弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(平安)
2010年7月19日
謎の渡来人 秦氏
著者 水谷 千秋、 出版 文春新書
秦氏は、自らを中国の秦の始皇帝の子孫と称する。戦後の通説は、朝鮮半島からの渡来人とする。秦氏は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子に登用されたという伝承を持つくらいで、高い地位に就いた者はいない。秦人は一般に農民であった。秦氏が奉斎してきた稲荷山には、彼らの入植する前より古墳群が築造されていて、古くから神体山として信仰の対象とされてきた。もともと神体山への信仰だったものが、「稲成り」(いなり)として、農耕の神となって秦氏の守護神に変容したのであろう。
日本列島には、もともと馬はいなかった。古墳時代中期初めころ(5世紀初頭)、朝鮮半島から運ばれ、大阪の平野を最初の牧として育てられた。これらをもたらしたのは、当然、渡来人である。
平安朝の桓武天皇の時代は、渡来系豪族が異例の抜擢・寵愛を受けた時代だった。日本の歴史のなかでも特異な時代と言える。桓武天皇の外戚の和(やまと)氏や百済王氏、坂上氏といった渡来系豪族が桓武朝の朝廷で異例の昇進を遂げた。
母方のいとこにあたる和家麻呂(やまとのいえまろ)は、渡来系豪族として初の参議に列せられ、のちに中納言にまで上った。
征夷大将軍として功のあった坂上田村麻呂も、後漢氏の出身だが、参議に昇進した。菅野真道はもとは津連という渡来系豪族だが、参議従三位まで昇進した。従来なら考えられなかったことである。
桓武天皇ほど多くの渡来系豪族出身の女性を娶った天皇も珍しい。27人の后妃のうち、渡来系豪族では、百済王氏が3人、坂上氏が2人、百済氏が1人と、全部で6人もいる。
平安京は畿内における渡来人のメッカともいうべき一大拠点であった。その代表格ともいえる秦氏が、まさにここを本拠地としていた。
秦氏が蘇我氏と大きく異なるのは、秦氏はある時期から政治と距離を持ち、王権に対して反乱をおこしたりすることはなかったこと、そして、地方にも各地に経済基盤を築いて生産を進め、中央の秦氏と互いに支え合っていたことだろう。
日本と日本人の成り立ちを考えるうえで手掛かりとなる本です。
(2010年1月刊。750円+税)
2010年1月10日
建礼門院という悲劇
著者 佐伯 真一、 出版 角川選書
建礼門院(平徳子)は、平清盛の娘として生まれ、高倉天皇の中宮となり、安徳天皇を生んで国母(こくも)となった。しかし、夫の高倉天皇が若くして亡くなり、続いて父の平清盛も熱病のために64歳で病死し、やがて平家は木曽義仲に追われて都を落ち、ついには壇ノ浦合戦で滅亡してしまった。母の二位尼(にいのあま)時子(ときこ)と愛児の安徳天皇は、壇ノ浦の海に沈んだ。徳子も海に飛び込んだものの、源氏の荒武者にとらわれて京都に連れ戻され、命は助けられて出家して大原に籠った。
そして、平家一門を滅亡に追いやった後白河法皇が大原まで徳子を訪ねてやってくる。大原御幸(おおはらごこう)である。
このとき、建礼門院は、自らの運命を仏教で考える全世界を表す六道の輪廻転生になぞらえて語った。
著者は『平家物語』にある建礼門院の物語を縦横無尽に考察しています。その謎ときは、素晴らしいものがあります。さすが一流の学者はえらいものです。ほとほと感心しながら読みすすめました。
平清盛の権力は、後白河天皇との親密な関係によって支えられていた。平清盛の妻・時子と後白河法皇の最愛の女性であった建春門院(平滋子)とは姉妹だった。
人間道には四苦八苦がある。四苦とは生老病死の四つの苦しみ。これに、愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦(ぐふとくく)、五陰盛苦(ごおんじょうく)を加えたのが八苦である。
