弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(平安)
2022年1月 3日
刀伊の入寇
(霧山昴)
著者 関 幸彦 、 出版 中公新書
モンゴル軍の襲来(元寇)は鎌倉時代、北条執権のころのことですが、平安時代、藤原道長が栄華の絶頂にあった1019年、対馬をはじめとして九州北部(福岡から佐賀)が、突如として外敵に襲われた。中国東北部の女真族が日本に侵攻した。
この女真族(刀伊と呼ばれた)の入寇の状況を詳しく紹介した新書です。
それこそ、『源氏物語』の紫式部や『枕草子』の清(せい)少納言のころの出来事です。来襲した敵が残した物に書かれていた文字が女真文字であると判明したのは、なんと明治になってからのことだというのに驚きました。
「刀伊」とは、いったい何かというと、女真族について「東夷」というのを「刀伊」としたということです。
芥川龍之介の小説『芋粥(いもがゆ)』は、『今昔物語』を元ネタにしているが、この『今昔物語』に登場する人物のモデルである藤原利仁は、鎮守府将軍そして征新羅将軍になった武人だ。ところが、『今昔物語』によると、利仁将軍は新羅征伐に向かった途中、新羅側の仏法の威下のもとで敗死する。
伊攻した女真族は、九州北部から大勢の日本人の捕虜として連れ去った。死者364人、捕虜となったのが1289人、牛馬の被害が380頭。捕虜となった者が死傷者の3倍をこえているのは、大陸での奴婢(ぬひ)市場へ供給していたから...。
初めは敗退していた日本軍は朝廷からの督励とは別に、なんとか最新式の兵器によって反撃に転じることができるようになった。
九州に上陸した女伊族は、その後、朝鮮半島の元山沖で高麗(こうらい)水軍によって壊滅打撃を受けた。
朝鮮半島の内情の複雑さに乗じて朝廷内にはいろいろ議論があったようです。ノド元過ぎれば熱さを忘れるということです。
鎌倉時代の元寇の100年も前に、同じような異民族が来週した事実は知っていましたが、想像以上に深刻な打撃を受けていたことを初めて知りました。
(2021年8月刊。税込880円)
2021年12月31日
王朝日記の魅力
(霧山昴)
著者 島内 景二 、 出版 花鳥社
NHKラジオで古典講読をしている著者が放送台本を書き言葉に置き換えていますので、とても読みやすく、しかも内容が濃いのです。さすが学者は違います。読み方の深さに圧倒されました。
『蜻蛉(かげろう)日記』の作者は道綱の母、そして藤原兼家の妻。上巻・中巻・下巻には、19歳から39歳まで、あわせて20年間の「女の一生」が書かれている。
著者による現代語訳を少し紹介します。
夫から捨てられて、みじめな死に方をするのではなく、夫を捨て、夫によってみじめなものにさせられた自分の人生をも潔(いさぎよ)く捨ててしまう。そういう潔い死を、私は求め続けた。私にはプライドがある。運命に追い詰められて死ぬのはみじめである。死にたくないなどと逃げ回って、けれども、ほかにどうしようもなくなって、仕方なく死んでゆくような、情けない死に方は絶対にしたくなかった。けれども、ただ一つだけ、私が捨てられないものが存在する。私の生んだ、たった一人の男の子、道綱である。
道綱の母は、藤原兼家という夫の束縛を断ち、大空のはるか向こうまで、自由を求めて飛んでいきたかったことだろう。夫の兼家には、「近江」という愛人がいて、別に村上天皇の皇女とも男女の関係にあった。道綱の母は、『蜻蛉日記』を読んでいる読者に向かって、直接、私の心を推し量(はか)ってくださいな、と呼びかけている。
いやあ、すごいですね。これではまるで現代に生きる日本女性の叫び声ではありませんか...。
平安時代には、女性が出家して尼になるときも、髪の毛を全部剃(そ)って丸刈りになることはない。髪の毛を肩のあたりまでで切り揃(そろ)える。残った髪の毛は、額のあたりで振分髪(ふりわけかみ)にして、左右に分ける。この髪型を「尼削(あまそぎ)」という。
オカッパ頭になるのですね。そして、いよいよ死の間際になったら髪の毛を剃ってしまったのです。
