弁護士会の読書

※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。

日本史

2012年5月 2日

とめられなかった戦争

著者   加藤 陽子 、 出版   NHK出版

 とても知的興奮をかきたてる、刺激的な本でした。なるほど、そういうことだったのかと何度も再認識しました。
 1944年6月のマリアナ沖海戦と7月のサイパン地上戦に日本が敗れ、サイパン島を失ったのは決定的なターニングポイントだった。敗戦の1年前のサイパン失陥の時点で戦争は終わらせるべきだった。この機会を逸したことで、日本はより悲惨な戦いを強いられ、敗北を重ね、被害を一挙に増大させていくことになった。
 1942年8月に始まるガダルカナル島の戦いは、日本軍が攻撃から守勢へと、立場を変えた戦局の転換点だった。マリアナ諸島は、製糖業の拠点であると同時に、軍事拠点でもあった。ここは日本の絶対国防圏内にあり、日米ともに戦略上最重要と認める焦点だった。日本軍にとって死守すべきところなのである。
 この「絶対確保すべき要域」にアメリカ軍の侵攻を許したことは重大であるのに、このサイパン失陥が政府、大本営で問題視された形跡はない。
 サイパン失陥によって、アメリカ軍による本土空襲は日程に上った。B29というアメリカ軍の大型爆撃機は日本本土を空襲して帰ってくるのにちょうど間にあう位置にある。アメリカ軍は、B29による日本本土空襲を当面の最重要戦略に位置づけていた。だからこそ、最強の機動部隊と7万人の兵力をつぎ込んでサイパン・マリアナ諸島を攻略するや、サイパン・テニアン・グアムで航空基地群を建設・整備しはじめた。
 日本も、サイパンの戦略的重要性が分かっていたから、4万人の将兵を送ってサイパンの守備を固めた。堅固なサイパンは守り抜けると確信していたのに失陥したため、9日後に東条英機首相は退陣に追い込まれた。日本はマリアナ沖海戦で決定的な戦力である機動部隊を失ってしまった。そのため、日本海軍は、以後、合理的な作戦を立案できなくなってしまった。
 サイパン失陥のあと、多くの日本人が終戦までに亡くなっていた。東京大空襲で10万人、原爆で広島14万人、長崎50万人もの民間人がサイパン以後の空襲で亡くなった。日中戦争から敗戦までの軍人・軍属の死者230万人、その6割の140万人は、広い意味の餓死だった。
 1941年7月、日本軍が南部仏印に進駐すると、アメリカは日本の予想に反して石油の対日全面禁輸を実行した。なぜか?
 それはソ連を応援するためだった。ドイツとの戦争を始めたばかりのソ連が連合国側から脱落しては、元も子もない。アメリカの軍需産業は動き出したばかりで、まだモノがなかった。翌42年春になればなんとか輸出情勢が整うので、それまではソ連にもちこたえてもらわなければならない。そこで、ソ連が当面の敵ドイツに加えて背後から日本の攻撃を受けることがないように、日本を強く牽制し、注意をアメリカにひきつけた。つまり、ソ連の背後の脅威を除くためにとった措置だった。
 日米開戦の最大の推進力となった陸海軍の将校、とりわけ参謀本部、軍令部の中堅幕僚たちは、当時は40歳代で、いずれも少年のときに日露戦争を体験している。少年時代に刻みつけられた華々しい勝利の記憶が、開戦それも早期開戦を渇望しただろう。
日本が緒戦に大勝すれば勝機はあると思っていたのは、財政的に準備していたことが大きい。日中戦争が始まってから、臨時軍事費を特別会計で組み、膨大な軍事費を確保していた。その3割を日中戦争遂行のためにあて、残る7割は来るべき太平洋戦争の準備にあてていた。4年間で、256億円、今のお金に換算すると20兆円をこす。これだけ軍備につぎ込んで準備していれば、まだアメリカの準備がととのわないうち緒戦に大勝すれば、そのまま戦争に勝てると考えても不思議ではない。
 満州事変は、日本も中国も、宣戦布告はせず、戦争とはみなされない方法ともに選んだ。それが共通のメリットだった。また、アメリカにとっても、日中の関係にアメリカ国民が巻き込まれないですむというメリットがあった。そんな三者の暗黙の了解のもとに日中戦争は展開していった。
中国人の胡適は、中国は豊かな軍事力を持つ日本を自力では倒せない、日本の軍事力に勝てるのはアメリカの海軍力とソ連の陸軍力の二つしかない。だから、この二国を巻き込まない限り中国は日本に勝てない。そのためには、中国との戦争を正面から引き受けて、2~3年間、負け続けることが必要だ、そう言い放った。
なんと鋭い冷静な言葉でしょうか・・・。
 昭和天皇でさえ、自らの意志によって、暴発した軍事行動をとめられないというパターンができていた。これは別に昭和天皇伝記で紹介したとおりですね。
 よく調べてあるし、その論評の確かさには舌を巻いてしまいます。わずか130頁ほどの薄い本ですが、ぎっしり中味の詰まった重厚な本でした。
(2011年7月刊。950円+税)

2012年4月27日

人間、昭和天皇(上)

