弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(平安)
2024年12月 7日
住吉物語
(霧山昴)
著者 吉海 直人 、 出版 角川ソフィア文庫
「平安貴族が夢中になったシンデレラストーリー」「紫式部、清少納言も愛読」
こんなキャッチフレーズがオビについた本です。ええっ、何、なに、平安時代にシンデレラ物語があっただなんて嘘でしょ、信じられなーい。
「住吉物語」と「落窪(おちくの)物語」は、どちらも10世紀に書かれたもので、「継子(ままこ)」いじめの物語というのが共通している。
「住吉物語」は「源氏物語」に引用され、「落窪物語」は枕草子に引用されている。
「落窪物語」のほうは男性作家、「住吉物語」は女性作家が書いたとみられている。
同じ継子いじめといっても、「落窪物語」は、あとで復讐しているのに対して、「住吉物語」では目立った復讐はされていない。
継子いじめのストーリーでは、前提として母親が死んで、継母と同居するようになり、その継母には娘がいるけれど、継子(ヒロイン)のほうが美人で才能にも恵まれているので、それが継母は気に入らないという流れです。なるほど、そうすると、シンデレラ物語と確かに共通するとことがありますね・・・。
御前(ごぜん)は、武士階級の妻に用いるもので、「女房」は中世、とくに近世以降に使われることになった呼び名。正妻は、北の方、本妻、嫡妻(ちゃくさい)と呼んだ。
平安朝の貴族の子女には、必ず複数の乳母が付けられる。授乳期間が終わっても養君が成人しても、乳母は側についている。乳母と養君の結びつきは単なる雇用関係(主従)を超える強固なもの。ときに乳母は結婚相手の選定にまで関与している。つまり、貴族には、実母と乳母という複数の母がいた。
「時の鐘」とは午前3時を告げる除夜の鐘のこと。この鐘は、夜をともに過ごした男女の「後朝(きぬぎぬ)の別れ」の時を告げるもの。乳母は養君に忠実に仕えるもの、そして、フツーの女房は、主人を裏切る心配がある。
平安時代にラブストーリーそして復讐の話(ストーリー)があったとは、驚きです。
まあ、騙されたと思って、あなたも読んでみてください。驚くほど似た展開なのです。
(2023年4月刊。1040円+税)
2024年11月23日
源氏物語の絵巻の世界
(霧山昴)
著者 倉田 実 、 出版 花鳥社
平安絵巻をとても分かりやすく解説してくれる本です。
絵巻に描かれている建物や装束を実に細部に至るまで、こまごまと名称と役割の違いを解説していて、まさしく圧巻です。
絵巻は絵と詞書(ことばがき)から成る。絵巻は現実を写実的に描くものではない。
絵は線だけで描いた「白描絵(はくびょうえ)」と彩色された「作(つく)り絵」に分類される。
「作り絵」は、まず墨画(すみがき)と呼ばれる上級の専門絵師が、墨の細い線で構図を施し、太めの線で人物の姿態や建物の様子などを下描きする。
次いで、別の彩色絵師が主に岩絵具で彩色する。顔料は多く輸入された、高価なもので、彩色は高度な専門的技術を要した。彩色が終わると、仕上げとして、衣服、人物、器物などの輪郭や文様が描き起こされる。
絵師たちは、宮中の「絵所」に所属していた。ほかに、僧侶のなかにも専門家(絵仏師)がいて、仏画を作成した。貴族のなかにも絵心のある人もいて、光源氏も絵師の技量があると設定されている。
絵巻は、屏風絵の影響を受けつつ、固有の技法や方式によって描かれている。
絵巻は、右から左に見るのが原則で、鑑賞する者の視線も右から左に移動していく。
絵巻は、夜の時間でも、昼の光景のように描く。照明具があれば、夜の時間。
絵巻は「霧(かすみ)」を利用して、不要な部分を隠す。
絵巻は、屋根や天井・建具を省略して、室内を広く見渡せるように描く、吹抜屋台という手法で描く。
皇族や貴族の顔は「引目釣鼻(ひきめかぎばな)」になっている。下ぶくれの顔の輪郭に、ぼやかされた眉、一線に引かれた眼、くの字形の鼻、小さな口というように類型化されている。しかし、身分の低い者たちには、この技法は使われない。
女房たちは、いずれも成人女性の正装である裳唐衣(もからぎぬ)姿をしていると説明される。しかし、素人が一見したくらいでは、他との違いは分かりません。
