弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史

2011年4月23日

逆渡り

著者   長谷川 卓 、 出版   毎日新聞社
 
 ときは戦国の世。ところは、上杉憲政と対峙する甲斐の武田晴信軍のぶつかるあたり。
 主人公は四三(しそう)衆の一員。四三衆とは、5、6年おきに山を渡る渡りの民のこと。四三とは北斗の七ツ星のこと。この星を目印として渡ることから、自らを四三衆と名乗っていた。四三衆の山の者の役割は、戦うことではない。傷兵らの傷の手当と救出、重臣に限定されるが、戦場からの遺体の搬出。山の者は薬草などに詳しく、里者よりも金創の治療に長けているからだ。
多くの場合、武将が山の者を駆り出すのは輸送のため。山の者に支払われる金の粒や砂金は、蓄えとして貴重であるうえ、塩や米にも換えやすい。四三衆は、断る理由がない限り、仕事を受けた。
 戦場で手傷を負った者を見つけたときは、傷口を縫うが、薬草(蓬の葉)を貼り、布でしばる。だが、縫うか薬草で間に合う程度の傷の者は少なく、ほとんどの者は少なく、ほとんどの者は見殺しにするか、せいぜい縛って血止めをするのが関の山だった。
 逆渡(さかわた)り。生きるために渡るのに対し、仲間との再会を期さず、死に向かって一人で渡ることを、山の者は逆渡りと言った。
 四三衆では、60を迎えた者の次の渡りに加えず、隠れ里に留め置く。いわば、捨てられるのだ。
 うひゃあー・・・。60歳になったら山のなかに一人置いてけぼりになるのですか・・・。いやはや、まだ、60歳なんて、死ぬる年齢ではありませんよね。早すぎる棄老です。許せません。
 山の民の壮絶な生きざまが活写されています。作者の想像力のすごさには脱帽します。
(2011年2月刊。1500円+税)

2011年2月28日

戦争と広告

著者  馬場マコト、  白水社  出版 
 
 広告クリエーター、山名文夫(やまなあやお)の物語です。
 資生堂の広告をかいていた山名は、戦争に突入してからは、「産業技術は、その技量を今こそ国家のために動員し、民衆を指導し、啓発し、説得し、昂揚させるために、大東亜戦争のもとに集結せよ」と説くことになった。
 山名文夫は、自分の持つ商業美術の技量を総動員し、民衆を緊張させ、結集させ、行進させた。「おねがいです。隊長殿、あの旗を討たせて下さいッ!」という山名のついたポスターは、兵士からの参加性の視点が、きわめてユニークなものにして、衆目を集めた。
 資生堂は、創業以来、商売よりも美を優先してきた。その「百年史」には、メーカーなら第一に語られる商品、流通の歴史よりも、広告の歴史が主体となっている。日本の社史のなかでも珍しい。意匠広告部の社員の入社・退職が細かく記され、広告・商品デザインの担当者の名前をクレジットし、こだわりを見せる。 
資生堂は、陸軍から大量のセッケンを受注し、これをきっかけとして、第二次大戦の軍需に支えられるようになった。女偏の会社が、戦偏の会社に変わったのだ。
 広告というビジネスは、いつも時代におべっかを使いながら、自分自身を時代に変容させて生きるビジネスだ。悲しいかな、自分の思想も何もあったものではない。そうやって、自分が生まれてきた時代を生きてきた。しかし、時代と併走しつづけるのも、これでなかなか大変なのだ。時代の変化を習慣的に読みとり、自分の感性と肉体を反射的に変容させなくてはいけない。時代はなかなかの暴れ馬で、ちょっと油断すると振り落とされてしまう。 
戦争は嫌だと高言している著者です。広告の恐ろしさをまざまざと感じさせる本です。なんといっても、私たちは、あの「小泉劇場」の怖さを体験していますよね。
 どんな世の中になっても、戦争を起こさないこと、これだけを人類は意志しつづけるしかないと著者は強調しています。まったく同感です。日本も核武装しろなんて声が多いというのを聞くと、身震いしてしまいます。核兵器をもて遊んではいけません。核戦争になったら、全地球、全人類が破滅するのですよ・・・。勇ましい掛け声は無責任そのものです。
(2010年9月刊。2400円+税)

