弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史(戦国)

2019年5月12日

斗星、北天にあり

(霧山昴)
著者 鳴神 響一 、 出版  徳間書店

秋田美人で有名な秋田市。
戦国時代、ルイズ・フロイスの書簡にも「秋田という大市あり」と書かれているそうです。蝦夷に近く、秋田人もときどき蝦夷に赴くと書かれています。
この小説のなかでは、蝦夷(アイヌ民族)だけでなく、ロシア大陸の民族・東韃(とうたつ)人との混血児まで登場してきます。恐らく古代から、そのような交流はあったことでしょう。
ブナ林で有名な白神山地を背後に控えた港町を安東(あんどう)氏は治めていた。
安東氏は、鎌倉時代後期から室町時代中期にわたって、日本海北部の海運を完全に掌握していた一族である。
天然の良港である津軽半島の十三湊(とさみなと)を根拠地に、蝦夷地のアイヌはもとより中国、朝鮮とも交易を続けていた。かつて安東氏の当主は、東海将軍、あるいは日之本(ひのもと)将軍との称号を用いていたこともある。
十三湊は、三戸(さんのへ)に根拠を置く甲斐源氏の南部家によって百年ほど前に奪われていた。安東氏から十三湊を奪った南部家は敵と呼ぶほかない。
載舟覆舟(さいしゅうふくしゅう)。海の水は安らかなるときは船を浮かべ載せる。海の水が荒れれば、直ちに船を覆す。民を海の水と考えるのだ。
枉尺直尋(おうせきちょくじん)。一尺分を折り曲げることで、一尋(ひろ。8尺)をまっすぐにできたらよい。危急に望んでは、小の虫を殺して大の虫を助けることが肝要。
安東愛季(ちかすえ)は15歳で家督を継いで檜山安東家の若き当主となった。長尾景虎と武田信玄が川中島で干戈(かんか)を交えようとしたころである。
豊臣政権下では、安東家は、出羽国内の5万石の安堵が認められたが、実高は15万石だった。そして、関ヶ原の戦いのあと、常陸国宍戸5万石に頼封されたことにともなう措置だった。
秋田における安東家の活躍を紹介する小説として、最後まで面白く読み通しました。
(2019年3月刊。1800円+税)

2019年1月30日

戦乱と民衆

(霧山昴)
著者 磯田 道史・呉座 勇一ほか 、 出版  講談社現代新書

戦乱というから戦国時代のことを論じた本かと思うと、なんと古代の白村江の戦いから幕末の禁門の変まで広く対象にしています。
豊臣秀頼の死に至る大坂の陣について、イエズス会士が詳しい報告書を書いているとのこと。イエズス会士は大坂城に滞在していて、落城前に2人が脱出して助かったそうです。知りませんでした。そして、大坂城の近郊にはオランダ人が滞在していて、彼らは主として毛織物を販売していました。
当時の大坂の人口は20万人。そこへ牢人たちが10万人も集まってきた。家族を伴って来た牢人も少なくなかった。大坂に残っていた人の大半は、豊臣方の牢人とその家族だったと考えられる。
幕末の禁門の変によって、京都の町は焼けて大変な被害にあった。
会津藩と桑名藩が一橋慶喜の指示を受けて手当たり次第に放火した。そのため、公家や大名をふくめた京都の民衆から、「一会桑」と呼ばれる一橋家、会津藩、桑名藩は恨みを買った。
そして焼け跡で何が起きたか。戦死者の胴巻に多額の所持金があり、それを遺体を片付ける人夫が自分のものとし、その後、新京極あたりで商売を始める元手として成功した人がいた。ものすごい臭気のなかでの作業だ。民衆のたくましさを示している。民衆は、ただ「やられていた」という存在ではなく、むしろ自分たちが奪う側にまわったり、戦争を機にのし上がっていこうとする、たくましい存在でもあった。
京都は幕末の騒動のため、焼け野原で空地が多かった。金融システムまで破壊されたので、再建する資金の手当ができなかった。そのため、京都は深刻な住宅不足となった。明治10年ころまで、この状態が続いた。京都が首都になれなかった理由の一つがこれだった。
明治も後半になった37年に西郷隆盛の子、西郷菊次郎が2代目の京都市長に就任した。これは、京都への資金導入を願った京都財界人が薩長との人脈に注目して要請した人事。菊次郎市長は、発電、上下水道整備、市電設置という京都三大事業を成し遂げて京都の発展を導びいた。
うむむ、民衆視点で歴史を語る話は、とても興味深いものがありますね。
(2018年8月刊。780円+税)

