弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

社会

2008年9月 3日

超巨大旅客機エアバス380

著者:杉浦一機、出版社:平凡社新書
 空港に行くたびに自分の乗る飛行機に乗りこもうとする乗客の多さに驚きます。こんなにたくさんの乗客を乗せて、こんなに大きい飛行機がよくも空を飛べるものだと呆れてしまうほどです。
 そんな不信から、私のよく知る弁護士に飛行機に乗らない主義を貫徹している人がいます。でも、そうは言っても、東京に行くのに新幹線とか夜行寝台列車というわけにはいきません。坂本九ちゃんが乗っていた日航ジャンボ機の墜落事故の原因は真相が解明されたとは今も私は信じていませんが、とりあえずJALやANAを信頼して乗っています。でも、格安飛行機にだけは絶対に乗りたくありません。整備を本当に手抜きしていないのか不安でならないからです。
 昨今はエコノミークラスの運賃は安売りが激しく、利益幅が薄い。エコノミー客15〜16人を運んで、ようやくビジネス客1人の利益に相当する。そのため、国際線の標準的な収益構造は、エコノミー客で採算をとり、上位クラス客で利益を出す形になっている。したがって、ファーストやビジネスクラス客の集客に懸命になっている。
 JALもANAも、収容人数は多いものの燃料消費も多いジャンボ機(3クラス標準で416席)を長距離線からはずし、経済性のよい双発機のB777(3クラス標準で365席)に切り替えている。その結果、定員は1便あたり50人前後も減るが、燃料消費が少なく効率が良いため、利益は2倍にもなる。もちろん、減らされるのはエコノミー席で、利益重視からエコノミー客が切り捨てられつつある。
 ビジネスクラスに若い日本人女性が乗っているのをよく見かけます。よほど裕福な家庭なんでしょうね。若いうちはエコノミー席で苦労した方がいいと思うんですが・・・。
 地上では通常の機体も高空では膨張し、膨張と就職を繰り返すことによって金属は早く疲労し、クラック(亀裂)の原因となる。
 複合材が重量の3割に使用されているエアバス380は、最大旅客数853人で自重は274トン。収容客数は5.92倍に増加しているのに、自重は4.57倍にとどまっている。
 チタンは、重さがアルミの1.76倍、鉄の6割ながら、強度はアルミの6倍、鉄の2倍ある。毎年、世界で生産されるチタン9万トンの3分の2は航空機産業で消費される。ジャンボ機のエンジンには、4基合計で4.5トンものチタン(合金をふくむ)が使われている。ちなみに、日本は世界のチタンの3分の1を生産している。
 800人以上もの乗客と大量の貨物を載せ、560トンもの重量で離陸する巨大な機体を、わずか2人のパイロットで操縦するのは驚きだ。これには操縦装置の自動化、電子化技術が大いに貢献している。
 1927年のリンドバーグの初の大西洋横断飛行のときには、33時間29分のあいだ片時も操縦桿から手を離せなかった。いやあ、まさに超人的なことですよね。
 人間が生活するのに快適な湿度は40〜50%だが、現在の機内はなるべく乾燥させている。湿気によって配管に結露したり、機体や部品が錆びることを防ぐためだ。そのため、現在の機内はサハラ砂漠よりも乾燥した6〜8%の湿度になっている。乗客の身体からは、1時間に80cc(11.5時間で1リットル)もの水分が奪われる。
 A380では、湿度を12〜15%に高めることになっている。水分不足がもたらすエコノミー症候群の予防には効果がありそうだ。
 ちなみに、現行の機種でも、3〜4分ごとに新鮮な空気に入れ替わっている。
 A380をJALが採用する目はなく、可能性があるのはANAのみ。JALはボーイングから逃れられないようです。
 飛行機によく乗る私からすれば、いろんなサービスがありましたが、何よりのサービスは絶対安全です。どんなことがあっても落っこちないこと、それだけです。これをくれぐれも飛行機会社にはお願いします。安かろう悪かろう、整備は手抜きというのでは困るのです。その面の規制緩和はぜひやめて下さい。
(2008年3月刊。760円+税)

