。
 『信長公記(しんちょうこうき)』などの信頼できる史料には、信長が3千挺の鉄砲隊が3列に配置し、千挺ずつの一斉射撃で勝頼の軍勢を破ったという戦術は登場しない。そんな事実はなかったのである。
 『長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館)を書いた平山優について、著者は批判の仕方がなっていないと厳しく批判しています。
 たしかに、批判するときには、相手の言っていることを正確に引用し、批判の論拠を明確にすべきですよね。 歴史の資料の読み方にも厳密さが当然求められるものです。
 平山優が依拠した『甫庵信長記』は長篠の戦いにおける徳川軍の活躍を顕彰するために書かれているのであって、長篠の戦いを正確に再現し、伝えるために書かれているものではない。
 この本は論争のあり方についても一石を投じています。
 私と同じ団塊世代の著者です。今後とも知的刺激にみちた本を書いてください。期待しています。
(2015年2月刊。1800円+税)

2015年3月29日

小西行長、史料で読む戦国史


著者  島津 亮二 、 出版  八木書店

 小西行長の実像に触れた思いのする本です。秀吉の有能な部下、キリシタン大名、関ヶ原の戦いで敗れて斬首された武将・・・。
 小西行長は官僚として有能ではあっても武将としては、いまひとつだったというイメージがあります。でも、武将としても、それなりの人物だったことが本書で明らかにされています。
 小西行長の史料は抹殺などされていなかった。
 小西行長の両親、兄弟、子そして血縁関係にある堺の日比屋(ひびや)氏のほとんどが、洗礼名をもつキリシタンである。
 日比屋氏は6世紀の堺で活躍した豪商である。九州と堺を結ぶ海上輸送ルートと資金力をもつ日比屋氏と小西行長の父・立佐は強力なコンビを組んでいた。
小西行長は、青年期のはじめ、宇喜多氏に仕官していた。それまで宇喜多氏に仕官していた行長が、天正8年(1580年)ころから秀吉のもとで活躍しはじめた。ここから行長の立身出世が始まった。
 行長は信長方に、秀吉の配下となった直後から海上交通で活躍し、後に「海の指令官」と称された能力の片鱗を示していた。
 行長は瀬戸内海の海上輸送の一端を担う任務をつとめ、秀吉の家臣の中で頭角をあらわしていった。行長は、小豆島の支配にも関与していた。書状が、それを裏付けている。
 行長が水軍の将として奔走して功績を挙げるのと同時に、父の立佐は秀吉の側近として財政管理能力を発揮して地位を高めていた。
 秀吉は九州攻めをするときに、現地での兵粮徴収ではなく、もっとも確実な大坂からの兵粮輸送という方法を選んだ。そして、この重要な役割を任されたのが行長だった。
 秀吉は、各地の諸大名とのやりとりをするにあたって、大名ごとにその仲介・交渉を担当する人物(取次)を特定し、その人物に命令を詳しく伝達・補足させるという方針をとっていた。
 秀吉のキリシタン弾圧が始まったとき、重要なことは表向きにしろ、行長は「秀吉家臣」としての立場を優先させている。行長の信仰とは、常に政治的立場が優先される「信仰心」であった。秀吉の在世中に、行長が秀吉の命令に背き、自らの「信仰心」を優先させたことは一度もない。
 行長の主たる属性は、「秀吉家臣」であり、行長の第一目標は豊臣政権の発展と安定そして自分自身の地位向上だった。
 強制的な布教さえしなければ、イエズス会宣教師と日本における共存は可能だと行長は予測していたのだろう。行長はイエズス会との関係を維持しつつ、秀吉家臣としてイエズス会の行動を監督する役割を果たしていた。
