弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史
2012年1月28日
藤原仲麻呂
著者 木本 好信 、 出版 ミネルヴァ書房
奈良時代の中期に太政大臣になって権力を握ったものの、最期は琵琶湖そばで敗死してしまって、ながく賊臣とされてきた人物の実際が紹介された本です。
仲麻呂の政治は、儒教主義にもとづく唐風政策であった。
藤原仲麻呂の乱と一般に言われているが、実は、孝謙上皇側が乱を仕掛けた、つまり先に攻撃したものだというのが本書の結論です。
孝謙上皇(太上天皇)は、国家の大事、賞罰、この二つは朕(自分)がすると宣言したものの、政治権力は依然として仲麻呂の手中にあって、主導権は握れなかった。それは、天皇の象徴である御璽と駅鈴を仲麻呂の仕える淳仁天皇が保持していたから。そこで孝謙上皇は、その奪取に出た。これは仲麻呂にとって想定外の、意表をつく先制攻撃だった。
孝謙上皇は御璽を手に入れたことによって自信をもち、仲麻呂が反逆者であることを布告し、官位を奪い、藤原の姓から除くことを宣言した。この勅によって仲麻呂は謀反人とされた。
仲麻呂を追討したあと、孝謙上皇は淳仁天皇を廃位した。そして、自ら再び称徳天皇と名を変えて再登場した。このあと、道鏡が権力をほしいままにする政治が行われた。
藤原仲麻呂が実権を握っていたときの政治、そして日本社会の実情が明らかにされています。
この本によると、仲麻呂は意欲的に政治に取り組み、一定の成果もあげていたようです。歴史は勝者側から一方的に悪く書かれることが多いことを意味しています。
(2011年7月刊。3500円+税)
2012年1月26日
昭和天皇伝
著者 伊藤 之雄 、 出版 文芸春秋
私にとって昭和天皇というのは、高校生までは「あっ、そう」としか言わない、よぼよぼの老人。大学生になってからは、日本を戦争に導いた最大の戦犯なのに、マッカーサーにこびへつらって戦犯になるのを免れた、こんなイメージでした。ですから、第二次大戦に至までの戦前、30代から40代という若さだったという感覚がまったくありませんでした。
天皇の戦争責任について、日本では真正面から議論することがあまりに少ないと思います。戦後すぐには退位すべきではなかったかという意見も有力だったわけですが、今ではなんとなく昭和天皇は平和主義者であって、開戦は自分の意思ではなかったけれど、終戦のときは身を挺して戦争を終わらせたという雰囲気の論調です。だけど、昭和天皇が本当に根っからの平和主義者だったら、やはり日本が太平洋戦争に突入することはなかったと私は考えています。
この本は、天皇が軍部との関係で絶えず緊張関係にあったことを明らかにしています。軍部は天皇を利用しようとしていたし、天皇は軍部が自分の言いなりにならないことから、妥協しつつ自己の意思をつらぬこうとしたようです。
即位したばかりの若い昭和天皇は、陸軍将校とつながる平沼騏一郎などの右翼、倉富枢密院議長などの保守派からの不安の目で見られていた。
張作霖爆殺事件のとき、昭和天皇は田中義一首相に異例の「問責」をしたが、このとき、若い天皇が右翼・保守派・軍部に対して威信を失ってしまい、軍部の統制を確立できない結果をもたらした。
ええっ、昭和天皇は若いから威信がなく、周囲から不安の目で見られていたのですね。つまりは、信用されていなかったということです。
昭和天皇はフランス語は学んでいたが、英語は生涯自由に話せなかった。でしたら、イギリスを訪問したときは、フランス語で会話していたのでしょうか・・・?
