弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
社会
2008年12月 2日
自民党政治の終わり
著者:野中 尚人、 発行:ちくま新書
小沢一郎は、1980年代の終わり、自民党システムが完成した時期にその頂点に立った。しかも、自民党の支配体制が本格的に動揺し始めた1990年代の初期にも主導権を握って、その舵取りを行った。このように、小沢一郎は、かなり長い期間にわたって、自民党システムの中枢にいた。
その小沢一郎が、小選挙区制の導入を柱とする政治改革を強引に推し進めた。なぜか?
小沢一郎は、国会議員になってから、佐藤派に入りつつ、実質的には田中角栄に師事した。小沢一郎と田中角栄の関係は極めて緊密だった。小沢一郎の結婚式で、田中角栄は父親がわりをつとめた。田中角栄のロッキード裁判は、6年9ヶ月間、191回あったが、小沢一郎のみ全部を傍聴した。
金丸信が小沢一郎を重用したため、小沢一郎は1989年8月から1991年4月まで、自民党幹事長として、まさに君臨した。
その小沢一郎が今や自民党と対立する民主党の党首というのですから、なんだか信じられないのも当然です。2人だけでコソコソ隠れて対話するのではなく、堂々と国会で大いに論争すべきですよね。
小泉純一郎が「派閥を壊す」というのは、経世会を標的とした攻撃であり、「自民党をぶっこわす」というのは、経世会の支配する自民党は解党的な出直しが必要だということ。
小泉純一郎は、清和会という自分の派閥を最大限に利用した。つまり、小泉純一郎は、派閥というものを原理的に否定していたとは、とうてい言えない。
小泉純一郎は、単純小選挙区制には必ずしも反対ではなかったが、少なくとも小選挙区比例代表並立制には強硬に反対していた。
しかしながら、小泉純一郎によって、結果的に自民党は、全体として、派閥システムが後戻りがきかないほどに崩れた。人材を育成し、難し意思決定を支えるという派閥の役割がなくなった。これまで、当然のように自民党を支持してきた人々が、初めて、そのことに疑いをもつようになった。自民党は、もっともコアな支持層の離反に直面するようになった。決して野党に流れるはずのなかった固い支持層の流動化、これこそが自民党の圧倒的優位が崩壊したことを物語っている。
自民党の最大の特徴の一つは、巨大な党本部機構である。その巨大な組織が、政策面での役割分担のために、きわめて細かく分化している。自民党内部は、政策を所管する省庁への対応と、外部の利益団体への対応がクロスする形をとりながら、きめ細かい組織を組み上げていた。
自民党組織のもう一つの大きな特徴は、党自体の地方組織がきわめて脆弱で、事実上ほとんど存在していないこと。
派閥は、全体として非常に分離的な自民党が最後に統制力を発揮するためのみちでもあった。人事権を握る派閥会長が、自民党システムのなかで、重要な権力核だった。
自民党は崩壊寸前だと言われながら生き延びている。その理由は2つ。一つは、自民党システムが社会の隅々まで根を張って、きわめて強靭なこと。もう一つは、自民党システムの存続期間が長かったので、そこからの移行プロセスも長くかかるということ。
国会解散・総選挙という政治日程が、どんどん先送りされています。しかし、ともかく生活再建・景気回復とあわせて、「人間らしい生活を取り戻せ!」ということが主要なスローガンでなければならないと私は思います。
(2008年10月刊。760円+税)
2008年11月30日
貧困の現場
著者:東海林 智、 発行:毎日新聞社
ホームレスは、3年を超える野宿生活が身体をむしばみ、内臓がボロボロの状態になる。
いったん住居を失うと、再び住居を借りるのは至難の技だ。不安定な仕事では、驚くほど簡単に住居を失う。
児童養護施設出身者のすべてが人生に失敗するわけではない。だが、貧困に陥っていく確率はかなり高い。