平安時代には、敷布団はなく、畳や筵(むしろ)、あるいは褥(しとね)などを敷いて寝ていた。枕も木枕を綾(あや)で包んで、縦に立てている様子だ。こう紹介されています。
頭頂部を見せないのは平安貴族のエチケットだというので、立烏帽子(たてえぼし)を着けている。
平安時代の貴族女性は多産を求められていたので、赤ん坊に授乳しなかった。授乳するとホルモンの関係で妊娠が難しくなる。そこで乳母にまかせた。
平安時代の女性は出家するに際して、裳(も)と袈裟(けさ)を用意した。なので、裳を着けている女性は出家した女三宮。
天皇のみに許される御引直衣(おひきのうし)姿と呼ぶ日常着。これは、絵の解説を見ても、どこにどんな違いがあるのか、私にはさっぱり分かりません。
当時の長い髪の洗髪は早朝から夕方までの一日がかり。室内に湯殿(ゆどの)を設けて、髪は泔(ゆする)と呼ぶ米のとぎ汁などで洗った。とぎ汁はリンスの働きをする。
女房が文章を読み聞かせ、姫君がその絵を見て楽しむ。
当時は、生後まもなく頭髪を削ぐ産剃(うぶぞり)をしたので、赤ん坊は紙のない坊主頭だった。3歳くらいから髪を伸ばす髪置をした。
いやあ、絵巻って、詳しい解説があると、いろんなことが分かるのですね。さすがに、たいした博識にまるで驚嘆してしまいました。
(2024年4月刊。2500円+税)
2024年11月11日
平安のステキな!女性作家たち
(霧山昴)
著者 川村 裕子 ・ 早川 圭子 、 出版 岩波ジュニア新書
まずは平安時代のライフ・スタイル。
朝の合図は太鼓の音。夜が明ける合図なので、午前4時半から6時半。2回目の太鼓は出勤の合図で、午前5時半(夏)から7時50分(冬)ころ。食事は1日2回。朝と晩の2回。朝の食事は午前10時ころから12時ころ。晩の食事は午後4時ころ。ただし、朝の出勤前に少し軽食をとることもあった。朝食は午前中の勤務が終わったころなので、自宅に帰って食べる人も多かった。夕食も基本は自宅でとる。
母親の出産は危険で、5人に1人は亡くなった。平安のころの出産は命がけだった。
上流家庭の娘は、習字と和歌、そして琴(こと)。和歌は古今和歌集を丸暗記する。
男子が女子の家に3日連続で通うと結婚成立。
離婚するときは、妻は実家に戻る。実家に引きとる力がなかったら、女子はそのまま没落する。
貴族の女子が外に出て働くといえば、宮仕えのこと。宮中や貴人に仕える。
宮中には後宮(こうきゅう)があって、そこに天皇の奥さまたちがいた。そこで仕えるのも宮仕え。
公務員としておつとめする女性を女官(にょかん)と呼ぶ。女官は多かった。
後宮には12もの役所があった(後宮十二司)。
上達部(かんだちめ)、殿上人(てんじょうびと)はVIP。貴人の世話をする女性を女房と呼び、3階級に分かれていた。上臈(じょうろう)、中臈(ちゅうろう)、下臈(げろう)。
紫式部や清少納言は中臈ぐらいとみられている。
上臈はセレブな特権階級で、禁色(きんじき。特別な人以外は使用が禁止されていた色)や織(おり)が許されていた。
「更級(さらしな)日記」の作者である菅原孝標(たかすえ)女(むすめ)の本名は不明。父親はかの菅原道真の五代目。「蜻蛉(かげろう)日記」の作者である道綱母の異母妹という関係。
清少納言が定子(ていし)に仕えた993年から1000年までの7年間のうち、本当に穏やかだった時代は993年から995年までの2年弱。あとは不幸な出来事が続いた。
この不幸な状況のなかで清少納言は定子たちとの華やかな生活を描き出した。
平安時代の女性も現代日本の女性と同じように強く、たくましく生き抜いていたのです。もちろん、全員がそうだということではありませんが...。
(2023年10月刊。990円+税)
2024年10月19日
源氏物語を楽しむための王朝貴族入門
(霧山昴)
著者 繁田 信一 、 出版 吉川弘文館
女御(にょうご)と更衣(こうい)とでは、女御のほうが更衣よりも、はっきり格上。
女御は、女性を敬意を込めて呼ぶもの。今の「ご婦人」に近い。更衣は、着換えを意味し、天皇の着替えを手伝う存在。今も「更衣室」というコトバがありますよね。