右翼は、天皇制を支持し、天皇親裁を唱えるが、彼らはあるべき天皇像を持っており、それと異なると、なかなか従おうとはしない。
つまり、右翼にとって、天皇は絶対的存在ではないのですね。自分に都合のよいときには、それを錦のみたてとしますが、気にくわなければ天皇を追放(代替わり)するのもいわないというわけです。
昭和天皇は、若いころ歴史に非常に興味を持っていた。しかし、元老たちが「歴史は、かえってお悩みの種になる」と危惧し、次に好きな生物学を選ぶようにすすめた。なるほど、生物学は俗世間との結びつきがより少なくて、無難なものでしょうね。
昭和天皇は、若いころは毎朝、何種類かの新聞に目を通していた。昭和天皇の言動について、宮中内部の有力者のなかに、細かいことに関わりすぎるという、その人格への不満や批判まで出てきた。
田中義一首相が辞任することになって天皇批判が出てきた。このことは、自らの誠実さに対する国民の人気を信じ、はりきって政治との関わりを求めてきた若き昭和天皇にとって、大きなショックとなった。
満州事変のとき、軍部の独断専行について、昭和天皇は問責をあきらめた。このとき30歳の昭和天皇は、浮き足立ち、弱気になっていた。
5.15事件が起きたとき、31歳の天皇は何かをせずにはおれなかった。クーデターで首相が殺害され、陸軍が政党内閣の拒否を公言するという初めての異常事態に直面したのだった。
昭和天皇は、一貫して美濃部達吉の天皇機関説を支持していた。しかし、公式に支持表明はしなかった。陸軍が機関説排撃に加わっているため、「公平な調停官」としてのイメージを傷つけないようにしたのだった。
2.26事件(1936年)のとき、陸軍はクーデター部隊を容認する方向で動いていた。これに対して、昭和天皇は反乱部隊の鎮圧を督促した。ところが、速やかに鎮圧せよという天皇の意思は、10数時間ほども陸軍当局に無視された。昭和天皇は大元師の命に従わない陸軍への憤りと、大きなあせりと、恐怖を感じた。大元師としての自らの命令がさらに一日実行されないことに対し、陸軍への不信を強めていった。そして、3日後にようやく収拾することができた。これによって昭和天皇は、陸軍に対して強い不信感をもつとともに、陸軍統制の困難さを考えたはずだ。
日米開戦が現実化することについて昭和天皇は大きな不安を抱き、ためらいがあった。もし天皇が開戦論を止めたなら、本当にクーデターが起きたかどうかは分からないが、2.26事件で陸軍が長時間、昭和天皇の命令を無視したことなどの経験から、昭和天皇がそう信じたことはありうる。昭和天皇は、米、英との開戦に最後まで躊躇していた。
昭和天皇は、太平洋戦争のころは40歳代の前半であり、身体にとくに悪いところはなかった。
昭和天皇は1943年3月末の時点で戦争に勝てないと考えはじめた。ニューギニアで突破された1943年9月には勝利の見込みを失っていた。もっとも、昭和天皇は、完全に日本の敗北を確信していたのではなく、1945年5月に沖縄戦の敗戦が確定するまで、講和へのわずかな望みを抱いていたと思われる。そこで昭和天皇は、アメリカ軍に大打撃を与えて講和に持ち込むしかないと考えていた。
1944年10月、神風特攻隊のことを知ると、昭和天皇は驚きつつも激励し、「もう一息だよ」と参謀総長を励ました。
1945年4月からの沖縄戦でも、上陸したアメリカ軍の背後をついて日本軍が逆上陸するように参謀総長にすすめるなど、積極的な戦争指導は沖縄戦の敗北が確定するまで続いた。
本土決戦を唱える陸軍主流をそれほど考慮することなく、昭和天皇が終戦に向けての行動を開始できたのは、ポツダム宣言が出され、広島への原爆投下とソ連参戦で、戦争終結に反発する陸軍の抵抗が弱まったからである。
天皇が「聖断」を出しても、万一、軍部が受け入れなかったなら、「聖断」は効力がない。昭和天皇は、天皇制維持の確証があるという姿勢で日本を終戦に持っていこうとした。
戦後、昭和天皇は沖縄についてアメリカが軍事占領することを希望すると表明した。これは象徴天皇として明らかに逸脱した行動であった。
昭和天皇の実像を知るための貴重な労作だと思いました。560頁ほどもありましたが、読みやすく、なんとか読み通しました。