店長になって、月収が8万円も下がった。残業時間は過労死の危険が指摘される80時間を超え、86時間にもなった。そして、店長として、1年間のうちに6回も店を変わった。配置転換が多すぎる。
派遣労働者は名前を呼ばれない。「そこの派遣さん」とか「お兄さん」「お姉さん」。まるで機械の部品のよう。個を奪われてしまった。
職場のいじめが増え始めたのは、成果主義が導入されたのと同じ。職場の雰囲気がギスギスしてしまった。成果主義の導入は、労働者同士の人間関係を押しつぶす方向での成果を上げている。職場の連帯感は希薄になった。成果を競い合い、その結果が正確にかは別として賃金に跳ね返るのだから、人にかまっている余裕はない。ギスギスした職場の人間関係は、小学校のようないじめさえ引き起こす。個性の尊重や労働者の意欲の発揮を狙うという旗のもとに導入された成果主義は、人件費削減の目的の方が最終的に強くなってしまった。
今の日本社会は本当にギスギスしていますよね。政治の世界で嘘がまかり通り、なんでも自由競争を必要かつ善とするなかでは、強い者、お金持ちばかりが優遇される世の中だからです。やはり、弱者、貧乏人にもっと社会全体があたたかい目をもってきちんと人間らしく生きられるように処遇されるべきだと思います。
庭のあちこちから水仙の仲間がぐんぐん伸びています。冬に咲く花たちです。急に寒くなって風邪をひいている人が目立ちます。新型インフルエンザが猛威をふるうと最大6万人の死者が出ると予想されているそうです。お互いに気をつけましょうね。といっても、結局のところ、その人の持つ自然免疫力ですよね。そのために私も、早寝早起きの健康的な生活を心がけています。
(2008年8月刊。1500円+税)
2008年11月27日
近代日本の右翼思想
著者:片山 杜秀、 発行:講談社選書メチエ
私は右翼とか左翼とかいう言葉が好きではありません。ですから、自分が右翼だということはありませんが、自分が左翼だという意識もあまりありません。では何か、と問われると、革新派だというのが私の自称です。それに対する言葉は、もちろん保守です。保守というのは守旧派です。それには頑迷固陋というイメージがまとわりつきます。革新は変革。オバマ次期大統領ではありませんが、change、変えようということです。今の世の中の悪いところは大胆に変えていきたい。私は本気でそう思っています。昔のままの自民党政治でいいなんて、私はまっぴら御免です。汚職、腐敗、土建政治、財界本位、弱者切り捨てではありませんか。
この本は、少し私にとって難し過ぎました。でも、安岡正篤(まさひろ)についてだけは、私の関心をひきつけました。
歴代首相の指南番と呼ばれ、財界の大物にとっても指導者だということで高名だった人物です。晩年に、あの細木数子と浮き名を流していたなんて、まったく知りませんでした。それほど私にとってはどうでもいい人物なのでした。ところが、財界人に大モテだった安岡は、右翼から嫌われ、馬鹿にされていたというのです。いやあ、そうだったの……と、私は驚いてしまいました。
竹内好は安岡正篤を口舌の徒と評している。口先のみ発達し、言葉をもてあそび、さももっともらしいことを言いながら、実際には革命家らしいことは何もしない者の典型だ。
松本健一も、安岡のことを大川周明と同レベルにまで価値が下がっているとして、安岡をバカにしている。
その大川周明は安岡のことを日記で次のように書いている。
ひさしぶりで安岡君の話を聞いたが、言うことが万事そらぞらしく響いて、まことに不快だ。安岡君と藤田君と相並んでいると、嘘と真の標本を並べ見る気がする。
安岡は過激な変革を叫ばない。体制側に安心と思わせる思想傾向は、政官界に安岡の名声を一段と高からしめた。
安岡にとって、天皇が革命の唯一の主体であった。だから、日本の具体的な変革を目ざす右翼からは、安岡は微温的と非難された。下からの革命を企む者にとって、安岡は最悪の思想家だった。安岡は革命を説いた。しかし、その革命論は下々は絶対に革命を起こしてはならないという革命論だった。
