弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2007年2月14日

NHKvs日本政治

著者:エリス・クラウス、出版社:東洋経済新報社
 NHK受信料を支払わない家庭が11万件。これは総契約数の0.3%。日本全国
3500万世帯がNHKと受信契約を結んでいる。支払い拒否は、10億円の収入減を意味する。実は、私もNHKの不祥事発覚以来、支払いを拒否しています。もっとも、私はテレビを見ることはまったくありません(ただし、ビデオで動物番組を見ることはあります。日曜日の夜に、1時間ほどですが・・・)ので、罪悪感はまったくありません。見てないのに、なぜ受信料を支払わなくてはいけないのか・・・、というわけです。今や成人してしまった子どもたち3人もテレビを見ないで育ちました。今の私と同じようにビデオだけは見ていました。じいちゃん(義父)が送ってくれていたのです。
 NHKのニュースにおいては、驚くほど国家に注目し、よく登場する。政治的な話題のなかで最大の割合を占めているのが国家官僚機構の活動。官僚機構にやたらにたくさん注目するのがNHKの政治報道の特徴だ。逆に、NHKのニュースは、社会や市民個人についてはあまり報道しない。うむむ、なるほど、そう言われると、たしかにそうですよね。
 NHKにおいて、国家は紛争を調整する人として描かれている。国家は、何よりもルールと意志決定の儀礼的な策定者として描かれている。国家は、国民の利益を守る、積極的な守護者として、社会の諸問題に対応する姿が描かれる。うーん、そうかー、それは片寄った見方ですよね。
 日本の記者と取材源との関係で何より特殊なのは、記者クラブの存在。記者クラブは、日本新聞協会によって正式に認可され、規制されている。
 記者クラブは、ジャーナリストを政治家や官僚たちとの親密な結びつきを生み出している。記者クラブの存在によって、政府からの自律というジャーナリストの職業規範は希薄になり、NHKの記者は組織の犬になってしまう。
 記者たちの関係を調整する非公式の規制や規範があり、とても詳細だ。たとえば、番記者のルールに、質問は首相の腰が膝より低いときまでというのがある。つまり、首相が立ち上がったら質問は許されないのだ。
 自民党の総務会の会合は、ドアが5センチだけ開いている。15分ごとに記者が交代して立ち聞きするという慣習がある。そうやってリークして、世論を誘導しようとする。
 NHKのニュースは、昼のニュースについて午前10時に会議が開かれ、夜7時のニュースについては、午後4時の会議で最終決定がなされる。しかし、20人もの人が集まっては何もできない。これは芝居にすぎない。メインプロデューサーの決めたことを正式なものにする儀式が行われるだけのこと。
 NHKはきわめて政治的に動く。たとえば消費税導入の前、世論調査の結果、国民の 46%が反対、賛成はわずか19%だけだった。このとき、NHKは、まったく無視して放映しなかった。
 アナウンサーはジャーナリストではない。彼らは1分間に300文字というペースを守って読むだけ。ニュースを取材することはない。トーキングマシーンでしかない。あくまでニュースは台本に従って動いていく。
 NHK会長を承認しているのは、現実には首相をはじめとする自民党の首脳たち。
 NHK会長のポストは与党の人事決定によるもの。それは内閣のポスト配分とほとんど同じ。会長に選出されるためには、多くの場合、自民党内に支援者が必要となる。少なくとも、首相や自民党内の有力派閥の領袖を敵にまわさないように努力しなければならない。
 日本とアメリカの記者の最大に違いは、アメリカの記者が独自の報道スタイルを発展させていくのに対して、日本の記者が書くものは比較的似ていること。日本の記者は基本的に企業人間であり同じ組織内部の人々と交流してきた。
 NHKの局長クラスは臨時職員を雇う権限をもつので、政治家や有力者の家族や交際範囲を採用してきた。縁故採用者でも、2〜3年で正規採用のチャンスをもらえる。そのときの試験は、一般の入社試験に比べて、はるかにやさしい。
 自民党の有力幹部は、みなこのNHKの裏口を利用してきた。
 NHKは、自民党からときどき批判されることもあるが、NHKは自民党の支配に大きく寄与しているし、自民党もそのことを十分に意識している。
 NHKは自民党の影響力に弱いし、官僚支配を揺さぶることは一切表現しない。
 自民党が政権を握っている限り、NHKが完全に解体されることはないし、完全な商業化や民営化されることもないだろう。
 NHKって、自民党営放送って名前を変えたほうがいいですよね。この本を読んで、私は改めてそう思いました。