2011年2月16日

ノモンハン戦車戦

著者  マクシム・コロミーエツ、   大日本絵画 出版 
 
 1939年5月から9月にかけて、モンゴルとの国境付近で日本軍(関東軍)がソ連軍(赤軍)と正面から戦って惨敗したのがノモンハン事件です。この本は、その地上戦における戦車部隊を中心として戦争の推移を追っています。この本とは別に、『ノモンハン航空戦』という本も出ていますので、追ってご紹介します。
 モンゴル人民共和国と満州国とのあいだの国境はきわめてあいまいだった。全長40キロの国境には、国境標識がわずか35個しかなかった。自然境界もハルハ河とボイル湖を除いてはなく、水域に関する合意もなかった。双方ともお互いに譲らず、外交的な解決は望んでいなかった。ノモンハン戦の原因は満蒙国境の曖昧さと双方が交渉を望まなかったことにある。
 5月の時点では、制空権は完全に日本軍航空隊が握っていた。ソ連軍のパイロットたちの訓練度は低く、中国戦線で経験を積んだパイロットが多い日本軍航空部隊に立ち向かうことはできなかった。
 5月の戦闘は、ソ連軍部隊の訓練に深刻な欠点のあることを暴露した。それは、何より偵察と部隊の指揮統制・通信の面で顕著だった。各種部隊間の相互連携もうまく組織されていなかった。
 1939年6月、ジューコフが第57特別軍団長に就任した。それまでのジューコフには戦闘経験はなかった。ところがジューコフは、前任の軍団幹部らをスパイと決めつめ、「人民の敵」として一掃した。過去に戦闘経験のないジューコフはいきなり砂漠と草原という特殊な条件下で人的・物的損害を惜しまない物量戦を展開した。それは前線の将兵に不評だった。
 日本軍の戦車第4連隊長の玉田大佐は、ソ連の兵器は性能が優れており、敵は機敏で粘り強く、士気も高い。敵の資質は予想よりはるかに高いことを悟った。ソ連軍の砲撃はあまりに強力かつ効果的で、日本軍が中国で経験したことのないほどのものだった。7月の戦闘を総括して玉田大佐はソ連軍に高い評価を与えた。
「敵の戦意を見くびるべきではない。彼らは組織、物質、戦力において明らかに我が方を上回っている。白兵戦になっても退却しようとせず、一部には手榴弾で自爆する者もいた」
 ソ連軍は、ノモンハンにおいて日本軍の損害は最大5万5千、そのうち2万3千が戦死したと見積もった。関東軍の公式報告によると、出動したのは7万5千で、戦死は8632人、負傷9087人としている。他方で、ソ連軍は、戦死9703人、負傷1万6千人となっている。
 ノモンハン戦でのソ連赤軍の勝利に決定的な役割を演じたのは間違いなく戦車部隊だった。ソ連指導部は、ノモンハン戦において日本軍の精強さに甚大なショック受け、ドイツ軍の対ソ侵攻作戦が開始されてなお、赤軍の最強兵力を極東方面に残留させていた。
 ジューコフ元帥は、第二次大戦でもっとも苦戦したのはハルヒン・ゴール(ノモンハン)だったと吐露したほどの激戦だった。
 停戦協定が結ばれたあと、関東軍代表団は遺体をどれだけ回収したいか、その数字をあげたがらなかった。それが公式に認める損害となることを嫌ったからである。10日間の痛い回収作業によって、日本軍は6281人の遺体を収容し、38人のソ連軍将兵の遺体をソ連側に引き渡した。
ノモンハン戦の地上における戦いの様子の一端を多くの写真とともに明らかにした冊子です。
 
(2007年9月刊。2500円+税)