秀吉は大陸侵攻の「先勢」として小西行長と加藤清正を選んだ。行長には、海上輸送能力や交渉能力が求められ、清正については高い軍事能力が期待されたのだろう。
 文禄の役において、行長は、あくまで交渉による朝鮮国王の服属、そして明との講和交渉の開始を狙った。行長は、「征明の実行不可能」を秀吉にあえて進言した。行長は、明との直接戦争は避けるべきだと考え、秀吉の「唐入り」を「冊封要求」へとすり替えて交渉をはじめた。行長は、平壌から先へは侵攻しようとはしなかった。
 当初は、電撃的に明国に迫ろうとしていた秀吉の戦略は、沿岸部に城塞(倭城)を設置して、じっくり朝鮮を侵略していく方針へと転換した。秀吉自身、それまでの戦況報告によって、明の征服などは非現実的だと悟り、当初の「唐入り」構想は大きく転換していた。
 秀吉は、ある程度は、対明交渉の実情は承知していた。明は、秀吉を日本国王に封じると同時に、日本の大名や武将へ官職を与えることにした。行長による官職要請と授与の結果は、秀吉と諸大名とに受け入れられている。
 この侵略戦争を日本の勝ち戦として終結させなければならない秀吉にとって、朝鮮服属の象徴である朝鮮王子日本への渡海と朝鮮南部四道の割譲だけでは譲れない条件だった。
 行長は、とにかく明勅使による秀吉の日本国王任命と冊封さえ実現すれば、実態は収拾できると見通ししていた。しかし、最終的に朝鮮からの日本軍撤退をめぐる双方の利害の矛盾調整ができないまま、明勅使は日本に渡った。これが講和破綻の主要因となった。
秀吉は、9月1日、大阪城で明勅使と対面し、明皇帝から書面と金印・冠服の進呈を受けた。行長を筆頭とする諸大名にも、明皇帝から官職任命書と衣服が与えられた。このように、秀吉は、はじめから明と冊封を受け入れる方向で行長に交渉させていた。
 秀吉は明の冊封は受け入れつつも、朝鮮皿道の割譲が命じられず、朝鮮要請されたことに激しく抵抗した。これに失敗したとき、秀吉の権威は揺らいで、政権の瓦解につながる芽が出てきてしまう。
 朝鮮からの日本軍撤退と朝鮮王子の日本末渡海の二点が秀吉には受け入れられず、講和は破綻した。
行長が対朝鮮・明との交渉において果たした役割は大きく、厳しい戦況と多大なストレスのなか、戦争終結のため秀吉が求めた明勅使の派遣を実現させた手腕は評価されるべきだろう。明との講和が破綻したあとも、行長は戦争を回避すべく朝鮮王子の日本渡海を条件として、朝鮮との講和を模索していた。行長は、その過程で朝鮮側に清正の朝鮮渡海ルートと日程を知らせて、朝鮮軍に清正を迎撃させようとしたこともある。この行長の行動からは、すでに清正との確執が決定的なものになっていることを意味する。
 清正は、行長によるこれまでの対朝鮮・対明交渉の実態を知り、行長への不信案をさらに募らせた、
 小西行長と石田三成には共通点が多い。行長が2年年上だが、ほとんど同世代。両者とも、父子そろって秀吉に仕えている。三成は、奉行として朝鮮に渡り、日本軍の統括にあたっている。行長は、実質的な朝鮮出兵の現場担当者だった。
江戸時代の前期までは、武将としての行長の才能は積極的に評価されていた。ところが、やがて清正の行動などが強調されるようになったのと反比例して、行長のイメージは低下の一途をたどった。
行長が熊本の宇土にお城を構えていたことを初めて認識しました。小西行長のイメージを一新させてくれる本です。
(2010年7月刊。480円+税)