2007年2月 9日

徴税権力──  国税庁の研究

著者:落合博実、出版社:文藝春秋
 新潟地検の検事正が、妻と義母の遺産相続について東京の税務署から2億数千万円の申告漏れを指摘されたことについて税務署長宛に抗議文を送りつけたことがありました。
1996年1月のことです。新潟地方検察庁の封筒をつかい、検事正の肩書をつけての抗議文でした。
 自分は公益の代表者として調査を止めさせることが出来る。検察庁の立場から見ても不満が残る、と抗議文に書かれていました。驚くべき職権濫用です。検事正への処分が戒告処分にとどまったのが不思議でなりません。
 国税庁は一般職員に決してノルマを課していないといいます。しかし、国税局や税務署では、各年度ごとに増差総額をまとめていますから、一線の調査官には無言のプレッシャーになっている。
 国税庁は世論の動向にきわめて敏感な官庁である。中小企業には厳罰でのぞみながら、巨大企業はマルサの聖域となっている。マルサは一度も大企業に踏みこんだことがない。ところが、もし大企業をあげると、その効果は絶大なものがあります。ケタが違うからです。三菱商事がカリブ海のバハマにペーパーカンパニーをつくっている課税逃れを摘発されたとき、隠し所得はなんと110億円でした。
 大企業の海外取引に国税当局がちょっと目をつけると、次のとおりの税額が回収できたのです。ホンダ117億円、京セラ127億円、船井電機165億円、武田薬品570億円、ソニー324億円、マツダ76億円、三菱商事22億円、三井物産25億円。
 すごいものです。まだまだあることでしょう。これはほんの氷山の一角だと思います。
 大新聞などのマスコミのほか、創価学会にも申告漏れないし課税逃れがあると著者は指摘しています。ところが、公明党が政権与党になって、国税庁は方針を変え、甘い姿勢を示すようになったといいます。権力は国税よりも強し、なのです。困ったことです・・・。
 小泉純一郎も、地元の暴力団関係企業やゼネコンのために秘書が口利きをしたと厳しく糾弾されています。人生いろいろ、そんな言い逃れは許せません。
 国税庁が警察や検察をしのぐ日本最強の情報収集力を本当にもっているのかは大いに疑問です。でも、アル・カポネが捕まったのは脱税によるものでした。金丸信自民党副総裁も脱税による逮捕で失墜してしまいました。国税権力は今後も時の権力者にしっかり目を光らせてほしい、納税者の一人として願っています。

