弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(戦国)
2020年10月 4日
殿、それでは戦国武将のお話をいたしましょう
(霧山昴)
著者 山崎 光夫 、 出版 中央公論新社
戦国時代の武将について貝原益軒が福岡藩第三代藩主の黒田光之に語ってきかせたという体裁で、いろんな武将が紹介されています。
貝原益軒って『養生訓』で有名ですよね。85歳まで長生きした体験にもとづく健康法ですから、現代でも重宝されています。この貝原益軒には、98部247巻に及ぶ膨大な著作集があるといいます。恐れいりますね。江戸時代随一の博識家と評価されているとのこと。
貝原益軒は、和漢の古典を読破し、儒学者として黒田藩に地位を確保して、『黒田家譜』を書き上げるのでした。1年で草稿を書きあげ、7年かけて12巻にまとめ、17年目に17巻本として完成させた。そして、全15巻の『朝野雑載』として、戦国時代の逸話をまとめた。
この本は、この『朝野雑載』をもとに短い読みものとしています。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康そのほか戦国時代の名だたる武将が次々登場してきて、読ませます。
そうか、戦国武将を主人公とした小説を書くのなら、この『朝野雑載』は有力な手がかりになるんだな、と思ったことでした。私も知っているような有名なエピソードが大半ではありますが、なかには、えっと驚くものもありました。
福島正則は、関ヶ原の戦いの前に、いち早く家康に味方することを高言して、家康を勝利に導いた。ただし、家康は本当に福島正則が自分のために戦ってくれるのか疑うところがあって、じっと様子をみていた。
関ヶ原の戦いのあと、大坂冬の陣のときには、福島正則は江戸城に留め置かれた。正則の変心を家康が恐れたから。
信長の家臣のうち、とくに優れた四将が俗謡に歌われた。
「木綿・藤吉(とうきち)、米・五郎左、かかれ柴田に、のき佐久間」
木綿は、普段着としてなくてはならないもの。木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)は、信長になくてはならない側近だった。五郎左は丹羽長秀。柴田勝家は、戦闘時に先陣を切ってかかっていく強者(つわもの)。「のき佐久間」は、佐久間信盛。退却戦が上手だった。柴田勝家が秀吉に敗れたのは、本能寺の変を天下取りの好機ととらえる発想がなかったし、軍師もいなかった。
「井伊の赤備(あかぞな)え」というのは有名ですが、それは、武田二十四将の一人である山県昌景の部隊を引き継いだというのを知りました。武田の「赤備え」が「井伊の赤備え」になったのです。
そして、家康の家臣だった石川数正が秀吉の家臣になったのは、実は、家康を裏切ったのではなく、それは表向きのことで、本当は間者(かんじゃ。スパイ)となって大坂方に潜入したという説がある、とのこと。
ええっ、これって本当でしょうか...。私がこれまで読んだ本には、間者説はまったくありませんでした。まあ、世の中には、いろんなことがありますので、その説もあながち間違いだと決められません。
戦国時代の武将をとりまくエピソード満載の本でした。
(2020年5月刊。1700円+税)
2020年9月27日
長篠の戦い
(霧山昴)
著者 金子 拓 、 出版 戎光祥出版
関ヶ原の戦いは1600年。その25年前の1575年(天正3年)5月に起きた長篠(ながしの)の戦いの実相に迫った本です。
武田勝頼は戦(いくさ)を知らないバカ殿さまではありませんでした。しかし、織田信長・徳川家康の連合軍に攻められ、大敗したこと自体は歴史的な事実です。