2014年10月13日

天下統一


著者  藤田 達生 、 出版  中公新書

 家康が攻めたてた大坂の陣では、火縄銃と大砲によって間断ない攻撃が加えられた。大砲の玉は、素材や形状が多様だった。焼夷弾や散弾などもあった。後装式の仏郎機(フランキ)砲は、城門や要塞の破壊に使われた。家康が購入したカルバリン砲(最大射程6300メートル)、セーカー砲(同3600メートル)などのヨーロッパ製の長距離砲も実戦に投入され、少なからぬ威力を発揮した。
 大坂の陣で秀頼たちが大砲の脅威にさらされたというのは知っていましたが、それがヨーロッパ製の長距離砲だというのは初めて知りました。
 集権化を支えた信長の軍事力の秘密を解くカギは、戦闘者集団である武士と生産者集団である百姓との身分と居住区の截然たる分離、すなわち兵農分離にある。
 信長は、尾張を統一したあと、清須、小牧山、岐阜、安土へと本城を移動させるたびに、家臣団に引っ越しを強制した。長年住み慣れた本領を捨てて、主君と運命を共有する軍団を目ざしたのだ。本拠地移転を進めながら兵農分離を促進し、同時に戦国時代最長といわれる三間半(6.3メートル)もの長槍や大量の鉄炮の配備をすすめて軍隊の精鋭化を図る。
信長は三間半という長槍を採用した。長槍は、主として突くのではなく、叩くものだった。敵の長槍隊と遭遇したときには、長ければ長いほど有利だった。鉄炮戦が本格化する前の戦争は、長槍隊が主力だった。長槍は長いほど重く、しなることから、統一的な操作が難しく、日常的に足軽たちに軍事訓練を科さないと、大規模な槍衾(やりぶすま)を組織的に編成することはできなかった。
信長は、長槍隊には銭で給料を支払い、生活を保障した。信長の軍事的成功は莫大な銭貸蓄積に支えられていた。信長は、「三間半の朱槍を五百本ばかり」用意し、斎藤道三を警戒させた。信長は、長さばかりか色もふくめて同じ規格の長槍を大量に準備し、足軽たちに装備した。
  近習と足軽隊に重きを置く戦術は、尾張時代の信長の特徴だった。千人に満たない規模の直属軍が、軍事的カリスマである信長の意思にもっとも忠実に従う軍団の中核を形成した。
信長や秀吉は、天下統一を進めながら、軍人として純化を遂げた武士団が高度な軍事力を独占するようにしていった。ところが、鉄炮足軽に対してその軍功を讃える軍忠状を与えた例はない。軍事的重要性の高まりに比例して足軽たちの政治的地位が向上したとは考えられない。
 信長は、足軽兵増強の一方で、一向一揆を初めとする大規模一揆の鎮圧には容赦なく鉄炮を大量投入した。数万人規模の死者を出すような凄惨な戦争は、鉄炮戦が一般化する前には、ありえなかった。
 軍事に専念する兵身分を誕生させるためには、家臣団に所替えを強制して城郭と本領を取り上げ、家臣団と彼らの父祖伝来の領地・良民との強い絆を否定することが前提となる。つまり、家臣団から自立性を奪うことが始まりなのだ。
 信長の家臣団には二つの特徴があった。第一は、商人的家臣の存在である。これによって信長は必要な物資の確保と莫大な銭貸を獲得した。そして、これが軍団の兵農分離を促進した。第二に、非嫡男や庶流家が家臣団に目立った。前田利家も嫡男ではない。
 これまで足利義昭政権は信長のカイライだとされてきたが、根本的に考え直す必要がある。義昭政権は、幕府機構を整備し、御料所を再興し、さらに京都の商業権益・地子銭等を掌握した。つまり、幕府としての実態を持っていたのだ。
 義昭の幕府と信長権力は、それぞれが独立的に存在していたが、光秀らの実力者が接着剤となり、一体となって政権が機能していたとみられる。
足利幕府って、信長政権の誕生とともに滅亡したって教わりましたよね。
 義昭からすれば、信長は幕府再興を実現した大恩人であっても、重臣にすぎなかった。
 信長は、京都五山禅院の住持の任命権を、義昭から奪取することができなかった。
安土城において、天下人信長の執務空間たる天主は、天皇を凌駕する為政者として可視的に表現され、安土城の中心軸に配置された。
 信長は、自らを将軍と天皇の権限を統合した存在であり、天から支配権を付託された絶対者として自己を位置づけ、神格化さえ試みた。信長が好んだ龍は、中国では皇帝の象徴だった。安土城の天主には、その内外に中国思想が凝縮されていた。
 このあと秀吉の分析が続きます。織田信長そして豊臣秀吉の果たした役割を改めて検証しています。そのために役立つ視点満載の知的刺激にみちた本です。
(2014年4月刊。860円+税)