若者はなぜ3年で辞めるのか

著者:城 繁幸、出版社:光文社新書
 この著者の「内側から見た富士通・成果主義の崩壊」は大ベストセラーになりましたが、成果主義の虚像を事実をもって暴いた点に深い感銘を覚えたことを覚えています。
 大企業の人事部は、たいてい通常の人事業務に加えて、結婚仲介的業務がある。
 なーるほど、今でもそうなんですね。官庁のキャリア組についても同じ部署があると聞きますが・・・。
 企業が欲しがっているのは、組織のコアとなれる能力と、一定の専門性をもった人材である。TOEICは、ちょっと前は500点そこそこだったが、今は600点代後半にまで上がっている。このように企業が学生に課すハードルは上がっている。
 企業においては、権限は、能力ではなく年齢で決まる。技術者にとっては、事務系よりはるかに深刻だ。キャリアを重ねても、必ずしも人材の価値が上がるとは限らない。なぜなら、技術の蓄積よりも、革新のスピードのほうが重要になった業種が急速に増えているから。
 日本の企業において、休暇は会社の温情によるサービスであり、労働者の権利とは認知されていない。もちろん、労基法では権利とされている。そんな無茶苦茶な労働環境の下で、黙々と働く日本人は、勤勉ではあるが、ヒツジの従順さのようなものだ。
 ヒツジを逃がさないようにするには方法が二つある。一つは逃げられないように鎖でつなぐ。もう一つは、そもそも逃げようという気を起こさせないこと。
 企業が体育会系を好むのは、彼らが主体性をもたない人間だから。徹底した組織への自己犠牲の精神、体罰さえも含む厳しい上下関係というようなカビの生えた遺物が、いまも多く体育会では脈々と受け継がれている。
 彼らは、並の若者よりずっと従順な羊でいてくれる可能性が高い。つまり、つまらない仕事でも、上司に言われた以上はきっちりこなしてくれる。休日返上で深夜まで働き続けても、文句は言わない。彼らにとっては、我慢こそ最大の美徳なのだ。
 他人より少しでも偏差値の高い大学を出て、なるたけ大きくて立派だと思われている会社に入り、定年まで勤める。夜遅くまで面白くもない作業をこなし、疲れきってはネコの額のような部屋に寝るために帰る。そして、日が昇るとまた、同じような人間であふれかえった電車にゆられて、人生でもっとも多くの時間を過ごす職場へ向かう・・・。
 それこそが幸せだと教えこまれてきた。だが、少なくとも、それだけで一定の物質的、精神的充足が得られた時代は、15年以上も昔に終わった。
 その証拠に、満員電車に乗る人たちの顔を見るといい。そこに、いくばくかの充足感や、生の喜びが見えるだろうか。そこにあるのは、それが幸福だと無邪気に信じ込んでいる哀れな羊か、途中で気がついたとしても、もうあと戻りできないまま、与えられる草を食むことに決めた老いた羊たちの姿だ。
 著者は、若者はもっと自分の権利を主張すべきだ。自分の人生を大切にすべきだ。投票所に行って、きっちり意思表示すべきだ。こう強く主張しています。この点は、まったく同感です。

21世紀のマルクス主義

著者:佐々木 力、出版社:ちくま学芸文庫
 数学史を専攻すると同時にマルクス主義とりわけトロツキイの信奉者でもあるという著者がマルクス主義を現代に復権させようと主張している本です。
 著者はコミュニズムを共産主義と訳すのは、若干アナクロニズムであり、賞味期限が切れているという印象を抱いています。共産というより共生というべきではないかと主張するのです。
 著者は環境社会主義を説きます。この環境社会主義は、初版社会主義の解放目標を保持し、社会民主主義の軟弱な改良主義的目的と、官僚社会主義の生産主義的構造とを拒否する。エコロジー的枠組み内での社会主義的生産の手段と目的を再定義することを主張する。持続可能社会のために本質的な成長の限界を尊重する。
 現代帝国主義は、自然に敵対する帝国主義である。とくに、核兵器は、現代帝国主義の政治的、モラル的矛盾の結節点である。
 ソ連「社会主義」の一時的挫折、中国の市場原理の導入をもって、マルクス主義本来の社会主義プログラムの蹉跌とみるのは、あまりに早計である。
 ソ連邦時代の公有財産は、彼らのもとで急成長した新興成金によって「強奪」されてしまった。かつての「労働者国家」ソ連邦が変貌した現在の資本主義ロシアでは、かつてのノーメンクラトゥーラである「デモクラトーゥラ」は国民の資産をかすめとって私物化し、さらに「強奪化」し、経済を混乱の極に陥れている。彼らを国際資本が助けている。
 今日の大方の論者は、ソ連邦の崩壊をもって社会主義思想一般までも有効さを喪失したかのように喧伝しているが、レーニンとトロツキイは、ソヴィエト国家を社会主義をめざすべき政体と見なし、その意味で「社会主義的」政体と呼んでいたものの、マルクス主義的意味での本来的な社会主義体制であると断定的に名指ししたことはないのだ。
 アメリカ型資本主義が勝利した。ソ連型社会主義は敗北した。マルクス主義なんて前世紀の遺物だ。そんな通説がいま根本的に疑われているのは確かです。なにしろ、アメリカ型資本の基盤の弱さには定評があります。その典型的例が治安の悪さです。人々が安心して暮らすこともできない社会にしておきながら、世界の憲兵として全世界を支配しようなんて、虫が良すぎます。
 マルクス主義の復権がなるかどうかは別として、政治の光はもっと弱者保護に向かうべきだと私はつくづく思います。ところが、安倍政権の高官が先日、格差を云々することは社会主義をもとめているようなものだと強弁しました。現代日本で格差が加速度的に拡大しているのは現実です。その格差縮小を目ざすのが社会主義だというのなら、日本は社会主義を目ざすべきだということになります。