著者   高橋 紘 、 出版   講談社

 宮内記者会にいて、昭和天皇と出会って40年という記者の手になる本です。人間としての昭和天皇の実像がよく描かれていると思いました。
明治天皇は側室を6人置き、うち5人から15人の皇子皇女が生まれたが、成人したのは嘉仁親王(大正天皇)と4人の内親王のみ。ええーっ、3分の1の生存確率だったのです。十二分に保護されていたはずなのに、どうしてこんなに生存率が低かったのでしょうか・・・。
 皇子の名は「仁」がつき、皇女は「子」がつく。これは平安時代からの遺風である。幼少時代の裕仁親王について、神経質だと書かれている。それには、将来の天皇を事故のないように育てようとする神経質な大人の気持ちが伝わったからだろう。
 大正天皇は子煩悩で、また子どもたちも父親が大好きだった。「親子別居」が制度化されていたが、両親はそれを何とか崩そうとした。
 明治天皇は糖尿病を患っていた。酒が好きで運動が嫌いで、医者の言うことに耳を傾けなかった。日露戦争中の1904年に診断が下っていたが、病気が知れると将兵の士気にかかわるので、極秘事項とされた。
 皇太子嘉仁(大正天皇)は病弱だったので、側近は腫れものに触るようにして育てたので、身勝手でわがまま放題に育った。親王教育は5歳から始まったが、しばしば病に伏せたので系統だっていなかった。
 裕仁親王への歴史教育は皇国史観ではなく、批判的、客観的なものだった。裕仁の御学友は「陸海軍志望者に限る」ということだったが、実は、ご学友のうち軍人になったものは一人もいない。
 宮中ではトイレを「御東所」という。御東とは大便のこと。尿は「おじゃじゃ」。昭和天皇は生涯、便のチェックを受けていた。トイレはもちろん水洗だが、使用後は流さない。待医が見て、「拝診日記」に記録する。たとえば、「御東午前10時30分硬中」というように。
訪欧まで、裕仁親王はテーブルマナーも知らなかった。また、身体を動かすクセがあり、それは晩年まで直らなかった。
伝統墨守派の皇后からすれば、帰国後の裕仁の拳措は軽薄な外国かぶれとしか映らなかった。
20歳の青年皇太子(裕仁)には奔馬のような勢いがあった。その皇太子に対し手網を巧みにさばき、次代の天皇としてバランスよく育てあげるのが牧野伸顕の役目だった。
皇后は何事にもマイペースなところがあった。
 昭和天皇(裕仁)は、人の前で他人を貶(おとし)めたり、批判したり、まして怒ったりしたことがない人という天皇像は伝説でしかない。実のところ、「側近日誌」では何人もが批判の対象になっている。
 田中義一内閣の倒壊は、西園寺以下の宮中側近が天皇の政治関与を認めた結果だった。これ以降、昭和天皇は、「もの言わぬ人」になった。しかし、意に召さないときは、昭和天皇は態度や質問で抵抗することがあった。内閣が上奏するとき、同意のときは「そう」と言うが、不同意のときは黙っている。書類も不賛成のときは、手元に留めておいてしまう。
 昭和天皇は、生涯、朝・昼食に牛乳を飲んだ。戦後も御料牧場から皇居に数頭ずつ3ヵ月交替で送られてきた。牛の世話をする人が少なくとも130人ほどいる。
朕の軍隊は大元師の意向を無視して独断専行する。30歳の若き天皇の悩みは日ごとに増幅していった。陸軍の幹部は、自分たちの思うようにならないと、陛下はあまりに平和論者だとか神経質すぎるとか、かれこれ不平をもらす。結局、側近や元老が悪いからそうなると言いふらした。
 皇太子(平成天皇)は、満3歳3ヵ月で両親の膝元を離れた。昭和天皇は、せめて皇太子が学齢に達するまで手元に置きたいと願ったが、貞明皇后と西園寺が旧慣をがんとして割らなかった。昭和天皇は、自分は両親の愛情が感じられず悲しかったと思い出を語った。
 昭和天皇の悲しく寂しい生い立ちが明らかにされています。帝王って孤独な存在なのですね。
(2012年2月刊。2800円+税)