ところが更衣であっても、天皇の「お手付き」となると、妃(きさき)のような扱いを受ける。
しかし、更衣を母親とする皇子は誰ひとりとして天皇にはなっていない。天皇になったのは、皇后(中宮)か女御かを母親とする皇子だけ。ふむふむ、そうなんですか...。
桐壺(きりつぼ)更衣に対しては全ての妃たちが一丸となって嫌がらせをしかけた。それは更衣の身でありながら、一つの殿舎を専用の寝所として与えられていたから。これは女御のように扱われたことを意味し、後宮の秩序を乱すものだった。なーるほど、ですね。
天皇自身は天皇としての人生を幸福なものとは感じなかった。太上天皇は、一日も早い退位こそ熱望していた。退位したあと上皇となることのなかった天皇は、上皇としての余生のあった天皇に比べて、明らかに短命だった。39歳と45歳と、6年も平均寿命が短い。
王朝時代の天皇は、朝、早起きする。午前5時から7時のあいだに起きた(起こされた)。毎朝、目をさますと、何よりまず風呂に入る。天皇は着衣のまま入浴する。そして自分で身体を洗うこともしない。それは女房の仕事。天皇は、毎朝、日課として伊勢神宮を遥拝する。これは、わが国の日々の安寧を確保するための行為。
天皇は朝9時ころ、給仕係の女房の前で朝食をとる。家族である妃や皇子・皇女と一緒に食卓につくことはない。天皇の朝食は、毎朝、いつも同じものを食べる。当時の日本には、まだ醤油はない。
朝食のあと、天皇は読書した。つまり、漢文の書物を読んだ。
紫式部と同じ時代を生きた皇子は17人を上回っている。その前は30人もいただろう。
更衣を母親とする皇子たちは、かなり大きくなるまで父帝と面会することはなかった。
皇子たちの平均寿命は、41歳ほど。上級貴族の男性の平均寿命は62歳ほど。
天皇の結婚相手として、異母兄妹、異母姉弟も容認された。
皇子たちが短命なのは、近親婚の歴史によってもたらされたもの。ときに精神面に障害を持つ皇子や知的障害を持つ皇子の誕生は、このような近親婚の「遺産」。
皇子は、皇子とあるだけで、給料を朝廷から支給された。そして、本来なら無品(むほん)の皇子には品封(ほんふう)が支給されないはずなのに、200万の品封が支給された。五位の貴族に対して朝廷から支給される給料は米にして400石ほど。
太上天皇とは、天皇を退位したあとの「名前」。「上皇」は、これを短縮したもの。上皇は、皇后や皇太子よりは上で、天皇よりは下位の存在。
皇女たちは、ほとんど結婚していない。王朝時代、皇后の地位は藤原摂関家の女性によって独占された。同時に、天皇の結婚は、藤原摂関家によって管理されていた。
皇女たちは、臣下との婚姻は許されなかった。平安時代には、女帝の即位はない。
王朝時代の中級貴族の男性は、「殿上人(てんじょうびと)」と「地下(じげ)」の人と大きく2つに分かれる。地下たちは、殿上人を敬意と憧憬(しょうけい)を込めて「雲上人(うんじょうびと)」「雲客(うんかく)」とも呼んだ。
四位・五位の中級貴族の人数は1000人ほど。このうち1割は女性。紫式部や清少納言も、自ら王位の位階をもっていたと考えられている。
王朝貴族のことを少しばかり知ることができる本でした。
(2023年11月刊。1700円+税)
2024年7月13日
忘れられた日本史の現場を歩く
(霧山昴)
著者 八木澤 高明 、 出版 辰巳出版
岩手県奥州市の山中に人首丸の墓碑がある。
平安時代に、京都から坂上田村麻呂が大軍を率いて、東北地方を征服しようとやってきた。激しく抵抗していたのは蝦夷(えみし)と呼ばれる人々で、その首領はアテルイそして腹心のモレ。アテルイは地の利を生かして789(延暦8)年に始まった一回目の戦いでは大勝したが、794年に始まった二回戦では、ついに大敗し(801年)、アテルイとモレは投降した。坂上田村麻呂は二人を京都に連れて行き、助命を嘆願したが、アテルイたちの力を恐れる朝廷は、斬首を命じた。大阪の枚方市にある牧野公園にはアテルイとモレの首場が今も残っている。
アテルイたちのあとに朝廷に立ち向かったのが人首丸。