道綱の母は、読者の目からすると感情移入するのがかなり難しい性格の持ち主だ。
この本は、『蜻蛉日記』と『源氏物語』の共通点を指摘しています。それは、紫式部の『源氏物語』が『蜻蛉日記』から多くのものを学んでいるということです。
道綱の母は、兼家との夫婦関係が完全に消滅すると、わが子・道綱の政治家としての未来も閉ざされてしまうことを心配した。なので、我慢するしかない。
『蜻蛉日記』は、作者の主観が生み出した世界を、言葉にうつしとったものだと考えられる。言葉が世界をつくり出す。正確には、心を写しとろうとした言葉が、王朝日記文学をつくり出したのだ。
『蜻蛉日記』のなか、『源氏物語』、そして『更級(さらしな)日記』のなかにも不思議な夢のお告げがよく登場する。王朝の女性たちは、夢の実現を強く願い続けた。女性たちの夢や希望がぎゅっと圧縮されたもの、いわば「夢の遺伝子」が『蜻蛉日記』であり、『源氏物語』であり、『更級日記』だった。
『蜻蛉日記』の作者(道綱の母)は、60歳まで生きて、995年に亡くなった。
その夫である藤原兼家は一条天皇が即位したとき、摂政になった。その4年後、兼家は亡くなった。さらに、その5年後に作者(道綱の母)が亡くなった。この年、兼家の息子である道隆と道兼は相次いで死去した。翌年、兼家の息子の道長が権力を掌握した。
まもなく紫式部による『源氏物語』が書かれはじめ、『和泉式部日記』そして、『更級日記』の著者が生まれた。女性の手による散文の名作・傑作が続々と誕生した。その最初が『蜻蛉日記』なのだ。
この『蜻蛉日記』は『源氏物語』に大きな影響を与えただけでなく、近代小説にも影響を及ぼしている。田山花袋、堀辰雄、室生犀星の3人があげられる。
こういう講釈を聞くと、『蜻蛉日記』で言われていることは、そのまま今の日本にあてはまると思えてきます。決して古いとか時代遅れになったとは思えません。喜ぶべきか悲しむべきか分かりませんが、すごいことですよね。手にとって読んでみる価値が大いにある本です。
(2021年9月刊。税込2640円)
2021年11月14日
光源氏に迫る
(霧山昴)
著者 宇治市源氏物語ミュージアム 、 出版 吉川弘文館
源氏物語って、日本中世の貴族社会における不倫のあれこれを描いただけなんじゃないの...、そんな妄想を、つい抱いてしまいます。でも、この本を読むと、平安貴族社会の実情をかなり反映していることがよく分かります。単なる貴族の不倫話ではありません。
まず、天皇の生母です。ときの天皇を産んだ母親ですから、たちまち「国母」となります。この国母はどれだけの力をもっていたのか...。国母となった母親は、内裏(だいり)で、天皇と同居していました。同居していたら、実母が息子に強い影響力を有するのは必然です。藤原道長の子である彰子は、後一条天皇と内裏で同居していて、天皇の後宮に主導権を握っていた。摂関期の国母は、我が子の天皇と同居していて、天皇を日常的・直接的に後見し、国政の運営に深く関与していた。
次に、頭中将(とうのちゅうじょう)。これは、蔵人頭(くろうどのとう)と、近衛中将(このえちゅうじょう)である。ともに四位の貴族が補任された職。もちろん、頭中将はエリート貴族。
頭中将は、主に天皇の随従の補佐をする。常に天皇のそばにいて、ボディガードの長であるとともに、秘書官長でもあった。頭中将は、蔵人頭としては蔵人所という組織の事実上のリーダーであり、近衛中将としては天皇に随従して補佐する役目を担っていた。
内裏(だいり)のなかでは、服装について、多くの制限があった。着るものの色には、厳格な決まりがあった。四位以下は黒。五位は「深緋(ふかひ)」といったように...。
蔵人頭には、禁色が許されていた。蔵人頭となった人は、ほとんど毎日、内裏に出仕していた。
奈良・平安時代の官人たちは、夜が明けて少したってから仕事を始め、昼ころには仕事を終えるのはフツーだった。これに対して、紫式部が生きた時代は、貴族や女房は、夜型の生活をしていた。朝に行われていた朝廷の政務、儀式も昼過ぎ、夕方に始まり、公事の夜儀化にともない、貴族や女房の生活リズムも朝方から夜型に変わって、そのなかで『源氏物語』は生まれた。