2008年9月 2日

あなたも作家になれる

著者:高橋一清、出版社:KKベストセラーズ
 タイトルに強く魅かれて即購入し、いの一番で最優先課題図書として、2回の昼食時に読みふけりました。だって、つい身近な先輩弁護士から、「あんたは、まったく文才がないねえ」と決めつけられてしまったのですよ。なんと失礼な、今にみていろ、ボクだって・・・。すごく反発したものでした。その怒りをバネに、これからもがんばってせっせと書いていきます。
 著者は長年、芥川賞と直木賞の選考委員会の受賞を知らせる仕事をしていました。正確には、財団法人日本文学振興会の理事・事務局長でした。1996年7月から2001年1月までのことです。
 土日に必死で書く「土日作家」ほど、生活のための正業にはちゃんと向かいあっているものだ。小説創作のために、正業の方は金曜まで何が何でも片付けでおかなければならない。副業で小説を書いているような人こそ、本業もたいへん充実していて、また、小説でも成功している例も多かった。
 だいたい1週間くらいで区切りをつけて繰り返すのが健康にかなっているようで、それが長続きさせるコツでもあった。
 松本清張は、1日に3時間、絶対に電話にでない時間をつくっていた。その間、読書をしていた。旺盛な執筆をしている作家ほど、読書をしていた。
 小学校・中学校の教師が作家になるのはごく少ない。高校の先生からやっと多くなっていく。「日常の授業でつかっている言葉と小説の言葉にあいだに、あまりにも差があるので、小説を書くのが辛い、難しい」と言う。
 新聞記事のように情感をこめた表現をしない仕事をずっとしていると、自分の情感をさらすような文芸作品には、なかなか入っていきづらくなる。
 小説では、「おおむね天気は良好だった」の「おおむね」を自分なりにどのように描写するのかが勝負となってくる。「おおむね」では非常に通りいっぺんの表現でしかない。
 具体的な言葉のもちあわせは作家の読書量と正比例する。私は、「ひよめき」という言葉を知りませんでした。赤ん坊の頭のてっぺんにある、息を吐き吸いするたびに、ひよひよと柔らかく揺れるあたりを指した言葉だそうです。いやあ、世の中、知らない言葉って、ホント多いんですよね。
 書いてもどうせ分からないから、と読者をなめ、作家まで貧弱になってしまってはいけない。うーん、そうなんですよね。
 もてる男の作品はつまらない。ただそこにいるだけでもてる男に、どうして面白い小説が書けようか。ふむふむ、なるほど、そうだったのか。私の書いたものがつまらないのは、もてる男だからなのか、とつい一人納得したことでした(ハハハ、しゅん)。
 作家にとって、世の中無駄なものは何ひとつない。小説は35歳からの仕事だ。
 エンタテイメント小説は、私の知らないことが書いてあると読者を喜ばせるのが仕事だ。芥川賞や純文学は、今日を生きている者の愛と苦悩を書き、まるで私のことが書いてあるみたいと読者を共感させ喜ばせてほしいジャンルだ。
 小説は感性に訴えて、読者を喜ばせ泣かせるものだ。
 多くの作家がペンネームを用いているのは、親がつけた名前とは違う名前を名乗ることによって、自分ではない何ものかになり、存分に筆をふるうためなのだ。いやあ、これは本当にそうなんです。私もこのブログをペンネームで書いていますが、実名では書きにくいことも気軽に書けるからです。また、現実の私を知る人でも、一瞬、抵抗なく読めるだろうという気配りでもあります。
 いろんな賞を選考する側の内情が紹介されています。たくさんの原稿をひたすら読み続けるのも大変だろうなと、つい同情してしまいました。どんな本でも出だしが大切だし、決して出し惜しみしてはいけないというのも肝に銘じました。
 明日死ぬかもしれないのに、これを書いたら自分は終わりだ。私のすべてだ。書き終わったら死んでもいい。明日がなくてもいい。それくらいの気持ちで取り組んでほしい。そのときに発生したものは、そのときに書いておかないと、次も出てこない。全部つかい切って器がカラになる。すると、また新しいものが器にたまる。そんなものだ。
 いえ、私も実際、いま書いているものについてはそんな思いに何度もかられました。これを書き終わってしまったら、自分はあと何もすることがないんじゃないかなって、・・・。でも、今は、そうは思っていません。書いたものを手直しして、もう一度、書き直し、今度は文庫本として世の中に送り出すことを夢見ています。もう少しストーリーを完全にしたいと思うのです。そんな夢をもっています。
 小説は書きこみ過ぎるより、少ないほうがいい。小説の読者は、想像する喜びを楽しんでいるのだ。
 一生懸命に生きていると、いろいろなことが見えてくる。要は、あなた自身がいかに日々を見つめているかだ。つまり、毎日を一生懸命に生きているかなのだ。
 自分のなかのもう一人の自分に気づいたとき、書ける材料が小説に生まれ変わる。
 もう一人の自分とは、かくありたい、こういう自分であってみたいという、今の自分をどこかで否定するような他者だ。今の自分はいつわりではないか、どこか違っているんじゃないか、そう感じてしまうところがあるのが作家だろう。
 できれば見ないほうがよかったもの、鈍感にやり過ごせばよかったもの、感じないほうがよかったもの、そういうものが日常の中には無数にある。それから逃げないことが、まず書きはじめるための条件だ。作家が小説や随想を書けるのは、絶えず関心をもって周囲の景色や出来事を見ているからだ。そういう心がけで暮らしていると、毎日が濃密で充実したものとなる。文章を書くことを覚えると、そういう生活ができる。
 うむむ、ますます私もモノカキから作家に昇格したいと思いました。
 自分が、私こそが全知全能の神だと信じて書くこと。世界でいちばん上手な小説書きは自分だ。このうぬぼれを支えにして書きすすめ、最後まで書き切ること。
 そうなんです。あんたはまるで文才がないなんて、とんでもない誹謗中傷です。そんなことを言う人間を気にすることなく、あとで見返してやればいいのです。
 いやはや、作家になるのがいかに大変な仕事なのか、つくづく分かりました。それでも私はモノカキ転じて作家になるのを目ざします。だって夢のない人生って、つまらないでしょ。
(2008年6月刊。1429円+税)