鉄砲隊が3千挺の火縄銃を三列に編成し、三交替で射撃(三段撃ち)したから織田・徳川の連合軍が大勝したというのが通説だったわけですが、どうやらそういうことではないようです。ただし、「三段撃ち」が完全に否定されているとは思えません。
また、武田軍は、騎馬軍団が無謀な突撃を繰り返したというのも史実に反するのではないか...、と指摘されています。ここらあたりの謎解きが、歴史物を読む面白さですよね。
織田信長は、本願寺攻めを1ヶ月前までしていたし、このあともするつもりだったので、自軍の損害を最小限におさえたいと考えていた。
長篠城は、武田の大軍に包囲されながらも、2週間以上も耐えていた。そして、武田軍が前進したのを見て、織田信長は即座に奇襲作戦を実行した。
長篠の戦いは、日の出から午後2時ころまで続いた。織田・徳川連合軍は、足軽たちを武田軍に向けて前進させ、適当なところで引いて追撃してくるところを鉄砲で撃った。武田軍はぬかるんだ湿地帯だったため、馬による機動性が著しく損なわれていた。つまり、馬で移動しての攻撃に不向きな湿地帯だった。
織田・徳川連合軍による馬防柵も、鉄砲をつかった戦い方も、奇襲作戦も、ことごとく信長の防禦的姿勢によるものだった。そして、この防禦的姿勢に流し、それを前提とした状況判断が織田信長に勝利をもたらした。なーるほど、と思いました。
たくさんの写真や図版があり、視覚的イメージがつかめる100頁あまりの歴史小冊子です。
(2020年1月刊。1500円+税)
2020年8月27日
村上水軍
(霧山昴)
著者 園尾 隆司 、 出版 金融財政事情研究会
その真実の歴史と経営哲学というサブタイトルのついた、村上水軍とは何かを明らかにし、今に生きる経営哲学を浮きぼりにした本です。私の敬愛する畏友である著者から贈呈されましたので、早速、頁を開いて読みすすめました。
瀬戸内海を拠点とする河野水軍が成立したのは730年ころというから、なんと奈良時代にさかのぼる。そして、村上水軍は、1070年ころに成立した。これまた平安時代のこと。
そして、村上水軍が歴史上、活躍するのは戦国時代、織田信長・豊臣秀吉が生きていたころのこと。村上水軍は、一般に村上海賊として広く知られている。
和田竜の『村上海賊の娘』(新潮社)は、村上海賊を「現在の尾道市や三原市、今治市を結ぶ瀬戸内海上の島々、芸予諸島を中心に蟠踞(ばんきょ)した海賊衆」とし、「主要な水運経路であった瀬戸内海を東西に行き来する船たちは、この難所にぶつかることになる。村上海賊は、これらの難所を構成する島々に城を築いて私的な関所を設けていた。そして城同士は互いに連絡をとりあい、往来する船から『帆別銭(ほべつせん)』なる通行料を徴収し、その軍備を維持していた」とする。
また、村上海賊は因島(いんのしま)村上、能島(のしま)村上、来島(くるしま)村上の三家から成り、能島村上は三島(さんとう)村上の他の二家をはるかに凌(しの)いで、その威勢は、西は周防(すおう)灘、東は塩飽(しわく)諸島にまで及んだ。
ルイス・フロイス宣教師は、「日本の海賊の最大なる者」と紹介した。その党首、村上武吉(たけよし)が村上海賊の筆頭だった。
著者は海賊を、すべて「海上賊徒」とみてはいけないと強調します。もう一つ、違法な侵攻への防衛や船舶の警固を行いつつ、海運に携わる海上勢力、すなわち「水軍」を意味するものでもあるのです。
ところが、明治になって、「海賊」はすべて「海上賊徒」と言わんばかりに扱われるようになった。
人口16万5千人の愛媛県今治市が世界4大船主都市の一つだというのには驚かされました。それは、この3島村上水軍の本拠地だったことが、今に続いているということなのです。
日本の保有する外航船舶の30%がここで保有されていて、日本で建造される造船の17%がここで建造されている。いま、今治市で海事産業に従事する多くの人々が村上水軍の末裔(まつえい)であると自認している。