藤原道長は、自邸の造営を一間ずつ受領に割りあてていた。道長は、私邸を天皇の内裏のように造営した。
『源氏物語』の世界を実際に即して再現、考えた本として、大変勉強になりました。
(2021年7月刊。税込2420円)
2021年10月 3日
謎解き、鳥獣戯画
(霧山昴)
著者 芸術新潮編集部 、 出版 新潮社
日本のマンガの元祖といってもよいのでしょうか...。ウサギや猿そしてカメたちが水遊びしたり、弓矢で競争したり、相撲をとったり、まことに愛敬たっぷりのマンガチックな絵巻物です。
甲乙丙丁の4巻からなる絵巻物の全長は、なんと44メートル超。甲乙巻は平安時代の末期、丙巻は鎌倉初期、丁巻はそれより少しあと...。もちろん異論もある。
色がなく、詞書(ことばがき)、つまりキャプション(説明文)がない。
京都市の北西にある高山寺(こうさんじ)に伝わった。
誰が、いったい何のために描いたのか、その注文主は誰なのか...。
すべて謎のままです。定説はない。
絵巻なので、紙をノリで何枚も(甲巻だけで23枚)、貼り継いでつくった。横長の料紙(りょうし)に描かれている。紙の継ぎ目の部分には「高山寺」の印が押されていて、絵が抜きとられたり、散逸してしまうのを防ぐ意図があった。
甲巻には擬人化された動物が登場する。2巻にはそれがない。しかし、カップルや親子は登場する。ニワトリの親子の絵を見ると、著者の表現力は、さすがです。
先に人物戯画が描かれ、その裏面に花押が入れられていた。その後、別の誰かが、花押にはかまうことなく動物戯画を描き加えた。
「鳥獣戯画」というのは近代以降の名称。中世では、ほとんど知られていなかった。現状の4巻構成になったのは、江戸時代初めの東福門院による修理のときのことだろう。
これを描いた絵師は宗教界と宮廷社会の両方の画事(がじ)に接しうる立場に属する人であって、しかも仏教側に属する人だろう。
コロナ禍がなければ、すぐにも飛んでいって、実物を見たい、じっくり鑑賞したいです。でも、現実には、私のすむ町ではまだワクチン接種のお知らせ自体がやってきていません。どうしたらよいのかも分からず、困って毎日を過ごしています。早く旅行に出かけたいものです。
(2021年3月刊。税込2200円)
2021年5月10日
源氏物語の楽しみかた
(霧山昴)
著者 林 望 、 出版 祥伝社新書
源氏物語を通読したことはありません。現代語訳の通読を何回か試みましたが、いつもあえなく挫折してしまいました。どうしても平安貴族の心の世界に溶け込めなかったのです。
われらがリンボー先生は、現代語訳を刊行するほど「源氏物語」に通じていますので、この本の読みどころをフツーの一般読者に分かりやすく教えてくれます。さすがです。私と同じ団塊世代ですが、偉い人がいたものです。感服することしきり、というほかありません。
「源氏物語」は、決して、いま言う意味でのベストセラーではなかった。どの時代にも、この長さで難解な物語を自由に読める人など、限りなくゼロに近かった。ごく限られた貴族社会の人たち、すぐれた知識階級の人出が、細々と読んでいたに過ぎない。読もうと思えば努力次第で誰でも読解できるようになったのは、江戸時代前期に注釈本が出たあとのこと。なーるほど、そうなんですよね。ちゃんと読んでいない私は、これを知って、ちょっぴり安心しました。
しかし、それでも、「源氏物語」は、常に文学の王道として、千年にあまる年月を堂々と生きのびてきた。なぜか...。
この物語は、雅(みや)びだの、優雅だの、そんな生易しい観念で片づくようなものではない。そこには、いかに生々しい、いかに切実な、いかに矛盾にみちた人間世界の懊悩(おうのう)がリアルに描かれているのだ...。男と女がいる、その男女関係は、根本にある「人を愛する切実な気持ち」などは、時代や身分を超越して不易だ。うむむ、そうなんですか...。