2008年8月27日

本を読む本

著者:M・J・アドラー、C・V・ドーレン、出版社:講談社学術文庫
 私は、なんといっても速読派です。だって、読みたい本がいつも目の前に山のようにありますし、少しでもたくさんの本を読みたいのです。もちろん、あたらないこともあります。でも、ときに大あたりする本に出会うこともあるのです。ですから速読・多読はやめられません、とまりません。
 読書には、情報を得るための読書と、理解を深めるための読書とがある。目的が二つあるのだから、読みかたにも当然二とおりあってもよい。
 私は、理解を深めるというより、その情緒にどっぷり浸って、心をいやす読書もあると思うのですが、いかがでしょうか。たとえば、絵本やファンタジーです。日常生活のわずらわしさから、ひととき脱出できるという効用は、きわめて大きいものがあります。
 小説は一気に読むもの。速く読み、作品に没入して読みふける。没入するとは、文学に身も心もゆだね、作品がはたらきかけるままにまかせること。自分が作中人物になりきって、どんな出来事も素直に受け入れてしまう。速く読まないと、物語の統一性が見失われやすい。集中して読まないと、細部が目に入らない。
 本を読むには規則がある。難解な本にはじめて取り組むときには、とにかく読み通すことだけをこころがける。すぐには理解できないところがあっても、考えこんだり、語句の調べに手間をかけず、ともかく前へ進んでいく。
 理想なのは、ただ速く読めるようになるだけでなく、さまざまな速度の読みかたが出来ること、場合に応じて違った速度で読めることだ。
 本に書きこみをすることは読書に欠かせない。行間に書くことをしないと、効果的な読書はのぞめない。私は、赤エンピツでアンダーラインをひきます。ですから、上着のポケットに赤エンピツは欠かせません。
 読書は著者と読者の対話でなければならい。本を読むというのは、一種の対話である。最後の判断を下すのは、実は読者である。本が読者に向かって語り、読者は本に語り返す。
 著者との対話から得る唯一の利益は、相手から何かを学ぶこと。読書の成功は、知識を得ることにある。
 物語を読むときは、物語が心に働きかけるにまかせ、またそれに応じて心が動かされるままにしておかなくてはいけない。つまり、作品に対して無防備で対するのだ。
 作品の好ききらいを言う前に、読者は、まずは作品を誠実に味わうよう努力しなければいけない。
 小説は人生のようなもの。実人生で起きる出来事が、すべて明瞭に理解できるとは、我々も思っていない。ただ、過去としてふり返ったとき、はじめて理解できる。
 楽に読める本ばかりを読んでいたのでは、読者は成長しない。自分の力以上に難解な本に取り組まなければならない。そんな本こそ読者の心を広く豊にしてくれる。心が豊かにならなければ、学んだとは言えない。
 人間の精神には一つの不思議なはたらきがある。それは、どこまでも成長しつづけること。肉体にはさまざまの限界がある。しかし、精神に限界はない。この精神もつかわないと萎縮してしまう。それは精神の死滅を意味する。自分のなかに精神的な貯えのない人は思考することをまったくやめ、やがて死が始まる。
 テレビやラジオなどの外からの刺激に反応していると、自分の精神も活動しているような錯覚に陥る。だが、外部からの刺激は麻薬と同じで、やがて効力を失い、人間の精神を麻痺させてしまう。私は映画はみますが、テレビは見ませんし、ラジオを聞くこともほとんどありません。世の中の情報は新聞・雑誌という活字からにしています。それで不自由を感じることはありません。
 すぐれた読書とは、我々を励まし、どこまでも成長させてくれるものである。
 いやあ、実にいいことを言っている本です。多読・乱読派の私が日ごろ思っていることをズバリと言い切ってくれた本に出会い、心地よいひとときを味わうことができました。
 久しぶりにサボテンを整理しました。しばらく留守にしていたあいだに親サボテンがいくつか枯れてしまいました。代替わりの時期でしたので仕方がありません。別の親サボテンにくっついていた子サボテンを火バサミでもぎとって地面におろしてやりました。我が家のサボテンは、もう10代以上になるのではないかと思います。手のひらサイズの可愛い姿です。これまであちこち知人にもらってもらいましたが、みんな無事に育っているかしらん。
(1997年10月刊。900円+税)

