弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦国)
2011年6月25日
雑兵足軽たちの戦い
著者 東郷 隆 、 出版 講談社文庫
絵解き文庫本ですから、気軽に読めて、戦国時代のイメージがよくつかめる本です。戦国時代の合戦において、本当の主役は雑兵足軽だったのでしょうね。武将は、彼らを思うように指図して動かさなければ合戦に勝つことは出来なかったのでした。
主人が戦場で不利となったとき、ただのんびりと見物している家来などいるわけがない。身軽な武装で騎馬の傍らに付き従い、ときに主人を守って武力を行使する人々が出現するのは当然の成り行きだった。足を軽々と動かして主人に従う人々の出身は、多くが荘園領主である武士の私的従者だった。しかし、なかには衣食を求めて当座のしのぎに有力な者の下へ付く浮浪人や逃亡農民もあり、彼らの身分はあやふやだった。
俗に「家子郎党」(いえのころうとう)と称された武士の集団にふくまれる者は、まず血縁によるつながりの「家子」で、家の頂点に立つ惣領に従う主人の兄弟や庶子(正妻ではない女性とのあいだに出来た子)である。これに、それぞれ従う「郎党(郎従)」が付く。郎党は、主人の家と血縁関係にあったものが代を重ねるうちに身分が下落したもの、さらには領主である主人の家に代々つかえてきた武装農民を指す。
蒙古襲来のとき、危機を辛うじて切り抜けた鎌倉幕府が不快感を覚えたのは、武士たちの腰の引けた戦いぶりだった。彼らには国土の防衛という観念が依然として低く、九州一円でも兵の動員力はそれほど高くなかった。なかには、こういうときこそ自分の所領を守る方が大切だなど言って館に立て籠もってしまう者や、武具の用意が出来ていないとか、親族の死による供養・喪中を口実として合戦場へ出ながら戦闘を拒否する者もいて、指導者たちを辟易させた。うひゃあ、なんという実態でしょうか・・・。
鎌倉幕府は、動員の不足を山賊化した人々を取り締まって、流人として西国に送って補おうとした。中央で捕縛された人々は、まず流人となって九州の守護所に集められ、対モンゴル戦の先鋒となる地頭や御家人のもとへ引き渡された。現地での身分は「因人(めしうど)」(召人)で、戦闘に参加するときは下人・所従の扱いだったが、家柄の良い者は、「客人(まろうど)」としての待遇を得、流刑先で半ば自由の身になる者もいた。こうした人々を「西遷悪党(せいせんあくとう)」という。鎌倉幕府が滅亡したあとも、モンゴルに備えた異国警固令は依然として続いた。足利尊氏も、博多にある石築地の補修を地元の武士に命じた。
16世紀の越前国を支配した朝倉氏は教訓集をつくった。合戦の最中、優勢な敵が現れたと聞いて退く「聞き逃れ」は許す、しかし、敵を見て退く「見逃れ」はいけない。耳で聞いて逃げるのは、臆病とさげすまれても戦術のうちである。しかし、敵の姿をはっきりと見てしまったあとは、健気に斬り死にの覚悟をさせる。昔から、「耳は臆病にて、目はけなげ」というのだ。
まだまだ面白い話と図解が盛りだくさんです。戦国時代の合戦の実相を知り、イメージをつかむうえで必読文献だと思いました。
(2007年3月刊。495円+税)
2011年6月15日
東アジアの兵器革命
著者 久芳 崇 、 出版 吉川弘文館
実に面白い、知的興奮を覚えさせる本でした。
なにしろ、秀吉の朝鮮出兵のとき、数千人もの日本兵が捕虜となって中国大陸に連れ去られ、一部は中国皇帝の前に引き出されて公開処刑の対象となったものの、その大半は中国軍に組み込まれて、鉄砲隊として反乱軍退治などに活躍したというのです。しかも、長篠の戦いで輪番による鉄砲の連続一斉射撃(三段撃ち)がなされたという従来の通説に対して、現実には技術的にそんなことはありえないという最近の有力説を覆すような中国の兵法書が紹介されています。そこに載っている三段撃ちの図解を見て、腰が抜けそうになりました。
