弁護士会の読書
※本欄の記述はあくまで会員の個人的意見です。
日本史(明治)
2011年8月24日
日露戦争諷刺画大全(下)
著者 飯倉 章 、 出版 芙蓉書房出版
日露戦争とは一体いかなる戦争だったのかを知りたいと思ったら必読の本だと思いました。当時の世界各国のとらえ方がポンチ絵(政治マンガ)として紹介されているのですから、見逃すわけにはいきません。
1904年に始まった日露戦争で、1905年1月下旬、ロシア軍が突如として大規模攻撃を満州にいる日本軍に仕掛けてきて黒溝台(こっこうだい)の戦いが始まり、1月25日から29日まで続いた。これは、ロシアの血の日曜日事件の3日後に始のことである。ロシア国内では、世界の注目を血の日曜日事件からそらす目的でツアー(ロシア皇帝)がクロパトキンに攻撃を命じたのではないかと推測されている。
うむむ、なんと、そういうこともありうるのですね・・・。
この戦いでは、日本側は対応を誤った。ロシア軍大移動の情報を軽視し、厳冬期で積雪もあるので、ロシア軍による大掛かりの攻撃はないと判断して油断していた。
このあと、奉天会戦が続きます。日露戦争中の最大の陸戦である。3月10日、日本軍は奉天を占領して勝利したが、敵ロシア軍に一大打撃を与えて戦争の勝敗を決するという目的を果たすことはできなかった。
日本軍の黒木将軍は奉天を陥落後まもなく61歳の誕生日を迎えた。現役の勇猛な将軍と評価されていた。奉天会戦は、日露両軍ともに多大の死傷者を出した。日本側の戦死者は1万6千人、ロシア側は2万人。負傷者は日本側が6万人、ロシア側は4万9千人。ロシアは2万人が捕虜となった。
日本海海戦についても、いくつものポンチ絵で紹介されています。
日本側は、バルチック艦隊の動向を把握していて、戦術開始前に十分な準備をし、訓練を重ねていて、士気も盛んだった。
ロシア側は、ニコライ皇帝が講和を拒んでいた。なぜか?賠償金の支払いには強い抵抗感があった。それに応じたら、ロシアの体面は維持できないとニコライは考えていた。そして、強気だったもう一つの理由は、軍事的な情勢判断だった。ロシア側にはまだ戦力に余裕があった。
他方、日本側は、辛勝が続いているので、いつ戦況が逆転しないとも限らないという心配があった。
写真だけでなく、マンガ(画)でも事の本質はよく捉えることができることを実感させられる良書です。
(2010年11月刊。2800円+税)
2011年8月 2日
日露戦争・諷刺画大全(上)
著者 飯倉 章 、 出版 芙蓉書房出版
日露戦争は、東アジアの地域強国に過ぎなかった日本が、大国ロシアに果敢に挑んだ決死の闘いでした。その戦争の推移が世界各地の新聞・雑誌に掲載された諷刺画(ポン千絵)で紹介されています。文字だけの歴史・分析書とは違って視覚化(ビジュアル化)されていますので、とても面白く読めました。
諷刺画は、戦争をリアルに伝えることを意図したものではなく、また戦場の様子をリアルに伝えるのに優れていたわけでもない。諷刺を生業とする画家は、常に戦争や戦闘を斜に構えてとらえる。そこで、諷刺画は、奥深く幅広い人間の精神がとらえた戦争の一面を表象している。
日露戦争は避けることの出来た戦争だった。それは日露の対立を背景とし、日露両国が相手の動向を相互に誤解したために起きた戦争だった。日露戦争の原因をロシアの拡張主義のみに求めることは出来ない。その他の深層原因として、日清戦争後の陸海軍における日本の軍拡もあげることができる。
ロシア側は、日本から戦争を仕掛けることはないと勝手に決め込み、日本側に弱腰と受けとられないため、譲歩を小出しにした。他方、日本側は、戦うなら早いほうがよいという考えもあって早期決着を求めていた。ロシア側が、非効率なうえ、回答を遅らせることに無頓着であったことも、日本の誤解を増幅させた。
日露交渉では、お互いに政治外交上の妥協点をはっきり示していれば、ロシアが満州を支配し、日本が韓国を支配することをお互いに認める形で決着がついていた可能性もある。日本軍、とくに陸軍の戦略思考を拘束したのは、シベリア横断鉄道が全通したときの動員力の増強だった。日本陸軍としては、相手側の動員力が増強されないうちに優位に戦いをすすめたかった。