しかし、人首丸も806(大同元)年に朝廷軍によって打ち取られた。年齢は15歳か16歳。はるか遠くに北上川が流れる北上盆地が見渡せる山中に人首丸の墓石がある。
私がアテルイなる人物を初めて知ったのは、高橋克彦の「火怨(かえん)」(上下。講談社)でした。アテルイの「遊撃戦」が生き生きと描かれていて驚きました。その後も、熊谷達也の「まほろばの疾風」(集英社)、樋口知志の「阿弖流為(あてるい)」(ミネルヴァ書房)、久慈力の「蝦夷・アテルイの戦い」(批評社)と続けて読みました。いずれも蝦夷を未開の野蛮人とはみていません。すごい人たちがいたものだと驚嘆しました。
長崎県の上五島の中通島には潜伏キリシタンが建てた教会がある。もちろん、江戸時代に建てられたのではなく、明治になって禁教が解かれてからのこと。
上五島は、私が弁護士になった年(1974年)4月、日教組への刑事弾圧が全国的にあり、まだバッジも届いていなかったので、先輩からバッジを借りて出かけたという、思い出深いところです。
著者は、日本史に登場してくるけれど、忘れ去られたような場所を訪ねて歩いたのでした。
(2024年6月刊。1760円)
2024年5月 6日
謎の平安前期
(霧山昴)
著者 榎村 寛之 、 出版 中公新書
平安時代は400年間続いた(794年から1192年まで...)。この本は、前半の200年は何事も起きていない平穏・無事な世の中だったという世間の強い誤解を払拭しようとする意欲にあふれています。
藤原道長や紫式部が生きた、『光る君』の時代は、平安時代の後半の200年間。その前の200年間の実相を明らかにする本なのです。としても刺激的な内容でした。
平安前期の200年間は、「巨大な転換期」であり、「面白く変化に富んだ時代」だというのが著者の考えです。
墾田永年私財法は、崩壊寸前だった民政に民活を導入し、地域の再生を図る「雇用の創出」だった。
地方に赴任した国守(こくしゅ)を受領(ずりょう)といい、受領は、五位程度の下級貴族にとってのもうけ口だった。
平安京をつくった桓武天皇は律令国家の王としては、変わった天皇だった。その生母は、倭新笠(やまとのにいがさ)、つまり渡来系氏族の出身だった。
桓武天皇は、天皇になれる皇族の条件をほとんどクリアにしていないまま即位した。奈良時代以前なら、天皇には、まずなれなかった。
桓武天皇は、大学で教える漢語の発音を、伝統的な呉音(長江周辺の発音)から、漢音(長安周辺の発音であり、唐の標準発音)に切り替えた。
日本でも、中国の科挙システムにならった、官人登用試験は8世紀以来やられていた。
ただし、対象は大学を修了した者に限られる。大学は国家による教育機関。
8世紀から9世紀にかけて行われていた高等文官試験は、重箱の隅をつくような試験ではなく、現場の課題を解決するために必要な秀才を確保するという性格を明確にもっていた。
たとえば、その設問は、「新羅(しらぎ)に対する軍事行動の是非について、戦わずに服属させる方向で意見を述べなさい」というもの。これって、北朝鮮と戦争しないで平和共存する方策を述べよといわんばかりの設問ではありませんか...。
平安時代前期には、一介の庶民が天皇や皇太子に学問を教えるまでに成り上がることを可能としていた。秀才たちをストックするのが「博士職」だった。うむむ、これはすごいことです。学者が優遇されていたわけですね。
9世紀の前半までは、女官の身分は高く、自立性が高かった。
8世紀の日本は、貴族も庶民も、好きになれば婚姻し、飽きたら自然に切れる(離婚)というもの。実に規制のゆるい時代だった。なので、不倫を働くという観念自体がなかったのでしょう。『源氏物語』も、言ってみれば、「不倫」が不倫として非難されていませんよね。
奈良時代には、宮廷に勤める男女は奔放に恋をしていた。その実例が何人もあげられています。
平安時代には社交界というものがなかったとしています。宮廷で仕事をしていない限り、貴族の男女が公的に出会う機会はなかった。歌会などは社交界じゃないかと勝手にイメージしていたのですが...。
以上のことをしっかり認識するだけでも、本書を読んだ甲斐があるというものです。弁護士を50年してきた私の実感でもあります。日本人は古来、性におおらかなのです。