2012年4月13日

贈与の歴史学

著者   桜 井  英 治 、 出版   中公新書

 年貢契約説というのを初めて知りました。
領主には百姓を保護する義務がある。それに対して、年貢は百姓がその御恩に対する忠節・奉公として納入したもの。だから、年貢の減免要求はあっても、年貢そのものを廃棄しようという動きはまったく見られなかった。
 調(ちょう)の本質は、氏族や官人に分配することではなく、神に対する贈与にあった。
 初穂を特徴づけるのは額の少なさだった。まさしく寸志だった。収穫の3%という低率だった。古代の税は人への課税から土地への課税へと大きく変化した。そのとき、神への捧げ物としての本来的性格は失われた。
 室町幕府の意思決定は、評定会議にせよ、大名意見制にせよ、有力大名の全会一致を原則としていた。専制的な将軍として知られた足利義教でさえ、この原則は無視できなかった。
 有徳銭(うとくせん)は、金持ちにのみ賦課された富裕税のこと。一定以上の財産をもつ者にのみ賦課された。
 いま、アメリカでオバマ大統領が試みている金持ちへの課税ですね。日本でも共産党が提唱していますが、民主党も自民党も強く反対しています。私は必要だと考えています。
 有徳人に徳行を求める民衆意識こそ、中世後期において有徳銭を支えていた主要な倫理的基盤であった。
 有徳銭が民衆に対する間接的贈与であったとすれば、土倉・酒屋などの金融業者に責務の破棄を求めた徳政一揆は、いわば民衆に対する直接的贈与を求めた運動に位置づけられる。富める者は、その富を社会に還元しなければならない。本当に、そのとおりです。アメリカでは大金持ちが自分たちに適正な課税(税率アップ)を求めていますが、日本の超大金持ちから、そんな声は聞けません。残念です。
 中世の日本は、文書の発給や訴訟など、さまざまな場面で、礼銭(非公式の手数料)が求められた社会だった。このような非公式の礼銭収入が実質的に役職に付随する唯一の収入源となっていた。
 中世の人々は、損得勘定、釣りあいということに非常に敏感だった。損得が釣りあっている状態を「相当」、釣りあっていない状態を「不足」と呼ぶ。
 手紙の末尾は、相手の身分に応じて書き分けねばならなかった。謹言、恐々謹言、恐惶謹言、誠恐謹言。ちなみに、拝啓とか前略という書き出し文言は中世日本にはない。
 13世紀後半、それまで米で納められていた年貢が、銭で納める形態に変化した。これを年貢の代銭納制という。この出来事は、中世日本の経済にとって、最大の事件だった。
 年貢の代銭納制は、日本列島に膨大な商品の流れを発生させ、本格的な市場経済が展開するようになった。
 中世後期の日本では、銭を贈答に用いることに抵抗を示さなかった。今日の日本でも現金が平気で贈答されるが、これは日本の特殊性だ。
 ええーっ、そうなんですか。たしかに、結婚式その他で、私たち日本人は全く平気でお金を包んでいますよね。そして、その相場表がマナーの本にのっています。
 中世とは、年始から歳暮に至るまで、一年を通じて際限なく贈答儀礼がくり返されていた時代である。
 私たちが、今日、平気でしていることって、意外にも世界的には珍しいことのようです。しかし、それは中世以来の伝統でもあるというのです。いろいろ知らないことって多いですよね。
(2011年11月刊。800円+税)

2012年3月15日

写真の裏の真実

著者   岸本 達也 、 出版   幻戯書房

 あの硫黄島の戦いで、捕虜となって生き残った日本兵がいたのですね。しかも、この日本兵は栗林忠道中将のそばにいる通信担当兵でした。
 運良く助かった、この日本兵が生き延びることが出来たのはフランス語を話せたからでもありました。戦前の東京でアテネ・フランスに通ってフランス語が話せるようになったのです。そして、アメリカ兵に託した家族写真の裏にはフランス語が書かれていました。しかも、なんと、それはボードレールの「悪の華」の一節だったのです。
 この暗号兵はアメリカ軍に対して自分の知っている日本軍の機密情報を洗いざらい提供したのでした。これを日本への「裏切り」として許せないと怒った元日本兵がいますが、どうでしょうか。むしろ、一刻も早く日本を敗戦にもち込んだほうが多くの罪のない日本人が助かると考えたからですので、本当の意味での愛国者と言えるのではないでしょうか。愛国心というのは、その国に住み生活している人々を大切にすることだと私は思います。
 このように、「スパイ」行為(この暗号兵は決してスパイではありません。念のため)は、真の愛国心と両立することもあるのです。ところが、現代日本でまたもやかつてのスパイ防出法案と同じ秘密保全法を政府は制定しようとしています。情報の国家統制を強めようというわけです。許せません。いま、弁護士会は大きな反対運動に立ち上がろうとしています。
それはさておき、この暗号兵はアメリカ軍に対して本名を偽っていました。なぜか?
 日本兵は捕虜にはならない、なってはいけないという戦陣訓があったからです。捕虜になったことが知られると、日本にいる身内に迷惑がかかります。ですから本名を名乗ることができなかったのです。
 クリント・イーストウッド監督による硫黄島の戦いを描いた映画二部作『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』は、私も映画館で見ましたが、感動的な大作でした。戦争の不条理さもよく描いていたと思います。それにしても、あんなに激しい戦闘のなかで、よくも捕虜として生きのびたものだと思います。
 この本は静岡放送のディレクターが、わずかな手がかりをもとにして、この暗号兵を探り出していく過程を描いています。よくぞ判明したものです。厚労省の社会・援護局が調査して突きとめたものでした。フランス語を勉強したのは、フランスに渡って画家になる目標を実現するためだったのです。
 よくもまあ、ここまで調べあげたものだと感心しつつ、捕虜となった日本兵のその後の厳しい人生をしのんだことでした。
(2011年12月刊。2500円+税)