ロシアのツァーは戦争を望む性格ではなく、戦争を欲してはいなかった。そして、明治天皇も、日露開戦をもっとも心配し、開戦に消極的だった。明治天皇は対露戦争に乗り気ではなかったが、国内の主戦派に押し切られた。
アメリカの世論は、日露戦争の期間、おおむね親日的であり、とくに戦争初期の段階ではその傾向が強かった。
日露戦争はメディアを通じて、戦争が数日の間隔はあるものの、リアルタイムに近い形で報道された。
開戦当初、ロシア社会は熱狂的に戦争を支持した。しかし、この戦意高揚も長くは続かず、春ごろから戦争支持は急速に下火になった。敗戦が続いて士気がそがれ、しかも戦争の目的が不明確であったからである。
旅順総攻撃で日本軍は第1回のとき1万6千名もの死傷者を出して悲惨な失敗に終わった。このときロシア軍の死傷者は、その1割以下の1500名でしかなかった。そこで、ミカドが機関銃を操り、機関銃弾として「日本の青年」が次々に発射されていく絵が描かれています。まことに、日本軍は人間の生命を粗末に扱う軍隊でした。
日露戦争の実相をつかむためには必須の本だと思います。
(2010年11月刊。2800円+税)
2011年7月12日
韓国戦争(第6巻)
著者 韓国国防軍史研究所 、 出版 かや書房
ついに韓国戦争シリーズも第6巻、最終巻となりました。休戦の成立です。貴重な人命が惜しげもなくうち捨てられて、犠牲となっていく情景描写は、戦争のむごさを痛感させ、胸を痛めながら最後まで読み通しました。
1952年夏、戦線が膠着した状況で、共産軍側の軍事力は日ごとに増強されていった。7月、中共軍63万人、北朝鮮軍28万人の計91万人だったが、9月には合計100万人をこえた。兵力だけではなく、砲兵火力も大幅に増強させた。共産軍の装備補充のなかでもっとも不足していたのは、通信装備の部門だった。
国連軍司令官クラーク大将は、最小限の犠牲を持って最大限の軍事的圧迫を駆使できるのは空軍力だけだと強調した。航空圧迫作戦の主要な特徴は、第一に制空権の獲得、第二に、敵に最大限の犠牲を強いるものであること、第三に、地上軍の脅威を減少させること。
そこで、国連軍は北朝鮮の発電施設に対する大々的な攻撃を実施した。韓国内の500機以上の航空機を総動員して編成された大規模作戦だった。7月には、米第五空軍と米海軍の航空機822機が三派に分かれて平壌大空襲を実施した。11時間のうちに
1400トンの爆弾と2万3000ガロンのナパーム弾が平壌に投下された。これってすさまじい量ですよね。
1953年3月5日、ソ連のスターリン首相が脳出血のため突然死亡した。このスターリンの死は、国際情勢と朝鮮戦争に大きな変革を意味した。スターリンの死後、ソ連政府は朝鮮戦争を終結させるとの結論を出した。金日成もそれに従った。
5月、国連軍は北朝鮮軍捕虜5194人、中共軍1030人、民間人拘留者446人を共産軍側に引き渡した。このとき、共産軍側は、684人の捕虜を引き渡しただけだった。
1953年5月から最後の攻勢と呼ばれる軍事作戦が展開された。アイゼンハワー大統領は、板門店での膠着状態を打開するため、核兵器の使用を考慮していることを中国側に暗示した。この核兵器戦略は、作戦交渉に決定的な影響力をもっていた。アメリカ軍は、40キロトン核爆弾で平壌を攻撃する計画を立てていた。うひゃあ、これってとても怖いことです。つかわれなくて幸いでした。
1953年4月、共産軍の総兵力は180万人。そのうち中共軍が19コ軍135万人、北朝鮮軍が6コ軍国45万人だった。
中共軍は午前2時ころ、砲撃に続き、笛を吹き鉦(かね、ドラ)を打ち鳴らしながら、気勢をあげつつ、闇をついて攻撃してきた。
アメリカ軍が待ちかまえる近代戦の最前線でこのような非情な捨て身作戦が敢行されていたという事実に戦慄を覚えます。
韓国戦争は、その実情に照らして内戦とは規定できない。韓国軍63万人、国連軍55万人をふくむ119万人の戦死傷者を出した。それに対して、北朝鮮軍80万人、中共軍
123万人、計204万人の死傷者を出した。このほか民間人の死傷者は249万人に達し、323万人の避難民が発生した。
統一は、平和的な手段によって成し遂げなければならないという貴重な教訓を得た。