2007年2月 7日

小泉の勝利、メディアの敗北

著者:上杉 隆、出版社:草思社
 小泉純一郎が首相になったときの内閣支持率は80%。5年たって辞めたときの支持率は60%近かった。なんという馬鹿げた現象だろうか。自民党ではなく、日本社会を徹底して破壊した男に対して、日本人がこんなにまで高く評価するとは・・・。
 この本は、小泉政権発足を支えた功労者でもある田中眞紀子の虚像を暴くところから始まります。
 眞紀子の実母への冷たい仕打ち、秘書や身近な者に対する冷酷さ。弱者に光をあてる福祉の実現を目ざすと眞紀子が言うとき、その言葉はむなしい。しかし、その虚像を知りながら、マスコミは眞紀子を天まで高く持ち上げてきたし、今も持ち上げています。その罪はまことに重大です。
 小泉のメディア戦略は、首席秘書官の飯島勲によって立てられた。活字よりテレビ、一般紙より週刊誌。一般紙にちょこっと書かれるよりも、スポーツ新聞にドーンと書かれたい。
 テレビは政治劇場と化していた。ワイドショーなどの情報番組は、特異なキャラクターをもつ政治家を頻繁に取りあげ、主に主婦層をターゲットに昼間の視聴率を競っていた。
 役者はそろっていた。小泉純一郎、田中眞紀子、塩川正十郎、竹中平蔵の言動が連日テレビにのって伝えられた。司会者やコメンテーターは、彼らは政治を分かりやすくしてくれた立役者として高く評価し、くり返し、その映像を流した。
 本当にこんなことでいいのでしょうか。この本は「メディアの敗北」といっていますが、私はメディアは「敗北」したのではなく、小泉と一緒になって国民を欺した共犯者だと考えています。視聴率至上主義で、世の中がどうなろうと自分たちの知ったことじゃないと無責任に走ったのです。「敗北」なんて、きれいごとですませてほしくはありません。
 テレビには陥穽がある。画面に流れる番組の大半は事前に録画されたものであり、番組制作者の恣意がたやすく入ってしまう余地がある。都合のいい場面やコメントを切りとり、視聴者の求めていると思われる番組づくりを繰り返す。
 テレビに限らず、実は、日本のメディアにはタブーが多く存在する。
 暴力団、芸能界の腐敗、電通、皇室など。私は、ほかにもまだたくさんのタブーがあると考えています。
 日本のメディアは、自己規制によって自らタブーをつくっている。
 2005年夏の郵政解散・総選挙について、著者は、それをジャーナリズムにとっての「敗北の墓碑」だと断言する。メディアは、小泉の欺瞞を暴き、視聴者や読者の前に提示し、選挙中に選択の材料として提供することができなかった。つまり、権力監視というジャーナリズムの最大の仕事を全うできなかった。
 この本で救われるのは、著者がこうやって反省しているのを知ることができることです。しかし、この反省は決してジャーナリズム一般に共通しているとは思われません。悲しいことです。いままた安倍首相の憲法改正論を当然のことのようにマスコミはたれ流しているではありませんか・・・。