2008年8月25日

バカ親って言うな

著者:尾木直樹、出版社:角川ワンテーマ21新書
 いま問題のモンスターペアレントの謎に挑んだ問題提起の本です。
 小学校の教師が相次いで自殺する事件が起き、その背景にモンスターペアレントがいると指摘される社会の現実があります。いったい何が学校と家庭に起きているのか?
 モンスターペアレントとよばれる保護者が増えてきたのは古いことではなく、2000年代に入ってからのこと。かつては、クレーマー親とよばれていた。クレーマーについては、権利主張タイプと不正糾弾タイプの2つがあり、その主張には理解できるところがあった。ところが、いまや、ある保護者が何かのクレームをつけてきたときには、その正当性があるか否によらず、ほかの保護者がクレーマーの意見に同調して学校や教師を非難するケースが増えている。
 モンスターペアレントが学校や教師に突きつけてくる無理難題には想像を絶するものがあり、どんな場面で何を言い出すのか、まったく予想できない。
 モンスターペアレントの5つのタイプ。
1 我が子中心型
2 ネグレクト(育児放棄)型
3 ノーモラル型
  深夜でも早朝でも、教師に電話をかける。教師からお金を借りようとする。
4 学校依存型
  毎朝、子どもを起こしに家へ来てほしい。体操着は学校で洗ってほしい。こんなことを教師に要求する。
5 権利主張型
 このほか、なんでも「いじめ」にしたがるモンスター、お節介モンスター、子どもの言うことのみ信じるモンスター、文書でクレームをつけてくるモンスター、凶器で脅したり、暴力団をちらつかせてくる暴力・恐喝モンスター。そして、一見すると常識的な人が想像を絶する非常識な脅しをかけるケースが増えている。
 子どもの学力が世界一のフィンランドでは、自分のつきたい仕事に教師がずっと第一位を占めている。教員養成大学の倍率も10倍を切ったことがない。ところが、日本では 2000年度は4倍にまで下がった。うへーっ、これは困りましたね、今の大分の汚職事件は全国どこにでもあることで、氷山の一角にすぎないと思いますが、これでは日本という国の将来はありません。道路や橋など、ゼネコンと自民党政治家のための大型公共事業にばかりお金をつぎこみ、人材養成のお金を削ってきた日本政治の積年の誤りが今になって劇的な形であらわれています。
 格差社会の進行とモンスターペアレントの急増と見事に一致している。というのは、格差社会は地域の人々の連帯意識を破壊し、一人ひとりが地域の中で攻撃的な生活を営んでいるからである。今は、地域の人的なつながりのなかで大人として、親として成長していくことが困難になっている。
 学校を単なるサービス機関としてみる風潮が強まっている。保護者にとって、学校はデパートと変わらない存在になった。
 うひゃー、ま、まさか、と思いました。この指摘こそ、この本のなかで私がもっともショックを受けたところです。
 学校を「託児所」か「なんでも屋」のように考えている保護者がいる。「過剰サービス」を受けるのに慣れた人は、自分の要望はおよそ通るものだという感覚をもっている。そして、今の学校は、保護者にとって商品と変わらない存在になっている。
 そのうえ、マスコミの報道による「後押し」があって、教員はバッシングしていい存在だというムードがある。
 社会全体にストレスがみちみちているので、日頃からストレスをためている人間にとって、好き勝手な要望を押しつけられる相手がいたら、その絶好のはけ口となる。相手に言いたい放題いって、うさ晴らしができる。しかも、教師は基本的に反撃してこない人種だという安心感がある。最初の一歩さえ踏み出してしまうと、その後の攻撃は、とくに過激になりやすい。
 しかも、攻撃される教師をフォローしてくれる存在がいなくなった。校長や教頭は「穏便にすませるように」としか言わないように変質してしまった。
 親自身が幼い。大人として自立していない。
 モンスターペアレント問題は、単に学校内の問題ではなく、日本社会全体の危機を象徴する問題である。今や教育の世界は流動化し、見事に二極化しつつある。平和で安定し、みんな仲良く、みんな平等という、かつての学校理念から、階層化というもっとも激しい津波が押し寄せる流動的世界へと一変した。財力と学力によって、勝ち組にも負け組にもニートにもなれる時代である。
 日本の心であった相互扶助の精神や他者への優しいまなざし、思いやり、心づかいなど、モラルと品格そのものをメルトダウンさせてしまった。
 教育の市場化は、そのまま日本的品格やモラルの崩壊に直結している。競争と結果責任を取ることを突きつけられたら、誰でも他者にはかまっていられず、厳しい姿勢で生きるように変化してしまう。今や誰でもがモンスターペアレント化するような日本になってしまった。病んだ日本社会が生んだモンスターペアレントです。金もうけと経済効率最優先の御手洗・日本経団連ばりの政策を見直すときです。決して遅すぎることはありません。
 南フランスのエクサンプロヴァンスに行ってきました。ここは私がまだ40歳前半のころ、3週間滞在したことのある町です。外国人向けフランス語集中講座を受講したのでした。大学の寮に寝泊まりしながら、午前中は授業を受け、午後からはミラボー大通りをぶらぶら散策したり、映画をみたりしていました。ここからセザンヌのよく描いたサント・ヴィクトワール山がよく見えます。
(2008年4月刊。686円+税)