女院の栄華から転落の歴史、平家の滅亡への道程が、六道の上位から下位への転生と重ね合わせて語られてきた。天上道のような生活から人間道へ、そして餓鬼道、修羅道を経て地獄道へと、平家滅亡への道程が六道の上位から下位への転落のように語られた。
『平家物語』が生まれる背景には、平家一門の怨霊が恐れられる風土があった。
安徳天皇は、地上の政権に敵対するヤマタノオロチの化身であるとも言われた。もし、鎮魂が果たされないなら、冥界にいるその集団は現世に対してどんなに恐ろしい災いをもたらすか分からないのである。そのような一門の怨霊をなだめるという性格を、『平家物語』という作品は、生成当初において多かれ少なかれ帯びていたはずである。
知らないことがたくさんあるということを実感しました。
(2009年6月刊。1500円+税)
2009年9月12日
大和物語の世界
著者 尾崎 佐永子、 出版 書肆フローラ
『大和物語』は、天暦5年(951年)、村上天皇の時代に成立した。在原業平の『伊勢物語』よりも、文章が古体である。ところが、この『大和物語』に登場してくる宮廷人たちは、恋をし、失恋し、自由奔放に生きていたことが描かれている。
昔から、日本では男も女も、性的にかなり自由であったことを裏付ける格好の本でもあります。先日、『源氏物語』の現代語訳を紹介しましたが、同じことがそこでも言えました。
『かぐや姫の物語』が流行して以来、月をまともに見ると、はるかな月の都に女は連れていかれてしまうという噂が、まことしやかに女たちの間に広がっていた。そこには、「垣間見をする男たちに顔をさらすな」という裏の意味もこめられていた。男に顔を見せない女の身だしなみを、月の夜にはつい忘れやすい。それをよいことに男たちは、月を仰ぐ女のほのかに白い顔を遠見ながら、垣の陰から覗き見て、心をときめかすのである。
内親王の多くは、未婚のまま生涯を終える運命にあった。しかし、皇女といっても生身の女である。年頃が来て、恋をするのは当然なのだが、まわりがそれを許さない。
この本には、舞台となったお寺などの素晴らしいカラー写真とともに、国宝である文章そのもの(原文)も紹介されています。流麗な筆致で、往時をしのぶよすがとなります。
当時は、宮廷内での貴公子と女たちとの恋は日常のこと。丁々発止と恋のやり取りを存分に楽しむ雰囲気があった。女から誘いの消息を出すことも、異例ではあっても、あった。
女性は、ただひらすら忍従して耐えていたというのではなかった。
身を憂しと思ふ心のこりねばや人をあはれと思ひそむらむ
すぐ男を好きになって、心をひかれてしまうわが身を情けないと思いますのに、まだこりないのでしょうか。またもや、ほかの男を好きになってしまったようなのです。
花すすき君がかにぞなひくめる思はぬ山の風は吹けども
花すすきのように、なびきやすい私。でも、どうもあなたの方に心がなびくようです。思いがけない山の嵐が吹いて、ちょっと花すすきは乱れましたけど……。
男を引き入れるのではなくて、女のほうから男に逢いに行くこともあったようです。
たましひはをかしきこともなかりけりよろづの物はからにぞありける
魂だけではちっとも面白くありませんわ。あなた自身でなければ。すべてのものは形あっての価値でしょうに。どうやら、心より体と言っているようである。なかなかどうして、しっかりした女性のようである。
自由に男と交際している女たちがいて、それを堂々と歌に詠んで残していたことが分かる本でした。たまに、こんな本を読むのもいいものですよ。
(2009年5月刊。2500円+税)
2009年8月 7日
紫式部日記
著者 山本 淳子、 出版 角川ソフィア文庫
紫式部が初めて職場に出たとき、誰も声をかけてくれず、仲良くしてくださいと歌を贈ってもはぐらかされる始末。結局、欠勤し、こじれて5か月も引きこもってしまった。
そこで紫式部は、「ぼけ演技」作戦をとった。どんなことでも、「さあ、知りません」「わたくし、何も存じませんの」という顔をして話をかわしてしまう。