2011年2月 9日

戦場の街、南京

著者  松岡 環、  出版  社会評論社
 1937年に日本軍が南京で大虐殺事件を引き起こしたのは歴史的な事実です。それがあたかもなかったかのように主張する日本人が今なおいるのは残念でなりません。虐殺された人が正確に30万人なのかどうか、私にはよく分かりませんが、いずれにしても何万、何十万人という罪なき人々を日本軍が次々に殺戮していったことは、多くの日本軍兵士がつけていた日誌によっても裏付けられています。
 この本は、そのような日誌のいくつかを掘り起こし、中国側の記録と照合しています。
 著者は、12年間に日本軍の元兵士250人以上を訪ねて歩いて証言を聞取っていったとのことです。大変な苦労があったと思います。加害者が生の事実をありのまま素直に語るとは思えないからです。
 多くの日本兵士が日記をつけていました。これは学校教育の成果であると同時に、日本帝国の天皇の赤子(せきし)としての自覚を高めるための軍隊教育の成果でもあった。
 家族への情愛にあふれた手紙を書く一方で、日本軍兵はいったん中国に向かうと残酷な行為を平気で行った。中国の部落に宿営するたびに食料を徴発した。徴発とは泥棒することである。
 日本軍は、兵站基地を十分に計画して設置せず、戦争に直接関係のない民衆から野蛮な略奪によって膨大な軍隊を養おうとした。日本軍は村落を直過するたびに、穀物や家畜を奪い、家屋に容赦なく火を放った。
 無錫に侵攻した第16師団寺兵第33連隊は許巷の村民223人を村の広場に集めて機関銃で撃ち殺し、まだ死に切れない人をふくめて死体を焼いた。1937年11月24日のことである。 日本軍の兵士たちは、中国人を殺すことに後ろめたさはなく、「考えている間もなく、とにかく殺した」と述懐する。
 第16師団の中島今朝吾師団長は、「捕虜はとらぬ方針」なので、部隊の兵士たちは片っ端から元兵士や中国人を殺していった。 7、8百という数の捕虜を「処分」するのには相当に大きな壕が必要で、そんなものはなかなか見つからない。そこで、百、二百に分割して搬送し、適当な場所に連れて行って処分することにした。
「一日に第一分隊で殺した数55名。小隊で250名」
 このように書かれた元兵士の日記があり、書いた本人がそれを見ながら捕虜250人は機関銃で殺したんやろうなと語っています。
さらに日本軍は、南京に残った中国人の女性に対する性暴力を働いています。その被害にあった人は7万人とみられているのです。日本軍は国際安全区のエリアにまで乱入しました。
 日本軍の将接や軍幹部は下級兵士の性暴力を容認したばかりか、自らも性暴力に積極的に加担した。
「南京に入る前から、南京に入ったら女はやりたい放題、ものは取り放題じゃ、といわれておった」と元兵士は語る。
 強姦、強殺が多発した原因は、決して軍紀の弛緩というものではなく、不作為の作為ともいえる日本軍全体の暗黙の容認があったということ。
 このような掘り起こし作業も元兵士の高齢化によって次第に困難になっています。その意味からも貴重な本です。そのころ生きていなかったから関係ないということは許されないと思います。だって、祖父や父たちのしたことなんですから・・・。
(2009年8月刊。2200円+税)

 先日開かれた法曹協議会で、刑務所内でも収容者の高齢化がすすんでいること、不況を反映して窃盗や詐欺などの財産犯が増えていることが報告されました。60歳以上の収容者の比率は平成13年に8.2%だったのが平成21年には14.3%となった。また、万引や無銭飲食などの財産犯が36%から40.5%に増えた。覚せい剤の33.6%とあわせて4分の3を財産犯と薬物犯とで占めている。
 全国の刑務所の収容者は平成18年に3万3千人でピークとなって、その後は減少している。平成21年は2万8千人となり過剰収容の問題はなくなった。
 私は、いまもホームレスの若者の自転車盗の担当しています。3日も食べていなかったので、自ら110番して捕まえてもらったというのです。