2019年1月23日

長篠合戦の史料学

(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版  勉誠出版

1575年(天正3年)というと1600年の関ヶ原の戦いの25年前です。織田・徳川連合軍と武田軍が激突し、武田軍が惨敗しました。武田軍は織田信長の3千挺の鉄砲の3段撃ちの前に次々に騎馬の将兵が戦死していったとされています。つまり、武田勝頼は強がりだけの若(馬鹿)武者だったという評価が定着している気がします。
ところが、織田軍が本当に3千挺もの鉄砲をもっていたのか、火縄銃の3段撃ちなんて現実に可能だったのかという疑問が出され、一時は全否定されていました。ところが、最近では、3千挺というのはありうるという説もあるようですし、3段撃ちは可能なんだという反論もそれなりに説得力があります。
また、武田軍にしても、鉄砲隊はそこそこ備えていた、また勝頼は決して若(馬鹿)殿ではなく、信長は敵として高く評価していたことも明らかにされています。本書は、いくつもある「長篠合戦図屏風」などの史料もふまえて真相解明に迫っています。
長篠合戦は、織田信長が当面の敵と考えていた浄土真宗本願寺とのたたかい(石上合戦)の過程で副次的に生じた出来事だった。信長は勝頼と戦う状況は想定していなかった。
長篠の戦いにおいて、織田・徳川の連合軍のうち、いくさの中心はあくまで徳川軍であり、織田軍は援軍の立場にあった。そして、本願寺との戦いのため、できるかぎり自軍の損害を抑えたいと信長は考えていた。そこで、織田軍は窪地に隠れるように配置され、前に馬防柵を構え、大勢が決するまで、柵の外でできるだけ戦わないようにした。
決戦場となった設楽原(しだらがはら)は、ぬかるんだ水田であり、腰のあたりまで水に浸かったため、武田軍の機動が大きく封じ込められた。東西400メートル、南北2キロの、非常に南北に長い地域で決戦が行われた。
織田・徳川の連合軍は3万8千人。火縄銃3500挺を用意した。
火縄銃の有効射程距離は50メートル。
長篠合戦の実際を、さらに一歩ふかく知ることができました。
長篠・長久手の合戦を画題とする合戦図屏風は現在17件が見つかっているとのことです。すごい迫力のある画面です。
(2018年10月刊。5000円+税)