2014年9月27日

信長の大戦略

著者  小林 正信 、 出版  里文出版

 いわゆる学者の書いた本ではありませんが、読んでいて、なるほどと納得できる内容でした。学会では、どのように評価されているのか、ぜひ知りたいと思います。
鎌倉時代より征夷大将軍を奉じていた関東の地には、東国における事実上の国家に君臨する王権としての地位があった。すなわち、征夷大将軍の地位は、関東に不可欠のものであり、その不在は武家の建前の上から正常ではないと考えられていた。
 将軍家を継承した京都の室町殿は、征夷大将軍を関東に返還し、天皇・朝廷を守護する武官である右近衛大将から大臣になり、功績によっては「右大将家」を世襲して、大政大臣になればよかった。
 武家社会では、律令官制と異なり、重盛や頼朝の先例によって、左大将よりは右大将が尊ばれた。
織田信長は平家を黙認し、清盛の子で右近衛大将に任じられた重盛の先例から、天正3年(1575年)に右近衛大将の地位に就いた。信長の次にこの地位に就いたのは、徳川秀忠である。
信長は戦国大名の嫡子として、武術や肉体の鍛錬に熱心であっただけでなく、小鼓の名人であり、武人として屈指の能筆家でもあった。茶道にも大変精通している。
 信長の師匠は、「信長公記」によって、兵法の平田三位、弓術の市川大介、鉄砲の橋本一巴(いっぱ)であることが判明している。信長は、師匠たちを域に招いて、個人的に指導を受けていた。
織田信秀、そして信長の重要な政治的・経済的基盤は、熱田や津島の商業者だった。
信長が若いころ、異形異類の様相(風体)をしていたことは有名です。なぜ、こう言う格好を信長はしたのか・・・。著者は、信長の身分では決して出入りしてはいけない場所、つまり、「散所」に通うためだったとします。
 「散所」は、被差別民のいるところ、武具に欠かせない必需品の生産・集積地だった。そして、軍事情報の宝庫として重視させるところでもあった。
 秀吉の出目は百姓(農民)ではなく、非人だった。連雀商人と関連あるものだった。このような秀吉の出目では、天皇の権限で公家として関白にはなれても、武家階級の代表者である征夷大将軍には、初めからなれないことは明らかだった。
 秀吉は、信長や家康が任じられた近衛大将にもなっていない。信長と同年代の小姓たちと秀吉は「幼なともだち」だった。
 信長は大人になっても、秀吉を「猿」と呼んでいた。信長44歳、秀吉42歳のときも、「猿、かえり候て」とある。二人の関係が大人になってから始まったものだとこのような呼び方はしない。むしろ、少年期からのつきあいだったからこそではないのか・・・。
 秀吉の木下藤吉郎にしても、「木から下る」という意味で、「猿」を意味していた可能性がある。要するに、秀吉は信長にとっても幼ともだちだったのではないか、という指摘です。なるほど、それはありえますよね・・・。
 秀吉は、読み書きが出来た。秀吉が清洲域を普請したとき、知恵だけでなく、それが出来るほどの財力をもっていたからではないのか・・・。
 桶狭間の戦いのとき、信長に直属する旗本と言える2千が今川義元を急襲したのも、織田の本隊が今川勢の敗走を追撃してすべて出払い、十分な予備兵力が手元になったから、と考えるべき。
 これは、通説とは、まったく異なる戦いの状況についての主張です。
 信長は今川義元の大軍を包囲殲滅させようとしたのであって、わずか2千の兵のみで奇襲をかけたというのは誤解にすぎない。今川勢の総崩れは、義元の討死から始まったのではない。今川勢の総崩れによって義元は孤立した。そこを旗本に襲われて討ち死にしたのだ。
桶狭間の戦いについては、最近、いろいろ研究が進んでいて、まわり道をして突撃したのではなく、正面から突撃していったとされていますが、まだまだ尽きない論点があるんですね。これだから、歴史の本はやめられません。ゾクゾクしてきます。
(2013年8月刊。1800円+税)