安岡が教え導き、言いなりにしたいと熱望していた要人とは、首相ではなく、天皇だった。安岡は国家の「最高我」(天皇)の師となることで、倫理国家実現のための、あらゆる具体的施策をたちまち断行できるような種類の革命を起こしたかったのだろう。
世の中に不満がある。変革を考える。けれど、うまくいかないから、保留する。決定的なことは天皇に預けて考えないようにする。もう、ありのままに任せて、考えるのをやめる。考えなくなれば、頭がいらなくなる。正しく考える力は天皇にある。それなら、変えようなどと余計なことは考えない方がいい。
今、日本の右翼はいまの天皇を苦々しく思っているようです。そうでなければ、雅子妃バッシングが相変わらず続いているのを黙って見過ごすはずはありません。昭和天皇の過ちを一身に受け止めて、世界に向かって謝罪しつづけている今の天皇に不快に思っているのです。ということは、右翼にとっても天皇は絶対至高の存在ではないということでしょう。自分の都合のいいように支配できるときだけ天皇には利用価値があるわけです。私はむしろ、父である昭和天皇の犯した過ちを繰り返し謝罪し続ける今の天皇には人間味を感じています。
(2008年2月刊。1500円+税)
2008年11月24日
自衛隊員が死んでいく
著者:三宅 勝久、 発行:花伝社
自衛隊員の自殺者は年間100人を超える。その自殺率39.3人(人口10万人あたりに換算した数字)は、アメリカ軍の2倍を超える。
自衛隊員のかかえるストレスは高い。ギャンブルや酒、女遊びに興じた末の借金苦、いじめ、うつ病。自殺した自衛隊員の多くが孤独やストレス、精神的な飢餓感を抱いていた。
イラクなどに派遣された自衛隊員はのべ2万人。日本に帰国したあと在職中に死亡した隊員は35人で、このうち自殺した人が16人もいる。この35人のなかには退職したあとの死亡者は含まれていない。
2006年度の1年間に懲戒処分を受けた自衛隊員は自衛官1234人、事務官106人の合計1340人。うち、免職130人、停職582人。懲戒免職130人のうち、もっとも多いのが窃盗・詐欺・恐喝・横領の74人。そして、無断欠勤33人。
先日、例の田母神元航空幕僚長が自衛隊員の不祥事の公表は士気に関わるからするなと指示していたことが明るみに出ました。これでは旧日本軍の綱紀は良好だったと高言する資格なんてないですよね。臭いものにフタをしておいて規律良し、なんて笑っちゃいます。
自衛隊内のいじめ自殺やセクハラ事件が次々に明るみになって、裁判が起こされています。健全な常識の通じない自衛隊では、市民に向かっても非常識なことしかしない(できない)存在だと恐れます。
田母神氏のような、まったく現実を無視した人間をトップにすえた政府の責任は極めて大きいと思います。自衛隊内部の教育システムと内容に国会がきちんとメスを入れることによって、シビリアンコントロールは機能していると言えると思います。政府見解を真っ向から反した田母神氏を懲戒免職としなかった間違いは直ちに是正されるべきです。
(2008年5月刊。1500円+税)
2008年11月22日
すべての経済はバブルに通じる
著者:小幡 績、 発行:光文社新書
サブプライムローン破たんの本質が理解できる本です。
投資家にとっての最大のリスクとは何か。それは、投資した資産を売りたいときに売れないということ。つまり、住宅ローン債権を他の投資家に転売できないことである。流動性のない資産に投資してしまうと、その資産を永遠に持ち続けるしかなく、その資産が生み出すキャッシュフローを長期にわたって少しずつ受け取る以外の選択肢がなくなってしまう。こうなると、財政事情が変わったり、他の投資機会が生じたりしたときにすぐに現金化しようとしてもできない、という問題が生じる。