この最後の言葉は重いですよね。これで何とか6巻を読み通すことができました。お疲れさまです。朝鮮半島で再び戦争が起きることのないことを心から願います。いずれ近いうちに平和に統一が達成されることを願うばかりです。
(2010年12月刊。2500円+税)
2011年3月15日
日露戦争を世界はどう報じたか
著者 平間 洋一、 芙蓉書房出版
日露戦争について、世界がどう見ていたのかという面白い視点でとらえた珍しい本だと思いました。日露戦争の前、ロシアの新聞では極東の日本の珍しさについての報道が多く、遠い国であり、ロシアと利害関係が衝突するというイメージの記事はなかった。日本は韓国における今の利益を守ろうとしているだけで、それ以外のことは追及していない。ロシアとの摩擦は無意味だ、と伝えていた。その後も、ロシアのマスコミは、読者に、日本との戦争は起きないという希望的観測を流し続け、ヨーロッパからの日本が戦争を準備しているとの情報を否定していた。いよいよ情報が緊迫してくると、白人キリスト教の精神文化と異教徒の黄色い人種の精神文化とのすさまじい衝突に直面している。白色人種が勝利をおさめるだろうという記事がのった。開戦当初は、案外に日本兵士はよく整備され、勇ましく、毅然とした積極果敢な兵士であると評価する記事がのった。
1904年6月、イギリスの『タイムズ』にレフ・トルストイが戦争を批判する文章を発表した。「戦争がまた起こった。何人もの無用無益なる疾苦、ここに再び人類の愚妄残忍また、ここに再び起きる」
そして、日本でもトルストイの影響を受け、与謝野晶子が『明星』に「君、死にたまうことなかれ」を発表し、論争が起きた。与謝野晶子とトルストイが同じようなことを世間にアピールしていたとは知りませんでした。
旅順が陥落したあと、バルチック艦隊の行動が新聞の注目をあびた。イギリスのある提督は、東郷とロジェストウェンスキーの戦いは日本が勝つ。艦船の数が多くとも、砲手の技量は日本兵のほうがロシア兵よりも優れているからだと、その理由を述べた。うへーっ、見る人は見ていたのですね・・・・。
意外なことに、文豪のマクシム・ゴーリキーは、戦争の継続を支持した。しかし、それは、愛国主義の立場からではなく、国内の政治改革に役立つからというものだった。なるほど、そういう視点もあるわけですね。
中国では新聞社が壊滅状態だった。若い光緒帝の支持の下にすすめられていた戊戌維新は、かの西太后の弾圧によって失敗し、活気をみせていた新聞も、そのほとんどが閉鎖され、停刊に追い込まれた。1902年ころ、中国には、わずか20数社の新聞社しか残っていなかった。それも中国南部に集中し、北部中国には4~5社しか新聞社はなかった。4億人の人口を有する中国に20数社の新聞紙しかないことは、中国政府の言論に対する取り締まりの厳しさが反映している。いやはや、閉鎖的な言論統制は国の発展を妨げるのですね。
アメリカ国民は、日露戦争のあいだ、 日本が利他的な動機、つまり門戸開放原則を守るために戦っていると信じていた。だから、戦後の日本が満州利権を独占しようと動いていることを知ると、対日世論が悪化する一因となった。ふむふむ、イメージというのは騙し騙されやすいものなんですよね。
開戦の前から黄禍論はヨーロッパのメディアをにぎわしていた。開戦と同時に、黄禍の脅威の主張がロシアだけでなく、フランスやドイツでも高まった。日露戦争において、日本はヨーロッパの当初の予想をこえて海陸で戦勝を続けた。このため、新たな黄色人種によるアジアの列強の登場を心配する声が増えていった。
日露戦争を世界史のなかでとらえるうえで大いに目を開くことのできる本です。
(2010年5月刊。1900円+税)
2011年2月 4日
日露戦争の真実
著者 山田 朗、 高文研 出版
「坂の上の雲」で日露戦争が注目されている今、ぜひとも多くの日本人に読んでもらいたい本です。わずか180頁ほどの本ですが、内容は大変充実していて、私の赤エンピツが次々に出動し、ポケットにしまう間も惜しくなって、ずっと右手に握りしめながら熟読していきました。