(2011年9月刊。2190円+税)
2012年1月22日
蛍の航跡
著者 帚木 蓬生 、 出版 新潮社
『蠅の帝国』の続編です。
軍医から見た太平洋戦争の悲惨な戦場の実相が語られています。とりわけ印象的だったのは、ビルマにおけるインパール作戦について、牟田口司令官の無暴きわまりない命令に反抗した師団長が精神異常かどうかという鑑定させられることになった話です。
食料も弾薬の補給もないまま、攻撃せよ、前進せよというだけの軍司令官の命令に師団長が従わなかった。精神状態が正常なら軍法会議にかけられ、直ちに死刑に処せられる。呼び出された51歳の師団長はありのままを軍医に語った。軍医も嘘は書けない。作戦中も現在も、精神状態はまったく正常であるという鑑定書を作成した。ところが、軍法会議は開かれず、うやむやになってしまった。そのうち、軍医のほうが転進して、それどころではなくなった。
異常な司令官の下で突撃させられ、無為に死ななければならなかった将兵こそ哀れです。戦争の不条理さを痛感させられました。
シベリアに抑留された軍医もいます。何もないなかで、日本兵たちがマンドリンのオーケストラをつくって演奏したというのです。そして、収容所から解放されたとき、収容所で亡くなった2000人の死亡患者名簿をこっそり日本に持ち帰ったのでした。見つかれば生命の危険がありました。たいした勇気です。
軍の慰安所を軍医として管理していた話もあります。日本政府は慰安所の存在を否定したり、軍とは関係ないものとしらばっくれていますが、このように日本軍が慰安所を管理していたことは歴史的な事実です。日本政府はきちんと責任を認めるべきだと思います。
前著の『蠅の帝国』と本書で30人の軍医の姿を描き終えた著者の感想を紹介します。
戦争の実相とは、つまるところ、傷つきながら地を這う将兵と逃げまどう住民、そして累々と横たわる屍ではないのだろうか。軍医は、その前で立ちすくみ、医療に死力をふりしぼりながら、ついには将兵や住民と運命を共にしたのだ。
巻末の資料にたくさんの日本医事新報がのっています。これらの記事をもとに一つ一つ、丹念にまとまったストーリーを組み立てていった著者の力量に改めて敬服します。
決して面白くはなく、読んで楽しい本でもありませんが、それでも、先人の苦労をしのぶためには読まなければいけない本です。読み終えると、気持ちがずんと重く沈んでしまいますが、ご一読をすすめます。
(2011年12月刊。2000円+税)
2012年1月15日
蠅の帝国
著者 帚木 蓮生 、 出版 新潮社
軍医として戦争に従事した人たちの手記が丹念に掘り起こされ、その悲惨で苛酷な戦場の状況を追体験することができます。
戦争の不条理さには息を呑むばかりです。
ハエは瀕死とはいえ、まだ生きている人間に卵を生みつける。ハエは、いずれ死にゆく人間の見分けをつけている。
ええーっ、そんな・・・。むごいことです。病人はウジがはいまわるので、かゆいかゆいと苦しみながら死んでゆくのです。
終戦後、満州から引き揚げてくる列車のなかで、牡丹江から鉄嶺に着くまでに、恐怖と心配から13人もの妊婦が出産した。幸い早産であっても、死産はなかった。でも、出産した赤ん坊はどうなったのでしょうか。みな、無事に日本へ帰国できたとは思えません。残留孤児になってしまった赤ん坊もいたことでしょうね。
軍馬についての統計がされています。
日清戦争での出征人馬数は、日本が兵員24万人に対して馬数は5万8000。清国は兵員35万人、馬数7万3000。
日露戦争では、日本の兵員は100万9000、馬数は17万2000。ロシアは兵員129万、馬数29万9000。兵員100に対して馬数は2割前後。
馬は倒れるまで全力をふりしぼって動く。従って、疲労を早めに発見して休ませ、水を飲ませなければならない。
うひゃあ、そうなんですか・・・。ちっとも知りませんでした。
騎兵連隊では、人より馬を大切にする。
「馬がなくては騎兵ではない」
ええっ、うむむ、なんだか違う気が・・・。
馬は暑さに弱く、熱地作戦には向かない。
寒さには耐えられるのでしょうか・・・?