「色好み」というのは、現代では非難されるべきもの。しかし、平安時代では違った。「色好み」の男性ほど、女に好かれる。いや、女に好かれなければ、色好みにはなれない...。
そして、色好みには、「まめ」が必要。恋のためなら、千里の道を遠しとせず、たとえ火の中、水の底、いかなる困難もいとわないというエロス的エネルギー。これこそが、色好みの男にもっともあらまほしい姿である。うむむ、これは難しい...、手に余ります。
光源氏は、「許さぬ」と決めた相手には、どこまでも冷酷にしかし表面上は親切に、押しつぶしていく。源氏という男の恐ろしさが発揮されていく。うひゃあ、そ、そうだったんですか...。
光源氏の内面には、真面目と不真面目が同居し、親切で冷酷であり、傲慢なのに謙遜らしい。源氏は、どこまでも二面性のある、いや非常に多面的な相貌をもった存在として描かれている。
ううむ、そういう話として読めるのですね...。そうなると、作者の人物創造は、かなり奥深いものがあるわけですが、いったい、パソコンもない時代に、どうやって、それを創造できたのか、いよいよ不可思議な思いにかられてしまいます。
(2020年12月刊。税込1100円)
2020年12月 6日
「空白の日本史」
(霧山昴)
著者 本郷 和人 、 出版 扶桑社新書
飲食店の店頭に盛り塩をしているのは、中国の後宮にルーツがある。中国の皇帝が後宮を訪問するとき、たくさんの女性の部屋の前を牛車に乗って移動する。その牛車を止めるため、牛の好きな塩を盛っておくと、塩をなめるために牛が立ち止まり、牛車が止まる。すると、皇帝は、せっかくなので、この部屋に寄ろうということになる。そのための盛り塩だ。
うひゃあ、知りませんでした...。
戦国時代の女性の肖像画は、だいたい立膝をして、ゆったりとした衣服を着ている。
日本は、おそらく世界でいちばん豊かな歴史史料が残っている国だ。
日本では、和歌のメインテーマは「恋」。男性だけでなく、女性も高い教養をもっているので、好きな相手に和歌を送りあうという文化が発展した。ここに中国との大きな違いがある。
平安時代の日本では、恋愛をしている人ほど、尊敬される風潮さえあった。恋愛が盛んな男女をさす言葉に「色好み」というものがある。現代ではマイナスにとられがちだが、平安時代には、「恋愛をしっかり楽しんでいる人」とか「気持ちに余裕のある大人っぽい人」として、プラスの評価を受けていた。その一例が和泉式部。
平安時代そして鎌倉時代は、男女の恋愛について、いたっておおらかだった。
『源氏物語』に登場する「源典侍」(げんのないしのすけ)という女性は、大層な色好みの女性で、天皇との関係もあるのに、弟である光源氏とも付きあう。さらに、夫のような存在もいる。
鎌倉時代の『とはずがたり』は後深草院につとめていた二条さんという女性の書いた日記。この二条さんは、三人の皇子に愛されている。二条の生んだ娘は、いったい誰の子か分からないけれど、西園寺という貴族がひきとって育てた。この時代は、自分の母が誰なのか分からないこともよく起きていた。
そして、江戸時代の農村も性に対しては非常におおらかだった。その一例が「若者小屋」の存在だ。要するに、乱交が公認されていたのだ。
宮本常一の『土佐源氏』も、現代日本社会では考えられないほど、野放国な戦前の日本の農村社会における性のあり方が延々と紹介されている。
私は、これが日本社会の現実だと弁護士生活46年の体験で痛感します。この点も明らかにしている貴重な新書です。
(2020年1月刊。880円+税)
2020年6月19日
平将門の乱を読み解く
(霧山昴)
著者 木村 茂光 、 出版 吉川弘文館
平将門(たいらのまさかど)の乱は平安時代に起きた、武士の最初の反乱と言われる、935年から940年にかけての内乱だ。
平将門は、上野国府で「新皇」(新しい天皇)を宣言して、坂東8ヶ国の国司を任命し、新たな「王城」建設まで宣言した。