村上水軍の経営哲学は、一族から一族に引きつがれる口頭伝承だ。
村上水軍の経営哲学の第1命題は、「牽制と連携」。支配・隷従・腐敗を避けつつ統一体を保つ。第2命題は、「常に浮き沈みに備えよ」。ときに荒れ狂う海が相手の仕事なので、海から生まれた哲学である。すなわち、沈んでも浮き上がる、浮き上がっても沈んだときに備える。沈んだ者への配慮、沈むことを恐れない思い切りのよい行動力がある。第3命題は、「自らのよって立つ地を活力の源とせよ」。その実例が、レジェンド・ゴルフ場づくり。仕事を息子に譲った島のレジェンド(老人)たちが、自らショベルカーを駆使して、島民が利用するゴルフ場をつくりあげていくというもの...。
著者は、能島村上水軍を率いる村上武吉を中心として、それぞれの水軍の係累をいかにも裁判官らしく解明していくのでした。そのとき、数多くの文献を突きあわせ、その信憑性を検討していくのですが、その手法がまさしく裁判官による事実認定そのものです。ここまで深く、そして幅広く究明していった村上水軍の話は珍しいと思います。今後もひき続きの健筆を著者に期待します。贈呈、ありがとうございました。
(2020年9月刊。2700円+税)
2020年7月24日
甲賀忍者の真実
(霧山昴)
著者 渡辺 俊経 、 出版 サンライズ出版
甲賀市は滋賀県、伊賀市は三重県に、それぞれ属するのですね。そして、この両市は2017年4月に「忍びの里、伊賀、甲賀―リアル忍者を求めて」として文化庁から日本遺産として認定されました。
著者は尾張藩忍者の子孫であり、蔵のなかに古文書が残されていたとのこと。
著者の曽祖父・渡辺平右衛門俊恒は、幕末の尾張藩最後の忍者の一人だった。
関ヶ原の戦い(1600年)で西軍に属して敗戦した島津義弘の軍が関ヶ原を中央突破して鹿児島になんとか帰還したとき、島津軍が最初の夜を明かしたのは甲賀の飯道山上だった。これは、飯道山山伏と薩摩山伏たちの全国ネットが活かされた成果だった。
これって、ホントですか。初めて知りました。
甲賀武士たちは、絶対的な指揮官がいなくても、甲賀武士全員に分かるように目標設定さえできたら、甲賀武士同士が自主的に行動して目標を達成できた。すなわち、甲賀武士たちは、お互い横の関係で対等であり、それぞれが互いに信頼でき、的確に判断でき、的確に決断し、行動できた。
戦国時代の甲賀における識字率は高かった。それは、飯道山が山伏の修行の場として一般人を受け入れたので、格好の教育機関の役割を果たしたから。リテラシーの高さ、各種知識の豊富さ、武術の強さが、甲賀の自治を育み、甲賀の若者を飛躍させた。甲賀忍者の基礎の一つがここにあった。
本能寺の変のあと家康が「伊賀国」を通過したのは、服部半蔵の働きによるという説を著者は間違いだと強調しています。家康一行の窮地を救うために全力で支援したのは、甲賀武士であって、服部半蔵は、「岡崎生まれの岡崎育ち」なので、役に立ったはずがないとしています。
甲賀武士のおかげで助かったことから、家康は甲賀武士たちを厚遇したというわけです。
そして、石田三成と徳川家康が戦った関ヶ原の戦いの前哨戦となった伏見城の戦いで、十数人の甲賀忍者が裏切りはしたものの、残る80人の甲賀忍者は討ち死にしたので(数人のみ生き残った)、彼らの遺族は甲賀武士として家康は然るべく処遇した。それが「甲賀百人組」の起源なのだ。
なるほど、そういうことだったのかと思うところが多々ありました。
150頁ほどの冊子ですが、よく調べてあると感嘆しました。
(2020年2月刊。2400円+税)
2020年4月 4日
ルイス・フロイス
(霧山昴)
著者 五野井 隆史 、 出版 吉川弘文館