2012年2月29日

バターン、死の行進

著者   マイケル・ノーマンほか 、 出版   河出書房新社

 日本軍がフィリピンを占領したとき、アメリカ・フィリピン軍の捕虜7万6000人を中部にある収容所まで炎天下100キロ行進させ、1万人近くが亡くなったというバターン死の行進を日米双方の資料をもとに明らかにしています。
日本軍の最高責任者(司令官)だった本間雅晴中将は戦後、戦犯となって死刑になりました。これは、実はマッカーサー将軍が日本軍によってフィリピンから敗退させられたことへの報復惜置だったのではないかという見方があります。
 この本を読んで、マッカーサーが日本軍が攻めてくる前に根拠のない楽観論を振りまいていて、無策のうちに日本軍のフィリピン上陸そして占領を許してしまったという事実を知りました。マッカーサーって、戦前の日本軍の典型的な将軍と同じような観念論者だったようです。
 1941年7月、ルーズベルト大統領はマッカーサーをアメリカ極東陸軍司令官に任命した。8月、マッカーサーは、フィリピン防衛計画が完成に近づいたと米国戦争省に断言した。10月、まもなく20万人の軍隊が用意できるとマッカーサーは報告した。これによって、アメリカ政府はマニラの軍隊がいかなる事態にも対応できると信じた。
 実際に7週間後に戦争が始まったとき、マッカーサーは約束した兵力の半分しかもっていなかった。アメリカ兵1万2000人は、その実戦部隊は実際に敵と戦ったことはなかった。フィリピン兵6万8000人は、テニスシューズをはき、ココナツの殻のヘルメットをかぶって戦うことになった。
 マッカーサーは、開戦前に次のような命令を発した。
 「敵は海岸で迎え撃つ。何があろうと食い止める。撤退はしない」
 ところが、日本軍は12日間でマニラを攻略した。あとは奥地の残敵を掃討するだけだった。米比軍の大半はバターン半島に退却した。バターン半島は、戦場としてはきわめて苛酷な場所だった。
日本軍は敵の兵力について見誤っていた。日本軍の兵力は、米比軍の3分の1にすぎなかった。日本軍の第一次バターン攻略作戦はうまくいかなかった。50日でフィリピンを占領することはできなかった。
本間中将は、戦場だけでなく、祖国日本でも政敵に攻め立てられ窮地におちいっていた。東条英機首相兼陸軍大臣(大将)は本間の古くからの敵対者だった。
 本間は指揮下の兵力の半分2万4000人以上を失っていた。アメリカは、マッカーサーを脱出させる方法を話し合っていた。陸軍最高位の将軍であるマッカーサー大将が敵に捕まえられでもしたら、そのニュースがアメリカに大打撃をもたらすという考えによる。
 1942年3月10日、闇夜にマッカーサーは家族と身近な参謀の数人でフィリピンを脱出した。このときのマッカーサーの言葉は有名です。
「私は戻ってくる」(アイ シャル リターン)
 これは、我々は必ず戻ってくるというのではありません。普通なら、ウィー シャル リターン)ですよね。そこを我々ではなく、私というところが、いかにも独善的です。
 1942年3月、本間中将は3万9000人の将兵で第二次バターン攻撃に移った。
 4月9日、バターン半島の米比軍は日本軍に降伏した。7万6000人をかかえるアメリカ軍の部隊が降伏したのは歴史上初めてのことだった。捕虜の人数は日本軍司令部の推定の2倍以上になった。将兵7万6000人、民間人2万6000人である。
 日本軍の兵卒は捕虜をひどく残忍に殴りつけた。だが、日本軍では、上官の軍曹や少尉にしても、部下の兵卒を殴る際には同じように残忍だった。
 日本兵にとって捕虜を殴ることは義務だったが、一部のものには娯楽だった。故国で教練所を虐待所に変えたサディストたちが、いまや何の力もない捕虜の列の間を歩き回り、彼らに日本語で罵声を浴びせ、命令し、理解できなければ馬鹿だと言って殴り飛ばした。
 4月10日、米比軍の降伏の翌日、日本軍は徒歩による捕虜の移送を開始した。
 日によって15キロすすむ日もあれば、20キロ、あるいは30キロ以上進む日もあった。
 年間でもっとも乾燥する時期だった。太陽が容赦なく照りつけ、地上のあらゆるものを焼き焦がした。昼すぐには大気が熱せられてオーブンのような状態になった。地盤は焼き上がったばかりの煉瓦のようだった。監視兵は、捕虜を常に前進させるよう命じられていた。
 捕虜の中には脱水症状がひどくなり、脳の神経伝達物質がうまく機能しなくなるものもいた。脱水症状の一つの機能障害に陥ったのだ。幻覚をみる者もあらわれた。日本人にしてみれば、捕虜は「敵国人」であり、憎むべき対象だった。フィリピン軍の志願斥候兵は日本軍を手こずらせていたのでとりわけつらくあたった。
 米国兵ばかりの隊列には、40代、50代の士官が何人もいた。参謀をつとめていた、ふっくらと肉づきのいい佐官は、途中で倒れたり、徐々に遅れをとったりして、後方で待ちかまえるハゲタカ部隊の標的になった。
 慢性的な物資不足と常習的な準備不足のせいで、不倶戴点の敵である捕虜を困窮させても、日本兵は何とも思わなかった。捕虜に満足に食べさせる余裕もなければ、そうする意思もなかった。
 行進して5日間、日本軍は当初の計画を捨て、場当たり的なことをはじめた。監視兵の多くは混乱していた。なんといっても捕虜の数が多すぎた。
赤痢にかかっている者は非常に多く、座ったり横になったりする待機所には糞尿、分泌物、血液がそのまま垂れ流された。多くの待機所では死体が放置され、やがて腐敗しはじめた。次の捕虜の集団がそれぞれの待機所に着くころには、腐った死体の悪臭と、汚物のあふれる便所の悪臭とが合わさって、耐えがたいものになっていた。
 捕虜たちは常に北を目ざした。時間や場所の感覚も、目的意識もなかった。行進中に大事なのは歩き続けることだった。道中、日本軍はだいたいにおいて避難民にかまわなかった。
 降伏から一日もたたないうちに、ルソン島の各地に噂が広まった。さまざまな州からフィリピン兵の家族や親類がバターンに集まり、身内の姿を一目見るよう、機会があれば言葉をかわそうと、国道ぞいに並んで待ちかまえた。
 オドネル収容所は、もともとフィリピン軍の兵員2万の師団用の兵舎だった。その狭苦しい敷地に、4月1日以降日本軍はアメリカ兵9270人、フィリピン兵4万7000人、計5万
6000人を詰めこんだ。
 1942年5月5日、本間中将はコレヒドール島を攻撃し、5月6日、守備していた米比軍1万1000人は降伏した。
 1942年9月、フィリピンからアメリカ人捕虜500人が日本に輸送された。日本の国内労働不足をカバーするためである。連合軍捕虜と現地労働者12万6000人が日本への船旅をしたが、そのうち2万1000人は船とともに死んだ。
 この本には、筑豊の炭鉱で働かされた人の体験が紹介されています。そして、戦後、本間中将は戦犯として裁判にかけられ死刑に処されるのでした。日本軍のバターン攻略により、一次フィリピンを脱出してオーストラリアに逃れざるをえなかったマッカーサーは、自分の輝かしい軍歴を傷つけた本間中将が許せなかった。
 悲惨な戦争の実情がよく伝わってくる本です。
(2011年4月刊。3800円+税)