2008年8月22日

すてきな田舎、元気なふる里

著者:田中勝己、出版社:かもがわ出版
 読んでいると、なんだかふんわりあったかくなってきて、元気の出てくる本です。残念ながら、私は木曽町にまだ一度も行ったことがありません。この本によると、町おこしに成功した、なかなかいい町のようです。私も、ぜひ一度いってみたいと思います。
 木曽町は、日本で最も美しい村連合に加盟しています。この連合はフランスにあるものを日本に取りいれたものです。田舎だって、いえ、田舎にこそ美しい自然・文化風景はあると主張し、都会に住む人々にそれを再認識してもらおうという取り組みです。
 木曽町は音楽祭にも取り組んでいます。日本のトップレベルの演奏家が集まり、1週間のあいだ続きます。第1回は1975年ですから、もう33年にもなります。
 そして木曽馬の保存会があります。馬に乗って登山するという試みもなされているそうです。西欧から入ってきたサラブレッドではなく、日本古来の丈夫な馬です。馬というと、今の私たちは競馬場に登場するサラブレッドを思いますが、日本古来の馬は、日本人と同じで、ずんぐりむっくりの体型をしていたようです。
 そして、木曽は、あの木曾義仲と巴御前の出身地でもあります。義仲は31歳で亡くなったので、1年間のテレビ・ドラマは無理とのこと。いやあ、そういうことなんですね・・・。
 さらに、木曽福島町は世界のケータイの3割、そしてターボエンジンの9割を生産している町でもある。ひぇーっ、そ、そうなんですか・・・。
 著者は30歳のとき、木曽町の町会議員に当選(日本共産党)し、その後、30年間にわたって町議をつとめた。町長選に出馬することになったのも、他に適任者がいなかったことによる。運動期間が短かったのに、現職を負かしての当選だった。
 町長として、オウム真理教と生命をかけてたたかい、勝利しました。そして、町づくりに町民の知恵と力を吸い上げていく様子は、読んで、すがすがしさを覚えます。
 この本は、町長が職員向けに「町長ほんねとーく」を書いていたのをまとめたものです。大変よみやすい内容で、さらっと読めますが、同時に、大変こくのある内容でもあります。
 著者は、いま町長2期目、70歳を過ぎて元気にご活躍のようです。今後とも、さらに町づくりにがんばってくださいね。大いに期待しています。
 ニースからバスに乗って1時間かけてサン・ポールという町へ行きました。小さな丘全体がお城みたいに古い建物でぎっしり埋まっています。まるで古代の空中都市です。宮崎駿監督のアニメ映画でも見ている気分になりました。古い中世時代の建物がそっくり残っていて、それが観光客を誘引しているのです。日本でも、そういう発想がもっと大切にされたらいいと思いました。おじさん、おばさんの5人ほどが広場でペタンクに興じていました。カフェーでコーヒーを飲みながら、しばし眺めたことでした。
(2008年4月刊。1700円+税)

2008年8月21日

小林多喜二、時代への挑戦

著者:不破哲三、出版社:新日本出版社
 小林多喜二の「蟹工船」が今、大変なブームになっているというので、私も最近よみ返してみました。大学生のとき以来のことですから、実に40年ぶりに再読したことになります。実に暗くて重たい小説です。いったい、どこに光明があるのか疑わしいほど、野蛮で不潔で、強欲の資本家の犠牲にされ、のたうちまわらされている人間像が次々に出てきます。いったい、こんな本のどこに今の若者が魅かれるのか不思議なほどです。
 でもまあ、今どきの無意味かつ無惨な街頭での凶悪犯罪の横行をみると、今の若者たちの置かれている状況が、今から80年も前に小林多喜二の描いた「蟹工船」(1929年)とよく似ているというわけです。これって、実に恐るべきことではありませんか。
 そして、今や「資本主義、万能とか万歳!」なんて誰も言わなくなり、その行き詰まりの解消策として日本共産党に目が向いているというわけです。まさしく時代は大きく動いているのですね。
 私も、大学生だったころですから、今から40年も前のことですが、貧困化に興味をもち、少しだけ勉強したことがあります。ただ、そのあと好景気が続き、さらにバブル時代にまで突入したため、誰も貧困化なんて問題にもしませんでした。ところが、今、再び現代日本で餓死者が続出するという、恐るべき絶対的貧困が問題とされています。ホント、信じられない事態ですよ。
 小林多喜二が本格的に仕事をしたのは、「1928年3月15日」を書いてから、東京の築地警察署で拷問によって生命を奪われた1933年2月までの5年間でしかない。
 「満州事変」の始まった1931年、小林多喜二はプロレタリア作家同盟の書記長となり、日本共産党に入党した。ところで、この社会民衆党や労働総同盟は満州事変が始まったとき、戦争賛成の立場をとった。満蒙は日本の生命線だという見地からである。いやあ、やっぱりそれはありませんよね。
 「蟹工船」は1929年9月、戦旗社から発行されたが、すぐに発売禁止となった。
 1930年3月に出た改訂普及版は発売禁止を免れ、3万5000部も出た。
 多喜二は「蟹工船」を植民地や未開地における搾取の典型的なものとして書いた。今日の多くの若者が、現代日本の大企業のなかに、そうした原始的で野蛮な搾取が再現していることを実感して共感しているのだろう。
 多喜二は、「蟹工船」のなかで、労働者の状態をリアルに書くと同時に、体験を通じて目覚めていく過程をも的確にとらえた。たとえば、労働者は北洋で日本の軍艦を近くに見て仕事をしていながら、その軍艦が戦争準備の活動をしていることを知らない。軍艦が接近してくると、船長の音頭に応じて無邪気に「万歳」を叫んだ。ストライキに立ち上がったときも、軍艦の接近を見て、大部分の労働者は自分たちの見方が来たと思い込む。その期待が裏切られ、帝国海軍の実態を体験するなかでことの本質が分かってくる。
 多喜二は、豊多摩刑務所に1930年8月から31年1月まで半年間ほどいて、多くの本を読むことができた。
 80年の日本と今の日本と共通するところがあるというのも少し怖いですよね。でも、今は、当時と違って平和憲法があり、労働基本権があり、合法的な革新政党や各種団体があります。大いに自由にモノを言うこともできるわけなんです。
 今の日本は80年と同じで、進歩していない、なんて思わないようにしましょうね。
(2008年7月刊。1200円+税)