2007年2月 2日

ケータイの未来

著者:夏野 剛、出版社:ダイヤモンド社
 おサイフケータイをカギとして利用する分譲マンションが福岡市にある。カギとして利用するほか、電子メールをつかった合鍵新規発行、帰宅をメールで知らせる解錠通知、カギのかけ忘れを確認する、入退室履歴を参照する、などなどができるすぐれものだ。
 先日の新聞に日本のケータイ・メーカーは中国市場から撤退したとのことです。欧米のメーカーに負けてしまったのです。ところが、日本のケータイは世界のなかで抜群に質が高いというのです。機能や商品としての完成度が格段に違うそうです。それでも欧米のメーカーに安さで負けてしまいました。世の中、むずかしいですね。この原因は日本人のプレゼン能力のなさだけではないでしょう・・・。
 おサイフケータイは、クレジット産業との一層の提携を考えているようです。月1万円以下ならドコモが与信する。そのほか、20万円以上のクレジット・カードとも結びつける。
 ドコモは5兆円、KDDIが3兆円、ボーダフォンも1兆5千億円。日本のケータイ事業者は、いずれも1兆円企業。3社あわせて10兆円近い売上げがありながら、経済界のリーダーにはなりえていない。
 私のケータイが目覚ましにもつかえるというのを最近知りました。そして、この本によると、人間の耳には音として聞こえないけれど、不快な音でない目覚ましの役目を果たす音域のものが開発されているそうです。すごーい・・・。
 先日、FAXをケータイに送ることができるということも聞きました。インターネットと結びついたIモード・ショックによってケータイの進歩はとどまるところを知りません。でも、ケータイでテレビを見たり、本を読んだりって、本当に必要なのでしょうか。私もケータイは持っていますが、カバンのなかにしまい忘れたり、一日一回もつかわなかったりという程度でしかありません。公衆電話が町になくなってしまったので、ないと困るのです。
 クライエントに私のケータイ番号を教えることもしていません。たまに突然呼び出し音が鳴るので出てみると、間違い電話だということがよくあります。