2019年1月 5日

戦国の城の一生


(霧山昴)
著者 武井 英文 、 出版  吉川弘文館

私は弁護士になってしばらく、鎌倉の大船に住んでいたことがあります。フラワー公園のすぐ近くの玉縄のアパートでした。すぐ近くに玉縄城という有名な城跡があったようです。福岡に来てから知り、行ったことがなかったのを残念に思いました。
『のぼうの城』で有名になった埼玉の忍(おし)城にも行ってみたいと思います。石田三成が、秀吉の高松城の水攻めにならって水攻めをやってみたけれど失敗して撤退したというお城です。
古城といえば、なんといっても原城ですよね。廃城といいつつ、城壁どころか建物まで残っていたようです。ここで、3万人もの百姓が皆殺しにされたというのですが、今は何もなく実感が湧きませんでした。
この本には登場しませんが、戦国の城では安土城には2度のぼりましたし、朝倉氏の越前一乗谷の城下町にも2度行って、往時をしのびました。
城跡は、日本全国に数万ヶ所もあるそうです。城めぐりを趣味とするサークルがあり、旅行会社のツアーまであるというので、驚きました。
埼玉県嵐山(らんざん)町にある杉山城という大論争の城にも行ってみたいものです。
地選(ちせん)・・・城の位置を決める。地取(じどり)・・・場所を確保する。経始(けいし)・・・縄張を決める。普請(ふしん)・・・土木工事。作事(さくじ)・・・建築工事。鍬初・鍬立(くわだて)・・・地鎮の儀式。新地(しんち)・・・新規に築城する城。
城の築城期間は、およそ10ヶ月あまり。丈夫な土塁をつくるには、土だけでつくるのではなく、萱を入れることが必要だった。しかも、前年に刈って乾燥させた萱が良かった。
山城のなかには、一定の竹木を植えついたし、水源を確保するために必要だった。それだけでなく、家(城主)の繁栄のシンボルでもあった。
戦国時代には大名だけが築城したのではなく、自立的な村落が自分たちの身を守るために自ら主体的に城を築いた。村の城という。
城は聖地を意識して築かれることもあった。
城には、いざ籠城となったときのことを考えて、それなりの数の備品を常備していた。そのため、その維持管理は大変だった。兵粮は大名にとって悩みの種の一つだった。
人や馬の糞尿は、毎日、城外へ出して場内を清潔にするよう定められていた。その場所は場内から遠矢を放ち、その矢の落ちたところより奥の場所となっていた。
城には門限があった。朝9時ころに開門し、夕方6時ころに閉門していた。
お城オタクの、若い著者のお城探訪記のような本でもあります。
(2018年12月刊。1700円+税)

2018年12月 1日

星夜航行(下巻)

(霧山昴)
著者 飯嶋 和一 、 出版  新潮社

秀吉の朝鮮侵略戦争に主人公が従事しているところから下巻は始まります。
咸鏡道は、朝鮮八道で唯一、秀吉軍による検地が執行された。その一部では、租税帳まで作成された。
朝鮮社会の内部矛盾を秀吉軍がうまく利用したということもあったようです。
朝鮮水軍は、李瞬臣によって見事によみがえり、秀吉水軍を撃破するようになった。加えて、各地で朝鮮義兵が蜂起し、秀吉軍は物資補給が思うようにならなくなっていった。
そして、ついに明国軍が4万3千の大軍として朝鮮に入ってきた。明と朝鮮の連合軍は8万をこえる大軍となり、小西行長の守る平壌を攻撃した。ついに、小西行長は平壌を捨てて南に撤退することにしたが、そのときには、1万8千の兵員が6千6百にまで減っていた。
朝鮮侵略軍としての秀吉軍にいた日本人将兵のなかに朝鮮軍の捕虜となった人々が少なくありませんでしたが、そのときには彼らは降倭と呼ばれ、やがて降倭だけで部隊が組織されて秀吉軍と真正面から戦うようになります。これは史実です。
本書では阿蘇神官の重臣だった岡本越後が降倭の主だった武将として登場します。
降倭は戦いに慣れ、鉄砲も扱える貴重な戦力として秀吉軍の脅威になっていきます。
そして、主人公のほうは、フィリピンに渡って、その地の日本人たちとまじわったうえで、日本に舞い戻ってきます。
降倭軍は、日本人ながら秀吉軍を相手として奮戦し、朝鮮王国軍の一翼を担ってきた。朝鮮王国軍の将兵ばかりか朝鮮民衆までも降倭軍を頼りにした。そして降倭軍は、その依頼を一度も裏切らなかった。
そして、主人公は、家康の前に朝鮮使節団の一員としてあらわれるのです。
なんとスケールの大きい展開でしょうか。秀吉の朝鮮出兵についても、よく調べてあり、驚嘆するばかりでした。下巻だけで、572頁もある大作です。読み通すのには骨が折れますが、努力するだけのことはある歴史小説です。
(2018年6月刊。2000円+税)