中国の史料によると、鉄砲の輪番射撃の戦術が、日本では少なくとも16世紀末の時点で存在していたこと、朝鮮の役の後に中国・明王朝に伝播していたことがうかがえる。
朝鮮の役において、数千人をこえる日本兵捕虜(降倭)が発生した。この降倭の一部が朝鮮軍に編入され、鉄砲や火薬の製法を伝え、朝鮮における日本式鉄砲の普及に大きな役割を果たし、17世紀の朝鮮で精鋭の鉄砲隊が組織された。
日本軍の鉄砲はきわめて性能が高かった。明軍の鉄砲はポルトガル伝来の鉄砲の模造品であり、日本軍のものより性能が劣っていた。明軍の鉄砲は鋳銅製であり、連続射撃すると熱をもって破裂する危険があった。また、命中精度も射程距離も日本軍の鍛鉄製の鉄砲に劣った。そこで、明軍は、日本軍の鉄砲を獲得したときには朝鮮軍にとどめず、明軍に送るように指示していた。
朝鮮の役で捕虜となった日本兵は、熟達した鉄砲の使い手として、中国内の反乱軍の鎮圧のために鉄砲隊として活用された。また、女真族やモンゴル族との対戦においても日本式鉄砲は大きな威力を発揮した。
明軍の大将は、日本兵捕虜61人を北京の明朝皇帝(万暦帝)の前に献納した。この捕虜の経歴が明らかとなっている。それによるとトップは、島津義弘の一族(平秀政、27歳)、また、薩摩守・平正成(40歳)であった。これについて、著者は日本側の資料には、そのような武将が見あたらないので、明軍側が皇帝に献納するとき最高位の敵将として偽装した可能性が高いとしています。なるほど、そうかもしれませんね。それにしても、朝鮮半島に渡った日本の一部(数千人)が中国大陸に送られ、精鋭の鉄砲隊を構成して反乱軍や女真・モンゴル軍と戦っていたなんて、まったく驚きでした。
中国書を丹念に掘り起こすとそんな事実まで判明するのです。まだ若い(40歳)学者のようですから、今後の活躍が大いに楽しみです。この出版社は次々にいい本を出してくれています。感謝します。
(2010年12月刊。3800円+税)
2011年5月 3日
廃墟となった戦国名城
著者 澤宮 優、 出版 河出書房新社
この本に登場するお城のなかで私が行ったことのあるお城を先に挙げてみます。
安土城、大阪城、肥前名護屋城、上田城そして原城です。
安土城には2度行きました。安土城の大手道は広くて一直線に山をのぼっていきます。両側に秀吉邸跡そして前田利家邸跡があります(いずれも「伝」となっていますので、確定したものではないようです)。そして、天守閣のあとの礎石が残っています。
五層七階、地下1階、地上6階。壁の色は、下部が黒、上部が白。上部3層は金や朱の色で飾られていた。この天主台跡地に立つと、信長が天下を見下ろしていた気分をいくらか偲ぶことが出来ます。安土城の石垣をつくったのは石工集団の穴太(あのう)衆だとされていますが、この本は、それを否定しています。
むしろ、信長は寺院建設に生かされてきた石垣をつくる技術者たちを寺院から解放し、再編して安土城の石垣造りに生かした。
肥前名護屋城は、玄界灘に面した高台に今も廃墟が残っています。すぐそばに立派な博物館があって、住時を偲ぶことが出来ます。秀吉は16万の兵を朝鮮に渡らせた。名護屋城には徳川家康ら11万、京都に警護として秀次ら10万の兵が置かれた。総勢37万の挙国態勢だった。
この出兵は朝鮮半島を植民地として支配するのではなく、明(中国)征服のために朝鮮半島全滅に道筋を確保することにあった。実に途方もない発想です。いくらなんでも、誇大妄想としか言いようがありませんね。独裁者の思い込みというのは、いつの世も恐ろしいものです。今も昔も何もない名護屋城がこのときばかりは20万人の大都市に変貌したというのです。