さすが現役の精神科医であるだけに、専門用語も駆使されていて、軍医の手記が見事に今によみがえっています。
(2011年7月刊。1800円+税)
2012年1月 7日
不屈、瀬長亀次郎日記
著者 瀬長 亀次郎 、 出版 琉球新報社
すごい人物だと思います。日本の誇れる政治家の一人です。不屈というタイトルのとおり、不屈の一生を貫きとおしました。カメさんの背中に乗って祖国へ復帰しよう、こんなスローガンがあったと聞きます。まさに頼れるカメさんです。
この本は、瀬長亀次郎の手書きの日記を判読して活字にすると同時に、歴史校証をする解説がついていますので、その日記の意味しているところがよく理解できます。そして、さらに面白いことにアメリカの内部の文書が日記の記述を裏付けています。
瀬長への最善の対処法は、彼がまるでこの世に存在しないかのように振る舞うこと。アメリカの弁務官が彼らの存在を認めることは、彼を実際よりも重要な人物のように見せてしまうことになる。
人民党を共産党主義政党に指定し、合衆国にとって災いであると宣言しようという考えは別に目新しいものではなかった。しかし、そのような宣言にもとづいた身辺調査プログラムは、人民党に利するだけで、終わりのない、劇場型の訴訟への道を開くことになる。それは、アメリカに不満を持つ沖縄人にとって、人民党が唯一の望みとなることにつながる。人民党の幹部の誰かが離反し、党の陰謀や内部活動を暴露するまで待つべきだ。
共産主義政党である沖縄人民党は、強いし指導力と組織力により、党員わずか300人、シンパ1200人という規模にもかかわらず、それにつりあわない強力なイメージを作りあげることに成功している。
人民党の強みは、才能あふれる指導部である。瀬長は沖縄における極左のリーダーであり、拘禁されたり、那覇市長から追放されるなどという波乱にみちた政治人生を生き抜いてきた。
瀬長亀次郎の勝利(1968年)は、軍事占領に対する抵抗のシンボルとなった男の勝利と言える。アメリカが殉教者をつくり出してしまったことの証だ。瀬長は、庶民性を兼ね備えていて、有権者に話しかけるときは方言を使い、内容はアメリカへの敵意にみちているものの、とても機知に富み、退屈で陳腐な表現をつかわない。
アメリカから、これほどほめられた政治家がいたなんて、まったく驚きというほかありません。私が大学2年生のとき(1968年)、沖縄に革新政府(屋良朝苗主席)が誕生しました。
そして、カメジローもそのあと国会に当選したのでした。当時の熱気がムンムンと伝わってくる日記です。丹念な掘り起し、お疲れさまでした。この労作が多くの人に読まれることを私も願います。なんといっても、沖縄は日本の一部なのですからね。今もアメリカ軍基地がある沖縄は特別なんだ、このようなという意識を持ってしまいがちですが、それは私たちの頭の中からきっぱり捨て去るべきだと思います。
500頁近い本ですが、すらすらと読める本でもありました。
(2011年8月刊。2362円+税)
2011年11月 1日
兵士たちの戦後史
著者 吉田 裕 、 出版 岩波書店
兵士体験者の生存数は2008年7月時点で40万人とみられている。大激減しています。それはそうですよね。終戦時に20歳の兵士であっても、今なら85歳ですからね。
私の叔父は90歳を過ぎていますが、中国で八路軍としばらく行動をともにしていました。そんな戦争体験を早いこと聞き出しておかないと、歴史の闇に埋もれてしまいますよね。
戦場の現実。第一に、戦病死という名の事実上の餓死者が大量に発生した。餓死者は140万人、餓死率は61%という推定がある。第二に、多数の将兵・軍属そして船員が船の沈没によって戦没した。40万人近くが溺れ死んだ。第三に、特攻死が初めて登場した。航空特攻だけでも、陸軍1327人、海軍2616人の戦死者を出している。
戦艦「大和」が沈没したとき、アメリカ側は12人が死んだだけで、日本側は3700人もの戦死者を出した。
硫黄島で死んだ日本軍の将兵のうち、敵弾で戦死したのは3割。残り7割の日本兵は、自殺が6割、1割が他殺、残りは事故死によって死んでいった。むむむ、これは実にむごい比率です。
日本への復員船のなかで、上官に対する吊るし上げやリンチが公然と行われた。階級による厳格な軍隊内秩序に対する兵士たちの怒りが爆発した。そして、社会全体の復員兵に対する態度は冷ややかなものだった。巨大な政治勢力と化して権力を乱用した軍部や権力的地位にあった軍上層部に対する反感・反発が復員兵全体に向けられた。とりわけ戦前にはヒーローだったパイロットたちへの反動には大きなものがあった。