ヨーロッパ人宣教師としては、フランシスコ・ザビエルに次いで知名度の高いフロイスの伝記です。私にとってフロイスは、戦国時代の日本人とは、どんな人々だったのか、現代日本人と共通するところ、違うところ、具体的に教えてくれる、大変貴重な存在です。
ザビエルたちが1549年に鹿児島に上陸してから最後の1643年までの100年近くに300人ものヨーロッパ人宣教師が日本にやってきました。その布教は数万人もの日本人キリスト教信者となっています。現代日本を上回るほどの多さだと思います。
ルイス・フロイスは、戦国争乱の真最中の1563年にキリスト教を日本に広めるためにやってきた。以来、フロイスは日本に31年間いて、日本人の文化・習俗にもっとも精通した外国人となった。フロイスによる『日本史』は膨大な書物となっている。
フロイスが生まれたのは1532年ころ、ポルトガル王国の都リスボン。フロイスの家族に関する情報は何もない。フロイスが改宗ユダヤ人であった可能性は否定できないが、そうであったという明確な証拠はない。
フロイスは17歳のとき、イエズス会に入った。そして、王室の書記官として若きフロイスは嘱望されていた。
フロイスは、文筆に長け、言語能力が高く、理路整然と話し、表現力と説得力が際立っていた。文才あふれる文書作成者であり、難しい事態に巧に対応できる器量人だった。
フロイスは日本に来て、日本人を次のように高く評価した。
「日本人は、男であれ、女であれ、現世の利益のために洗礼を受けるような国民ではない。日本人ほどコンタツを尊び、崇め、日本人ほどこれを活かす人々がこの世界に他にいるかどうか知らない」
フロイスは織田信長に何回か会うことができました。フロイスの信長評は次のとおりです。
「長身で、やせており、ひげは少なく、声が良く通る。過度に軍事的鍛錬にふけり、不撓不屈の人だ。正義と慈悲の所業に心を傾け、不遜で、こよなく名誉を愛する。決断ごとは極秘とし、戦略にかけては、はなはだ巧緻にして、規律や家臣たちの進言には、ほとんど(わずか)しか従わない。諸人は、異常なことに、絶対君主に対するように服従している。優れた理解力と明晰な判断力をそなえている」
ちょうどフロイスの事蹟をたどりたいと思っていたところでした。さあ、フロイスも読みましょう...。
(2020年2月刊。2300円+税)
2020年2月24日
明智光秀伝
(霧山昴)
著者 藤田 達生 、 出版 小学館
それほどの抵抗も受けずに甲斐の武田信玄を滅亡させた織田信長は、返す刀で一挙に中国・四国を攻撃し、天正10年中に天下統一を実現するつもりだった。
光秀は、戦後おこなわれるだろう大規模国替によって、自らの派閥が解体されることに耐えられず、加えて重臣の斎藤利三にほだされ、旧主の足利義昭を推戴してクーデターを強行した。
光秀は秀吉との派閥抗争に完敗して将来に希望がもてなくなったのに加えて、斎藤利三を頂点とする家中の長宗我部氏と親しく、幕府や朝廷にも親和性のある派閥からの突き上げを受けて、最終判断したと考えられる。
信長と秀吉とは、必ずしも一枚岩ではなかった。織田政権の西国政策を体現するとみられてきた秀吉の地位は意外に脆弱(ぜいじゃく)だった。四国そして毛利方との和平工作の裏面で光秀が動いていた。
信長は、朝廷の仲介によって足利義昭の「鞆(とも)幕府」と和解し、西国平定を早期に実現する意向だった。うまくいけば、天正8年中にも光秀主導で信長による天下統一が実現した可能性があった。
これによって絶体絶命のピンチに直面したのが秀吉だった。そこで秀吉は毛利氏との講和をつぶすため、なりふりかまわず戦争を仕かけ、毛利方の主戦派である吉川元春の参戦をけしかけた。これが功を奏して、秀吉は人生最大の危機を脱した。