島原の乱の激戦地である原城跡に行ったのは、つい最近のことです。現地に着いてみると、海に面した丘陵地帯で、ほとんどが農地になっています。土産品店も何もありません。立て籠もった兵力は2万3千人。女性と子どもも1万4千人いた。命令系統をきちんとして、住居グループごとにまとまった小屋を建てた。信仰を基盤とした結束が生かされた。戦後、徹底的に破壊されたわけですが、それでも地下を掘ると、今でも当時の人骨が出てくるそうです。幕府軍は3万7千人を皆殺しにしており、一人も(1人の画師を除いて)助かった人はいません。
日本には、まだまだ行ってみたい廃城があることを知ります。小田原城も高天神城もいってみたいものです。
(2010年12月刊。1700円+税)
2011年4月 8日
関東戦国史と御館の乱
著者 伊東 潤、乃至 政彦、 出版 洋泉社歴史新書
戦国時代のことがすっごくよく分かる面白い本です。なるほど、なるほど、戦国時代の武将たちはこんな考えで、こんなふうに行動していたのかと、感嘆・驚嘆しながら読みすすめていきました。
御館(おたて)の乱を扱っています。NHKの大河ドラマ『天地人』で有名になりました。
上杉謙信の死によって大正6年(1578年)に勃発した御館の乱こそ、関ヶ原にも匹敵するほどの戦国史上の大事件だった。
御館の乱をやっとの思いで勝ち抜いた上杉景勝は織田信長勢に押されていたが、天正10年6月に「本能寺の変」が起こって、景勝の苦境は一掃された。その後は、秀吉の忠実な傘下大名として生き永らえた。
武田勝頼が北条氏政との同盟を死守する気持ちが少しでもあったら、御館の乱は景虎が制し、甲相越三国のあいだには、強固な同盟関係が築けたはず。そうなれば織田信長とて、おいそれとは武田家に手が出せず、日本史は現在あるのとは違った様相を呈したであろう。それは、関ヶ原の勝敗が逆となったときよりも劇的な違いだったはずだ。
しかし、上杉景虎は景勝に敗れた。それを間接要因として武田家も滅んだ。そして、それが北条家の滅亡をも招き、日本は統一国家の道をひた走ることになった。
父信虎の方針を否定して家督を奪取した武田信玄であったが、結局、その領国拡大策は変わらなかった。否、いっそう積極的になった感さえある。それは甲斐国のかかえる根本的問題に起因していた。つまり、信玄にも外征による領国拡大策以外に甲斐の国内問題、すなわち飢饉と飢餓を解決する術がなかった。
天文22年(1553年)9月、武田信玄と上杉謙信との間に第一次川中島合戦が勃発した。信玄が決戦を避けたので、謙信は撤退した。同年11月、謙信は初めての上洛を果たし、後奈良天皇に拝謁し、天盃と御剣を授かるという栄誉に浴する。これを契機として謙信の勤皇熱が高まった。
天文23年(1554年)、信濃国領有に成功した信玄と、関東領有を目ざす北条氏康のあいだに利害対立はなくなり、さらに西進策をとっていた今川義元もまじえて三国間に同盟締結の機運が盛りあがった。この年に締結された甲相駿三国同盟は相互不可侵と攻守同盟を基本としていた。この同盟の特徴として三国間の婚姻による同盟の補強があげられる。すなわち、信玄が嫡男義信に今川義元の娘を迎え、今川義元が嫡男氏真に氏康の娘を迎え、氏康が嫡男氏政に信玄の娘を迎えることで、三国同盟をより堅固なものとした。この同盟は永禄11年(1568年)まで15年あまりも続いた。
上杉謙信は1556年、27歳のとき出家得度し、すべてを投げ出して高野山に出奔した。若き信玄は戦国大名という職業に嫌気が差してしまった。
上杉謙信には二人の養子がいた。三郎景虎と喜手次景勝である。景虎は北条三郎と名乗っていた。景勝は、かつて謙信に敵対していた上田長尾政景の次男であった。