2008年8月12日

スシ・エコノミー

著者:サーシャ・アイゼンバーグ、出版社:日本経済新聞出版社
 20年前、世界のどこでもマグロは見向きもされず、もっぱらペットフードの原料だった。1970年にがらっと変わった。今や、その金額は1万%も上昇し、マグロは海のダイヤモンドと言われるようになった。アメリカで定期的に寿司を食べている人は3000万人にのぼる。ひゃー、そ、そうなんですか。まさに世の中は変わりましたね。
 1970年代半ばになると、夏の日曜日の夜に大西洋で捕獲されたクロマグロが水曜日に東京でランチとしてごく普通に出されるようになった。「東京の台所」と呼ばれてきた築地市場は、寿司に関しては、「地球の台所」となった。
 今日、寿司は、日本以外でも人気の高いごちそうだ。アメリカでは、ほぼあらゆる街で寿司を味わうことができ、スーパー・マーケットの惣菜売り場では売り切れになり、野球場のスナックとしても定着している。むむ、日本と同じですね。
 築地市場での商いにのぞむ者は6万人。年間60億ドルもの水産物を動かしている。築地市場の広さは東京ドーム6つ分である(23ヘクタール)。
 マグロの良し悪しは姿形で見分ける。骨にそった盛り上がり、腹のふくらみ加減が大切。頭のすぐ下から尾に近づくにつれて腹のラインが涙の滴のような末広がりのラインを描いているマグロは、大きさの割にトロの部分が多い。トロは赤身の4倍の値がつく。
 マグロの空輸は1972年、カナダのプリンスエドワード島から始まった。
 おや、あの赤毛のアンの故郷ですね。
 日本に回転寿司店が、今3500店ある。東京に食べ物屋が30万軒あるうち、   1万5000軒が寿司屋だ。私は、回転寿司は入ったことがありません。なんだか人工ものの寿司しかない気がしてならないからです。行列のできる回転寿司まであるというのですが、私には信じられません。
 日本人が脂分の多いトロを好むようになったのは、ステーキを食べるようになってから。それまで、トロは脂っぽいという意味で、あぶと呼ばれていた。
 寿司職人の世界は、厳しい階層社会であり、厳然とした序列がある。まずは毎日の雑用をこなす。それから、ご飯を炊く。魚のうろこを取る。やがて魚を切ることが許され、ようやく寿司を握れるようになる。奉公人として修業に入って初めて魚に触れるまでに何年もかかる。うひょー、そうなんですね。3週間で寿司職人を養成する講座の授業料は40万円だそうです。
 マグロを養殖場で太らせる作業は一見したところでは割のあわないビジネスだ。マグロ一頭と大きくするためにかかるエサ代は体重1キロあたり20ドル。良質の養殖ミナミマグロに築地でつく価格は1キロ20ドル。輸送費と販売費を加えると、得るお金よりも大きい額を飼育につかっていることになる。しかし、はじめ20キロだったマグロが養殖場で60キロ体重を増やし、それから市場に出るので、割はあう。
 マグロはマイナス65度で数時間のうちに凍結される。そして、すばやく冷水に浸し、表面を氷でコーティングする。養殖マグロの総量の3分の2以上は冷凍される。
 寿司、とりわけマグロの生きた価値を伝えてくれる本でした。これからますますマグロ(とりわけトロ)を大切に味わって食べることにします。
(2008年4月刊。1900円+税)