2012年2月16日

昭和天皇

著者   古川 隆久 、 出版   中公新書

 昭和天皇の実像を探求しようとした意欲的な新書です。
 昭和天皇の思い通りに軍部が動かない。動いてくれない軍部に対して昭和天皇は妥協を重ねるしかなかったというトーンが一貫しています。ということは、天皇を錦の御旗として、軍部が思い通りに日本を牛耳っていたことになります。そして、その軍部も内部を見れば、決して一枚岩ではありませんでした。強大な天皇がいて、その一言ですべてが決まっていたという見方は認識を改める必要があることを痛感しました。
 といっても、戦争中40歳だった昭和天皇の一言は実に大きいものがありました。にもかかわらず、容易に貫徹しなかったというのですから、やはり世の中は単純には割り切れないということです。
 少年時代の昭和天皇は、御学問所で歴史の講義を受けている。その時の講義に出てくる最多登場人物は明治天皇(36回)、2位は徳川家康(25回)、3位は仁徳天皇(24回)だった。さらに、アメリカのワシントン大統領やプロシアのフリードリヒ大王も好ましい指導者として繰り返し登場した。それは、天皇神格化とは無縁の内容だった。歴史の授業を担当したのは白鳥庫吉だった。神代については、あくまで神話であることを明示し、その言動が批判された天皇もいた。
 語学はフランス語が教えられた。ヒロヒト皇太子のヨーロッパ外遊は日本で大きく報道され、一種のスター、アイドル化していた。
 ヒロヒトは摂政時代、東京で発行される新聞全紙と大阪・台湾さらには地方新聞まで読んでいた。パリの新聞も取り寄せ、フランス語の勉強を兼ねて読んでいた。「改造」、「解放」、「中公公論」などの総合雑誌も読んでいた。とくにヨーロッパ旅行のあとは、幅広く読むようになった。
 1928年6月4日の張作霖爆殺事件について、昭和天皇は田中義一首相を叱責した。この点に、著者は、ここで政治に介入しなければ、政党政治を擁護するはずの昭和天皇の政治責任が問われることになる事態になると思ったからだと解説しています。
 「聖断」によって内閣が退陣したのは、これが初めてだった。その後、右翼は昭和天皇の側近を攻撃していたが、それは実質的には昭和天皇そのものを批判する狙いがあった。
 満州事変が勃発するときにも、昭和天皇の権威は揺らいでおり、軍部を抑えることができなかった。西園寺は昭和天皇の威信低下を痛感していた。国際関係の緊張が軍部の発言力を高めたため、昭和天皇が国政を掌握するのはますます困難になっていった。
 昭和天皇は美濃部達吉の天皇機関説を理解していた。しかし、対外的には国体論を認めたかたちになってしまった。その結果、昭和天皇は、国内政治に関する思想・政策に関して、もはや完全に孤立してしまった。
 1936年に2.26事件が起きたとき、昭和天皇は断固鎮圧を決意した。決起グループは皇道派に昭和天皇は同情的であると聞いていて、実は批判的であることが知らされていなかった。だから、決起グループは、あくまで天皇の真意実現を妨げる諸勢力を粉砕することが目的だった。しかし、昭和天皇からすると、大局的見地から工業化路線を優先した自分の判断が暴力的に否定されたと受けとめた。
 事件を即時鎮圧し、陸軍の下克上体質を改めよという意向を昭和天皇は示した。ところが、決起集団に同情的な陸軍は、なかなか鎮圧に動こうとしなかった。天皇と陸軍の意思が異なったとき、天皇の意思が「皇祖皇室の遺訓」に合致していないと陸軍が判断できるなら、最高指揮官たる現天皇の意向に反して問題はない。こういう考え方が陸軍の側にあった。このように、陸軍にとって天皇は絶対的な存在ではなかったわけですね。
2.26事件について、陸軍は天皇から叱責されたという不名誉な事実を組織ぐるみで隠蔽してした。
昭和天皇は、生物学を研究していたが、これについても、陸軍武官がこの非常時に生物学の研究なんてはなはだけしからんと批判していたので、昭和天皇は気兼ねしていた。
 うへーっ、好きな歴史学ではなく生物学を逃げ場としていたのに、それすら軍人から批判されていたとは、昭和天皇も大変です。そんなこんなで、昭和天皇は一時期、大変やつれていたとのことです。
 1938年7月、昭和天皇は次のように語った。
 「元来、陸軍のやり方はけしからん・・・。中央の命令にはまったく服しないで、ただ出先の独断で、朕の軍隊としてはあるまじきような卑怯な方法を用いるようなこともしばしばある。今後は朕の命令なくして一兵だも動かすことはならん」
 元老西園寺が老衰で政治的影響力を失いつつあった当時、昭和天皇はますます周囲から理解者を失いつつあった。
 結果的に日中戦争の進展を容認し、太平洋戦争開始の決断を下したのは昭和天皇であった。終戦の「聖断」まで時間がかかったのは、少しでも有利な条件で戦争を終わらせたかったため。昭和天皇は、少しでも有利な条件で講和しようと、局地的戦闘の勝利を期待する一撃講和論者だった。
 この本を読んでも、昭和天皇に戦争責任があることは間違いないところだと確信しました。
(2011年11月刊。1000円+税)