景虎も景勝もともに、かつて謙信と敵対した勢力を出身する養子だったが、二人とも謙信から実子に優るとも劣らない待遇を受けた。そして、謙信は、景虎の政治基盤を解体せずに景勝の権威昇格を試みた。謙信初名の「景虎」と由来の曖昧な「景勝」では、どう考えても景勝が上位とは言い難い。つまり、謙信は、自らの官途名を譲ることで景勝を引き立てつつも、そこに歯止めをかける存在として、景虎を残したと考えられる。北条方と再び対立した謙信は、またもや反北条の旗頭として、国内や関東の諸士を連れ回し、対北条作戦を継続させねばならなくなった。しかし、北条を実家とする景虎が後継候補では、家中の結束は固まり難く、関東諸士の参戦も危ぶまれた。北条方の矢面に立たされる関東諸士としては、謙信に従って戦うことが北条氏政の実弟である景虎を益することにもつながるというジレンマを抱えることになった。そして、謙信は、北条方との戦いを再開するにあたり、何をおいても景虎を後継とする体制を見直す必要があった。
謙信の祖先は代々、越後守護職・上杉家の家宰として越後国の統治を代行する一族であり、あくまで守護上杉家の補佐役としての権限しか持っていなかった。信玄との川中島合戦において、謙信は正式には主従関係になり国内領主たちを動員してつかい回すのに「勝手に帰国しないこと」という陣中法度があるように苦労していた。このように未熟な権力であったからこそ、謙信は京都の伝統権威に接近した。
うひゃあ、謙信政権の内実って、それほど堅固なものではなかったのですね・・・。まったくイメージが違っていました。
謙信の死は天正6年(1578年)3月のこと。その死から2ヶ月もたって、御館の乱が始まった。以下、御館の乱の推移が詳しく紹介されています。それを読むと、当時の武将たちが気骨のある一城の主(あるじ)だったことがよく分かります。戦国時代の様子を知る絶好の書物です。
(2011年2月刊。860円+税)
2011年3月19日
『日欧文化比較』
著者 ルイス・フロイス、 出版 岩波書店
ルイス・フロイスの日本覚書
1. ヨーロッパでは、未婚女性の最高の栄誉と財産は貞操であり、純潔 が犯されないことである。日本女性は処女の純潔を何ら重んじない。それを欠いても、栄誉も結婚(する資格)も失いはしない。
29. ヨーロッパでは、夫が前方を、そして妻が後方を歩む。日本では、夫が後方を、そして妻が前方を行く。
30. ヨーロッパでは、夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分の分け前を所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。
31. ヨーロッパでは、妻を離別することは、罪悪であることはともかく、最大の不名誉である。日本では、望みのまま幾人でも離別できる。彼女たちはそれによって名誉も結婚も(する資格)も失わない。
32. (ヨーロッパでは)墜落した本姓にもとづいて、男たちの方が妻を離別する。日本では、しばしば妻たちの方が夫を離別する。
33. ヨーロッパでは、ひとりの親族が(女)が誘惑されても、(その奪還のため)一族全部が死の危険に身をさらす。日本では、父母兄弟が見て見ぬふりをし、そのことをあっさりと過ごしてします。
34. ヨーロッパでは、娘や処女を(俗世から)隔離すること、はなはな大問題であり、厳重である。日本では、娘たちは両親と相談することもなく、一日でも、また幾日でも、ひとりで行きたいところに行く。
35. ヨーロッパでは、妻は夫の許可なしに家から外出しない。日本の女性は、夫に知らされず、自由に行きたいところに行く。
38. ヨーロッパでは堕胎は行われはするが、たびたびではない。日本ではいとも普通のことで、20回も堕胎した女性がいるほどである。
39. ヨーロッパでは嬰児が生まれた後に殺されることなど滅多にないか、またはほとんどまったくない。日本の女性たちは、育てることができないと思うと、嬰児の首筋に足をのせて、すべて殺してしまう。
45. 我らにおいては、女性が文字を書く心得はあまり普及していない。日本の貴婦人においては、もしその心得がなければ格が下がるものとされる。
54. ヨーロッパでは、女性が葡萄酒をのむなど非礼なこととされる。日本では(女性の飲酒が)非常に頻繁であり、祭礼においてはたびたび酩酊するまで飲む。