明治は成功、昭和は失敗という司馬流の二分法は間違いである。近代日本の失敗の典型であるアジア太平洋戦争の種は、すべて日露戦争においてまかれている。日露戦争に勝利することによって、日本陸海軍が政治勢力の軍部として政治の舞台に登場した。軍の立場は、日露戦争を経ることで強められ、かつ一つの強固な官僚組織として確立した。
近代日本の大きな失敗の種のもう一つは、日露戦争後、日本が韓国を併合してしまったことにある。そうなんですよね。植民地支配は日本の失敗の源泉です。
日露戦争によって、アジアの人々を勇気づけたのは事実としても、それは当時の日本が意図したことではない。むしろ日本は、欧米列強の植民地支配を全面的に容認する代償として、列強に韓国支配を容認してもらった。
日本は、幕末、明治維新のころから、イギリスの世界戦略に巻き込まれ、ロシア脅威論に突き動かされてロシアとの対決路線を強めていった。明治維新以来、日本政府は「お雇い外国人」をたくさん雇ったが、そのなかで一番多かったのはイギリス人だった。だから、基本的にイギリスからの情報で世界を見ていた。イギリスはロシアと世界的に対立していた。このイギリスの反ロシア戦略が、日本の政治家やジャーナリストの意識に影響を与えていった。なーるほど、そうだったのですね。
日清・日露戦争による軍拡によって国家予算に占める軍事費の割合は27.2%から
39.0%に増えた。軍事の国民総生産に占める割合も平均2.27%から3.93%へと大幅に上昇した。軍事予算が増えると、ろくなことはありません。
日本軍は、土地は占領するがロシア軍の主力に大打撃を与えることができず、ロシア軍は後退しながら増援部隊を得て、どんどん大きくなっていった。これ以上ロシア軍が大きくなると、日本陸軍が全兵力を投入してもまったく太刀打ち出来なくなるというところで、ロシア国内で革命運動が広がり、戦争が継続できなくなったために、戦争がおわった。純粋に軍事的には、極東のロシア軍は日本軍を圧倒できるだけの戦力を蓄積しつつあった。危機一髪のところで、日本軍はロシア軍に「勝っていた」のでしたが、日本国民の多くがそのことを知らされず、気がついていませんでした。だから、「勝った」のに、なぜロシアからもっと戦利品を分捕れないのかという不満が募ったわけです。
日本は外国からの借金に成功しなかったら、日露戦争はできなかった。お金を貸してくれたのは、イギリスとアメリカ。イギリスは銀行が、アメリカではロスチャイルド系のクーン・レーブ商会というユダヤ金融資本が日本の国債を買ってくれた。このクーン・レーブ商会は満州での鉄道開発に乗り出す意図があった。ところが、日露戦争のあと、日本がロシアと裏で手を結んでアメリカが「満州」に入ってくることをブロックしてしまったから、アメリカは対日感情を悪化させた。ふむふむ、そんな裏の事情があったわけですか・・・・。
日本軍は、陸軍も海軍も有線電信・有線電話・無線電信による情報伝達網の構築にきわめて熱心で、それによって兵力数の劣勢を補った。野戦における有線電信・電話の使用など、当時のハイテク技術を活用した日本軍の戦いに、イギリス人をはじめとする観戦武官・新聞記者は大いに感心し、注目していた。ところが、この点は秘密にされているうちに、日本軍自身が忘れてしまい、また軽視してしまった。いやはや、秘密主義は自らも滅ぼすというわけです。
日本軍が旅順攻略を急いだのは、バルチック艦隊がやってきて無傷の旅順艦隊と合流したら、黄海はおろか日本近海の制海権を日本側が確保できなくなって、輸送や補給ができなくなれば、大陸での日本軍の作戦はまったく不可能になってしまう。そこで、バルチック艦隊がやって来る前に、なんとしても旅順を攻略して、旅順艦隊を撃滅しておこうと大本営は考えた。
バルチック艦隊を日本海軍が撃破したのも、かなり運が良かったともいえるようです。ぜひ、ご一読ください。価値ある本ですよ。
(2010年11月刊。1400円+税)
2010年9月25日
西南の役・山鹿口の戦い
著者・発行 山鹿市地域振興公社
西南の役における田原坂の戦いは有名ですが、田原坂は植木町にあります。実は、山鹿市でも激戦があったのです。この本は、山鹿市での戦いを紹介しています。