これで、同僚の紫式部を見る目が変わった。それまで、紫式部って高慢ちきで怖い才女だと思いこんでいたのだと告白し、仲良くなれることができた。
それから、紫式部は、「おいらか」を自分の本性にしようと決意した。おいらかとは、角を立てない、人当たりの穏やかさのこと。その努力が報われて、やがて主人の彰子(しょうし)にも心を開いてもらえるようになった。
ふむふむ、これってなんだか、今日の職場における出来事のようですよね。
上達部(かんだちめ)とは、朝廷につかえてまつりごとにかかわる議事に参加する貴族たち(公卿)のこと。一条天皇の時代には20~30人いた。貴族とは、朝廷から5位以上の位を授けられた高級官僚を言う。100~200人はいた。
道長の孫が誕生したときのお祝いの場で、貴族たちが双六(すごろく)に打ち興じた。その商品は、紙だった。当時、紙は大変な貴重品だった。平安時代、内裏に盗賊が入ることは、数年に一度の頻度であったことが記録上で確認できる。むむむ、宮中の警備って意外にも手薄だったのですね。
紫式部日記にも、宮中に強盗が入り、2人の女房が身ぐるみ剥がれた事件の発生が書かれている。紫式部は清少納言を、「得意顔でとんでもない人だった」(したり顔にいみじう侍りける人)と非難している。紫式部が彰子に勤め出したのは、清少納言の使えていた定子が亡くなり、宮中を去ってから5年か6年あとのこと。したがって、2人が顔を合わせたはずがない。それでも、紫式部の仕える彰子の前時代、定子(ていし)文化を代表する女房であったから、批判せざるをえなかった。
彰子の女房である紫式部にとって、『枕草子』は、目の前に立ちふさがる大きな壁だった。紫式部にとって、清少納言と『枕草子』は、度を失わせるほど手ごわい存在だったのである。
この本は、紫式部は藤原道長の愛人だったという説を打ち消しています。もちろん、真相は分かりませんが、道長からかなり目を掛けられていたことは日記からも裏付けられています。
水鳥を水の上とやよそに見む われも浮きたる世をすぐしつつ かれもさこそ心をやりて遊ぶと見ゆれど 身はいとくるしかんなりと思ひよそへらる
言葉は難しくても、昔も今も日本人の気持ちってあまり変わらないものだと改めて思い知らされたことでした。
(2009年4月刊。667円+税)
2009年6月20日
源氏物語(上)
著者 瀬戸内 寂聴、 出版 講談社
少年少女古典文学館として、現代語訳された古典です。古文として断片的には読んだことはもちろんありますが、読みとおしたことがなかったように思いますので(円地文子訳を読んだかな?)、上下2巻にまとまった、少年少女向けの現代語訳で源氏物語を久しぶりに読んでみようと思い立ったのです。
いづれの御時(おほむとき)にか、女御(にょうご)更衣(かうい)あまたさぶらひたまひけるなかに、いとやむごとなき際(きわ)にはあらぬが、すぐれて時めきたまふありけり。
この書き出しはさすがに覚えていました。私は歴史ものに続いて、高校時代、古文も得意としていたのです。古典文学体系で、原典を一度読んでおくと、全体像がつかめて、断片的に切り出されて問いかけられる設問に対しても余裕を持って回答することができました。この点は、法律の勉強と同じです。やはり、全体のなかの位置づけが欠かせません。
現代語訳だけでなく、欄外に言葉の解説もあり、写真や図もありますので、大いに理解を助けてくれます。いわば、字引つきの古典ですから、なるほどなるほどと思いながら軽く読み進めていくことができます。
それにしても源氏の君はもて過ぎです。どうして、こんなに簡単に女性にもてるのか、いつのまにか中年さえ過ぎてしまった男の私としては嫉妬にかられるばかりです。
紫式部は1014年ごろ、40歳ほどで亡くなったようです。ということは、今からちょうど1000年前ころ、宮中で権力を握っていた藤原道長(直接にはその娘・彰子、しょうし)に仕えて活動していたのです。