天正8年の時点で、中国では毛利氏との講和による宇喜多氏の没落と秀吉の失脚、四国では長宗我部氏による統一が実現した可能性があった。そうすると、西国方面の司令官として光秀が君臨することになる。
これに対して、信長の一門と一体化をすすめ、自派の勝利を確信した秀吉は、信長の西国動座をできるだけ早めようとした。そのために敢行したのが、備中高松城の水攻めだった。水攻めは敵対勢力の後詰め勢力を誘き出すことに眼目があったが、秀吉は毛利氏本隊を戦場に引きずり出して、信長の親征の舞台を着々と用意した。こうして信長は四国政策を変更した。秀吉の要求を一方的に受けいれ、それまでの光秀の外交努力を全面否定することになった。
畿内支配に関与した光秀は、秀吉の派閥はもとより、信長の一門・近習たちともライバル関係にあった。光秀は一度ならず、二度も信長に裏切られた。信長は、秀吉の献策を受けて毛利氏と対決する道を選択した。四国においても長宗我部氏との戦闘へと外交方針を転換した。これは、光秀にとってすれば、理不尽以外のなにものでもなかった。
本能寺の変に至る光秀の行動の根拠が明らかにされていて、なるほどと私は思いました。
光秀を神社でまつっているところもあるのですね。これには驚きます。光秀を悪人に描くようになったのは最近のことのようです。知りませんでした。
(2019年11月刊。1300円+税)
2020年2月 7日
戦国時代
(霧山昴)
著者 永原 慶二 、 出版 講談社学術文庫
戦国時代は、現代日本に生きる私たちからみると、大変面白い時代です。ガラガラポンと、すべてがひっくりかえったみたいです。でも、当時生きていた人たちにとっては、先の見えない、誰を信用し、頼っていいのか不確実な世界だったのではないかと思います。江戸時代のように長く変わらないのも大変だと思いますが、毎日、日変わりだと社会も人心も安定しませんよね。
たとえば、戦国前期に登場し、下克上の典型とされる美濃の斉藤道三(どうさん)です。道三は土岐頼芸(よりなり)に仕え、のちに追放しました。次々に既存の家を乗り取りながら、ついに美濃一国を支配したのです。そして、最後は子の義竜に追われて戦死しました。義竜は、実は土岐頼芸の子とも言われています。義竜から追われたとき、道三に味方する被官や囲人が意外に少なく、孤立のうちにみじめに敗死したのでした。
細川政元は、室町将軍を完全にカイライとしていた。政元は、「いかに将軍であっても、人がその下知(げち)に応じなければ意味がない」と放言した。
1408年(大永15年)、南蛮船が若狭の小浜に入港し、「亜烈進(あらじん)」から日本国王に象・孔雀(くじゃく)などの珍獣をもたらしたという記録がある。
16世紀の半ば、中国出身でありながら、日本の平戸を根城にして縦横にあばれまわった王直という海賊の巨魁(きょかい)がいた。王直は平戸の領主の松浦氏から厚遇され、日明間の密貿易を牛耳っていた。ポルトガル人を種子島に導いたのも王直だった。
ポルトガル船が種子島に鉄砲を伝えた(1543年)のは、明の沿海に行くはずだったのが、暴風で流されたため。鉄砲の日本伝来は、ヨーロッパ側の史料によると1542年説が有力。
鉄砲の種子島伝来から10年ほどたつと、鉄砲は各地の実戦に使われていた。鉄砲と火薬は、戦略兵器として重視されていた。
同じように木綿も重視されている。選択に強い木綿は、はげしい合戦のときの着衣にはもってこいだった。ところが、この木綿も、朝鮮からの輸入品に依存していた。日本国内で木綿栽培が広まるのは、16世紀にはいるころからのこと。そして、この木綿のおかげで日本人の衛生条件が改善し、寿命が伸びた。
武田信玄は21歳のとき、48歳の父、信虎を駿河に追放した。48歳の働き盛りの信虎を追放したのは、家中・国人の意向があったと考えるほかない。すごい時代ですよね・・・。