2011年2月 2日

特務機関長・許斐氏利

著者   牧 久、  ウェッジ 出版 
 
 軍隊・日本軍を美化する風潮も根強いものがありますが、その実体を知れば知るほど、こんなひどい利権集団に国の運命をまかせるわけにはいかないものだと痛感します。国を守るなんて言いながら、その内実は利己主義者の集団だったのではないでしょうか。そんな軍の手先の一つが特務機関でした。中国大陸で金にあかせて暗躍し、暴虐の限りを尽くしたのです。そして、戦後の日本に私物化した大金をひそかに持ち帰って、またもや日本で贅沢三昧しました。
許斐は、このみと読みます。宗像(むなかた)大社を護る許斐城の城主だったということです。私の中学校の同級生にも、この許斐姓がいましたので、私は、抵抗感なく、このみと読めるのです。
 許斐氏利は、沖縄で牛島中将とともに自決した長勇参謀長のナンバー2だった。長勇参謀長を英傑と評価する人も少なくないようですが、私には、無責任な帝国軍人の典型としか思えません。
 日本軍は中国にいくつかの特務機関を設置した。その活動資金は軍の機密費から出ていた。日本軍による南京大虐殺にも、この許斐氏利は、長勇とともに関与しているようです。中国が30万人もの大虐殺があったと主張している大変な事件です。正確な人数はともかくとして、日本軍が大虐殺を敢行したこと自体は間違いないのです。ところが、人数の大小を問題にして、その責任を素直に認めようとしない議論をする日本人がいるのが私には不思議でなりません。
 許斐氏利は27歳のとき、中国人の配下70人をふくめて100人もの人数を擁する特務機関長として暗躍した。そして、軍の機密費は禁制品の阿片取引から出ていた。満州国政府は、阿片を専売制にして、その収入は国家予算の6分の1を占めていた。日本政府も、中国における占拠地の運営の正規予算のなかに阿片による収入計画を組み込み、実行していた。日本は、阿片を計画的に入手し、それを自治政府に分配していた。阿片による収入がなければ、日本は、これだけ大規模な戦争を遂行することは出来なかった。そして、この阿片取引には、日本政府の下で、三井物産も三菱商事もかかわっていた。   
三井と三菱が中国大陸における阿片の売買でもうけていたこと、そして、戦後の中国に対して謝罪もしていないことを知りました。阿片をすすめて多くの人間を廃人にしながら、自分だけは涼しい顔をして「文化的」な生活をするなんて、許せませんよね。
(2010年10月刊。1800円+税)

 先日、あるパーティーの席で福岡の岩本洋一弁護士から、この本は読んだかと尋ねられました。もちろん、こうやって読んでいたわけです。ときどき面白い本を薦めらます。これからも、どうぞご紹介下さい。
 ところで、日曜日と月曜日はすごい雪が降りましたね。高速道路も一時ストップしていたようです。そんな寒さで、いつもなら咲いている水仙の花が今年は開花が遅いそうです。でも、チューリップの芽が地上から、あちこちで顔を出しています。2月は逃げるそうです。もうすぐ春が来るのですよね。

2010年9月20日

『偽史と奇書の日本史』

著者:佐伯 修、出版社:現代書館

 この本を読むと、日本人は古くから歴史を愛する一方で、歴史の偽造も好む民族なのではないかという気がしてきます。
歴史を愛するという点では、佐賀の吉野ケ里遺跡が発掘されるや、年間数十万人もの見物客が押し寄せますし、青森の三内丸山遺跡もすごい集客力を持っています。
そして、邪馬台国はやっぱり九州にあったという本を立て続けに2冊読んで、九州説を信奉する私は心躍る思いがしています。やっぱり、日本の文明は九州の地で発祥したのですよ・・・。
 偽書といえば、私にとっては、まず第一に戦国時代の裏話を描いたという『武功夜話』が衝撃的でした。なにしろ、昭和34年(1959年)に発見されたというものです。戦国時代の先祖の体験にもとづいて江戸時代に書かれたというものの、明治や昭和の知識にもとづいて書かれた記述があるという指摘があり、後世の偽作であることは間違いないようです。ところが、あまりにもよく出来ているため、これを事実としてたくさんの小説が書かれています。
 たとえば、津本陽『天下は夢か』、遠藤周作『男の一生』、秋山駿『織田信長』などです。私が最近読んだ本にも、この『武功夜話』を史実とする前提のものが何冊もあります。そのたびに、もっと勉強してよねと疑問を感じるのです。
 『武功夜話』を史実だとして紹介するのなら、少なくとも、これらの偽書説についての合理的な反論を示すべきではないでしょうか。
 もう一つは、『東日流外三郡誌』です。「つがるそとさんぐんし」と読みます。戦後も戦後、1975年(昭和50年)に、青森県五所川原市の和田氏宅の天井裏から古文書が発見されたという触れ込みでした。
古代の東北に、西の邪馬台国や大和朝廷とは別の王国があったという内容です。今やとんでもない偽書だったことは明らかですが、小説家の高橋克彦などが、これを事実として小説を書いたりして大反響を呼んだのでした。
 まことに日本人は古来より歴史を愛する民族なのだと思わせる、面白い本です。
(2007年4月刊。2300円+税)