日本史のなかで、新しい天皇(新皇)を名乗り、朝廷の人事権(除目。じもく)を奪って国司を任命し、新しい宮都の建設まで計画したのは、ほかには南北朝内乱時の後醍醐天皇くらいしかいない。将門の乱は、まさに日本史上まれにみる大事件だった。
平将門が新皇宣言するにあたっては、菅原道真の霊魂と八幡大菩薩がその根拠となっていた。これらのことから、平将門の乱は単に東国で起きた武士の反乱という側面をこえた国家的な問題をはらんだ反乱だったと言える。
この当時、領地・所領は、まだ財産的価値をもっていなかった。
平安時代というのは、そのような時代なのですね...。
平将門は東北地方を強く意識していた。すなわち、鎮守府将軍のもたらす富には、奥羽さらにエゾ地から持ち込まれた、胡禄(ころく)、鷲羽(わしのはね)、砂金、絹、綿、布があった。
平安末期、源頼朝の挙兵について支配者層は平将門の乱に匹敵する大事件であると認識していた。
平将門は、平安京に似せて「王域」を建設しようとした。
「左右大臣、納言、参議、文武百官、六弁八史」の任命、「内印、外印(天皇の印と太政官の印)」の寸法・文字などを確定した。このように宮都の建設・官僚の任命が矢継ぎ早に実施された。ただし、専門性の高い技術と能力を必要とする暦をつくる暦日博士は人材を確保できずに任命されなかった。
平将門の「新皇」即位は、「みじめな構想」などではなく、思想的・精神史的には京都の天皇・天皇制を相対化するような大きな「画期性」をはらんでいた。
平将門は、自分の国家領域を支配するための政策をしっかりもっていたと認められるべきだ。
平将門は、律令国家・王朝国家が支配の根幹としていた国府を襲い、さらに中国由来の天命思想を掲げ、新興の八幡神・道真の霊を根拠として「新皇」を名乗って王城を建設しようとした。
平将門の乱は、関東という、京・畿内から遠く離れた領域を舞台として起きた反乱だったが、この反乱から読みとれる諸特徴は、まさに全国的な政治的・社会的・思想的な変化を体現するものばかりだった。
京から遠く離れた坂東の田舎武士どもが、ちょっと盾ついたというレベルのものでなかったことを初めて知りました。
(2019年11月刊。1800円+税)
2020年1月 1日
菅原道真
(霧山昴)
著者 滝川 幸司 、 出版 中公新書
太宰府天満宮と言えば菅原道真ですよね。近くに国立博物館がありますので、たまに行きます。その菅原道真とは、いったいいかなる人物だったのか、この本を読んで、ようやく少し素顔(実像)をつかむことができました。
菅原氏は、もとは土師(はじ)氏。土師氏は、葬送で天皇家に仕えた氏族。ところが、勢いを失いつつあったので、改氏姓を願い出た。
道真は33歳で文章博士(もんじょうはかせ)に任じられた。文章博士は、大学寮紀伝道で中国の文学・歴史を教授する官職。33歳は若い任官だった。
道真は式部少輔と文章博士を兼任し、儒家を領導する立場となったが、それは誹謗中傷嫉妬を招いた。
42歳のとき、道真は文章博士、式部少輔、加賀権守(ごんのかみ)を解かれ、讃岐守(さぬきのかみ)に任じられた。道真にとっては不本意な任官だった。しかし、紀伝道出身者は地方官として治績をあげることが期待されていた。
そして、4年たって、念願の都へ戻った。890年(寛平2年)のこと。
891年、道真は蔵人頭(くろうどのとう)に任じられた。蔵人頭は天皇の側近ともいうべき存在だ。宇多天皇は道真に期待していた。さらに、式部少輔に再任され、次いで佐中弁(さちゅうべん)を兼任した。佐中弁は、太政官行政の事務部局で、きわめて重要であり多忙な職である。
道真は蔵人頭について辞表を出したが、受理されなかった。
892年(寛平4年)、道真は従四位下に叙された。翌年、道真は参議に任じられた。道真、49歳。蔵人頭・左京大夫からは離れ、参議に任じられ、公卿の地位に至り、太政官の議政に参加する地位に就いた。
さらに、道真は、佐中弁から左大弁に昇った。そして、勘解由(かげゆ)長官も兼ねた。勘解由使は官人らの交替を監査する役所。このようにして道真は、参議兼左大弁、式部大輔・勘解由長官を帯びた。
道真、50歳のとき、遣唐大使に任命された。しかし、結果として、派遣はされなかった。