2008年8月 7日

プロ法律家のクレーマ対応術

著者:横山雅文、出版社:PHP新書
 いま、多くの企業が一般人(暴力団など、いわゆる反社会勢力に属さない人をさします)による悪質クレーマー対応に頭を悩ませている。このごろのクレーム事案は、1年以上にわたって交渉をつづけていることも珍しくはない。
 悪質クレーマーは、あくまでフツーの人。フツーの人が病んでいるのだ。思考やロジックが極端に自己中心的である。人格障害といえることも多い。
 悪質クレーマーが増加したのには、3つの背景がある。
 その1。消費者保護保制ができて、権利意識が高まっていること。
 その2。度重なる企業不祥事と、それに対する一般社会の激烈な反応。
 その3。インターネットの普及により、一般人でも企業や行政に対する攻撃が可能となった。
 悪質クレーマーと対応させられている窓口の社員や職員は地獄におかれている。
 悪質クレーマーは、合理的な説明とか常識的な対応では納得しない。必ず堂々めぐりとなり、いつまでたっても平行線である。
 そんな悪質クレーマーに対しては、速やかに法的対応をとるべきだ。
 悪質クレーマーに対して、マニュアルにそって形式的に対応するのは危険だ。具体的ケースをもとにしたマニュアルをつくるのは重要だが、現実のケースでは固定化せず、臨機応変に更新していく工夫が求められている。
 たとえば、クレーマーに念書をとられないようにする。念書をとられたときの要因は、迫力負けによる混乱と長時間の拘束(軟禁状態)にある。
 言質をとられないためのコツは、「自分には決裁権はないが、事実調査については自分が責任者だ」ということを明確にする。そして、会う場所は不特定多数の人がいる喫茶店やファミリーレストランを指定する。クレーマー対応では、事実確認が最優先事項。
 悪質クレーマーの要求には、損害の回復とは関連性のない要求が非常に多い。
 悪質クレーマーは4つのタイプに分けられる。その1は、性格的問題クレーマー。良心の呵責(かしゃく)がなく、反省することもない彼らにたいしては、要求をキッパリ拒絶し、弁護士に交渉窓口を移管する旨の書面を郵送する。
 その2は、精神的問題クレーマー。その真の目的は、担当者との心理的密着によって、自分の心の欠損を埋めることにある。このときには、できるだけ紋切り型の言葉をつかい、型どおりの接客・対応をする。
 その3、常習的悪質クレーマー。攻撃性はなく、安易に金銭を渡したり返品に応じると、味をしめて次に何回でも登場する。そこで、クレームの事実関係を根ほり葉ほり質問していくこと。
 その4、反社会的悪質クレーマー。このときには、決して「秘密の共有」をしない。
 その1の性格的問題クレーマーは、経済的損得勘定はなく、自分の有能感を感じることが目的である。
 通知を出すときには、メールではなく、書面で郵送すること。普通郵便でもいい。そして、その通知文のなかに不当な要求行為であることを具体的に書くべきだ。
 悪質クレーマー対応の巧拙は、従業員の士気、ひいては企業の文化に影響してくる。
 話し合っていくうちに2時間たったら、辞去の言葉とともに腰を実際に上げるのが効果的だ。
 インターネット掲示板に書きこみがなされたときは、無視するのが一番。それでも無視できないときには、法的措置をとる必要がある。
 ネットの誹謗中傷に対しては、プロバイダーとネット主宰者の双方を相手方として、差止仮処分を裁判所に提出する。
 「お客様相談室」における2007年問題というのがあるのを初めて知りました。私たち団塊世代を対象とした、面白くない事態です。定年退職した団塊の世代がヒマをもてあまし、その知識と経験を生かして厄介なクレーマーになるのではないか、という予測が立てられたのです。でも、よく考えてみると、当然なのかもしれません。むしろ、団塊世代はクレーマー世代になって、最後のひとはなもふた花も咲かせるべきです。おとなし過ぎるといって、私たち団塊世代は世間から(若い人たちから)バカにされているのです。
 私よりひとまわりも下の中堅弁護士による、クレーマ対策にあたっての実際的な経験を集約して文章化した本ですが、とても読みやすくコンパクトにまとまっていて大いに勉強になりました。
(2008年5月刊。720円+税)

2008年8月 6日

夢顔さんによろしく

著者:西木正明、出版社:文春文庫
 最後の貴公子・近衛文隆の生涯というサブ・タイトルのついた上・下2冊の文庫本です。タイトルの意味が分からず、まったく期待もせずに読みはじめたのですが、どうしてどうして、意外や意外、すこぶるつきの面白さでした。途中からは手に汗を握るほどの大活劇の展開となりました。ええーっ、これって本当のことなの・・・と思いながら、後半は頁をくるのがもどかしいほど一気に読みすすめていきました。2000年の柴田練三郎賞を受賞した本だということを読み終わってから知りました。なるほど、なーるほど、と納得した次第です。
 1945年2月14日、近衛文麿は昭和天皇に対して、次のように上奏した(要するに口頭でレクチャーしたということ)。
 敗戦は必至である。米英の主流は日本の国体の変更までは求めていない。敗戦だけなら、国体の護持は可能だろう。むしろ憂慮すべきは、敗戦にともなって起こりうる共産革命である。
 天皇は大いに驚き、その根拠を近衛に問いただした。昭和天皇が共産党と共産革命を恐れていたことについては別の情報もあって裏付けられています。
 終戦後の昭和20年12月16日、近衛文麿は青酸カリをのんで自殺した。54歳だった。そのとき、息子の近衛文隆はシベリアの収容所に抑留されていた。陸軍砲兵中尉であった。身長1メートル79センチ、体重81キロ。
 近衛文麿は一高から東大に入学したが、途中で京大に転じた。社会主義に傾倒し、マルクス主義経済学者である河上肇に師事し、オスカー・ワイルドに夢中になった。
 文隆の愛称をボチという。これは、「ぼくは・・・」と言うべきところを「ボチは・・・」と何度となく言ったことから来ている。
 文隆はニューヨークで勉強するようになり、エイミー・ベルグマンという金持ちの女性と親密な関係になった。ところが、その女性はアメリカ共産党の隠れ党員と交際があった。そこで、文隆は女性と別れさせられた。突然のことである。
 やがて文隆は東京に戻ってくる。そこでドイツの新聞記者ゾルゲと知りあい、親しく交流するようになった。そうなんです。あの有名なソ連スパイのゾルゲです。
 文隆は、父の文麿が首相になったとき、その秘書官として政治の中枢で働いた。ただし、わずか5ヶ月あまりのこと。そのあと、文隆は上海に渡る。そこで美貌の中国人女性ピンルーと深い仲になるのです。それを知って面白くないのが日本の憲兵隊。文隆に警告を発します。強引に別れさせられることになるのです。文隆は日本に戻り、やがて召集令状が来ます。徴兵検査も受けていないのだから、意図的な召集だった。敗戦後、文隆はシベリアに抑留される。
 ゾルゲと尾崎秀実がスパイ罪で絞首刑にされたのは1944年11月7日のこと。しかし、その事実は、戦後の昭和24年2月10日まで秘匿されていた。もちろん、ソ連に抑留されている文隆は何も知らない。
 文隆に対してソ連当局は元首相の息子として利用価値ありと判断し、ソ連のスパイになるようにもちかけた。文隆はそれを断わった。そのころから、文隆の健康は思わしくなくなり、ついには原因不明の病気で亡くなった。
 うむむ、なんだか変ですね・・・。ところで、タイトルの夢顔さんによろしくとは、何でしょうか。ムガンと呼んで、ゾルゲの生地のことだというタネ明かしがされています。ふむふむ、なるほど、そういうことなのでしょうね。
 よく調べてあるうえ、読みものとしてもよく出来ています。感心しながら、ついつい読みふけってしまいました。
(2002年10月刊。629円+税)