アメリカは、雇用の流動性の高い経済社会なので、誰も30年後の借り手の収入など予測できない。つまり、借り手の継続的な収入を頼りに融資するなんて無理だった。貸し手のサブプライムローン会社は、はじめから借り手が給料などの収入にもとづいて30年かけて返済することはまったく期待していなかった。住宅を売却させるか、住宅ローンを借り替えさせて繰り上げ返済によって完済させるつもりだった。
サブプライムローンは、当初の2,3年のあいだは、毎月の返済額は少額だけど、その後、返済額が急増する構造になっていた。30年かけて地道に完済するという選択肢はなかった。
これは、住宅価格が上昇し続けていくということを前提としている。住宅ローン会社はバブルに群がったのではなく、自らバブルを作り出したのである。
サブプライムのバブルが弾けて大きな損失を出したのは、素人ではなく、投資家の中でもプロ中のプロだった。投資のプロにとって、目先、ライバルよりも高いリターンを上げられるかどうかというのが最優先だった。ライバルに勝つために、リスクの高いサブプライムローンに投資した理由なのだ。
プロの投資家は、バブルだからこそ投資している。なぜなら、バブルはもうかるからだ。プロはバブルが大好きなのである。まともな投資家は、バブルをバブルと認識せずに投資することなどありえない。バブルだと分かっているからこそ投資する。だから、投資したことに後悔することもない。
全員がバブルだとわかってバブルに乗っており、そして、その全員が、バブルが崩壊する瞬間、その一瞬前に降りようとしているのだ。つまり、ライバルである他の投資家を出し抜いて抜け駆けしたいと全員が思っている。ところが全員の抜け駆けは、抜け駆けにはならない。同時に降りようとしたのは中途半端なプロではなく、世界に名だたるプロ中のプロの投資家だった。
真実は、投資のプロであればあるほどバブルを探し歩き、あるいは自分でバブルを作り、膨らませ、そのバブルに最大限に乗ろうとする。つまり、バブルというのは、最初から最後まで儲かるものなのである。
こんなギャンブル資本主義に頼るようでは、世界と日本に未来はありませんよね。
(2008年9月刊。760円+税)
2008年11月20日
コンビニのレジから見た日本人
著者:竹内 稔、 発行:商業界
コンビニでは、日本人は一切の緊張から解放される。緊張しながらコンビニに入ってくる客などいない。コンビニは、お客の「もっと便利に」というわがままに応える形で成長してきた業態だから、お客はリラックスして、自由気ままにふるまい、本音が出る。
今、日本全国にあるコンビニは4万店舗を越す。客は、コンビニの従業員を人間として見ていない。客は、売り場に並んでいるもの以外は、すべてタダでもらえる物と認識している。コンビニで働いてみると、お客から受けるストレスですぐにこの商売に嫌気がさすだろう。
コンビニの従業員は仕事に誇りをもてない。こんなひどい客にしたのは、実はコンビニ側だ。今、コンビニを訪れる客に常識はない。多くの経営者がコンビニのレジに立ち、客の相手をすることに嫌気がさし、コンビニをやめていく。
コンビニがトイレを無料で開放したころから、何かがおかしくなった。コンビニのトイレを利用した客の7割は、商品を購入せず、レジを素通りし、お礼の一言も発せず、しかも汚すだけ汚して出ていく。そこで、きれいなトイレを維持するためには、コンビニは最低でも1時間に1回はトイレを清掃する必要がある。
いやあ、こう言われると、私も切羽詰まってコンビニのトイレを利用したことがありますので、申し訳ないとしか言いようがありません。それでも、私は、そのあと、別にほしくはなかったのですが、お菓子を買って一応、客にはなりました。
現在、客の行動や言葉は限度を超えている。コンビニには、どんなことでも要求してかまわないと思いこんでいるし、その要求が叶えられて当然だとも思いこんでいる。つまり、コンビニは下僕(しもべ)だと認識している。当然、発する言葉も命令口調だ。命令が実行されないと、口汚く罵倒する。そして、下僕なのだから、無償で労働すべきであって、何かしてくれたから余計に買い物をしてあげようなどといった気遣いをする必要もない。