2018年11月22日

戦国大名 武田氏の領国支配

(霧山昴)
著者 鈴木 将典 、 出版  岩田書院

甲斐の武田氏は、「甲州法度」(はっと)という分国法を制定していました。この本は、この甲州法度のなかでも「借銭法度」を深く掘り下げて論じ、興味深いものがあります。
「甲州法度」57ヶ条のうち、借銭に関する条項は14ヶ条で、もっとも多い。
債権者が債務者の財産を差し押さえするとき、先に作成した文書を優先する。子の債務を親に肩代わりさせることを禁止する。債務者が死亡したときには保証人が弁済の責任を負う。借銭の年期中に担保を売却することを禁止する。借銭の利息が元本の2倍になったら返済を催促できる、困窮のため借銭を返済できないときには、もう10年返済を延長できる。
「借銭法度」は、武田氏が領国内の問題に対処するため、独自に制定した条項であった。「甲州法度」の追加条項でもっとも多数を占める「借銭法度」こそ、このころの武田氏が直面していた最重要課題であった。
天文から永禄年間の武田領国では、戦乱・災害などによって、武田領国内の給人・百姓層が困窮し、飢饉を生きのびるため、あるいは軍役負担や年貢納入等のために借銭を重ねていた状況だった。
訴訟の際に、売買・貸借の証拠書類が重視されたことは「借銭法度」に明記されていた。とくに、債権者が複数存在していたときには、確実な「借状」を所持している者が権利者とされた。他方で、「謀書」(偽文書)であることが判明したときには罰せられることになっていた。
こうやってみると、日本人って、本当に昔から裁判大好きな人々だったとしか思えません。
「借銭法度」が制定された背景には、戦乱や災害で武田領国内の給人・百姓層が困窮し、借銭を重ねていた社会状況があり、そのうえ武田氏の「御蔵」を管理し、その米銭で金融活動を行う「蔵主」の存在があった。彼らは武田氏の経済基盤として位置づけられており、給人・百姓層を中心とする債務者層側の売買・貸借をめぐる相論(訴訟)を武田氏が裁定するとき、その基準として定めたのが「借銭法度」であった。
戦国大名である武田氏は、「借銭法度」をふくむ「甲州法度」を制定することによって、「自力」による紛争解決を規制する一方、自らの権力基盤である給人・百姓層や「蔵主」などの権益を保護することで、大名領国を支配する公権力として、自らの正当性を確立していった。
「甲州法度」のなかに裁判や債権執行のあり方などを定めた「借銭法度」なるものがあることを初めて識りました。戦国大名が領国を支配するときに、武力だけでなく、法令を定めていたこと、裁判の手がかりとしてたことを認識できる本です。
(2015年12月刊。8000円+税)

2018年11月 9日

戦国大名と分国法

(霧山昴)
著者 清水 克行 、 出版  岩波新書

戦国時代の大名が領民支配のために法律(分国法)をつくっていたというのは知っていましたが、この本を読んで、その内容と法律の限界を知ることができました。
限界のほうを先に紹介します。
毛利元就(もとなり)にとって、法度(はっと)を定めてこそ、一人前の戦国大名だという認識があった。しかし、これは、当時の多数派ではなかった。裁判よりも戦争、これが大多数の戦国大名が最終的に選んだ結論だった。
詳細な分国法を定め、領国内に緻密な法制度を整えた大名に限って、早々に滅んでいった。当主の臨機応変なリーダーシップや超越したカリスマ性が求められた時代には、その分国法は、ときとして、政治・軍事判断の足かせともなった。
粗野で、野蛮なもののほうが新時代を切り拓いていった。とはいっても、分国法が成立したということは、それ以前の社会がつくり出した法慣習を成文法の世界に初めて取り込んだという点で、それ以前とは法の歴史を画する一大事件であることを忘れてはいけない。
次に、分国法の内容をみてみましょう。
私が驚いたのは、武田晴信の「甲州法度」のなかに、債務者の自己破産による混乱を整理することを目的として、債権者が債務者の財産を差し押さえるときの手続きまで定められているということです。ちっとも知りませんでした。債務者の自己破産が深刻な問題になっていたようだと書いてあるのには、びっくり仰天です。
「六角氏式目」には、当時、当たり前のように行われていた自力救済を規制すべく、訴訟手続き法を詳細に定めていた。それには、「訴訟銭」として1貫200文を訴状に添えて奉行所に提出することになっていた。勝訴したら、1貫文は戻ってくるが、敗訴したときには1貫文は戻ってこない。200文は、奉行人の手当となる。
日本人は、昔から裁判が大好きだったんですよね。ですから、自力救済ではなく、裁判を利用するように分国法を制定したわけです。
大変面白く、機中で一気読みしました。
(2018年7月刊。820円+税)