今から1000年前の日本に住んでいた人々の気持ちが、生活様式こそ違っていても、現代日本とあまり変わらないことに気がついて、不思議な気持ちに包まれてしまいました。日本人って、変わらないところは、案外、変わっていないのですね。
(1997年6月刊。1650円+税)
2008年9月22日
源氏物語を読む
著者:瀧浪 貞子、 発行:吉川弘文館
紫式部が「源氏物語」を書き始めたのは、11世紀はじめ、一条天皇のころ(1007〜12年)というのは間違いない。
いやあ、なんと今からちょうど1000年前のことなんですね。驚きました。
当時は、摂関時代の全盛期で、藤原道長が左大臣・内覧として権勢をふるっていた。摂関家全盛の時代であるにも関わらず、「源氏物語」の主人公は藤原氏ではなく、賜姓源氏であり、しかも、その物語はその源氏の栄華を賛美した内容である。不可解だ。
紫式部が「源氏物語」を書くうえでもっとも意識したのは、清少納言の書いた「枕草子」であった。宮仕えについていうと、清少納言のほうが先輩であり、二人が宮中で顔をあわせたとは考えられない。清少納言の仕えた定子は、1000年に亡くなり、その後まもなく清少納言は宮廷を退いている。紫式部が出仕したのは、それから5,6年後のことだった。
「枕草子」に一貫するのは、定子を中心とする宮廷サロンや中関白家(なかのかんぱくけ)の賛美で、不幸や悲しみはほとんど書かないという姿勢である。現実に起きた中関白家の没落のさまは「枕草子」ではまったく排除されている。ひたすら中関白家の栄華に終始している。
これに対して、紫式部は事実を追究しようという強い姿勢を貫いた。藤壺や光源氏の人物造形は、紫式部の正確な歴史認識の上に立ってなされている。
源氏は、いかに器量の持ち主であっても、皇位とは無縁の存在であった。源氏は世間から「更衣腹」と蔑まれ、差別された(「薄雲」の巻)ことが親王になれず、臣下とされた理由となっている。
摂政とは、もともと上皇の権能に他ならなかった。上皇不在のとき、それに代わりその立場を踏襲する形で登場したのが摂政ないし関白だった。
紫式部は、摂関制を否定したのでもなければ、道長を批判したのでもない。事実はその逆で、摂関制が登場した道理を解き、むしろその栄耀を喝采したのが「源氏物語」であった。
ふむふむ、なるほど、そういうことだったのですね。
「源氏物語」の朱雀は、実在の朱雀天皇をモデルにしたものではない。
在位中は「帝」と呼び、譲位後は「院」と称して、それぞれの立場の使い分けをしている。
中宮は、慣習的に天皇の生母=国母の愛称とされ、皇后よりも重い扱いを受けてきた。『源氏物語』は、政治・社会・文化など、あらゆる分野にわたって史実が書かれている。
うひゃあ、そ、そうなんですか。単なるフィクションの宮中恋愛物語ではないのですね。
物語の享受者は女性であった。この時代の女性たちは、おおむね物語とともに育っていった。
当時の政治は、天皇を中心として父方の父院・皇部・源氏、母方の母后・摂関・外戚などといった、天皇の血縁・婚戚関係にある人々、つまり天皇のミウチが共同で行うものだった。ミウチ政治のもうひとつの特色は、公卿など高位高官の座を天皇のミウチが独占したこと。
摂関家の王家に対する外戚関係が断絶して外戚・母后が権威を失った結果、ミウチ政治は書いた医師、父院が天皇に対する父権を背景に権威を権力を独占する体制が生まれた。院は成人天皇を幼主に交代させることで、唯一の政治主体の地位を保った。その院の権威の源泉は天皇の父権にほかならない。天皇がわが子でないとすれば、院の権威は崩壊する恐れがあった。
上流貴族は、元服時かそれに近く、親の決めた相手と結婚する。だから男が自分で恋をしたいと思うころにはすでに「妻」(さい。嫡妻、正妻)がいる。だから、恋の相手はおのずから妻以外の女性である。しかし、親と親とが決めた結婚だから、容易に離婚はできない。妻とは原則として同居する。「通い婚」という婚姻形態があるのではない。妻以外の女性には「通う」以外に逢う手段がないだけのこと。愛人の女性とは、もともと「結婚」していないのだから、別れても離婚ではない。法的結婚以外の関係は、はじまるのも終わるのも現在と同じで、当人次第なのだ。