挨拶のないコンビニ店舗では、お客がコンビニに対する緊張感を失い、それこそ「何でもアリ」の状況となっていく。万引きが蔓延し、備品は手荒く扱われる。これに対して、コンビニ店員が大きな声で挨拶すると、それだけで自信があると思わせる効果がある。
コンビニで雑誌を立ち読みしている客は、ほとんど商品を購入しない。そこで、雑誌をビニールひもでしばってみた。すると、完売するようになった。というのも、漫画雑誌を立ち読みする人は、その雑誌を購入しない。購入する人はできるだけ状態の良い雑誌をほしがる。
横柄な態度をとる客、想像力が欠如しているとしか思えない客は決して若者ではない。その多くが、人生の酸いも甘いもかみ分けたはずの熟年世代なのである。コンビニで支払うとき客がお金を投げつける。そんな人が増えている。そして、そんな人の持っているお金(お札)はクチャクチャになっている。そのうえ、お金を大事に扱わない人は、コンビニで募金する確率が非常に高い。いやあ、そうなんですか……。
コンビニの店内で、ケータイで話しつつ徘徊する客が増えた。そのため、コンビニ店員は身動きが取れなくなった。1時間や2時間程度は、平気で店内を徘徊する。
コンビニが襲われることがある。しかし、警察は全くあてにならない。自らの仕事に命をかけているのは、警察官よりコンビニ経営者なのではないか。
私の知人も、午前3時から5時までの魔のゴールデンタイムは他人に任せられないし、かといって自分もおっかなビックリなので、ストレスがたまるという話をしてくれました。日本人とコンビニという切っても切れない関係にあるところに存在する大きな問題の一端が鋭く提起されています。私のような、月1回コンビニを利用するかどうかというのと、日本人の状況はまるで違うようです。私は出張したとき、ミネラルウォーターと朝食用の野菜ジュースをコンビニで買い求めますが、コンビニに入るのはそれだけです。コンビニは日本社会を破壊する存在だと考えているので、なるべく利用したくないのですが、このときばかりは仕方がありません。ホテルの近くに昔ながらのパパ・ママ・ストアーなんて絶対にありませんからね。
ピアノとフルートの生演奏を聴く機会がありました。久しぶりのことです。ビゼー作曲の「アルルの女」のメヌエットも演奏されました。この曲は私が小学生のとき、昼休みに流す校内放送を担当していて、1年間、毎日のように流していましたので、私の身体にすっかりなじんだ曲なのです。一度、昼休みの前、中休みのときにかけて先生に叱られるという失敗もしました。すばらしい演奏を聴いていると、身体が自然に揺れ、陶然とし、陶酔感から脱力して深い睡眠モードの心地になっていました。
知人の女性にもフルートを習っている人がいますので、一度、彼女の演奏も聞いてみたいと思ったことでした。
(2008年9月刊。933円+税)
2008年11月17日
手塚治虫
著者:竹内 オサム、 発行:ミネルヴァ書房
手塚治虫は、代々、医者の家系である。手塚治虫の曾祖父にあたる手塚良仙は、江戸末期から明治にかけての開業医で、高名な蘭学医であった緒方洪庵のもとで学び、天然痘から多くの人を救うのに功があった。
祖父にあたる手塚太郎は、医者にならずに法律家の道に進む。大阪控訴院、大阪始審判事としてつとめたあと、大津と函館・大阪地裁の検事正、仙台地裁所長、名古屋控訴院検事長、長崎控訴院院長を歴任した。ということは、当時の福岡の弁護士もお世話になっていたわけですね。そのころ福岡の弁護士が長崎控訴院に行く時は当然泊まりです。丸山でドンチャン騒ぎしていたという大先輩弁護士の話が記録として残っています。
手塚治虫は、母に対して限りない感謝と愛情を表明しているのに対して、父に対しては嫌悪感を抱いていた。いやあ、そうだったんですか。父と息子って難しい関係ですよね。