2018年10月 8日

天地に燦たり


(霧山昴)
著者 川越 宗一 、 出版  文芸春秋

大変なスケールの話であり、著者の博識に圧倒されてしまいました。
舞台は秀吉による朝鮮侵攻戦です。それに従事する島津家の重臣が主人公の一人。対する朝鮮にも、もう一人の主人公がいます。両班(ヤンバン)の師匠をもつ白丁(ペクチョン)ですが、戦乱のドサクサで両班だと詐称します。さらに、もう一人は琉球国の密偵です。
それぞれの国情がきめ細やかに描かれ、話がからみあいながら進行していく様子は、さすが職業作家の筆力は違います。自称モノカキの私ですが、桁違いの博識には唸るばかりでした。
朝鮮の両班の話は、先に両班の日記の復刻版を紹介しましたが、著者も、それを読んでいたのかなと、つい思ってしまいました。日本からの侵略軍が来る前後に、朝鮮国では科挙の試験が実施されていたのです。文を尊び、武を軽んじていたこと。両班たちを含め、上層部で党派抗争が激しかったことなどもきちんと紹介されています。
そして、琉球国です。島津と日本との関係をどうするか、いや、その前に中国との関係をどうするのか・・・。ついに島津軍が沖縄に上陸し、琉球国も戦わざるをえません。しかし、歴戦の兵士ぞろいの島津軍の前に、あえなく敗退・・・。
島津軍は、朝鮮で明の大軍に攻められながらも、ついに撃破してしまいます。どうして、そんなことが可能だったのか・・・。
「人にして礼なければ、よく言うといえども、また禽獣の心ならずや」(『礼記』らいき)
さすが松本清張賞をとっただけのことはある、時代小説でした。
(2018年7月刊。1500円+税)

2018年10月 6日

星夜航行(上巻)