2007年2月 1日

憲法は政府に対する命令である

著者:ダグラス・ラミス、出版社:平凡社
 日弁連会館で著者の講演を初めて聞きました。まさに目が洗われる思いがしました。著者は日本語ペラペラのアメリカ人です。津田塾大学で20年間、政治学を教えていました。退職後の現在は、沖縄に住んでいます。1960年にも海兵隊員として沖縄に駐留していました。1936年の生まれです。
 著者は、日本国憲法が押しつけ憲法であることを否定するべきではないと主張します。
 憲法とは、そもそも押しつけるものである。なぜなら、憲法は政府の権力・権限を制限するものだから。民衆が立ち上がって、政府の絶対権力を奪取し、それを制度化するために憲法を制定するというのが世界各地で起きたこと。
 だから、問題は押しつけ憲法かどうか、なのではない。誰が、誰に、何を押しつけたのか、ということである。なーるほど、そういうことなんですよね・・・。
 日本を占領・支配したGHQが憲法草案をつくって日本政府に渡したとき、ホイットニーは、日本政府がすぐに案を日本の民衆に公開しなければ、GHQが公開するぞ、と脅した。GHQは、日本の民衆が必ず憲法草案を支持するという自信があった。そして、その予測は当たった。日本の民衆は日本政府への新憲法の押しつけに参加したのである。
 ところが、半年もたたずして、GHQのほうは日本の民衆を共産主義勢力ないし、そうなりやすい人々として敵意と恐怖心をもって見はじめた。そして、憲法施行してまもなくから後悔していた。
 いま、憲法9条、とりわけ9条2項が問題となっている。交戦権とは、兵士が人を殺す権利である。侵略権なるものは、現在の国際法のもとでは、そもそも存在しない。
 交戦権とは、侵略戦争をする権利ではなく、戦争自体をする根本的な権利である。交戦権は、兵士が戦場で人を殺しても殺人犯にはならないという特権だ。それは兵士個人の権利ではなく、国家の権利である。
 国家とは、正当暴力を独占(しようと)する社会組織である。
 自然権としての自衛権は、生きものに限って当てはまる。国家は生物でもなく、自然には存在しない人為的な組織である。したがって、国家が自然権の持ち主であるわけではない。自然権としての自衛権は国ではなく民衆が持っている。
 日米安保条約によって、アメリカ政府が日本国の主権の一部をアメリカへ持って帰った。日本の外交政策の基本を決める権利はアメリカ政府が握っている。
 著者は講演のなかで、日本の平和運動が安保条約反対を唱えることが少なく(小さく)なったことを不思議がっていました。なるほど、そう言われたら、たしかにそうですね。
 日本の首都にたくさんの米軍基地があり、沖縄は基地の中に点々と町があって、日本人が住んでいるといった感じです。世界で何か紛争が起きるたびに、日本政府はアメリカ政府の指令のままに動く意志なきロボットの存在でしかありません。
 世界中の笑われ者が日本という国です。そんな国が国連の安保常任理事国をめざすというのですから、ちゃんちゃらおかしいですよ。お金があれば、国連のポストだって買えると日本の支配層は錯覚しているのでしょうね。馬鹿げた話です。
 日本の自衛隊は、軍隊の組織を持ち、軍服を着て、軍事訓練を受け、戦争のための武器をもっている。しかし、肝心の軍事行動はまったく出来ない。わけのわからない組織だ。これは歴史の産物である。これは、日本政府と日本民衆の平和勢力との矛盾なのである。しかし、このような矛盾した状況ではあるが、憲法ができてから現在までの60年間、日本の交戦権の下で、一人の人間も殺されたことはない、という事実がある。すなわち、一見すると死んだように見える憲法9条は、すっとこどっこい生きているということだ。
 大変わかりやすく、日本国憲法がいかに今の世の中に必要なものか、アメリカ人が日本語で語った本です。一読を強くおすすめします。