治虫は、小学校では初め目立たない子どもだったが、次第にその才能が知られていった。家庭において、治虫は泣き虫でないどころか、ふだんはかなり強気で、頑固で、意地っ張りだった。目立ちたがり屋だった。人一倍自己顕示欲が強いが、そのくせ、心の底に鋭敏な感性に根差した弱さをかかえていた。
手塚家は裕福であったうえに、父親がマンガ好きだった。ドストエフスキーの「罪と罰」は治虫にとって素晴らしい教科書になった。
治虫は医学部を卒業して医師になったと思っていましたが、少し違うようです。治虫が入ったのは、医学部ではなく、医学専門部でした。卒業までは兵役が免除されるし、兵隊にとられても前線に出されることはないという理由からだった。医専は戦時下で急きょ戦地に赴く軍医を育成するため、にわかに作られた医者養成課程である。医学部と医専とでは、大きな開きがあった。医専は兵役逃れの駆け込み寺といえた。
手塚は流行に敏感で、子どもの感性を重視する。こうした態度は終生、過敏なまでに手塚の心を支配していった。売れっ子になった手塚は、1日の平均睡眠時間は1〜2時間でしかなかった。眠りながら筆を動かした。
ストレスと疲労が極限に達すると、手塚は無理難題を原稿取りにやってきた編集者にふっかける。それによって休息するためであった。いやあ、超人的ですね。
手塚は、ほぼ2,3年ごとにアシスタントの交代を促した。もちろん独立するようにという親心からだが、もう一方には、手塚自身が若い人の感性を吸収するためでもあった。
手塚は1961年1月に医学博士の学位を取得した。
手塚は流行を取り入れ、劇画風の画風やテーマを取り入れた。これには大きな苦痛が伴った。体が覚えている、それまでの表現スタイルをスイッチしなければいけないからだ。
手塚は少しでも自分の人気が下がると落ち込み、もうオレはダメではないかと頭を抱え込んだ。病気で何週間も休むと、読者から忘れ去られてしまうと本気で思い悩んだ。
手塚治虫全集は、なんと、今400巻。これを総計1900万部売りつくした。手塚の歴史ものは、教科書に出てくるような偉人に焦点を合わせるのではなく、歴史に翻弄される名もなき人々に光を当てる点に特徴がある。
手塚治虫には、私も大変お世話になりました。「鉄腕アトム」なんて、いま見ても、おそらく最高傑作ではないでしょうか。
(2008年9月刊。2400円+税)
2008年11月15日
人生は勉強より世渡り力だ!
著者:岡野 雅行、 発行:青春新書
痛くない注射針を作り上げた東京下町の町工場のオヤジさんなのですが、その言葉には重みがあり、なるほど、と思うところがいくつもあります。
本業以外のプラスアルファを持つことが大切だ。
勝負は、ふだんから人付き合いにどれくらいお金を使っているか、だ。誰が価値ある情報を持っているか、まずそれを見極めなければいけない。
世渡り力というのは、こすっからく生きていく、安っぽい手練手管ではない。人間の機微を知り、義理人情をわきまえ、人さまに可愛がられて、引き上げてもらいながら、自分を最大限に活かしていく総合力である。仕事で頭をつかわない奴は伸びない。ただ真面目なだけではダメ。
自分の仕事は安売りしてはいけない。ただし、そのためには、他人(ひと)にできないことをやる必要がある。
変わり者と言われるような人間じゃないとダメ。変わっているから、他人(ひと)と違う発想ができるし、違うものが出来る。他人と同じようなことをするのが世渡りのコツだと思うのはとんだマチガイだ。何かしてもらったら、4回、お礼を言う。そうすると、言われた人は感動して、また誘ってやろうという気になる。
いやあ、さすがに出来る人の言葉は違いますね。変わり者だと言われることも多い私は、この本を読んでひと安心もしました。