894年(寛平6年)、道真は侍従を兼ねた。この年、道真は、従四位下参議兼左大弁・式部大輔・春宮亮・勘解由長官・遣唐大使・侍従ということにある。このような兼官の多さは類例をみない。
さらに、道真は、参議から中納言に昇った。菅原氏としては初めての任官だった。
道真は宇多天皇を補佐する政治家として、藤原時平とともに政権トップとして政治を担当するようになった。
道真の長男、菅原高視は大学頭(だいがくのかみ)に任じられた。
899年(昌泰2年)、道真は権大納言であり、右大臣に任じられた。これに対して、道真は2度も辞表を出して抵抗した。門地が低いこと、儒者の家系であること、上皇の抜擢によって地位を得たとした。
道真は、誹謗・中傷を受けながらも、大臣の職をつとめた。
道真は、儒家としては異例の出世によって妬まれ、誹謗され、また宇多法皇の側近として醍醐天皇制と対立する存在としてとらえられていたようだ。
宇多法皇の道真に対する過度の厚遇、信頼が左遷のもとになった。
901年(昌泰4年)、道真、57歳。右大臣から大宰権師(ごんのそち)に落とすという醍醐天皇の宣命(せんみょう)が下された。このとき、分を知らず、専権の心があった。醍醐天皇の廃位を計画して、兄弟の間を裂こうとしたという罪状が記されていた。
道真の子息のうち、官途についていた者はすべて左遷された。道真は大宰府、高視は大佐、景行は駿河、兼茂は飛騨で、残った淳茂のみ京に残って学問に励むことができた。
前の天皇に重宝され、トップの地位を占めるところまで行ったものの、次の天皇からは排斥されてしまったということなのでしょうね。出世は反発も招くというのが世のならいです・・・。
(2019年9月刊。860円+税)
2019年2月22日
公卿会議
(霧山昴)
著者 美川 圭 、 出版 中公新書
貴族政治って、意外にも会議体をもって議論して決めていたのですね。驚きでした。
公卿(くぎょう)とは、貴族の上層の人たちのこと。
律令制のもとには、太政官(だじょうかん)の議政官会議というものが存在した。議政官とは、左右内大臣、大納言(だいなごん)、中納言、参議らのこと。
太政官がいかなる提案をしたとしても、天皇はそれに制約されずに決定できるというのが律令制の原則。天皇と太政官は対立的に存在しているのではなく、天皇を輔弼(ほひつ)する太政官議政官の会議は、天皇の君主権の一部を構成していた。
藤原道長は摂政にはなったが、関白にはなってはいない。一条天皇は外戚(母の父)である道長の言いなりの人物ではなかったので、道長の立場は盤石ではなかった。
一条天皇が亡くなり、皇位を継承した三条天皇は、道長に関白就任を要請するが、それを道長は受けなかった。道長は関白ではなく、内覧左大臣の地位を自ら選択した。
三条天皇は眼病のため失明に近い状態となった。その三条天皇に道長はたびたび譲位を迫った。そして、後一条天皇が即位すると、外祖父の道長は摂政となった。
幼帝のもとで、奏上なしに決裁できるのが摂政。天皇が成人となったとき、奏上や招勅発給などに拒否権を行使できるのが関白。
摂政にも、関白にも、内覧の職務が包含されるから、制度上は摂関になったほうがよい。
天皇の外戚という非制度的な関係をもたないときには、権力が弱体化する恐れが常にあった。摂関政治といいながら、外戚、つまり天皇のミウチであることが、とても重要だった。
このころ、実務能力をもった貴族たちが、蔵人頭(くろうどのとう)を終えたあと、公卿として陣定に出席するようになった。
道長は関白として公卿会議に超然として臨むよりも、会議の中に身を置いて、彼らの信頼を得ることが重要だと考えた。そのため、あえて一上(いちのかみ)、つまり筆頭大臣として会議の中にとどまり、現場で発言しながら会議の進行をリードしようとした。
三条天皇のころは、もはや道長に対立する貴族はほとんどいなかった。それでも道長は関白にならなかった。道長は、内覧で一上左大臣という立場の有効性を確信していた。