2012年2月11日

本土決戦の虚像と実像

著者  日吉台地下壕保存の会 、 出版   高文研

 第二次世界大戦の末期、当時の日本軍最高指導部は本気で本土決戦を考えていたのですね。信じられませんが、そのことがよく分かる本です。
 館山や九十九里浜にアメリカ軍が上陸することを予測し、多くの特攻基地をふくむ地下壕群が築造されていった。また、長野県松代に大本営を移転すべく地下壕を本格的に築造していった。本土決戦は、決して机上の計画にとどまったものではなく、幻の計画ではなかった。
 当初の本土決戦は、航空攻撃と海岸線の砲台・陣地によってアメリカ軍に上陸以前に大損害を与え、上陸してきたアメリカ軍は内陸部の陣地でくいとめ、アメリカ軍の消耗を待って「決戦兵団」が攻勢に出て、アメリカ軍を一挙に撃滅する作戦であった。
 うへーっっ、なんだか成功しそうで、実はまったくナンセンスな計画ですよねだって、そのころには既に航空機も海岸線の砲台も、そして内陸部の決戦兵団なんて、現実にはどこにもなかったのですよ。
 本土決戦の準備として大本営を移転させること、風船爆弾によってアメリカ本土を攻撃しようという計画がすすめられた。
風船爆弾には、当初、生物兵器をつかう計画だったようです。それによってアメリカの家畜を壊滅させて、社会を大混乱させようというのです。しかし、それをしたときのアメリカ側の反撃が怖くて止めて、爆弾が積まれました。風船爆弾9300発が発射され、アメリカ大陸に1000発は到達した。着弾地が確認されたのが361発で、死者6人という「成果」をあげて終わった。
本土決戦のため、参謀本部は150万人を招集し、一般師団40、混成旅団2つをつくりだす計画だった。
 大本営は、第一線部隊には後退を許さず、玉砕を強要しながらも、最後まで松代大本営工事を督励し、大本営(総司令部)のみは後退し、自己を温存することを図った。玉砕の強要と自己保存である。
 松代大本営は、総延長10キロをこえる3つの地下壕群が今も残っている。つくった労働者は、ほとんどが朝鮮人であった。6~7000人が働いていた。ここには天皇の御座所もつくられた。この工事は鹿島組が請け負い、180人の朝鮮人労働者が働いた。結局、日本の国土が荒廃し、多くの日本人が死んでも天皇制だけは存続させようということだったのですね。いやになってしまいます。
(2011年8月刊。1500円+税)