統一協会に汚染された自民党政治家の主張の誤りは明白です。
(2024年2月刊。1100円)
2024年4月 5日
悩める平安貴族たち
(霧山昴)
著者 山口 博 、 出版 PHP新書
テレビを見ていないので、なんとも言えませんが、紫式部という女性には、昔からすごく関心があります。『源氏物語』には、私も何度か挑戦しました。もちろん原文ではありません。
平安時代の男性の生き甲斐は、出世と恋と富の三つ。そして女性は、「書く」ことに生き甲斐を見出していた(もちろん、すべての女性ではありません)。
紫式部は『源氏物語』を書くことにより、ともすれば落ち込む心を励まし、清少納言は『枕草子』を書きつづることにより、個人臭は強烈だが、宮仕えの実相を明らかにした。
日記を書いた女性もいる。紫式部は物語だけでなく日記も書いている。菅原孝標(たかすえ)の娘は『更級(さらしな)日記』と4本の物語を書いた。
私も「書く」ことに生き甲斐を見出しています。今は、昭和のはじめに東京で生活していた亡父の生きざまを活字にしていますが、いろんな資料を入手するたびに新鮮な驚きがあり、毎日ワクワクして生きています。
清少納言は結婚し、離婚した。そして、28歳ころ、藤原道隆(関白内大臣)の娘であり中宮(天皇の妻)の定子(ていし)の私的女房として、定子が死ぬまで8年のあいだ仕えた。
女房社会を謳歌するには、歌を詠(よ)むことがとても大事だった。
紫式部にとって、華麗な貴族の生活はなじめない世界だった。紫式部の世界観は「世は憂し」だった。そうなんですか...。
紫式部は、和泉式部についてはいささかの文才を認めたが、清少納言に対しては徹底的に批判した。才能ある女性同士のサヤ当てなのでしょうか...。
女性の棒給は男性の半分と規定されていた。ただし、定年はなく、終身雇用が建て前だった。
平安時代の貴族にとって、自分を性的に解放して生きるのは自然なことであり、何ら非難すべきものではなかった。その後も、この伝統は脈々と生きています。和泉式部には30人から40人ほどの愛人(男性)がいた。一夜のうちに男性から男性へと渡り歩き、誰の子をはらんだか分からなくなった女房は、和泉式部だけではなかった。
節度をわきまえた「色好み」は、人格的欠陥ではなく、当時の貴族の身に備えるべき条件だった。光源氏のモデル説のある藤原実方(さねかた)は、20人以上の女性と関係があり、清少納言もその1人だった。そうなんですか...。
藤原道長や道隆の棒給は、年収にして3億円から4億円。そのうえ、地方官から、鳥など山のように贈り物があった。これに対して、中・大流貴族の生活は苦しかった。
右大臣までつとめた藤原良相(よしみ)は、自邸の一角に邸宅を建て、藤原氏の「窮女」「居宅なき女」を収容した。
平安時代の貴族は男性も女性も短歌がつくれなかったら評価されなかったようです。これって、向き不向きを考えると、結構きびしい条件となりますよね。
(2023年11月刊。1100円+税)
2024年2月19日
恋愛の日本史
(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 宝島社新書
万葉集にある歌は、自分は人妻と交わり、自分の妻を他人に差し出す。これは山の神が昔から禁じていないことを示している。古代日本の歌垣では、このような奔放な性の営みが行われていた。
古代日本には女性の天皇が少なくない。女性天皇は8人いるが、そのうちの6人が古代に集中している。中国では女性の皇帝は則天武后がいるだけで、基本的には存在していない。
女性の地位が高いほど、男女は対等なかたちで恋愛が展開していくことになる。
女性の「本当の名前」は明らかにされていないし、明らかにされるべきものではなかった。
紫式部の本名は今なお不明。北条政子にしても、本当の名前ではない。そうなんですか、いや知りませんでした。
著者は、女性天皇の存在について、「あくまでも中継ぎ」だと強調しています。いやいや、決して「中継ぎ」ではないという学説も読んだことがあります。どちらが正しいのでしょうか。学界の通説(多数説)は、どちらなのでしょうか...。