2014年9月20日

天地雷動


著者  伊東 潤 、 出版  角川書店

 長篠合戦と、それに至るまでを克明に描いた小説です。長篠合戦では、織田信長軍が鉄砲三千挺を三段撃ちしたという通説が疑われていましたが、最近、それが逆振れして、やはり通説どおり三段撃ちはあったのではないかということに収まりつつあります。私も、そのように今では考えています。
 この本は、では、どうやって、三千挺もの鉄砲を織田信長はそろえることができたのか、そして、そのため玉薬をどうやって確保したのかが、大きな主題となっています。逆に、反対側の武田軍の鉄砲と玉薬についてはどうなのか、ということにも目配りされています。要するに、武田勝頼も鉄砲はそれなりにもっていたけれど、玉薬のほうが枯渇してしまった(枯渇させられた)という状況なのです。
 この本では、武田勝頼は突撃しか知らない馬鹿な若殿様ということにはなっていません。信玄亡きあと、実力で「御屋形様」になったものの、信玄に仕えていた有力武将たちとの折りあいに苦労していた様子が描かれています。
 このころの鉄砲は南蛮物が主流でした。しかし、その南蛮物は、使い古したものが輸入されていたので、すぐに壊れた。4分の1は使いものにならず、武将たちは辟易していた。
 玉薬は、硝石7割、木炭1.5割、硫黄1.5割を混ぜてつくる異色火薬のこと。弾丸を飛ばすときに使われる粒子の粗い胴薬(どうぐすり)と、点火のために使う粒子の細かい口薬の二種を、鉄砲足軽は常に携行していた。
 長篠合戦は、織田信長の作戦勝ちだとしています。つまり、まず、武田軍の玉薬を欠乏させ、その確保のためには前進するしかないようにする。そして、後詰め(後方部隊)を奇襲して全滅させ、前進するしか活路を開けないようにしたのです。そこを、三段構えで、鉄砲足軽が待ち構えているというわけです。
 武田軍の主要な武将たちも、勝頼から、「この期(ご)に及んで命を惜しむのか」と皮肉られたら、前方の織田軍へ突進するしかなく、バタバタと倒れていくのです。
 この本は、最新の学説の到達点を見事に小説にまとめあげている点もすごいと思いました。
 「この時代小説がすごい」1位というのも、うべなるかな、です
(2014年4月刊。1600円+税)

2014年9月 6日

戦国大名


著者  黒田 基樹 、 出版  平凡社新書

 戦国大名と織豊大名・近世大名とは、領域権力ということで、基本的な性格を同じくし、社会状況の変化に応じて、その様相を変化させていったもの。
太閣検地、兵農分離、石高制などは、研究上の世界におけるある種の幻想でしかなかった。
戦国大名とは、領国を支配する「家」権力である。大名家の当主は、「家」権力の統括者という立場であり、権力体としての「戦国大名」は、大名家の当主を頂点に、その家族、家臣などの構成員をふくめた組織であり、いわば経営体ととらえるべきもの。
 戦国時代について、当時の人々は、まだ「室町時代」と認識していた。当代とは室町幕府の治世を指し、「先代」とは鎌倉幕府の統治時代を指した。
 戦国大名は、領国内において、平和を確立するが、それは内部における自力救済の抑止によって成り立っていた。
 中世における自力救済のキーワードである「相当」(同量報復)、「兵具」(武装)、「合力」(援軍)の禁止によって領国内の平和が形成・維持された。
 検地は、個々の百姓の土地所有権を決定するものではなかった。個々の百姓の所有地は、むしろ村によって決定されていた。
 通説では、石高は生産高となっているが、誤りである。近世の石高も、年貢賦課基準高でしかなかった。検地によって決定された村高が、そのまま年貢高になるのではなかった。村高から、いろいろの「引方」と呼ばれる控除分が差し引かれて、その残りが年貢高(定納高)となった。それこそが、大名と村との間における高度な政治交渉の反映だった。村高に対する引方の割合は、おおよそ2~3割におさめられていた。
 一反あたりの年貢量は、田地一反あたり五斗二升。平安時代後期の反別三斗の2倍にあたり、江戸時代の85%にあたる。
 したがって、織豊・近世大名の検地が戦国大名の検地より多くの富を収奪したというのは幻想なのである。こうした検地は、主に大名の「代替わり」ごとに行われた。
村という組織は、決して固定したものではなく、人員構成も領域も変動する可能性を常にもっていた。
 棟別銭は、屋敷地に対する賦課役で、屋敷地の家数に応じて賦課された。
 陣夫役は、先陣のたびごとに人・馬を徴発するもの。
 戦国大名の領国支配のなかで、大きな歴史的意味をもった政策が目安制による裁判制度の構築だった。
 目安は訴状のこと。評価衆が組織され、目安制による訴訟の審理にあたった。双方の出頭が求められ、出頭しなければ、無条件で敗訴とされた。
 目安制の全面展開について、北条氏康は、「百姓に礼を尽くす」政策の筆頭にあげている。そして、これが他の戦国大名に広がっていった。
 この目安制の意義は、領国を構成する社会主体である村のすべてに対して、大名家への直接訴訟権を認めたことにある。それは、すべての人々に訴訟権を認めた、万人に開かれた裁判制度がここに始まったと言ってよいもの。現代の裁判制度は、この延長線上に位置している。
 戦国大名の実際を知ることが出来ました。
(2014年1月刊。780円+税)

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