どうでしょうか。戦国時代の日本女性について、ヨーロッパの人々が大変驚いたことがよく伝わってきますよね。
(1991年11月刊。6600円)
2011年3月17日
室町幕府論
著者 早島 大祐、 出版 講談社選書メチエ
この本を読むと、本を読み続けることの大切さを改めて認識させられます。というのも、たとえば足利義満は日本国王に取って代わろうとしたという(王権簒奪論と呼ばれる)学説が有力だと私は思っていました。ところが、この本によると、この王権簒奪説は現在では成立しない学説だというのです。
足利義満が国内的に日本国王号を使用した形跡はない。当時の幕閣たちのあいだで、明(中国)に臣下の礼をとる日本国王号には反発が強かった。そして、日本国王号は九州方面の戦略上の必要に過ぎなかった。
足利義満は、どのような手段を用いても明との交易を行いたかった。通交の名義は明側の要請に応えただけであって、義満はあくまでそれに合うように行動したに過ぎなかった。明と貿易さえ出来れば、「征夷将軍」でも「日本国王」でもなんでもよかった。足利義満は天皇になろうとしたわけではなく、また日本国王として権力を行使しようともしていなかった。
足利義満の権力を日本国王と表現するのは、果たして妥当かという根本的な批判が加えられている。明から与えられた日本国王号が内政に直接影響を与えたとは言えないというのが今の学会の共通理解である。なーるほど、そうなのか・・・と思いました。
遺明船のもたらした財貨はきわめて莫大であった。それによって義満は京都に七重塔という100メートルを超える塔を建てた。応永6年1399年のこと。義満の建てた相国寺大塔は、天下を象徴する塔であると当時、認識されていた。
義満は、大胆さと繊細さを兼ね備えた人柄であった。応永14年に明からの使節がやって来たとき、義満は唐人の装束で使節を歓待した。義満は当時の規範から自由に、自分がふさわしいと思うかたちで衣装を選んでいた。
大塔や北山第の造営にみられるように、義満の権力は、まことにスケールの大きいものだった。北山殿として、過去のあらゆる院を超えた権力を手中にした義満であったが、その築き上げたものは、息子義持によって、ばっさり仕分けられてしまった。完成間近だった再建・大塔は、放置され、明との通交も停止された。
室町幕府を考え直すことの出来る本でした。
(2010年12月刊。1800円+税)
2011年1月23日
戦国合戦の舞台裏
著者 盛本 昌広、 洋泉社 歴史新書y出版
戦国時代の人々の暮らしぶりが伝わってくる本です。知らなかった言葉がたくさん出てきて解説されているのも、うれしいことです。
重説(じゅうせつ)は、再度の情報のこと。戦国時代、敵味方の消息を知るのは必須不可欠ですが、虚報の心配もあります。そこで、二重チェックが必要となります。
注進状とは、一般に敵の動きや合戦の結果といった軍事情報や機密情報を記した文書のこと。注進状は、戦国時大名が出陣するのに不可欠な情報であった。
蝕口(ふれくち)は、出陣を決断したとき陣触(じんぶれ)が出されるが、その陣触を伝える役職をさす。触口の下に小触口がいて、この小触口が実際に侍や村落に出向いて命令を伝える。このつたえる役目を果たしたのが定使(じょうし)であった。
着到(ちゃくとう)とは、古代以来使われていた言葉で、到着したことを意味する。炭鉱でも、同じく着到という用語がつかわれていました。
小荷駄隊(こにだたい)は、編成された兵糧運搬部隊のこと。
腰兵粮は、腰につけた当時の携行食糧である乾飯(ほしいい)のこと。
後詰(ごづめ)は、味方の城を包囲している敵を後方から攻めるために出陣すること。
信長が兵糧自弁の原則から一歩ふみ出せたのは、兵糧を大量に購入するだけの資金を持っていたから。信長は各地を攻略していき、財政基盤となる直轄領を設定し、同時に堺など有力な都市も支配下に置いて資金を吸い上げた。また矢銭(やせん。軍用金)の納入の強制なども資金源であったと考えられる。