私たちは民族自身のために戦ったのではなかったから、祖国の土を踏んでも、祖国の人たちと、まるで他人同士のようにしか接しなかった。これは、ある復員兵の述懐した言葉ですが、やはり戦争目的が他国への侵略だと、こうなるのでしょうね。
中国からの帰還兵には、自分たちは負けていなかったとして、襟章を外そうとしない者が多かった。決着のつかなかった中国戦線の兵士たちには、日本軍の襟章・階級章は、むしろ誇りであった。
1961年に、軍人恩給に加算制が復活した。これによって在職期間が割り増しされた。その結果、1960年の軍人恩給を受けている47万人から1970年には126万人近くにまで増えた。
1972年1月、グアム島のジャングルに28年間潜伏していた元日本兵の横井庄一・陸軍伍長が島民に発見された。また、1974年には、フィリピンのルパング島で30年にわたって潜伏活動を続けていた小野田寛郎・陸軍少佐が発見された。
1974年12月には、インドネシアのチロタイ島で元日本兵の「中村輝夫」(台湾の高砂族出身。実名はスニョン、中国名は李光輝)が発見された。
軍隊のなかでは、私的制裁つまりリンチが横行していた。中隊長は父、班長は母、古年次は兄というのが建て前で、実際には会話なんてない父、継母、また暴力団の兄というのが真相だった。
元兵士たちは、残虐行為などの戦争犯罪に関して証言しても性暴力、とりわけ自分自身が行った性暴力については語ろうとはしないのが一般的である。性犯罪について話すのは、殺人よりも精神的に辛い。それは「命令でやった」という免罪符のつかえない犯罪だからでもある。
戦友会は、会員の高齢化のため、次々に解散し、活動を停止しているとのことです。
日本軍の将兵の実態を知るうえでたいへん貴重な労作でした。
(2011年7月刊。2800円+税)
2011年10月10日
玉と砕けず
著者 秋元 健治 、 出版 現代書館
大場大尉、サイパンの戦いというサブタイトルのついた本です。最近、映画にもなりました(私はみていません)。
日本軍が例によって玉砕戦法でバタバタ死んで行ったサイパン島で、終戦のあと、12月まで山中にたてこもり、ついにアメリカ軍と「停戦協定」を結んで投降してきた日本軍集団がいたなんて、驚きますよね。そのリーダーが31歳の大場大尉だったのです。戦後は日本で会社を経営し、市会議員にもなったということです。よほど運も良かったのでしょうし、リーダーシップ(統率力)があった人物なのでしょうね。たいしたものだと感嘆しました。
サイパン島には、1943年8月、日本人が3万人近く、島人(チヤモロ人)4千人がいた。
サイパン島ではサトウキビ畑から製糖工場があり、日本本土へ砂糖を販売していた。
サイパン島の最大の町ガラパンは最盛時、人口1万4千人となり、「南洋の東京」と呼ばれるほどにぎわった。
サイパン島の日本軍守備隊は陸軍が2万8千人、海軍が3万人、合計3万1千人ほど。
1944年6月15日、アメリカ軍4万3千人が上陸、攻撃を開始した。1週間で日本軍兵士は1万5千人と半減した。そして、民間人1万8千人以上が山中で北方へ逃避行を始めた。
6月24日、東京の大本営は、サイパン島奪回作戦を中止した。生き残った日本軍将兵は見殺しにされたわけである。
1945年12月1日、大場大尉の率いる日本兵47人がアメリカ軍と停戦協定を結んで投降した。
よくぞ終戦後の半年以上も、山中に隠れて生きのびたものですね。アメリカ軍の方も無駄な戦闘でアメリカ兵の死傷者を出したくはなかったようです。
それにしても、日本軍上層部の玉砕戦法、精神一到主義というのは、おぞましい限りですよね。この過ちが繰り返されないようにするのは、現代に生きる私たちのつとめです。
(2011年3月刊。2000円+税)
2011年9月21日
赤紙と徴兵
著者 吉田 敏浩 、 出版 彩流社
戦前の徴兵制の運用の詳しい実態が村役場の兵事係が終戦時の命令に反して焼却せずに隠匿していた兵事書類を通じて明らかにされた貴重な本です。
滋賀県長浜市(当時は東浅井郡大郷村)の役場で兵事係をしていた西邑(にしむら)仁平氏は自宅で密かに兵事書類を保管していた。それを戦後60年たって公表した。
西邑氏は、1930年に25歳で兵事係に任命され、敗戦の年は兵事主任だった。
「これを処分してしまったら、戦争に従った人の労苦や功績がなくなってしまう。遺族にも申し訳ない」こういう気持ちからだったそうです。なるほどですね。
戦前、兵役は納税と教育とともに、臣民の三大義務の一つだった。ただし、兵役は名誉ある義務とされていたので、6年以上の懲役または禁錮の刑に処せられた者は兵役に服することを得ないと定められていた。
軍は市町村の兵事係に対して徴兵忌避者は「市町村の恥辱と心得よ」と強制的な姿勢でのぞみ、「百方手段を講じて捜査に努力して、徴兵検査未済者の絶滅を期せ」とした。