2008年8月 1日

ゲバルト時代

著者:中野正夫、出版社:バジリコ
 東京は神田に生まれ育った早熟の高校生時に全共闘活動家になり、浪人してからも中核派のデモに参加していた著者の半生をつづった本です。
 共産党に対する敵意心が強く、ひどい悪口もあって辟易するところがありますが、当時の三派系学生の生態をかなりあからさまに描いているところを興味深く読みました。
 ベ平連が党派との距離を置いていた(努力していた)ことも知ることができます。
 三里塚へデモに行ったとき初めて警察に捕まりましたが、19歳の浪人生だと身分を明かして、釈放されます。警察も、こんなチンピラ浪人を相手にしても仕方ないと思ったのでしょう。
 やがて、著者は日大闘争そして東大闘争に浪人生として関わるようになります。
 そのころ、全共闘の必読雑誌として月刊『現代の眼』と週刊『朝日ジャーナル』がありました。『現代の眼』は右翼総会屋からお金を巻き上げるための雑誌だったが、その執筆陣は新左翼の人間で占められていた。総会屋は売れる雑誌であれば、内容は問題にしなかったわけだ。なーるほど、そういうことだったのですね。新左翼と右翼、財界とは黒い結びつきがあったわけです。
 東大駒場の第八本館に全共闘がたてこもっているところにも著者は出かけています。「八本」の内部はまだ整然としていた。全共闘は民青にはゲバルトで勝てなかった。民青の部隊はよく訓練されていて、統制がきいていた。全共闘は掛け声と気合いだけで、自己表現と自己満足のみであり、甘かった。これは本当のことです。私も目撃しました。
 駒場寮(明寮)攻防戦にも参加しています。私は、寮生の一人としてたまたま明寮にいました。それというのも私の部屋が明寮にあったからです。ですから、「既に民青がすべての寮をバリケード封鎖して立てこもっていた」というのは事実に反します。
 700人いた寮生のかなりは依然として寮で生活していました。1969年2月の駒場寮委員長選挙でも、全共闘支持派の寮生が当選こそしませんでしたが、かなりの票数を集めていたことからも裏付けられます。色眼鏡で世の中を見ると、まったく間違ってしまうという見本のようなものです。
 民青と全共闘の捕虜交換があったことは事実ですし、民青の応援部隊に学生ではない人たちがいたのも事実のようです。
 そして安田講堂にも著者は立入っています。大講堂の中にグランドピアノがあり、インターナショナルを弾いてみたそうです。それはありうることです。このピアノは結局、機動隊が進入してきたときに楯につかわれて壊されたようです。
 著者はブントに入り、やがて赤軍派に接近します。ただし、連合赤軍には入っていません。1970年5月に赤軍から逃亡しました。
 連合赤軍の森恒夫と永田洋子に対する評は手厳しいものがあります。
 著者は、その後、共産同RG(エルゲー)派に入りますが、連合赤軍のリンチ殺人事件の発覚を知って、吹っ切れてしまうのです。
 「革命ごっこ」は終わったと心底から思った。
 それはそうでしょうね。あんなひどいことって考えられもしませんよね。
 「努力」や「決意」や「死の覚悟」で革命ができると信ずるなら、それほど簡単なことはない。しかし、それではテロリストと同じレベルだ。飛び込んで自爆すればいいのだから。
 この本には、当時の活動家たちのその後、現況が報告されています。既に何人も亡くなっています。そのなかで、こんな文章が目にとまりました。
 緒方は70年に東大文?に合格し、フロントの活動をしていた。当時のフロントの上司活動家たちの中に、今は衆議院議員になってホラやラッパを吹いている者が何人もいるという。ええーっ、いったい誰のことでしょうか。実名で知りたいものです。
 同じ時代を描いた『清冽の炎』(神水理一郎、花伝社)の第4巻がとくに、この本と同じ時代を描いています。正確かつ詳しく知りたい人は、ぜひこの本を読んでみてください。秋には1969年2月、3月を描いた第5巻が刊行される予定です。そして、その後、登場人物がいま何をしているのかを明らかにする第6巻が出る予定です。やはり、みんな、その後、いま何をしているのか、知りたいですよね。この本は大胆にそこまで踏み込んだところがいいと思いました。
(2008年6月刊。1800円+税)

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