平安時代には一夫多妻が認められていたのではない。平安時代も一夫一妻制である。妻と妾とには、明確な区別がある。妻には法的な保護があるが、妾にはない。
ひえーっ、そ、そうだったんですか。初めて知りました。
恋愛物語としての「源氏物語」を動かす中心点は、嫡妻(正妻)の座にある。他に「妻」がいては、どんなに男から愛されていても、幸せとはいえない、というのが当時の一般的な考えだった。それほどに、「妻」の座は平安時代の女性にとって重い存在だった。
むむむ、な、なるほど、これはまったく私の認識不足でした。これでは、現代日本と大いに共通するところがあるではありませんか…。こんな衝撃的事実を認識できるから、やっぱり、速読はやめられません。
(2008年5月刊。740円+税)
2008年6月16日
平安貴族の夢分析
著者:倉本一宏、出版社:吉川弘文館
私は毎晩のように夢を見ます。楽しい夢もあれば、変な、いかがわしい夢もあります。夢の世界では、もてもて人間になったりもするのです。これって夢だろうなと夢の中でも思っているのですから、不思議なものです。
平安時代の貴族がどんな夢を見ていたのか、興味津々で読みました。なあんだ、現代の私たちと同じだったのかー・・・、とがっかりしてしまいました。現代人とはよほど変わった夢を見ているものと考えていたからです。宗教がらみの夢は多かったようですが。
この本はまず、人間がなぜ夢を毎晩みているのかを解明しています。
レム睡眠は、日中に収集した不要な情報のデータを消して、翌日、新たに情報を収集できるようにする働きを持っている。脳がたくさんのものを覚えれば覚えるほど、神経回路網が混乱し、間違った情報が混じりこむので、夢をみることによって、人間は余計な情報を消して脳を調律し、脳の可塑性(記憶)を可能にする土壌づくりを行っている。つまり、夢の主要な機能は忘れることにある。な、なーるほど、そういうこと、だったんですね。よく忘れないと、新しい知識を脳は吸収できないというわけです。
平安時代、夢は寝目つまり、いめと読んだ。
平安時代の貴族は、朝おきて食事をしたり身繕いをしたりする前に、昨日の儀式や政務を日記に記録していた。具注暦という暦の余白に日記を記した。つまり、平安貴族が朝起きて最初に手にする物体は、鏡の次に日記を記す具注暦だった。
たとえば、摂政となり関白となった藤原忠平(ふじわらのただひら)の記した『貞信公記』によると、位階を早く上げてほしいという個人的な希望を夢に見たこと、それを日記に記している。
藤原道長の『御堂関白記』も紹介されています。『御堂関白記』における道長の夢というのは、そのほとんどがどこかに外出あるいは参列することを回避するための根拠としての「夢」である。具体的に「夢」の内容は語られておらず、本当にみたのかどうか怪しい。
道長には、行きたくない所には夢想を口実にして行かず、やりたいことだけはそれにもかかわらずやるといった行動様式がみてとれる。これは、夢についての平安貴族全般にみられる行動様式だったようだ。そして、陰陽師は依頼者の意思どおりの占いをすることが多かった。な、なーるほど、そういうものなんですよね。昔も今も、変わりませんね。
平安貴族には、家の存続のためには政治的地位を継ぐ男子と、入内(じゅだい)を予定する女子とが必要であった。ところが、右大臣を26年も在任した藤原実資(ふじわらのさねすけ)は、男子にも女子にも恵まれなかった。
実資の夢について、夢解き僧がいいことを言って近寄ってきたが、実資はいたって冷静な対応をした。つまり、夢解き僧の言うことを真に受けなかったということです。