そして、外孫である後一条天皇になると、初めて一上左大臣の地位を離れて、摂政に就任する。以後、道長は陣定に出席していない。
170年間、藤原氏は天皇の外戚を独占した。
御前での公卿会議が、天皇と関白の対決の場になった。
13世紀の日本では、神社の荘園が押収されたため訴訟が次々に起こされ、朝廷にもち込まれた。院政期には、所領相論(そうろん)、つまり不動産紛争の問題が、陣定(じんのさだめ)の議題として多くあがった。
日本人は昔から紛争が起きるとすぐに「裁判」に訴えていたのです。日本人が昔から裁判が嫌いだなんて、とんでもない嘘っぱち、私は、そう確信しています。
13世紀、雑訴評定においては、訴人(原告)と論人(ろんじん。被告)の双方を院文殿(いんのふみどの)に召し出して、その意見を聴取することになった。これが文殿庭中(ふどのていちゅう)である。
鎌倉時代の後期には訴訟が増大した。鎌倉後期には、幕府が訴訟の増大に対処することに追われた。貴族の分家が対立し、貴族内部の争いが家産、官位の争奪というかたちをとって深刻化したため、朝廷での裁判の重要性はいっそう高まった。
圧倒的な軍事力をもつ鎌倉幕府が成立してから200年、承久の乱で敗北してから150年、ほとんど幕府に対抗できる武力をもたない朝廷が、合意形成をしながら政治権力として一定の統治能力を維持したことは再評価してよい。宮廷貴族たちは、院や天皇のもとに結集して、公卿会議で論戦しつつ、朝廷を自立的に運営していった。
朝廷と貴族(公卿)の関係について、難しいながらも面白い本でした。宮廷貴族たちは、意外なほど会議での合意を目ざし、それなりの努力を続けていたのでした。
(2018年10月刊。840円+税)
2018年12月23日
藤原 彰子
(霧山昴)
著者 朧谷 寿 、 出版 ミネルヴァ書房
藤原道長の長女で、後一条・後朱雀(すざく)天皇の母として、藤原氏の摂関政治を可能にし、藤原摂関家の繁栄に大きく貢献した。
「この世をば死が世とぞ思う 望月の欠けたることのなしと思へば」
道長が歌いあげたのは1000年前の1018年(寛仁2年)のこと。
道長は三后を自分の娘で独占し、史上例を見ない快挙を成し遂げた。三后とは、右皇太后、皇太后、皇后のこと。
道長の幸運は、兄二人が相次いで病死したことによる。その結果、30歳の病弱な道長は右大臣に就任することができた。そして、道長の姉の詮子が一条天皇の母であったことから、道長は摂政・関白に準ずる内覧に就くことができた。
道長は事を行うに先立って長女・彰子の指示を仰いでいた。それほど彰子は政界へ大きな影響力を有していた。
彰子の87年間の生涯のうち、後半の半世紀は、子と孫の天皇の時代であり、幼帝の行幸のときには同じ輿(こし)に乗っていた。
父の道長の亡きあと、彰子は関白頼通から何かと相談を受けることが多かった。
一条天皇の中宮彰子は、一条天皇が亡くなった翌年、妹の研子が三条天皇の中宮となったことで皇太后となり、31歳で右皇太后となった。そして39歳で出家して上東門院と称した。その翌年、父の道長が62歳で亡くなった。
彰子は出家してから13年後、法成寺で再度、剃髪した。最初は肩のあたりで髪を切りそろえる一般の出家であり、二度目は髪をみんな剃り落とす、完全な剃髪だった。完全剃髪することで初めて、男性と同等の「僧」となった。
紫式部は彰子に出仕していた。
彰子は87歳と破格の長寿を保ったことから、夫の一条天皇、子と孫の4人の天皇、同母の3人の妹と1人の弟の死と向きあうことになった。
父の道長が亡くなったあと、政治は関白を中心に動いていたが、女院(彰子)の存在は関白をしのぐものがあった。
彰子は弟である頼通の死を悲しみ、次に彰子が亡くなると関白教通は大打撃を受け、翌年、関白在任のまま80歳で死亡した。
彰子は長命を保ったことによって、一条から白河まで七代の天皇にまみえた。
つまり、自分の娘が天皇の子、それも男子を産んだかどうかで、大きく変わったのですね・・・・。なんだか偶然の恐ろしさを感じます。王侯、貴族の世界も楽ではありませんね。
(2018年5月刊。3000円+税)