明治10年2月、小倉第14連隊が南下を開始する。この隊長は乃木希典少佐。3個大隊全部で2034人。銃をエンピール銃からスナイダー銃へ切り換え、一度に南下するのではなく、順次、南下する。
官軍は2月26日、熊本県の南関町に本営を設置した。博多にあった裁判所機能も南関に持ってきた。有栖川宮も南関へやって来る。
山鹿市内は薩軍が支配していた。2月27日から3月20日までは平穏だった。
その前、肥後藩の細川護久知事は減税を実施した。一般民衆は、明治維新になって生まれた、もっとも理想的で典型的な姿を熊本に見た。大減税をするし、その他いろんなことを刷新した。肥後藩は、明治3年から6年にかけてのたった3年間とはいえ、いい時期を送っていた。そして、明治10年、山鹿にコミューン自治政府が誕生した。普通選挙法で人民総代を選び、協同隊の隊長も、みんなで選んだ。民権派がコミューンをつくった。
なんと、なんと、山鹿は、日本最初の民権政治を実施したのです。
熊本の協同隊は薩軍とともに山鹿を支援すると、かねて抱懐する民権政治を実現せんとして、山鹿に民政を布いた。野満長太郎は選ばれて民政長官となった。長太郎は、薩軍とともに各地へ転戦したが、8月17日、降伏し投獄された。2年あまりのあと、放免され、それ以来、郷党の指導者として尊敬された。
熊本の協同隊は、ルソーの民約論に刺激されて集まった自由民権論者のグループだった。山鹿は日本最初の民主政治発祥の地と言える。
うむむ、なんということでしょう。日本にもパリ・コミューンのようなものがあったとは・・・・。
(2002年2月刊。2000円+税)
2010年8月16日
イザベラ・バード『日本奥地紀行』を歩く
著者 金沢 正脩、 JTBパブリッシング 出版
『日本奥地紀行』(平丹社)という本があります。明治11年(1878年)にイギリス人女性(47歳)が横浜から東北地方そして北海道へ単身、もちろん日本人の通訳と従者を連れて旅 行したのを記録した本です。その当時の日本人の習慣が分かって、とても面白い内容になっています。
この本は、このイザベラ・バードがたどったコースを自ら体験し、当時と現況の写真を添えて紹介していますので、なるほどという思いで興味深く一気に読み通しました。イザベラ・バードは、明治政府から東北と北海道を旅行する許可を得ていました。このころ外国人は居住から40キロを超えて離れてはいけないことになっていたのですが、異例の許可でした。
人力車を3台連ねて、まずは日光に向けて江戸を出発します。
日光から鬼怒川に出て、会津に至ります。
ヨーロッパでは、ときとして外国は、実際の危害を受けなくても無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすりとられることがあるが、ここでは一度も失礼な目にあったことはなく、過当な料金をとられたこともない。
西洋人女性の一人旅ですから、当然、村の人々は関心を持ちました。ある村では、2千人をこす村人が一目みようと集まってきて、さすがのバードも唖然としました。ところが、バードが望遠鏡を取り出すと、群集は一斉に散りました。ピストルだと思ったのでした・・・・。
新潟から秋田へバードたちは向かうのですが、ともかくどこもかしこもてんやわんやの大騒ぎとなったのでした。昔も今も、日本人の好奇心の強さは同じなんですね。
バードの旅行に通訳兼案内人兼用心棒となったのは、当時20歳の伊藤という日本人青年です。特別に学校で学んだのではなかったようですが、バードから教えられて英語を巧みに駆使したようです。バードが高く評価した伊藤のその後について詳しいことは判明していません。それについて、宮本常一は、伊藤レベルの人なら当時たくさんいたからだろうと解説しています。ふむふむ、なるほど、そういうことなんですか・・・・、とつい納得してしまいました。
原作を読んだあと、視覚的に同じコースをたどってみたいという方に絶好の手引きになる本です。
それにしても、当時のイギリスにレディー・トラベラーと呼ばれる自立心の強い女性旅行家たちが多くいたということを知って、大変驚きました。
(2010年4月刊。1800円+税)
2010年6月 3日
真説・西南戦争
著者:勇 知之、出版社:七草社