著者の考えは、天皇家が母系ではなく、あくまでも父系の系統で継承されていくものだったからという考えにもとづきます。
『源氏物語』によると、日本社会が恋愛や性愛に関して実に大らかだったことがよく分かる。
藤原道長は晩年は糖尿病のため、目がほとんど見えていないほどだったとされています。
有名な、「この世をば我が世とぞ思う、望月の欠けたることもなしと思へば」というのも、糖尿病のため視力が低下して、月が欠けているかどうかも見えない状況も反映させているという説があるそうです。知りませんでした。
紫式部との「恋愛」とか、和歌のやりとりにしても、「ある種の礼儀」と考えるべきではないかとも解説されています。そうなんでしょうか...。
平安時代の美女は、「お多福」や「おかめさん」のような「切れ長の細い目で、ふっくらした頬」だった。
男性(貴族)のほうも、「でっぷりとたっている」こと、そちらが好ましい、美しいスタイルだった。太っているのは、富の象徴となっていた。
日本に梅毒が入ってきたのは戦国時代、南蛮貿易を通じてのもの。したがって、中世の日本では梅毒の心配はなかった。性愛を謳歌しても、病気の心配はしなくてよかった。
日本は世界的にみても、男性同士の関係、男色に対して非常に寛容な社会だった。
知らない話がいくつもありました。
(2023年7月刊。990円)
家に帰るとハガキが届いていました。大判の封筒ではありません。「ありゃあ、やっぱりダメだったのか...」と、沈んだ気分でハガキを開きました。1月に受験したフランス語検定試験(準1級)の口述試験の結果は「不合格」でした。合格基準点が22点のところ、私の得点は21点、わずか1点の不足でした。本当に残念です。受験室を退出するときニッコリ笑顔で、「よろしくお願いします」とブロックサインを送ったつもりでしたが、試験官はごまかされず、冷静に採点したのです。まあ、これが私の実力なのですから、仕方ありません。やはり加齢とともに語学力が低下しているようです。筆記試験も成績が下がっています。
それでも毎朝の聴き取り、書き取りはこれからも欠かしません。
夜、悔し涙のせいで眠れませんでした。というのは嘘なんですが、実はショックから花粉症が発症してしまい、鼻づまりで苦しい夜になってしまったのです。
世の中、明けない夜はない。それを信じて生きていきます。
2024年1月 2日
「源氏物語入門」
(霧山昴)
著者 高木 和子 、 出版 岩波ジュニア新書
これまで「源氏物語」には何度も挑戦しました。もちろん、原文ではありません。本棚には、瀬戸内寂聴の本など、6冊が並んでいます。でも、もうひとつしっくりきませんでした。この新書はジュニア新書だけあって、私にもとても分かりやすく、「源氏物語」が千年も読みつがれている秘密を十分知ることができました。ジュニア新書って、大人の私にも大いに目を開かせてくれることが多いので、私は愛読しています。
光源氏は、仕える人々の心を、きちんと管理し掌握できている。それは、まるで、社員教育の行き届いた会社のようだ。社長が部下に信頼され、統率がとれている優良企業を思わせる。
光源氏の好色は、一対一の男女関係の誠実さという意味では不誠実にしか見えない。
しかし、その多情さ、鷹揚(おうよう)さによって救われる女性たちが少なからずいた。それによって多くの高貴な女性たちが名声を汚(けが)さず没落せずに生き続けられるなら、一種の社会保障にも近い。うーん、そういう見方もできるのですか...。
権力者が窮屈な一夫多妻に生きたら救われない多くの女性が路頭に迷うかもしれないという脈略は、なかなか現代人には了解しがたいところだが、それが当時の現実だった...。
「源氏物語」は、笑われる人、笑いを回避される人それらを相互に観察させながら対照的に、その位置づけや心理をたどっている。
当時の貴族社会の女房たちは、しばしば複数の主君を渡り歩いており、必要な生活上の物の貸し借りをしたり、人と人との関係を結んだり、噂を伝えたりしていた。いわば情報の運び役、伝達者だった。
この当時、格式高い女性は、男性を通わせるものだった。すぐに同居するのは、目下の女である証(あかし)になる。なーるほど、そういうものなんですね。