2007年2月23日

三角縁神獣鏡・邪馬台国・倭国

著者:石野博信、出版社:新泉社
 三角縁神獣鏡は、単なるおまじないの鏡だったという説が紹介されています。驚きです。古墳のなかに置かれていた位置と数からして、本当に値打ちの高い良い鏡だったか疑問だというのです。うーん、そう言われても・・・。
 この本では邪馬台国・九州説がコテンパンにやっつけられています。福岡県南部に生まれた私としては、もちろん昔から心情的には九州説なので、大変悲しいことです。山門郡のある瀬高(女山。ぞやま)あたりだという本居宣長(もとおりのりなが)の説に共感してきました。しかし、瀬高だったら船で30日かかる距離ではないし、遺跡も多くはないとバッサリ切り捨てられています。
 それでは、最近有名な、あの吉野ヶ里ではどうでしょうか・・・。これもダメというのです。民家が密集しているようなところは、広大な王宮と矛盾するとされています。
 そして、戸数5万戸あるという投馬国が九州説ではどこに位置するのか、説明されていない。ここが最大の弱点だと指摘されています。
 著者は、投馬国は吉備国(今の岡山)、邪馬台国は大和だとしています。大和国山辺郡を想定しています。
 奈良盆地には、古くから山辺(やまのべ)の道と上(かみ)つ道がある。そこらあたりに邪馬台国はあった。私も、この2本の古道を現地で歩いてみたいと考えています。
 卑弥呼は魏王から銅鏡100枚を贈られました。このとき倭国使節団は、別に2000〜3000枚もの鏡をつくらせて倭国へ持ち帰ったと著者は推定しています。
 三角縁(ふち。えん)神獣鏡は日本に500面が見つかっているが、中国では一枚も見つかっていない。そうなんですよね、なぜなのでしょうか・・・。
 「卑弥呼以死」とあるのを、卑弥呼は殺されたとする新しい解釈が提起されています。そして、卑弥呼は、自分の生きているうちに墓(寿墓)をつくっていたのだ、というのです。松本清張が言い、それを支持する学者もいるそうです。「以死」というのは自然死のときには使わない用語だというのです。
 前方後円墳というのは、幕末の勤王志士・蒲生君平(がもうくんぺい)が名づけたもの。しかし、長突円墳と呼ぶべきだとの主張が紹介されています。そして、これは壺の形に似せてある。蓬莱山をあらわしているというのです。
 最新の学説の状況が分かる面白い本です。

2007年2月16日

蒙古襲来絵詞を読む

著者:大倉隆二、出版社:海鳥社
 熊本の武将・竹崎季長(すえなが)が蒙古襲来のときの自分の戦功を鎌倉幕府に訴え、恩賞をもらうために絵師に合戦状況を再現するよう描かせ、この絵巻物をもって鎌倉まで出かけて直訴した。私も、いつのまにか、そう思いこんでいました。いわば証拠写真をもって政府にかけあったというイメージです。
 ところが、それはまったくの誤解なのでした。むしろ、竹崎季長は、蒙古合戦における自分の働きや見聞したことを再現するだけでなく、この合戦で活躍しながらも、その後の鎌倉幕府上層部の内紛で非業の死を遂げた恩人たち、たとえば安達泰盛(季長の手柄を認めた)、菊池武房(二度の蒙古合戦で数々の武功をたてた)、河野通有(一緒に戦った)などを回想し、鎮魂の意味をこめて、この絵詞を絵師に制作させた。
 文永11年(1274年)10月、元と高麗の連合軍2万3000が対馬・壱岐を襲撃し、10月20日に博多湾岸に上陸した。このときは1日だけの戦闘で、夜には元・高麗軍は軍船に撤退し、翌朝は、博多湾から姿を消していた。
 弘安4年(1281年)5月、元・高麗連合軍4万(東路軍)と、南宋の降兵10万(江南軍)が押し寄せた。このときの戦闘は、5月から7月にかけて2ヶ月あまりに及んだ。閏7月1日の台風によって遠征軍は壊滅状態となり、日本の将兵は、逃げ遅れた遠征軍を掃討した。季長は文永の役のとき29歳、弘安の役のとき36歳だった。
 季長の戦功を認めた安達泰盛と、その子盛宗は、弘安8年(1285年)の霜月騒動で滅ぼされてしまった。だが、正応6年(1293年)、旧泰盛派は復権した。
 絵詞は、通説によると永仁年間(1293〜99年)に制作された。しかし、著者は、もっと遅く、正和3年(1314年)に制作されたとします。このとき、季長は69歳になっていた(死亡したのは79歳のとき)。
 絵詞に、赤坂という地名が出てきます。日本の将兵が蒙古軍と戦った場所です。今の裁判所あたりの高台が蒙古合戦の舞台だったというのを知ると、なんとなく感慨深いものがあります。
 絵師は京都で修行を積み、博多に住んでいた一派ではないかと著者は推測しています。一人ではなく、何人かの腕の良い絵師が分担して描いたというのです。
 季長は少し離れたところ(たとえば肥後)に住んでいて、気に入らないところは絵師に手直しを求めていたようです。それもあって、いったん描かれた将兵の足や着物などが訂正されているのです。
 全部の絵がのっているうえ、詞も原文だけでなく、現代語の訳文がついているのもうれしい本です。