アメリカ領事が日米安保条約の必要性を力説する講演会に出席しました。このとき領事は、北朝鮮がハワイに向けてミサイルを発射したとき、日本の自衛隊は自分の国を攻撃されるわけではないから何もできないことになるが、それではアメリカ国民は納得しないと強調していました。でも、北朝鮮がハワイを狙ってミサイル攻撃をするなんて考えられるのでしょうか。日本本土の上で北朝鮮のミサイルを迎撃してやっつけるというのですが、その真下に住む人は大惨事に巻きこまれてしまいます。ミサイルを確実に撃ち落とすことは不可能です。そもそも北朝鮮がミサイルを発射しないようにするのが政治の義務ではないでしょうか。軍事力は戦争の抑止力になると力説していましたが、本当でしょうか。軍備拡張競争になってしまうのではないでしょうか。アメリカ領事の話は、考えれば考えるほど、本当に日本人として納得できないことばかりでした。
(2008年9月刊。750円+税)
2008年11月12日
イマイと申します
著者:日本テレビ報道特捜プロジェクト、 発行:新潮文庫
私も最近、振り込め詐欺の被害者から相談を受けました。例の葉書が送られてきたので、ケータイ料金を滞納したという督促内容に心当たりはなかったものの、つい心配して電話をかけてしまったところ、わずか二日間で200万円もの送金してしまったという事件でした。そのとき、東京の「弁護士」が二人登場してきます。そして、被害者は20代の独身女性でしたが、50代の母親も止め役にはならず、一緒になって定期預金を解約してまで娘のために送金してしまったというのです。
この本は、振り込め詐欺や宝くじ詐欺の犯人団に迫り、海外まで飛んで行って、その実像を暴こうとしたものです。
ドイツ国営のロトサービスセンターから、宝くじ800万円に当選したという手紙が届いので、そのために30万円も振り込んでしまったという。日テレの取材班が代わって電話すると、コールセンターは実はドイツではなく、オーストラリアのシドニーにあることが判明した。海外にインターネットを利用したIP電話で転送されているらしい。
そこで、日テレ取材班はシドニーに飛んだ。そこには、日本人女性を含んだテレコールセンターが確かに存在した。しかし、日本人女性たちは素顔をさらすことはなかった。
昔、豊田商事というのがありました。金の延べ取引をしてもうけているという宣伝文句でしたが、実際には純金なんてまったく扱っていなかったというインチキ商法でした。このときもパートのおばちゃんたちによるテレコールセンターが「活躍」しました。時給1000円でひっかける役割を担ったのです。自分が話す儲け話のセールストークが本物なら、時給1000円なんてものではありません。 ところが、パートの女性たちは時給1000円をもらいながら、100万円を投資したら数ヶ月で何百万円にもなるというような夢のような話を売り込んでいたのです。シドニーにいた日本人女性も、同じようなことをしていた(させられていた)わけです。
日本で海外宝くじの販売は違法である。このダイレクトメールは、一通当たり200〜300円のコストがかかっている。いったい日本、そして世界にどれだけ送られているのだろうか。ダイレクトメールはフランスから送られ、その返信先はすべてオランダ。オランダの私書箱が返信用封筒の宛先となっている。
フランスから発送するのが最も安いから。ただ、大量に送ると日本の税関に捨てられてしまうので、小分けにして何回も送る。1年間に送るダイレクトメールは、日本だけで500〜600万通。世界全体では年に8000万通になる。宝くじにあたった人は一人もいない。まるでインチキなのである。いやあ、これってすごい数ですよね。それだけの経費をかけても十分採算があうのですね。
ハガキに書かれている電話番号は、電話転送を請け負う業者のもの。そこに電話をかけると、自動的に転送されて、この振り込め詐欺グループの携帯電話にかかる。間に転送業者をはさむため、詐欺グループが電話を受けたときも、転送業者への支払いが発生する。
振り込め詐欺の舞台裏を暴くという点ではもうひとつ物足りなさを覚えましたが、その真相に迫るという点で、勉強になりました。
(2008年9月刊。740円+税)
2008年11月10日