備場(そなえば)は合戦の場のこと。そこでは高声(こうしょう)や雑談(ぞうたん)が禁止されている。兵卒のおしゃべりは禁止されていた。声高は大将が軍勢を指揮するときに発する声のこと。
仕寄(しよせ)とは、城攻めの手だてを尽くし、徐々に城の中心に迫っていく状況をあらわす言葉。
自落(じらく)とは、自らの意思で城や屋敷から退くこと。
落武者狩りとは、単なる物取りではなく、敵方の通行を封鎖せよという命令を受けて行われていた。
まだまだ世の中は知らないことばかりですね。
(2010年10月刊。860円+税)
2011年1月13日
「秀吉の御所参内、聚楽第行幸図屏風」
著者 狩野 博幸、 青幻舎 出版
昨年(2009年)秋に、新潟県は上越市で初公開された屏風絵が秀吉や秀次そして聚楽第などを描いているというのです。とても珍しい屏風絵なのですが、著者はそれをこと細かく実証しつつ解説してくれます。眺めて楽しく、読んでうれしくなるような本です。
京都の御所を出て進んでいく行列の中央に天皇しか乗ることの出来ない鳳輦(ほうれん)が描かれている。その輿の上には金銅製の鳳凰が飾られている。なるほど、白装束の者たちが鳳輦をかついで進んでいます。そして、反対側からは、多くの武士たちに守られて進む牛車が描かれている。その牛車には、桐の紋がはっきり見える。
後陽成天皇が聚楽第(じゅらくだい)に行幸したのは天正16年(1588年)4月14日のこと。秀吉が聚楽第をつくったのは京都における政庁を作るためだったが、天皇の行幸もその視野に入れていた。
秀吉は、天皇の行幸のとき、室町将軍のときの先例を無視して、内裏に御迎(おむかえ)に参上した。そして秀吉は桐紋の牛車に乗って、天皇の乗る鳳輦と向かいあう形で進んでいった。このあたりは、この本に解説とともに屏風絵が拡大されていますので、よく分かります。
秀吉の参内、天皇の行幸は華やかさのなかにも、恐るべき緊張の下に進められた。厳重な警固が張られ、行幸にあたっては、内裏から聚楽第までわずか15町ほどのあいだに6千余人の武士が張りついて警備していた。屏風絵に描かれた武士たちは、いずれも脇差しさえも着していない。
この屏風絵は、儀式は儀式として描き尽くしながらも、それとは無関係に当時の市中に生きる人々の姿をこと細かに描いている。当時の女性たちが夫の諒解を得ることなく、勝手に外出している様子も描かれている。外国からやって来た宣教師たちが驚いた光景である。宣教師たちは、女性の貞操観念の低さにも呆れている。女性は自由だったのである。日本の女性こそ、世界でもっとも自由な存在であったと知るべきなのだ。女性だけでなく、子どもたちも伸びのびと生きていました。うらやましい限りです。
このようにきらびやかな素晴らしい屏風絵が最近まで広く世に知られていなかったというのは惜しい限りです。一見、一読の価値ある本としておすすめします。
(2010年10月刊。2500円+税)
2010年12月31日
戦国鬼譚・惨
著者 伊東 潤、 講談社 出版
うまいですね、すごいです。やっぱり本職、プロの作家は読ませます。日本IBMに長く勤めたあと、外資系の日本企業で事業責任者をやっていた人が執筆業に転じたというのです。異色の経歴ですが、きっと金もうけなんかよりも自分の好きなことをしたいと思って転身したのでしょうね。見事な変身です。賛嘆します。私も見習いたいのですが・・・・。
武田信玄以後の武田家に仕えていた武将たちの、それぞれの生き方が短編の連作として描かれています。どれもこれも、さもありなんという迫真の出来ばえです。
戦国時代の末端の武士の頭領たちに迫られた決断の数々が、豊かな情景描写とともに再現されていますので、読んでいるうちに、たとえば木曽谷に、また伊奈谷に潜んでいる武将にでもなったかのような緊迫感があり、身体が自然と震えてくるのです。まさに武者震いです。