戦国時代は、一つの敵を倒すと、次の不満が味方の内部からわきおこるのが常だった。竜造寺隆信が島原半島で敗戦・討死したのは珍しいことだった。ときに隆信は56歳。
文庫本で500頁という読みごたえのある「戦国」本です。
(2019年7月刊。1690円+税)
2019年12月14日
明智光秀の乱
(霧山昴)
著者 小林 正信 、 出版 里文出版
あの有名な本能寺の変は1582年(天正10年)6月2日、明智光秀が織田信長を襲って自殺させた事件です。著者は、この用語は歴史用語として不正確で、明智光秀の乱と呼ぶべきだとしています。
明智光秀は、1万3千の軍勢を動員して織田政権の転覆を企図したのだから、大規模な軍事的反乱なのだから、明智光秀の乱と呼ぶべきだとするのです。
著者は、当時の織田信長の強大な権力は、次の三つの大きな柱によって成り立っているといいます。一つは信長自身の権力。これは尾張・美濃・伊勢などの基盤を中核として京都を中心とする畿内・北信越そして西国は備中にまで及んだ。その二は、徳川家康との同盟によるもの。その三は、明智光秀が統括する足利幕府の統治機構の協力。
つまり、著者は、足利幕府の統治機構はそれなりに存続していて、明智光秀はそれなりの軍事力を体現していたとするのです。
信長は、京都での宿舎として、明智光秀の屋敷を少なくとも二度にわたって使用した。
明智光秀は、はじめ信長の家臣というより足利義昭の側近の「御部屋衆」格の奉公衆だった。明智光秀は、「御部屋衆」格の一人にすぎなかったが、信長は、「政所執事」の職責を担わせ、畿内を統括する責任者に昇格させた。
光秀は明智氏に改姓する前は、進士(しんし)だった。進士氏は、鎌倉以来の足利家の家臣(被官)として、武家故実の「儀礼・式法」を伝承している家として知られていた。
明智光秀は、安土城に次いで有名だった坂本城や亀山城を築城している。この坂本城は、安土城がつくられる前は、織田政権下で最大の城郭だった。
熊本の細川藩は、明智光秀の家臣団の相当数を受け継いでいた。
明智光秀の真の主君は信長ではなく、あくまで亡君の足利義輝だった。
信長は、「上様」と言われることはあったが、「大樹」という将軍を指す言葉で呼ばれたことはない。信長は、武家階級の代表とはみなされていなかった。したがって武家の棟梁としての征夷大将軍にもならなかった。
著者は長年の家臣である佐久間信盛を信長が追放したのは、信長の本意ではなかった。家康が妻と子を敵の武田方と内意したとして処刑した以上、自らの部下についても厳しく対応せざるをえなかった。処刑は免れなかった。佐久間信盛は、信長の苦しい青年時代から一度も裏切ったことがなかったことから、その追放は信長の本意ではなかった。そうしないと家康との同盟がもたないと家康が判断したからだった。なるほど、そういうことだったのですか・・・。改めて考えさせられました。
果たして、明智光秀は本当は進士姓だったのか・・・。
本書は5年前の2014年7月に初版が出て、この5年間の研究の成果も踏まえています。学界の反応も知りたいところです。文献は大変よく調べてあると驚嘆しているのですが・・・。
(2019年11月刊。2700円+税)
2019年9月13日
戦国日本のキリシタン布教論争
(霧山昴)
著者 高橋 裕史 、 出版 勉誠出版
戦国時代の日本でキリスト教が爆発的に信者を増やしました。現代日本に生きる私にはとても理解しがたい現象です。戦国の世の殺伐とした社会がキリスト教に救いを求めたのでしょうが、キリスト教だって軍隊式のところもあるわけですので、もう一つよく分かりません。ストンと腹に落ちてこないのです。
フランシスコ・ザビエルが来日したのは1549年。ザビエル自体は2年半しか日本にはいなかった。ザビエルの所属するイエズス会は、九州から畿内地方へ拡大していった。