清冽の炎(第5巻)
著者:神水理一郎、出版社:花伝社
今から40年前、全国の大学で学生がストライキに突入し、毎日のようにデモ・集会があっていました。今のおとなしい大学生の姿からは想像を絶する事態です。東大でも日大と並んで、全国の学園闘争の天王山として激しい闘争が半年以上も続きました。今をときめく政府高官もその時代の人間です。町村前官房長官は右翼スト収集派の親玉として東大・本郷で策略を得意としていました。舛添要一厚労大臣は同じく駒場でスト解除派で動き、代表団(10人)に立候補したものの、見事に落選しました。鳩山邦夫国務大臣は日和見ネトライキ派だったのではないでしょうか。少し前に自殺した新井将敬自民党代議士は過激な全共闘の闘士でした。
「清冽の炎」の第5巻が出て、1968年4月から翌1969年3月までの1年間の東大駒場を中心とする東大闘争の全体像を明らかにするシリーズが一応完結しました。1巻は闘争の始まるまでと勃発した直後(4,5,6月)、2巻は無期限ストへ突入してからの状況(7,8,9月)、3巻は全国学園闘争と結びついて高揚すると同時に、学内で要求実現のために団交を目ざす取り組み状況(10,11月)、4巻は、ついに全学団交を勝ちとる一方で、警察による安田講堂攻防戦がショー化していった状況(12,1月)が語られています。
今回の5巻は、全学ストを解除し、授業再開に至る経緯という地味な場面となります(2,3月)。しかし、そこで問われていることは、今日なお通じる大切な提起です。つまり、キミは、これから知識人としていかに生きていくのか、という問いかけです。これは地域で地道にセツルメント活動をした学生にとっては、まさしく人生をかける重たい問いかけでした。また、組織に入るのかどうか、労働者階級を裏切らない生き方は可能か、そのためには何をしたらよいのか、などについても真剣に議論していました。
民主的な官僚はやはり必要ではないのか。官僚機構を内側から健全なものに変えていく努力が必要なのではないか。このように問いかけて官僚になっていった学生活動家がたくさんいました。それは全共闘にも民青にも共通しています。そして、彼らは今どうしているのでしょうか?
そんなことは幻想だ。そんなに簡単に決めつけてはいけません。私の知る限り、裁判官のなかにも学生時代のそんな思いを変えることなく持ち続けている人は少なくありません。
では、企業に入ったらどうなのでしょうか。労務管理ばかりをさせられることになってしまいかねないんどえはないか・・・。私の友人にも早々と見切りをつけて、今は弁護士また教師になった人がいます。一人はノイローゼになりかけたと言っていました。
第1巻が発刊されたのは2005年11月でしたから、1968年4月から1969年3月までの1年間が今回の5巻で完結したのは3年ぶりだということになります。
著者は、自分の手元に残っていたメモやチラシ・総括文集だけでなく、当時のことについてふれた本の大半を探し求め、国会図書館にある当時のチラシ・パンフを合本した資料、そして関係者からの聞き取りなど取材収集に10年以上かけたということです。そんな膨大な資料をもとにして一つのストーリーにまとめた読みものにするのは至難のわざです。弁護士活動の合間にまとめたというのは、たいしたものと言ったら身びいき過ぎでしょうか。
登場人物があまりに多いため、いささか読みにくいことは否めませんが、東大闘争そのものが主人公の本であると思って、そこを少々我慢して読み続けていくと、当時の学生の青春日記でもあることがきっと分かると思います。思いがなかなか通じないホロ苦い青春の日々が激しい闘争に明け暮れるなかで爽やかに描かれている本でもあります。
相変わらずさっぱり売れていないようです。ぜひ、書店で注文して買って読んでやってください。東大闘争の全貌とその過程を語るときには絶対に欠かせない本であることは私が責任をもって保証します。
(2008年11月刊。1800円+税)