正妻とは、対照的に身分の高い女性をいう。当時の結婚においては、男女の個人の魅力より、出身の家の家格や政治力が重要だった。
晩年の光源氏は、女三宮(さんのみや)を恋敵の柏木に寝取られ、不義の子である薫を我が子として育てるなかで、最愛の紫の上に先立たれるという、苦悩に満ちた日々を過ごす。自分は人一倍の栄華を極めたけれど、一方で苦しみが深いことも比類なかった。まるで、仏に与えられた苦行であるかのような生涯だったと、光源氏は自らの生涯を振り返った。
そして、光源氏の死んだあとを語る「宇治十帖」の世界は、光源氏の光り輝く世界の負の側面を照らし出す薫(不義の子)と八宮(光源氏の弟)によって始まる。
光源氏の息子とされつつ実の子ではない薫と、光源氏の孫にあたる匂京は恋のライバルとなり、互いを観察し模倣する。そういう構造の本だったのですね。
男たちの欲望に翻弄(ほんろう)され続けた女性たちは、やがて自分の意思で自立していく。美しい男皇子(みこ)、光源氏の物語として始まった「源氏物語」は、次第に女の物語に変容し深まっていく。
なるほど、そういうことだったのですか...。単にプレイボーイが浮気を繰り返し、女性遍歴をするなんていうストーリーではなかったというのです。ここに1000年もの生命を保ち続ける秘密があるのですね...。
220頁ほどの新書ですが、大変勉強になりました。さすがは「源氏物語」の研究者です。
(2023年11月刊。960円+税)
2023年12月 8日
紫式部と藤原道長
(霧山昴)
著者 倉本 一宏 、 出版 講談社現代新書
この本は紫式部の『源氏物語』がなかったら藤原道長の栄華もなかったとしています。ええっ、そ、そこまで言えるものなのでしょうか...。
清少納言は当時の一次資料には、まったく名前が登場してこない。それに比して、紫式部のほうは「藤原為時(ためとき)の女(むすめ)」として登場してくるので、実在の人物だと言える。
藤原道長の命令と支援があったからこそ、紫式部は『源氏物語』や『紫式部日記』を執筆できた。藤原道長は紫式部より7歳だけ年上。
この当時、文人としての名声を得たとしても、それは現実社会における地位や、ましてや収入に結びつくものではなかった。
紫式部は26歳前後で、20歳も年長の藤原宣孝と結婚した。そして、二人の間に賢子(けんし)が誕生した。この賢子は道長の娘・彰子に出仕し、親仁(ちかひと)親王の乳母(めのと)となって、「大弐(だいに)三位(さんみ)」と呼ばれ、80歳をこえて長生きした。紫式部の娘らしく、家集まで出しているそうです。
紫式部が29歳のとき、その夫・宣孝は結婚して、わずか2年半で亡くなった。
『源氏物語』は全編54巻で、617枚の料紙を必要とする。そのために必要なのは2355枚。当時、紙は非常に貴重なもので、誰でも手に入るものではなかった。そこに、道長に執筆を依頼され、料紙の提供を受けて起筆したという説の根拠がある。
紫式部はこの要請を受けとめて、基本的骨格についての見通しをつけたうえで『源氏物語』を起筆したと著者は推定する。紫式部が『物語』を書きはじめて、好評だったことから藤原道長が応援するようになったという説もあるようです。
紫式部は34歳のとき、彰子に出仕した。このとき、すでに『源氏物語』の執筆を始めていた。
紫式部は、出仕した直後は宮中になじめなかったようだ。「まるで夢の中をさまよい歩いているような心持ちであった」と日記に書いている。紫式部は、引っ込み思案で、内省的な性格だった。
彰子の主導で、『源氏物語』の書写と冊子づくりが大々的にすすめられた。紫式部が彰子に出仕した時点では、すでに清少納言が仕えていた定子(ていし)は死去していた。だから二人が宮中で直接に顔を合わせる機会はなかった。
彰子に仕える紫式部は、『枕草子』で謳歌(おうか)されている定子のサロンを否定し、清少納言を非難した。
道長は紫式部の『源氏物語』がなければ、一条天皇を中宮彰子のもとに引き留められなかった。道長家の栄華は紫式部と『源氏物語』のたまものであった。
紫式部はNHK大河ドラマのテーマになるようで、今、ブームが再燃しています。
(2023年9月刊。1200円+税)