武田信玄が追放した父親の信虎が登場し、また、信玄が死んだあとの勝頼も登場します。しかし、この本の主人公は、武田家を昨日まで支えてきて、主君勝頼を見限って裏切っていく武将たちです。そして、それはやむをえない苦渋の選択だったということを理解することができるのです。戦国時代の武将の心理を考えるとき、なるほどそういうこともありうるかなあ・・・・と、参考にできる小説だと思いました。
ただ、読み終わったときちょっと重たい気分になってしまうのが難点と言えば難点です。でも、戦国武将の気分にどっぷり浸ってみたいという人には強くおすすしますよ。
(2010年5月刊。1600円+税)
2010年12月22日
村人の城、戦国大名の城
著者 中田 正光、 洋泉社歴史新書 出版
北条氏照(うじてる)の領国支配と城郭。こんなサブタイトルがついています。氏照は、今の八王子に城を構えていたようです。そして、村人の城のほうは有名な黒沢明監督の『七人の侍』をイメージするといいとのこと。この映画は時代考証がよく行き届いていて、戦国期の村人の生活や風習が実によく再現されているそうです。
北条早雲は、実は本人は「北条」を名乗ったことがない。北条を名乗ったのは、二代目の氏綱から。北条早雲は、江戸時代につくられた名前である。実際に呼ばれていたのは、伊勢盛時(もりとき)とか、伊勢宗瑞(そうずい)であった。うへーっ、そうなんですか・・・・。
早雲は一介の素浪人から一国の主にのし上がったというのは間違いで、実際には歴とした家柄であり、中央政府で将軍に仕えて、「申次(もうしつぎ)」という外部の仲介役をつとめていた役人だった。なんと、なんと、思い込みというのは恐ろしいものですね。
滝山城のかつての雄姿が図解されていて、よくイメージが伝わってきます。
戦国時代、平百姓でも苗字をもった者がいたことは既に知られている。日本人は、昔から識字率も高く、名なしの権兵衛を嫌ったのですね。
武田信玄が信州志賀城を攻め落としたときのこと。城内の兵を攻め立て三千人を討ちとり、その首を志賀城の周りにことごとく晒した。そして城内に残された婦人、子ども、老人を生け捕りにし、意気揚々と甲州へ引き上げた。帰陣してから人身売買市を開き、2貫、3貫、5貫、10貫という値段をつけて売りさばいた。要するに、身代金を得る場になった。捕らわれた者の親類が身代金を支払って生け捕りにされた人たちを買い戻した。これが当時の戦いの現実だった。相手を殺し、領主から名誉の感状を受けるより、生け捕りにして身代金を獲得した方が得だということ。殺さないで身代金を手にすれば、現実の生活は豊かになっていく。
当時の合戦の実態は、相手の領国に侵入して田植え時の苗代を踏みあらしたり、収穫時の稲を刈り取って強奪することが多かった。さらには、民家に押し入って金目になるものを手当たり次第に盗み、奪い去った。
当時の戦場は、うまくすれば人身売買で身代金を手に入れられる、大金が入ってくるうれしい稼ぎ場でもあった。二男三男たちが家長(長男)から離れ、積極的に戦場に赴いていった背景には、こうした事情があった。うむむ、そういう実情があったのですか。『七人の侍』も、そんな前提でみると、また認識が深まりますよね。
ルイス・フロイスは、『日欧文化比較』のなかで、「日本では、ほとんどいつも小麦や米や大麦を奪うために戦っている」としている。つまり、当時、合戦する狙いは食糧を奪うことにあるといっているのです。
一乗谷の朝倉氏の支配は100年間続いたが、伝染病の記録がない。いかに一乗谷が衛生的に管理されていた都市であり、住民がすぐれた衛生思想の持主であったか理解できる。城内は馬小屋に至るまで常に清潔が保たれていた。私も、朝倉の一乗谷に行ったことがあります。戦災にあって消滅した町屋が復元されていて、当時の生活を実によくしのぶことが出来ます。
中世の城が図解され、とても分かりやすく読める本です。
(2010年4月刊。840円+税)