弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦国)
2007年3月22日
淀殿
著者:福田千鶴、出版社:ミネルヴァ書房
淀殿とは、豊臣秀吉の側室の一人。秀吉の愛妾となって秀頼を産み、秀吉の死後は、秀頼とともに大坂城にあって、大坂冬の陣、夏の陣を引き起こし、ついに豊臣家を滅亡に導いた。このような定説に真っ向から挑戦した本です。
淀殿の本名は、浅井茶々(ちゃちゃ)。
殿と様には違いがある。「殿」付けで呼ばれるより、「様」付けで呼ばれる人物の方が格上であった。淀殿というのは江戸時代になってからの呼称。その生存中には、「様」付けで呼ばれていた。
天下人たる豊臣秀吉は、一夫多妻の婚姻形態をとっていた。明治になるまで、天皇家においては、制度的に后(正妻・嫡妻)が一人とは限られなかった。后以外にも女御などの別妻や多くの女官(侍妾)がいた。摂関家も同じく一夫多妻制だった。天皇を超越する権威と権力をもった天下人秀吉の妻が一人でなければならい理由はない。
著者は、秀吉の妻は少なくとも5人いたとしています。有名な醍醐の花見のとき、御輿に乗って現れた女性、すなわち、政所(杉原寧)、西の丸(浅井茶々)、松の丸(京極龍子)、三の丸(織田氏)、加賀(前田摩阿)です。
秀頼は茶々(淀殿)が秀吉以外の男性と密通して生まれた子だという説がありますが、著者は否定します。秀吉の身近にいた寧が秀頼を秀吉の子であることを疑っていなかったこと、秀吉の嫉妬深く残忍な性格からして、茶々がもし密通していたら、それが発覚したときには生命の保障はない。だから、そんなことはありえない。なるほど、ですね。
寧と茶々の二人は、個々の問題で対立する場面はあったが、重要なことは、二人とも豊臣家の後家として連携することを基本として考え、常に行動していた。
秀吉は、第一番目が寧であり、第二番目が茶々であるという序列を強く意識しており、この順序を崩すことはなかった。
秀吉が残忍なことは秀次とその関係者の処刑の件で知っていましたが、もうひとつあったのですね。天正 17年(1589年)2月25日夜、聚楽城の表門(南鉄門)に誰かが落首を貼り出しました。
大仏の功徳もあれや鑓かたな
釘かすがいは子だからめぐむ
などです。子種がないと思われていた秀吉に子ができたことが大仏の功徳として嘲笑されたのです。秀吉は自尊心を大きく傷つけられ、直ちに報復の行動に出ました。
番衆17人を処罰。3日にわたって、一日ずつ鼻を削ぎ、耳を切ったうえで、逆さ磔に処していったのです。このようにして合計して113人が処刑されました。
もっとも、秀吉は人気回復の手もうちました。金賦(くばり)です。金6千枚、銀2万5千枚を諸大名や寺社に分配したのです。
そして、懐妊した茶々のために御殿を新造しました。茶々は御新造様になったわけです。
茶々が淀に在城していたから淀殿と呼ばれていたというのは誤りだ。正しくは、淀在城を機に茶々が「淀」を号として用いたため、死後に号の「淀」に敬称の「殿」をつけて「淀殿」と呼ぶようになり、近代になってからは「君」をつけて「淀君」と呼ぶようになったものである。
茶々は初めての子「鶴松」を亡くしても秀吉の正妻としての地位は失わなかった。
慶長3年(1598年)8月18日、秀吉が62歳で死んだ。秀頼はわずか7歳だった。茶々は、大坂城が灰燼に帰す日まで、17年間、秀頼とともに大坂で暮らした。
このころの大坂は人口20万。経済的にも文化的にも、日本でもっとも繁栄した活気ある大都会だった。家屋も二階建てだった。
慶長16年の二条城会見で、成人した秀頼を見た家康は、徳川の天下の行く末について不安を感じた。それから4年後、豊臣家は完全に滅亡させられた。
大坂夏の陣で、茶々は秀頼とともに自害した。その様子について、伊達政宗は手紙に次のように書いた。
大坂城は本丸をみずから焼き、秀頼とお袋(茶々のこと)は翌日まで天守下の丸の蔵に生き残っていたところ、公方様が千姫を引き取り、秀頼には腹を切らせ、お袋は成敗した。
著者は、茶々について、家康の保護下に入ることを拒み続け、何としてもわが子を天下人にするという自己主張を貫き通した茶々の姿には、男にもひけをとることのない精神力の強さと、戦国女性ならではの意地を見る思いだ、としています。なるほど、そういう見方ができるのですね。
ところで、この本には再三、「武功夜話」が引用されています。偽書だという説もあるわけなのですから、その点のコメントなしに引用されているのにひっかかりました。どうなんでしょうか・・・。