五月のゴールデン・ウィークに田原坂へ出かけました。ちょうど植木スイカ祭りがあっていて、美味しいスイカをちょっぴり試食することも出来ました。そしてほかほかのイキナリダンゴ(1個100円)もいただきました。
なぜ西南の役と呼ばれてきたか?それは、東京・大阪から遠い西南のほうで起きている戦争という意味。つまり、地方(田舎)での出来事でしかなかった。役というのは、軍役、使役の役のこと。つまりは役目のこと。民衆にとって、戦いに駆り出された兵士としての役務でしかなかった。
なるほど、そういうことだったんですか・・・。田舎のちょっとした出来事でしかないと中央政府は言いたかったわけなんですね・・・。
若き日の乃木希典が少佐として第14連隊を率いて参戦しますが、熊本県植木町で野戦になり退却します。そのとき、殿軍(しんがり)を連隊旗手の河原林少尉に命じたところ、この少尉は戦死して14連隊旗は薩軍に奪われてしまうのです。乃木少佐は自殺を図りますが、部下からいさめられて思いとどまります。有名な話です。乃木少佐は負傷して、久留米にあった軍病院に入院したとも言われています。政府軍の本営は、熊本県の南関町にありました。
自動車のない当時です。馬と電信だけで連絡をとっていたようですが、誤報も少なくなかったことでしょう。現に、薩摩郡が南関町の政府軍本営を攻略しようとしていたら、田原坂が陥落したと伝令が誤報をもたらして中止したというもの紹介されています。
田原坂が激戦地になったのは地形による。高さ500メートル。この坂を越えると、あとは熊本城まで平坦地で一直線となる。そこで、加藤清正も田原坂を北の要衝と認めていた。田原坂はなだらかな丘をくり抜いた道が通っているので、左右から伏兵の攻撃を受けやすい。しかも坂は蛇行しているため、大軍であっても苦戦せざるをえない。
官軍が新式の大砲を運び上げるには、この田原坂を強行突破するしかなかったのです。
官軍は、南関・三池を経て、90個中隊の官軍1万8千人が南下した。
田原坂の戦いは、3月4日から20日まで17日間続いた激戦だった。ある薩軍兵士は、いやなのは、一に雨、二に大砲、三に赤帽と言った。雨は薩軍の旧式銃を不発にし、塹壕の水たまりはワラジを切らせ、降る雨は木綿の着物を濡らして行動を不自由にした。
薩軍兵士のイヤなもの、警視抜刀隊。
東京巡査に近衛(兵)がなけりゃ、花のお江戸に殴り込む
この17日間の戦いで、薩軍は鹿児島私学校の精鋭を失い、体力を消耗させた。官軍の戦死者は1687人、一日平均99人。死傷者は6700人(1日平均370人)。
田原坂戦での両軍の戦死者は3500人。死傷者は1万人をこえる。
明治10年9月に西郷隆盛は城山で死んだ。翌年5月、大久保利通は暗殺された。
さらに、翌年(明治12年)、大警視川路利良も死亡。毒殺されたともいう。
田原坂の坂道を車で走ってみましたが、なるほど、勾配はそれほど急ではありません。ただ、曲がりくねっていて狭い道です。国道は別なルートを走っていますので、道幅は当時のままで、ほとんど拡幅されていないようです。
田原坂の資料館に入りました。両軍の小銃弾が空中でぶつかりあったという弾が展示してありました。1日に何万発も撃ちあったということで起きた珍現象でしょう。
ぜひ、一度、文明開化のきしみを意味する田原坂へ足を運んでみてください。
(2008年10月刊。1300円)
2010年5月 4日
剣岳・点の記
著者 新田 次郎、 出版 文春文庫
映画を観ました。感動の大作というのは、こういう映画をいうのかと実感しました。すごい映画でした。ともかく、全篇を実地で撮影したというのですからね。大したものです。監督もすごいですけど、役者もすさまじいですね。
人夫たちの食糧は自弁。米やミソ、副食物は自分で用意する。測量部の食糧は、米、ミソ、干鱈、わかめなどは共同購入する。缶詰は測量官が自費で購入した。
測量隊は、酒を山の中に持ち込むことはなかった。
特別なことがあって隊員を慰労するときには、氷砂糖の特配か多食に肉の缶詰を開けて振る舞った。
陸地測量部につとめるのは、例外なく農家の出身であり、次・三男だった。つまり、測量官も、それを補佐する測夫も、はじめから天幕生活して歩いても文句を言わず、それに耐えられるような環境に育った者ばかりだった。