2012年2月10日

天子の奴隷

著者   ロイ・H・ホワイトクロス 、 出版   秀英書房

 第二次世界大戦中、シンガポールで日本軍の捕虜となり、ビルマのタイメン鉄道建設にに従事させられ、その後、日本へ送られて三池炭坑で働かされたオーストラリア兵の記録です。苛酷な収容所生活のなかでよくぞ生き残ったものだと、つい感嘆してしまいました。
 1942年2月、イギリス軍は改めてきた日本軍に降伏した。
 チャンギ収容所にオーストラリア軍だけで1万5000人が収容された。そこへ、山下奉文将軍が視察にやってきた。
捕虜を乗せた貨物船は、シンガポールに向けて航行中、アメリカ軍艦水艦の魚雷攻撃を受けて沈没した。
 ビルマに連行されて、そこでタイメン鉄道の建設作業に従事された。私はみていませんが、有名な映画になっていますよね。クワイ河マーチも有名です。
 著者は、ここで23歳の誕生日を迎えました。この若さがあったから生きのびることが出来たのです。
 収容所ではコレラが猛威をふるい、次々に死者が出ます。トイレに夜中27回もいったといいます。マラリアも大流行します。隊の死亡率は5割。労働隊320人のうち、200人が病気で寝ていた。毎日のように誰かが脳性マラリアの犠牲になった。
 110キロ・キャンプでは1日に35人の死者を出した。30キロ・病院キャンプでは総員1027人のうち、既に500人以上が死んだ。
 1943年12月。570人のうち295人が働けなかった。1週間後、病人は399人に増えた。著者のところでは43人のうち38人が重体で動けなかった。
 1945年1月、九州になんとか到着した。大牟田の捕虜収容所は九州最大で1500人を収容した。イギリス人、アメリカ人、オランダ人、オーストラリア人がいた。そのうち、オーストラリア人は4棟を占めた。
給料は皆勤すると月に7円が支給された。ただし、これから1日1回のミルク代として2円が差し引かれた。
日本軍は連合軍捕虜への赤十字物資を専断し、倉庫にため込んだ。ときどき、それを勝手に償品として出勤率最高の部隊に贈られた。
 1945年6月、石炭600トンを産出するように勧告され、それから酷使され続けた。
やがて大牟田も空襲されるようになった。空前の規模の空襲は8月9日のこと。
8月15日、突然に戦争が終わり、解放された。大牟田にあった捕虜収容所には、終戦時に、収容者が1737人いた。収容中に138人の捕虜が死亡。オーストラリア人も19人が死亡。その半数は肺炎による。
 大牟田は、大阪や尼ヶ崎と並んで原爆攻撃の2次目標に入っていた。
収容所の初代所長の由利敬は戦犯として第一号に死刑が執行され、二代目所長の福原勲は巣鴨で2番目に紋首刑が執行された。このほか、大牟田収容所関係では2人が死刑となっている。
 著者は1920年の生まれですから、終戦時は25歳でした。2009年に亡くなっていますので、幸いにも89歳まで生きておられたわけです。シドニー大学に学び、またシドニー大学で働いていました。
 大牟田の収容所に入られ、捕虜として三池炭坑で働かされて生きのびた貴重な体験記です。広大な収容所の建物(宿舎棟)がずらりと並ぶ様子は壮観としか言いようがありません。写真をみると海岸沿いにあったようです。
(2010年10月刊。2500円+税)

2012年2月 3日

不思議な宮さま

著者   浅見 雅男 、 出版   文芸春秋

 戦後初の首相となった東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)王の評伝です。その実像にかなり迫っていると思いました。
 稔彦王の生母は寺尾宇多子という女性である。
 正妃のほかに側室をもつのが当たり前だった皇室では、子どもはすべて正妃の子とされ、生母はあくまでも腹を貸しただけという建前がとられた。生母は自分の腹を痛めた実子に対して臣下の礼をとられなければいけなかったし、生母への思いを公然とあらわすのは慎まねばならなかった。ところが、稔彦王の父である朝彦親王には正妃がいなかった。それにもかかわらず、生母は名乗ることができなかった。
 朝彦親王は四男だったが、宮家を継ぐ王子以外は出家するという江戸時代以前の皇室のならわしにしたがって、8歳で京都の本能寺にあずけられ、14歳のときに奈良の一乗院の院主となった。朝彦親王は孝明天皇の命で還俗(げんぞく)した。ところが、朝彦親王は孝明天皇の期待を裏切って、公式合体派の首領として、京都朝廷で威勢を振るった。そして、明治元年、朝彦親王は岩倉らによって、徳川慶喜と結託して幕府の再興を図ったとの理由で広島に幽閉されてしまった。
 稔彦王は、生後すぐに母親から離され、京都郊外の農家に里親に出された。
 このころ、皇族や公家の幼児が里子に出されるのは珍しいことではなかった。子どものころ稔彦は、皇太子である嘉仁親王を尊重していなかった。それどころか、天皇という存在への敬意も欠如していた。
 皇族の生徒の取り扱いは軍当局にとって難題だった。もともと体力の劣っている皇族を厳しく鍛えると、病気になることがある。特別扱いするのは無理はなかった。ところが、特別扱いされる皇族生徒のほうでは、それがストレスになった。
皇族はトルストイの本を読むのも禁じられていた。
 ええーっ、そうなんですか・・・。信じられません。
 明治天皇には14人の子どもがいた。男子は4人で、成長したのは後の大正天皇ただ1人。10人の女子のうち、成長したのは4人のみだった。
稔彦王は、拘束の多い皇族という身分が嫌で嫌でたまらなかった。稔彦王は、何度も何度も皇族の身分を離れたいと言いはって、周囲から顰蹙を買い、また関係者に迷惑をかけた。
 若い皇族の海外留学は天皇政権が誕生してまもないころから盛んにおこなわれた。
 皇族たちは、続々と海を渡った。どの皇族も、10代半ばから20代半ばの若さだった。ほとんど全員が現地の軍学校で学んだ。明治前半の皇族留学は、軍事修行が主たる目的だった。
 稔彦王がパリに留学したとき、年に20万円が与えられた。これは現在なら10数億円にもなる巨額である。パリの陸軍大学を卒業したあと、稔彦王は政治法律学校に入った。ここでは、フランス語版の「資本論」を読んだという。稔彦王は、画家のクロード・モネと親しくつきあった。そして、稔彦王は、なかなか日本に帰国しようとせず、周囲をやきもきさせた。
 陸軍では、皇族は皇族であるがゆえに経験や能力は度外視され、超スピードで段階が上がっていく。したがって、階級が高いからといって、有能な部下が何でもやってくれる部隊の長ならともかく、責任が重く、判断能力が要求される省部の幹部になるのは無理だった。
 王政復古以来、皇族が戦場におもむくことは珍しくはなかった。しかし、いずれの場合、皇族軍人たちは、その身が危険にさらされないように周囲から周到な注意をはらわれ、その結果、戦死した皇族は一人も出ていない。
 軍司令官としての稔彦王は、賢明にも「お飾り」に甘んじていた。
 内大臣の木戸は稔彦王について、取り巻きがよくないと許した。木戸は神兵隊、天理教、小原龍海、清浦末雄など好ましからざる連中が取り巻きにいることを熟知していた。
 終戦のとき、稔彦王をよく知る人たちは、稔彦王を信頼せず、もろ手をあげて首相就任を歓迎することはなかった。しかし、陸軍の暴発を抑えること、国民に敗戦を納得させ、人心の動揺を防ぐことが目的だった。
皇族の一員として生まれて、その特権を利用しながらも、不自由な皇族から離脱しようとした人物であること、そして、一貫した信念をもたず、取り巻きにいいように利用されてきた人物であることがよく分かる興味深い評伝です。
 今では、こんな人物が皇族としていたことは誰もがすっかり忘れていますよね。
(2011年10月刊。2200円+税)