2007年1月 5日

イエズス会の世界戦略

著者:高橋裕史、出版社:講談社選書メチエ
 天正遣欧少年使節の原マルチノ、中浦ジュリアン、伊藤マンショ、千々岩ミゲルの4人はローマで教皇グレゴリウス13世に謁見した。その教皇グレゴリウス13世は、イエズス会に日本布教の独占を認める小勅書を発布した。
 16〜17世紀の日本でキリスト教を布教していたのは、ほかにフランシスコ会、ドミニコ会、アウグスティノ会がいた。しかし、日本における活動の長さや重要性を考えると、イエズス会を抜きにして日本のキリスト教史は語れない。ザビエルを筆頭として、大勢のイエズス会宣教師が来日して教勢を拡大していった。
 イエズス会は上長(じょうちょう)への服従、会の目的達成のためには手段を選ばない、戦闘的な集団意志をもつという特色がある。その入会希望者には厳格な選抜と訓練を課していた。
 1549年のザビエルによる日本開教以降、日本イエズス会は着実に日本における地歩を確立していった。1570年までに3万人の信者を獲得し、九州から畿内までの西日本各地に40もの教会をたてた。ヴァリニャーノが来日した1579年までに信者は10万人となっていた。在日イエズス会員の人数も、1565年に12人だったのが、1579年に55人、秀吉による宣教師追放令が発布された1587年には111人となっていた。
 キリスト教徒領主は、大村も有馬も、有事の際に宣教師を保護するどころか、逆に教会からの保護を受けなければならなかった。そこで、長崎を軍事要塞とする方針がヴァリニャーノによって打ち出された。
 イエズス会は、竜造寺隆信とたたかっていた有馬晴信を援助するため600クルザドを出費した。
 ヴァリニャーノによる長崎を軍事拠点とする指令は、長崎に弾薬や大砲などの武器の配置、そして長崎の住民とポルトガル人の武装兵士化を意味していた。長崎の町を2重の柵で囲み、砦を築き、そこにいくつかの大砲を置いた。また、港内のフスタ船も大砲で武装していた。
 こうした教団の世俗化に反対する日本人イエズス会員が教団を去り、徳川幕府に教団の内実を報告した。それで、イエズス会は、実際の軍事力を行使しないまま、キリスト教勢力による日本の軍事征服という、一面では信憑性をともなった風評によって日本を追われることとなった。軍事的に自らを守ろうとする方針は、同時にイエズス会自体の存続に危機をもたらす両刃の剣でもあった。
 イエズス会が、この戦国の時期に軍事にかなり深く日本の武将も肩入れしていたこと、自らも武装拠点をつくりあげていたことを初めて知りました。キリスト教宣教師の恐るべき役割を認識した思いです。
 現在の日本でイエズス会は、上智大学、エリザベト音楽大学、栄光学園、六甲学院、広島学院などを展開している。
 イエズス会って、昔も今も、日本で活動しているのですね・・・。

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