出征するとき、召集兵は、たすきをかけたが、現役兵はかけなかった。
戦前の日本では、軍隊への入り方は4通りあった。①現役兵、②召集兵(応召兵)、③志願兵、④武官。このうち、①は徴集、②は召集の義務に応じて入隊した。③と④は、徴集や召集をされる前に志願して入隊した。召集兵は、召集令状によって入隊を命じられた者をいう。
満20歳での徴集検査の結果、現役兵として入隊したとき、現役の期間は陸軍で2年、海軍で3年だった。
兵役の義務は、17歳から40歳までの23年間にも及んだ。召集令状(赤紙)は自転車に乗って届けた。なぜか夜間が多い。自転車は全速力で走らせ、途中で誰かに話しかけられても応じない。自転車を停めてはいけない。兵事係はそんな指示を受けていた。
赤紙を受けとった男たちは、それから35時間足らずの後には、召集部隊の兵営の門をくぐらなければならなかった。
軍は、赤紙を受けとった応召員とその家族が、召集をどのように受けとめているのかを知ることを重視していた。だから、兵事係は応召員とその家族の動向を調べるように定められていた。本人の士気、家族と住民の様子がどうだったか報告しなければならなかった。
軍は「身材」という言葉を使った。軍隊用語である。体格と健康程度、性質などによって、甲、乙、丙とランク付けされる兵士の身体を、軍隊を構成する材料・素材とみなしていた。
召集延期者数は、太平洋戦争が始まる前は10万人以下だったが、昭和18年度38万人、19年度は70万人、20年度には85万人にのぼった。この制度は極秘とされた。国民から徴兵制の公平さに対して疑いをもたれないようにするためだった。実際には「軍需生産上、余人をもって代え難い重要な役割を果たす者」というのを各官庁が選んで名簿を提出し、陸軍大臣が決定した。
兵事係だった西邑仁平氏は2010年に105歳で亡くなった。貴重な資料を残してくれたわけです。戦後の平和な日本、そして韓国のような徴兵制度のない国に生まれ育って、本当に良かったと私は考えています。赤紙一枚で軍隊に引っぱられて、黙って死んでこいなんて、まっぴらごめんです。
(2011年8月刊。2000円+税)
2011年9月11日
ひろしま
著者 石内 都 、 出版 集英社
1945年夏に広島に生きていた女性たちがそのとき着ていた衣類が鮮明な写真でとられています。
柳田邦男の解説を紹介します。
写真家・石内都は徹底的に現物にこだわるが、そのこだわり方が特異だ。
撮影の対象に選ばれた資料の大部分は、女性のワンピース、ブラウス、スカート、上着、肌着など、一人ひとりの「生と死」の物語を静かに語るもので占められている。石内が伝えようとしているのは、それらのものを受用していた人間の実在と心模様だ。
衣類の一枚一枚のデザインから、花柄や水玉などの模様、布地に至るまですべてに1945年夏という時代性が投影されている。そして、より注意深く見ると、多くは若い女の子自身の好みで、あるいは母親の娘に対する愛しさをこめて、手作りでこしらえたものであることが分かる。焼け焦げてボロボロになったところや、黒い雨に打たれて全体が黒くなっているものもある。
写真の一点一点をじっくり見ていくと、広島の原爆被災は「死者約20数万人」などという表現では表面的でしかなく、一人ひとり様々な悲劇が20数万件も起きた事件なんだというとらえ方をしないと、真実に迫ることはできないのだと分かってくる。
大量殺戮の原爆は、着るものひとつも手繕いして大事にしつつ生きていく心豊かな生活文化のあり方までをもこの地球上から抹殺しようとしたものだったのだ。
なるほど、この指摘はあたっていることが、写真でよみがえっている衣類のひとつひとつを眺めていると実感として分かります。
一見の価値ある、貴重な写真集です。
(2008年4月刊。1800円+税)
2011年9月 4日
砂の剣(つるぎ)
著者 比嘉 慂 、 出版 青林工芸舎
太平洋戦争の末期、沖縄でくり広げられた悲惨な地上戦の様子が漫画で再現されています。沖縄出身の著者ならではのきめこまやかな描写で戦争の悲惨さとともに人々のなんということもない日常生活が描かれています。
軍隊は人々を守るためにはその他に住む人々を犠牲にして恥じることがないという実情も暴かれています。
現実の戦争はもっともっと泥臭く、陰惨なものだったと思いますが、そんな実情の一端は伝えてくれる貴重なマンガだと思いました。
いいマンガは人の心を打つものですね。たまにはマンガもいいものです。先日フランスに行ってきましたが、MANGAと表示された本屋にはマンガ本があふれていました。
(2010年9月刊。1200円+税)