2007年1月30日

小泉官邸秘録

著者:飯島 勲、出版社:日本経済新聞社
 小泉政治の自慢話が延々と書かれている本です。そこには弱者を冷酷に切り捨てていく政治についての反省がまったくなく、政治とはパワーバランスで動くゲームだというトーンで貫かれています。読んでいくうちに次第に腹が立つ本です。
 腹が立つくらいなら読まなきゃいいだろ。そう思う人もいるかもしれませんが、私は欺す側のテクニックと詐欺師集団の心理と構造に関心がありますので、読まないわけにはいきません。商品先物取引の欺しの手口については、その刑事・民事の証言調書をもとに本を書いたこともあります。
 小泉の劇場型政治に多くの日本人がまんまと欺されたことは明らかな事実です。小泉純一郎が首相になったときの支持率が92%、5年後に辞めたときでも63%という驚くべき高率をたもっていました。なんて日本人はお人好しで、欺されやすいのでしょうか。
 郵政民営化を争点とした総選挙のとき、小泉純一郎は、身近な郵便局がなくなることはありませんと断言していました。ところが民営化された郵政公社は特定郵便局の多くを廃止する方針をうち出しているのです。じいちゃん、ばあちゃんが歩いて通える身近な郵便局が廃止されたら、どんなに困ることでしょう。
 いったい政治は何のためにあるのか。政治家の役割は強い者をますます強くするためにあるのか。この本は、そんな根本的な疑問に真っ向からこたえようとしてはいません。
 小泉のメディア戦略は抜群の効果をあげました。著者は次のように語っています。
 総理の「ぶら下がり取材」というものがある。総理が官邸に戻ってきて、歩きながらマイクを向け総理のコメントを取るというもの。このぶら下がり取材のやり方を変えた。昼は主に新聞を念頭に置いたカメラなしのぶら下がり取材とし、夕方はテレビで映像が流れることを念頭に置いたカメラ入りのぶら下がり取材とした。一言でメディア対応といっても、メディアの特性、役割に応じてやる必要がある。
 小泉は、このテレビ向けのワンフレーズを決め手にしていました。この表面だけを見て、多くの日本人がコロッと欺されてしまったわけです。
 小泉内閣のメルマガには何億円もつぎこんだようです。百数十万人の読者がいたといいますから、怖いですね。いったい私のこのブログは何人に読まれているのでしょうか。
 小泉はマスコミの論説委員や編集委員を招いてじっくり懇談する機会をつくり、また、ラジオで毎月1日10分間、直接、国民に語りかけるという番組ももっていた。
 メディア操作によって小泉の虚像はどんどん大きくなっていったわけです。
 私も、小泉は二つだけはいいことをしたと高く評価しています。一つは、ハンセン病裁判で控訴を断念し、ハンセン病元患者に対して直接、首相とした公式に謝罪したことです。これはやはり英断です。もう一つは、とかくの評価はありますが、北朝鮮に乗りこみ金正日と会談して、拉致されていた人々を日本へ連れ帰ってきたことです。後者のほうはまだまだ拉致被害者が他にいるのは確実なので、解決ずみというわけではありませんが、ともかく大きな一歩(成果)をあげたと私は理解しています。
 小泉政治の5年間で、日本はガタガタにされてしまいました。歴史上の最悪首相ナンバーワンだと私は思います。勝ち組優先、負け組切り捨て、お年寄りや貧乏人に対して早く死ねとばかりに冷たく路上につき離し、トヨタやキャノンのような大企業が世界的に活躍できるようにしていきました。福井俊彦日銀総裁のように嘘つきで自分と身のまわりの大金持ちのことしか考えないような人々を優遇して、日本人の倫理感を地に墜ちさせてしまいました。
 著者には、そんな弱者いじめをしたという心の痛みはカケラもないようです。でも、そのうち足腰が立たなくたったとき、きっと後悔することでしょう。ただ、そのときにはもう手遅れなのですが・・・。
 安倍首相が7月の参院選は憲法改正の是非を争点とすると言っています。そのこと自体は大賛成です。ただ、憲法のどこを、なぜ変えようというのか、変えたらどうなるのか、本質的な点が国民によく分かるようになったうえで国民が選択できるようにすべきです。もっとも、これにはマスコミの責任も重大ですよね。私たち国民も、小泉とその亜流の政治家から何度も欺されないようにしたいものです。