67歳の実資の頬がはれてきたとき、実資は夢の中に出てきた2つの治療法をやってみました。それでも、決して、夢をうのみにしたのではなく、当時考えられる様々な手だてを講じたうえで対処していました。つまり、現実的な対応をしていたというのです。決して夢のご託宣のとおりに動いたわけではありません。
この実資の『小右記』に登場する夢は、一見すると夢想によって宗教的な怖れを抱いていたかのような観がある。しかし、逆にいうと、金鼓を打たせたり、諷誦(ふじゅ)を修させたりといった措置を講じることによって、日常的な生活に戻っていったのである。必ずしも実資が宗教的な怖れに包まれていたわけではないと考えるべきである。つまり、実資もまた、道長と同じように、夢想を冷静に自分の都合のよいように利用していたのだ。
なーるほど、そういうことだったのですか。これでは、まるで、現代日本人と同じですよね。
(2008年3月刊。2800円+税)
2007年6月26日
王朝貴族の悪だくみ
著者:繁田信一、出版社:柏書房
著者の前著『殴り合う貴族たち』という本には驚かされました。朝廷の内外で平安貴族たちは優雅にゆったり生活しているかと思っていました。ところが、なんとなんと、殴り合ったり殺しあっていたというのです。
今度の本には『枕草子』の清少納言も危機一髪という展開です。藤原道長や藤原行成の日記をもとにしているとのことですから、信用できるのでしょう。それにしても驚くべき貴族の実態です。芥川龍之介の『芋がゆ』に出てくる下級貴族を思い出してしまいました。
清少納言の実兄である前大宰少監(さきのだざいのしょうけん)清原致信(きよはらのむねのぶ)が、寛仁元年(1017年)3月8日、騎馬武者の一団に白昼、自宅を襲われて殺害された。その原因は、実は、このとき殺された致信がそれより前に当麻為頼(たいまのためより)を殺害したことにあった。
ところが、当麻為頼を殺害した首謀者は和泉式部の夫である藤原保昌の郎党の一人であった。そして、清原致信殺害の首謀者であった源頼親(有名な源頼光の弟)は、ことが露見したあと、淡路守・右馬頭の官職を取り上げられた。しかし、それも長いことではなく、やがて伊勢守を、さらに大和守に任ぜられた。要するに、たいした処分は受けなかったのである。このように悪事をはたらいた貴族たちは、ことが発覚しても罰せられることもなく、幸せに栄達していった。
永禄元年(989年)2月5日に開かれた公卿会議の議題の一つは、尾張国の百姓が朝廷に対して尾張守(おわりのかみ)藤原元命(もとなが)の罷免を嘆願したことにあった。その文書を「尾張国郡司百姓等解」(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)という。その書面には、罷免を求める理由が31ヶ条にまとめられている。それは不当課税・不当徴税、恐喝と詐欺、公費横領、恐喝・詐欺の黙認その他となっている。元命の子弟や郎等、従者たちの不正についても問題とされている。徴税使が人々にぜいたくな接待や土産を強要するのを黙認した。子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し盗るのを黙認した。息子が馬をもつ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。などです。
いやあ、今の日本でもこんな不正があっているように思いますよね。平安時代の百姓は、黙っていなかったのですね。この百姓たちの訴願によって、元命は尾張守を罷免されてしまうのです。すごいですよね。日本人が昔から、お上(かみ)にたてつかない、おとなしい羊の群れのようだった、というのは、とんでもない間違いです。むしろ、今の日本人のほうがおとなし過ぎて話にならないのです。年金記録5000万人行方不明なんて、今の安倍政府には国を統治する能力がないということを証明したようなものではありませんか。国民はもっと怒るべきです。