1593年にマニラからフランシスコ会士が日本へやって来て、イエズス会と激しく衝突した。さらに1602年にドミニコ会とアウグスティノ会が日本布教に参入し、キリスト教内の争いはますます激化していき、ついに1613年の禁教令が出るに至った。
1570年代の日本のキリスト教徒は3万人近いと想定されている。そして、1580年ころに10万人、1598年には30万人に達した。
イエズス会の背後にはポルトガルが、フランシスコ会の背後にはスペインがいた。そのことを秀吉も認識していた。
ローマ教皇と、ポルトガル・スペイン両国王のあいだで、地球全体が2分割された。それによると、日本はポルトガルの征服域に組み込まれていた。
ローマ教皇グレゴリウス13世は、1585年、日本布教はイエズス会が独占することを認める小勅書を発布した。それに違反するキリスト教徒は、「破門罪」というもっとも重い懲罰が加えられた。
日本イエズス会は、財政難を救うため、生糸貿易に手を染めた。
フランシスコ会の成立は1209年、イエズス会は、1534年に創設された。カトリック内の抗争なだけに、問題の根は深く複雑な様相を呈している。
1613年のキリスト教禁教令のころ、フランシスコ会は司祭9人、平修道士4~5人、司祭館と駐在所があわせて8棟あった。ドミニコ会は司祭9人、駐在所3棟をかかえていた。
長崎では、内町をドミニコ会とフランシスコ会が、外町はイエズス会の支配する町だった。
禁教令が発布されたあと、日本に潜伏・残留したキリスト教宣教師は圧倒的にポルトガル人イエズス会だった。
日本イエズス会は博愛をうたいながら、実践的には日本人イルマンを差別的に処遇し、学問を教授することを拒絶した。したがって、日本人聖職者の養成計画も途中で頓挫した。
カトリック宣教師内部の布教争いの実情も理解できました。戦国時代は人々が平和に生きる言葉に出会えていたことが分かった本でした。
(2019年4月刊。4600円+税)
2019年9月 7日
耳鼻削ぎの日本史
(霧山昴)
著者 清水 克行 、 出版 文春学芸ライブラリー
耳鼻削ぎは、「みみはなそぎ」と読みます。
耳塚としては、京都の方広寺が有名です。秀吉の朝鮮出兵のとき、討ちとった朝鮮人の耳を日本に運んできて埋めたとされる塚です。
正しくは鼻塚なのだが、江戸時代以降、「耳塚」と誤伝されている。
著者は、「耳鼻を削ぐ」ということの意味を深く追求しています。
日本中世社会において、「耳鼻削ぎ」は女性に対する刑罰だった。これは一見すると、残虐な刑罰だと思えるが、実は死一等を免除するという、宥免措置、ぎりぎりの人命救助措置だった。
ええっ、そうなんですか・・・。つまり、殺されるのに比べたら、耳鼻削ぎのほうがましだ、という切実な感覚が当時の人々にあったというのです。
日本の中世社会においては、女性を男性と同じように処罰するのは避けたいとする心理(観念)があった。浅はかな女性に男性と同じ法的責任を負わせることはできないというのが、女性の刑罰が軽減された理由だった。
このように、耳鼻削ぎは、現代の私たちが思うように残酷なものとは考えず、むしろ温情的な処罰だと考えられていた。
戦場で、大将クラスを討ちとったときには、首を戦功の証とした。しかし、雑兵については、首ではなく耳や鼻でかまわないという認識があった。
秀吉は、朝鮮人の鼻をまつった鼻塚を方広寺をつくったパフォーマンスとして鼻供養しようとしたのだった。敵兵の菩提をも弔う慈悲深いリーダーとしてのイメージを人々にアピールしようとしたのだ。
全国各地の耳塚・鼻塚は、実は、形状や立地から「耳塚」と呼ばれるようになっただけで、本当に耳や鼻を埋設したものではなかったようです。
面白い研究の本として最後まで一気に読み通しました。
(2019年3月刊。1400円+税)