2012年2月 2日

地の底のヤマ

著者   西村 健 、 出版   講談社

 私の生まれ育った町のあちこちが登場してくる小説です。
 私が小学6年生のころ、かの有名な三池大争議がありました。わが家のすぐ近くにある幼稚園の園舎は警官隊の宿舎になっていました。全国から2万人もの警察官が集結し、狭い大牟田の町は警察官にあふれました。いえ、それ以上に多かったのが全国から駆け付けた争議を応援する労働組合員だったでしょう。
 市内には大規模な炭住、そこには炭鉱長屋がずらりと立ち並んでいました。映画『フラガール』で常盤炭鉱に働く炭鉱長屋がCDで再現されていましたが、あの光景が一ヶ所だけでなく市内各所にあったのでした。
 市内は連日、デモ行進があっていました。いつも延々と長蛇の列です。上空には会社の雇ったヘリコプターが飛びかい、組合批判のビラを地上にまき散らしていました。私たち子どもは走って拾い集めていたものです。私が中学3年生のとき、三川鉱大爆発事故が発生しました。校舎が揺れ、3階にある教室の窓から黒い煙があがるのが遠くに見えました。大量の二酸化炭素中毒の患者(単にガス患と呼ばれました)が発生しました。
 三池争議では暴力団も「活躍」しました。三井鉱山が暴力団を飼っていたのです。坑内労働には組夫と呼ばれる下請会社の従業員も入っていましたが、その手配師として暴力団がはびこっていました。三池争議のなかで第二組合が出来て強行就労しようとして、第一組合がピケを張っている現場にドスや鉄パイプを持って殴り込んだのです。労働者の一人(久保清氏)が刺殺されてしまいました。
 暴力団は今も大牟田に健在です。この本の最大の弱点は大型公共事業を暴力団と政治家が喰い物にしてきたことを見逃していることです。
 それはともかくとして、第1部の昭和49年(1974年)、第2部の昭和56年(1981年)、第3部の平成1年(1989年)、そして現在という構成のなかで、大牟田市内の各所で発生した事件を要領よく、パズルのようにはめ込みながらストーリーが展開していくのは見事です。なかには私の知らないエピソードもあり、教えられるところがありました。
 著者は1965年生まれですから、自分の体験していないところが大半でしょう。よくぞ調べあげたものです。でも、この町には、まだまだたくさんの暗部があります。三池集治監時代のエピソード(たとえば、脱獄囚が判事になっていた)、市会議員が暴力団員に刺殺され、その共犯が市議会を長く牛耳ってきたこと、現職市長が収賄で逮捕されたこと、公共事業と暴力団の関係などなどです。引き続き、これらの話も調べていただいて続編を期待したいと思います。
 最後に、大変勉強になる本でしたと改めて感謝します。

(2011年12月刊。2500円+税)
 火曜日に東京に行って日比谷公園のなかを歩いて、雪があちこちに残っているのに驚きました。しかも、鶴の噴水のところには氷のつららがキラキラ光っているのです。東京は寒かったですね。
 夜、品川正治氏の講演を久しぶりに聞きました。88歳になられるそうですが、いつものようにレジュメなしで、しかも制限時間をきっちり守って話されるのに感嘆しました。
 支配層はもうごまかしがきかないと思い至っている。マスコミもずっとごまかしをしてきたけれど行き詰っている。そんな元気の出る話でした。私もがんばらなくては、と思いました。

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