(霧山昴)
著者  飯嶋 和一 、 出版  新潮社

 この著者に初めて出会ったのは『神無き月、十番目の夜』でした。読むにつれ息を呑むほど圧倒されてしまいました。20年も前のことです。すぐに読書好きの弁護士に教えてやりました。次は『出星前夜』です。大佛次郎賞をもらったそうですが、島原の乱、原城攻防戦を描いていて、ぐんぐんと惹きずられました。もちろんストーリー展開も見事なのですが、人物と戦場をふくむ情景描写がすごくて、思わず我を忘れて没入してしまいます。この本も見事です。たとえば、こんなのは、どうですか・・・。
この若衆は、覚了の姿を確かめると片膝立ちとなり、まず笠緒を解いた。ひどく落ち着いた動作だった。前髪を残して頭上の真ん中を剃り上げ、茶筅(ちゃせん)に結いあげた髪の様から武家に奉公する身であることは分かった。簔も脱いで、総門の庇下にそれらを丁寧に置いた。表に着付けていたのは柿染めの古袷と麻袴の野良着だったか、襟元からは不釣り合いな繻子の小袖がのぞいていた。足まわりは、山家暮らしの山葡萄蔓(ぶどうづる)を編んだ脛巾(はばき)と草鞋(わらじ)だった。草鞋の下にも不釣り合いな革足袋を履いているのが分かった。
いやはや、見事な描写ですよね。これが、この本の主人公の沢瀬甚五郎の様子です。甚五郎は、徳川家康の跡継ぎの本命とみられていた徳永信康の小姓に取り立てられたものの、信康が甲斐の武田勝頼と意を通じていることが発覚して、信長と家康から切腹を申し付けられます。小姓だった甚五郎が、危機を脱出していく過程の冒頭が先ほどの描写なのです。
やがて、信長は本能寺の変で倒れ、秀吉の時代になります。すると、秀吉は何を血迷ったか、中国(明)を倒すといって無謀にも朝鮮侵略戦争を始めます。
この上巻は、朝鮮侵略戦争の前半の経緯を詳しく描いた途中までです。その詳細さには、思わず息をひそめて、これってみんな歴史上の真実なのかな、それとも作家の想像力の産物なのだろうか・・・、そんな真剣な問いかけを、ついつい自らにしてしまいました。これって、それほど真に迫った歴史小説だと、絶賛しているのですよ。
東京の内田雅敏弁護士が面白かったとメールで書いていましたので、私も読んでみましたが、たしかに期待を裏切ることはありませんでした。上巻だけで533頁もある長編です。ぜひ図書館で借りてでも、お読みください。歴史小説の面白さに、あなたもはまることを保障します。
(2018年6月刊。2000円+税)

2018年7月15日

安土唐獅子画狂伝


(霧山昴)
著者 谷津 矢車 、 出版  徳間書店

織田信長の安土城の天守閣に描いた画師は狩野永徳。その狩野永徳が主人公の物語です。ついつい画師の世界に引きずり込まれてしまいました。
本能寺の変で信長が亡くなったあと、狩野永徳は秀吉の依頼によって信長を描きます。肩衣(かたぎぬ)と袴(はかま)に身を包み、大小を差したまま座る老人。立ち上がった絵には実物と見紛(みまが)うほどの生々しさがある。肩をいからせるように座る男の像には、見る者を吞まんという気が満ち満ちている。
永徳は弟子に太筆と最上級の紙を買ってこさせた。一畳では収まらない大きな紙を、普段は空けてある大作(たいさく)用の画室に並べさせた。
永徳は気を張りめぐらせながら墨を磨った。清冽(せいれつ)な高音があたりに響き渡る。己の魂を切り刻んで溶け込ませるような気持ちで硯に向かう、そのうちに弟子の一人が用意の終わった旨を告げた。永徳は乗り板の上に座り、筆を墨に浸した。まっさらの筆は吸いが悪い。それゆえ、いつもよりも丁寧に穂先を墨にくぐらせた。
気を吐く。天地に己しかいない。そう言い聞かせる。織田信長・羽柴秀吉・千宋易・長谷川信春(等伯)。そんなものは紙の上にはいない。あるのは、ただ己の画の意のみ。そう思いを定めて筆を落とす。永徳にとって、絵を描くことは、筆先で新たな三世を紙の上に開闢(かいびゃく)するがごときこと。紙の上に広がるものに実体はなく、どこまでいっても、所詮は嘘だ。だが、内奥に迫れば迫るほど、現(まこと)と幻(まぼろし)の区別がつかなくなっていく。筆一本で、この世の秘密に迫ることができる。そのことが楽しくて仕方がなかった。
安土城の天守閣に永徳の描いた絵が残っていたら、どんなに素晴らしかったことでしょう・・・。残念です。画師として信長に対等に生きようとした永徳の苦闘の日々が「再現」されていて、一気に読ませます。
私は安土城の天守閣の跡地に2度だけ立ちました。昔ここに信長が立っていたのだと思うと感慨深いものがありました。近くに狩野永徳の描いた壁画が再現されています。
(2018年3月刊。1600円+税)

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