2007年1月29日

子どもが見ている背中

著者:野田正彰、出版社:岩波書店
 現代日本、とりわけ日本の教育行政に対する悲痛な叫びとも思える告発の書です。読みながら、思わず背中を伸ばし、居ずまいを正しました。著者の真摯な態度に対して心から敬意を表します。それにしても、日本の教育って、こんなにまで地に墜ちているのですね。
 教育基本法がついに改正(改悪というべきでしょうが・・・)されてしまいました。教育を国家が統制する。個人の伸びやかな個性を殺いでしまう日本の教育を助長する方向です。悲しいことです。
 それにしても、教師をこんなにも統制して、どうしようっていうんでしょうね。広島の民間校長の自殺を追跡した第2章を読んで、さすがの私も大いなるショックを受けてしまいました。
 その小学校では、教頭(51歳)が2002年5月10日、過労のため脳内出血で倒れました。次の後任の教頭(47歳)が2003年2月14日、心筋梗塞で倒れました。夜12時まで仕事をし、パーキングで仮眠をとって夜中の2時に帰宅し、朝5時には家を出るという生活をしていたそうです。
 そして校長です。2003年3月9日に勤務先の小学校で自殺しました。毎晩、夜10時、11時に家に帰る忙しさでした。精神科に通院するようになっていました。教育委員会に何をいっても、甘いと言われる。死ぬまで働けということだね、と家人にこぼしていました。
 民間出身の校長としてマスコミにも報道されていた人です。自らすすんで希望して校長になったとばかり思っていましたが、実はそうではなかったようです。31年間つとめた広島銀行から校長職に推薦されたのです。56歳の副支店長で、リストラの対象者だったのです。自宅から通勤できる、小規模の問題のない学校を希望していました。当然のことでしょう。経験がないわけですから。ところが車で90分かかる、大規模校を押しつけられてしまいました。学校文化がまったく分からないまま苛酷な教育現場に押しこまれたわけです。そして、早く成果を出せと駆り立てられ、必要な急速もとれず、治療も十分に受けられませんでした。これでは、自殺したというより、教育行政に殺されたとしか言いようがありません。
 京都の中学校の通知票が15頁もあり、評価項目が272項目にのぼることを知って、腰が抜けそうなほど驚いてしまいました。教師がそんなに1人1人の生徒を評価することができるのでしょうか。また、そんなに細かく評価する意味があるのでしょうか。
 教師たちが自律した人として考えることを侮蔑され、させられる教師になっているとき、生徒たちも同じ状況にある。まことにそのとおりだろうと私も思います。
 都立高校で「日の丸」への起立強制と「君が代」斉唱強制がなされていることについて、東京地裁は2006年9月21日、違憲判決を下しました。私もこの判決を支持します。愛国心の押しつけが逆効果であると同じです。「日の丸」も「君が代」も押しつけられて尊重する気になんか、とてもなれません。今、学校以外で「日の丸」を見ることはありません。「君が代」斉唱なんて、馬鹿馬鹿しくて、私は何十年もしたことがありません。なんで今どき、天皇の御代がずっと栄えてほしいなんて歌わせるのでしょう。冗談じゃありません。
 何ごとによらず押しつけが効果をあげることはないのです。もっと教師の自由にまかせたらよいのです。前にフィンランドの教育を紹介しましたが、生徒も教師も学校でのびのびと過ごし、落ちこぼれをなくす教育が、国全体のレベルアップにつながっているという現実を日本人も直視すべきです。

2007年1月26日

新世代富裕層の研究

著者:野村総合研究所、出版社:東洋経済新報社
 お金持ちとは、年収1億円以上を2年以上にわたって手にしている人。
 世帯年収2000万円以上を稼いでいる人たちを富裕層という。
 年収1500万円以上をパワーリッチ、年収750万円〜1500万円をプチリッチという。
 シティグループでは、純資産が3億円以上で、運用できる金融資産が1億円以上の人についてプライベートバンクの顧客として厚遇する。
 みずほフィナンシャルグループは、預かり資産5億円以上の顧客について、プライベートバンキングでサービスを提供する。
 野村證券は、最低契約金額3億円で、サービス優遇する。
 このように、自由に動かせる金融資産が億の単位の人が顧客として優遇され、それ以下の人は「ゴミ」扱いされるのです。これは昔からそうでしたが、今はあからさまに差別されるのが昔と違うところです。だから今では両替手数料まで取るのです。
 メリルリンチの調査によると、日本には金融資産100万ドル(1億円)以上という富裕層の基準をみたす層が全国に40〜60万世帯あり、そのうち70%が首都圏、大阪、名古屋、福岡に集中している。
 金融資産が1億〜5億円の富裕層マーケットの規模は2005年時点で167兆円、81万世帯である。2003年から拡大基調になっている。今後、団塊世代のリタイア、少子高齢化にともなう遺産相続の増加によって、金融資産5億円以上の超富裕層よりも、1億〜5億円の富裕層が増えていくと思われる。
 富裕層には銀行や証券・投資会社への不信感が根強い。手数料にも敏感であり、ほとんどの人が毎日インターネットを見て学んでいる。
 野村総研がこのような本を出したということは、この富裕層を狙った商売のノウハウを広めようということなのでしょう。
 日本が勝ち組と負け組に二分化していっている今、勝ち組にたかって、そこから吸い上げて自分の生活をまともなものにしようと叫びかけている本のような気がします。
 同じ団塊世代のみなさん、銀行や証券会社の甘い言葉にのせられないよう、お互いに気をつけましょうね。

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