陸地測量部が山岳会に勝って剣岳の頂上に立ってみたら、なんのことはない、初登頂ではなかった。修験者が頂上をきわめていて、その証拠を残していた。
剣岳の初登頂は、明治40年のこと。観測は、技術ではなく、忍耐だった。忍耐の結果、ようやく晴れ間に巡り合って手早く観測して次の観測所に移動すると、山々は再び雲の中にあることが多かった。
この本の著者である新田次郎は、64歳にして剣岳に初登頂したそうです。すごい勇気です。そして、体力もあったのですね。
映画を観ていましたので、その興奮さめやらぬうちに一気に読破してしまいました。といっても、山の頂上を征服しようという気にはなりませんでした。私は寒さに弱いのです。ぬくぬく布団にくるまって、湯たんぽを抱いて寝ていたいです。
(2008年3月刊。686円+税)
2010年4月23日
ある明治女性の世界一周日記
著者 野村 みち、 出版 神奈川新聞社
すごいです。明治41年(1908年)というと、亡くなった父が生まれた年より1年前のことです。日露戦争のあとで、まだ日英同盟も生きていたようです。
その年(1908年)3月、東京・大阪の両朝日新聞社の主催する世界一周旅行に、56人の日本人団体客が出かけました。そのうち女性は3人。その一人が32歳の主婦であった著者でした。
日本を船で出航して、ハワイ、アメリカ、そして大西洋を渡ってイギリス、さらにフランス、イタリア、ドイツ、ロシア、最後に中国東北部を船と汽車をつかって100日ほどで駆け巡ったのです。著者は、その年のうちに「世界一周日記」として出版したのでした。
主婦と言っても、横浜で外国人相手の古美術店「サムライ商会」を夫とともに営んでいましたし、英語を話せたのです。この本は、現代語に訳されていて、とても読みやすくなっています。日本人女性の勇敢さと行動力には、ほとほと感心します。
幼い子供たちをかかえた母親として、世界周遊に出かけたい気持ちをかかえて迷っていたとき、実家の母は「行って来なさい。あとは全部引き受けるから」と言って励まし、送り出してくれたと言うのです。偉い母親ですね。
そして、著者は、旅行中ずっと和装で通したのでした。そして、またそれが結果的に良かったのです。見なれない服装を見て、欧米人は感嘆したのでした。
このころ、ハワイには日本人が7万人もいた。うち2万人はサトウキビ栽培に従事していた。
アメリカは大変深刻な不景気だった。モルモン教の本拠地であるソルトレイク市にも行っています。そこで、おはぎや鮨を在米日本人からもらったと言うのですから驚きます。
シカゴで劇を見て、ナイアガラの滝を見学したあと、ワシントンに入り、ホワイトハウスに出向いて、ときのルーズベルト大統領と面会して握手までしています。それほどの珍客だったのですね。驚きました。
そのあと、ニューヨークを経て、イギリスにわたります。
今回の旅行で、日本人は共同一致の精神に乏しく、団結力も弱く、公共を重視しないことを深く感じた。
ええーっ、後半はともかくとして、前半の評価は逆じゃないのかしらんと思いました。
イギリスでは、ちょうど、婦人参政権運動が盛り上がっているときでした。
フランス、イタリア、スイス、ドイツと巡って、ロシアにたどりつきます。
この旅行は、イギリスの旅行会社トマス・クック社の企画したもので、団体旅行・パック旅行として世界初のものでした。旅行費用は1人2340円。当時、民間企業の大卒初任給が35~40円だったので、その5年分にあたる。
このように、若いときに世界を知っていただけに、著者は、1941年に太平洋戦争がはじまったとき、「アメリカのような国土の広い、資源豊富な国を相手にしても勝てるわけがない」と家族に小さな声で言っていたそうです。当然ですよね。今読んでも面白い本です。
先日の新聞に、アメリカのハーバード大学に留学している日本人学生が1人しかいないという記事がありました。いま、老壮年はしきりに海外旅行に出かけていますが、むしろ若者ほど国内志向が強く、海外へ目が向いていないと言います。さびしい限りです。
若者は書を捨てて(本当は捨ててほしくはありませんが……)海外へ旅に出かけよう。若い時こそ、何でも見てやろうの精神が大切です。
(2009年10月刊。1400円+税)